神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中村分水

2015-06-30 06:38:32 | 千川用水4

 前回UPの→ 「東京近傍図」で、現中杉通りの東にあって南下、東に向きを変えているのが中村分水で、今でも道路沿いの幅広の歩道など、その痕跡をたどることができます。「近傍図」にも描かれていますが、中村の水田は南蔵院南の流域に集中しており、その面積は江戸期で7町歩余、明治に入り10町歩前後。分水はその水田地帯を抜けた後、中新井村境先の沼地に注ぎますが、ここが妙正寺川の支流である中新井川(江古田川)の水源で、中新井池とも呼ばれていました。「近傍図」に薄緑で重ねたのが、その跡地にある学田公園です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. グリーンベルト上に祀られた中村不動横からのショットで、正面の道路が暗渠後の分水路を含んでいます。 

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    2. 中村不動前の道路を南下します。分水は通りの左手を並行していました。

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    3. 左手の中村公園を過ぎたところで左カーブ、東に向きを転じます。 

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    4. 左手の茂みには大山不動と稲荷が祀られていて、かっての中村分水はその間を流れていたようです。

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    5. 大山不動先で右折、再び南下します。「近傍図」とは異なる直線的な流路は、昭和10年代の区画整理の結果です。

中村

2015-06-29 06:53:59 | 千川用水4

 九頭龍弁天から先、千川上水の流域は旧中村に属していました。「新編武蔵風土記稿」は中村について、「古は多磨郡に属し中鷺宮村と唱へ同郡上下鷺宮村と並たりしか、後いつの頃か下略して今の名となり當郡(豊島郡)に入しと…」と、伝承を紹介しつつ、上下鷺宮の中央にはないので伝承は誤りだろうとしています。確かに上鷺宮とは東西、下鷺宮とは南北の位置関係で、真中でないといえばそうなのですが、「今川氏と観泉寺」(昭和49年  観泉寺史編纂刊行委員会編)の記述によると、中村には「上鷺宮村の飛び地が八ヵ所、下鷺宮村の飛び地が四ヵ所と入り組んでいた」とあります。同じ高家今川氏の知行地であり、お互いに飛び地が入り組む緊密な関係を考えると、「中鷺宮」説も捨て切れないように思えます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部に加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬と中野の区境で、元の中村、上鷺宮の村境です。

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    ・ 千川通り  中村橋駅前の歩道橋から下流方向のショットです。交差しているのは阿佐ヶ谷駅から鷺ノ宮駅を経由してここまで来た中杉通り、左手に駅名ともなった中村橋が架かっていました。

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    ・ 中村橋跡  武蔵野鉄道武蔵野線(現西武池袋線)の開通は大正4年(1915年)、練馬駅の次は石神井駅でした。大正13年に練馬駅の隣に新設された駅名として、駅前にあった中村橋の名前が付けられました。

 <中村分水>  中村橋から200mほど下流に中村分水口があります。おそらく千川用水開設当初からのもので、「東京市史稿上水編」の「千川上水給水区域」にも、「一、中村水口内法三寸四方 此水口より上鷺宮村に相懸り申候」と記載されています。樋口の大きさは、寛政6年の→ 「星野家文書」で「中村田養水口四寸四方也」となった後は、明治期に至るまで一貫して4寸四方前後で推移しています。このように、中村分水が上鷺宮村に懸かっていた時期があり、逆に七ヶ村分水の場合は、上鷺宮経由で中村まで達していたと考えられるなど、両村の緊密な関係は上水利用の面にも表れています。

 


グリーンベルト

2015-06-27 06:38:00 | 千川用水3

 九頭龍橋のあった富士見台駅前五差路を抜け、引き続き千川通りを東に向かいます。ほどなく通りの左半分を占めるグリーンベルトが始まります。中流域の千川上水は昭和20年代中ごろ、下流から順次暗渠化が始まり、40年代に入るころには完了しましたが、この付近が暗渠となったのは昭和31年(1956年)前後でした。その際、ヒューム管の埋められた地上は、車道と北側歩道を分離するグリーンベルトとして整備されました。清戸道と合流する(目白通りと交差する)豊玉北6丁目交差点まで、およそ1.5kmの間は連続する桜並木となっています。

 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和31年第二回修正) / 荻窪」と「同(昭和32年第二回修正) / 石神井」の合成です。中村橋駅前まで暗渠化されているのが分かります。

