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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

水源付近

2016-02-22 07:20:25 | 妙正寺川2

 「杉並とその周辺の昔話」(昭和57年 森田金蔵、森田金吉)によると、天沼本村川の水源は、現本天沼3丁目21番付近の長島と呼ばれる堀割や、一帯の島畠を縦横に走っていた排水路より湧き出す水を集めたもので、本村の鎮守である稲荷神社裏を流れ、前々回テーマの「天沼本村の弁天社と三峯神社の処」にあった池に流れ込んでいました。なお、「杉並の通称地名」は島畠(島畑)について、低湿地内の高い部分、ないしは土盛りで高くした部分の畑のことで、関東から中部地方にかけて用いられたとしています。あるいは長島は細長い形状の島畑の意かもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 稲荷神社の北東角に戻り、裏の水路跡を西に向います。神社裏を抜けたところで幅広道路に出ます。

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    2. 区民集会所前の道路です。前回のコンクリート蓋の路地とは、集会所を挟んで並行しています。

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    3. 右手の幅が狭くなったところの左手に車止め、段差のスペースがあり、ここで左折します。

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    4. 段差付きのスペースは50mほどで終了です。その先を右折、さらに30mほどの突き当りを左折します。

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    5. 左折後、一般の道路に突き当たって終了です。正面右手は天沼中学のキャンパスです。

稲荷神社周辺

2016-02-20 07:41:57 | 妙正寺川2

 三峰、厳島神社の本社である稲荷神社は、ワンブロック間に挟んだ西隣にあります。現在確認できる水路跡は、稲荷神社の表と裏の二本あり、両者のつながりは直接は確認できませんが、境内を回り込み北東角で合流している様を描く地図もあります。今回は合流地点で左折、右折で鳥居前へと回り込み、その先に現存するコンクリート蓋付の路地をさかのぼります。なお、稲荷神社に関しては「新編武蔵風土記稿」に、「稲荷社 除地百五十坪、小名本村にあり、此所の鎮守なり、本社三尺四方、上覆二間に三間」と記載されています。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 稲荷神社境内の北東角です。ここで左折、さらに右折して神社の前に回り込みます。

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    2. 稲荷神社の鳥居前の通りです。突き当りの左手にコンクリート蓋の路地が見えます。

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    3. 路地を西に向い、区民集会所の裏に出たところです。

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    4. 左折、次いで右折のクランクで、20mほど南にシフトします。

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    5. 最後の直線コースが50mほど続き、一般の道路に突き当たって終了です。

天沼本村池

2016-02-19 07:58:34 | 妙正寺川2

 「杉並とその周辺の昔話」によると、天沼本村川の水源は本村一帯の湧水ですが、それらは「天沼本村の弁天社と三峯神社の処に大正の頃まであった池に集まり」、そこから川となって蓮華寺前を東流していました。「杉並の川と橋」はこれを「三峰神社の池(天沼本村の池)」としていますが、その場所は本天沼2-15となっていて、だとすると三峰神社のある一角の西隣となります。また、手元にある詳細図には、さらに西隣にある稲荷神社裏の池から川が流れ出ています。昭和に入ってからの測量なので、「大正の頃まであった」本村池かどうかは不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 蓮華寺門前から30m弱のところです。道路右手が狭くなり、左手に車止めが見えています。

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    2. 三峰、厳島神社の横を抜けます。右写真の手前が三峰神社、奥が厳島神社(弁天社)の祠です。 

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    3. 両神社の横を抜けた先です。やや右手に次の車止めの路地が待っています。

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    4. 三峰、厳島神社の西隣のブロックで、「杉並の川と橋」が「三峰神社の池(天沼本村の池)」の場所とする本天沼2-15にあたります。

蓮華寺前

2016-02-18 07:29:20 | 妙正寺川2

 前回の最後で車止め付の路地を抜け、幅広の道路に出ましたが、その右手に天沼山蓮華寺があります。「蓮華寺 村の北寄にあり、天沼山と号す、新義真言宗にて中野村宝仙寺末、本堂六間に五間南向、本尊は不動の立像にて長さ二尺許り、開山は真長と云、示寂の年月詳ならず。」(「新編武蔵風土記稿」) 区教育委員会の解説プレートによると、室町時代の創建と伝えられ、正長元年(1428年)の墓石も残されています。

