神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

明治の付替え2

2018-10-31 06:30:49 | 蟹川

 済松寺裏の起点から明治末の付替えのルートを追って北上、早大通りを越えたところから新目白通りまでです。人工的な付替えのため、水路跡にありがちな蛇行もなく、ごく単調なウォーク&ウォッチですが、唯一見どころは蟹川本流及び中川の合流地点が確認できることです。なお、この水路を地形図で追ってみると、「昭和4年第三回修正」では一部なくなり、「昭和12年第四回修正」には合流している水路を含め全くありません。その間に暗渠化されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新宿山吹高校キャンパスの西縁を離れ、早大通りを越えます。

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    2. 左手から蟹川本流の合流があり、右写真はその跡と重なる道路です。 

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    3. 地蔵通りの延長上の通りを越えます。  

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    4. この付近で中川とクロスしていたはずですが、その流路と重なる道路はありません。

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    5. 新目白通りを越えます。越えた先の高架は首都高早稲田出口、その下が一休橋です。

明治の付替え

2018-10-30 06:01:35 | 蟹川

 下掲「明治42年測図」で新たに出現した、済松寺裏からほぼ直線で北に向かう水路に注目です。ここに弁天町方面からの支流、蟹川本流、中川を合流させ、現一休橋付近で神田川に余水を落としており、こうした付替えによって、下流の市街地に向かっていた水路を切り離し、洪水時の浸水対策にしたものと思われます。付替え時期は文献的には未確認ですが、明治40年発行の「郵便地図」は従来のままなので、40年代の初めになされたのでしょう。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の「実測図」は→ こちらで、その主要な流路をブルーで重ねています。 

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    ・ 新水路の起点  済松寺裏の付替え後の水路の起点です。前回最後の→ 写真と同じT字路を向きを変えて撮影したもので、右手が新宿山吹高校、正面が早大通りです。 

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    ・ 合流地点  新目白通りを越えた先から一休橋方向です。橋の傍らには「一休橋の由来」の石碑があり、「橋畔に一休名残蕎麦なる名物」から名付けられました。 

 <関口橋(一休橋)>  「関口橋は水道町の内と水洗堰の下流に渡せり里俗一休橋と称す」(「御府内備考」) 一方享保20年(1736年)発刊の「続江戸砂子」は「名残橋」とし、「此所に一休み名残の蕎麦といふ看板を出せし者あり。いつとなく此名を呼て橋の名となれり」と書いています。いずれにしても、橋の架けられていたのは現一休橋よりだいぶ下流でした。なお、同書は大洗堰以降の橋名を名残橋、九丁目の橋、麁朶(そだ)橋、掃部(かもん)橋、大橋としています。二番目の橋には「音羽町九丁目」と注記があり、現江戸川橋のことでしょう。また麁朶橋は古川橋、大橋は石切橋の別名です。 

 


中里村2

2018-10-29 06:57:15 | 蟹川

 蟹川をさかのぼって新宿山吹高校手前に差し掛かります。ここは蟹川本流と弁天町方面からの支流の合流地点で、「御府内備考」が谷頭に近い(市ヶ谷)柳町のところで、「弁財天町脇済松寺裏を廻中里村大下水え落合」と書いているところです。本流は右手から、支流は左手から合流していましたが、明治末の付替えと引き続く山吹小学校の開校などで、現在は新宿山吹高校キャンパスとなっている区画の痕跡は失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 本流に戻り再びクネッた路地を西に向います。 

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    2. 本流と弁天町からの支流の合流地点です。ひとまず支流の方を追って左手に向かいます。

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    3. 新宿山吹高校キャンパスに沿ったあと横切ります。右写真は左手からのショットで、キャンパスは低くなっています。

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    4. キャンパスの西側です。外苑東通りの手前で左カーブですが、その先は通りと重なりいったん痕跡は失われます。 

