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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

界橋

2017-02-25 07:28:19 | 善福寺川1

 荻野橋の次の界(さかい)橋はその名の通り、旧上・下荻窪村の境に架かる橋で、→ 「東京近傍図」では、現環八通りの西側を南北に走る通りと善福寺川がクロスする位置に描かれています。たびたび引用する「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」(昭和15年 梅田芳明)の中で、上荻窪村で車馬の通れる橋は関根及び本村の橋のみ、他の三ヶ所は丸木橋だったとありまが、その最後の一つがこの場所に架かっていたものと思われます。なお、四面道、光明院(光明院自体は上荻窪村)、そしてこの界橋を結ぶラインがおおよその村境でしたが、そのラインと一部重なる形で環八通りが開通したため、現行の住居表示では環八通りが境のようになっています。

 

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    ・ 界橋  現在は、荻窪駅西口前からの商店街が並ぶ、すずらん通りに架かっています。右手はすぐ坂になっていて、この坂を上ると南荻窪の住宅街です。 

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    ・ 界橋  前を横切るのが環八通り、その先が荻窪駅に至るすずらん通りです。なお、左手に鉄塔の見えるのは東京電力荻窪支店で、「杉並の川と橋」の湧水リストに「東電の池」が載っています。 

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    ・ 左岸流跡  東電荻窪支店の北に沿う道路が環八に突き当たるところです。区画整理時の新設ですが、かってはこのあたりを用水が流れていました。

 <上荻窪村の堰>  → 「上荻窪村絵図」には本村橋を挟んで、二ヶ所に堰が描かれていて、「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」のいう、「字中田に一ヶ所、字本村に一ヶ所」がこれに当たります。これとは別に、桃井第二小学校が創立50周年を記念して発行した、「おぎくぼ いまむかし」(昭和53年)という小冊子のなかに、「(三軒家の堰の)上流には『土志田(どした)の堰』ガード先の堰を『団子坂の堰』といっていました」との記述があります。「三軒家の堰」は下荻窪村にかかわるもので、後の二ヶ所はガード下、すなわち、本村橋を挟んで設けられ、字本村、字中田の堰に該当します。上掲最後の写真の左岸流が分岐していたのは、本村、界両橋の中間にあった字本村、ないし土志田の堰からということになります。

 


三本の水路

2017-02-24 07:39:38 | 善福寺川1

 本村橋以降は東吾(あづま)、荻野橋と区画整理時に架橋された橋が続き、その次がその名の通り、旧上・下荻窪の村境に架かる界(さかい)橋です。この東吾橋から界橋までの間の右岸には、三本の水路の合流が見られます。最初のものは、前回の南荻窪の水路と同様の、西荻駅近くにあった松庵窪(男窪)からの水路の、新たに開設されたバイパスの合流地点ですが、後の二本は数十メートルのごく短いもので、コンクリート蓋の路地が段丘に突き当たって終了しています。これまで見てきたなかでは、関根プールの対岸にあったものと、規模、構造が似ており、段丘下の湧水などの排出溝として、区画整理時に開設したものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. このワンブロックが水路敷です。800m弱南に向うと、右写真のように神明通りの本線に突き当たります。

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    2. 東吾橋下流の右岸にある小水路跡で、こちらはワンブロックで終了です。

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    3. 荻野橋の下流にある小水路です。こちらはやや長くツーブロックあります。

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    4. 突き当たったところで、段丘沿いにT字を形成しており、関根プールの対岸にあったのと同じパターンです。

 <松庵窪(男窪)のバイパス>  一本目の水路の合流地点は大きな合流口、ワンブロックだけの車止め、「下水道台帳」に水路敷と書き込まれているなど、前回テーマのものと双子といってもいいほどの類似で、これも「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)掲載の図に全体像が書き込まれています。西荻窪駅の南西の松庵窪(男窪)から、新田街道(神明通り)と五日市街道の間を流れ、環八通りを越えて善福寺川に合流している水路がありますが、今回のものはそのバイパスとして、後になって開削されたようです。(平成7年発行の「杉並郷土史会史報」第131号には、「仮称松庵川について」との一文が載せられ、その中でこのバイパスの分岐点に関し、「宮前三丁目二三番地先から暗渠で善福寺川に直接流し」と、「杉並の川と橋」の図とは200mほど東にずれる地点を指摘しています。)

