神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

山王社

2014-09-30 07:39:38 | 城西の堀川2

 山王神社(現日枝神社)は文明10年(1478年)、太田道灌が川越山王社を江戸城内に勧請して創建しました。天正18年(1590年)、家康の入国に際して、江戸城の鎮守、徳川家の産神となりました。その後、江戸城拡張に伴い、城内紅葉山から城西の貝塚(元山王)に遷り、さらに明暦3年(1657年)の大火で社殿が焼失したのち、溜池を望む景勝の当地に移転、再建されました。この間の事情は一度引用した「落穂集追加」の「西御丸之事」に書かれています。「半蔵御門外御堀端に山王権現の社新に御建立・・・・殊の外繁昌仕候所、酉の年大火(明暦の大火)の節類焼いたし候以後、只今の山王の宮地へ御引移被遊候と也」 なお、日枝神社と改称したのは明治の神仏分離によってです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 日吉山王神社」  社殿は永田町方面に面しているので、溜池は画面の裏から左手にかけてということになります。

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    ・ 山王坂  永田町方面からの表参道に当たります。坂下が「図会」の中央下端に描かれており、正面突き当たったところで左折すると、男坂、女坂下に出ます。

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    ・ 男坂、女坂  急階段は男坂、奥の緩やかな方が女坂です。男坂の石段について、「江戸砂子」には53段とあります。

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    ・ 社殿  「図会」に描かれている社殿は昭和20年(1945年)焼失、現在のものは同33年再建されました。左手奥には対岸にあるTBSのビッグハットも見えています。

山王下2

2014-09-29 07:32:49 | 城西の堀川2

 山王下交差点の次の交差点は、地下鉄溜池山王駅のところに設けられていますが、その左岸から合流する谷筋があります。→ 「段彩陰影図」に重ねたように、江戸初期の溜池はこの谷筋に食い込んでいました。それが明暦の大火後山王社が当地に移転、造成された山下の低地も、山王社別当の観理院などが占めることになります。その際、排水用の大下水が設けられたたのでしょう。下掲「実測図」に描かれた水路はその名残と思われます。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部及び南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 外堀通り  地下鉄溜池山王駅のある交差点から、合流地点の左岸方向を見通しています。なお、明治35年にはここに溜池橋が架けられました。

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    ・ 首相官邸前  上掲写真の右手の一角は、江戸時代越後村上藩内藤家の中屋敷でしたが、現在は首相官邸になっています。

 <溜池渡>  「溜池渡 永田町二町目ヨリ赤坂田町四町目ヘ達ス 明治五年正月起立」(「東京府志料」) 当時の溜池には赤坂門、虎の門間に橋はなく、その代替として設けられたものでした。場所は上掲「実測図」の左端なので、現在の山王下交差点と山王溜池駅の中ほどということになります。ところで、明治初年の溜池は、なお幅25~107間(45.5~194m)もある広大な池でしたが、明治8、9年頃から水を落としたため、「実測図」のような干潟を流れる小川のようになってしまいました。渡し船の個所は通船可能にするため、この干潟を掘り込んでいるように見えます。なお、「1/5000実測図」の原図であるカラー版の該当個所には、「三王渡船場」の書き込みがあります。

 


山王下

2014-09-27 07:09:39 | 城西の堀川2

 赤坂見附交差点から外堀通りを400mほど南下すると、左手に日枝神社の鳥居が見えます。外堀通りに面して二つある鳥居のうち、北側にあるものですが、この前に溜池で最初の橋が架けられたのは明治9年(1876年)のことです。長8間幅3間の木橋で、日吉橋と呼ばれました。それ以前は赤坂門・虎の門間に橋はなく、明治5年に営業を開始した渡船があるだけでした。一人一厘五毛(人力車、荷馬は各々三厘)の橋銭が徴収されましたが、これによって対岸の田町から赤坂門や虎の門まで迂回する不便は解消されました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 日枝神社鳥居  日吉橋の架かっていたところです。ここから神社のある台上までは、左右に回り込んで、稲荷参道か西参道を利用することになります。

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    ・  外堀通り  上掲写真から100mほどの山王下交差点です。右手に分岐しているのが赤坂通り、左手に大鳥居が見えています。

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    ・ 日枝神社鳥居  笠木の上に合掌型の破風が乗る山王鳥居は日枝神社独自のものです。奥のエスカレーター付の山王橋で、直接台上に上ることができます。