 

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    ・ 天沼本村川跡  道路左手の幅が狭くなり、かわって右手が広くなっています。クランクで右手にシフトしたのだと分かります。

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    ・ 天沼本村川跡  蓮華寺山門前で右カーブ、ほぼ西に向きを変えます。ここも水路は山門側にありました。

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    ・ 蓮華寺山門  写真からは切れますが、山門の左手に区教育委員会の解説プレートが立っています。

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    ・ 弁天堂  山門を入って左手に弁天堂があり、弁天池もありますが、現在はポンプで水を循環させているようです。

天沼本村川4

2016-02-17 07:23:55 | 妙正寺川2

 天沼本村川の四回目で、早稲田通りを越えたところからの続きです。地図からもそれと分かるクネッた路地が続きますが、これは隣村の井荻村のような本格的な区画整理を経なかったためです。今でこそ荻窪の一部のような天沼ですが、同じ山王社(日枝神社)の領地であり、桃園川流域の関係もあって阿佐谷村とのつながりが強く、明治に入り馬橋、高円寺、成宗、田端の6村で杉並村(のち杉並町)を形成しました。杉並村の場合、全村あげての耕地整理といった事情にはなく、個別に桃園川流域が整備されたに過ぎず、そのため、天沼本村川のような古い流路がそのまま残されることになりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 早稲田通りを越えた先です。通りを越えて以降の住居表示、本天沼(1~3丁目)は、天沼本村を元に創作されたものです。

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    2. 区営住宅前の水路跡の路地です。このあたりも周囲から一段低くなっています。

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    3. 車止めが連続するのは正面ではなく、左手にズレた路地です。

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    4. 早稲田通り以降ほぼ南下してきましたが、このあたりから右カーブでに西に向きを変え始めます。

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    5. 狭い路地を抜けると、蓮花寺前の広い通りです。水路はこの通りの左手を並行していました。

天沼本村川3

2016-02-16 06:59:24 | 妙正寺川2

 天沼本村川の三回目で、右カーブで杉並、中野の区境を離れ、旧天沼村字本村(ほんむら)に入ります。もっとも、現行の住居表示では、早稲田通りまでは下井草1丁目で、その先でようやく天沼本村が由来の本天沼(1~3丁目)となります。なお、「新編武蔵風土記稿」によると、天沼村の小名は三つしかなく、うち本村は「北の方井草村の境を云」と書かれています。昨日の学校名にもなった東原は、明治に入り天沼村が杉並村大字天沼となった際、本村が本村、東原、割間の小字に分割されたうちの一つです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 左手に折れる区境と分かれ、右カーブに差し掛かります。ここから両岸とも杉並区です。

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    2. 右カーブを抜け、西に向います。右手は東原中学との間にあるすぎのこ公園です。 

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    3. 早稲田通りに向かいます。区境と分かれたあたりからここまで、一段低くなっていて谷筋にあるのが分かります。

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    4. 早稲田通りを越えます。越えたところで右折、左折のクランクがあり、その先の車止め付き路地に連続します。

天沼本村川2

2016-02-15 06:43:18 | 妙正寺川2

 杉並と中野の区境で妙正寺川に流れ込む仮称、天沼本村川の二回目で、合流地点からさかのぼります。対岸の八成の水路と同様、この流路も合流地点は杉並区(下井草1丁目)、中野区(白鷺2丁目)の区境ですが、江戸時代は西側は下井草村で変わらず、東側は下鷺宮村でした。その境を車止め、段差のある路地が南に向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 車止め付路地の起点で、それにしてもジャンボサイズの車止めです。ここから、途中細かい中断はありますが、ほぼこのような路地が連続します。

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    2. 下井草いど公園脇を抜ける水路跡の路地です。いど公園というだけあって、公園中央には手押しポンプが設けられています。

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    3. いど公園の南端で右折、左折のクランクがあり、井草橋を通る道路沿いに南に向かいます。