 


南荻窪の水路3

2017-02-23 07:40:12 | 善福寺川1

 本村橋下流で善福寺川に合流する水路を追っての三回目で、神明中学キャンパスの南で再開した後、西に向い車止めでガードされた区画まできました。住居表示は南荻窪(2丁目)から西荻南(3、4丁目)に変わります。→ 「上荻窪村絵図」にあるように、江戸時代の小名は伊勢前から三ツ塚で、後者は文字通り「三個の塚が並んでいた」(「杉並風土記」 昭和52年 森泰樹)のが地名由来です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き車止め、カラーブロックの水路跡の路地です。

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    2. 住宅に挟まれ、ほぼ直線で西に向かいます。単調ですが迷うことはありません。

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    3. この前後の三ブロック、200m弱は見通すことのできる直線です。

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    4. 西荻窪駅近くで、南北に走る通りに突き当たって終了します。

 <松庵窪>  「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)は、甲武鉄道(現JR中央線)敷設用土を採取した後の池が、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヶ所あり、うち北側の松庵窪(女窪)の湧水を処理するために、今回の水路が開設されたとしています。そして、水路図にも、西荻窪駅の北西から発し、その東側で線路を南に越える経路を書き込んでいますが、ただ、4.以西は点線を使用していて、以東の実線と区別する書き方です。また、区画整理直後の井荻地区の道路、水路を網羅した「路線図」では、4.以西の水路は描かれておらず、その存否、経路に関しては目下のところよくわかりません。一方、南側の松庵窪(男窪)については、「杉並の川と橋」は大宮前下水と関係させていますが、該当個所で改めて扱うつもりです。

 


南荻窪の水路2

2017-02-22 07:07:24 | 善福寺川1

 本村橋下流で善福寺川に合流する水路を追っての二回目で、神明中学キャンパスの南側から始め、西にさかのぼります。途中450mほどの車止め付の路地が出現します。全体像を把握する前は、どこから来てどこに向かうのか、大きな謎となっていた区間でした。なお、天祖神社(「新編武蔵風土記稿」では神明社)の周辺は、→ 「上荻窪村絵図」にもあるように伊勢前と呼ばれていました。昭和7年(1932年)の杉並区成立時に、やはり天祖神社にちなんで神明町となり、神明橋や神明中学もみな同じネーミングです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 神明中学の南縁に沿う道路から再開します。道幅に変化はなく、どこから水路跡を含んでいるのかはよく分かりません。

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    2. 右折すると天祖神社前を通り、神明橋を経て八丁へと至る通りを越えます。

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    3. 水路はこの幅広道路の左手を並行していました。

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    4. 道路の幅が突然狭くなり、車止め付の路地が出現します。水路単独を道路とした典型的なパターンです。

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    5. ほぼ等間隔で車止めにガードされた路地を西に向います。

南荻窪の水路

2017-02-21 07:05:17 | 善福寺川1

 本村橋を過ぎたところで左にカーブする善福寺川ですが、その右岸に合計5本もの水路が合流しています。うち前回のも含めた3本は、ほんの1ないし2ブロックで段丘に突き当たって終了しているなど、これまで見て来た区画整理時の排水溝の特徴を有していますが、今回及び次のテーマの2本は毛色が違い、最初に出会った時には、「下水道台帳」には水路敷となっていますが、水路跡なのかどうかも分らないものでした。それが、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)に収録された南荻窪周辺の水路図で、西荻窪駅付近からの水路の合流地点となっていて、ようやく全体像が把握できました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 本村橋下流の右岸です。この区画のみ水路敷きとなっています。

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    2. 車止めはこのワンブロックだけで、その先の段丘斜面を上る道路は一般のものとなんら変わりません。

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    3. 区画整理後の路線図では、この前後三ブロックの水路が描かれていません。あるいは当時から暗渠だったのかもしれません。

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    4. 途中道幅が狭くなる先から水路が描かれています。

