神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井草前左岸

2016-01-30 08:56:06 | 妙正寺川2

 寺前橋から左岸に分岐する用水があります。→ 「東京近傍図」に描かれた左岸流が原型ですが、同時代の→ 「下井草村絵図」などと見比べると、井草川の左岸から回り込んできた側流と合流していたようです。区画整理時に切り離され、現在確認できるような流路になりました。中野区との区境(上鷺宮村との村境)を越えて続きますが、区境までを一区切りとして数回に分けてUPします。

 

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    ・ 妙正寺川  寺前橋から下流方向で、奥に上松橋がチラッと見えます。寺前橋は区画整理時に架けられ、左岸段丘にある等正寺がその名の由来です。

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    ・ 寺前橋  その左岸方向で、段丘に差し掛かる手前で道路右手の幅が狭くなっています。段丘上の等正寺は元和8年(1622年)湯島に創建、関東大震災に罹災後、当地に移転してきました。

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    ・ 左岸流跡  道幅が狭くなった右手に車止めという、典型的なカクカクです。ここから中野区との区境まで、このような水路探しの格好の教材が連続し、飽きることはありません。

 <大堰>  「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)には「妙正寺池の湧水と井草川との合流する所に大堰がありました。この堰下は水量が多く泳ぐのによい場所でした。当時は水がきれいでメダカが群れ、鮒が泳ぎ・・・・」といった思い出が書かれています。一方、文化3年(1806年)の「伊草村絵図」や同じく「杉並近世絵図」掲載の成立年代不詳の村絵図には、左岸流の分岐点に「水門(口)」と付記されており、また、落合橋近くの区教育委員会の解説プレートには、「下流の寺前橋付近にあった『清めの不動尊』を祀る大水門で、水垢離を取ったといわれ・・・・」の一文があります。これら水門、大水門も大堰にかかわるものと思われます。

 


井草前右岸4

2016-01-29 08:02:39 | 妙正寺川2

 日向上橋から右岸に分岐した用水を追っての四回目です。松下下橋から向井上橋にかけて、妙正寺川本流に沿ったあと、次の向井橋で再び右岸に離れます。そして、百数十メートル東に向かったあと、井草橋手前で本流に戻って終了です。そこから先、上鷺宮村境(現中野区境)で分岐するまで、右岸の用水は途絶えます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 向井橋手前で大きく左カーブする右岸の遊歩道です。用水跡を含んで幅広なのが徐々に狭くなります。

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    2. 向井橋で右折します。右写真は同橋から下流方向で、右カーブで再び東に向きを変えます。

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    3. 水路は通りの右手を並行していました。奥で右手の幅が狭くなるところがあり、それと分かります。

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    4. その幅広部分が途切れた左手に路地という、典型的なカクカクです。

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    5. 妙正寺川に突き当たって終了です。なお、川の向こう側の路地も、合流する水路跡ですが、数回後のテーマです。

井草前右岸3

2016-01-28 10:00:40 | 妙正寺川2

 旧早稲田通りを越えた右岸流の続です。向井上橋から向井橋にかけて、妙正寺川は左カーブでやや北上しますが、その前後で右岸流は本流に沿って並行します。右岸段丘が迫まり、流路の余裕がなくなったためで、 → 「東京近傍図」では、所沢道を越えた先の左カーブ手前で右岸流は本流に戻っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 旧早稲田通りを越えた先で左カーブ、北に向きを変えます。

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    2. 通りを越えたところで右折します。ワンブロックだけ左手が幅広になっていて、水路を含んでいるのだと分かります。 

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    3. 左折して松下下橋に向かいます。ただ、「区画整理後路線図」や上掲「空中写真」では、半ブロック先で左折しています。

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    4. 向井上橋の先です。この崖面と妙正寺川に挟まれて、用水が流れていたことになります。

井草前右岸2

2016-01-27 07:48:12 | 妙正寺川2

 日向上橋から分岐し、妙正寺川の右岸を流れる用水の二回目で、早稲田通りを越え旧早稲田通りまでです。途中、早稲田通りの北側を40mほど並行し、また旧早稲田通りの手前では左手に分岐し、松下上橋と松下橋の間で、妙正寺川に戻る水路があります。どちらも「区画整理後路線図」に描かれており、区画整理に伴い改修、整備されたものなのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 早稲田通りを越え、すぐに右折して通りの北側を並行します。現在は幅広歩道の一部となり、40mほど東に向かいます。

