神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

三村境

2014-02-17 07:33:45 | 谷端川・小石川4

 東大下水の最後のまとめとして、その谷頭付近で互いに接していた小石川、巣鴨、(下)駒込三村の境がテーマです。「東京近傍図」のオレンジ実線は、現行の豊島区と文京区の区境で、旧巣鴨、小石川の村境をおおむね引き継ぎました。ただ、巣鴨原町、巣鴨仲町、巣鴨御駕籠町など、旧巣鴨村に属しながら小石川区に編入され、現在は文京区のところもあります。また、左上隅にある巣鴨町(1~4丁目)は、「近傍図」当時は小石川区でしたが、明治22年(1889年)、北豊島郡巣鴨町となって分離しています。一方、オレンジ点線は小石川区と本郷区の境で、こちらは大きな出入りなしに、小石川村と(下)駒込村の境を引き継ぎました。この区境は「近傍図」にも黒丸で書き込まれていますが、一目でわかるようにオレンジ点線を重ねたものです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。ブルーで重ねたのは、「郵便地図」などの描く明治から大正にかけての東大下水の流路です。

 <駒込村>  「駒込は古き地名なる由は既に駒込村の条に弁ぜり、今御府内に属する地域の大概、南は本郷に続き、北は巣鴨、西ヶ原に及ひ、東は谷中に接り、西は小石川、巣鴨に並ベリ、されどその内年貢上納地の武家屋敷等入雑りたれば、巨細には弁じがたし」(「御府内備考」) 「上駒込村は、日本橋の北凡一里二十町にあり、『小田原役帳』に、遠山弥九郎が知行三十六貫文江戸駒込と記す、正保の改に駒込村御料所の外天沢寺伝通院領入会の由を載す、天沢寺領と云るは今下村にあり、元禄改にも尚一村になしたれは上下二村に分れしは近年の事なり」(「新編武蔵風土記稿」) 天沢寺(てんたくじ)は春日局の隠居所として創建され、のちその法号をもって天沢山麟祥院と号したお寺です。東大裏にあって、春日通りに面して現存しています。

 

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    ・ 富士神社  天正元年(1573年)本郷の地に富士浅間神社を勧請、寛永5年(1628年)加賀藩上屋敷のため上地となった後、当地へ移転しました。境内にある → 富士塚(駒込富士)は、古墳ともいわれています。

 ところで、駒込の地名由来に関し、「江戸砂子」は「日本武尊、高きより味方の勢を御覧じて、扨(さて)も駒こみたりと宣しより名付と也。根津の縁起の中に見えたり。」と書いています。日本武尊とのかかわりはともかく、駒が込み合った様子から馬の放牧場とする説が有力で、よく牛込と対比されますが、他に高麗人が多く住んでいたの意で、「高麗籠」が転訛したとの説もあります。なお、文献上の初出は上記「小田原役帳」ですが、「新編武蔵風土記稿」は当地の旧家今井氏が、文明年間(1469~87年)に村に定住、開拓したとの伝承を収録しています。江戸時代に上下に分かれ、主に日光御成道沿いに駒込片町などの町屋が成立しました。明治に入ると、下駒込村が本郷区に編入されたのに対し、上駒込村は北豊島郡巣鴨町の大字となり、今は下駒込は文京区(本駒込、千駄木)、上駒込は豊島区(駒込)に各々属しています。

 


巣鴨仲町

2014-02-15 10:33:01 | 谷端川・小石川4

 酒井家、一橋家の屋敷地を抜けると、旧巣鴨村の範囲で、そこには町屋として巣鴨仲町や巣鴨町がありました。うち仲町は本所横堀の代地として、天和3年(1683年)起立しましたが、以下はその巣鴨仲町に関する「御府内備考」の記述です。「下水堀 幅三尺余、右掘割年代相知不申候」 「石橋巾壱丈弐尺、長四尺五寸、右は虎石にて相掛、虎の橋と相唱候」 また、巣鴨町のところにも、下水堀二ヶ所、石橋三ヶ所の記述がありますが、こちらは中山道沿いに1km以上続く町屋なので、今回の水路と関係するかどうかは不明です。なお、巣鴨仲町や巣鴨町の一部は、明治24年(1901年)に小石川区に編入され、現在は巣鴨村の属する豊島区ではなく、文京区千石4丁目となっています。(文京区にある大鳥神社が、巣鴨を冠しているのもそのためです。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 道幅の変化に注目で、ここで東側の道路に斜行してシフトします。白山幹線のほうは、突き当たって右折です。