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    5. 天祖神社の東隣にある神明中キャンパスに突き当たって中断します。なお、神明中学の開校は昭和22年(1947年)です。

稲荷坂の水路

2017-02-20 07:54:12 | 善福寺川1

 本村橋先で左カーブする善福寺川の右岸には、数本の水路が合流していました。最初のものはワンブロック半ほどしかないごく短いもので、すぐに段丘に突き当たって終了します。「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」(昭和15年 梅田芳明)添付の、明治9年(1876年)当時とされる「上荻久保全圖」には、段丘下にある池から善福寺川に合流する小流れが描かれており、今回の水路との関連が推測されます。ただ、「杉並の川と橋」の湧水リストにも収録されておらず、これ以上のことは目下のところ不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 本村橋下流の右手から、車止付の路地が顔をのぞかせています。コンクリート蓋などはなく、危うく見逃すところでした。

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    2. 稲荷坂下を通過します。ただ、この部分は区画整理時の開削で、本来は→ 「昭和4年測図」のように、右手に大きく迂回していました。

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    3. ワンブロックとほんの数メートルで、右岸段丘に突き当たって終了します。左手台上に稲荷社がありました。

 <穴稲荷>  元の稲荷坂近くの東北に面した崖面には横穴があり、奥にお稲荷様が祀られていました。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)によると、「穴は直径六尺(1.8メートル)位で、南へ四間(7メートル)入って、右へ折れて四間、突き当りに狐の木像が祀ってあった」ということです。「杉並風土記」には書かれていませんが、城山の七つ井戸と通じている、との伝承もあったようです。明治30年から40年にかけて、近くの水田で凍らせた天然氷を、この穴で貯蔵して夏季に出荷することもあったとか。明治末年にお稲荷様は地上で祀られるようになり、穴は扉で封鎖されましたが、昭和40年代には、事故防止のために埋立てられました。

 


本村橋2

2017-02-18 06:37:01 | 善福寺川1

 「土橋 上荻窪村ニアリ本村橋長二間幅二間」 これは明治初年の「東京府志料」の記述ですが、「豊多摩郡誌」(大正5年)では、「本村橋 上荻窪村字本村にあり荻窪道善福寺池流に架す 構造木造延長四間幅員一間半」とあり、板橋に架け換えられたようです。この本村橋付近は橋場と呼ばれていました。「荻窪風土記」(昭和57年 井伏鱒二)には、ガード手前の左岸にコの字型に拡がる浅瀬があり、洗い場兼水浴び場であったこと、ガードと並行の板橋が鮠(はや)釣りに理想的だったこと、などが回想されています。なお、本村(ほんむら)は村で最初に開拓された地域の意で、「新編武蔵風土記稿」にも収録され、井荻村大字上荻窪の小字に引き継がれましたが、昭和初めの杉並区成立時に住居表示から消えました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年修正) / 荻窪」と「同 / 上高井戸」を合成したものです。 区画整理によって本村橋前後の道路も大きく様変わりしましたが、同一場所、同一縮尺の「昭和4年測図」は→ こちらです。

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    ・ 置田橋  左岸方向のショットで、四面道から分岐した本町通りです。この道をJR線と並行して西に伸長した際、置田橋を創架しました

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    ・ 本村橋  現在はJR線を越えた先に架かっていますが、区画整理以前には真下にありました。「私稿 上荻窪風土記」(昭和58年 小俣秀雄)には、ガード下の本村橋の挿絵が掲載されています。

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    ・ 善福寺川  本村橋を越えてすぐ左カーブ、南から東へと向きを変えます。カーブの前後の右岸には水路が合流しており、次回以降のテーマです。