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    2. 早稲田通りの歩道から左手に離れます。その先に車止め付きの路地が顔をのぞかせています。

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    3. 旧早稲田通りとの間のワンブロックの半ばで、左手に分岐する路地があります。

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    4. 車止め付きの路地が50mほど北上、妙正寺川に突き当たって終了します。

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    5. 旧早稲田通りを越えた先にも、車止め付きの路地は連続しています。前々回UPした早稲田通りからのショットは→ こちらです。

井草前右岸

2016-01-26 07:21:22 | 妙正寺川2

 早稲田通りの一つ手前にある日向(ひなた)上橋から、右岸に分岐し、段丘沿いに東に向かう測流があります。これも→ 「下井草村絵図」→ 「東京近傍図」に描かれた右岸流の一部ですが、区画整理時に数回前の「右岸の用水」以下で扱った、清水用水の右岸流とは切り離されました。ただ、下掲「昭和4年測図」の描く田圃の南縁に沿っており、当時はなお灌漑用水の機能を維持していたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 日向上橋から右岸に向かう道路で、左手が水路を含んで広くなっています。右写真は下流方向で、奥は早稲田通りに架かる永久橋です。

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    2. ワンブロックで左折です。ここも道路左手が広くなっており、それが途切れた右手に車止めという、典型的なカクカクです。 

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    3. 水路単独の狭い路地はすぐに左折、その先には早稲田通りが見えています。

 <井草前>  表題の井草前ですが、下井草村の小名で、「新編武蔵風土記稿」には「巽(東南)の方天沼、下鷺ノ宮二村の方によりてあり」と書かれており、南は天沼村、東は鷺宮村と境を接していました。明治に入り豊多摩郡井荻村(のち井荻町)の時代は、大字下井草字向井草及び字松下となりました。ザックリいって、妙正寺川の左岸が向井草、右岸が松下でした。井草前にしろ向井草にしろ、下井草村の本村から見て前ないし向いにあるの意で、松下は松の大木あるいは松並木が関係するのでしょうがよく分かりません。なお、向井草は区制施行時には短縮され、向井町となりましたが、現在は向井の名が公園や橋の名に残るだけで、それ以前の井草前や向井草は失われました。松下も橋名に残るだけです。

 


新旧早稲田通り2

2016-01-25 07:50:43 | 妙正寺川2

 「井草の折り返し」と称される所沢道の迂回路が、→ 「東京近傍図」に重ねたようにショートカットされたのは、区画整理事業に先立つ大正10年代で、内務省復興局「大正14年測図」には、全体としては区画整理以前の様子が描かれる中、迂回路とショートカットが併存するという途中経過が反映されています。その後、区画整理事業が佳境に入った昭和初めには、所沢道の迂回路と井草道もショートカットされ、永久橋が架橋されます。「杉並の川と橋」によると幅が11mとあり、ショートカット後の旧早稲田通りに架かる松下橋、7.6mと比べても堂々たるもので、この時点で永久橋の通りのほうがメインとなりました。ただ、前回も触れたように、こちらが早稲田通りとなり、所沢道の後半部分が旧早稲田通りと呼ばれるようになったのは、昭和59年(1984年)以降のことです。

 

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    ・ 旧早稲田通り  天沼2交差点で早稲田通りと分かれるところです。バスの止まっている付近を右岸流が横切り、そこから妙正寺川に架かる松下橋までは100mほどです。

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    ・ 旧早稲田通り  左岸段丘の中腹にある旧下井草村鎮守、銀杏稲荷前からのショットです。奥に見える横断歩道のあたりを左岸の用水が流れ、そこから松下橋までやはり100mです。

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    ・ 妙正寺川  松下上橋と松下橋の間の妙正寺川で、奥に見えるのは松下橋です。その次には松下下橋もあり、松下は井荻村(のち井荻町)大字下井草当時の字でした。

 <松下橋>  「東京府志料」の橋梁リストにその名はありませんが、所沢道に架かっていたのは「石橋 向井草橋二所各長二間幅不同」と思われます。向井草も井荻村大字下井草の字で、妙正寺川を挟んで左岸が向井草、右岸が松下でした。二ヶ所とあるのは本流及び(おそらく)左岸流に架かっていた橋のことでしょう。なお、通りと橋の改修直前の大正5年(1916年)発行の「豊多摩郡誌」には、「井草橋 下井草字向井草にあり所澤道千川用水路(井草川)に架す 構造石造延長四間幅員三間」とあります。改修後松下橋となったのは、場所がズレて字松下に属するようになったからかもしれません。