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    2. この十字路の周辺が巣鴨仲町でした。虎の橋が架かっていたのはこのあたりと思われます。

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    3. 千石本町通りです。この区画の水路は道路の左手にありました。  

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    4. 「郵便地図」の描く起点で、白山幹線もここから始まります。右写真は右岸の子育稲荷、大鳥神社前からのショットです。

白山幹線2

2014-02-14 10:53:56 | 谷端川・小石川4

 明化小学校の西の一角で、東大下水と白山幹線がズレているところの続きです。前者の流路は水路単独の狭く、かつ蛇行する路地となって残っていて、「下水道台帳」には水路敷の書き込みがあります。なお、前回も触れたことですが、流路は酒井家と一橋家の屋敷地の境となっており、明治に入ると、この区画の左岸は小石川原町、右岸は小石川林町となりました。原町は江戸時代の町屋を引き継いでいますが、林町のほうは創作地名で、「武家屋敷跡の山林や茶畑・・・・など緑の多い地域であったので、林町と命名されたのであろう」と、「文京の地名由来」は述べています。現在は流域の左右とも千石1丁目に属し、境界の役割は失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新住居表示実施までは、この狭くクネッた路地が左手小石川林町、右手小石川原町の境でした。

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    2. 前回の最後の写真はこの右手からのものでした。ここから先は白山幹線のルートと一致します。

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    3. 水路単独の個所を抜け、ここから先は道路の右手を並行ます。

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    4. 不忍通りを越えます。右写真は左岸からのショットで、谷筋が横切っているのが分かります。

白山幹線

2014-02-13 07:32:39 | 谷端川・小石川4

 東大下水をさかのぼり、その水元の一つとされる酒井雅楽頭下屋敷近くまで来ました。ここから先、「御府内備考」の記述はしばらく途切れます。というのは、流路の東側は播磨姫路藩酒井家下屋敷、西側は御三卿の一つ一橋家の抱え屋敷が占め、町屋中心の「御府内備考」の範囲外になっているためです。そこで、今回は視点を変え、東大下水と下水道白山幹線の異同に焦点を当ててみました。これは、これまでも度々触れたことですが、東大下水の流路は下水道白山幹線に転用され、その大半が一致しています。例えば、前回最後の白山通りとクロスするところなど、両者全く同じです。一致しないところも、直線的な改修を反映している場合が多く、両者を比較することによって、途中の付替えの様子を推測することが可能です。(比較するのは「郵便地図」など明治から大正にかけての地図と「下水道台帳」です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 白山通りの西側にシフトしたところです。なお、歩道橋の右手に酒井家の池がありました。

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    2. 「郵便地図」などには、明化小学校の脇を抜けたところで、右折、左折のクランクが描かれています。 

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    3. 白山幹線はこの道路の下にあります。元は京華通りと連続していましたが、白山通りの開通によって、分断された道路です。

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    4. 「下水道台帳」によって、白山幹線のルートを追います。ここで左折し、路地に入ります。

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    5. ここでも左折したあと、正面奥で右折です。その後は本来の流路と一致しますが、次回に続きます。

小石川原町

2014-02-12 17:35:44 | 谷端川・小石川4

 東大下水の谷筋を追って、京華通りから白山通りまで来ました。この区間の白山通りは、旧白山通りをショートカットするかたちで、昭和40年代に開通しました。その際、今回の流路はその下に埋もれたため、水路の痕跡は数百メートルにわたって失われました。明治末の「郵便地図」を見ると、東側に大きく蛇行していて、白山通りと重ならないところもありますが、その後の直線的な改修によって、この個所の流路も痕跡を残していません。なお、タイトルの小石川原町ですが、江戸時代は右岸にあった伝通院領の町屋でした。明治に入り、左岸の酒井家下屋敷や(分家のほうの)土井家下屋敷、さらに寺地を併せ、広く流域全体に及ぶ小石川原町となったところです。