中里村

2018-10-27 06:18:55 | 蟹川

 中川と蟹川の合流地点に戻り、蟹川本流をさかのぼります。しばらくは水路跡はそのままクネッた道路となっていて、江戸川橋通りを越え、新宿山吹高校に向うところまでです。なお、タイトルの中里村は「新編武蔵風土記稿」に「東西四町南北二町家数五」とある小村です。明治に入りその大半は牛込山吹町となり、のち牛込が取れて現在に至っています。中里は早稲田と神楽坂の間の意とされ、一方、山吹は太田道灌の山吹の里伝説が由来です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中川との合流地点に戻り、改めて蟹川をさかのぼります。 

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    2. 江戸川橋通りに向かいます。早稲田通りと江戸川橋を結び、明治末に開通した直線道路です。

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    3. 江戸川橋通りの先の直線道路を越えます。この通りは古く→ 「寛文図」にも描かれています。  

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    4. 左手から合流する路地も水路跡でした。

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    5. すぐ右折して終了です。この路地が中里村の南縁にあたり、現在も山吹町と天神町の境になっています。

牛込村

2018-10-26 06:03:55 | 蟹川

 蟹川の合流地点は小日向村に属し、また中川の流域は関口村にもかかわりますが、両村とも本体は神田川左岸にあるため、詳細はその際扱として、ここでは、これからの流域にあたる戸塚、早稲田村などが属していたとされる、広域村名としての牛込村をテーマとします。「牛込村は古広き地にて、今牛込の町々及早稲田中里戸塚の辺都て当村の地域なりしが、御打入の後年を追て武家及寺社の拝領地又は町屋となりしゆへ、今全く村と唱ふる所は、早稲田下戸塚の間にて纔に残れり」「新編武蔵風土記稿」は続けて地名由来にも言及しています。「或書に当国は往古広野の地にして、駒込馬込など云も皆牧ありし所とみゆ、込は和字にて多く集る意なり、爰も牛の多く居りし所なれば名づけしとあれど其據をしらす」

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は牛込区当時の区境です。また、下部の薄グリーンは尾張家上屋敷、現防衛省で、こちらの属する広域地名は市ヶ谷です。 

 大宝律令(大宝元年 701年)により設置された国営の「神崎牛牧」が、当地にあったとする説もあります。牛込の地名の初見は歴応3年(1340年)の文書で、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ 領主のいないところ)」を江戸氏に預け置くとする内容です。戦国時代には、上野国赤城山麓から移住した大胡氏が、小田原北条家の家臣となって支配し、「小田原衆所領役帳」によると、牛込(64貫430文)、比々谷本郷(67貫780文)、堀切(45貫文)を知行地としています。なお、大胡氏は天文24年(1555年)には牛込氏に改名、小田原落城後は徳川幕府の旗本として存続しました。赤城神社の勧請や宗参寺の創建など、牛込の地に大きな足跡を残した一族です。

 

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    ・ 赤城神社  穴八幡と並ぶ牛込の総鎮守です。社伝によると、当初は早稲田村田島にありましたが、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔(牛込勝行)が現在地に遷しました。

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    ・ 牛込城跡地  この一帯は江戸城を望む牛込台東南端で、牛込氏の居城があったと考えられています。現在ある光照寺は、正保2年(1645年)に神田から移転してきました。

中川2

2018-10-25 06:26:00 | 蟹川

 江戸川通りを越えた先の中川上流の痕跡は失われました。明治末から大正にかけて、宅地造成が進行したためです。これに加えて、流路と重なる形で現在の新目白通りが開通し、大正7年(1918年)に市電江戸川線早稲田車庫が設けられたことも大きく影響しました。江戸時代から町屋だった下流のほうは、今でも跡をたどれるのと好対照ですが、宅地化が遅れたぶん大規模造成となり、水路の痕跡が失われるのは、これまでも度々見てきたところです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 早稲田」 神田川をブルーで、新目白通りと外苑東通りをグレーで重ねています。薄緑は大隈邸跡地の大隈庭園です。

