神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

丹波谷

2014-11-12 06:50:40 | 城西の堀川3

 「御府内備考」のいう水源は湖雲寺境内池ですが、谷頭はその南西200mほどの、六本木通りを越えた先にありました。丹波谷と呼ばれるものです。「町方北を丹波谷と相唱候儀者当時御書院番松平飛騨守様御組屋敷ニ而慶安元子年(1648年)始而岡部丹波守御組屋敷ニ相成候より前書之通相唱来候」 これは谷頭の南にあった不動院門前の書上げです。ただ、手元にある地図類では、延宝8年(1680年)の「江戸方角安見図」に、初めて「岡部丹波やしき」の書き込みが見られ、その後の切絵図などでは組屋敷(大番組屋敷)となっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 丹波谷入口  六本木通りの先の丹波谷に入る道路です。左手の寄席坂や六本木通りの上りに比べフラットで、谷筋になっているのが分かります。

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    ・ 丹波谷坂下  左折すると丹波谷坂です。→ 坂上の解説標識には、「明治初期この坂を開き、谷の名から坂の名称とした」とあります。

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    ・ 不動院  麹町平河付近にあり万治元年(1658年)当地に移転してきました。当初は境内地が狭かったため、附近の沼地を開拓したと伝えられています。

湖雲寺門前

2014-11-11 06:39:10 | 城西の堀川3

 「大下水 幅凡五尺 右者町内南側中程ニ有之南之方御武家屋敷境より北之方同所谷町之方え相流申候」 これは「御府内備考」の御箪笥町のところの記述ですが、その「南之方御武家屋敷」の先が境内に水源池を有する永山湖雲寺です。「大下水 巾三尺 右者町内(湖雲寺門前)表軒下を相流申候水上之儀者当初同寺境内池より流出其外近辺悪水共落合町内北之方石橋より谷町通え相流申候末之儀者愛宕下桜川ニ而夫迄凡拾四五町ニ御座候」 湖雲寺門前町は慶長5年(1600年)、四ッ谷仲殿町に起立しましたが、元禄8年(1695年)に御用地として召上げられたため当地に移転してきたものです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 旧湖雲寺門前  上掲「実測図」の右上の通りで、久国神社前から二百数十メートルのところです。左手の一角が湖雲寺門前なので、このあたりに「町内北之方石橋」が架かっていたのかもしれません。

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    ・ 湖雲寺境内跡  湖雲寺(「実測図」では江雲寺と誤記)境内の大半は駐車場になっていて、再開発が中断しているのでしょう。フェンスの奥に仮本殿が設けられています。

 <今井寺町>  湖雲寺門前の南隣にあった町屋が今井寺町で、今では六本木通りに隔てられています。→ 「城西の堀川3 / 麻布今井町」のところにあったように、承応3年(1654年)虎ノ門付近が上地となり、代わって当地に移転してきたものです。多くの寺院に囲まれていたことから寺町を称しました。この今井寺町から湖雲門前に下る坂がなだれ坂です。「坂 長凡壱丁程 右者元町之家前ニ而南之方市兵衛町より北之方湖雲寺門前迄下ル坂ニ而有之候得共名目無之里俗なだれと唱申候」(「御府内備考」)

 

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    ・ なだれ坂  坂上からのショットで、坂上の両側にあったのは市兵衛町でした。なおこの坂には幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあります。

今井三谷町

2014-11-10 07:18:39 | 城西の堀川3

 麻布谷町、御箪笥町は谷筋の左岸沿いにありますが、逆に右岸に食い込む小さな谷((→ 「段彩陰影図」で、六本木通りの南側)周辺に出来たのが今井三谷町です。「当町起立之儀者今井町ニ而申上候元地承応三午年(1654年)中御用地ニ相成当所え引移候後正徳三巳年(1713年)閏五月中町方御支配罷成申候且三谷町と唱候儀者往古此辺南谷北谷中谷と唱候谷合三ヶ所有之候場所え承応三午年中引移候己後三谷町と唱候由申伝候」(「御府内備考」) 今井町など他の今井村由来の町屋と同様、虎ノ門の普請に際し、代替地として当地に移転してきたものです。