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    4. 左岸台上に東原中学が見えます。東原は豊多摩郡杉並村大字天沼に属する小字ですが、流路が旧天沼村に入るのはもう少し先です。

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    5. 中野区の区民農園(しらさぎ親子農園)に差し掛かります。同農園は親子で自然と親しむため、年3000円の利用料で3坪の農地を利用できます。

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    6. 区民農園の角で今度は左折、右折のクランクです。

天沼本村川

2016-02-13 07:21:59 | 妙正寺川2

 杉並区と中野区の区境沿いを流れ、右岸から妙正寺川に合流する水路があります。→ 「段彩陰影図」で、前回までのテーマの八成水路の対岸に描かれたものです。こちらは妙正寺川の支谷筋を流れる、自然河川の様相が見て取れ、→ 「東京近傍図」ではごく短いものながら、合流してそのまま右岸流になる支流のように描いています。「杉並の川と橋」が「仮称」の注記付で、天沼本村川(悪水路)としているのは、自然河川+排水路の性格を有するの意と思われます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現行の妙正寺川の流路をブルーで重ねました。杉並側は昭和初期の区画整理に際してですが、中野側の改修は遅れて昭和30年代です。

 「杉並とその周辺の昔話」(昭和57年 森田金蔵、森田金吉)も、同じく「天沼本村川(仮称)」としていますが、以下はその合流地点に関する記述の引用です。「鷺の宮村と井草村との境を画して妙正寺川へ落入していました。そしてその河口の所はかなり高い断崖となっていて、妙正寺川の上流全面を遮るような地形となっていました。」 「空中写真」で妙正寺川本流を北側に迂回させているのがその崖面です。この合流地点は堰場と通称されたようで、同書は「鷺の宮村の堰場という処で妙正寺川へ注いでいた」とも書いています。「杉並の通称地名」も下井草側の通称地名として収録しており、水量豊富な堰でカワウソもいたこと、昭和初期に堰門改修があったことなど付記しています。

 

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    ・ 合流地点  対岸からのショットです。現在はそれほどでもなく、おそらく整地されたのでしょうが、右手の一角が崖面になっていたことになります。

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    ・ 合流地点  上掲写真の奥、十数メートルのところです。やや上流で分岐していた右岸流と、ここでクロスしていました。右手に見える車止めは右岸流のものです。

八成水路4

2016-02-12 08:18:48 | 妙正寺川2

 八成水路をさかのぼっての最後で、八成小学校まできました。同校の創立は昭和30年(1955年)、水路の先端にあたる農地を造成して開校しました。なお、八成は「新編武蔵風土記稿」に「東の方上鷺ノ宮の界を云」と書かれた下井草村の小名ですが、地名由来に関しては「杉並風土記」(昭和52年 森泰樹)に、千川上水の八成橋とかかわる伝承が収録されています。観泉寺住職が経典から八成(はっせい)橋と命名、住民は「はちなり」と読み、いつしか地名になったというものです。明治に入り井荻村(のち井荻町)大字下井草の小字となり、昭和7年の杉並区制定に際し八成町に引き継がれましたが、現行の住居表示には採用されませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 通りの左手の幅が変わったところで左折、その先の通りの右手が水路を含んでいます。

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    2. 農地の残る区画を西に向います。なお、右写真で交差する通りが区制制定時の正保町と八成町の境でした。

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    3. 八成小学校のキャンパスに突き当たったところで終了です。

 <八成の水害>  以下は「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)にある、「八成の水害」の抜粋です。この水害は「現在の八成小学校東、新青梅街道北側の一部の地域」で、「何年又は何十年かに一回、梅雨時又は秋の長雨等毎日雨が降り続いている時に発生」しました。その様子をリアルに再現した記述が続きます。「昔は畑の端に畦という溝があり雨水が溜まるようになっていて、降った雨水は全部地下水となったのです。毎日の雨で地下水位が上がり井戸水が杓で汲めるようになり、低地では水が湧き出るようになると水害になるのです。自然と湧き出したきれいな水が溜まり小さな池になり、農作物は全滅してしまいます。・・・・八成は皿のような地形のため集中豪雨の時も一時的に出水し水溜まりとなることもしばしばありました。」 この記述は最後に、「大正になって、この水害をなくすために排水溝を掘り下井草田圃へ流す工事を村費で行いました。」という、一度引用した一文でまとめられています。

