神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

永代橋

2019-10-17 06:19:07 | 平川・外堀2

 「永代橋 きた新堀町より深川佐賀町へ架せり。長百十間、当初古は深川の大渡と称して船渡しなりしを、元禄九年(或は十一年ともいふ)此橋を造営せらる」(「御府内備考」) 「江戸名所図会」は元禄11年(1698年)の創架としています。関東郡代伊奈忠順が東叡山根本中堂の建設資材の余材を使い、完成したと伝えられています。名前の由来については、対岸にあった永代島が元との説と、五代将軍綱吉の50歳を祝し、末永く代々続くようにとの意で創作した、との二説がいわれています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 永代橋」  「東望天辺海気高 三叉口上接滔々 布帆一片懸秋色 欲破長風万里濤 南郭」  

 ところで、江戸時代の永代橋は今より100mほど上流の、箱崎・深川間に架けられていました。「図会」でも豊海橋より上流に描かれています。それが、現在のように豊海橋より下流に架け替えられたのは、明治30年(1887年)、永代通りの開通に合わせたものでした。道路橋では最初の鉄橋といわれています。現在の橋は震災復興事業の一環として、大正15年(1926年)に竣工、平成19年には清洲橋、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されています。

 

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    ・ 永代橋  右手奥が日本橋川河口に架かる豊海橋、左手が永代橋で、その奥には霊岸島・佃島を結ぶ中央大橋もチラッと見えています。

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    ・ 隅田川  永代橋から上流方向です。正面は二層構造の隅田川大橋で、上段は箱崎ジャンクションで分岐した首都高9号深川線です。

湊橋、豊海橋

2019-10-16 06:47:56 | 平川・外堀2

 日本橋川に戻ります。亀島川の分岐点の次に架かるのが湊橋です。「湊橋 箱崎町と南新堀町の間に架す」(「御府内備考」) 「寛文図」(寛文10年 1670年)に、「みなとはし」の名と共に初めて登場、当時は日本橋川の最も河口寄りの橋でした。橋の名前もそのことにちなむものと思われます。なお、引用文中の「南新堀町」は、 → 「武州豊島郡江戸庄図」にもある新堀(日本橋川河口)開削後、その南岸(霊岸島側)に出来た町屋で、対岸には北新堀町がありました。ちなみに、北新堀町はその後、御船手組屋敷の設置に伴い、南新堀町の東隣に替地が与えられ、北新堀大川端町となって移転、南北の新堀町が東西に並ぶという、ややこしいことになりました。

 

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    ・ 湊橋  現在の橋は昭和3年(1928年)の架設のいわゆる震災復興橋の一つで、鉄筋コンクリート3連アーチ橋ですが、平成に入って化粧直しをしています。

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    ・ 日本橋川  湊橋から河口に架かる豊海橋を見通しています。この区間が新堀で、「東京府志料」は元和6年(1620年)頃の開通としていますが、一次史料は不明です。

 湊橋から三百数十メートル、日本橋川が隅田川に合流する手前に架かるのが豊海(とよみ)橋です。「豊海橋 新堀町の東端にありて女橋ともいふ」(「御府内備考」) 南詰に設けられた解説プレートによると、元禄11年(1698年)に初めて架けられました。隅田川に隣接して架かる永代橋も同年に竣功しており、おそらくワンセットということなのでしょう。明治36年(1903年)に初めて鉄橋に架け替えられ、関東大震災後の昭和2年(1927年)、現行の特異な形状のフィレンデール橋が誕生しました。なお、引用文中の「女橋」の別名については、乙女橋とするものもありますが、その由来は不明です。

 

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    ・ 豊海橋  四角形の骨組みのフィレンデールと呼ばれる形式の橋で、永代橋とのバランスを考慮して採用されたといわれています。

