神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中丸の支流2

2019-04-27 16:32:41 | 谷端川・小石川2

 中丸、金井窪村境で合流する水路をさかのぼっての二回目です。300mほどの直線のあと、左折、右折のクランクで南側の通りにシフトします。昨日UPの→ 「明治42年測図」で見るように、元は斜行していたところを、碁盤の目状に整備された道路にあわせ、直線的に付替えたもので、耕地整理時の改修によくあるパターンです。また。その後の暗渠化の際、道路プラス水路の個所だけ幅広になり、どこで折れ曲がっているかを探る目安となるのも、やはり、これまでに度々遭遇してきたところで、個人的にカクカクと呼んでいるものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 路地を抜けたところで左折です。左折後の道路の左手が、水路を含んだ分広くなっているのが分かります。

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    2. 奥の突き当りを右折です。右折後の道路の右手が広くなっています。  

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    3. 川越街道方向に向かいます。逆方向に向かうと中丸橋に至る通りです。

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    4. 川越街道を越えます。右写真は右手からのショットで、谷筋が分かります。

中丸の支流

2019-04-26 06:32:57 | 谷端川・小石川2

 中丸、金井窪村境で合流する水路を追って、金井窪橋下流の合流地点からさかのぼります。水路単独と思われる狭い路地は、山手通りでいったん中断しますが、その先にも路地の入口が見え迷うことはありません。結局、この区間全体で300mほど、それもほとんど直線で続いています。なお、一帯は板橋町大字中丸当時、小字川原でした。合流地点一帯の低湿地をそう呼んだのでしょう。明治末の「郵便地図」を見ると、そこには水路が網の目状に錯綜しており、今日確認できるような直線、かつ単線のものは、耕地整理によってできたのだと分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 金井窪橋の先の左手の路地が、熊野町と大山金井町の境になっています。

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    2. 60mほどで山手通りに突き当たって中断しますが、その先に路地の入口が見えています。 

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    3. 元の村境はこのあたりで流路と離れ、右手に向かっていました。

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    4. いったん幅広になりますが、その先も狭い路地となって続きます。

金井窪村境

2019-04-25 06:56:43 | 谷端川・小石川2

 中丸橋の次に架かるのが金井窪橋です。中丸橋と同じく村名が由来で、中丸、金井窪の村境近くに架かっていることから名付られたのでしょう。ただ、村境(現行の住居表示では熊野町と大山金井町の境)は次の西前橋との間にあるので、金井窪橋自体は旧中丸村に属することになります。なお、→ 「東京近傍図」では中丸橋の次は西前橋になっていて、金井窪橋は比較的新しく、耕地整理時の架橋と思われます。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 谷端川2」  上部の白実線は千川上水です。オレンジ線は区境で、右隅の北区から時計回りに、豊島区、そして板橋区です。そのうち、孤を描いている部分は谷端川の流路と重なります。  

 ところで、中丸、金井窪の村境に沿って、左岸からの合流がありました。「段彩陰影図」で、川越街道の西にY字の谷頭を持つ谷筋にかかわるものです。 → 「沿革図書附図」や「東京近傍図」にも描かれ、ここまでの合流の中では最長の、支流と呼んでもいい規模を有しています。「いたばしの地名」(板橋区教育委員会 平成7年)は中丸川の通称を紹介、「行政上の川名ではありませんが中丸の人々はそう呼んでいました」と書いています。もっとも谷頭は中丸村にはなく、下板橋、長崎の境にかかっていました。

 

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    ・ 谷端川緑道  中丸橋です。左岸方向の写真は→ こちらで、前回の左岸流は通りの左手を並行、ここで合流していたことになります。 

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    ・ 谷端川緑道  金井窪橋の手前です。大山金井町の一部となった以外、行政区分からは失われた金井窪ですが、橋名のほか山手通りの交差点などに残されています。  

左岸流2

2019-04-24 06:37:37 | 谷端川・小石川2

 熊野神社前の通りは現在は山手通りですが、その開通以前には、長崎方面からきて中丸橋を渡る道がありました。→ 「東京近傍図」で見るように、その後は氷川神社前で雑司ヶ谷方面からの道と合流、左折して板橋へと向かうものです。「いたばしの地名」に「長崎道」とあるところで、幕末ごろ、この夜道を板橋の遊郭へ通う者たちの間で、「思い中丸たんぼを行きて、帰りさむしい金井窪」との、はやり歌もあったようです。その長崎道沿いに北上する左岸流を追っての二回目で、右折して中丸橋で本流に戻るまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 川越街道を越え、熊野神社前を北上します。