 

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    ・ 六本木通り  首都高都心環状線と3号渋谷線が連絡する谷町ジャンクションです。前回の最後にUPした久国神社の南に位置しています。

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    ・ 道源寺坂  中腹にある寺院が由来の坂で、途中谷町ジャンクションで中断されますが、本来は久国神社前からの通りと連続していました。

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    ・ サントリーホール  道源寺坂から三谷町を抜け、霊南坂方面に出る坂が、このあたりを横断していました。「長七間斗弐段ニ相成幅弐間程雁木坂と相唱申候」(「御府内備考」)

 <今井と麻布2>  旧今井村に属する今井町などが麻布に編入された結果、麻布山善福寺周辺(現元麻布)が中心の麻布の範囲は、赤坂溜池と接するまでに拡大しました。「東南は大抵麻布新堀川(現古川)に限りて三田に対し、北は飯倉、赤坂に続き、西は渋谷、青山に境へり」(「御府内備考」) なお、麻布の表記は元禄3年(1690年)頃からで、それまでは小田原衆所領役帳」の阿佐布をはじめ、麻生、浅生、浅府などがあります。地名由来としては表記からは麻の布説ですが、「江戸砂子」はこれを批判しています。「此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は能(よく)麻の生る地にて、布の事にはあらず。又浅茅生といひて草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生也。」 

 


麻布谷町、御箪笥町

2014-11-08 07:02:03 | 城西の堀川3

 黒田家中屋敷の西隣にあるのが麻布谷町、その隣にあるのが御箪笥町で、前々回に引用した「御府内備考」にあるように、今回の大下水は御箪笥町から谷町、そして黒田家中屋敷へと流れていました。ただ、それを描いた地図類は未見なため、正確な流路に関してはよく分かりません。同様にその場所は特定できませんが、、この大下水には鶴ヶ橋という石橋が架かっていました。「石橋 長六尺巾壱丈余 右者町内中通横切下水ニ懸有之鶴ヶ橋と申伝候・・・・石之裏ニ鶴之形彫付有之候ニ付鶴ヶ橋と唱候儀と奉存候」 これは麻布谷町の書上ですが、御箪笥町のところにも「町内大下水え懸渡し候里俗鶴ヶ橋と申候」とあり、両町にまたがって架かっていたものと思われます。

 

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    ・ 南部坂  前回最後の写真の通りと連続する坂で、共に黒田家屋敷と麻布谷町の境となっていました。明暦頃まで、坂上に陸奥盛岡藩南部家の屋敷があったのが名前の由来です。

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    ・ 久国神社前  麻布谷町の鎮守だった久国神社前のこの通りが、同町から御箪笥町にかけてのメインストリートでした。前を横切る通りが両町の境を画しており、ここに鶴ヶ橋が架かっていたのかもしれません。

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    ・ 久国神社  当時は久国稲荷と呼ばれていました。境内に亀の井と称する井戸があったと「御府内備考」は書いています。おそらく鶴ヶ橋と対のネーミングです。

 <今井と麻布>  麻布谷町の起立は元和6年(1620年)、当初は今井谷村と称し、のち今井谷町、さらに麻布谷町となったと「御府内備考」にあります。「東は虎門外、南は西久保、飯倉、龍土、西は青山、北は赤坂溜池」(「新編武蔵風土記稿」)に及んだ旧今井村に由来する町屋は、今井町、今井谷町、今井三谷町、今井寺町、今井台町(のち市兵衛町)など今井を冠していますが、のちに南西隣の惣名である麻布に属することとなり、谷町の場合はシンプルに今井が麻布に代わっただけですが、新たに今井の前に麻布を付ける麻布今井谷町なども出現しました。また、地域からは赤坂に属する今井町は、その由来から麻布が冠されました。

