goo blog サービス終了のお知らせ 

神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

備考)神田上水年表

2019-03-12 06:18:55 | 神田上水

 神田上水のまとめとして、江戸開府から17世紀末まで、100年間におよぶ成立過程を、年表風にまとめてみました。ネタ元はほとんど「東京市史稿上水編」で、その引用する資料の孫引きもあります。また、《 》内の記述は資料的な裏付けのない(ないに等しい)、個人的な推論、仮説の類です。

  •  天正18年(1590) 江戸開府 大久保主水、小石川上水の見立
     7月12日 「くもる、藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉わる」 10月4日 「くもる・・・・小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」(「校註天正日記」) 「御入国之節・・・・、小石川水道見立候ニ付、為御褒美主水と申名被下置候」(「御用達町人由緒」)
     《小石川上水 / 水源は本郷台西岸(小石川)、給水範囲は小川町周辺の武家屋敷か》

  •  慶長8年(1603) 江戸幕府成立 江戸市街地の本格的形成 神田明神山岸の水
     「今の江戸町は、十二年以前(注 慶長8年)まて、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへとも、井の水へ塩さし入、万民是を歎くと聞しめし、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へながし、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給う」(「慶長見聞集」)
     《神田山岸の水 / 小石川上水の給水範囲を、神田、日本橋北方面の町人地にまで拡大か》

  •  慶長年間(1596~1615) 神田上水水元役内田家祖先、「武州玉川辺之百姓」六次郎、井之頭池を上水水源として開発
     「上水記」に引用されている、安永6年(1777)ほかの「内田茂十郎書上」
     《開発の時期が慶長から寛永まで幅があるなど、一貫性にかけ伝承の域を出ていない、ただ、水元役を務めた以上、水源開発に何らかの功績の可能性》

  •  元和2年(1616)ないし元和6年(1620) 神田山の開削、神田川を東流させる
     「(二代将軍秀忠が)神田台へならせられ、溝渠疏鑿の地を親巡し給ふ」(元和6年11月25日の「台徳院殿御実紀」)
     《小石川上水、あるいは神田上水に神田川を越える必要性が生じる》

  •  寛永6年(1629) 水戸藩小石川邸の成立 同年 三代将軍家光が井の頭池と命名との伝承
     《このころまでに、井の頭流を関口で取水し、水戸屋敷を経由するという、神田上水の基本形の完成か》

  •  正保年間(1644~48) 「正保年中江戸絵図」に関口から水戸屋敷に至る白堀記載

  •  承応2年(1653) 玉川上水開削開始、翌年完成 同年ころ 神田上水開削とする後世の文献多数、一次資料は不明
     「神田御上水之儀ハ承応2年之頃掘割ニ相成候由・・・・」(「関口町旧記書上」)
     《玉川上水の開削、ないしは江戸川の改修と混同したのかも》

  •  万治3年(1660) 舟入のため仙台堀の拡張
     「一、水道橋ヨリ仮橋迄、堀ハバ水ノ上ニ八間タルヘキ事。一、水道橋ヨリ牛込御門迄・・・・」(「覚書」)
     《このころ懸樋を懸けたとするのが一般、ただ、それ以前に場所、規模はともかく、懸樋の存在した可能性》

  •  寛文5年(1665) 「神田上水」の記載の初め
     「一、神田上水道之御普請入札ニ被仰付間・・・・」(6月28日「町触」)

  •  寛文6年(1666) 「懸戸樋」の記載の初め
     「一、元吉祥寺之下、上水道懸戸樋崩候間・・・・」(10月1日「町触」)