 

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    ・ 白山通り  右手に京華女子中・高校のキャンパスがありますが、東側に蛇行していたあたりです。なお、「文京の失われた橋」によると、蛇行の途中に片袖橋が架かっていました。

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    ・ 白山通り  京華女子中・高校の先です。「郵便地図」の描く蛇行をたどっていくと、正面に見える寂円寺との位置関係からして、このあたりで白山通りを横切り、その西側にシフトすることになります。

 <鶏声の井碑>  二枚目の写真の左手、京華女子中・高校の白山通りに面したキャンパスの片隅に、鶏声の井を記念する石碑が据えられています。傍らの解説プレートは、夜毎に鳴く鶏の声に導かれ、金の鶏を堀出したという、例の鶏声ヶ窪の故事を紹介、掘った跡に湧き出た井戸(鶏声の井)を記念して、昭和3年(1928年)に建てたと書いています。当初隣接する旧酒井雅楽頭下屋敷にあったものをここに移したのだそうです。

 

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    ・ 鶏声の井碑  松平定信の詠んだ和歌、「筒井津々いつの暁久みそめて鶏のハ声の名にやたつらん」が刻まれています。

 ところで、「鶏声の井」碑のあった酒井雅楽頭下屋敷は、「鶏声ヶ窪」の故事の舞台となった土井大炊頭下屋敷とは、隣接しているとはいえ数百メートルはずれています。関係する谷筋も別個のもので、白山下で合流しているに過ぎません。それがごっちゃになってしまったのは、「今鶏声が窪と唱える所は東は土井大炊頭下屋敷、西は酒井雅楽頭下屋敷、南は小石川御数寄屋町、駒込片町、北は巣鴨御駕籠町なり」と、「御府内備考」にあるように、鶏声ヶ窪の地名が本来の谷筋を越えて拡張してしまったからで、こうした例は宗慶寺の極楽水のところでも見てきたところです。さらに、石碑がある現在地は、広い意味での鶏声ヶ窪からも外れており、問題を一層混乱させています。(白山通りではなく、せめて旧白山通りに面していればよかったのですが。)

 


指谷町3

2014-02-10 07:41:09 | 谷端川・小石川4

 白山下交差点まで戻ります。→ 「段彩陰影図」で、白山通りと並行している谷筋がテーマですが、こちらのほうが主流扱いで、「御府内備考」も随所で言及しています。例えば合流地点の指谷町一丁目ですが、「下水 幅壱間、但水元は小石川酒井雅楽頭様下屋敷内より流出、夫(それ)より小石川村の内より白山権現裏門前え出、当町え流来水元の義は水道橋へ落入申候」となっています。なお、酒井雅楽頭様下屋敷は、→ 「寛永江戸全図」で、土井大炊頭屋敷の西隣にあり、→ 「東京近傍図」には、白山通り沿いに池が描かれています。その池が水源の一つなのは間違いないとして、「段彩陰影図」で読み取れる谷筋は、不忍通りを越え、豊島区(巣鴨村)境付近までさかのぼることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 京華通り入口の、右手からの合流地点から再開します。

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    2. 水路はこの通りの右手を並行していました。 

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    4. 京華通りは白山通りに合流しますが、水路跡は京華学園のキャンパスで中断します。旗本石河家の屋敷があり、その池も水源の一つでした。

谷頭付近

2014-02-08 07:47:25 | 谷端川・小石川4

 → 「段彩陰影図」から読み取れるように、鶏声ヶ窪の谷筋の先端部分は、本郷通りの西側沿いを、数百メートル並行していました。一帯は(下)駒込村の百姓地でしたが、寛永年間(1624~45年)以降、寺町となり、中には江岸寺のように、明暦の大火(1657年)後当地に移転してきた寺院もあります。こうした寺院境内からのはけ水路が、水上となっていたのでしょうが、その詳細は「郵便地図」にもなく不明です。ところで、「文京の失われた橋」(平成17年 文京ふるさと歴史館友の会)は、東大下水の水源について、「六義園や本駒込二丁目辺りの池」と書いています。「段彩陰影図」の上端の薄いグレイの区画が六義園なので、千川上水の水を利用していた大泉水の余水が水源の一つとなったことは、十分推測できるところではあります。ただ、一次的な文献、地図類では未確認なため、今後の研究課題としておきます。