 


八成水路3

2016-02-10 07:52:16 | 妙正寺川2

 八成の水路の三回目で、右折、左折を繰り返し、全体としては北西に向かいます。水路単独の狭い路地が連続しますが、途中新青梅街道を越えた先で、区営住宅の敷地に突き当たり、その区画だけ水路は失われています。なお、新青梅街道の整備は昭和30年代以降ですが、この区間には元となった旧道があり、井荻村(のち井荻町)当時は大字下井草の小字、向井草と八成の境となっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後で突き当りを右折した先です。交差する道路ごとに車止めが付いています。

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    2. 次の突き当りを左折です。その先で交差する通りの下には、下水道井草幹線が埋められています。

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    3. 次の突き当りは右折です。北上して新青梅街道を目指します。

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    4. 新青梅街道を越えます。越えた先の区営住宅のところで左折しますが、その前後の痕跡は失われています。

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    5. 区営住宅の西側で復活します。すぐに右折しますが、右折後の道路の左手が広くなっています。

八成水路2

2016-02-09 07:54:43 | 妙正寺川2

 八成小学校付近からの水路を追っての二回目です。杉並、中野の区境沿いに北上、西武新宿線の踏切を越えます。その先の左手の歩道が水路跡で、幅広で一段高く、特徴的なものになっています。その歩道がほぼ直線で300m強続いたあと、左折して水路単独の狭い路地になります。なお、「杉並の通称地名」によると、この左折のあたりは明治までは狐山、その後は下久保山と呼ばれていました。狐はそのままとして、久保は井荻村当時の字との関係でしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 下井草駅から百数十メートルほどのところにある、西武新宿線の踏切を越えます。

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    2. 左手の一段高い歩道が水路跡で、平成10年開園の井草東公園前を過ぎます。

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    3. 左手の幅広歩道が続きますが、正面奥で突然途切れているのが見えます。

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    4. その歩道の途切れた左手に、車止め付の路地が顔を見せています。

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    5. 路地は何回か右折、左折を繰り返しますが、右写真の突き当りで最初の右折があります。

八成水路

2016-02-08 07:13:15 | 妙正寺川2

 現八成小学校東にある窪地の排水溝として、大正時代に開設された水路を、妙正寺川との合流地点からさかのぼります。この水路はおおむね杉並区(下井草2丁目)と中野区(白鷺3丁目)の区境を形成していますが、これは天沼本村川の合流地点のような自然河川によくみられる、水路が境を形成したのではありません。逆に、境沿いに水路を開削したためで、隣村(開削当時は野方村大字上鷺宮)に流路がまたがらないよう、意図的にそうしたのだと思われます。そのような考慮なしに流路を定めるとしたら、→ 「段彩陰影図」から読み取れる谷筋に沿って、より東側に向かうはずだからです。(等高線から読み取れる谷筋の合流地点は、区境から100m強下流の西中野小学校と鷺宮橋の間です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 井草上橋と井草橋の中程にある八成水路の合流地点です。ここから北上し、数回に分けて八成小学校を目指します。

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    2. 左岸流跡と連続して交差します。その間の間隔はほんの二十数メートルです。

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    3. 中野区との境に沿います。右手の方が低くなっていて、谷筋が東側にズレているのは明らかです。

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    4. 左手の塀に張られた茶色のプレートは杉並区(下井草2)の、右の電柱のブルーのプレートは中野区(白鷺3)のものです。

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    5. 西武新宿線の踏切まであとワンブロックのところです。