江戸湊

2019-10-15 06:53:11 | 平川・外堀2

 「慶長見聞集」中の「江戸河口野地ぼんき(棒木)の事」の一節です。「見しは今、江戸河口洲崎有て、塩みちぬれはふなみちを見うしなひ、舟を洲へのり上げ、波風に損する也。瀬戸物町に野地豊前といふ人有。他にほとこす心さし、身のためにあらすやとて、天正十九卯年(1591年)の事なりしに、洲崎にみをしるしを立る。是を俗にぼんきといふ。船人見て悦事限りなし。惣て水の深き処をみといふ。其記に立る木也。是をみをつくしと歌に多くよまれたり。・・・・今ははや野地も死、ぼん木も朽ちて跡なし。然共名はくちやらて残りとゝまり、此洲を野地ぼん木と名付て、出入舟おさ今に於て是を尋る。河瀬のあらんかぎり此名立て朽へからず」 

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 湊稲荷社」  右手から連続する → 「佃島 住吉明神社」との二枚シリーズのその二です。左下隅の八丁堀に架かる稲荷橋の左隣は、書き込まれていませんが高橋です。  

 野地ぼんきと呼ばれる洲がどこなのかは不明ですが、亀島川河口から元の江戸湊と目される江戸橋付近に至る航路上にあったのでしょう。いずれにしても、ここに描かれた家康の江戸入国当時の江戸湊が、慶長8年(1603年)の豊島洲崎の造成、同17年の舟入堀の開削を経て、 → 「武州豊島郡江戸庄図」の、さらには「江戸名所図会」の江戸湊に変容したことになります。なお、「図会」の湊稲荷神社は、こうした海岸線の東進に応じて遷座を重ねたといわれ、稲荷橋の東南詰に遷座したのは寛永元年(1624年)頃です。明治に入り、120mほど南西の→ 現在地に遷りました。  

 

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    ・ 亀島川河口  鉄砲洲から「図会」の画面中央に描かれた霊岸島の先端を見ています。左手は亀島川水門、右手は霊岸島と佃島を結ぶ中央大橋です。同じ河口を霊岸島から見た→ 写真は今クールの冒頭でUPしました。 

 ところで、隅田川河口にあって鎧島、森島と呼ばれていた中洲は、寛永年間(1624~45年)、幕府船手頭石川八左衛門の所領となり、石川島、八左衛門島と称されるようになります。一方、石川島に南接する百間四方を石垣で囲んで造成したのが佃島で、家康の江戸入国の際、摂津国佃村から江戸に移住、幕府の魚御用を勤めた漁師三十余人の一族が、正保元年( 1645年)故郷を偲んでそう名付けました。このように両島は隣接した別個の島でしたが、明治になって造成された南の月島と共に、今では一続きの区画となって佃島と呼ばれています。

 


南高橋、亀島川水門

2019-10-12 06:18:37 | 平川・外堀2

 亀島川に戻ります。その河口に架かるのが南高橋です。元々橋のなかった場所ですが、震災復興事業の一環として、昭和7年(1932年)に初めて架けられました。その際、多数の橋梁の架け替えに伴う予算不足を補うため、震災による損傷で改架予定の両国橋の三連トラスの中央部分を補強、再利用することになりました。橋幅や高さを縮めて架設したといいます。こうして、期せずして明治37年(1904年)製の鉄鋼トラス橋が、現代まで保存されることになりました。傍らの解説によると、現存する鉄橋としては都内で二番目(一番は元の弾正橋を縮小、移転した→ 八幡橋)、うち車両の通行する道路橋としては最古で、全国でも六番目にあたるそうです。

 

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    ・ 南高橋  同じ解説プレートには「路式単純フラットトラス式、橋長63.1m、有効幅員11.0m、総工費76600円」などの数字も並んでいます。 

 一方、河口に設けられている亀島川水門は、日本橋川との分岐点にある日本橋水門とセットで、台風などによる高潮や大地震による津波が発生した時、両者を閉め切ることで亀島川を遮断し、水位はポンプで調節する仕組みです。傍らに掲示されたデータには、「鋼製単葉ローラーゲート、有効幅15m×2連、門塀高さ8.3m、開閉時間12分(自重降下4.3分)、開閉速度0.7m/分 非常用発電機200kVA1台、完成昭和44年3月」とあります。