 


黒田家中屋敷

2014-11-07 07:00:04 | 城西の堀川3

 前回引用の麻布谷町の書上に、今回の大下水の流路に関し、「東之方松平備前守様御屋敷内え相流申候」とあるように、麻布谷町の東隣りには筑前福岡藩黒田家の中屋敷がありました。下掲「1/5000実測図」の描く池は、その特異な形状から鴨猟用の池なのでしょう。また、→ 「谷端川・小石川3 / 祇園橋(氷川橋)」のところで、陸奥守山藩の占春園の解説にあった溜池黒田邸の庭園は、この大名庭園のこと思われます。明治に入り黒田家中屋敷は、隣接する肥後人吉藩相良家下屋敷などとともに、赤坂福吉町を形成しました。福岡と人吉から縁起の良い町名としたものです。現在は赤坂2丁目のうち、赤坂ツインタワーなどの高層ビルの建ち並ぶ一角です。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 六本木通り  六本木通りの右手、下り車線側の歩道です。このあたりは元の黒田邸内で、「実測図」には水路が描かれています。今回の大下水もその水源の一つなのでしょう。

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    ・ 南西角の道路  六本木通りから右手に入り、南部坂へと至るこの道路が、麻布谷町と黒田邸の境となっていました。現在は六本木(2丁目)と赤坂(2丁目)の境です。

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    ・ 黒田邸跡  旧黒田邸のほぼ中央に位置する無名坂の中腹から、坂下の赤坂ツインタワー方向のショットです。池のあったのは右手後方で、画面からは切れます。

 

 

 


榎坂下

2014-11-06 06:59:22 | 城西の堀川3

 榎坂下に戻ります。六本木通りに沿い、ここで赤坂川・桜川に合流する、大下水化した一支流がありました。「大下水 巾凡九尺 右者町内南之方御箪笥町より町内を横切東之方松平備前守様御屋敷内え相流申候里俗桜川と唱候往古者此辺沼地ニ而有之候処町屋ニ相成追々埋り水吐悪敷候間右下水相付候儀と奉存候」 これは「御府内備考」の麻布谷町の書上ですが、最後の「往古者此辺沼地ニ而有之候処町屋ニ相成」云々は、→ 「明暦江戸大絵図」の右下隅からも読み取ることができます。なお、麻布谷町は六本木通り沿いの谷筋(→ 「段彩陰影図」)に出来た町屋で、首都高3号渋谷線と都心環状線が連絡する谷町ジャンクションに、その名を留めています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 榎坂中腹、赤坂川との合流地点から、六本木通り方向のショットです。

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    2. 通りの右手を並行していた大下水を追います。江戸時代、この左右には常陸牛久藩山口家などの大名、旗本屋敷がありました。

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    3. 左折して六本木通りに出ます。大下水の流路は通りの右手ですが、正確なところは不明なので、この先の青点線は書き込んでいません。

幸橋門

2014-11-05 07:12:22 | 城西の堀川3

 「幸橋御門 古くは御成御門と云。寛永中の『江戸絵図』(「武州豊島郡江戸庄図」)には御成橋と註す。」(「御府内備考」) 徳川将軍家の菩提寺だった増上寺への道筋にあたることから、御成門と呼ばれたものです。幸橋のほうは橋名が先か町名が先か、よく分かりませんが、寛文頃門外に幸町があったといわれ、「寛文図」(寛文10年 1670年)には、御成橋と幸橋が併記されています。なお、引用文の「寛永図」(寛永9年 1632年)には、木橋のみで枡形は描かれていません。その数年後の寛永13年の江戸城外郭普請で、肥後熊本藩細川忠利が御成橋枡形を受け持っています。橋の規模は「東京府志料」当時、長五間幅四間の石橋でしたが、虎ノ門・幸橋間の外堀が埋立てられたのに伴い、明治30年代後半には撤去されています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 新幸橋跡  日比谷通りを越えます。ここに明治24年(1891年)架橋の新幸橋が架かっていました。昭和になって外堀川に架けられた→ 新幸橋とは異なります。