 

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    ・ 谷筋の底の道路  昨日UPした本郷通りからの→ 写真に写る、谷筋の底にある道路です。「郵便地図」は、このあたりまで、道路やや右手に水路を描いています。

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    ・ 江岸寺門前  本郷通り沿いの寺院のなかで、最も北側に位置しているのが、譜代大名鳥居家の菩提寺、江岸寺です。その門前に埋められた石橋に注目です。 

 <六義園>  五代将軍綱吉の信任厚い側用人だった柳沢吉保は、元禄9年(1695年)、当地に屋敷地を拝領しました。それから七年後、回遊式築山泉水を有する庭園が完成、漢詩や和歌の六種の分類を現わす「六義(りくぎ)」から、六義園と名付けられました。同時期(元禄9年)に開削された千川上水の水を引き、大泉水に落としましたが、あるいは、神田上水と水戸藩邸の関係に類似のものが、当初から想定されていたのかもしれません。

 

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    ・ 六義園正門  五月の連休の時期で、「春の六義園~つつじ・さつきを楽しむ~」を開催中でした。他に春の枝垂桜、秋の紅葉の見ごろには、日没後のライトアップも行われます。

 六義園は綱吉のお気に入りでもあり、生涯に数十回は訪れたといわれています。のち幕末までは、大和郡山柳沢家の下屋敷の庭園として存続、明治に入ると三菱財閥の岩崎家が取得し、赤レンガの塀を設けるなど整備したあと、昭和13年(1928年)に東京市に寄贈、一般公開されることになり、今日に至っています。なお、大泉水の水源だった千川上水ですが、昭和40年代に、白山通り(中山道)を通る都営地下鉄三田線の工事により断水し、その役割を終えました。現在は地下水を利用しています。

 


日光御成道

2014-02-07 07:31:37 | 谷端川・小石川4

 本郷通りは日光御成道と呼ばれていました。歴代将軍が始祖家康を祀る日光東照宮に参拝するため、日光街道の裏街道として整備されたものです。駒込追分(本郷追分)で中山道から分岐し、王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻宿で一泊した後、次の幸手(さって)宿で日光街道に合流します。岩槻藩の参勤交代にも利用され、岩槻街道とも呼ばれていました。なお、将軍が街道を通る時の警備は厳重で、沿道の住人は不自由な思いをしたと解説プレートにありますが、この付近の街道沿いには、吉祥寺をはじめとする寺院も多く配置されており、やはり沿道の治安維持を考慮してのことと思われます。(吉祥寺の所在地の変遷については、→ 「神田上水 / 元吉祥寺」でどうぞ。)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 吉祥寺」  表門の内左右並木の桜ハ、其昔、公(おおやけ)より植させられ、今も春時爛漫たり。

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    ・ 本郷通り  目赤不動から北へ100mほどのところにある、吉祥寺前交差点から駒込駅方面のショットです。正面の信号の右手に吉祥寺山門が設けられています。

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    ・ 本郷通り  吉祥寺前交差点手前から、上掲写真の左手を写しています。本郷通りの西側を今回の谷筋が並行しているのが分かります。 

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    ・ 吉祥寺山門  境内には旃檀林(せんだんりん)と呼ばれた学寮があり、禅学の聖地と目されました。駒澤大学の前身の一つです。

目赤不動

2014-02-06 07:53:07 | 谷端川・小石川4

 「目赤不動堂 大聖山南谷寺、天台上野末、駒込。当寺本尊は伊州赤目山第二世万行和尚廻国の時、いずくの誰ともしらず来りて、尊像をさづけたり。其後当国駒込村の動坂に草庵をむすびて不動尊を建立し、かのさづかりし像を胸中におさめて赤目不動と号す。しかるに寛永の頃、御鷹狩の節御成ありて、堂地を今の所にくだし給ひ、赤目と云を目黒、目白にたいして目赤とよぶべしとの鈞命ありて、目赤といふと也」(「江戸砂子」)