 


新旧早稲田通り

2016-01-23 07:57:09 | 妙正寺川2

 早稲田通りは旧上下井草村のほぼ中央を西に向い、井草八幡前で青梅街道に合流しています。一方、旧早稲田通りは本天沼2丁目交差点で早稲田通りから分岐、旧下井草村の東端を北上して石神井方面に向かいます。江戸時代は後者が本線で、村絵図などに「所沢道」、あるいは「石神井道」などと書かれ、また「新編武蔵風土記稿」が下井草村のところで、「東北の界に所沢への道あり、豊島郡下石神井村より当郡中野村に達す。村にかかること十五町許」としているものです。これに対し、天沼2交差点以降の早稲田通りは、井草道と呼ばれる旧道をベースに、昭和の初めに整備されたもので、こちらが早稲田通り、北上するほうが旧早稲田通りとなったのは昭和59年(1984年)のことです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は杉並、中野の区境、細線は豊多摩郡当時の村や大字などの境です。

 上掲「近傍図」にも描かれていますが、所沢道が妙正寺川を越えるところでは、いったん上流に回り込み、越えた後でUターン(むしろ直角に近いVターン)するコース取りをしていました。旧道が谷筋を越える際のパターンで、傾斜を緩やかにするための工夫です。ターンしなければ西に向かう井草道、ターンすればいったん東に戻り、左カーブで北に向かう所沢道ということで、この交通の要所は「井草の折り返し」と通称されていました。

 

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    ・ 永久橋  早稲田通りに架かる永久橋は、区画整理時に通りの整備に伴い創架されました。永久橋の名に違わず、当時としては群を抜く規模の幅員11mのコンクリート橋でした。

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    ・ 妙正寺川  永久橋から下流方向で、奥に架かるのが日向(ひなた)橋です。所沢道が妙正寺川を越えていたのは、日向橋と次の松下上橋の間くらいと思われます。

右岸の用水2

2016-01-22 07:51:38 | 妙正寺川2

 区立科学館の南側で、水路跡の遊歩道の右岸(東側)に分岐する路地があります。「昭和22年空中写真」を見ると、右岸段丘沿いに東に向かう水路があり、現沓掛小学校キャンパスを横切って左折、寺前橋で妙正寺川に合流していますが、その分岐部分と重なっています。これも前回のものと同様、→ 「下井草村絵図」→ 「東京近傍図」に描かれた右岸流を、区画整理で改修した後の痕跡と思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 科学館南で左カーブし、妙正寺川を目指す遊歩道です。右手に分岐する路地があります。

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    2. 沓掛小学校で中断します。右写真は右岸段丘からのショットで、水路は段丘の際にありました。 

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    3. 沓掛小の東で左折、ここも道幅の変化が特徴的です。ワンブロック先で前回の水路とクロスします。

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    4. 寺前橋で妙正寺川に合流します。右写真は下流方向で、奥の橋が前回最後の上松橋です。

右岸の用水

2016-01-21 07:20:00 | 妙正寺川2

 明治初めの→ 「下井草村絵図」→ 「東京近傍図」を見ると、沓掛、清水両用水は途中合流して妙正寺川に向かう、現在確認できる流路のほか、清水用水の右岸流が東に向きを変え、そのまま妙正寺川の右岸を流れ、間の水田を灌漑しているのが分かります。こちらも区画整理時に付替えられましたが、今回から数回に分けて、その痕跡をたどってみます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 現在は失われていますが、「区画整理後路線図」には、ここで左折し50mほど北上、さらに右折して東に向かう水路が描かれています。

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    2. 科学館の南側の道路です。水路はこの左手を並行、遊歩道となっている本線とクロスします。

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    3. 沓掛小学校のキャンパスで中断します。同校の開校は昭和28年(1953年)、井草田圃の一角を造成したものです。

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    4. 沓掛小学校の東側です。すぐに次回テーマのもう一本の右岸流とクロスします。

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    5. 道幅の変化から道路左手に水路があったのが分かります。右折して妙正寺川(上松橋)に向います。