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    ・ 幸橋跡  左手は外堀跡に建つ第一ホテル、その前に幸橋が架かり、奥に幸橋門がありました。JR線の先の→ 土橋以降は、「平川、神田川」のシリーズで扱いました。

 <溜池、外堀の埋立て>  明治36年(1903年)の「市区改正新設計」は、この区間の外堀に関し以下のように公告しています。「幸橋ヨリ旧虎ノ門ヲ経テ、旧赤坂門鵜ノ首ニ至ルノ湟池 本項の湟池ハ、之ヲ埋築シ別ニ排水竇(とう)ヲ設ク、但、幸橋以西虎ノ門ニ至ル湟池沿ヒノ堤塘(ちくとう)ハ之ヲ除去スルモノトス」 これらの事業は明治37年から継続され、同43年に完了しました。結果虎ノ門・幸橋間の外堀は細長い宅地となり、その北側(霞が関側)に沿って、排水溝が整備されました。外堀のなかで最も早く埋め立てられたところです。

 


新シ橋

2014-11-04 07:14:48 | 城西の堀川3

 虎ノ門から200mほどのところに新シ橋が架かっていました。「武州豊島郡江戸庄図」には、同じ位置に無名の土橋がありますが、その後の江戸図からは消え、「寛文図」(寛文10年 1670年)で改めて登場する橋です。「新し橋 虎門と幸橋との間にあり。『治世略記』云、寛文八年四月当春火事に付、虎御門・幸橋御門間新規に橋かゝる、新橋と云ふ。」(「御府内備考」) この火事後の措置として、それまで不明(あかず)門だった馬場先門も通行可能となり、外桜田から大名小路にかけての移動が改善されました。なお新シ橋の規模は「東京府志料」の数字で「長十六間幅四間」となっています。

 

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    ・ 新シ橋跡  外堀沿いの二本の道路のうち、内側(北側)のもので、「寛永図」や「明暦図」にも描かれたクランクを今に残しています。

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    ・ 新シ橋跡  二本の道路のうちの外堀通り寄りのものです。ここもやはりクランクなので、正面ではなく左手の道路に連続します。

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    ・ 新シ橋跡  愛宕通り(愛宕下通り)方向です。次の交差点で外堀通りを越えますが、その先には次回のクールで扱う桜川が流れていました。

 <江戸の新シ橋>  周辺の橋に比べ新たに設けられたの意で、その意味では新橋が江戸で最初の新シ橋でした。通り町筋に架けられた四番目の橋で、日本橋、中橋、京橋に対してのネーミングです。この新橋は「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)に登場しますが、次の明暦3年(1657年)頃の「明暦江戸大絵図」には、もう一つの新橋が神田川に架かります。和泉橋と浅草橋の間の橋で、江戸時代には当地と同じく新シ橋と表記され、明治に入り美倉橋と改名されたものです。また、同じ神田川にはもう一つの新シ橋がありました。「寛文図」(寛文10年 1870年)で、のちの昌平橋(相生橋)の位置に描かれているのがそれです。ただ、それ以前の地図と場所が移動しており、周囲の橋に対しての新しさではなく、以前の橋と比べているのかもしれません。ちなみに、当地の橋が新シ橋となっているのは元禄3年(1690年)の「江戸御大絵図」からです。

 