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    ・ 千川通り  九頭龍橋跡のクランクを抜けた先で、通りの北側を桜並木が沿い始めます。なお、ここまでが上鷺宮村の範囲でした。

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    ・ グリーンベルト  左手に富士見台通りが分かれるところです。グリーンベルトの開始からここまで、百数十メートルの左岸に練馬村が接しており、ここからは両岸とも中村です。

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    ・ 九頭龍弁財天ほか  上掲写真裏のグリーンベルト上には、九頭龍橋たもとから移転した九頭龍弁財天や石造物か祀られていて、右手の石碑には弁財天の由来が記されています。
 

九頭龍橋

2015-06-26 06:05:49 | 千川用水3

 富士見台駅前の千川通りは、左折、右折のクランクで北にシフトします。そのクランクを抜けるところに架かっていたのが九頭龍(くずりゅう)橋で、前回は「石橋 巾石四枚六尺渡七尺」をこの九頭龍橋と推定、上鷺宮村分水の位置を計測しました。「東京府志料」の「石橋 上鷺宮村ニアリ久壽達橋長一間半幅一間一尺」も、(「久壽」、「九頭」の語感から)同じ橋を指すものと思われます。また、武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」は、「武蔵野線富士見臺驛前の九頭龍橋は練馬から石神井へ達する往還にある千川唯一ともいふべき堂々たる橋梁であるが、この橋の下附近で水深は最も深くなり、約二米に達する」と書いています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  → 「東京近傍図」に比べ、左折、右折の直線的なクランクになっており、「近傍図」の精度の問題か若干の改修があったのか、どちらかですが。

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    ・ 千川通り  前回の練馬、中野の区境から400mほどのところにある交差点です。千川上水はここで左に折れ、100m弱で九頭龍橋の架かっていた富士見台駅前の五差路です。 

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    ・ 富士見台入口交差点  九頭龍橋は富士見台駅前五差路のうち、写真奥を横切る通りに斜めに架かっていました。ここから先、千川上水の右岸に沿い、練馬駅前で清戸道へと連続する通りです。 

 <庚申道>  九頭龍橋の架かっていた通りは、「ねりまの文化財(千川上水特集号)」によると、沿道に庚申塔があることから庚申道と呼ばれました。また、冒頭で引用した武蔵高校の「千川上水」では「練馬から石神井へ達する往還」となっています。下練馬村で清戸道(現目白通り)と分かれ、下石神井村で所沢道(旧早稲田通り)と合流する、沿道の中村、谷原、田中村の幹線道路で、各村絵図には「(神田)江戸道」と書かれています。なお、「東京近傍図」で分かるように、三兵橋から九頭龍橋の間の上水沿いには、道らしい道はありませんでした。昭和40年代初めまでに、この区間の暗渠化は完了しますが、その際今日見るように拡幅、整備されたものです。

 


上鷺宮古分水口

2015-06-25 05:45:59 | 千川用水3

 昨日の続きの谷原中村境、及び同境にあったと思われる「上鷺宮古分水口」ですが、前回UPした「千川素堀筋普請所積見分」の数字を元に、それらの位置を探ってみます。江戸時代から変わらぬ基準点として、田中谷原村境を選びました。現在の住居表示では同じ練馬区ながら、南田中(1丁目)と富士見台(1丁目)の境として健在で、そこから「東京近傍図」に半径188間(≒342m)の円を描いてみました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 板橋駅」(明治14年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線の区境に加え、点線で練馬区南田中と富士見台の境を重ねました。

 また、もう一つの基準点を設定しました。「上鷺宮古分水口」から250間とされる、「石橋 巾石四枚六尺渡七尺」です。流れの方向が橋の前後で変わっていることから、クランクに架かる九頭龍橋のことと思われます。(流れの向きに関しては、未より丑が、申寅へ、つまり、南南西から北北東が、東北東へやや東向きに転換したと読んでおきます。) そこで現富士見台駅前五差路にあった九頭龍橋を中心に、半径250間(≒455m)の円を描いてみました。両者が接する練馬中野区境付近が、求める谷原中村境及び上鷺宮村分水口ということになります。

 

 

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    ・ 練馬中野区境  同じ敷地内にありながら、手前は富士見台1丁目アパート、奥は上鷺宮4丁目アパートです。 なお、富士見台1丁目アパートは鴨下水車のところで、その跡地として紹介しました。