溜池

2014-09-26 07:50:32 | 城西の堀川2

 「溜池 江城の西方赤坂のほとりの池を溜池とよふ。その水流るゝ事なく、よどむ水なればしかいふにや。『江戸鹿子』 昔此池水を江戸中の水道に引注ぎし事は、既に上水の條に弁ぜり。案に古は殊に広き池なりしにや、永禄二年改の『北条役帳』に、島田衆(島津衆)太田新次郎弐貫三百文桜田池分を領するよし載たり。桜田は虎の門内より山王辺までの古名なれば、桜田池分と云もの今の溜池なるべし。」(「御府内備考」)

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 城西の堀川3」 薄いブルーは「寛永江戸全図」や「正保年中江戸絵図」に描かれた江戸初期の溜池、濃いブルーは「1/5000実測図」や切絵図を元にした、江戸末から明治初めの溜池です。

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    ・ 弁慶堀  弁慶堀と溜池を連絡する暗渠の水路のあったところで、数回前にUPの→ 「1/5000実測図」にも点線で描かれています。

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    ・ 外堀通り  出雲松江藩上屋敷跡にある、エクセル東急前の外堀通りです。通りの幅とこの区間の溜池の幅はほぼ一致していました。

 <溜池と上水>  「見しは昔、江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は十二年以前(慶長8年ごろ)まて大海原なりしを、当君の御威勢に、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。然るに町ゆたかにさかふると云へ共、井の水へ塩さし入、万民是をなけく。君聞召、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流を西南の町へなかし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給う。」 「慶長見聞集」(慶長19年 三浦浄心)中の「江戸町水道のこと」の一節で、冒頭にある「御府内備考」の「上水の條」でも引用され、「山王山本の流」を「今の溜池なり」と注記しています。「備考」にはありませんが、「武州豊嶋郡江戸庄図」にある「溜池 江戸水道之水上」との書き込みが、この裏付けとしてよく引用されます。なお、承応元年(1652年)の玉川上水の開削によって、溜池の上水機能はお役御免となり、その頃から埋立てが始まりました。 

 


喰違見附

2014-09-25 07:39:38 | 城西の堀川2

 「喰違御門 清水坂より紀州御中屋敷へゆく喰違土手の前なれば、かく名付しならん。『事跡合考』云、四ッ谷門の続き木戸喰違門は、小畠勘兵衛昌盛が綱也。先年より井伊掃部頭下館の後、彼木戸間際の榎の大木共は、勘兵衛逆茂木として植たるもの、今に至り数株しげりあるなりと、是台徳院殿(二代秀忠)御代始の事といへり。万治二年所々の御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし、『万治年録』に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん。今は仮そめの冠木門となれり。或は喰違土橋とも称す。」(「御府内備考」) 小畠(小幡)勘兵衛は昌盛の子で、「甲陽軍鑑」の編者である景憲の間違いでしょう。なお、赤坂門のところでも参考にした「東京市史稿」収録の史料によると、「喰違小升形」は寛永13年(1636年)、讃岐丸亀藩生駒家が担当しています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 紀尾井坂  紀尾井町通りからの上り口です。左手は井伊家屋敷跡のホテルニューオータニ、右手は尾張家屋敷跡の上智大学です。

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    ・ 喰違見附跡  江戸時代のクランクはS字に緩和されています。右手の土塁は四ツ谷駅まで続くお花見スポットとなっています。

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    ・ 真田堀(四谷堀)  戦後の瓦礫処理で埋立てられ、現在は上智大グランドに貸与されています。(休日には一般公開されています。)

清水谷2

2014-09-24 07:39:04 | 城西の堀川2

 清水谷公園の先で、紀尾井町通りはT字路に突き当たります。左右どちらも上り坂で、左手は喰違見附に出る紀尾井坂、右手は平河町に向かう清水谷坂です。うち紀尾井坂の名は江戸末の切絵図にもみえ、紀州、尾州、井伊三家からその名が合成されたことは、紀尾井町の由来で触れた通りです。 → 「段彩陰影図」で見る谷頭はさらに北にあって、新宿通りに接するばかりになっていますが、昨日引用した「江戸名所図会」が、「麹町八丁目へ出る坂下までも清水谷の内なり」としているのはこのあたりで、下掲「実測図」には清水谷と書き込まれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 清水谷公園前の紀尾井町通りです。「実測図」にはこの両側に側溝が描かれています。