区境の二水路

2016-02-06 08:57:36 | 妙正寺川2

 杉並、中野の区境まできました。かっての下井草、上鷺宮の村境です。その杉並側に左右から合流する二本の水路がありました。一つは前回、前々回の左岸流とクロスしていたもので、八成小学校付近から発して区境を南下しており、「杉並の橋と川」は「仮称八成水路(悪水路)」としています。一方、右岸のものは天沼中学や稲荷神社周辺の湧水が水源で、いったん東に向かったあと左カーブで区境を北上します。合流地点のみのごく短いものながら、→ 「東京近傍図」にも描かれています。「杉並の橋と川」が「仮称天沼本村川(悪水路)」としているもので、本村は「新編武蔵風土記稿」に「北の方井草村の境を云」と書かれた天沼村の小名です。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 妙正寺川2」(1/18000)  側流及び左右から合流する二本の水路は、実地に確認できるものをベースに、昭和初期から30年代までの地図や空中写真を参考にしました。オレンジ線は区境で左杉並区、右中野区です。

 「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)に、「八成の水害」に関する記述があります。「現在の八成小学校東、新青梅街道北側の一部の地域」で、「何年又は何十年かに一回、梅雨時又は秋の長雨等毎日雨が降り続いている時に発生」したもので、「大正になって、この水害をなくすために排水溝を掘り下井草田圃へ流す工事を村費で行いました。」 八成の水路が雨水の排水路(吐け水路)を区画整理時、人工的に整備したものだと分かります。これに対し、天沼本村川はその名の通りの自然河川でした。「杉並とその周辺の昔話」(昭和57年 森田金蔵、森田金吉)には、水源として「本天沼三丁目二一番地付近よりの自然の湧水による俗称長島といわれていた深い掘割」や「天沼本村の弁天社と三峯神社の処に大正の頃まであった池」を指摘しています。こうした二つの水路の出自の差は、「段彩陰影図」からも読み取れます。

 

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    ・  八成水路合流点  井草上橋と井草橋の間にある右岸流の合流地点の対岸です。なお、八成水路の機能を代行している下水道井草幹線は、起点は同じ八成小学校の東ですが、終点は上流にある松下下橋となっています。

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    ・  本天沼本村川合流点  区境手前に架かる井草下橋からのショットで、右手の茶色の建物の奥で合流しています。一方、手前からは上鷺宮の右岸用水が分岐し、両者はすぐにクロスしていました。

井草前左岸6

2016-02-05 07:20:29 | 妙正寺川2

 井草前左岸の用水の最後です。東向井公園で分岐し、同公園を回り込んで東に向かう水路跡を追います。前回のと同様、北側から妙正寺川に合流する水路とクロスしたあと、中野区との区境に差し掛かります。こちらはそのまま東に向かい、途中、本流から堰で分岐した用水と合流、上鷺宮村の左岸田圃を灌漑していました。ただ、区境に隣接する西中野中学キャンパスによって遮られ、今となってはたどることができません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 東向井公園の北西角で右折、その北縁に沿って東に向かいます。

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    2. 前回のと同様、八成方面からの水路とクロスします。この水路については、次回から詳細します。

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    3. 車止め、段差の路地はなおも続きます。井草橋に向かう通りを越えるところです。

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    4. 西中野小学校手前、中野区との区境で終了です。小学校の先で復活しますが、クールを改めて扱う予定です。

井草前左岸5

2016-02-04 07:20:58 | 妙正寺川2

 前回、向井橋の下流で本流に戻る用水の途中で、北側に向う幅広道路がありましたが、その続きです。ワンブロックで右折し、東に向かう直線道路に沿い、中野区境手前の井草下橋で本流に戻ります。この流れにも途中左手に分岐し、すぐに右折して東に向う水路がありますが、こちらのほうは次回に続きます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の途中で北に向かう→ 幅広道路の先で右折します。右折先の道路も左手が広くなっています。

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    2. 東向井公園の手前です。前回最後の北に分岐した→ 水路と交差、左手の車止め付き路地は、すぐに右折して公園を回り込みます。

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    3. 公園前を東に向かう通りの先です。車止め付きの道路とクロスしますが、こちらは北側の八成方面から妙正寺川に合流していた水路跡です。

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    4. 中野区との境の手前で右折です。道路の右側が狭くなり、ここまで水路を含んでいたのが分かります。

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    5. 井草下橋で本流に戻ります。この橋の対岸にある路地も水路跡で、上鷺宮村の用水でした。