  •  寛文7年(1667) (玉川上水から淀橋付近に助水する)神田上水助水路の開削

  •  延宝5年(1677) 元吉祥寺付近の上水設備の改修に芭蕉かかわる
     「元吉祥寺前上水道御普請、入札ニ被仰付候間・・・・」 「元吉祥寺下上水道大吐樋並桝、今度石樋ニ被仰付候間・・・・」 「今度元吉祥寺下上水道大渡樋御普請、入札被仰付候間・・・・」(「町触」)
     《「大吐樋並桝、今度石樋」とか「大渡樋」といった表現から、ここで大容量化し最終的な形が整ったのでは》

  •  貞享年間(1684~87年) 「貞享上水図」 玉川上水との給水範囲分担の図

 


樋と枡、井戸

2019-03-11 05:18:30 | 神田上水

 新しいクール、「神田上水」です。井の頭池を水源に、途中、善福寺池、妙正寺池からの流れを集め、関口村大洗堰で余水を江戸川に落とし、以降は白堀(素堀)で水戸屋敷を経由、懸樋で外堀を越え、埋樋で神田、日本橋地域に給水していた、これが本来の意味での神田上水ですが、ここでは、今日一般に理解されている狭義の神田上水、つまり、関口大洗堰から水道橋の懸樋までが対象です。

*  *  *  *  *  *

 江戸市中の上水網は樋と枡で構成されていました。その機能、構造、材質にさまざまあり、「上水記」は次のように説明しています。「地中に樋を通し枡を置、埋枡あり水見枡あり、埋枡は地中に有、水見枡は地上にあり、又高枡有、懸樋あり、分水の所にわかれ枡あり、水見枡のふたをあけて水勢を常に考ふ・・・・高枡にてせき上る登り竜樋は上る所にかまへ、下り竜樋は引落す、みな其地の高低にしたかふ、しかれとも水元より高くは上らす、ひきく落し高く上て水勢を増、又河又は堀の水底を潜る所もあり、是を潜樋といふ、橋の下にそひて向ふの岸にわたる所もあり、渡樋といふ、又懸樋といふ、石にて流を通す所万年樋といふ、樋なく流る所を白堀といふ、他方にて素堀ともいふ」

 

Idozue1

    ・ 「江戸名所図会 / 竹女故事」  「新著聞集に云、江戸大伝馬町佐久間勘解由が召仕の下女たけは天性仁慈の志深く、朝夕の飯米己が分は乞丐人に施し、・・・・」(本文)

 描かれた井戸が上水井戸か、それとも掘抜き井戸かは定かではありませんが、少なくとも、大伝馬町は神田上水の給水範囲で、また、水道歴史館で展示されている上水井戸の模型と、つるべ竿も含めデザイン的には一緒です。庶民の場合、裏長屋などでの共同使用が一般ですが、武家屋敷なので、このように屋敷に引き込んでの単独使用もありました。

 

1016a

    ・ 木樋と木枡  丸ノ内3丁目の阿波徳島藩上屋敷跡地から発掘されたもので、水道歴史館で展示されています。(溝を潜らせるために、一段下げた木樋を連結していて、潜樋と同じ構造です。)

1016b

    ・ 上水井戸  同じく水道歴史館に展示されています。通りまで来ている木樋との間は竹樋で連絡され、井戸に溜まった水はつるべで汲み上げていました。正面の穴に竹樋を通していたのでしょう。

給水範囲

2019-03-09 06:12:18 | 神田上水

 神田橋で二手に分かれた幹線配管のもう一つは、外堀(日本橋川)に沿って東に向かい、鎌倉河岸から竜閑橋に至ります。竜閑橋手前で分かれた一筋は、神田堀沿いに東流し、紺屋町、岩本町方面に給水、本線は竜閑川を潜樋で越え、その先で小伝馬町、浅草橋方面への一筋を分け・・・、といった具合に途中で配水しながら、外堀を常盤橋、一石橋へと至ります。結局日本橋川以北が主要な給水範囲で、一石橋下を潜樋で越えた一流は、京橋川までの以南にも給水していました。「上水記」添付の神田上水絵図によると、このうち常盤橋までが万年石樋(石垣樋)、それ以外は木樋の配管となっています。