 

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    ・ 亀島川河口  南高橋からのショットで、40mほど下流に亀島川水門が設けられています。水門の外側は隅田川、その対岸は佃島(江戸時代は石川島)です。

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    ・ 亀島川河口  隅田川から振り返っての撮影で、対岸は鉄砲洲です。鉄砲洲は鉄砲の試し打ちが行われたとも、形が鉄砲に似ているともいわれるところです。  

八丁堀2

2019-10-11 06:31:55 | 平川・外堀2

 八丁堀は明治の初めに、接続する楓川との対で桜川と命名されました。江戸時代には稲荷橋、中の橋の二橋しかなく、明治に入り桜橋が、そして震災後、新桜橋、八丁堀橋が架けられ、中の橋が新大橋通りに架け替えられました。埋め立てられたのは他の堀川より遅く、昭和30年代後半からで、上流部分から段階的に工事が進み、同41年頃までに中の橋まで完了、最後に残った河口部分も、昭和50年代に埋め立てられ、桜橋第二ポンプ所の敷地となりました。このように埋め立てが遅かったため、その跡地の細長いスペースは現行の地図でも確認できます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 桜川公園は八丁堀跡そのままの細長いスペースです。なお、元の中の橋はこの公園の中ほどに架かっていました。  

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    2. 震災復興で新大橋通りが開通した際、中の橋もここに架け替えられ、十数年前まで現存していました。  

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    3. この区画は目下工事中でフェンスで囲われており、2.と3.の写真は数年前の撮影です。

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    4. 桜橋ポンプ所前です。明治の初めに桜橋が架けられました。石造アーチ橋に鉄製の高欄という、当時としては珍しい構造だったとか。  

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    5. 楓川との合流地点手前です。右写真は左手からのショットで、低地になっているのがわかります。 

八丁堀

2019-10-10 06:44:09 | 平川・外堀2

 「八丁堀 寛永年中(1624~45年)通船のため、長さ八町の堀をほられし故かく云と。『紫の一本』 これに拠ば、たゞ八町堀町の処のみ名付し堀にはあらで、京橋下より御堀続きまでをも通じて八町堀と称すべきなり。まゝ町名に残りしゆへ、その辺の川名とおもへるは誤なるべし」(「御府内備考」) 開削年代については、慶長17年(1612年)の舟入堀開削時期との説も有力です。 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、造成中の八丁堀地域の南端にあるのがそれで、江戸城石垣用の巨大石材を荷揚げするため、櫛の歯状の舟入堀とセットで開削されたと思えるからです。

 

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    ・ 亀島川  高橋から下流方向で、正面奥が河口に架かる高南橋と亀島水門、右手に切り込んでいるのが、八丁堀の河口跡です。元の高橋は八丁堀の際に架かっていました。

 八町はおよそ874mですが、現実の八丁堀は740mほどしかありません。引用文のように、「京橋下より御堀続きまで」(京橋川)を加えると、1300mを優に超えてしまします。ではどこからどこまでが八町ある八丁堀だったのか。亀島川河口プラス現八町堀がその数字に該当するので、江戸湊から楓川、舟入堀を結ぶルートをそう称したものと思われます。現在の理解では、亀島川河口から八丁堀が分岐していますが、当初は八丁堀河口から亀島川が分岐しているとみなされていたのでしょう。

 

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    ・ 八丁堀河口  左手の建物が八丁堀跡の細長いスペースに建てられた桜橋第二ポンプ所で、その手前に稲荷橋が架かっていました。なお、桜橋第二ポンプ所上は→ 屋上公園になっています。