本村橋

2017-02-17 08:45:43 | 善福寺川1

 青梅街道から善福寺川を越え、対岸の天祖神社方面へと至る道は、→ 「上荻窪村絵図」→ 「東京近傍図」に数本描かれていますが、主なものは八丁から分岐するもの(薬缶坂)、四面道から光明院西を抜けるもの(本町通り)、現西友前で分岐し白山神社前を通るもの(観音押出し)がありました。そのすべてが合流し、一本になって善福寺川を越えていましたが、そこに架かっていたのが本村(ほんむら)橋です。なお、薬缶坂の由来ですが、夜半、真っ赤に焼けた薬缶が転がっていた、との伝承が各地にありますが、野干(やかん 野狐などの野獣)の出没する坂の意との説もあります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」と「同 / 上高井戸」を合成したものです。 区画整理によって本村橋前後の道路も大きく様変わりしましたが、同一場所、同一縮尺の「昭和12年修正」は→ こちらです。

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    ・ 神明橋  左岸方向のショットで、奥が薬缶坂、その先が青梅街道です。区画整理によって道は直線化され、新たに神明橋が架橋されました。 

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    ・ 善福寺川  神明橋から下流方向で、JR線と直交するため右カーブで南に向きを変えます。奥にチラッと写るのがJR線の鉄橋です。

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    ・ 置田橋  JR線の鉄橋の手前に架かる橋です。「杉並の川と橋」(杉並区郷土博物館 平成21年)によると、お北橋の表記もあったようです。

出山の水路

2017-02-16 05:00:46 | 善福寺川1

 鍛冶橋の次が出山橋です。出山も上荻窪村の小名で、こちらは「新編武蔵風土記稿」にも収録され、→ 「上荻窪村絵図」では丸山の東隣に記されています。井荻村大字上荻窪の小字にも採用されましたが、昭和7年(1932年)の杉並区成立以降、住居表示からは消えてしまいました。中田や本村の水田に向かって突き出している台地という、文字通りの意味だと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 出山橋の右岸の通りは、50mほど右手が広くなっています。後述する「中田の池」からの水路と思われます。

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    2. こちらは出山橋と次の神明橋の間の左岸から合流する水路跡の路地です。

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    3. これまでのものと同様、コンクリート蓋、車止め付の路地が、ほぼ直線で北に向かいます。

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    4. 2ブロック、100mほどで段丘に突き当たって終了します。

 <中田の池>  「私稿 上荻窪風土記」(昭和58年 小俣秀雄)に、「今の西荻北一丁目の中央辺に『中田の池』という広さ二、三百坪位の池があって浮き釣りで、鯉や鮒、オトゲ、いもりなどをずいぶん釣ったものだ」とあります。日本地形社の「昭和11年測図」(1/3000)にも描かれていますが、その広さは100坪に満たず、一部埋立などがあったのかもしれません。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)の湧水リストの中で、「置田橋西の池 西荻北1-8辺」とあるのも、住所からして同じものだと思われますが、元々の湧水池なのか、それとも人工の釣り堀なのかを含め詳細は不明です。 

 


中田の水路

2017-02-15 08:02:11 | 善福寺川1

 丸山からの水路が合流していた中田橋の中田は、善福寺川が城山橋で右カーブして以降の左岸の字で、「新編武蔵風土記稿」には収録されていませんが、→ 「上荻窪絵図」には関根の東隣に書き込まれ、井荻村大字上荻窪の小字として引き継がれました。文字通り村の中央にある水田の意で、関根大堰からの用水によって灌漑されていました。現在の上荻3丁目がそのおおよその範囲に当たります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 鍛冶橋のすぐ下流に、左岸から合流する水路跡の路地が顔をのぞかせています。

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    2. これまでと同様、コンクリート蓋、車止め付の路地が、ほぼ直線状に伸びています。

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    3. 次のブロックです。ワンブロック100m弱の等間隔なのは、区画整理の産物です。

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    4. 通り抜け出来るか不安になりますが、何とか次のブロックにたどり着きます。

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    5. 左岸段丘に突き当たって終了します。直線の水路の中では最長で、300mほどになります。

丸山の水路2

2017-02-14 09:11:13 | 善福寺川1

 丸型の右岸台地(丸山ないし城山)の背後を回り込み、中田橋手前で善福寺川に合流している水路の二回目です。右折、左折を繰り返しながら、桃井三小学校の北にある先端近くまで来ました。→ 「段彩陰影図」の浅い谷筋からすると、この付近に湧水の存在が予想できますが、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)の湧水リストにはなく、またその存在を示唆する文献は未読です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の続きで、百数十メートル南下した後突き当りを右折します。

