神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

丸山谷

2018-07-31 06:12:11 | 落合・目白崖線

 おとめ山を流れ下る小川に関し、「豊多摩郡誌」は次のように述べています。「丸山谷流  大字下落合字丸山の北端より清水湧出し、流水屈曲して田用水となり、東耕地に至りて神田川に入る。」 → 「段彩陰影図」の山手線よりにある谷筋で、大きくカーブして南下するところを「流水屈曲して」」と表現したのでしょう。谷頭は二つあり、一つは藤稲荷の北側にある短いもので、西側のおとめ山公園内に保存、公開されており、「東京の名湧水57選」の一つとなっています。もう一つは右カーブしているほうで、途中宅地造成によって谷筋は分断されています。二つの谷頭からの流れはどちらも、弁天池(下の池)にいったん注ぎ、藤稲荷前で左岸流に合流していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 薬師道からおとめ山方向です。流れは右手に、→ 「図会」の鳥居や垢離場は左手にありました。

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    2. 弁天池(下の池)です。ここに北側と西側からの合流がありました。まず西側からのものをさかのぼります。 

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    3. 西側の区画にある細長い池です。2.と3.の間には蛍の→ 飼育室もあります。

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    4. 西側の谷頭です。ここの湧水は小川となって3.の細長い池に流れ込んでいます。

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    5. 弁天池の北側の区画で、官舎だったところです。谷筋に沿ってはけ水路が設けられ、雨水は弁天池に注ぐ設計になっています。

おとめ山

2018-07-30 06:06:18 | 落合・目白崖線

 藤稲荷の祀られている左岸台上はおとめ山と通称されています。漢字に当てると御留め山で、江戸時代将軍の狩猟場だったことから、一般の立ち入りが禁止されていたのがその由来です。→ 「下落合村絵図」当時は、旗本酒井家の屋敷地であり、明治に入り近衛公爵家が所有、大正の初めには南西の一角を相馬子爵家が入手します。相馬家は日本人最初の公園デザイナー、長岡安平に依頼して、回遊式庭園を築造、おとめ山公園の池や流れの配置は、この時のものが元になっているようです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 早稲田」  おとめ山公園を薄緑で、公園内の池をブルーで重ねています。公園の色に濃淡がありますが、薄緑で塗りつぶしたのが既存のおとめ山公園で、その外側の枠は平成26年までに整備され公開されました。

 上掲「地形図」は近衛、相馬両家が二分していた時代です。戦後曲折を経て、相馬家の所有地の大半は国有となり、当時の大蔵省は官舎とする予定でしたが、住民運動の結果その一部が公園となり、昭和44年(1969年)に開園します。そして今回、残りの官舎だったところも整備されました。一方、東半分の近衛家の所有だったところは、大正から昭和にかけて分譲され、近衛町という高級住宅街へと変貌しました。

 

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    ・ おとめ山公園  東南角にある新井薬師道に面した区画です。公園内の小川はこの上にある下の池(弁天池)にいったん集められ、この区画を流れ下るように設計されています。  

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    ・ おとめ山公園  二つある谷頭のうち西側のものです。 ここは「東京の名湧水57選」の一つで、下流に細長い池を形成、落合蛍の復活を目指す飼育室を経て下の池に流れ込みます。 

藤稲荷

2018-07-28 06:03:48 | 落合・目白崖線

 新井薬師道は藤稲荷下に差し掛かります。「藤稲荷と云山上に社あり、喬木生茂れり近き頃鳥居の傍に瀧を設て、垢離場とす、薬王院持」(「新編武蔵風土記稿」) 東山稲荷が正式の名称で、藤(富士)稲荷と通称されました。下掲「図会」はその藤稲荷下の新井薬師道を、今回の用水共々描いています。右隅の鳥居の脇には、「風土記稿」のいう垢離場が描かれ、小さな滝も設けられています。なお、「図会」からはよく分かりませんが、明治末の「郵便地図」などでは、坂の東側を流れ下る小川があり、左岸流に合流していました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 藤森稲荷社 東山いなりともいふ」  「藤杜稲荷社 同所岡の根に傍てあり。又東山稲荷とも称せり。霊験あらたなりとて頗参詣の徒多し、落合村の薬王院奉祀す」