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    ・ 新目白通り  外苑東通りとの鶴巻町交差点から西に向かってのショットです。ここから上流の中川の流路は、大半が新目白通りと重なります。 

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    ・ 新目白通り  上掲写真から500mほど西の中川の最上流にあたり、右手前は都交通局早稲田営業所、奥はリーガロイヤルホテルや大隈会館です。 

 中川の水源については、地図や文献ごとに異同がありますが、大別すると三種類で、下戸塚村の田圃を灌漑していた天水の余水とするもの、蟹川と結びつけその分流とするもの、そして→ 「寛文図」に描かれた駒塚(駒留)橋付近からの分水で、これは「上水記」にある「関口村田用水」と附合します。ただ、「御府内沿革図書」の→ 附図に神田川からの分水は描かれておらず、関口、小日向両村の町屋化に伴い、19世紀の中頃までには廃止になったことが想定されます。あるいは、「新編武蔵風土記稿」の小日向町在方分に、「用水は神田上水を引沃く」とあるのに対し、関口町在方分に記述がないのは、「新編武蔵風土記稿」の時期(19世紀初頭の文化、文政期)は過渡期だったためかもしれません。

 


中川

2018-10-24 06:25:09 | 蟹川

 前回の最後で文京、新宿の区境に沿いましたが、その先で区境が右手に離れるところがあります。そこが中川との合流地点でした。中川の名は、「新編武蔵風土記稿」の早稲田村や中里村のところで、蟹川を指す「戸山落」と並んで登場、「東京府志料」も早稲田村の項で、「用水ハ下戸塚ニ流ルル加奈川ト中川ノ下水ヲ引キ用ユ」と書いています。名前の由来は神田川本流と蟹川の間にあって、ともに東に向かって流れているためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右折して蟹川本流から離れ、すぐ左手の路地を入ります。

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    2. この路地が中里村と小日向村の境で、現在は左手新宿区(山吹町)、右手文京区(関口1丁目)です。 

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    3. 地蔵通り手前で、水路跡は失われます。祀られている子育て地蔵は、明治の初め江戸川の氾濫の際、流れ着いたとか。 

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    4. やや北に向かった後、区境と離れ左折して江戸川通りを越えますが、その先重なる通りはありません。

小日向古川町

2018-10-23 06:34:34 | 蟹川

 蟹川は小日向松ヶ枝町と小日向西古川町の間を流れ、華水橋と掃部橋の間で江戸川(神田川)に合流していました。掃部(かもん)橋は江戸時代からの橋で、「吉岡掃部といへる紺屋のありしゆえの名」だと、「御府内備考」は書いています。なお、古川町の古川ですが、「江戸名所図会」は蟹川(金川)のところで、「今は古川と唱えたり」と割注を入れており、一方、「御府内備考」は江戸川に関し、「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由申伝候」としています。いずれにしても、当所を流れる川の名前が由来なのは間違いありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 華水橋と掃部橋の間の合流地点からさかのぼります。   

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    2. 人工的な付替えの結果と思われる直線コースが、およそ180mほど続きます。

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    3. 地蔵通りを越えます。名前の由来の子育て地蔵に関しては、次回その前を通る時に触れます。  

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    4. 突き当りを右折したところです。右折直前から、右手文京、左手新宿の区境に沿い始めます。

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    5. 左カーブの先で右折、西に向います。この区画も引き続き区境です。

江戸川と蟹川

2018-10-22 06:17:22 | 蟹川

 蟹川が神田川に合流するところの町名(小日向古川町)は、神田川の古名がその由来です。「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由申伝候」(「御府内備考」) 引用文中の万治年中(1658~61年)は、牛込までの通船を可能にした神田川の拡張工事が、仙台藩によって行われた時期で、工事によってでた残土を利用して、白鳥橋のある大曲前後を宅地造成したといわれています。神田川改修と宅地造成はさらに上流に及び、蟹川の合流地点の東側にある小日向西古川町が町屋となったのは寛文元年(1661年)、さらに宝永3年(1706年)、西隣にあって小日向村の畑地だった松ヶ枝町が町屋となります。