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    2. T字路に突き当たる紀尾井町通りです。右写真は清水谷坂方向です。

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    3. 北側の狭い通りの先です。この右手に水路が並行していました。なお、左手は上智大学キャンパスで、尾張徳川家の屋敷跡です。

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    4. 右手の坂を上ると、引用文にある麹町八丁目でした。

清水谷

2014-09-22 08:53:41 | 城西の堀川2

  → 「段彩陰影図」を見ると、弁慶堀に北から合流する谷筋があります。清水湧出るの意から清水谷と呼ばれるものです。「清水谷 紀州御上屋敷と井伊家の中やしきの辺を云。しみづは紀州の御やしきの内にありといへり。清水坂 尾州御屋敷の御門前の坂也。柳の井 清水坂の下に井あり。」(「江戸砂子」) 「清水坂 尾州公御館と井伊家の間の坂を云。清水谷と唱ふるも此辺の事なり。麹町八丁目へ出る坂下までも清水谷の内なり。此所の井を柳の井と号(なづく)るは、清水流るゝ柳陰といへる、古歌の意をとりてしかいふとなり。」(「江戸名所図会」) 該当する紀州、尾州、井伊の三家の屋敷から、明治5年(1672年)に紀尾井町が成立しました。清水谷の全域をカバーしています。

 

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    ・ 清水谷  弁慶橋越しのショットで、左手が井伊家屋敷跡のホテルニューオータニ。数年前の写真なので、右手の赤坂プリンスも健在です。  

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    ・ 紀尾井町通り  弁慶橋を通り、谷筋の底を縦断しています。この左右に並行する水路を描いている地図もあります。 

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    ・ 紀州和歌山藩徳川家屋敷跡  上掲写真の右手です。赤坂プリンスホテルが営業していた数年前の写真を使用しています。

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    ・ 清水谷公園   紀州藩邸のあった一角です。当地に居を構え暗殺された大久保利通の哀悼碑を中心に、明治23年(1890年)開園されました 

赤坂門

2014-09-20 07:21:12 | 城西の堀川2

 「赤坂御門 赤坂への出口なれば名とせしならん。『正保御国絵図』には赤坂口と註せり。」(「御府内備考」) 寛永12年(1635年)から翌13年にかけて、まず枡形石垣が出来ました。筑前福岡藩黒田家の担当で、石材は伊豆真鶴から搬送した旨記録されています。門の造営はやや遅れて寛永16年のことで、加藤正直、小川安則両名が普請奉行でした。この日程は江戸城北西の外郭門の場合と同様で、筋違、小石川、市ヶ谷、四谷、喰違の各門も同じ寛永16年の造営です。なお、明治に入り赤坂門は撤去され、その後の現青山通りの開通などによって、石垣の大半も失われました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 弁慶堀  弁慶橋からのショットで、堀の突き当たりに赤坂門がありました。右手の高架は首都高4号新宿線です。 

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    ・ 赤坂門跡  青山通りで南半分が削られた後の石垣です。平成3年の地下鉄工事の際、発掘された地中部分も地下に保存されているようです。

 <寛永13年、最後の天下普請>  慶長8年(1603年)の江戸幕府開府以来、数次にわたる天下普請により、江戸城は整備、拡張されてきましたが、その最後を飾ったのが寛永13年(1636年)のもので、これにより江戸城をめぐる外堀が完成し、外郭門が揃いました。うち外堀の担当は関東、東北の諸大名で、仙台藩伊達正宗、高田藩松平光長、米沢藩上杉定勝などを責任者に七組に分かれ、飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘抜きました。四谷から喰違までの分水界を掘抜いた四谷堀は、松代藩真田家が担当したため真田堀の別名が今に残っています。
 これに対し枡形石垣を担当したのは西国大名で、金沢藩前田利常、熊本藩細川忠利などを責任者に六組に分かれました。この時造営された枡形石垣と担当大名は以下の通りです。浅草(松平忠昌)、筋違(前田利常)、小石川(池田光政)、牛込(蜂須賀忠英)、市ヶ谷(森長継)、四谷(毛利秀就)、喰違(生駒高俊)、赤坂(黒田忠之)、虎の門(鍋島勝茂)、幸橋(細川忠利)。

 