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    ・ 東山稲荷境内  新井薬師道からのショットで、正面右手に赤い鳥居がチラッと見えています。数年前の写真で、現在はマンションに阻まれ薬師道からは見通せません。 

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    ・ 東山稲荷社殿  第二次大戦末に焼失し、昭和28年(1853年)に現在地に再建されました。「図会」の場所より数十メートル北西寄りです。 

 <落合蛍>  「此地は蛍に名あり、形大にして光りも他に勝れたり、山城の宇治、近江の瀬田にも越て、玉の如く又星の如くに乱れ飛で光景最奇とす、夏月夕涼多し」 これは「江戸名所図会」本文の引用ですが、→ 「江戸名所図会 / 落合蛍」には、「氷川」「田島橋」「上水川」の書き込みがあり、うち「上水川」は神田川のことです。氷川社や田島橋との方角、距離感から見て、藤稲荷下から神田川にかけての風景と思われ、段丘下の道は新井薬師道です。(左上には「永正十三年正月後奈良院御撰何曽(ナソ)  秋の田乃露おもげなるけしきかな 蛍」とありますが、稲の穂の垂れる様子から「穂垂る」、「蛍」という謎かけです。)  

 


下落合左岸3

2018-07-27 05:53:06 | 落合・目白崖線

 以下は下落合村の鎮守、氷川神社に関する「江戸名所図会」本文の記述です。「氷川明神社 同申酉の方、田島橋より北、杉林の中にあり。祭神奇稲田姫命(くしいなひめのみこと)一座なり。是を女体の宮と称せり。同所薬王院の持なり。高田の氷川明神の祭神素盞鳴尊(すさのおのみこと)なり。よって当社を合せて夫婦の宮とす。土俗あやまって在原業平および二條后の霊を祀るといふ、甚非なり」 その氷川神社前で、田用水は新井薬師道に再び沿い、落合崖線下を東に向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 氷川神社の先で、左手からの薬師道に再び沿うところです。なお、右手に向かうと田島橋です。   

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    2. 水路は通りの左手の段丘沿いにありました。奥の左手は落合第四小学校です。

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    3. 相馬坂下です。明治末におとめ山一帯を所有した相馬邸に向け切り開かれた坂です。  

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    4. 左カーブで段丘の際を回り込みます。このあたりから右手に、本流との連絡水路を描いている地図もあります。 

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新井薬師道

2018-07-26 06:49:36 | 落合・目白崖線

 西ノ橋を通る古道(新井薬師道)と並行する左岸流に戻ります。といっても共に新目白通り下に埋没し、正確にたどることはできません。途中、直進する左岸流に対し、薬師道のほうは左折、右折のクランクで北にシフトし、薬王院前を通り、両者が再び出会うのは氷川神社前です。今回は痕跡のはっきりしない田用水といったん分かれ、新目白通りから北に入り、薬王院前から氷川神社にかけての新井薬師道を歩きます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 落合惣図」  書き込みは活字に置き換えています。なお、ほぼ同範囲にある「明治42年測図」は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 新井薬師道  下落合歩道橋下で新目白通りから離れ、薬王院へと向かいます。正面奥の茂みは薬王院境内で、新井薬師道に面したその山門は→ こちらでどうぞ。  

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    ・ 新井薬師道  薬王院前で右折して東に向きを転じ、氷川神社境内の北側に沿います。右手奥の茂みは氷川神社、手前を左折すると→ 七曲坂です。 