 ところで、地域としての(本)八丁堀は、北から時計回りに日本橋川、亀島川、八丁堀、楓川に囲まれた区域です。慶長8年(1603年)の豊島洲崎の埋立てから、同17年の舟入堀開削までの間に、江戸湊に点在する中洲、寄洲をベースに、埋立て造成したものと思われます。北島、亀島、竹島、永島といった町名も、八丁堀地域の成り立ちと関わるのでしょう。造成された当初は寺町でした。「江戸庄図」には40を越える寺院が記載されています。それが寛永12年(1635年)、幕府の命により芝、浅草など郊外に移転し、その跡地に与力、同心の組屋敷が設けられました。寺町を造成地の最前線に配置するのは、江戸町づくりの常とう手段です。

 


亀島橋、高橋

2019-10-09 06:04:34 | 平川・外堀2

 江戸時代、亀島川に架かっていた橋は三本で、日本橋川からの分岐点に架かる霊岸橋、中ほどで左折する手前の亀島橋、そして、河口近くの八丁堀が分岐する手前に架かる高橋でした。うち、 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)には霊岸橋の場所にのみ橋が架かり、次の「寛永江戸全図」(寛永19年頃)では、高橋の位置にも橋が登場します。いずれも橋名が明記されているのは、明暦3年(1657年)頃とされる「明暦江戸大絵図」が最初です。一方、亀島橋が初めて登場するのは、さらに遅れて元禄年間(1688~1704年)で、傍らの解説プレートによると、同12年(1699年)の町触に橋普請に関する記載があります。

 

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    ・ 亀島橋  震災復興で八重洲通りの開通にあわせ、元の位置のやや下流、亀島川が左折する個所に架替えられました。その際、右岸にあったワンブロックのみの短い入堀を埋立てています。

 江戸史に「高橋」が登場するのは古く太田道灌の時代で、たびたび引用する「江亭記」(「寄題江戸城静勝軒詩序」)の一節です。「城之東畔有河 其流曲折而南入海」に続いて、大小の商船や漁船が「至高橋下 繋纜閣櫂 鱗集蚊合 日々成市」(「高橋の下に至り、とも綱を繋ぎ櫂をおき、鱗や蚊のように重なり合い寄り合い、日々市をなす」)と書かれています。この高橋の位置をめぐっては、道灌の時代、平川がどこに注いでいたかと関連して争いがあり、日比谷入江説からは大手門付近、江戸湊説からは常磐橋、あるいは江戸橋のあたり、と主張されています。

 

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    ・ 亀島川  亀島橋から下流方向で、左折したあとの亀島川です。正面に見えるのが高橋、その奥には背の高い南高橋や亀島川水門もチラッと見えています。

 さらに「慶長見聞集」には、「然は先年江戸大普請の時分、日本国の人集りかけたる橋有。是を日本橋と名付たり。又其川すそに空へ高き橋有。是を天竺橋といふ」との記述もあります。鈴木理生「江戸の橋」(2006年)は、この天竺橋を当時の江戸湊河口と目される、のちの江戸橋の位置にあったと考えています。また、「武州豊島郡江戸庄図」では、江戸橋下流で日本橋から分かれる楓川の分岐点近く、のちの海賊橋の位置にある橋が高橋となっています。平川の付替えや市街地造成に伴い、河口に架かる「高橋」「高き橋」の位置が、徐々に東へと移動していったことが推測されます。

 


地蔵橋

2019-10-08 06:05:19 | 平川・外堀2

 新亀島橋先の右岸から、カギ状に流れて合流する水路があります。 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年))では、未整形の入堀のようになっていますが、以降の「寛永江戸全図」などでは整形され、入堀というより大下水化しています。その大下水のほぼ中央に架かる橋が地蔵橋でした。八丁堀の与力、同心の組屋敷のただなかに位置し、「地獄の中の地蔵橋」、「地蔵の像なくして地蔵橋」などと、八丁堀七不思議の一つに数えらています。ちなみに、東洲斎写楽の正体として近年有力な、阿波徳島藩のお抱え能役者斎藤十郎兵衛は、過去帳などから八丁堀地蔵橋の住人であると確認されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 明治に入ってから架橋の新亀島橋です。その先右岸の合流地点からさかのぼります。