 

Kyusui1

    ・ 神田・玉川上水給水範囲  赤が神田上水、青は玉川上水の給水範囲で、「貞享上水図」を元に作成しています。(神田川以北については扱っていません。) 

 一石橋で外堀(日本橋川)を越えた神田上水は、日本橋川以南の、外堀、京橋川、楓川で囲まれた一角に給水していました。この長方形を画する地域は、江戸前島の微高地にあたり、玉川上水の給水が及ばなかったのでしょう。これに対して、楓川以東の八丁堀や霊巌島、その南の築地などは、江戸湊を埋め立て造成した低地で、玉川上水の給水範囲となりました。なお、八丁堀や霊厳島は、当初は神田上水が給水し、のち玉川上水に切り替えたといいます。ただ、どちらにしても末端に位置し、慢性的な水不足でした。

 

1015a

    ・ 神田橋  神田上水が外堀(日本橋川)を越えたのは、この神田橋と一石橋の二ヶ所で、いずれも潜樋によって川底を潜っていました。 

1015b

    ・ 一石橋  手前の常盤橋からのショットです。 名前の由来は錦町と同様のシャレで、後藤を名乗る屋敷が二つあり、後藤(五斗)と後藤(五斗)で一石なのだそうです。

幹線配管4

2019-03-08 06:00:11 | 神田上水

 靖国通りを右折した幹線配管は、錦小路を南下します。途中左折、右折で本郷通りにシフト、神田橋に至ります。これは「上水記」添付の神田上水絵図でもそうなっていて、懸樋からここまで「万年石樋」(石垣樋)による配管です。そして、神田橋手前で二手に分かれ、一つは潜樋で外堀(日本橋川)の底を潜って越えます。あとは木樋の配管で、大手前にある大名屋敷などへの給水を担当していました。一方、神田橋で分かれたもう一筋は、御堀に沿って鎌倉河岸、竜閑橋を経由、日本橋へと向かいます。

 

Kansen4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

1014a

    1. 左折して錦小路を離れ、一つ東側にある本郷通りに向かいます。 

1014c 1014b

    2. ワンブロック、100m強で右折、本郷通りを南下します。

1014d

    3. 神田橋交差点から神田橋方向で、高架の都心環状線の下が神田橋です。

1014f1014e

    4. 神田橋(神田橋門跡)です。桝形石垣は寛永6年(1629年)、出羽秋田藩佐竹家によって築かれました。 

 <御門内の給水>  神田橋で外堀を越えた神田上水は、大手堀、道三堀に挟まれた区画(現大手町1~2丁目)にある、大名屋敷などへの給水を担当していました。一方、大手前を除く御門内の給水の大半は、四谷門から麹町通り(新宿通り)を経由した玉川上水が行っていました。ただ、麹町通りの北側にある番町の武家屋敷の多くは、台地にあったため給水範囲から外れ、自前の井戸で地下水を利用していたようです。麹町通りから半蔵門に入った玉川上水は、江戸城内にも給水していました。本丸や二の丸、西の丸も給水範囲のはずですが、→ 「貞享上水図」では空白になっています。

 


幹線配管3

2019-03-07 06:30:28 | 神田上水

 懸樋以降の暗渠の幹線配管を追っての三回目です。靖国通りに出て、駿河台下を300mほど東に向かい、本郷通りの一つ手前で右折、神田橋を目指して南下します。→ 「段彩陰影図」で見るように、駿河台先にも微高地が続いていますが、その中央(尾根)に沿うコース取りなので、ここもできる限り高いところのセオリー通りです。なお、この微高地は東京駅の先まで、岬上に突き出していますが、かっては江戸前島と呼ばれる半島でした。徳川家康の江戸入国以降、江戸城との間を分かつ平川水系、日比谷入江が埋め立てられ、今日見るような地形に改変されたといわれています。

 

