神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

小淀橋

2018-02-28 06:19:16 | 神田川4

 本郷村地内で分岐した用水に架かっていたのが小淀橋です。→ 「中野村絵図」で淀橋と並んで描かれている橋で、江戸時代からそう呼ばれており、「武蔵名勝図会」は「淀橋より往来十八間をへだて、小溝に架す」と書いています。「江戸名所図会」に「淀はしハ成子と中野との間にわたせり、大橋小橋ありて・・・・」とあるように、淀橋とワンセットの小さい方の橋の意でした。その規模は「豊多摩郡誌」(大正5年)では「構造石造 延長三間幅員三・五間」となっていますが、「中野町誌」(昭和8年)の橋梁リストには登場しません。かわって名所旧跡の項に、「近年道路改修の際埋められて全く形を失えり」とあります。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 淀橋水車」 「淀はしハ成子と中野との間にわたせり、大橋小橋ありて橋より此方に水車回転る、故に山城の淀川に準へて淀橋と名付へき旨台命ありしより名とすといへり、大橋の下を流るるは神田の上水堀なり」 

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    ・ 小淀橋跡  かっての青梅街道は、淀橋を渡ったあとやや北側にふくれていました。そのため、小淀橋は正面ビルの左手前付近に架かっていたものと思われます。 

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    ・ 青梅街道  淀橋から中野坂上に向かってのショットです。次の信号のあたりを小淀橋の架かる用水が流れていました。淀橋と小淀橋の間は「中野町誌」では20間です。 

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    ・  小淀橋の親柱(?)  親柱と同じデザインのものが中野坂の中腹角にあります。淀橋のものに比べだいぶ小ぶりなだけに、小淀橋の遺構かもしれません。

淀橋

2018-02-27 06:17:04 | 神田川4

 「淀橋 東の方村界にて神田上水に架す、幅三間長十間許」(「新編武蔵風土記稿」) 「板橋 角筈村ニアリ淀橋長七間幅三間三尺」(「東京府志料」) 「淀橋 青梅街道上本町(淀橋町)の西端中野町との境を流るゝ神田上水堀に架したる木橋にして長六間幅三間あり、明治四十一年十二月中架換へたるものなり」(「豊多摩郡誌」) ここまでは木橋でしたが、昭和18年(1943年)発行の「中野区史(上)」では鉄筋コンクリート橋です。「大正十四年七月、青梅街道改装と共に幅員十間の鐵筋混凝土橋に改造せられ、上には西武電車が通り(これは大正十四年以前からである。が、最近市電となった。)交通上の規模も大きくなり、利便を加えたが、往時の景致は失はれてしまったことは惜むべきである。」

 

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    ・ 淀橋  右上は大正9年撮影の木橋時代の淀橋、左下は大正14年に架け換えらた淀橋で、中野坂下を通る西武電車も写っています。「中野町誌」(昭和8年)に掲載されているものです。 

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    ・ 淀橋  一つ上流の豊水橋からのショットです。右手は東電淀橋変電所で、今クールの最後に扱う予定の神田上水助水路の合流地点です。 

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    ・ 淀橋  平成17年に新装なった淀橋ですが、親柱の→ 裏には大正14年の文字が刻まれ、当時のものを再利用した旨書かれています。 

 <名前の由来>  豊島郡、多摩郡の余戸を移住させたので「余戸橋」、中野、柏木、角筈、本郷の四村が接するから「四所橋」、水ないし通行人が淀んでいるので「淀み橋」といった諸説ありですが、いちばん有名なのは三代将軍家光命名説です。かっては「姿身ずの橋」と呼ばれていたが、鷹狩に訪れた徳川家光が、景色が淀橋に似ているのでそう命名したというものです。「姿身ず」云々については、例の中野長者伝説が関係しています。中野長者、鈴木九郎は莫大な財産を隠したが、その発覚を恐れ、手伝った家来を殺してしまった。その姿が見えなくなったので、「姿見ず」というものです。あるいは、この悪行の報いからか、可愛がっていた娘が婚礼の夜、橋のあたりで身を投げた、というのもあります。大正の初めごろまで、花嫁行列は淀橋を渡るのを避けたそうです。

 