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    2. 山手通りから左側に分岐する一車線分が長崎道の名残です。

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    3. 突き当りを右折、山手通りを横断して中丸橋に向かいます。

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    4. 中丸橋です。江戸時代からの橋で、西光院門前に石橋供養塔のあることは、中上橋のところで触れたとおりです。

左岸流

2019-04-23 06:08:17 | 谷端川・小石川2

 前々回UPの→ 「明治42測図」を見ると、中上橋の先で左岸に分岐、熊野神社前の通り沿いに北上する流れがあります。途中右折して中丸橋で本流に戻っていますが、同様の流れは→ 「沿革図書附図」の中丸村のところにも描かれています。耕地整理中の→ 「大正10年第二回修正」当時は、南橋から分岐する側流としてなお存在していましたが、宅地化が進んだ→ 「昭和4年第三回修正」からは失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 御嶽橋の次の南橋です。耕地整理時はここから分岐していました。  

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    2. 山手通りの左側にシフトします。右写真は境井田橋から山手通り方向のショットです。

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    3. このあたりからは、元々あった通りの右手を並行していましたが、通り自体山手通りの左側に含まれてしまいました。 

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    4. ひき続き山手通りの左手を北上します。  

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    5. 熊野町交差点で川越街道を越えます。正面左手の茂みは熊野神社境内です。

谷端川児童遊園

2019-04-22 06:02:38 | 谷端川・小石川2

 御嶽橋以降の谷端川緑道には、南、境井田、他領、熊野、前田上、前田、北浦上、北浦とほぼ等間隔で橋が架けられています。いずれも耕地整理時に碁盤の目状に整備された道路に架けられたもので、橋名も当時の字を元にしていますが、熊野だけは左岸に祀られた熊野神社が由来です。その熊野橋の先で谷端川は川越街道を越えます。そして、越えた先の前田上橋以降、緑道は谷端川児童遊園と名を変え、管轄も豊島区から板橋区に移ります。

 

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    ・ 谷端川緑道  左岸の熊野神社が由来の熊野橋の手前です。そのすぐ先の前田上橋で川越街道及びその上の高架の首都高5号池袋線を越えます。

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    ・ 谷端川緑道  川越街道を越えた先です。ここから500m弱先の西前橋まで、板橋区管理の谷端川児童遊園が続き、これまでと異なるデザイン、雰囲気になっています。 

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    ・ 谷端川緑道  前田上橋の次の前田橋です。前田は大字池袋当時の字で、本村の前の田圃の意なのでしょう。なお、各々の橋には田園風景を描いた→ レリーフが飾られています 

 <川越街道>  谷端川は熊野神社前で川越街道を越えます。といっても、そうなったのは川越街道の新道(国道254号線)のうち、池袋六又交差点・大山間が開通した昭和10年頃のことです。本来の川越街道は、日本橋を起点に、板橋宿平尾追分で中山道から分岐、川越城下に至る街道で、今では旧川越街道と呼ばれいます。太田道灌が川越城とその支城として江戸城を築いて以来、両城を結ぶ重要な軍事道路となり、寛永16年(1639年)、川越城主となった松平信綱が、中山道の脇往還として整備しました。昨日UPの → 「東京近傍図」で、上端にかかるのがその旧川越街道です。現大山駅の西側で千川上水と交差し、そこには大山橋が架かっていました。

 


中丸村

2019-04-20 06:44:09 | 谷端川・小石川2

 「中丸村は、元禄の改に(池袋村)枝郷と傍記す、今は別村となれり、日本橋より二里余、戸数四十三、東は池袋村西は下板橋宿、南は長崎村北は金井久保村なり、東西四町半南北十一町、用水は仙川用水を引用ゆ、・・・・村の飛地池袋村内に少くあり」(「新編武蔵風土記稿」) 池袋村との出入りは多く、村内の池袋村飛地十数ヶ所の面積は、中丸村の三割ほどに達しました。明治22年(1889年)に板橋町が成立した際、大字中丸とは別に大字池袋を形成、その小字として沼田、原前、内袋、中原となったところです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は板橋、豊島の区境で、同細線は板橋町当時の町村、大字境です。 