 

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    ・ 本郷通り  「日光御成道  右者町内え百九間弐尺余相掛申候」 街道沿いにあった町屋、駒込浅嘉町に関する「御府内備考」の記述で、道幅は4間ありました。

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    ・ 南谷寺  上掲写真の左手にあって、本郷通りに面しています。奥に見える本堂は一段低くなっていますが、その裏のさらに低いところを、前回の最後にUPした写真の道路は通っています。

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    ・ 南谷寺  右手が目赤不動堂です。なお、冒頭の引用文にある動坂は、ここから800mほど東の不忍通りに下る坂で、不動堂が由来の不動坂が略されたものといわれています。   

 <江戸五色不動>  目赤不動は地名ともなっている目黒、目白などと共に、よく江戸五色不動として扱われ、天海僧正が江戸鎮護のため、東西南北と中央に配置したとか、あるいは五街道に配置したとか、といった伝承も語られたりします。ただ、「江戸砂子」(享保17年 1732年)はもとより、下って「江戸名所図会」(天保5~7年 1834~6年)でも、このような伝承への言及はなく、目青、目黄については、その存在にも触れていません。どうやら、陰陽五行説や風水に基づく伝承が先行し、明治時代になってから五色がそろった、というのが実際のようです。なお、目青不動は世田谷区太子堂の教学院にあり、一方、目黄不動と呼ばれるものは、江戸川区平井の最勝寺、台東区三ノ輪の永久寺など複数ヶ所に及びます。

 


鶏声ヶ窪2

2014-02-05 07:47:01 | 谷端川・小石川4

 中山道(旧白山通り)まで戻り、鶏声ヶ窪にかかわる水路を追います。といっても、これまでのように水路跡と重なる道路はほとんどありません。明治から大正にかけての地図を見ると、土井家下屋敷の名残と思われる池があり、その埋立てによって地形の改変があったのでしょう。なお、→ 「寛永江戸全図」当時は、中山道の両側とも土井大炊頭(大老土井利勝)の下屋敷ですが、利勝の死後、子供達が分家したため、宗家(下総古河藩土井家)の下屋敷は中山道以北に限られることになります。その古河藩下屋敷を中心に、明治に入ると駒込曙町が成立しました。鶏声暁を告ぐから、鶏の声、曙を連想したネーミングで、駒込を冠したのは中山道以北は駒込村に属していたからです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中山道に虎ヶ橋が架かっていました。尾張屋の「駒込辺絵図」には「此辺ケイセイカクボ」と書き込まれています。 

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    2. 池の南端のあたりです。「郵便地図」には、池から流れ出たあと、2.から1.へと向かう水路が描かれています。

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    3. 「地形図」にも描かれた池を二分する道路から、池の北端にかけてです。 

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    4. 南谷寺裏に出ます。「郵便地図」の水路は南谷寺裏の道路のやや南側を流れ、池に注いでいました。

白山神社

2014-02-04 09:54:47 | 谷端川・小石川4

  白山神社の創建の詳細は不明ですが、天暦年間(947~57年)に加賀一宮白山神社を本郷元町(現本郷一丁目)に勧請、と伝えられています。元和年間(1615~24年)には、2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現小石川植物園内)に遷りますが、のちに5代将軍となる館林藩主綱吉の屋敷(小石川御殿)造営のため、現在地に再度移転しました。明暦元年(1655年)のことです。なお、小石川御殿の地にあった当時は、氷川神社などと並んでいたといわれています。「相伝、当社は元和三年の勧請なりといへり。当社古(いにしえ)白山御殿の地にありて、氷川明神女体宮と共に並びてありしかども、彼地に御殿営作せられし頃今の地へ遷座なし奉ると也」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 小石川白山権現社」  右上隅の表参道部分を拡大したのが、→ こちらです。白山坂上から下ったところに表門がありますが、その直前に橋が架かっています。昨日UPの→ 写真の谷筋と同じ位置関係です。  