 <七曲坂>  「左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数廻なればかく唱ふ」(「新編武蔵風土記稿」) 七曲はまた中井とともに、村を二分する小名でもありました。ところで、「若葉の梢」の作者、金子直徳には「富士見茶屋」という小文がありますが、以下はその中の七曲坂の由来についての記述です。「頼朝公和田戸山に御在陣の時、敵の軍勢をはかり給はんとて、七まがりに坂を開かせ給へりと也。上は鼠山、西は玉川と猪の頭の落合に行、柏木ゑもん桜へも近し」 もっとも、「若葉の梢」では「いかにも覚束なき説なり後人糺給へ」と、その信憑性に疑問を投げかけています。

 


聖母坂3

2018-07-25 06:27:55 | 落合・目白崖線

 「諏訪谷流 大字下落合本村旧諏訪神社社地付属山林より清水湧出し、流れて田用水となりまた農作場の洗場となり、流れて妙正寺川に入る。」(「豊多摩郡誌」) この「農作場の洗場」は前回UPの→ 「大正10年第二回修正」には描かれていませんが、東向きにカーブした谷頭付近にあったようです。その後、大正末から昭和の初めにかけて、宅地造成の過程でカーブ手前へと場所を変え、コンクリート製の洗い場兼プールとなりました。「十メートル四方ぐらいのコンクリート製の溜め池があった。近所の農家の野菜の洗い場であった。夏、子供達の水遊び場でもあり、湧き水なので水温が低く、唇を紫色にして、ふるえながら泳いだ。」(「おちあい見聞録」 平成元年 コミュニティ「おちあいあれこれ」)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。画面中央に写っているのが洗い場兼プールです。

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    1. 聖母坂の中腹から坂上にかけてのショットで、左手は聖母病院の建物です。諏訪谷の水路は通りの右手にありました。

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    2. 聖母坂通りの一つ東側の路地で、プールのあったのはこの左手です。右写真は右手崖上から見下ろしています。

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    3. 谷頭はこの右手にあり、そのほぼ中央に最初の洗い場が設けられていました。 

 <聖母病院>  聖母坂、聖母坂通りの名前の由来となった聖母病院は、昭和4年(1929)年にマリア奉仕会(のち聖母会)によって建設着工され、同6年に開院しました。二つの谷頭に挟まれた小高い丘を造成、開院当時の診療科目は内科、小児科、外科など5科目で、病床数は72床でした。(現在は15科目154床に拡大しています。)二つの尖塔が特徴の→ 旧館は、開院当時からのもので、東京都選定歴史的建造物に指定されています。なお、目白通りまで坂が切り通されたのは、聖母病院の開院直後のことです。

 


聖母坂2

2018-07-24 06:19:55 | 落合・目白崖線

 聖母坂西側の谷頭は西ヶ谷と呼ばれていました。崖上の西坂と同様、本村の西端にあるのが名前の由来です。この西ヶ谷の湧水を水源とする小流れに関し、「豊多摩郡誌」は次のように述べています。「西ヶ谷流 大字下落合本村西端竹木の雑林中より清水湧出し、流れて田用水となり、諏訪谷の流れと相合して妙正寺川に入る。」 明治末の「郵便地図」にも水路が描かれていますが、昭和の初めの聖母坂の開通や宅地造成で、聖母坂に近い後半部分は失われてしまいました。わずかに谷頭の底にある道路付近に、かっての名残を求めることができるだけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 西ヶ谷の谷頭の底にあるのは、聖母坂西側のこの通りですが、流路と一致するかは不確かなので、いつもの青点線は書き込んでいません。 

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    2. 聖母病院の関連施設の前です。道路は左カーブ、次いで右カーブとくねりながら北上します。

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    3. 道路は崖面に沿いますが、右写真のように崖面は右手にもあり、その上は聖母病院、聖母坂通りです。  

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    4. 上り坂に差し掛かります。右写真は坂上から振り返っての撮影です。