 「用水は仙川用水を引用ゆ」とありますが、明治初めの「星野家文書」の数字で1町1反余、全体は5町4反余(「東京府志料」)なので、千川用水への依存度はごく少ないものでした。ちなみに、同じ長崎村分水を利用していた4ヶ村のうち、長崎村は13.8(17.7)、池袋村3.4(15.3)、金井窪村1.9(6.4)で、単位は町歩、カッコ内は田圃全体です。なお、中丸村を横断する谷端川支流があり、その先端は千川上水にほとんど接しています。この支流を利用して助水を得ていた可能性も考えられますが、文献的には未確認です。

 

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    ・ 熊野神社  「熊野社 村の鎮守なり西光院持」(「新編武蔵風土記稿」) 創建年代は不明ですが、社伝によると応永年間(1394~1427年)に熊野権現を勧請したといわれています。

 中丸の地名の文献上の初出は、やはり永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」で、恒岡弾正忠配当分のなかに、「一貫五百文 江戸菅面(すがも)之内中丸」とあります。この恒岡弾正忠の名前は、「江戸牛込之内富塚」のところでも、一度出てきました。中丸は一般に中野などと同様、一帯の中央を指すといわれていますが、どこの中央なのかなど、よく分からないところです。なお、「新編武蔵風土記稿」には小名は一つも収録されていませんが、明治に入って採用された川原、前、南、北裏、中原は、「いたばしの地名」(板橋区教育委員会 平成7年)によると、江戸期から使われていたようです。

 


耕地整理(池袋)

2019-04-19 06:55:37 | 谷端川・小石川2

 池袋耕地整理組合の発足は大正9年(1920年)、対象地域は「西巣鴨町大字池袋字本村、他領、上、丸山各一部、境井田、前田及飛地他領、境向、中原ト板橋町大字中丸字川原、前及飛地沼田、中原ノ各一部」の618反余(うち田は128反余)で、同年中に中上橋から中丸橋にかけて、谷端川流域の工事は竣功しています。事業全体が完了したのは大正12年で、これは同年に組合が設立された長崎村など、近隣地域に比べ一足早く、その先駆けとなるものでした。なお、「豊島区史 資料編四」(昭和56年)に収録された事業報告書によると、総工費は3万721円となっています。

 

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 隣村に先駆けて行われた池袋の耕地整理は、中上橋から中丸橋にかけての谷端川流域の、境井田、前田、沼田といった字名で呼ばれる田圃が中心でした。その当初目的は、耕地整理のタイトルからも明らかなように、「(農業上の不経済を)矯正シ、以て農業ノ振興ヲ企画スル」ことでした。ところが、事業完了直後、関東大震災を契機とする宅地化の波が押し寄せます。結局、「大正10年第二回修正」と「昭和4年第三回修正」の比較で見て取れるように、農地はあっという間に宅地へと転用されてしまいました。

 

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    ・ 谷端川緑道  御嶽橋の次の南橋です。上掲「大正10年第三回修正」には、左岸に分岐する側流が描かれていますが、耕地整理の終了に伴い失われました。 

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    ・ 谷端川緑道  境井田橋と他領橋の間です。右手から合流する→ 路地が、「明治42年側図」に描かれた右岸の小水路の合流地点と重なります。

字上3

2019-04-18 06:35:07 | 谷端川・小石川2

 中上橋下流で右岸から合流する水路を追って、御嶽神社近くまで来ました。その先も水路単独の狭い路地が、途中途切れることなく連続し、結局、合流地点から400mほどで終了します。この地域のように、大正末から昭和の初めにかけて、区画整理、宅地化が行われた場合、自然の小支流(あるいは、はけ水路と呼ぶべきかもしれません)が生活排水路に転用され、温存されるのはよくあることで、そのまま暗渠となって今日に至ったのでしょう。これが、より郊外で昭和30年代の宅地化なら、元の水路は埋め立てられ、その痕跡をとどめていなかったかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 王子」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。宅地化が進行している → 「昭和4年第三回修正」と見比べてください。

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    1. 池袋図書館の脇を抜ける水路跡の路地です。正面に池袋駅前のビル群が見えてきました。 

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    2. 途中途切れそうに見えても、その先に次の路地が顔をのぞかせています。 

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    3. 10年以上前になりますか、最初に通った時は、通り抜けられるか不安だったものです。

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    4. 路地の先端です。右写真は左手からのショットで、谷筋はなおはっきりしています。

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2019-04-17 06:49:20 | 谷端川・小石川2