虎ノ門3

2014-11-01 08:13:35 | 城西の堀川3

 江戸城外郭門の一つ、虎ノ門(虎御門)は虎ノ門交差点よりワンブロック桜田門に寄った、現霞が関3丁目交差点あたりにありました。慶長11年(1606年)に、江戸城外郭の石垣が主に西国大名によって築造されましたが、「東京市史稿皇城編」にはこの時虎ノ門を担当した大名として、豊後日出藩木下延俊、肥前佐賀藩の鍋島勝茂の名前が載っています。うち鍋島勝茂は慶長19年、寛永13年(1636年)にも虎ノ門の石垣、枡形構築も担当しています。その後、明暦の大火などで焼失、再建が繰り返され、特に享保16年(1731年)に焼失後は、渡り櫓は再建されなかったようです。明治6年(1873年)に門自体は撤去されましたが、その後一帯の通称として残り、昭和24年(1949年)には正式な町名(芝虎ノ門)として採用されました。

 

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    ・ 外堀石垣  旧文部省庁舎中庭に保存、展示されているものです。外堀はこのすぐ先で右折し、虎ノ門前へと向かいます。

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    ・ 桜田通り  上掲写真の石垣の先で右折、すぐに桜田通りを越えます。正面の建物の幅が外堀の幅、両側の通りは外堀沿いの通りと重なります。

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    ・ 桜田通り  霞が関3丁目交差点から旧文部省庁舎を見ています。虎ノ門があったのは、右手に上る三年坂下のこのあたりです。

 <虎ノ門の由来>  虎之門の名前は四神思想の白虎に由来するともいわれています。「大手御門を御城の正面となせば、右白虎の義にかなへり」(「御府内備考」) これに対し道三堀の辰の口を左青龍とするわけです。ただ、ごたぶんにもれず地名由来には諸説ありで、「御府内備考」は、虎は千里行くとも千里帰るの意で、太田道灌が命名したとの説を批判的に紹介しています。他に朝鮮から虎が送られてきた際、その檻を通すため門を広げたからとか、内藤家上屋敷にあった虎の尾という桜の木にちなむとかの説もあるようです。 → 写真は外堀通りと桜田通りが交差する虎ノ門交差点の北東角に設けられた虎ノ門の記念碑です。

 


虎ノ門2

2014-10-31 08:11:53 | 城西の堀川3

 左折後再び外堀通りを越える外堀ですが、その先には霞が関コモンゲートと呼ばれる、文部科学省と民間が同居する再開発地域があります。再開発に際して平成16年に実施された調査により、当地にあった日向延岡藩内藤家上屋敷の遺構と共に、外堀に面して設けられた高さ9mほどの石垣が、のべ70mほど点在して発掘されました。現在は敷地内3カ所にわたって、その一部が公開されています。なお、この区画の石垣構築は寛永13年(1636年)、備前岡山藩池田光政を組頭に、摂津三田藩九鬼、備中庭瀬藩戸川など13大名が担当し、石垣表面には担当した大名の刻印が残されています。→ 写真は豊後佐伯藩毛利家(毛利輝元から毛利姓を許されたが、一族ではない)の家紋の矢筈で、地下鉄虎ノ門駅入口に展示された石垣のものです。

 

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    ・ 外堀通り  昨日紹介した櫓台の展示されている三井ビル前から、左折後の外堀方向を見通しています。正面が霞が関コモンゲート、うちレンガ色の建物が旧文部省庁舎です。

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    ・ 外堀石垣  上掲写真の外堀通りの先には、同一直線上に三ヶ所、外堀の石垣が保存、展示されています。そのうち最も南側にある石垣で、外堀通りに面しています。

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    ・ 工部大学校跡碑  石垣の右手にあるのが、昨日UPの→ 「実測図」にも載っている、明治6年(1873年)創立の工部大学校(東京大学工学部の前身)の記念碑です。

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    ・ 外堀石垣  科学技術省などの入る旧文部省庁舎前に展示されているものです。→ 写真のように、地下鉄虎ノ門駅の出入口から、地下部分や水面レベルを見ることができます。

