東大下水の最後のまとめとして、その谷頭付近で互いに接していた小石川、巣鴨、(下)駒込三村の境がテーマです。「東京近傍図」のオレンジ線は、現行の豊島区と文京区の区境で、旧巣鴨、小石川の村境をおおむね引き継ぎました。ただ、旧巣鴨村に属しながら小石川区に編入され、現在は文京区のところもあり、また、左上隅にある巣鴨町(1~4丁目)は、「近傍図」当時は小石川区でしたが、明治22年(1889年)、北豊島郡巣鴨町となって分離しています。一方、オレンジ細線は小石川区と本郷区の境で、こちらは大きな出入りなしに、小石川村と(下)駒込村の境を引き継ぎました。この区境は「近傍図」にも黒丸で書き込まれています。
- ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。ブルーで重ねたのは、「郵便地図」などの描く明治から大正にかけての東大下水の流路です。
「駒込は古き地名なる由は既に駒込村の条に弁ぜり、今御府内に属する地域の大概、南は本郷に続き、北は巣鴨、西ヶ原に及ひ、東は谷中に接り、西は小石川、巣鴨に並ベリ、されどその内年貢上納地の武家屋敷等入雑りたれば、巨細には弁じがたし」(「御府内備考」)「上駒込村は、日本橋の北凡一里二十町にあり、『小田原役帳』に、遠山弥九郎が知行三十六貫文江戸駒込と記す、正保の改に駒込村御料所の外天沢寺伝通院領入会の由を載す、天沢寺領と云るは今下村にあり、元禄改にも尚一村になしたれは上下二村に分れしは近年の事なり」(「新編武蔵風土記稿」)
- ・ 富士神社 天正元年(1573年)本郷の地に富士浅間神社を勧請、寛永5年(1628年)加賀藩上屋敷のため上地となった後、当地へ移転しました。境内にある → 富士塚(駒込富士)は、古墳ともいわれています。
駒込の地名由来に関し、「江戸砂子」は「日本武尊、高きより味方の勢を御覧じて、扨も駒こみたりと宣しより名付と也。根津の縁起の中に見えたり」と書いています。日本武尊とのかかわりはともかく、駒が込み合った様子から馬の放牧場とする説が有力で、よく牛込と対比されますが、他に高麗人が多く住んでいたの意で、「高麗籠」が転訛したとの説もあります。なお、文献上の初出は上記「小田原役帳」ですが、「新編武蔵風土記稿」は当地の旧家今井氏が、文明年間(1469~87年)に村に定住、開拓したとの伝承を収録しています。江戸時代に上下に分かれ、主に日光御成道沿いに駒込片町などの町屋が成立しました。