 中上橋のやや下流に右手からの合流がありました。→ 「段彩陰影図」にも描かれた、池袋駅方面からの谷筋にかかわるもので、昨日UPの→ 「迅速測図」には、右岸流と共に描かれています。区画整理によって側流が廃止された後は、直接本流に合流するよう付替えられたようで、現在たどることの出来る痕跡もそうなっています。なお、豊島区立郷土資料館の企画展図録「歩く・聞く・写す」には、このあたりの洗い場の様子として、「地区ごとに利用する洗い場を決めていました。足場をよくするために1mほどの穴を掘り、その中にスノコを敷き、水深を60~70cmくらいにしておきました」との記述がみられます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中上橋と御嶽橋の間の右岸に、狭い路地の入口があります。  

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    2. この直線の区間は、区画整理時の付替えによるものなのでしょう。

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    3. タイトルは字上ですが、このあたりまでは田圃で、境井田と呼ばれていました。  

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    4. 巣鴨村大字池袋当時の行政区分では、この通りから先が字上にあたります。  

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    5. 路地を抜けた先の右手は池袋図書館、左手は道を隔てて御嶽神社です。

字上(かみ)

2019-04-16 06:04:46 | 谷端川・小石川2

 長崎、中丸両村の境に架かる境橋の次が上ノ橋、その次が中上橋です。上(かみ)は「新編武蔵風土記稿」にも本村、原と並んで収録された池袋村の小名で、明治に入り巣鴨村大字池袋の字に引き継がれました。「明治42年測図」などには、細分された大上、中上、下上の地名も書き込まれており、これらが橋名の由来かとも思われます。うち上ノ橋は比較的新しく、区画整理時の架橋のようですが、中上橋の架かる通りは、→ 「池袋村絵図」にも、「風土記稿」で氷川社と共に村鎮守とされる三嶽社、現御嶽神社脇に描かれています。

 

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    ・ 「迅速測図 / 東京府武蔵国北豊島郡上板宿」(参謀本部測量課 明治13年測量)の一部を加工したものです。

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    ・ 中上橋  前を通る通りは池袋駅西口からの商店街が名前を変えて連続しており、この前後は坂下通り商店街、山手通りを越えると庚申通り商店街となります。

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    ・ 御嶽橋  中上橋の次の橋で、右手に行くと→ 御嶽神社に出ることからのネーミングです。前を通る道路の拡張に伴い、こちらの通りが地域の幹線道路になりました。

 <石橋供養塔>  左岸に400mほどのところに、薬王山西光院がありますが、その門前に→ 石橋供養塔が祀られています。延享2年(1745年)3月に、中丸の庚申講中が建立、「豊嶋郡中丸邑上下両橋」を供養したものです。→ 「東京近傍図」で見ると分かりやすいですが、池袋、中丸両村を連絡する橋は二つ、現在名で中上橋と中丸橋なので、これらにかかわるものなのでしょう。なお、この項の記述は「板橋の地名」(平成7年 板橋区教育委員会)によっていますが、そこには中上橋の橋名の由来について、中丸村の中と池袋村字上の合成ではないかとの指摘があります。村と字の合成は、ややバランスを欠いているようにも思えますが、中丸村は元々池袋村の枝郷であり、その意味では中丸と上は同レベルともいえます。

 


池袋村

2019-04-15 06:04:06 | 谷端川・小石川2

 「池袋村は地高して東北の方のみ水田あり、其辺地窪にして地形袋の如くなれば村名起りしならん、日本橋より行程は前村に同じ(二里)、戸数百二十九、東は新田堀之内村西は中丸村、南は雑司ヶ谷村巽は巣鴨村少く係り、北は金久保村に及ぶ、東西五丁南北十三丁、用水は仙川用水を引沃く、江戸大塚より板橋に通ふ路少く係る、幅三間許、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) 最後に触れられた通りは、→ 「池袋村絵図」で小石川道と書かれているもので、春日通りから川越街道を経由、途中本町中央通りへと折れ、板橋に向かうルートです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は板橋、豊島の区境、同細線は巣鴨村当時の町村、大字境です。 

 池袋の地名が文献上登場するのは、例によって「小田原衆所領役帳」で、「太田新六郎知行 三貫五百文 池袋」とあるのが最初です。地名由来については、地形由来説が有力ですが、その場所に関しては、「新編武蔵風土記稿」の言及する村の東北の谷端川流域と、弦巻川の水源である丸池周辺の二説が対立しています。後者のネタ元は文化11年(1814年)の「遊歴雑記」(十方庵敬順)で、「当村を池袋と号けし事は、往古夥しき池ありしによって也、中古より段々埋まりしかど、今もなお三百余坪もあらんや、・・・・此池今は雑司谷村に属す」と書かれているものです。

 