弁慶堀

2014-09-19 07:14:44 | 城西の堀川2

 「弁慶堀と唱候御堀之儀者幅凡五十間ニ而喰違より赤坂御門際迄凡長三百間余右唱候儀者弁慶小右衛門と申者寛永年中堀割御請負仕候由右ニ付弁慶堀と唱候由申伝ニ御座候」(「御府内備考」) 桜田堀もまた弁慶堀と呼ばれることがあり、それとの区別からでしょうか、「御府内備考」は別の個所で「赤坂弁慶堀」と書いています。ところで、桜田堀を弁慶堀と称する由来として、「江戸砂子」に「弁慶小左衛門の縄はりゆへとも」とありましたが、一字違いのこれら弁慶某が同一人物かどうか定かではありません。いずれにしても、京都の宮大工の出身で、江戸幕府の大工棟梁の一翼を担った弁慶家ゆかりの人物なのでしょう。

 

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    ・ 弁慶堀  起点の喰違見附跡からのショットです。外堀はこの見附を分水界に、右回りの神田川水系と、左回りの汐留川水系に分かれます。 

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    ・ 弁慶堀  赤坂川の余水が弁慶堀に注ぐ、紀伊国坂下からのショットです。弁慶堀は彦根藩井伊家の中屋敷を巡っていて、現在はホテルニューオータニの敷地になっています。

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    ・ 弁慶橋  明治22年(1889年)の創架で、藍染川の埋立により撤去された弁慶橋の廃材を利用した、とのエピソードが残されています。→ 「平川、神田川5 / 弁慶橋」

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    ・ 弁慶橋  紀尾井町通りの左手は井伊家中屋敷跡のホテルニューオータニ。右手の紀州藩上屋敷跡には→ 赤坂プリンスホテルがありましたが、3年前に営業を終了し目下再開発中です。 

元赤坂町、赤坂伝馬町

2014-09-18 10:18:50 | 城西の堀川2

 寛永19年(1642年)頃とされる→ 「寛永江戸全図」で、紀州家屋敷から外堀(弁慶堀)に向う流れがありますが、その周辺にあった町屋が元赤坂町や表伝馬町、裏伝馬町でした。うち元赤坂町は赤坂内最古の町屋で、後の赤坂御門前にありましたが、寛永14年に代地となった当地に移転してきたものです。一方、表裏の伝馬町は赤坂門や外堀普請の土置場でしたが、寛永13年に南伝馬町の伝馬役三名が、入国以来の功によって当地を拝領しました。これらの町の書上によると、紀州家屋敷から流れ出た大下水は「幅六尺」、元赤坂町、裏伝馬町一丁目、表伝馬町一丁目を通り、田町一丁目へと向かっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 赤坂御用地東門前のこの路地から始めます。御用地をめぐる→ 側溝から、この路地に暗渠が通じているのでしょう。

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    2. 東京都下水道局の車止めの付いた路地は、ワンブロック、70mほどで終了です。なお、この左右が元赤坂町でした。

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    3. 紀伊国坂下です。外堀通りの先は弁慶堀で、そこに余水が落ちていたようですが、本流は右折して裏伝馬町一丁目へと向かいます。 

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    4. このあたりが裏伝馬町一丁目でした。 左手の三間土手を隔てて万年石樋の玉川上水が流れ、さらに三間土手を隔てて弁慶堀となっていました。

赤坂川

2014-09-17 07:14:15 | 城西の堀川2

 「大下水 紀伊殿御屋敷より流て来り、元赤坂町表伝馬町一丁目を通し、田町一丁目より明地上水堀の西を流れ、葵坂辺に至て溜池に合す、溜池落口の処を少しく幅広まりて、その形瓢に似たり、よりてひょうたん堀といへり、『江戸砂子』に赤坂川は鮫河橋の方より来りて、流末桜川に落ると書しは、此大下水の事なり、榎坂の辺より分派して、地中を堀通し、霊南坂の脇より桜川の方へ達せり。」(「御府内備考」) なお、「明地上水堀」というのは玉川上水のことで、四谷門外で城内に入るものと分かれ、右折して外堀沿いを南下する分流です。「喰違外元赤坂町の辺より、御堀端明地の内を堀通し、表伝馬町一丁目より埋樋と成り、それより又溜池明地内を流れて、南の方葵坂に達す、此上水元は大下水の西を流れしが、水利不便なるにより、文化八年今のごとく堀改められしなり。」(「御府内備考」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、元の外堀(溜池)を挟んで左が港区、右が千代田区ですが、「近傍図」当時は赤坂区と麹町区です。