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    2. 新大橋通りを越えます。この通りも震災復興で開通しました。

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    3. ここで左折しますが、その手前に架かっていたのが地蔵橋です。

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    4. 7、80m行ったところで右折です。ここから先、ワンブロックは江戸末、ないし明治初めには埋立てられています。

越前堀

2019-10-07 06:56:30 | 平川・外堀2

 新川の開削は万治年間(1658~61年)なので、 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)には描かれていません。その代り、霊岸島の南半分には三方をめぐる堀川が描かれています。越前福井藩三十二万石、松平家の中屋敷を取り囲んでいることから、越前堀と呼ばれるもので、場合によっては、亀島川をそう呼ぶこともあったようです。なお、「江戸庄図」には、堀割に囲まれた部分に「松平伊予守蔵屋敷」とあります。松平伊予守忠昌は家康の次男、結城秀康の子で越前松平家の初代です。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  この当時の越前堀は、三方のうち中央から南側にかけて埋め立てられています。  

 越前堀は石積みの護岸を有し、幅は12~15間(≒21.8~27.3m)ほどでした。運河として用いられ、荷を積んだ小舟が行き来していたようです。それが、明治期の市区改正計画によって内陸部が埋め立てられ、また、関東大震災後の復興の際、越前堀公園(現越前堀児童公園)が整備され、明正小学校の用地の一部ともなりました。最後に残った栄橋の架かる合流地点の入堀も、戦後完全に埋立てられ消滅しました。

 

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    ・ 越前堀児童公園  隣接する明正小学校にかけて、越前堀がクランクしているところに当たります。手前は越前堀の護岸に使われていた石です。

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    ・ 八重洲通り  中央大橋の北詰めから新川2交差点方向のショットで、越前堀の最も幅広の、かつ最後まで残った区間です。なお、新川2交差点にも→ 護岸の石が保存されています。

新川2

2019-10-05 06:53:43 | 平川・外堀2

 新川は明治、大正期まで酒問屋をはじめ、醸造、食品関係の卸売問屋に物資の集積する、流通の動脈として機能していましたが、関東大震災、戦時中の統制経済、そして昭和20年(1945年)3月の東京大空襲を経て、その役割を終えることになります。昭和23年に戦災残土による埋め立てが開始され、翌年には完了しました。その際、両岸に沿っていた道路は手つかずだったため、延長590m、幅11~16mあった川の様子は、現在の地図からも容易に想像することができます。また、隅田川に面した河口は、細長い新川公園となって残り、その一角には昭和28年、「新川跡之碑」が立てられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 二の橋の手前です。なお、この道路が水路跡というわけではなく、幅広の水路の中心とほぼ重なっているというに過ぎません。

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    2. 鍛冶橋通りを越えます。永代橋西詰で永代橋通りと合流する通りですが、震災復興の一環として昭和の初めの開通で、その際東新川橋が架けられました。

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    3. 三の橋の架かっていたところです。正面に→ 新川跡之碑が立っています。

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    4. 河口はそのまま新川公園となっています。右写真は永代橋からのショットです。 

新川

2019-10-04 06:37:37 | 平川・外堀2

 霊岸島の現在の住居表示は新川(1、2丁目)です。なぜ新川かというと、明暦の大火後、霊岸寺が深川に移転し町屋ができた万治年間(1658~60年)、霊岸橋下流と隅田川をショートカットする運河が新たに開削されたためで、それ以前の寛永9年(1632年)作成の→ 「武州豊島郡江戸庄図」には描かれていません。開削したのは、廻米航路の開拓などで名高い川村瑞賢といわれ、晩年には新川端に広大な屋敷を構えていました。「瑞見屋舗 同所新川一の橋の北詰、塩町の辺其旧地なりといへり」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 新川 酒問屋」  船は荷揚げ用の茶船(瀬取り船)と呼ばれるものでしょう。酒樽を積んで左から右へ新川を上っています。  