Kansen3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

1013b 1013a

    1. 駿河台下交差点の先です。靖国通りは左カーブで駿河台の頂点を回り込みます。 

1013d 1013c

    2. 左カーブの頂点で右折しますが、そのまま駿河台をめぐり、昌平橋を目指す一筋もありました。

1013e

    3. 右折した先は錦小路と呼ばれていました。由来については京都の錦小路にあやかってなど諸説があります。

1013f

    4. なかには、旗本一色家の屋敷が二軒あったため、一色が二つで二色(錦)という、洒落た説もあるようです。 

1013g

    5. 右手の一角は護持院ヶ原と通称されたところで、護持院の大伽藍が焼失して以降、火除地となっていました。 

幹線配管2

2019-03-06 06:40:37 | 神田上水

 懸樋以降の暗渠の幹線配管を追っての二回目です。猿楽通りから靖国通りに出て、駿河台下を300mほど東に向かいます。駿河台下から西側の一帯は、広く小川町と呼ばれていました。かっては平川・小石川水系に属する低湿地で、清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったとも伝えられ、太田道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」と詠んだのは、このあたりの風景だといわれています。江戸開府当時は田畑でしたが、宅地造成され武家地となりました。

 

Kansen2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

1012a

    1. 右カーブの猿楽通りを引き続き南下します。 

1012c 1012b

    2. 右写真は錦華公園越しの駿河台で、台上には山の上ホテルや明治大学があります。

1012e 1012d

    3. 猿楽通りはここまでで、突き当りを左折して錦華通りに出ます。 

1012f

    4. 錦華通りはすぐに終了、ここから先は靖国通りです。

1012h 1012g

    5. 靖国通りの駿河台下交差点です。右写真は前々回UPした駿河台方向です。 

幹線配管

2019-03-05 06:46:29 | 神田上水

 水道博物館に展示されている→ 「貞享上水図」をベースに、懸樋以降の暗渠の幹線配管を神田橋までたどります。「貞享上水図」では、神田川を懸樋で越えた後いったん段丘の際に沿い、すぐ右折、左折のクランクで猿楽通りにシフトしますが、これは「1/5000実測図」が点線で描く経路とも一致しています。猿楽通りに出た後は、左右に軒を連ねる旗本、大名屋敷に給水しながら、駿河台の西縁を回り込みその先端を目指します。

 

Kansen1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Kansenm19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

1011a 1011b

    1. 神田川を越え皀角坂(さいかちざか)下を横切るところから始めます。 

1011c 1011d

    2. 段丘の際に沿ったあと、右折して段丘から離れます。 

1011e

    3. 左折して猿楽通りを南下します。江戸時代は裏猿楽町と呼ばれたところです。 

1011f 1011g

    4. 備中岡田藩邸などの武家屋敷に配水しながら、神田橋を目指します。

駿河台

2019-03-04 06:20:36 | 神田上水

 懸樋を渡した位置は水道橋近くの低地でなく、より東にある本郷台の際になっていて、以降はその先端(神田山)の西縁を回り込んでいます。これは、農業用水のコース取りでも度々触れましたが、機械力を利用しない位置エネルギーに頼った配水では、いったん低地に落ち込むと、そこが給水範囲のリミットとなってしまいます。そこで可能な限り高いところ、高いところとコースを設定する必要があり、台地の場合は尾根が、谷筋の場合は今回のように段丘の際が、定位置となるわけです。

 

Josui2

    ・ 「段彩陰影図 / 神田上水2」(1/18000)  水道歴史館に展示されている→ 「貞享上水図」を元に、懸樋から神田橋に至る幹線配管を書き込みました。

 タイトルの駿河台ですが、堀割によって本郷台から切り離された先端のことです。江戸開府当時は神田山と呼ばれたところで、その一部が切り崩され日比谷入江などの埋立て、造成に使用されました。後に家康が駿府に隠居した際、家康付となった旗本(駿河衆)は、主君の死後駿河から戻り、富士山の見えるこの高台を望んで居を構えました。これが駿河台の名前の由来といわれています。なお、「上水図」の細かな書き込みが給水範囲ですが、駿河台は当然ながらその範囲から外れています。にもかかわらず宅地造成が可能だったのは、御茶ノ水に代表される豊富な地下水脈を利用することが出来たためです。

