神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

和泉橋

2019-11-27 06:57:57 | 平川・外堀4

 和泉橋の架橋は遅くとも寛永年間(1624~43年)で、「武州豊島郡江戸庄図」にも「いつミ殿橋」の付記と共に描かれています。「和泉橋 是も神田川にかゝる。藤堂和泉守の屋敷の通りなれば呼名とす」(「御府内備考」) あるいは、藩祖藤堂和泉守高虎が架橋したとの説もあるようですが、それはともかく、伊勢津藩藤堂家の上屋敷があった左岸一帯は、現在神田和泉町を名乗っています。

 

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    ・ 和泉橋  北詰の防災船着場からの撮影です。通っているのは昭和通り、高架は首都高1号羽田線で、江戸橋からは2kmほどのところです。

 和泉橋は明治25年(1892年)、「神田区史」の数字で長さ14間(≒25.4m)幅8.4間(≒15.2m)の鉄橋に改架され、昭和5年(1930年)には、震災復興で開通した昭和通りに架かる橋として、当時の神田川関係では最大規模の、長さ35.8m幅44.0mとなりました。ちなみに、長さだけでは渓谷を越えるお茶の水橋や聖橋が断トツで、80m、90mクラスです。

 

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    ・ 神田川  和泉橋から下流方向です。次の美倉橋まで、400m弱の直線コースです。なお、この中ほどの右岸で→ 浜町川と連絡していたことは、前のクールで扱いました。

 ところで、和泉橋と美倉橋の間の右岸に、常陸谷田部藩細川家の上屋敷がありました。藩祖玄蕃頭興元(おきもと)は肥後熊本藩細川忠興の弟です。「駿府より参上被申候衆、何も御屋敷可被下ニ付き而、神田のだい川を吉祥寺之きわへ堀替、玄蕃殿、立左近殿などのうしろのつゝみをならし、皆々屋敷可被成様ニさた御座候」 幕府のブレーン、金地院崇伝から細川忠興にあてた、元和2年(1616年)5月21日付の書簡の一節です。神田川付替えや柳原築堤に言及した最初の文献として、「東京市史稿 市街篇」に引用されているものですが、この計画通り事が運んだかは、元和6年の開削、築堤工事との関係で疑問が残ります。