 新川の規模は「東京府志料」の数字で延長5町25間(≒590m)、幅6~9間(≒10.9~16.3m)となっています。そこに三本の橋が架かり、上流から一の橋、二の橋、三の橋と呼ばれました。上掲「図会」右下隅のものはおそらく二の橋です。なお、「図会」にもあるように、新川というと酒問屋が軒を並べていることで有名でした。上方からの、いわゆる下りものを扱う問屋で、寡占状態あった下り酒問屋の大半が新川周辺に集まっていました。今でも左岸にある新川大神宮は酒造関係業者の信仰を集めていて、清酒メーカーの→ 菰樽が奉納されています。

 

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    ・ 亀島川  霊岸橋からのショットで、正面奥には次の新亀島橋が見えています。新川が分岐していたのは左手の茂みの→ 奥で、ワンブロック先に一の橋が架かっていました。 

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亀島川

2019-10-03 06:10:44 | 平川・外堀2

 亀島川は湊橋手前で日本橋川と分岐、霊岸島の西半分をめぐり、南高橋先で隅田川に合流する日本橋川の枝流で、延長は1.1kmほどになります。名前の亀島は西岸の八丁堀地域に属する町名ですが、瓶を商う者が多くいた、亀が多くいた、さらに亀に似た小島があったなど、その由来には諸説が唱えられています。 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、亀島川はまだ川の様相を呈していませんが、「寛文図」(寛文10年 1670年)になると、凹凸のあった西岸も整形され、武家地となっています。享保(1716~36年)の頃、町奉行所役人の組屋敷地となり、その中に亀島町も起立しました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、ほとんどが中央区、隅田川以東は江東区です。 

 以下は霊岸島に関する「御府内備考」の記述です。「『寛永日記』に元年甲子(1624年)、霊岸雄誉上人法力をもって江戸八丁堀海上を、諸檀那土石を運集て陸地に築き、一宇を建て霊岸寺と号し、世に是を霊岸島といふ。万治二年(1658年)八月三日、公用の地となるといふ是なり」 霊岸上人は浄土宗の高僧で幕府のブレーンの一人、浄土宗の総本山知恩院が寛永10年に焼失した際、再建に尽力しています。なお、→ 霊岸寺は明暦の大火(1657年)により延焼、隅田川対岸の深川(現江東区白河1丁目)に再建されます。「武州豊島郡江戸庄図」では島の北半分を占めていた境内は、そのほとんどが町屋に転用されました。

 

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    ・ 霊岸橋  亀島川の最初の橋で、「武州豊島郡江戸庄図」では、分岐点の根元に描かれています。明治に入り永代通りが開通し、数十メートル下流の現在地に移転しました。

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    ・ 日本橋水門  霊岸橋から振り返ってのショットです。昭和46年(1971年)竣功で、管理事務所の数字によると、径間15m×2連、門扉高さ8.1mだそうです。

亀島川と箱崎川

2019-10-02 06:57:06 | 平川・外堀2

 茅場橋の次は湊橋です。この二つの橋の間で、亀島川と箱崎川が左右に分かれていました。 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)の当時、昭和の架橋の茅場橋はもちろん、湊橋もまだありませんが、左右に分岐する水路はすでにあり、「三つまた」の書き込みと共に描かれています。現在の日本橋川の河口に「新堀」とあることから、元々あったのは亀島川、箱崎川のほうで、江戸湊に入港した船は亀島川を、行徳方面からの物資は箱崎川を、各々経由していたものと思われます。川というよりは洲と洲の間の航路が元で、豊島洲崎造成の過程で整備されたのでしょう。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 山王祭」  3枚シリーズのうち、亀島川と箱崎川を一枚に収めるため、其二の左半分と其三の右半分を合成しました。

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    ・ 日本橋川  湊橋から振り返っての撮影で、高架の首都高6号向島線が左カーブで日本橋川から離れますが、箱崎川の分岐と重なります。箱崎川は昭和46年(1971年)に埋立てられ、首都高の用地となりました。 