 

1010a

    ・ 懸樋跡地  神田川とJR中央線を越えた先にある皀角坂(さいかちざか)の中腹から、対岸のお茶の水坂を振り返っての撮影で、正面の建物が吉祥寺旧地といわれる都立工芸高校です。 

1010b

    ・ 駿河台下  靖国通り駿河台下交差点から、明治大学のある駿河台方向です。神田上水の配水幹線はこの先で右折しますが、そのまま駿河台下をめぐり、昌平橋を目指す一筋もありました。 

水道橋と懸樋2

2019-03-02 06:52:20 | 神田上水

 懸樋の設置された年代についての続きです。「御府内備考」や「江戸名所図会」などに代表される、江戸時代の一般的な見解は、万治年中(1658~61年)の神田川拡張、舟入工事の際で、その後は吉祥寺橋も水道橋と呼ばれるようになったというものでした。ただ、「御府内備考」などは、万治年間に神田川の開削がなされ、それに伴い懸樋が設けられたような書き方ですが、実際には、神田川の開削は元和年間(1615~24年)と考えられており、とすると、万治以前の神田上水は、どうやって神田川を越えていたのかが問題となりますが、やはり、その規模や場所はともかく、懸樋で神田川を越える以外の方法は考えられません。

 

Kakehim19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 この傍証としては二つあり、一つは「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵、ネットでの閲覧可能)です。成立年代には争いがありますが、三代家光治世の江戸を描いたとされるそこには、吉祥寺前の橋に沿って、橋桁四組に板を渡した簡易な懸樋が描かれています。もう一つは、「東京市史稿」の引用する、万治3年(1660年)の神田川拡張工事の覚書です。「一、水道橋ヨリ仮橋迄、堀ハバ水ノ上ニ八間タルヘキ事。一、水道橋ヨリ牛込御門迄、土居ノ上置、ヒキゝ所ニテ弐間、其外ハ土居之高下ニヨリ、築足可申事」 この水道橋が(元)吉祥寺橋のことなのか、それとも懸樋のことなのか不明ですが、神田川拡張以前にその呼び名があった以上、懸樋の存在が強く推測されます。

 

1009b

    ・ 神田上水懸樋跡  水道橋から200mほど下流の左岸にある石碑越しに右岸を見通しています。なお、石碑には「絵本続江戸土産」(明和5年 1768年 鈴木春信画)にある挿絵が転載されています。

 ところで、江戸時代の懸樋は、洪水による流出、火事による焼失もあり、おおむね10~15年間隔で改修、架換えが行われました。19世紀に入ってからだけでも、享和3年(1803年)から慶応元年(1865年)まで六回の記録があり、その費用として700~1200両が計上されています。仕様については、嘉永2年(1849年)の記録では長さ18間3尺、内法幅6尺、深さ5尺で、14間4尺の銅張り屋根が付いていました。また、慶応元年(1865年)の普請完成図には、「長拾七間大サ内法六尺五尺」と書き込まれています。なお、上掲「実測図」のように明治に入っても維持されていた懸樋ですが、明治34年(1901年)、砲兵工廠を除く神田上水の廃止に伴い撤去されました。

 