 <上鷺宮村分水>  上鷺宮村分水のあり様を時間の経過とともに追ってみます。まず、「東京市史稿上水編」が「千川上水給水区域」として記載している、享保7年(1722年)の上水廃止以前の様子と思われるものでは、「一、井草村水口内法六寸四方 此水口より荻久保村天沼村阿佐ヶ谷村に相懸り申候 一、中村水口内法三寸四方 此水口より上鷺宮村に相懸り申候 」となっていて、(七ヶ村分水の前身である)井草村分水からではなく、中村分水経由で助水を得ていたように書かれています。
 次いで、寛政6年(1794年)の→ 「星野家文書」では、上鷺宮村は井草村分水にかかわる第一グループに属しながら、第二グループにも「上鷺宮村田養水口四寸四方也」とあり、井草村分水とは別の分水口を有していたことが分かります。さらに、第二グループの並びから、千川通りに点在する中村、中新井などの分水口の最初にあったと推測でき、これが「千川素堀筋普請所積見分」の「上鷺宮古分水口」とかかわるのでしょう。「所積見分」は安永9年(1780年)、それが14年後の寛政6年には「古」がとれていて、時間が逆転しているようにも見えますが、あるいは、同時期の関村分水がそうだったように、 一度廃止されたのが復活したのかもしれません。

 


練馬中野区境

2015-06-24 07:46:06 | 千川用水3

 久しぶりに千川通りに戻り、「ほりっこ」の発端や鴨下水車のあった、現在の富士見台1交差点から再出発です。すぐに練馬区と中野区の境に差し掛かり、しばらくは両岸とも中野区(上鷺宮3、4丁目)です。これは、→ 「迅速測図」当時の東多摩郡上鷺宮村や明治22年(1889年)発足の東多摩(のち豊多摩郡)野方村(のち野方町)大字上鷺宮を引き継いでいますが、江戸時代には若干事情が異なっていました。以下は「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)の、田中谷原村境以降上鷺宮村に至るまでの記述の抜粋です。

 

 一 弐間半 村境石橋 巾石弐枚渡壱間 田中谷原境
    谷原村
    (この間の6件、距離合計184間を省略)
 一 四間 南へ上鷺宮古分水口有
    (この間の7件、距離合計244間を省略)
 一 六間 未より流丑 石橋 巾石四枚六尺渡七尺
    石橋下四間下り 申寅へ流
    上鷺野宮村        

 

 これでは谷原村分が合計433間(≒788m)あり、次は上鷺宮村と読める書き方ですが、同じく「小川家文書」中の同時代の図面には、谷原村分188間、中村分250間の次が上鷺宮村となっていて、間に中村が介在しています。「絵図にみる練馬」に収録された「谷原村絵図」は、「千川用水」の流路の東側に「中村境」、同じく「中村絵図」は「仙川堀」の西側に「谷原村」とあり、谷原、中村、上鷺宮の順が正解と思われます。活字化された「所積見分」のみでは何とも言えませんが、あるいは、田中谷原村境から同じ188間のところにある「上鷺宮分水口」のところに、谷原中村境が脱落しているのかもしれません。なお、両史料とも、上鷺宮村のあとは、上練馬、中村、下鷺宮と細かく入れ替わり、最後にもう一度中村となっています。お互いの飛地が入り組んでいたためで、明治に入ると最初の中村と上鷺宮が東多摩郡上鷺宮村に、それ以降が北豊島郡中村に編入され、今日の練馬、中野の区境へと引き継がれました。

 

 <上鷺宮村>  「上鷺ノ宮村は、郡の東北にあり、郷庄の唱なし、村名の起りを尋るに村内八幡の社あり、古は木立生茂りてあまたの鷺やどりけるゆへ、土の人鷺森又鷺ノ宮などいひしより、いつとなく村名となりたるよし、村の広さ東西十五町、南北八町、東は江古田村にとなり、又東より北に至りては豊島郡中村に入会、この所より西の方は同郡田中谷原の二村及び当郡井草村につゞき、又西より南は井草村と天沼村に犬牙す、・・・・当所は御入国の後、年月詳ならず、今川刑部に賜ひ、今その子孫丹波守が采地なり」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 鷺宮八幡神社  妙正寺川を右岸から望む舌状台地上にあります。「八幡社 除地、六十坪余、南の方下鷺ノ宮村境にあり、上下両村の鎮守なり、神領御朱印七石余を附せらる」(「新編武蔵風土記稿」) 