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    ・ 白山神社  白山坂からの表参道です。左右には白山社地門前と称する町屋が、小石川御殿造営の始まった慶安4年(1651年)以降、徐々に成立しました。

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    ・ 白山神社  社殿裏には明治42年(1909年)に開園した、文京区最古の白山公園があります。境内から公園にかけて、3000株のアジサイが植えられています。

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    ・ 白山富士  社殿裏には富士塚(白山富士)も設けられています。普段はフェンスで守られていますが、毎年6月に開催される文京あじさいまつりの期間は開放されます。

鶏声ヶ窪

2014-02-03 10:22:32 | 谷端川・小石川4

 「鶏声ヶ窪  駒込竹町の先、むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、夜ごとに鶏の声あり、あやしみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御やしきの内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のにはとり掘出せり、よってかく名に成りたるといふ。」(「江戸砂子」) 「今鶏声か窪と唱へる所は東は土井大炊頭下屋敷、西は酒井雅楽頭下屋敷、南は小石川御数寄屋町、駒込片町、北は巣鴨御駕籠町なりと、」(「御府内備考」) 小石川御数寄屋町や駒込片町(竹町はその小名)は白山坂上にある町屋で、酒井家下屋敷は土井屋敷の西隣でした。→ 「寛永江戸全図」でわかるように、土井屋敷前後の板橋道(中山道、旧白山通り)沿いが、鶏声ヶ窪と呼ばれていたことになります。なお、土井屋敷には鶏声塚と称する塚があり、→ 「神田上水 / 茗荷谷3」で触れたものと並んで、大塚の地名由来となったとする説があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 都営三田線白山駅の先で、白山神社に向かう参道を横切ります。 

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    2. 左右にお寺がありますが、右手が坂名の由来の薬師堂のあった医王山妙清寺です。

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    3. 右写真は白山坂上からのショットですが、撮影地点付近にあった町屋が小石川御数寄屋町(通称白山坂上町)です。 

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    4. 左カーブで北西に向きを転じます。

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    5. 東洋大キャンパスに突き当たって中断しますが、この先右折して旧白山通りを越えます。

指ヶ谷町2

2014-02-01 10:44:20 | 谷端川・小石川4

 白山下交差点の北側で、東大下水の水元となる二本の水路が合流していました。→ 「段彩陰影図」から読み取れる二本の谷筋にかかわるもので、今回からしばらく、東側の本郷通り(岩槻街道)に沿っているほうを扱います。ただ、こちらの下水については、「御府内備考」は全く触れておらず、明治以降の地形図にも描かれていません。「郵便地図」など限られた地図類で確認できるだけですが、実際に歩いてみると、思いのほか痕跡は残されています。なお、この谷筋との関係で、「鶏声ヶ窪」の伝承や「虎が橋」の名前が出てきますが、その詳細は次回以降とします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 京華通り入口の右手に、建物の間の狭いスペースが顔をのぞかせています。 

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    2. 通り抜けは出来そうもないのですが、それでも100m近く続いています。  

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    3. 浄雲院心光寺門前は低くなっていて、おそらく水路が横切っていたのでしょう。白山坂の別名、浄雲寺坂の由来となったお寺です。  

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    4. 都営三田線白山駅の横から始まるこの通りが、「郵便地図」の描く水路とおおむね重なります。

 <薬師坂>  白山下交差点から本郷台への坂は、白山神社にちなんだ白山坂、浄雲院心光寺(元は淨雲寺、心光寺の二寺)にちなんだ淨雲寺坂のほか、薬師坂(薬師寺坂)とも呼ばれていました。「御府内備考」の白山前町のところにある名前で、「坂 長七間半、巾弐間 右当町北野方に有之候、尤(もっとも)同所妙清寺に薬師堂有之候に付里俗に薬師坂と相唱申候」となっています。なお、医王山妙清寺は薬師如来を本尊とし、明暦の大火(1657年)後白山坂上に移転してきました。当時は「鶏声ヶ窪の薬師寺」と呼ばれていたようです。