水道橋と懸樋

2019-03-01 08:46:16 | 神田上水

 神田上水は水道橋の下流に架かる懸樋で、神田川を越えていました。この懸樋が設けられたのは、万治3年(1660年)の仙台藩による神田川拡張の後で、それまで(元)吉祥寺橋と呼ばれていた橋は、水道橋と呼ばれるようになりました。「万治の頃江戸川堀割に成、小石川に懸樋出来る、よって水道橋といひ」(「御府内備考」)「此橋(水道橋)の少し下の方に神田上水の懸樋あり。故に号とす。此下の川は万治の頃、仙台公鈞命を奉じ堀割らるゝ所なりといふ。万治の頃迄、駒込の吉祥寺此地にあり、其表門の通りにありしとて、此橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり」(「江戸名所図会」)

 

Kakezue1

    ・ 「江戸名所図会 御茶の水 水道橋 神田上水懸樋」  お茶の水から水道橋方向で、右手は水番人の副業といわれる鰻屋「守山」ですが、「守山」は水道歴史館の→ 模型にも登場します。 

 文献上、懸樋が最初に登場するのは、寛文6年(1666年)10月1日付けの町触で、「東京市史稿」に引用されています。「一、元吉祥寺之下、上水道懸戸樋崩候間」 ついで、延宝5年(1677年)3月26日の町触、「一、今度元吉祥寺下上水大渡樋御普請、入札被仰付候間」は前回引用しました。一方、水道橋の橋名については、「寛文図其一」(寛文10年 1670年)にその書き込みがあり、翌年発行の「寛文図其三」では、「本吉祥寺はし」となっていて、吉祥寺橋から水道橋へと移行する過渡期だったのでしょう。(ただ、「寛文図」には懸樋は描かれおらず、手元にある範囲での初見は、延宝7年(1679年)の「江戸方角安見図」です。)

 

1008a

    ・ 神田川  水道橋から下流方向のショットです。ここから御茶ノ水にかけては、本郷台地を切通し、神田川を付替えたところで、その景観から茗渓とか、小赤壁とか呼ばれていました。 

 ところで、引用文では「万治の頃江戸川堀割に成」など、万治年間(1658~61年)に神田川の開削がなされたような書き方ですが、これは仙台藩が舟運を開くため、拡張工事を担当した時期です。元となった開削は元和年間(1615~24年)と考えられており、「東京市史稿」は元和6年11月25日の「台徳院殿御実紀」の記載、「(二代将軍秀忠が)神田台へならせられ、溝渠疏鑿の地を親巡し給ふ」を引用しています。松平正綱を奉行としたこの工事によって、本郷台地の先端に位置する、当時神田山と呼ばれていたところを切り開き、その手前で南下していた平川水系を、東の隅田川に放流しました。

 


元吉祥寺

2019-02-28 06:02:15 | 神田上水

 東京ドーム前の白山通りに、壱岐坂下という交差点があります。これは新壱岐坂下と呼ぶべきもので、本来の壱岐坂下は一つ水道橋寄りですが、小石川邸を抜けた神田上水は、その本来の壱岐坂下で白山通りに出、そこで右折して南下していました。そして、水道橋手前で左折、外堀通りを東に向かい、右折して懸樋で神田川を越えるというコース取りでした。ただ、この間の数百メートルは、通りの下に石樋(石垣樋とも)を敷設したもので、→ 「寛永図」などを見ても、水戸藩邸以降の上水は描かれておらず、上水完成同時から暗渠だったものと思われます。なお、表題の元吉祥寺は水道橋の北東付近の旧名で、当地にあった吉祥寺が明暦の大火で駒込の現在地に移転して以降、そう呼ばれるようになりました。

 