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    ・ 日本橋水門  首都高6号向島線下からの撮影で、正面が亀島川日本橋水門です。あと河口に亀島川水門があり、両方を閉めることで亀島川を完全に遮断、高潮が逆流するのを防ぐことができます。

 <山王と明神>  「日本橋へ流るゝ川、是一筋本川なり。然るに此川より北東は神田明神の氏子、西南は山王権現の氏子なり」(「慶長見聞集 / 神田明神、山王氏子の事」) 上掲「図会」の中央上に山王御旅所(日本橋日枝神社)があり、日本橋川の両岸を巡る神輿が描かれていますが、この個所では日本橋川を北に越えていたようです。今日では茅場町にある日本橋日枝神社までが、神幸祭の道順にあたり、また、氏子地域も日本橋川以南に限られています。一方、神田明神のほうのルートは日本橋川以北ですが、例外は大手町で、旧地である将門塚に立ち寄るため、神田橋を渡っています。

 


鎧の渡し

2019-10-01 06:36:27 | 平川・外堀2

 「鎧渡 茅場町より小網町二丁目へ渡す。里談に云、往古此辺入江にして大なる渡りなりき。源の頼義奥州下向の時、俄に嵐荒く浪はげしかりければ、鎧をしづめ、龍神にいのり、渡ることを得て、終に奥州へ下り賊徒を平け給ふとなり。・・・・『江戸記聞』」(「御府内備考」) 「江戸名所図会」では、「源義家朝臣奥州征伐の時、下総国に渡らんとす」と、頼義ではなく、その子義家が主人公となっています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 鎧之渡」  左手の屋敷は丹後田辺藩三万五千石牧野家上屋敷、対岸の蔵が立ち並ぶのは小網町二丁目の鎧河岸です。

 近くには兜塚の伝承もあり、やはり頼義(ないし義家)、あるいは藤原秀郷が将門追討の際、兜を埋めたといわれています。ことの真偽はともかく、ここまで入江(江戸湊)が食い込んでいたこと、下総や奥州方面への交通の要所となっていたこと、などをうかがわせる伝説ではあります。なお、近くにある兜神社の写真は→ こちらです。明治11年(1878年)、東京株式取引所(のち東京証券取引所)の開設にあたり、取引所関係者一同によって造営されました。境内には兜塚伝説を引き継ぐ兜岩が祀られています。

 

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    ・ 鎧橋  江戸時代を通してこの場所に橋はなく、明治5年(1872年)に初めて架橋されました。前後して付近に、銀行や東京株式取引所が開業しています。

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    ・ 日本橋川  鎧橋から茅場橋方向です。茅場橋の創架はさらに遅く、昭和4年(1929年)の震災復興橋で、右岸の(慶長の造成後茅商人が移住して出来た)南茅場町から命名されました。

東堀留川2

2019-09-30 06:07:26 | 平川・外堀2

 東堀留川の規模は、明治初年の「東京府志料」では延長4町16間(≒465m)、幅16~25間(≒29.1~45.5m)、「日本橋区史」(大正5年 1916年)の数字で、延長294間(≒535m) 幅7~16間(≒12.7~29.1m)とあり、この間どのような事情があったかは不明です。東堀留川の埋め立ては戦後になってからで、残土処理を兼ねて昭和23年(1948年)に開始され、翌年には完了しました。西堀留川に比して、埋立てが遅れたことも関係しているのでしょう、堀留公園から保険センターにかけては、幅広な堀跡がそのまま残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブの先に親仁橋が架かっていました。吉原を創業した庄司甚右衛門にちなむ橋名で、前回の→ 「図会」にも描かれています。  

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    2. 親仁橋の架かっていたところからワンブロック、120mほどで堀留公園です。  

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    3. 堀留公園とその先にある保健センターの敷地の幅、およそ30mが、東堀留川の最大幅と一致します。

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    4. 保健センターのあたりに万橋が架かっていました。堺橋、和国橋の別名もあり、うち堺橋は「御府内備考」によると、架橋者の名前だとか。  

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