 

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    ・ 「新版江戸外絵図」  寛文12年(1672年)の「新版江戸外絵図」(寛文図第四)をベースに、蟹川、中川にかかわる部分をイラスト化しました。薄いブルーは田と書き込みのある区画で、道路は主要なものだけをピックアップしています。

 これら二つの時期の中間に位置する「寛文図」では、今日と同じく直線となった江戸川下流に対し、まだくねっている合流地点の蟹川、中川ですが、松ヶ枝町が町屋となったころまでには直線的に付け替えられ、大下水化したものと思われます。その正確な時期は不明ですが、江戸図で現行のように描かれている最初は、(目にした限りでは)宝暦7年(1757年)の「分間江戸大絵図」です。なお、「寛文図」の合流地点は弦巻川の向い、現江戸川橋のところになっており、現在確認できるものより200mほど上流です。おそらく、最も下流にある田圃の縁まで流れ、そこで合流するよう付替えられたのでしょう。

 

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    ・ 神田川  江戸川橋の次の華水橋から下流方向で、左カーブのところに架かっているのが掃部(かもん)橋、右手の高架は首都高5号池袋線です。掃部橋手前が蟹川の付替え後の合流地点です。

 <寛文五枚図>  「新版江戸大図会」及び4枚の「新版江戸外絵図」は、明暦3年(1857年)の大火後、幕命により大目付、北条安房守氏長(正房)の指揮の元、金沢清左衛門などが行った実測をもとに、幕府の許可を得て寛文10~13年(1670~73年)に刊行されました。正確な方位と一分を五間とする縮尺(1/3250)によって、当時の江戸全体を描いています。なお作者の遠近道印(おちこちどういん)には諸説ありますが、富山藩の藩医であった藤井半知説が有力です。

 


蟹川(金川)

2018-10-20 06:05:18 | 蟹川

  蟹川は金川とも呼ばれていました。「金川 同所穴八幡の前を、早稲田の方へ流るゝ小川を云うとなり。今は古川と唱えたり。水源は戸山御庭中より発するところなり。文明年間太田道灌遊猟の時、急雨に逢しは此地にして、昔は川の幅も広かりしとなり。其頃は加奈川又加能川とも称けるとなり。或は蟹川に作る」(「江戸名所図会」) 名前の由来としては、鉄分を含んで赤茶けた川をそう呼ぶことがあるようですが、今回の場合当てはまるかどうかは不明です。

 

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    ・ 蟹川全図  内務省地理局作成の「東京実測図」(明治18年版権届明治20年出版など)をベースに、蟹川の流路を現在の地図に重ねました。ほぼ中央にあるのが戸山公園で、元の尾張藩下屋敷(戸山屋敷)です。 

 蟹川の谷頭は大久保村周辺にありました。「新編武蔵風土記稿」は東大久保村のところで、「内藤新宿より来る細流、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」としていますが、前者は甲州街道に面した太宗寺付近からの流れ、後者は西武新宿駅裏から発し、今は文化センター通りとなっている流れで、東大久保村の鎮守だった西向天神下で落合い、北上して戸山屋敷へと向かい、その大泉水に水をたたえた後、穴八幡前へ流れ出て下戸塚村以下の用水となっていました。「下戸塚村は・・・・戸山屋敷より出る小流を用水とす」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 穴八幡門前  早稲田通りと諏訪通りの馬場下町交差点越しのショットです。手前の横断歩道のあたりを左から右に流れ、そこに駒留橋が架かっていました。 