Motokichi1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

1007a

    1. 東京ドーム21番ゲート前から壱岐坂下方向を写しています。途中、クリスタルアベニュー前で、小石川大下水と交差していました。 

1007c 1007b

    2. 元の壱岐坂下で右折、水道橋を目指して南下します。

1007d

    3. 水道橋に向かう白山通りです。江戸時代に比べ、右手に拡張されているので、元の通りはこの左手にあったはずです。 

1007f 1007e

    4. 外堀通りとの水道橋交差点で左折します。なお、右写真左手の都立工芸高校のあたりが吉祥寺の旧地です。

 <元吉祥寺石樋>  「元吉祥寺前上水道御普請、入札ニ被仰付候間」「元吉祥寺下上水道大吐樋並桝、今度石樋ニ被仰付候間」「今度元吉祥寺下上水道大渡樋御普請、入札被仰付候間」 これは延宝5年(1677年)の町触ですが、この当時のものか不明ながら、元吉祥寺の神田上水幹線の石樋(石垣樋)が本郷1丁目先の外堀通りで発掘され、復元されたものが水道歴史館と隣接する本郷給水所公苑に→ 展示されています。この石樋の構築方法ですが、まず幅300~350cm、深さ140~170cmの溝を堀ります。その底面に砂と粘土を敷きつめ、側面には間知石4段を積み上げるやり方で、結果石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmとなりました。そして、これには長さ180cm、幅30~60cm、厚さ20~30cm前後の石蓋がのせられていました。

 


小石川大下水

2019-02-27 05:48:59 | 神田上水

 水戸藩上屋敷での神田上水の流路に戻ります。後楽園から表御殿に向かった上水は、表御殿のほぼ中央を斜めに横切り、谷端川・小石川を排水路化した大下水と交差します。「小石川 ・・・・流末は水戸殿屋敷内を通し仙台橋下を流れて神田川に落入れり 、『江戸志』に、小石をほき小川幾流もあるを以小石川と名付と書し」(「御府内備考」) 屋敷内の大下水の幅は9尺程で、その上を上水は懸樋で越えていました。「小石川水戸様御屋敷之内・・・・上水懸戸樋御普請」 これは寛文6年(1666年)の町触の一節です。なお。「水戸紀年」などを見ると、大下水は度々氾濫していたようで、寛延2年(1749年)には5、6尺の浸水を記録しています。

 

Ogesuim19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。東京ドームを薄グリーンで、外堀通りなどをグレイで重ねています。  

1006a

    ・ 東京ドームシティ  大下水とクロスしていたところから振り返っての撮影で、東京ドームの中央を横断した神田上水は、正面の21番ゲートあたりから流れ出していました。

1006b

    ・ 東京ドームシティ  こちらは大下水の流路方向のショットで、右手からの神田上水とクロスしたあと、正面のクリスタルアベニュー沿いに南下していました。 

0307c

    ・ 神田川  水道橋から上流方向の撮影で、右手の防災用の船着場のところで、小石川大下水は神田川に合流していました。上掲写真から300mほど南下したところです。

小石川後楽園3

2019-02-26 08:10:47 | 神田上水

 昨日UPした大泉水や大堰川の余水はそのまま南下、園内南際を流れる龍田川、木曽川を経て、小石川御門の上流で神田川に注いでいました。この余水落ちの部分は、築園当初は深く幅もあり、三代将軍家光が小舟で乗り入れたこともあったと、「後楽記事」(元文元年 1736年)は書いています。「御舟入 このなかれ大泉水の末ならひに大井川の末なり。古老の曰、この水むかしは水かさも深く広して舟のかよひもなりたる処なり。昔将軍家大猷公御狩野還御の節はかならす小石川御門前より小舟にめしかへられて御園のうちゑ乗いらせ給ふ処なり。この流百間長屋東辺を出て小石川御門前へ出るなり。近年は水もほそくなり流も狭くなりたるとそ」

 

Koisimonm19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

1005a

    ・ 龍田川  大堰川の流末は左折し、大泉水と南側の築地塀の間を東に向かいます。その前半が龍田川、後半が木曽川と名付けられています。なお、引用文の百間長屋は築地塀の外にありました。  

1005b

    ・ 内庭  南東の一角はかって書院のあったところで、唐門によって大泉水のあるブロックとは分けられていました。内庭の大半を占める蓮池の水は、→ 寝覚の滝によって木曽川に落ちています。  