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    ・ 赤坂見附交差点  外堀通りと青山通りの交差点を、赤坂見附跡横の陸橋から撮影したもので、外堀通りが谷筋にあるのが分かります。この谷筋を手前から外堀、玉川上水、大下水が流れていました。

 <赤坂>  「赤坂は元一ツ木中の小名なりしが、後年広く推及ひて惣名となりしなり、・・・・今赤坂と称する地域の大やうは、東の方御堀に限り、西は青山に接し、南は麻布に隣り、北は紀伊殿御屋舗に限たれと、昔は猶(なお)四ツ谷御門外辺まで一ツ木の地域なりしとみへ、・・・・」(「御府内備考」) 一ツ木は中世からのの地名で、「小田原衆所領役帳」に太田大膳亮の所領として「一木貝塚」の名がみえ、また江戸初期には鮫河橋も一ツ木村のうちであったことは、該当個所で触れたところです。
 ところで、赤坂の地名由来ですが、大きく分けて二説あります。一つは紀州家中屋敷辺がアカネの産地だったためアカネ山と呼ばれ、そこに上る坂を赤坂といったとするもので、「江戸名所図会」は迎賓館脇の→ 紀伊国坂を赤坂としています。もう一つは一帯が赤土の多い土地だったという説で、安芸広島藩浅野家屋敷(現赤坂サカス)付近と、その場所を特定するものもあります。

 


須賀神社

2014-09-16 06:08:00 | 城西の堀川2

 日宗寺のある谷頭を右岸から望むのが、江戸時代は四谷天王社、牛頭天王社と呼ばれた須賀神社です。「牛頭天王社 同所伝馬町一丁目、二丁目の間の左側の横小路を入て、二丁許り西にあり。故に俗字名(あざな)して此小路を天王横町といふ。祭神素戔嗚尊。」(「江戸名所図会」) 天王横町から東福院坂、別名天王坂を下り、その先が須賀神社です。なお、社伝によると、元々は清水谷にあった一ッ木村の鎮守の稲荷社で、寛永11年(1634年)、江戸城外郭拡張のため当地に遷りました。それから数年後、島原の乱の当時、輸送に従事し功のあった日本橋大伝馬町の人々が、甲州街道沿いを拝領して四谷伝馬町を起立ますが、その際、旧地の守護神である素戔嗚尊をこの稲荷社に合祀します。以来四谷地域の総鎮守、四谷天王社として信仰されてきましたが、例によって明治の神仏分離令によって、須賀神社と改称され今日に至っています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 四谷牛頭天王社」  源氏雲に覆われた右下のくぼ地が今回の谷頭一帯で、右下隅の妙行寺は日宗寺の南隣の寺院です。

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    ・ 須賀神社  参道を上って右手の鳥居、奥の社殿と位置関係は今も変わりません。ただ、「図会」に描かれた文政11年(1821年)竣功の社殿は、先の大戦で失われました。

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    ・ 須賀神社  その参道の中腹から谷頭を見下ろしています。正面が「図会」にもある妙行寺で、その奥が日宗寺です。前回の水路は両寺院の間に位置しています。

 <四谷>  「今四谷と称するの大様東は四谷御門御堀に限り西は内藤宿追分に及ひ南は紀伊殿御屋舗及ひ鮫ヶ橋千駄ヶ谷等に続き北は市ヶ谷大久保に境ひたれと地形多く犬牙して定かならす又内藤新宿ハ元四ッ谷の地なれと元禄年中新に宿駅を立られしより御代官の支配所となり四ッ谷外の地となれり」(「御府内備考」)
 地名由来は大きく二説で、四谷との表記から四番目の、ないし四つの谷説、そして四家との表記から四つの家説です。市ヶ谷(一ヶ谷)と対の四番目の谷説、「千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の四谷」(「江戸砂子」)、「東西南北とも谷有故に四ッ谷と号する」(「南向茶話」)などの四つの谷説に対し、「御府内備考」は「文字につきての憶説にして取べきものあらざれは」と切って捨てています。同書は四つの家説に立っていて、「右四家の内梅屋保久屋は子孫今に此地にあり」としています。

 