 戸山屋敷、下戸塚村以降の流路を「新編武蔵風土記稿」の記述で追います。「堀 戸山落と呼ぶ、或は一本橋川とも云、尾張殿戸山屋敷より流れ出、下戸塚を経て当村に入、村内へ用水とし早稲田村に達す、幅六尺」(牛込村)、「堀二 一は戸山落なり牛込村より入中里村に達す、一は中川と呼下戸塚村より来り是も中里村に入、共に幅六尺」(早稲田村)、「堀二 一は戸山落一は中川なり、共に早稲田村より入関口村に達す、幅六尺」(中里村) 中川は→ 「下戸塚村用水」で扱った蟹川の分流、ないし支流で、蟹川と神田川の間にあることからそう呼ばれました。最後は合流した中川と蟹川の流末に関する「御府内備考」の記述です。「大下水 幅凡六尺程、右者町内西の方南より北の方え凡廿間程相流、夫より江戸川え落入申候」(小日向西古川町)

 


蟹ヶ窪と根津山

2018-10-19 06:13:09 | 弦巻川・水窪川

 池袋村に入ったところにある谷頭は、蟹ヶ窪と呼ばれていました。明治11年(1878年)の「東京府村誌」に、「西山ノ南ヨリ雑司ヶ谷村ニ連ナリ」と書かれた池袋村の字で、のち巣鴨村大字池袋の字に引き継がれましたが、昭和7年(1932年)に豊島区池袋(現東池袋)1丁目となって消滅しました。一方、雑司ヶ谷側には御鷹方組屋敷、そして、三千石の旗本、中西家の屋敷があり、中西の森と通称されていましたが、明治の後半には、東武鉄道の創業者、根津嘉一郎の所有となったことから、根津山と呼ばれることになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  池袋駅東口の明治通りや五差路など、主要な道路をグレーで重ねています。

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    ・ 東池袋交差点  上掲地図の右下隅にあたるグリーン大通りの交差点で、右手の高架は首都高池袋線です。このあたりが小高い丘になっていて、根津山の中心でした。

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    ・ 美久仁小路付近  上掲写真正面裏手の一角は飲食店街になっていますが、周囲に比べやや低地になっていて、谷筋にあるのが分かります。

 根津山に開発の手が入ったのは昭和7年(1932年)、「永き懸案であった根津山開発の事は漸く其の緒に就き、池袋駅前の環状線道路の東側より根津山を縦断して、水久保に通ずる道路と同林野の周囲を通ずる道路との築造成り、其の東南端に下水道の製管工場設置せらる」、そう翌年発行の「高田町史」は記述しています。現在はグリーン大通りと呼ばれている改正通りが、根津山を縦断して開通したのは昭和12年、前回UPの→ 「第四回修正」にあるその北側の谷筋沿いの通りも、同時期に開設されました。「高田町史」には根津山の下水道工事の→ 写真が掲載されていますが、あるいはこの谷筋沿いの通りにあって、水窪川の機能を代替しているものかもしれません。


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2018-10-18 06:17:41 | 弦巻川・水窪川

 水窪川をさかのぼっての最後で、文化会館前の通りを越え、北西に向かいますが、この区間の水路跡と重なる道路はありません。ただ、日之出町公園前を通るものが谷筋と重なり、昭和の初めに開通しているため、あるいは、暗渠化の結果なのかもしれません。なお、この通りが首都高と交差するあたりが、巣鴨、雑司ヶ谷、池袋三村の境でした。→ 「池袋村絵図」の右下隅の巣鴨、雑司ヶ谷と接するところに、短い水路が描かれており、→ 「巣鴨村絵図」の左端にあって、水窪川の先端が池袋村にかかっている個所と一致します。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の→「明治42年測図」と比べてください。

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    1. 文化会館前の通りを越えます。右写真は南側からの撮影で、横断歩道付近を谷筋が横切っています。 

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    2. 日之出町公園前です。明治に入り、御鷹方組屋敷などが雑司ヶ谷旭出町を形成、のち日出町となりました。 

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    3. この通りはおおむね雑司ヶ谷、巣鴨村境と一致し、細長い田圃はこの右手にありました。

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    4. 首都高5号池袋線の下を通過します。巣鴨、池袋の村絵図で、両村の境となっているあたりです。