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    2. 右折して右岸台地の背後に回り込み、すぐに社橋に至る通りを越えます。

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    3. 「一時通行止」の先で再び左折です。少なくともこの10年来ずっと「一時通行止」ですが。

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    4. 最後の右折の先で水路跡はフェイドアウトします。

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    5. 区画整理後の路線図では、水路の先端は桃井三小の北側になっています。

丸山の水路

2017-02-13 07:01:45 | 善福寺川1

 中田橋の手前で右岸から合流する水路があります。これまでの小水路と異なり、延長は数百メートルを越える比較的長いもので、また直線的に伸びているわけでもありません。→ 「段彩陰影図」で右岸台地の背後に回り込み、その形状を丸くしている谷筋がありますが、今回の水路はこれにかかわるもので、あるいは、元は自然の小支流だったのかもしれません。ただ、少なくとも現在確認できる水路跡は、碁盤の目状の道路網に合わせて右折、左折を繰り返しており、また、後述するように微高地を越えているように見えることから、区画整理時に開設、ないし付替えられたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    2. ここから3.にかけての水路が周囲より低くなっているのは、→ 「昭和4年測図」に描かれた、突出している微高地を切通しで越えたためなのでしょう。

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    3. 真中橋を通る道を越えてすぐに左折、「昭和4年測図」の食い込む等高線に沿って、南に向きを変えます。 

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    4. 住宅の間を南に向かう水路跡の路地です。ほぼ直線で150mほど続きます。 

左右の水路

2017-02-10 06:52:36 | 善福寺川1

 城山橋から先の善福寺川には、左右から数本の水路が合流しています。特に左岸から合流するものは、1、2ブロックのごく短いもので、みな段丘際が先端となっています。その他、コンクリート蓋で覆われた直線状の路地となっている点も、これまでの善福寺池の周辺や井草八幡前にあった水路跡と共通しており、いずれも、低湿地や水田を宅地造成したところなので、区画整理時に排水路として開設したものなのでしょう。区画整理直後の井荻町の路線図を見ると、一部失われたところはありますが、現在確認できるのとほとんど一致する水路が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 城山橋から50mほど下流の右カーブに、左岸から合流する水路跡があります。

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    2. このあたりまでは普通の路地のようで、見逃してしまうかもしれません。

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    3. 次のブロックからコンクリート蓋となり、水路跡であることが確認できます。

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    4. 200mほどで左岸段丘に突き当たり終了します。ワンブロック先は青梅街道の八丁です。

 <八丁>  荻窪八幡から四面道にかけて、青梅街道は八丁(通り)と通称され、中間にある交差点もそう呼ばれています。元々は「新編武蔵風土記稿」にも収録され、「八町 是も青梅道の内にて、村の東に当たれり」と書かれた、上井草村の小名でした。江戸時代から中野と田無の間の宿場として栄え、大震災までは荻窪駅前をしのぐ商店街だったとか。現在も荻窪警察署や荻窪郵便局があるのはその名残です。なお、「杉並歴史探訪」(昭和50年 森泰樹)は、青梅街道に面する間口340間、奥行70間、面積8町歩の矩形が、領主だった今川家の屋敷地として区画され、それが地名由来となったのではと推測しています。

 


城山の七つ井戸

2017-02-09 06:53:17 | 善福寺川1

 善福寺川は城山橋の手前で右カーブ、南に向きを変えます。→ 「上荻窪絵図」には、この右カーブをショートカットする田用水が描かれています。また、「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」(昭和15年 梅田芳明)添付の、明治9年(1876年)当時とされる「上荻久保全圖」には、やはり右カーブをショートカットする暗渠が描かれ、等間隔に七つの井戸が設けられています。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)は、この「城山の七つ井戸」に関し、水車を動かすのに必要な落差を得るため、城山下にトンネルを掘った名残で、井戸はその掃除口だったと書いています。あるいは、「新編武蔵風土記稿」が上荻窪村の項で触れていた、「村民郡蔵持ち」の水車の回し堀だったのでしょうか。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  地図中で、右カーブに向けて突出している微高地ですが、→ 「段彩陰影図」を見てみると、その痕跡はほとんどありません。宅地化の過程で削られてしまったのかもしれません。 