聖母坂

2018-07-23 06:00:39 | 落合・目白崖線

 西橋の北を流れる左岸の田用水には、聖母坂を流れ下る小川が合流していました。 → 「段彩陰影図」のほぼ中央にある、逆二等辺三角形の谷筋にかかわるもので、二つ並ぶ谷頭の間に昭和に入って聖母坂通りを切通したために、このような形状になってしまいました。元は各々に小川が流れ、坂の入り口で一つになっていました。「豊多摩郡誌」では、(向かって左から)西ヶ谷流、諏訪谷流と呼んでいます。→ 「下落合村絵図」でも並んでいる、西坂、諏訪明神が各々の名前の由来です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 西ノ橋北側からからさかのぼります。通りの左手に沿う聖母坂の流れは、奥から直進する左岸流とこのあたりで合流していました。 

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    2. 右カーブで新目白通りを越え、その先で西坂への上り口手前を横切ります。 

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    3. 諏訪谷、西ヶ谷二流の合流していた付近です。右写真は右岸からのショットで、谷筋の狭さが分かります。

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    4. 聖母坂の中腹です。二本の小川に挟まれて、別項の徳川男爵邸の池があったあたりで、それ以前は田圃でした。

 <徳川男爵邸>  前回UPの→ 「明治42年測図」で、聖母坂の谷筋の入口に徳川邸とありますが、これは尾張徳川の系譜の徳川男爵邸のことで、明治末に西坂の東側一帯に別邸を構えました。坂上にあった庭園は静観園と称され、特に牡丹が有名でした。「本園は明治四十一年来の経営にて其数七百種に上る、巍紫趙黄研を競ひ芳を争ふの壮観さである、・・・・盛時一般の愛玩観賞のために公開されて居る。」(「落合町誌」) また坂下の湧水を集めた池の上には藤棚が設けられ、こちらも名物だったようです。

 


下落合左岸2

2018-07-21 06:58:45 | 落合・目白崖線

 妙正寺川本流に戻り、昭和橋と氷川橋の間で左岸に分岐していた用水を追います。本流の改修もあって、分岐直後の痕跡は残されていませんが、途中西ノ橋から氷川神社に向かう古道(「豊多摩郡誌」では新井薬師道)と沿うところは、ある程度の流路が想像できます。→ 「落合惣図」の中で、薬王院のある台地の裾をめぐり、氷川神社境内の南縁から東へ回り込んでいるのがそれですが、ただ、薬王院から氷川神社にかけては新目白通りの一部となってなくなりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 分岐直後の左岸流は本流とほとんどで接して流れていました。右手は下落合駅前に架かる落合橋です。

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    2. 西ノ橋の北側で孤を描いている新井薬師道です。この右手を並行していたことになります。

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    3. 新目白通りに突き当たって右折ですが、ここから先はしばらく、新井薬師道も田用水も新目白通りの下に埋没してしまいました。

 <西橋>  → 「下落合村絵図」に描かれた本流に架かる橋は三つで、(上流から)寺斉橋、西橋、そして田島橋です。うち西橋(現西ノ橋)は比丘尼橋とも呼ばれていました。「井草川 ・・・・土橋を架す、比丘尼橋と号す長五間余」(「新編武蔵風土記稿」)  → 「上落合村絵図」には「西橋」と「ビクニ橋」が併記されています。比丘尼というのは尼僧のことで、美貌ゆえに出家を断られ、自ら顔を焼いて尼になったと伝えられる、泰雲寺の了然尼とのかかわりがいわれており、この故事は「江戸名所図会」にも取り上げられています。なお、「落合惣図」の中で、泰雲寺の北に描かれているのが西橋ですが、「図会」本文では「落合土橋 同所坤(ひつじさる)の方、上落合より下落合へ行道に架す」となっています。

 