左岸の用水

2018-02-26 06:20:15 | 神田川4

 → 「中野村絵図」にも描かれた「本郷村地内の堰」(「新編武蔵風土記稿」)からの用水は、同図にもあるように神田川の左岸を並行し、途中桃園川の左岸流とともに、上落合村境までの田圃を灌漑していました。うち、桃園川の左岸流と合流して以降は、その延長としてすでに扱ったので、今回は末広橋西で桃園川緑道に出会うまでが対象です。といっても、その大半は昭和に入ってからの宅地化によって失われ、青梅街道までの区間が本一東通りとなって残っているに過ぎません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 豊水橋から下流方向で、奥は淀橋です。数十メートル下流で左岸に分岐していたはずですが、その痕跡は失われています。

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    2. 本一東通りと通称される通りですが、ここから水路跡と重なります。

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    3. 左カーブの上りに差し掛かりますが、その先は青梅街道です。 

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    4. 青梅街道には小淀橋が架かっていました。正面の建物の裏は→ 駐車場で水路跡はありませんが、奥の段差に沿っていたものと思われます。

中野村用水

2018-02-24 06:18:36 | 神田川4

 昨日も引用した「新編武蔵風土記稿」の中野村に関する記述ですが、「用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ」とあるうち、前半の神田上水に関しては、水利の項で次のように敷衍しています。「水元は吉祥寺井ノ頭池より出、又遅野井村善福寺池より出、雑色、和田両村の境にておち合、本郷村をへて村の東境を流れ、上落合村に注ぐ、此水末は江戸関口に達す、毎年三月より八月まで願主を立、本郷村地内にて堰を設所々の水田に引用ゆ」 「本郷村地内の堰」からの用水は、 → 「本郷村絵図」の右上隅に描かれ、→ 「東京近傍図」では神田川の左岸を並行しています。

 

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    ・ 「中野村絵図」  中野区立歴史民俗資料館の「常設展示図録」(平成元年)に収録されている「中野村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、神田川流域のある東半分をイラスト化しました。

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    ・ 神田川  豊水橋から下流方向で、正面奥は青梅街道に架かる淀橋です。「本郷村地内の堰」はこの下流に設けられ、左岸に用水を分岐していました。 

 ところで、「新編武蔵風土記稿」記載の中野村の水田は、冒頭で引用したように神田上水関係11町、「所々の清水」関係20町、合計31町あまりでした。それが「東京府志料」の数字では34町2反9畝12歩と3町ばかり増加しています。明治17年(1884年)の「田用水取調表」からその内訳をみると、神田上水関係が12町2反3畝7歩、「東多摩郡上井草村善福寺池分水」関係が13町2反4畝となっており、残りの9町前後は「所々の清水」が水源だったのでしょう。うち、「東多摩郡上井草村善福寺池分水」は、天保11年(1840年)に開削された新堀用水によって善福寺川からの助水を得た桃園川、「所々の清水」は中野駅北口付近から発する、上掲「村絵図」の左上の支流で、「中野町誌」などが谷戸川と呼んでいるものなどです。

 

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    ・ 桃園川緑道  小淀橋からのショットです。桃園川は左にカーブしながら坂を下りますが、坂下で右手からの用水と合流していました。

中野村

2018-02-23 06:16:08 | 神田川4

 「中野村は、郡の東にあり、郷庄の唱をうしなふ、江戸日本橋より行程二里半、・・・・村の広さは東西十六町、南北二十丁余、東は神田上水をかぎり、川の向は豊島郡柏木村なり、西は当郡高円寺村にとなり、南は本郷村、同新田、和田村等に接し、北は新井、上高田の二村に及び、豊島郡上落合村にもつゞけり、村内平にして土性は野土なり、用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ、旱損の時は上水も減し、自ら所々の清水涸るゝゆへ患少なからず、民家三百四十五軒」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は中野町当時の町、大字境です。

 「村名の起詳ならされど、此辺すべて武蔵野なればその中の村といふ意なるか、已に古くは上野、中野、下野共にありしが其後上下の名は失ひて中野のみ残りしなりと云、・・・・『小田原家人所領役帳』に七貫文島津又次郎中野内正歡寺とあり、又太田新六郎知行八十四貫文、中野内阿佐ヶ谷、土志田源七郎一貫文中野内大場など見えたり、これをもて見れば、阿佐ヶ谷、大場など何れも古くは当村の内に属せしか、又は此辺の村にて当村はことに広かりしかは、すべて中野といひ習はせしより、いつとなく中野の文字を負せて称することになりゆきしにや、既に卯右衛門が所蔵の文書に中野郷五ヶ村とみえたり」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

