旧田町五、六丁目境で合流していた下水を追っての二回目で、桐畑橋の架かっていたところから、右岸段丘の裾を回り込むようにして西に向います。この台上には江戸時代、備前福岡藩黒田家と肥後人吉藩相良家の屋敷があり、明治に入りその合成から赤坂福吉町を名乗ります。一方、左岸には安芸広島藩浅野家の屋敷がありました。その間の今回の谷筋には、旗本、御家人クラスの屋敷が短冊状に並んでおり、鬼平こと長谷川平蔵も当地で幼少期を過ごしました。こうした造成、分譲地の例にもれず、赤坂築地と通称されたところです。前々回UPの→ 「明暦江戸大絵図」では「明地」となっていて分譲前ですが、「寛文図」(寛文13年 1673年)では、個人名が細かく書き込まれています。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」 大下水(赤坂川)は道路化し、今回の下水も外堀通りを越えた先で合流するよう付替えられています。
- 1. 右岸段丘の裾を回り込むところです。「明暦図」当時から幕末に至るまで、段丘上には肥後人吉藩相良家下屋敷がありました。
- 2. ここで正面と右手、二本の合流がありました。上掲「地形図」に描かれているのは右手からの水路です。
- 3. 赤坂築地の中央にあり、中ノ町と通称された通りです。ここに水路を描く地図もあります。
- 4. 赤坂通りに出て左折します。「明治42年測図」では途切れますが、「郵便地図」はこの先からの水路を描いています。