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2018-10-17 06:12:53 | 弦巻川・水窪川

 水窪川の流域で田圃があったのは谷頭の字水久保のみでした。それも大半は巣鴨村に属しており、前々回UPの→ 「巣鴨村絵図」に描かれている通りです。一方、雑司ヶ谷村に属する田圃は、右岸にはみ出した一部のみで、これは→ 「雑司ヶ谷村絵図」の右上隅の描き方とも一致します。前回はこうした水久保田圃の、主に南縁に沿っていた水路がテーマでしたが、今回は北縁と重なる道路をたどります。こちらに水路があったかは不明なので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。なお、中央から左上隅に向かう破線が巣鴨、高田の村境です。

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    1. 水路跡の右手を並行するこの道路が、田圃の北縁とおおむね重なります。

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    2. 右カーブの連続で左手に孤を描いています。 

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    3. 左手にあった水路との間は最大でも二十数メートル、細長い田圃でした。

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    4. 突き当りで右カーブ、文化会館前の通りに出ます。

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2018-10-16 05:55:47 | 弦巻川・水窪川

 水窪川の水元について「御府内備考」は、「巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際」としていますが、その一帯の字が水久保でした。「新編武蔵風土記稿」によると、雑司ヶ谷村、巣鴨村どちらの小名にも水久保があり、当初は両村にまたがっていたものと思われます。明治に入り、高田村大字雑司ヶ谷の字水久保、水久保新田に引き継がれましたが、巣鴨村大字巣鴨の字からは失われ、かわって巣鴨監獄のある字向原となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 再度右カーブで都電荒川線に接し、しばらくに並行します。

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    2. 突き当りで中断です。なお、この付近の村境は都電の南側を並行する道路にありました。

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    3. 一つ南の道路で再開します。このあたりから村境と重なっていました。  

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    4. 蛇行しながら都電荒川線を離れ、西に向います。

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    5. 右折して文化会館前の通りに向かいます。通りと一致するのはここまでです。  

巣鴨村

2018-10-15 05:23:22 | 弦巻川・水窪川

 「巣鴨村は、日本橋より行程一里半、・・・・南は小石川大塚町巣鴨辻町坤は小石川大塚町、西は小石川雑司ヶ谷池袋の三村、・・・・東西凡二十町南北凡十五町、民戸百十三、・・・・村内艮の方に中山道係る幅五六間、又上板橋村に達する道あり、中間辻町より分て西ヶ原村の方に往く路を王子道と云」(「新編武蔵風土記稿」) 中山道沿いは町屋となって巣鴨町を名乗り、また、上板橋道(現春日通り)と王子道の追分に起立したのが巣鴨辻町でした。用水は谷端川(小石川)が主で、「風土記稿」に水窪川に関する記述はありません。

 

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    ・ 「巣鴨村絵図」  「豊島区地域地図」第7集(平成21年 豊島区立郷土資料館)に収録された、享和元年(1801年)作成の「巣鴨村絵図」(東京都公文書館蔵)を元にイラスト化しました。 

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    ・ 大塚駅前  谷端川は大塚駅前で都電荒川線と交差、その先の信号が王子道(「村絵図」中では大塚道)で、このあたりが巣鴨村の本村でした。

 雑司ヶ谷村との境に近い巣鴨村字向原の地に、明治28年(1895年)面積6万坪、長方形の敷地を持つ警視庁監獄巣鴨支庁が設置されました。その後巣鴨監獄、巣鴨プリズン、東京拘置所など、名称と管轄を変えながら継続、昭和46年(1971年)に、東京拘置所の小菅移転に伴い建物は解体、撤去されました。跡地にサンシャイン60やサンシャインシティが開業したのは、それから7年後のことです。

 

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    ・ 造幣局東京支局、 右手奥のサンシャインシティ、サンシャイン60と共に、跡地の南半分を占めています。手前の道路は坂下通りで、富士見坂下と巣鴨監獄の正門を結んでいました。