 また「風土記稿」は同村の水利につき、「用水 多摩川上水を竹下新田にて分水し、天沼村をへて村内に入、処々の水田にそゝぎ、すえは前の川に合せり」と書いています。「前の川」については、「水元は井草村妙正寺池にてその末流」としており、七ヶ村分水を用水とし、その余水を妙正寺川に落としていたというで、これは七ヶ村(のち六ヶ村)分水の杓屋口及び清水口のところで詳細した通りです。ただ、上鷺宮村が七ヶ村組合に属するまでには紆余曲折があり、「所積見分」中の「上鷺宮古分水口」もその途中経過ですが、次回改めてのテーマとします。 

 


貫井川上流6

2015-06-23 06:41:22 | 千川用水3

 貫井川を下っての最後で、「ほりっこ」との合流地点までです。前回から引き続く右カーブで、今度は東から南へと向きを変え、流域は谷原村から上練馬村(字貫井)へと移ります。この区間は一般の道路に紛れるところや、大きな通りでの中断など皆無で、かっての流路そのままのクネッた道路が続き、迷うことはありません。ところで、貫井川を始めるにあたって、村絵図などでは上流域は悪水扱いだと述べました。ここまでのウォーク&ウォッチで一番の印象も同じで、灌漑用水として不可欠の側流の存在が無いのが特徴です。谷筋の狭さ、千川上水と無関係だったことなどが、その要因としてあるのでしょう。

 

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    ・ 貫井川跡  右手に100mほどで第四商業高校前を通ることから、四商通りと通称される通りを越えます。この通りが谷原村と上練馬村(字貫井)を分けていました。

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    ・ 貫井川跡  右カーブで東から南に向きを転ずるところです。→ 「段彩陰影図」で、台地を迂回した最後に南下する個所に当たります。

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    ・ 貫井川跡  久しぶりに練馬区の水路敷のペインティングです。南に向かっているところなので、上掲写真と日光の向きが逆になっています。

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    ・ 貫井川跡  右手の一段高い歩道側が水路跡です。正面で右折すると、あとワンブロックで「ほりっこ」との合流地点、→ 貫井橋跡です。

貫井川上流5

2015-06-22 06:09:02 | 千川用水3

 西武池袋線を越えた貫井川は、いったん左カーブで北上した後、右カーブで再び東に向かいます。この際、緩やかなU字を描きますが、その先端を環八通りによって切り取られ、半月状の断片が通りの北側に取り残されました。なお、この区間は左右両岸とも谷原村に属し、その小名は蕪ヶ谷戸でした。蕪は当地の特産品で、谷戸は今回の谷筋を指しているのでしょう。谷原(やわら、現行の住居表示では、やはら)の村名自体、山あいの低湿地を指す地形由来の言葉ですが、こちらは石神井川流域をそう呼んでいるものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西武池袋線を越えた先です。水路跡の段差のある路地が、左カーブで北に向きを変えます。

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    2. 都営の富士見台三丁目アパートを左手に見ながら北上します。

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    3. 環八通りを越え、正面の路地に連続します。 

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    4. 環八通りの西側の孤状に取り残された区間です。右カーブで東に向きを転じます。

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    5. 100m強で、環八通りの東側に戻ります。その先に車止めが見えています。

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    6. 都営富士見台三丁目第3アパートの敷地です。ここでやや右手にシフトすると、正面に車止め付きの路地があります。

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2015-06-20 06:59:44 | 千川用水3

 貫井川上流のウォーク&ウォッチの四回目で、環八通りから西武池袋線までです。南から伸長されてきた環八通りがここまで達したのは昭和50年代です。ただ、右折する本来のものはまだなく、そのまま笹目通りに連続する形でした。一方、西武池袋線の開通は大正4年(1915年)で、当時は練馬駅の次は石神井駅(のち石神井公園駅)でした。なお、この区間の流域は、旧早稲田通りから引き続き田中村に属していますが、その字は上久保から下久保に移り、また、後半は田中村、谷原村の村境となります。下掲「近傍図」のオレンジ点線が現在の練馬区に属する村の境で、左から下石神井、田中、谷原、上練馬です。薄いブルーの貫井川と同じく、明治26年(1893年)の「東京府武蔵国北豊島郡全図」のものを重ねましたが、ベースになる「近傍図」に誤差が大きく、あくまでもおおよその目安です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 板橋駅」(明治14年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、右上から時計回りに練馬、中野、杉並区です。