清水口

2016-01-20 07:11:44 | 妙正寺川2

 清水用水をさかのぼっての三回目で、清水窪と通称された自然の谷頭を抜け、青梅街道の四面道に面してあった分水口までです。最後の区画は人工的な開削と思われますが、明治9年の→「下井草村絵図」と変わらぬ流路が確認できます。なお清水口の清水ですが、下井草村字沓掛内の通称で、文字通り湧水地だったところです。昭和7年(1932年)の杉並区の発足に伴い、正式な行政区分名に格上げされ、現在の住居表示にも引き継がれました。大震災後に売り出された新興住宅街としては、イメージに合っていると考えられたのでしょう。たびたび御世話になっている「荻窪風土記」の井伏鱒二も、昭和の初めに清水に居を構えた一人です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 幅広の道路の突き当りに、水路単独の路地が顔を見せています。すぐに左折して南に向います。

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    2. 右写真は左手(右岸)からのショットで、奥の環八との間の谷筋が確認できます。

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    3. 次のブロックです。このようにワンブロックごとに車止めでガードされています。

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    4. 右カーブでやや西寄りに向きを転じます。このカーブは下井草村絵図にも描かれています。

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    5. 清水口のあった四面道排水場の裏まで来ました。四面道側からの写真は→ こちらで、右手の白い建物の裏にあたります。

清水用水2

2016-01-19 08:10:34 | 妙正寺川2

 清水用水の続きで、清水頭と通称される窪地に差し掛かります。「杉並の通称地名」によると、清水1-24~28付近には、清水の湧出するところがいくつもあり、うち1-28には10㎡ほどの池がありました。降雨後に湧水を見ることもあり、同書は地下に宙水層があるのではと推測しています。清水用水はこの窪地を連続するクランクで抜けていて、狭い路地と幅広の道路からなる「カクカク」が交互に現れます。なお、「千川用水2 / 清水用水」のところでUPした→ 写真は3.から4.を南側から撮ったもので、左手の一角が清水1-28になります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 清水森公園の先で一本になった水路をたどって南に向かいます。

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    2. 右折すると、その先の道路右手が水路を含んで広くなっています。最初のカクカクです。

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    3. ワンブロックで今度は左折です。左折後も道路右手が幅広になっています。

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    4. 道幅が狭まったところで右折です。ここからツーブロックは水路単独の狭い路地になります。

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    5. 車止めの路地を抜けて左折です。ここでも道路右手が広くなっています。

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    6. 5.の右写真の奥で、右手の幅広が途切れていますが、そこで右折です。右折後の道も右手が広くなっています。

清水用水

2016-01-18 09:29:53 | 妙正寺川2

 妙正寺南を西に向っていた遊歩道に戻り、左手から連続して合流する水路をたどります。水路は二本並行していますが、150mほど先で一本にまとまり、青梅街道と環八が交差する四面道交差点の北東角までたどることができます。→ 「段彩陰影図」からも見て取れるように、(清水頭と通称される)自然の谷筋に千川上水の助水を落とし込んで出来た、寛政6年「星野家文書」のいう「下井草村清水田養水」です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 妙正寺の南を西に向う遊歩道に戻り、左手から合流する水路をさかのぼります。

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    2. 左手の清水森公園は元は屋敷林で、緩やかな起伏のある段丘斜面には、コナラ、エノキなどの落葉樹、シイノキ、サワラなどの常緑樹が繁っています。

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    3. 清水森公園を過ぎてすぐ右折します。正面には西側を並行するもう一本の水路が見えています。

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    4. 1.から40mほどのところにある、もう一本の水路の合流地点です。

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    5. 右写真は清水森公園方向のショットです。この狭い谷筋を田圃にしていた時代もあったのでしょう。

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    6. 東側の水路の分岐していたところです。ここから先の清水用水はこの一本です。

日産跡地2

2016-01-16 07:54:56 | 妙正寺川2

 日産自動車工場(旧中島飛行機東京工場)跡地付近から発し、沓掛用水と合流する水路を追っての二回目です。現在の桃井3丁目の大半、およそ9ヘクタールの敷地を有していた日産自動車荻窪工場は、平成10年に閉鎖されました。その跡地は東西に大きく二分され、東半分4ヘクタールは「桃井原っぱ広場」と称する防災公園となり、残る西半分は都市再生機構や民間のマンション、スーパーなどの敷地となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 引き続き、ブロックごとに車止めのある路地を西に向います。右写真は右手(北側)からのショットで、このあたりまで谷筋が確認できます。

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    2. 1.から2.にかけて、やや左カーブで南寄りに向きを変え、日産跡地を目指します。 