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    ・ 氷川神社  「新編武蔵風土記稿」に「村鎮守重林寺持」と記載のある氷川神社は、小石川道が谷端川流域へと差し掛かる手前に祀られています。 

 ただ、丸池やその周辺の池ヶ谷(池谷戸)は、池袋村の鎮守、氷川神社や別当の→ 重林寺のある本村(現在の池袋本町)とは反対側の、しかも隣村の雑司ヶ谷村に属し、地名由来となったとは考えにくい位置関係で、「遊歴雑記」の作者も気になったと見え、丸池が雑司ヶ谷村に属した事情を推測したりしています。なお、これとは別に「若葉の梢」(金子直徳)には、「此池中より亀の袋を負出ける故に、池袋と云うとも」との一節があります。「此池」がどこにあるのかよく分かりませんが、前後の文脈からすると、少なくとも丸池ではないようです。

 


中丸村境4

2019-04-13 06:00:15 | 谷端川・小石川1

 中丸村との境沿いに合流する水路を追っての最後で、狭い路地を抜けると高松小学校近くの谷頭です。谷頭では、いったん北側に離れていた村境はV字を描いて戻り、再び水路と重なっていました。ただ、昭和14年(1939年)に、板橋区との間の出入りをならし、境界線をシンプルにしたため、現行の住居表示では、区境は離れたまま戻ってこず、流域全体が豊島区(高松1~3丁目)に属しています。なお、右岸台上にの富士浅間神社には、文久2年(1862年)築造の→ 長崎富士があり、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. クネッた路地を抜た先で、やや幅広の通りの一部となります。 

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    2. このあたりの水路は村境と再び重なります。ただ、現行の行政区分には反映されていません。

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    3. 区民ひろば高松の脇を抜けると、さらに幅広の道路に出ます。 

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    4. 右手は昭和24年(1949年)創立の高松小学校です。 

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    5. 突き当りの高松小前交差点付近が、「郵便地図」の描く水路の先端です。

中丸村境3

2019-04-12 06:56:50 | 谷端川・小石川1

 長崎、中丸両村の境沿いの水路を追っての続きです。山手通りを越えたところで、北に向かう旧村境からは離れますが、水路単独の狭い路地が連続しており、迷うことはありません。特に→ 「段彩陰影図」で谷端川本流の流域を離れ、左岸段丘に食い込む狭い谷筋となっているところは、区画整理の対象外であったため、本来の流路そのままのクネッた路地が今でも残っています。なお、豊島区立郷土資料館の企画展図録「歩く・聞く・写す」(2006年)のなかに、大根の洗い場に関するコーナーがありますが、「高松小学校付近からの湧水の流れの巾は約50cm。各家ごとに洗い場があり、ある農家では、昭和5年頃まで利用していました」との一文があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 郵便局脇から続いた路地がいったん途絶え、水路プラス道路の区画です。 

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    2. 水路は道路の右側を並行していました。なお、田圃はこのあたりまで広がっていました。

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    3. T字の先に路地が顔をのぞかせています。路地入口の右手には享保6年(1721年)建立の→ 庚申塔が祀られています。 

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    4. このあたりに野菜の洗い場があったのでしょう。 

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    5. このように微妙にクネッた狭い路地が、百数十メートル続きます。

中丸村境2

2019-04-11 06:16:16 | 谷端川・小石川1

 明治末の「郵便地図」を見ると、長崎、中丸両村の境(前回UPの→ 「地形図」上部の、直角に折れ曲がった破線)に沿って、左岸からの合流がありました。 → 「段彩陰影図」で、豊島、板橋の区境に向かって、左岸から合流している谷筋にかかわるものです。今でも800mほどの水路跡の路地が、ほぼ連続して残されていて、たどるのは比較的容易です。なお、地蔵堂分水路で舌状台地を越えた田用水も、現千川中学付近まで回り込み、その余水を村境の水路に落としていました。ただ、こちらのほうは区画整理時に埋め立てられたのでしょう、碁盤の目状に整理された現行の道路からは、かっての流路を推測することはできません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 池袋村の字が由来の上ノ橋の手前で、左岸にそれらしい路地が合流しています。 

1111c

    2. 直線で山手通りに向かいます。本来のL字の流路をショートカットしたのでしょう。 

1111e 1111d

    3. 百数十メートルで山手通りに付き当たって中断します。 

1111f

    4. 山手通りの先です。豊島高松郵便局の隣の水路単独を思わせる路地で再開します。

1111h 1111g

    5. 合流地点からここまで、300m弱の直線は人工的な改修を推測させます。