虎ノ門

2014-10-30 07:02:16 | 城西の堀川3

 溜池を出た外堀はクランクで虎之門(虎御門)に向かいます。外堀通りに面した三井ビル前の一角には、クランクの曲り角に設けられた隅櫓の石垣が保存され、外堀の櫓台はあとは筋違門と浅草門のみで、現存するのはここだけだと解説があります。江戸初期の当地は、外桜田門を起点とする小田原道筋にあたり、かつ上水利用の溜池があり、軍事上、都市生活上の要地でした。しかも、自然の起伏を利用することのできない低地ということで、あえてクランクにしてその角に櫓を設ける構造にしたのでしょう。因幡鳥取藩池田光仲が担当し、寛永13年(1636年)に構築されました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 外堀通り  堰のあった特許庁前から、外堀方向を見通しています。外堀は左カーブする外堀通りから若干離れた後、左折していました。

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    ・ 櫓台石垣  上掲写真の正面に見える三井ビル手前の、外堀通りに面したスペースに、隅櫓の石垣が保存されています。

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    ・ 金毘羅宮  左折する外堀の外側にあった讃岐丸亀藩京極家の上屋敷の屋敷神です。毎月10日には江戸庶民にも公開されていました。

ひょうたん堀

2014-10-29 06:55:45 | 城西の堀川3

 「大下水 紀伊殿御屋敷より流て来り、元赤坂町表伝馬町一丁目を通し、田町一丁目より明地上水堀の西を流れ、葵坂辺に至て溜池に合す、溜池落口の処を少しく幅広まりて、その形瓢に似たり、よりてひょうたん堀といへり、『江戸砂子』に赤坂川は鮫河橋の方より来りて、流末桜川に落ると書しは、此大下水の事なり、榎坂の辺より分派して、地中を堀通し、霊南坂の脇より桜川の方へ達せり。」 大下水(赤坂川)の開始にあたって、引用したことのある「御府内備考」の記述です。赤坂見附交差点から1.2kmほど南下して、そのひょうたん堀跡まで来ました。ただ、前回の最後でも触れたように、一帯はビルの敷地となって重なる道路もなく、痕跡をたどることはできません。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 溜池」  正面の通りが葵坂から続く葵坂通り、その奥がひょうたん堀(大溜とも)ですが、間に馬場があり、また玉川上水が流れていました。

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    ・ 特許庁前交差点  切絵図を重ねた→ 「1/5000実測図」から判断すると、ひょうたん堀はこのあたりで溜池に合流していたことになります。

 <榎坂>  「榎坂 溜池端明地に添ひ、霊南坂の方へ上る坂なり、此辺赤坂の地なりや今井の地なるや定かならされと、溜池にそえるをもて、姑(しばら)くこゝに出せり。」(「御府内備考」) 「江戸名所図会」は以前引用した「池の堤に榎の古木二三株あり、是を印の榎と名(なづ)く。昔浅野左京太夫幸長、欽命を奉して此所の水を築止めらる、其臣矢島長雲是を司り、堤成就の後、其功を後世に伝んため印にとて栽けるとなり」に続けて、「此堤より麻布谷町の方へ下る坂を、榎坂といへるも、前に述所の榎ある故とぞ」と書いています。

 

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    ・ 榎坂上  葵坂通り越しに榎坂上を見ています。正面奥がアメリカ大使館で、右手に下るのが榎坂、逆に左手に下るのが汐見坂です。

 冒頭で引用した「御府内備考」にもあり、また「実測図」にも描かれているように、大下水はひょうたん堀手前で分流していました。分かれた一流は榎坂に向かい、左折して坂のピークを伏樋で越え、汐見坂に抜けて桜川の水源の一つとなるのですが、その詳細は次回以降とします。

 