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    3. 桃井原っぱ公園に突き当たって終了です。右写真の奥にチラッと見える茂みは観泉寺境内のものです。

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    4. 桃井原っぱ公園は平成23年開園、4ヘクタールの広大な空間は、周辺の消防署、警察署、病院等と連携した避難拠点に予定されています。 

 <中島飛行機東京工場>  中島飛行機東京工場が当地に建設されたのは、井荻町の区画整理事業さなかの大正14年(1825年)のことです。零戦や隼のエンジン開発などを行いますが、戦後の中島飛行機の解体に伴い、東京工場は富士精密工業、プリンス自動車、日産自動車へと引き継がれました。富士精密工業時代の昭和30年(1955年)には、日本のロケット第一号となるペンシルロケットのフライトに成功しています。(青梅街道に面した一角には、長さ230mm、重さ230gの→ ぺンシルロケットが展示されています。)

 


日産跡地

2016-01-15 07:32:20 | 妙正寺川2

 前々回の左折地点に戻り、ほぼ直線で西から合流している水路跡をたどります。→ 「段彩陰影図」を見ても、自然河川(ないし吐け水路)としてはこちらのが本線と思われます。先端の日産自動車工場(旧中島飛行機東京工場)跡地付近に湧水のあったことが推測され、あるいは、「星野家文書」の成立した明治10年以降、大正末の中島飛行機東京工場建設までのある時期、千川上水からの助水を得ていた可能性も考えられます。その当否はともかく、少なくとも中島飛行機建設後は、工場用水の排水路として機能していたのは間違いないでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前々回、沓掛用水を追って左折した写真の再掲です。今回は正面(西)から合流している水路をたどります。

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    2. ワンブロック先です。右写真は左手(右岸)方向のショットで、→ 拡大してみると、沓掛用水の谷筋が分かります。

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    3. 次のワンブロック先です。ワンブロックがほぼ等間隔なのは、昭和の初めの区画整理の結果です。

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    4. 八丁通りを越えます。右手の中通公園は昭和52年(1977年)の開園です。

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    5. ワンブロックごとの車止めが続きます。なお、公園名に残る中通は区制制定時の町名で、それ以前は中通道北と中通道南に分かれていました。

杓屋口

2016-01-14 07:47:58 | 妙正寺川2

 沓掛用水を追っての続きで、環八通りを越えた先で左手からの合流がありました。→ 「段彩陰影図」を見ても、自然の谷筋を利用しているのは明らかですが、その先端は青梅街道の→ 八丁付近にあり、このルートで→ 「千川用水 / 杓屋口」で扱った千川用水の助水を受けていたものと思われます。ただし、青梅街道に面する個所の水路の痕跡は失われているため、確実なところは不明です。なお、杓屋(しゃくや)口の名前は、「星野家文書-千川用水関係資料-」中、明治10年(1877年)の「千川用水組合樋口伏替願」にあり、柄杓屋(ひしゃくや)口とも呼ばれました。付近に柄杓を商いする店があったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 右手の段差が徐々に低くなってきました。このあたりまでが自然の谷筋なのでしょう。

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    2. 道路左手の歩道が水路跡になりますが、ここから3.にかけて、水路と上下井草村の境は重なります。 

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    3. 桃井公園の西縁に沿い、その先の植え込みで終了です。

 <沓掛>  沓掛(くつかけ)は下井草村の字で、「新編武蔵風土記稿」は「これも同じ辺(柿ノ木と同じ村の中程のこと)にて、少く南にあり」と書いています。青梅街道から妙正寺川に至る一帯を指し、妙正寺池の近くに沓掛小学校が現存します。明治に入り井草村大字下井草の小字に引き継がれ、昭和7年(1932年)の区制実施の際も沓掛町となりましたが、南半分が清水町となって範囲は半減しました。さらに、現行の住居表示では環八通りの東側が早稲田通りまで清水になり、沓掛の名前は失われました。
 名前の由来は不明ですが、杉並区教育委員会「杉並の地名」は、街道沿いによくある地名なので、所沢道等に関係があるのではと推測しています。この所沢道(石神井道)は「新編武蔵風土記稿」が下井草村の項で、「東北の界に所沢への道あり、豊島郡下石神井村より当郡中野村に達す。村にかかること十五町許」としているもので、早稲田通り(大場通り)から旧早稲田通りへと至る経路と重なります。