日宗寺

2014-09-13 06:32:14 | 城西の堀川2

 鮫河橋谷町表通りを流れる下水の水源は、「日宗寺境内池」でした。「下水 巾三尺 右者は町内表通地先を相流四谷南寺町日宋寺境内池より流出武家屋舗脇より元鮫河橋北町え相掛当町に入末者元鮫河橋表町之方に相流候」 これは一度引用し「御府内備考」の鮫河橋谷町の項の記述です。前回UPした「江戸名所図会」の該当個所を→ 拡大してみると、境内の鬼子母神堂の前に石橋が描かれています。この図だけではわかりずらいのですが、地図を参考に解読すると、鬼子母神堂を半円状に取り囲む瓢箪状の池があり、そのくびれに架かる橋だったようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 観音坂下を過ぎたところです。右手にあった町屋、愛染院門前の書上によると、ここでの下水の幅は二尺です。

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    2. ここで左折します。逆に右折すると東福院坂、別名天王坂です。

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    3. 30mほどで右折ですが、その先に重なる道路はありません。

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    4. 日宗寺です。右写真は左岸台上にある真英寺からのショットです。

戒行寺坂、観音坂

2014-09-12 07:03:01 | 城西の堀川2

 以下は「江戸名所図会」本文の引用です。「妙典山戒行寺 同所南に隣る、日蓮宗にして延山に属せり。寛永の頃迄は、麹町一丁目の御堀端にありて、常唱題目修行の庵室なりしが、・・・・明暦に至り此地に遷さる。・・・・此所の坂を戒行寺坂、又其下の谷を戒行寺谷と唱へたり。」 「潮干観世音菩薩 同所南寺町戒行寺の裏の坂口、真言宗錦敬山真成院にあり。・・・・本尊聖観音、作者詳ならず、一尺許の石の上に立せ給ふ。此台石潮の盈虚(みちひ)には必ず湿(ぬ)るゝとなり。」 汐干観音は汐踏観音ともいい、傍らの坂も観音坂のほか、汐干坂、汐踏坂などの別名があります。「江戸砂子」によると汐干の里、汐踏の里は一帯の古名でもあり、その名前にちなんで「台石潮の盈虚(みちひ)に云々」の伝承が発生したのかもしれません。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 日宗寺 戒行寺 汐干観音」

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    ・ 戒行寺坂下  通りは正面奥で左カーブしますが、そこが観音坂の上り口になっています。「図会」の右下にあたり、二つの坂の間はほんの7、80mです。

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    ・ 戒行寺門前  「絵図」にも描かれた門前の下水は、「巾弐尺五六寸程」でした。「戒行寺門前上の方より鮫河橋谷町え流行申候尤(もっとも)右は南寺町の悪水落しニ御座候」(「御府内備考」)

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    ・ 観音坂  左手が真成院ですが、右手中腹にある寺院の名から西念寺坂とも呼ばれます。なお、西念寺は伊賀者の棟梁、服部半蔵開基の寺で、境内には半蔵の墓があります。

鮫河橋谷町2

2014-09-11 08:45:18 | 城西の堀川2

 鮫河橋谷町で二本の水路が合流していたところまで戻り、「日宗寺境内池」を水源とする北側からの水路をたどります。こちらは「御府内備考」に「町内表通地先を相流」とありますが、日宗寺前からJR線の鮫ヶ橋通ガードへと向かう通りの、西側に沿って流れていました。この通りは地図上でもそれらしくクネッていて、水路跡なのは一目瞭然です。なお、鮫河橋谷町の起立は寛文4年(1664年)、それまで半蔵門、麹町あたりに居住していて、本所に代替地を与えられた伊賀者31人が、仲間の居住地である南北伊賀町に隣接した当地、「一ッ木村之内鮫河橋之田地」を希望したことによります。当初は鮫河橋新伊賀町と呼ばれていました。町奉行支配となったのは、他の元鮫河橋の町屋と同様、元禄9年(1696年)です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二本の水路の合流地点まで戻り、直進して北側の水路をさかのぼります。

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    2. このあたりから左手は鮫河橋谷町、右手は将軍警護の鉄砲隊である御持筒組の大縄地でした。

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    3. ここで右カーブですが、左折すると元鮫河橋北町です。「町内入口ニ而名目入江之橋共入之橋共申候」とあった板橋は、ここに架かっていたのかもしれません。

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    4. 鉄砲坂下に差し掛かります。坂名は上記の御持筒組大縄地によっています。

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    5. 次いで戒行寺坂下です。左手台上は四谷南寺町で、坂名となった戒行寺も現存します。