不動谷3

2018-07-20 06:06:59 | 落合・目白崖線

 不動谷の谷頭には二つの湧水池がありました。前回UPの→ 「第二回修正」に描かれた、箱根土地の敷地内にあったのが一つ、もう一つは、その先にあった弁天(→ 厳島神社)の祀られた池で、いずれも不動谷に注ぐ小川の水源となっていました。前者は昭和10年代に始まった山手通りの工事で埋め立てられ、その痕跡は失われました。弁天池の方はさらに早く、大正末の第一文化村の分譲に際し、宅地造成されましたが、規模を縮小して昭和30年頃まで存続していたとの情報もあります。いずれにしても、弁天池の跡地は特異なすり鉢状の造形となっていて、今日でも見ることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 直線的に見通せる道路の先に、突然車止めと下り階段が出現、行く手を遮ります。  

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    2. 右手(左岸)から窪地の横を見通しています。幅25~30mはあるでしょうか。 

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    3. 窪地の底の道路です。左右とも普通の住宅が並び、この写真からは特異な地形は見て取れません。 

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    4. 70mほどで上り坂に差し掛かります。右写真は坂上から振り返っています。 

 <目白文化村>  箱根土地株式会社といってもピンときませんが、創業者は堤康次郎、西武グループを立ち上げた人で、箱根土地はのちグループの中核企業、国土計画(コクド)となります。1920年代前半、この地に本社を構え、一帯を目白文化村(当初は目白不動園)と称して、昭和の初めにかけ4次(5次とも)にわたって分譲しました。本社裏の今回の対象区域は、大正11年(1922年)に分譲を開始した第一文化村にあたり、地下電気、ガス、水道、下水道完備で、一区画標準100坪、区画数39区画が分譲されました。なお、この「目白文化村」のネーミングは、(本当は目白ではなく)落合に多くの文化人が居住するのに、大いに寄与したものと思われます。当初の「不動園」ではこうはいかなかったでしょう。

 


不動谷2

2018-07-19 06:05:48 | 落合・目白崖線

 不動谷を流れる小川をさかのぼっての二回目です。新目白通りを越え、狭い谷筋に入ってから二百数十メートルで、急な上り坂に差し掛かります。予備知識なしでは、谷頭に達したと勘違いしそうですが、山手通りの築堤に突き当たったにすぎません。山手通りは昭和10年代に着工し、戦争の中断をはさんで完成したもので、→ 「段彩陰影図」に見るように、不動谷を二分しています。ただ、通りより先の谷筋は浅くなっていますが、これは山手通りの開通に先立ち、大正末から昭和にかけて行われた、いわゆる目白文化村の造成の結果で、その詳細は次回に改めて扱います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  同一場所、同一縮尺の「大正10年第二回修正」は→ こちらです。

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    1. 落合第一小学校下です。右写真は対岸からのショットで、底の幅は20m前後しかありません。

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    2. いったん中断しますが、回り込んだ先で再開します。

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    3. 上り坂に差し掛かって中断します。正面のマンションの向こうは山手通りです。

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    4. 山手通りの先には池があり、不動園(のち目白文化村)を分譲した箱根土地の本社がありました。

不動谷

2018-07-18 06:00:14 | 落合・目白崖線

 → 「段彩陰影図」で、前谷戸の東に並行する谷筋が不動谷です。明治に入り、落合村大字下落合の字でもありました。→ 中井出世不動堂に祀られた円空作の不動明王と二童子の像が、かって当地に安置されていたのが名前の由来と言われています。この谷筋に水路のあったことは、→ 「東京近傍図」をはじめ、ほとんどの地図で確認でき、また「豊多摩郡誌」(大正5年)も「不動谷流 大字下落合字大原より清泉湧出し、流れて田用水となり、妙正寺川に合す」と書いています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 昭和橋の北にあって北上するこの道から始めますが、本流の改修もあり、本来の合流地点は特定できません。  

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    2. 中井通りと交差します。中井通りはこの右手で新目白通りに突き当たって終了です。 