1005

    ・ 神田川  小石川橋から上流方向で、一帯は市兵衛河岸と呼ばれる荷揚場でした。余水の合流地点には現在、水道橋分水路の吐口が設けられています。

小石川後楽園2

2019-02-25 06:58:59 | 神田上水

 神田上水は大泉水をはじめとする大小の池や流れに、水を供給する役割も果たしていました。そのためのルートは大きく三つで、白糸の滝から大泉水に至るものをメインに、西側の通天橋から大堰川、西湖堤への流れ、そして、東南隅の内庭にも池がありますが、これは唐門で仕切られていました。これらの余水は、園の南側を流れる龍田川、木曽川を形成し、その流末は小石川御門近くで神田川に落ちていました。

 

1004a

    ・  大泉水  回遊式泉水庭園の中心をなすもので、中央に蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖をイメージしているそうです。

 後楽園内の配水のうち、その工夫において特筆すべきは、通天橋から大堰川への流れで、元は上水の水を水車でくみ上げ、音羽の滝で落としたものでした。「清水の堂立たる山は高さ六七丈、谷に飜車をしかけ高田上水道の水を巻上て、山上の御手洗に絶すなかるゝけしき、殊には滝の流細くつたひて段々に落下るせゝらき、すゑは泉水清涼たる汀に蛇籠をも置つゝけたる風景、さなから大井川、嵐山の古き跡みる心ちなれや」(「東都紀行」 享保4年 1719年) 

 

0305b

    ・  通天橋  大堰川に架かる通天橋を振り返って撮影しています。左手台上にはかっては清水観音堂が建っていました。(通天橋から流れ出る大堰川は→こちらでどうぞ。奥は渡月橋です。)

 引用したのは元禄5年(1692年)当時の様子ですが、元禄年間には後楽園の景観を一変させる事態が相次ぎます。一つは五代将軍綱吉の生母、桂昌院の来園にあわせ、危険が及ばないようにと、大石奇石を取り除いてしまったこと、もう一つは、元禄16年(1703年)の大地震及びその六日後の火災で、地震によって上記水車の工夫も崩壊してしまいました。「大地震以来はこのたきの水筋破損してけれは水もかれたり。・・・・このからくりも絶てなし。只石の水盤のみ残れり」(「後楽記事」 元文元年 1736年)

 


小石川後楽園

2019-02-23 05:56:03 | 神田上水

 後楽園内に入った神田上水は、深山幽谷をくねりながら流れ、ほどなく円月橋に差し掛かります。二代光圀が寛文5年(1665年)に招いた明の遺臣、朱舜水の設計になるというこの橋、日本最古の石造りアーチ橋だとか。この円月橋をはじめ、西湖堤、廬山を模したところなど、庭園には中国趣味が散見されますが、これは光圀の代になって採り入れられたものです。「後楽園」という名前自体、朱舜水の発案で、出典は漢詩(「岳陽楼記」)の一節、「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟」(「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」)だそうです。

 

Koraku1

    ・ 小石川後楽園案内図  園入口の掲示板にあるものですが、→ 「実測図」の描く池の形状、水路の配置とほぼ同じなので、江戸時代の様子を留めているのだと分かります。  

1003a

    ・ 神田上水  円月橋を流れ出るところです。その後上水は二手に分かれ、本流は東に向かいます。もう一流は南に折れ、白糸の滝を経て大泉水へと至ります。 

1003b

    ・ 神田上水  東京ドーム方向に向かう本流です。上水を取り巻く風景は一変し、藤棚、梅林、稲田、菖蒲田といった里山や田園の趣を持った空間が広がります。 

1003c

    ・ 神田上水  雑木林の中に流れ込みフェイドアウトします。実際は舞台裏に水生植物を使った→ 水浄化装置(10年ほど前撮影)があり、その浄化水を循環させているようです。