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    ・ 氷川神社  「氷川社 除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり、・・・・村内宝仙寺の持」(「新編武蔵風土記稿」) 桃園川を左岸から望む台上にあります。  

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    ・ 宝仙寺境内  「宝仙寺 境内一万五千五十二坪、往還の内小名中宿下宿の境にあり」(「新編武蔵風土記稿」) 手前の三重塔は、焼失した寛永13年(1636年)建立のものを模して、平成4年に建てられました。 

三村境

2018-02-22 06:13:56 | 神田川4

 本郷堰で分岐した右岸の田用水は、前回UPの→ 「第二回修正」にあるように、山手通りを越え現菖蒲(あやめ)橋付近で本流に戻っていました。その合流地点は→ 「本郷村絵図」からも読み取れますが、本郷、幡ヶ谷、角筈三村の村境に近く、また合流後の神田川本流は左岸本郷、右岸角筈両村の境を画していました。この事情は現行の行政区分にも引き継がれ、中野、渋谷、新宿三区の境が接しており、また以降の神田川は小滝橋下流まで中野、新宿の区境となっています。なお、本流が段丘に接するように流れ、流路を失った用水が本流に戻り、そこに村境が設けられているのは、毎度おなじみのパターンです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田川6」(1/18000)  オレンジ線は区境で、左上の中野区から時計回りに新宿区、渋谷区です。なお、渋谷区内から合流している谷筋については、シリーズを改めて扱います。 

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    ・ 本郷用水  本郷用水と並行するこの通りが、左手本郷、右手幡ヶ谷の村境ともなっていました。 左手から蛇行してきた本流に戻るのは、この先数十メートルのところです。  

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    ・ あやめ橋通り  区画整理時に開設された通りで、(橋名の由来は不明ですが)菖蒲橋が架けられました。現行の住居表示ではこの通りが左手中野、右手新宿の区境となっています。 

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    ・ 菖蒲橋  区境はここで右折し、神田川に沿います。なお、左カーブの先は相生橋ですが、「段彩陰影図」の谷筋にかかわる支流は、菖蒲・相生橋間で合流しています。

成願寺

2018-02-21 06:44:59 | 神田川4

 前回テーマの長者橋やその次の宝橋の名前の由来となったのは、中野長者、鈴木九郎の伝説で、左岸段丘上にある成願寺の創建と関わっています。「成願寺 ・・・・開基は正蓮居士俗称鈴木九郎と云、世に中野長者と称するはこの人の事なり」(「新編武蔵風土記稿」) 「中野長者正蓮墳墓 同じ境内叢林の中にあり、開基鈴木九郎の墓なり、其石塔今崩れて半ば土中に埋れてあり」(「江戸名所図会」) 

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 成願寺」  左下隅に流れるのが神田川本流、架かっているのが成願寺橋です。前々回の水車用水は後に開削されたものなので、門前にあるはずの水車橋ともども、「図会」には描かれていません。

 応永年間(1394~1427年)、熊野からこの地に移り住んだ鈴木九郎は一代で財をなし、中野長者と呼ばれるようになりました。彼にまつわるエピソードは数多くあり、たとえば未だ貧しかったころ、育てた馬を売りに千葉方面に行く道すがら、代金のうち宋銭の大観通宝があれば寄進すると、浅草の観音様に約束しました。希少なものなので、あってもごく少ないと考えたのかもしれません。それが、すべて大観通宝だったので、迷った末に全額寄進したという話があります。あるいは、坂上から一望できる限りの土地を十貫で買い占めた、との十貫坂にかかわるエピソードにも登場します。その中野長者がかわいがっていた娘を亡くし、供養のために屋敷にお寺を建てたのが、多宝山成願寺の創建伝承です。

 

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    ・ 成願寺門前  山手通りを隔てて成願寺の楼門が見えるこのあたりに、成願寺橋は架かっていました。なお、間の横断歩道は本郷水車に向かう道路のものです。 

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    ・ 成願寺境内  → 「東京近傍図」でみるように、境内の半分は山手通りの開通で失われました。なお、境内左手には→ 中野長者塚やその伝説を解説したパネルがあります。 

