久しぶりに千川通りに戻り、「ほりっこ」の発端や鴨下水車のあった、現在の富士見台1交差点から再出発です。すぐに練馬区と中野区の境に差し掛かり、しばらくは両岸とも中野区(上鷺宮3、4丁目)です。これは、→ 「迅速測図」当時の東多摩郡上鷺宮村や明治22年(1889年)発足の東多摩(のち豊多摩郡)野方村(のち野方町)大字上鷺宮を引き継いでいますが、江戸時代には若干事情が異なっていました。以下は「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)の、田中谷原村境以降上鷺宮村に至るまでの記述の抜粋です。
一 弐間半 村境石橋 巾石弐枚渡壱間 田中谷原境 谷原村 (この間の6件、距離合計184間を省略) 一 四間 南へ上鷺宮古分水口有 (この間の7件、距離合計244間を省略) 一 六間 未より流丑 石橋 巾石四枚六尺渡七尺 石橋下四間下り 申寅へ流 上鷺野宮村 |
これでは谷原村分が合計433間(≒788m)あり、次は上鷺宮村と読める書き方ですが、同じく「小川家文書」中の同時代の図面には、谷原村分188間、中村分250間の次が上鷺宮村となっていて、間に中村が介在しています。「絵図にみる練馬」に収録された「谷原村絵図」は、「千川用水」の流路の東側に「中村境」、同じく「中村絵図」は「仙川堀」の西側に「谷原村」とあり、谷原、中村、上鷺宮の順が正解と思われます。活字化された「所積見分」のみでは何とも言えませんが、あるいは、田中谷原村境から同じ188間のところにある「上鷺宮分水口」のところに、谷原中村境が脱落しているのかもしれません。なお、両史料とも、上鷺宮村のあとは、上練馬、中村、下鷺宮と細かく入れ替わり、最後にもう一度中村となっています。お互いの飛地が入り組んでいたためで、明治に入ると最初の中村と上鷺宮が東多摩郡上鷺宮村に、それ以降が北豊島郡中村に編入され、今日の練馬、中野の区境へと引き継がれました。
<上鷺宮村> 「上鷺ノ宮村は、郡の東北にあり、郷庄の唱なし、村名の起りを尋るに村内八幡の社あり、古は木立生茂りてあまたの鷺やどりけるゆへ、土の人鷺森又鷺ノ宮などいひしより、いつとなく村名となりたるよし、村の広さ東西十五町、南北八町、東は江古田村にとなり、又東より北に至りては豊島郡中村に入会、この所より西の方は同郡田中谷原の二村及び当郡井草村につゞき、又西より南は井草村と天沼村に犬牙す、・・・・当所は御入国の後、年月詳ならず、今川刑部に賜ひ、今その子孫丹波守が采地なり」(「新編武蔵風土記稿」)
・ 鷺宮八幡神社 妙正寺川を右岸から望む舌状台地上にあります。「八幡社 除地、六十坪余、南の方下鷺ノ宮村境にあり、上下両村の鎮守なり、神領御朱印七石余を附せらる」(「新編武蔵風土記稿」)
また「風土記稿」は同村の水利につき、「用水 多摩川上水を竹下新田にて分水し、天沼村をへて村内に入、処々の水田にそゝぎ、すえは前の川に合せり」と書いています。「前の川」については、「水元は井草村妙正寺池にてその末流」としており、七ヶ村分水を用水とし、その余水を妙正寺川に落としていたというで、これは七ヶ村(のち六ヶ村)分水の杓屋口及び清水口のところで詳細した通りです。ただ、上鷺宮村が七ヶ村組合に属するまでには紆余曲折があり、「所積見分」中の「上鷺宮古分水口」もその途中経過ですが、次回改めてのテーマとします。