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    ・ 環八通り  南ヶ丘中学の東側で、笹目通りと分かれる直前の環八通りを越えます。→ 越えた先にも、車止め付きの道路が連続しています。

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    ・ 貫井川跡  田中村と谷原村の境となっていた通りを越えます。ここから先は、貫井川が右岸谷原村、左岸田中村を分けますが、現在の住居表示では富士見台と南田中です。  

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    ・ 貫井川跡  練馬高野台駅と富士見台駅の間で、西武池袋線を越えます。越える手間の数メートルはコンクリート蓋が敷かれており、全行程中ここだけに残されています。

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2015-06-19 06:10:42 | 千川用水3

 貫井川は旧早稲田通りを越えたところでUターンします。そのUの字の内側に喜楽沼という釣堀がありました。昭和50年頃の空中写真を見ると、池が四面並んで細長い台形を形成していますが、その後北側から順次宅地造成され、平成に入るまで規模を縮小して存続していましたが、現在は旧早稲田通りの→ バス停にその名を残すのみです。(通りを隔てた正面奥が釣堀のあったところです。) なお、この一帯が低湿地だったことは想像できますが、文字通りの喜楽沼があったかどうかは、目下のところ不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 旧早稲田通りから北上後、右カーブで東に向きを転じます。右写真の正面奥に南ヶ丘中学が見えます。

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    2. 右折、左折後、再度右折してキャンパス沿いを南下しますが、「空中写真」に写る元の水路はキャンパスを横切っていました。 

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    3. キャンパスを回り込む付替えは、昭和50年代の南ヶ丘中学の開校時になされたのでしょう。 

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    4. 南ヶ丘中学の東側で、正面に環八通りが見えています。なお、付替え後の3.から4.へのつながりが不明なので、地図に青点線を書き込んでいません。 

貫井川上流2

2015-06-18 06:49:03 | 千川用水3

 貫井川跡を下っての二回目で、下石神井小学校前から旧早稲田通りまでです。前半は車止めでガードされた狭い路地、後半は一般の道路の一部となっています。これは暗渠化当時、水路単独だったか道路と並行していたかの差なのでしょう。なお、最上流域(現下石神井2丁目、4丁目)は下石神井村の小名、上久保に属していました。旧早稲田通り(所沢道)を挟んで東隣の田中村にも、同じ小名が「新編武蔵風土記稿」に収録されており、貫井川の谷頭がその名の由来と思われます。(谷頭付近に祀られていた→ 上久保不動尊は前回UPしました。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新青梅街道から250mほど、右手の幅広の歩道が途切れた先の左手に、車止め付の路地があります。

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    2. 狭い路地はワンブロックで下石神井小学校に突き当たり、右折するとその先に車止めが見えます。

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    3. 練馬区の水路敷マークが続き、途中水路脇には定番の銭湯の煙突も立っています。 

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    4. 250mほどで車止めは終了、ここから先は旧早稲田通りまで一般の道路の一部となります。

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    5. 水路は道路左側にありますが、右写真の先から右側に移ります。

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    6. 旧早稲田通りを越えます。下石神井、田中の村境でもあるこの通りは、村絵図に「江戸道」「神田道」などと書かれています。

貫井川上流

2015-06-17 06:39:30 | 千川用水3

 新青梅街道北側の起点から「ほりっこ」との合流地点まで、貫井川上流のウォーク&ウォッチを数回に分けて行います。貫井川の改修は昭和10年代には、貫井池のあったところから下流が直線化されましたが、今回対象の上流域はそのまま排水路に転用されたようで、また、暗渠化も(おそらく昭和50年代と)だいぶ遅くなっています。そのため水路敷が多く残されており、現行の地図を読むだけでも流路の大半をたどることができます。ただ、唯一の例外が最上流の区域で、昭和30年代の新青梅街道の開通や宅地開発に伴い、水路の大半が失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 石神井消防署の裏の通りです。正面左手に、水路のあった細長いスペースが残されています。

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    2. → 「段彩陰影図」の描く谷筋通り、新青梅街道の南側にいったん出ます。ただ、街道新設時に、通り沿いに付替えられたようですが。 