山手通り

2018-02-20 06:43:08 | 神田川4

 神田川は長者橋で山手通りを越えます。長者橋の名前が最初に登場するのは、昭和8年(1933年)に発行された「中野町誌」で、区画整理時に部分開通した山手通りの元となる道路に架けられました。当時は「橋長一一・三米 幅員五・九五米 橋種木橋」という小規模なものでしたが、青梅街道と甲州街道の間が連絡したのに伴い、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁リストによると、面積387.28㎡と大規模な鋼板桁橋に架け替えられました。山手通りの拡幅、山手トンネルの開通によって、さらに一回り大きくなったのはほんの数年前のことです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  現行の神田川をブルーで、山手通りをグレーで重ねています。同一場所、同一縮尺の「昭和3年第三回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 長者橋  一つ上流の東郷橋からのショットです。神田川は長者橋の先で左カーブ、北上して青梅街道に架かる淀橋に向かいます。正面奥の西新宿のビル群がだいぶ大きくなってきました。 

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    ・ 山手通り  右岸流(本郷用水)の位置から中野坂上方向です。手前の横断歩道は本郷通りのもので、奥が長者橋、そして数年前に全線開通した山手トンネルの中野長者橋出入口です。 

 <成願寺橋>  → 「本郷村絵図」→ 「東京近傍図」でみるように、山手通り開通以前の旧道にも橋が架けられていました。成願寺参道に至ることから成願寺橋と呼ばれ、この橋を基準に新橋、中ノ橋が命名されたのではと、新橋のところで推測しました。「東京府史志料」(「板橋二 本郷村ニアリ一ハ中ノ橋一ハ成願寺橋各長四間幅凡一間」)や「豊多摩郡誌」(「成願寺橋 構造木造 延長四間 幅員一・五間」)にありますが、「中野町誌」からは消え、代わって長者橋が収録されています。変わったのは橋名や規模だけではありません。蛇行する神田川を直線化したため、橋の架かる位置も80m近く南にズレています。

 


水車用水2

2018-02-19 06:05:47 | 神田川4

 元の中ノ橋下流で左岸に分岐し、本郷道と通称された通りと並行する水車用水の続きで、山手通りを越え相生橋手前で本流に戻るまでです。なお、氷川神社境内にある「本郷道改修記念碑」の解説プレートには、明治33年(1900年)から二年半かけて行われた本郷道の改修に関し、次のような記述がみられます。「この道は、本郷村の氷川神社の傍らを通る旧道で、村の中央を東西に貫き、成願寺裏から本郷水車場(現、本町一丁目1番2号)へ製粉、搗立用の穀物を運ぶ重い馬車や荷車が通いました。」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 山手通りを越えた先です。現在は相生通りと名付けられた通りへと連続します。

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    2. 右折すると菖蒲橋に出る、あやめ橋通りと名付けられた通りを越えます。

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    3. 水車用水はこのあたりで通りを離れ、右手にある水車小屋へと向かっていたようです。 

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    4. 水車のあった本町1-1-2はこの右手です。通りはすぐに相生橋を越えます。

水車用水

2018-02-17 06:05:39 | 神田川4

 中ノ橋は→ 「本郷村絵図」にも描かれた江戸時代からの橋で、「東京府志料」の橋梁リストにも、同じ名前で載っています。ただ、区画整理で神田川が直線化された際、橋の位置は南側に数十メートル移動しました。ところで、下掲「明治42年測図」には、元の中ノ橋下流で左岸に分岐し、段丘沿いの道に沿う水路が描かれています。現相生橋付近で本流に戻る手前に水車が設けられ、その用水として開削されたものでした。「本郷村絵図」はもとより、→ 「東京近傍図」にもないことから、明治に入って設けられたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 東京工芸大前です。神田川はこのあたりまで蛇行し、そこに中ノ橋か架かっていました。

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    2. 水車用水は右カーブで南に向かう本流から分かれ、東に向かいます。

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    3. 用水は本郷道と通称された通りの右手を並行していました。 

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    4. 山手通りを越えます。成願寺に向かう参道には水車橋が架かっていました。「木造 延長一・五間 幅員一・五間」(「豊多摩郡誌」)