 


指ヶ谷町

2014-01-31 07:28:12 | 谷端川・小石川4

 「当町の儀は往古武州豊島郡小石川村御料所に候処、元和九亥年(1623年)中伝通院様御仏供料に相成、・・・・町方起立の儀は寛永十一戊年(1634年)百姓町屋御免被仰付、其後延享二丑年(1745年)町奉行御支配に相成候、・・・・町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名と相成候儀と奉存候」 「御府内備考」の指谷壱丁目の記述です。指谷自体の由来については触れていませんが、「江戸砂子」には、「寛永の頃は町並みなく、木立の茂りたる谷也。御鷹それし時あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」とあります。指谷一、二丁目、南片町がありましたが、明治に入り千川屋敷や武家地、寺地を併せ、(小石川)指ヶ谷(さすがや)町となりました。なお、「さしがや」との読みも併存しています。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 小石川2」  中央で二つの谷筋が合流している付近が指谷で、岬状に突き出す台地の先に白山神社が祀られています。なお、オレンジ線は区境ですが、大半が文京区です。

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    ・ 白山下交差点  正面が小石川台に上る蓮華寺坂、右手手前が白山坂、左手手前が浄心寺坂でいずれも本郷台に上ります。江戸時代には五差路でしたが、明治末に旧白山通りが開通し、六差路になりました。  

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    ・ 浄心寺坂  → 「江戸名所図会 / 丸山浄心寺」にも描かれており、坂の中腹にある浄心寺からのネーミングです。坂下の左手には千川屋敷がありました。右手には八百屋お七の墓所のある円城寺が現存しています。 

 <「寛永図」と指谷>  白山下交差点の六差路は、上述の通り江戸時代は五差路でしたが、寛永19年(1642年)頃とされる → 「寛永江戸全図」でも、「連花寺」(蓮華寺)下に五差路が描かれています。注目は白山坂下を横切る川が描かれていることで、前後は省略されていますが、目下追っている水路と思われます。(図中の濃いグレイは崖面を現わしており、薄いブルーの田地とあわせ、今回の谷筋の概略が分かります。)
 白山坂下には橋も架かっていますが、「御府内備考」当時は「長弐間、巾ニ間」の板橋で、「文京の失われた橋」(平成17年 文京ふるさと歴史館友の会)に百合(ひゃくごう)橋とあるものなのでしょう。なお、白山神社が描かれていませんが、「寛永図」の時代には、現小石川植物園内にあり、館林藩主(後の5代将軍)綱吉の御殿建設に伴い、当地に遷ったのは明暦元年(1655年)のことです。

 


千川屋敷

2014-01-30 07:53:48 | 谷端川・小石川4

 「下水堀 巾三尺、右北の方小石川村酒井雅楽頭様御下屋敷より流出、指谷町通りより武家屋敷境通り小石川馬場の方え相流申候、尤(もっとも)下水上橋の儀は指谷町にて申上候」 「御府内備考」の白山前町千川屋敷の記述です。千川屋敷は都道301号線(旧白山通り)、白山下交差点の南側にあった拝領町屋敷でした。ちなみに、引用文中の指谷町は通りを隔てた北側にあり、「指谷町通りより武家屋敷境通り」は、現京華通りから目下たどっている路地にかけてです。なお、千川屋敷の名前ですが、千川上水開設を請け負った多磨郡仙川村出身の徳兵衛、太兵衛の両名は、その功により上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得るとともに、千川の苗字と帯刀が許されました。そのうち、太兵衛は当地に200坪余の土地を与えられ、屋敷を構えたことから、以後千川屋敷と呼ばれるようになったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 「御府内備考」が「武家屋敷境通り」と呼んでいるところで、通りの左右には短冊状の武家屋敷が並んでいました。 

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    2. 路地はフェイドアウトしますが、「郵便地図」などは現白山下交差点からここまでの水路を描いています。

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    3. 「郵便地図」はこのルートの水路も描いていますが、下水道白山幹線が利用しているはこちらです。 

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    4. 白山下交差点です。正面奥に入る京華通りに連続します。