 右カーブをショートカットするためには、突出している微高地を越えなければなりません。そのために、根元付近にトンネルを掘ったものと思われます。そして、工事中は明取り兼土揚げ用として七つの縦抗を掘り、完成後は泥浚いのために残したたのでしょう。「此處は明治三十八年當時迠は附近一帯に雑木、杉、松等の密林にして、加ふるに篠笹の群生物凄く人の分け入る事の出来ざる所もあり、北面は崖にして蔓草繁茂し、その下を善福寺川の深みが無気味に流れ此處に堰があり、ここから直径六尺余の墟抗が城山の底を潜って、これに俗稱城山の七ッ井戸と呼ばれる気味の悪い七ッの井戸が南に一列に並び續き、水の流れが此等の井戸の底を通っておったのに及んでは、當時の人々の近づく事を恐れたものである。」(「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」) 

 

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    ・ 城山橋  この右手の微高地を横切る形で、七つの井戸が掘られていたことになりまが、明治以降は雑木林の中に放置され、昭和の初めには埋立てられてしまいました。 

 「私稿 上荻窪風土記」(昭和58年 小俣秀雄)は、「城山の七つ井戸」に関し、「西荻北一丁目一五番くらいの所で、狭い道の両側から雑草が被いかぶさり、林の木が薄暗いくらいに茂った道の傍らに、深い井戸が、私の知っている頃は三つくらいありました」と書いています。大正初めに生まれた筆者の思い出なので、区画整理で埋め立てられる直前のことと思われます。一方、西荻図書館前にある区教育委員会の「城山と七ツ井戸」の解説プレートは、城山の位置を西荻北2丁目19・33一帯とし、七ツ井戸は「城山の南側に一列に並んで掘られていたようで」と書いています。西荻北1-15は図書館のある西荻北2-33の東南のブロックに当たり、共に突出する微高地の根元に位置しています。  

 


社橋、真中橋

2017-02-08 09:38:47 | 善福寺川1

 丸山橋の次は200m弱とやや間隔をあけて社橋です。対岸の丸山から荻窪八幡に向かう通りにあって、→ 「東京近傍図」には同じような位置に橋が描かれていますが、通りと流路が整備された区画整理時に現在位置に架け直されました。次の真中橋はやはり区画整理時の創架ですが、橋名の由来は不明です。あるいは、旧井荻町を流れる善福寺川のほぼ中程に位置しており、そのような意味で真中なのかもしれません。

 

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    ・ 社(やしろ)橋  左岸方向のショットです。奥の茂みが荻窪八幡境内、その裏が青梅街道です。橋名の由来は明らかですが、「近傍図」当時からそう呼ばれていたかは不明です。

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    ・ 善福寺川  真中橋から下流方向で、奥に城山橋が見えます。善福寺川は真中橋と城山橋の間で右カーブ、丸山の台地の東沿いに南下を始めます。

 <荻窪八幡>  「八幡社 除地、二町三段三畝七歩、西の方遅野井村界ひにあり、村の鎮守なり、社は五尺四方、覆屋二間に四間半東向、前に鳥居をたつ、両辺に杉の並木あり、・・・・鎮座の年代詳ならず」(「新編武蔵風土記稿」) 創建に関しては寛平年間(889~898年)との伝承があり、また、永承6年(1051年)源頼義が奥州遠征の途中、当地に宿陣して戦勝を祈願、のち康平5年(1062年)凱旋の際、社殿を修復したとも伝えられています。その際、対岸に館が設けられ、城山の名がおこったとの地名由来は、前々回触れたところです。その後、文明9年(1477年)には、石神井城攻めを控えた太田道灌が、戦勝を祈願して高野槇一株を植樹、「道灌槇」として今に伝わっています。

 

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    ・ 道灌槇  かっては一根二幹でしたが、昭和初めに一幹が折れ、現在の形となりました。幹の周囲2m、樹高20mほどあり、区指定の天然記念物です。