区画整理3

2018-02-16 06:31:13 | 神田川4

 「中野区史下巻」(昭和19年)によると、中野区第二土地区画整理事業の概要は次のようなものです。整理組合の発足は昭和2年(1927年)、工事は淀橋町境から和田堀町境までの神田川流域15.9万余坪、その所有者117名を対象に、翌年早々に着工されました。昭和14年には検地処分を終え、総工費は昭和15年現在で概算87万円となっています。「都市計畫道路幅員一一乃至二二米の三路線を基準とし、區劃整理街路を通じ、また低地には土盛をなし、神田川の改修に伴うて、地區内土地の利用を阻害していた高壓線鐵塔を整理して神田川の上に跨らしめた。」

 

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 同じ「中野区史」の数字ですが、この整理事業によって、12万坪の宅地と4万坪の道路、水路用地を創出、うち道路、水路用地は従来の1.7万坪から二倍以上の増加となっていて、二つの「地形図」を見比べた印象と一致します。なお、引用文中の「都市計畫道路幅員一一乃至二二米の三路線」は、今日の中野通り、山手通りなどのことで、中野通りのところでも触れたように、事業地域のみ先行して拡幅、開通がなされています。

 

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    ・ 整地碑  昭和17年の日付のある中野区第二土地区画整理事業の記念碑が、藤神稲荷の境内片隅にあります。最近改修された藤森稲荷は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 神田川  花見橋から下流方向で、月見橋と中ノ橋が重なって見えます。花見橋、月見橋は区画整理時の創架、一方、中ノ橋は古くからの橋ですが、場所はだいぶズレています。 

新橋

2018-02-15 06:51:37 | 神田川4

 前回UPの→ 「本郷村絵図」で、神田川本流に架かる橋は三本ありますが、上流からいずれも現在名で新橋、中ノ橋、そして長者橋です。ただ、区画整理によって川も通りも直線化されたため、橋の位置は大部ズレています。これを「東京府志料」の橋梁リストと対比すると、新橋(長4間幅4間5尺)、中ノ橋と成願寺橋(いずれも長4間幅凡1間)です。新橋の名前の由来は一目瞭然ですが、どの橋にたいして新橋なのかは不明です。ただ、成願寺の参道に向かう成願寺橋が古くからあり、その次に架けられたので新橋、間に架けられたので中ノ橋との推測は可能です。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  現行の神田川をブルーで、本郷通りと中野新橋駅前の通りをグレーで重ねています。

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    ・ 神田川  千代田橋から下流方向で、奥に氷川橋、その先が朱塗りの新橋です。なお、下流から進行中の護岸工事はここまで完了、目下次の柳橋が工事中です。 

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    ・ 新橋  上掲「地形図」を見ると、区画整理前後で新橋の位置は変わっていません。古道に設けられた橋の場合、このようなケースが一般です。 

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    ・ 神田川  新橋から下流方向で、奥に桜橋が見えています。神田川はここで真東に向きを転じ、次の次の花見橋まで、200m強の直線コースです。

本郷村用水

2018-02-14 06:34:11 | 神田川4

 本郷村の水利に関して、「新編武蔵風土記稿」は「吉祥寺村井ノ頭池及び遅野井村善福寺池の二流、和田、雑色二村の界にて落合、村の西の方より村内へ入、東の方豊嶋郡幡ヶ谷、角筈両村の界に至る、此水に堰を設て引分所々の水田に沃く、村内にかゝること凡十町、角筈村の界にて上水に合す」と書いています。「此水に堰を設て」以下の記述は、すでに触れた本郷堰に関するものです。灌漑された水田面積は「東京府志料」の数字で11町9反9畝12歩、明治17年(1884年)の「田用水取調表」で11町6反8畝26歩、「本郷堰の址」に関する解説プレートの「当時十一町余の水田を灌漑していました」との記述と一致します。

 

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    ・ 「本郷村絵図」  中野区立歴史民俗資料館の「常設展示図録」(平成元年)に収録されている「本郷新田絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとにイラスト化しました。例によって田用水と村境を強調しています。

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    ・ 本郷通り  中野新橋駅前の本郷通りです。この付近の本郷用水は概ね本郷通りの左右を蛇行していました。なお、「豊多摩郡誌」によると、この付近に川島橋(石造、延長一間幅員一間)が架かっていました。 