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    3. 新目白通りを越えます。なお、左手の階段の先は右岸段丘に上る市郎兵衛坂です。 

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    4. 新目白通りの先です。右写真は霞坂を上った左岸台上からのショットです。 

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    5. 谷底にある路地を北上します。車止めこそありませんが、蛇行と段差が水路跡の特徴を留めています。 

下落合左岸

2018-07-17 06:38:21 | 落合・目白崖線

  → 「下落合村絵図」に描かれた下落合村の堰の場所は、寺斉橋と西橋の間にあって、中井通り沿いを流れてきた用水が、いったん本流に戻るところとなっています。明治以降の地図からこれに当てはまるのは、見晴坂下の現新落合橋付近で、「明治42年測図」では本流に戻る用水のみ描かれ、かわって、より下流から左岸への分岐がなされていますが、同時期発行のいわゆる「郵便地図」は、合流と分岐が重なった「村絵図」と同様の描き方です。ただ、いずれにしてもその後の本流の改修もあり、その痕跡をたどることは困難です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図 / 新井)」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中井通りに戻り東に向かい、見晴(みはらし)坂下で右折します。

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    2. 新落合橋です。妙正寺川は現在よりも南に蛇行していたため、本流に戻っていたのは奥の西武新宿線に近いところでした。  

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    3. 次の昭和橋は、二つ上流の大正橋と対のネーミングと思われます。ここに左岸から合流がありますが、次回のテーマです。  

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    4. 昭和橋と氷川橋の間で左岸に分岐します。右写真は一つ左手の道路で、左岸流と重なっているようにも見えますが。

前谷戸2

2018-07-14 06:41:33 | 落合・目白崖線

 前谷戸の谷筋をさかのぼっての二回目で、山手通りを越えその先の谷頭までです。谷頭付近に湧水があり、小川となって妙正寺川に流れ落ちていたことは、「おちあい見聞録」(平成元年 コミュニティ「おちあいあれこれ」)にも記載されています。「目白学園と御霊下から、富士銀行中井支店へ通じる道路沿いには、小さな泉が方々に見られた。・・・・山手通りと新目白通りの交差点から、中井駅へ向かって、緩い坂を少し下って来た所(バス停中落合)で交差している道路付近にも、泉が湧いていて、桐林の中を小川となって、妙正寺川に入っていた。」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 引き続き谷筋の底にある道路を北に向かいます。 

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    2. 右写真は右手の無名坂上からのショットで、深い谷筋にあるのが分かります。 

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    3. 山手通りを越えます。台地を切通してできた山手通りですが、この区画だけは切通しになっていません。 

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    4. 山手通りの先で、右写真は左手にある坂(山手坂)の中腹からのショットです。

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    5. 3、40mで上り坂(振り子坂)に差し掛かり、ここが谷頭なのが分かります。

前谷戸

2018-07-13 05:21:43 | 落合・目白崖線

 落合・目白崖線を「妙正寺川5」から引き継ぎ、(若干ダブりますが)山手通りを越えたところから再開します。一帯は明治に入り、落合村大字下落合字前谷戸と呼ばれました。谷戸(やと)は台地に刻まれた谷筋を指す普通名詞で、それに前がついているわけですから、前のほうの谷戸か、谷戸の前のほうなのか、いずれにしても谷筋と関わっています。→ 「段彩陰影図」で、中井駅の北側にあって、山手通りを二分しているのがそれです。谷筋は明瞭ですが、ここに水路を描いた地図類は未見なので、青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 山手通りの下をくぐります。左手は二の坂で、 一の坂はその奥にあります。

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    2. 山手通りを越えた先です。右折すると中井駅前から寺斉橋に向かう通りです。

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    3. 左手から谷筋の合流があります。右写真は左手に入る道路ですが、上り坂になっていないのに注目です。

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    4. 谷筋の底にある道路を北に向かいます。道路の右側が低くなっていて、水路があったとしたら右側です。