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    3. 下石神井4交差点の南で通り沿いに北上、直ぐに右折です。その右折するところにあった上久保不動尊は、北に150mほどのところに移転しました。 

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    4. ここから北上です。通りの右手の幅広歩道が、水路跡と重なります。 

貫井川

2015-06-16 07:13:17 | 千川用水3

 貫井川は現下石神井2丁目付近から発し、途中、貫井池周辺の低湿地を抜け、目白通り先で石神井川に合流する、田柄川などと並ぶ石神井川の一支流です。村絵図などの古い地図を見ると、上流の下石神井村では無視されることが多く、描かれていても悪水扱いです。一方、下流の上練馬村の絵図は、貫井池より上流は描かれておらず、貫井池付近を押堀、清戸道(目白通り)から合流地点にかけてを水田として、各々色分けしています。「絵図にみる練馬」(練馬区教育委員会 平成19年)の解説によると、押堀というのは「風水害で田畑にできる水たまり」です。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 貫井川」(1/36000)  貫井川の流路は明治26年(1893年)の「東京府武蔵国北豊島郡全図」のものを重ねました。貫井池を描いた数少ない地図の一つです。また、オレンジ線は区境で、上から時計回りに練馬、中野、杉並の各区です。

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    ・ 石神井消防署前  新青梅街道と井草通りの交差点です。その北東にある石神井消防署裏の通りが、貫井川の起点と重なります。

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    ・ 貫井川跡  総延長5km弱の貫井川の中程にあたる、石神井東小学校前の貫井川跡です。「ほりっこ」との合流地点までは、大半がこのような水路敷になっています。

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    ・ 貫井川跡  「ほりっこ」との合流地点手前の貫井川跡(右手の歩道部分)です。合流後左折したところに、貫井橋が架かっていました。   

貫井川緑道2

2015-06-15 05:40:22 | 千川用水3

 貫井川本流に戻ります。目白通りを越えた貫井川緑道の左手には、貫井池を南に臨むロケーションから、南池山との山号を有する円光院があります。「円光院 愛染院末南池山貫井寺と号す、本尊不動開山円長天正十三年(1585年)六月十一日寂す」(「新編武蔵風土記稿」) 開山の円長は武州大鱗山の子聖権現を勧請したと伝えられ、以来「貫井の権現さま」と親しまれました。阿佐谷の中杉通りのベースとなった古道が権現道と呼ばれたのは、円光院への参詣の道筋にあたっていたからです。円光院境内の東縁を抜けた貫井川緑道は、ほぼ直線で200mほど北上、石神井川に合流します。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 円光院の東縁に沿う貫井川緑道です。右手には数回前の御嶽神社もチラッと見えています。

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    2. 円光院境内です。昭和20年5月の空襲で本殿などは焼失し、同38年に再建されました。 

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    3. 右岸の分流が突き当たっていた通りを越えます。石神井川を越えるのに迂回していた清戸道をショートカットしたものです。

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    4. 元の蛇行の名残なのでしょう、左カーブした後、右折して北上するところです。

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    5. 100m強直進して石神井川に合流します。合流地点の改修は石神井川の直線化に伴うもので、昭和10年代に行われました。

右岸への分流3

2015-06-13 06:39:59 | 千川用水3

 右岸の分流の最後で、石神井川が豊島園に入る直前の合流地点までです。この分流にはもう一本合流する水路がありました。向山小学校の西側を起点に、北上するもので、明治に入ってからの一帯の字、向山ヶ谷戸(こうやまがやと)は、この谷筋に由来したものと思われます。目白通りに接する起点から500m以上にわたって、水路単独のカラーブロックの路地が、車止め付きで連続していて迷うことはありませんが、今回の水路との関係で、両者が合流する区画のみ扱うこととします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右カーブで舌状台地の先端を回り込み、突き当たったところで左折します。

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    2. カラーブロックで遊歩道風に整備された区画が、直線で百数十メートル続きます。 

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    3. 突き当りを左折すると、ワンブロックで石神井川との合流地点です。

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    4. 3.で合流している水路をさかのぼります。直ぐに右カーブですが、右写真は段丘上にある向山公園からのショットです。

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    5. 左手に車止め付きの路地があります。ここから目白通りに接する→ 起点まで、ほぼ直線で500mほど連続しています。