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    ・ 新橋  上掲写真の交差点を左折すると百数十メートルで新橋ですが、そこから左岸方向のショットです。奥の横断歩道の手前付近が、別項で触れる雑色村飛地でした。 

 <新田と飛地> 「本郷新田は、本村の南の方にあり、いつの頃一村の名となりしや、その年月詳ならず、・・・・飛地三ヶ所あり一ヶ所は西北の方にあり、一ヶ所は東の方、又一ヶ所は東南の方にあり」 飛地が三ヶ所もある関係で、本村とはモザイク状にからみあっており、上掲「村絵図」では両者の境は省略しています。また、「村絵図」の氷川神社前にある雑色村飛地にも注目で、明治に入って中野村(のち中野町)が成立した際も大字雑色字新橋の飛地として引き継がれました。その周辺は左岸には珍しく田圃になっていて、雑色村によって新田開発されたのかもしれません。

 


本郷村

2018-02-13 06:32:49 | 神田川4

 「本郷村は、郡の東豊島郡の界にあり、郷庄の唱を失ふ、当村の開闢詳ならされども、村内に成願寺あるをもてみれば、古き村なることは疑ひなし、或は又中野村より分郷せしといへど、これも詳なることを伝へず、されど其村の名主卯右衛門が所持の文書に、中野郷五ヶ村などあれば、其村々の名は失ひたれどさもあるべきにや、広さは東西十八町、南北七町余、江戸日本橋より行程二里半、西は当村の新田及び雑色、和田の二村に接し、北は中野村につゞき、南は豊島郡幡ヶ谷村、東も同郡同村并に角筈村に及べり、地形は平にして水田は中央にあり、畑地はそのめぐりにつらなれり、土性はすべて野土、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で中野区が大半を占め、同細線は中野町当時の町、大字境です。 

 本郷の地名はある郷で最初に開拓され、本村となったところとされるのが一般で、文京区の本郷は湯島郷の本村と考えられています。当村の場合は、平安時代の「和名類聚抄」に見える多摩郡海田(あまた)郷、あるいは中世になって成立したとされ、引用文中にもあった中野郷がその候補となります。そのうち、中野郷は南北朝から戦国にかけての文献に見られ、熊野那智大社の文書、いわゆる「米良(めら)文書」のうち貞治元年(1362年)の願文に、「武蔵国多東郡中野郷大宮住僧・・・・」とあるのが最初です。大宮は和田村の大宮八幡のことでしょうから、中野郷は現在の中野区の範囲を越えており、また、新宿区に属する角筈、柏木を中野郷とする文書もあります。

 

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    ・ 氷川神社  「氷川社 除地、八百二十坪、村の北の方にあり、村の鎮守なり、・・・・福寿院持」(「新編武蔵風土記稿」)「近傍図」の中央やや北側、神田川の左岸段丘上です。 

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    ・ 成願寺  「成願寺 除地、五百六十坪、村の東の方にあり、多宝山と号す、禅宗曹洞派にて相州大住郡田原村香雲寺の末、御朱印五石を附せらる」(「新編武蔵風土記稿」) 

弥生町4の水路4

2018-02-10 06:00:05 | 神田川4

 仮に弥生町4(丁目)の水路と名付けた小支流の最後です。栄町公園、方南通り(栄町通り)を越え、その先端は南台2丁目に達しています。そこに谷頭と呼べるものは見当たらず、湧水があったとしてもごく小規模だったものと思われ、主要な水源は雨水のはけ水路だったのでしょう。なお、弥生町の名前の由来ですが、地域内の数個所から弥生遺跡が発掘されたことにちなむようです。本郷弥生町で発見された遺跡が弥生遺跡、その弥生遺跡が発見されたから弥生町、遺跡つながりで地名がコピーされたわけです。これに対し、南台の方はよくわかりませんが、南側にある台上というそのままの意かもしれません。

 

Yayoi4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 栄町公園の先で方南通りを越えた続きです。右カーブ、ついで左カーブで孤を描いています。

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    2. 狭い路地に入り突き当りを右折します。 

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    3. すぐに左折してクランクを抜けます。

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    4. 地図にも描がれていないような狭い路地ですが、何とか通り抜け可能です。 

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    5. 細長い小公園の横で終了です。旧幡ヶ谷村境までもう少しです。