桐畑

2014-10-28 06:39:52 | 城西の堀川3

 明治に入り田町五、六丁目境となった地点に戻り、大下水(赤坂川)のウォーク&ウォッチを再開します。田町六丁目は江戸時代、溜池端芝御霊屋御掃除町、同永井町、同青龍寺門前町の代地でした。いずれも芝増上寺近くにありましたが、文化八年(1811年)に類焼後、増上寺などの火除地として召上げられ、当地に移転してきたものです。「当町(御霊屋掃除町代地)里俗桐畑と唱申候右者文化八未年五月中代地ニ不被下以前迄桐之木御畑ニ御座候ニ付一円ニ右之通唱申候」(「御府内備考」) 広重の「名所江戸百景」に「赤坂桐畑」のあることは、桐畑橋のところで一度触れました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. このあたりの右手は永井町代地でした。元は増上寺裏門通りにあり、名主の名前からそう呼ばれました。 

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    2. 横切っている直線的な通りは、上掲「実測図」にはなく、明治中ごろの市区改正事業によって開通しました。 

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    3. 六本木通りを越えます。右写真は溜池交差点からのショットで、正面のコマツビルの裏が大下水跡の道路です。 

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    4. 再開発中なため数年前の写真です。この先で溜池に合流するもの、桜川となるものの二派に分かれますが、ビルの敷地の下に埋もれてしまいました。

檜屋敷

2014-10-27 07:30:07 | 城西の堀川3

 今回の谷頭一帯を占めていたのは、長門萩藩毛利家の下屋敷でした。檜が多く茂っていたことから、檜屋敷と通称されたところです。「檜屋敷 六本木通りの西松平大膳太夫下屋舗に、檜の並木あるよりの呼名なり、よりてその近辺をも檜屋敷と唱ふ。」(「御府内備考」 ただし、麻布の項にあります。) 明治に入り陸軍の駐屯地となり、戦後は進駐軍が接収、昭和37年(1962年)から平成12年まで、防衛庁がおかれていました。防衛庁跡地は「東京ミッドタウン」として再開発され、その中心のミッドタウン・タワーは地上248mで、東京では一番の超高層ビルだそうです。なお、毛利家の屋敷地が谷頭まで拡張されたのは、明暦3年(1657年)10月のことで、その様子は→ 「明暦江戸大絵図」の「大膳新屋敷」の書き込みに反映されています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 檜町公園  昨日UPの最後の写真の正面です。上掲「実測図」では、大名庭園名残の池からの余水が、このあたりから流れ出しています。

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    ・ 檜坂  檜坂中腹から上掲写真の谷筋を見下ろしています。坂上は松平三河守(家康の孫忠直)の屋敷があったことから、三河台と呼ばれていました。

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    ・ 檜町公園  毛利家下屋敷には池を中心とした庭園があり、「清水亭」と呼ばれていました。「清水」は谷名とも共通しており、関連があるのかもしれません。

築地三軒家

2014-10-25 07:11:11 | 城西の堀川3

 氷川神社下まで戻ります。→ 「段彩陰影図」の描く三つの谷頭のうち、南側の六本木通りに近いものがテーマです。中ノ町から離れ南西に向かいますが、周囲は相変わらずの武家地で、築地三軒家と呼ばれていました。「築地三軒家 中ノ町より西に当れり、こゝに一ツ木町の飛地里俗三軒屋という町あるよりおこりし名なるべし。」(「御府内備考」) 尾張屋の切絵図、「今井谷六本木赤坂絵図」には、「三軒家」と書かれた通りの南側に、武家地に囲まれて「赤坂一ツ木丁」が描かれています。なお、同絵図では三軒家のさらに先に「清水谷」の書き込みもあります。今回の谷頭周辺の呼び名と思われますが、他の文献には見当たらず詳細は不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 本氷川坂下先の三叉路まで戻ります。以前は右折したところですが、今回は左折です。 

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    2. この左手が一ツ木町の飛地で、三軒家のほか西大沢の通称もありました。「元禄八亥年比迄者沼地沢地ニ而之有候」(「御府内備考」)

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    3. 突き当りを左折します。尾張屋の切絵図に「清水谷」とあるのはこのT字路です。

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    4. すぐに右折です。正面に檜町公園と、その背後の東京ミッドタウンの高層ビルが見えてきました。