神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

合流・山崎橋

2015-09-09 07:07:54 | 千川用水5

 二つの溜池を水源とする水路は、右岸段丘の裾をめぐり、川越街道手前の山崎橋で石神井川に合流していました。もっとも、こうなったのは昭和10年頃の区画整理の結果で、本来の合流地点は→ 「段彩陰影図」に重ねたように、現在の川越街道に架かる上板橋付近でした。段丘の裾をめぐり、可能な限り下流に向かうのが灌漑用水のパターンで、一方、区画整理後、排水路へと機能変更した水路は、みな直線化して最短距離で合流しています。今回の水路の場合も、エンガ堀との合流地点など、直線化しているのは同じ区画整理時です。なお、合流地点の橋名は当時の字によっていて、「いたばしの地名」によると、一帯の通称、山崎田んぼは田毎の月の名所として知られていました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 練馬」  同一個所、同一縮尺の「昭和4年第三回修正測図」は→ こちらです。区画整理前後の変化が分かります。

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    ・ 水路跡の道路  前回UPの最後の写真から240mほどで山崎橋ですが、その途中の写真です。上掲「第四回測図」ではこの幅広道路の右側に水路が描かれています。

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    ・ 石神井川  山崎橋から下流方向です。奥に見えるのが川越街道に架かる上板橋で、本来の合流地点のあったところ、そこまでの右手が山崎田んぼ跡です。

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    ・ 下頭(げとう)橋  上板橋の一つ下流の橋で、旧川越街道に架かっています。傍らの六蔵祠には、喜捨を得て石橋に架け替えた乞食六蔵の伝承があり、橋名の由来の一説ともなっています。

溜池の水路4

2015-09-08 07:53:51 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追っての四回目で、大谷口溜池から本線に戻り、引き続き東に向かいます。途中、車止めやコンクリート蓋など、明らかに水路跡とわかる個所が200mほど残されています。ところで、向原溜池を出てから地蔵坂下までの前半は、今回の流路が向原と大谷口の二つの字を分けていました。一方、地蔵坂下以降ここまで、右岸は引き続き大谷口ですが、左岸の字は山崎に変わります。ただ、昭和7年(1932年)の板橋区成立時にどちらも大谷口町となり、現在はともに大谷口を冠した上町と北町ですが、境界は段丘寄りの道路にズレてしまいました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前々回の最後から引き続き、大谷口小学校を左手に見ています。同校の開校は昭和33年(1958年)ですが、その直前まで田んぼだったところです。

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    2. 大谷口小学校と連続する児童遊園脇を抜けると、その先のやや右手に車止めが見えています。

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    3. 左カーブで北に向きを変えると、車止めの先は今度はフェンスです。

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    4. フェンスの先はコンクリート蓋の水路跡が続きますが、すぐに中断し通り抜けはできません。

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    5. 回り込んで見つけた細長いスペースですが、これ以上進めないので再び回り込み、石神井川に直線で向う幅広の道路に出ます。

大谷口溜池

2015-09-07 06:32:42 | 千川用水5

 「北豊島郡誌」の数字によると、字大谷口の溜池は1396坪(≒4607㎡)あり、向原溜池(390坪)の3.5倍強の規模を有していました。戦後埋立てられ、自然発生的な住宅密集地となりましたが、住宅地区改良事業が平成21年までに完了しています。なお、大谷口は「新編武蔵風土記稿」に収録された上板橋村の小名ですが、「小田原衆所領役帳」に板橋大炊助の所領、三貫三百文として初出しています。地名由来に関しては、「いたばしの地名」のいうように、「広く大きな谷の口」の意でしょう。→ 「段彩陰影図」で見ると、扇形に広がる石神井川右岸の低地に面しているのが分かります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」 

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    ・ 合流地点付近  右手が谷筋に入る道路、左手に30mほどで前回の水路です。正面は日大板橋病院で、下屋敷と通称されていたところです。

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    ・ 溜池跡地  溜池のあった東側の谷頭付近です。住宅地区改良事業により、谷筋の底にある道路の拡幅が行われました。

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    ・ 溜池跡地  上掲写真の正面奥の崖上にある大谷上町公園からのショットです。手前が溜池跡の谷頭、奥は谷筋の出口にある日大病院関係の建物です。

溜池の水路3

2015-09-05 06:18:24 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追って三回目で、氷川神社のある右岸段丘の裾をめぐり、東に向かいます。現在の地図でもそれと分かる、クネッた路地が二百数十メートル続きます。途中、「北豊島郡誌」に「字大谷口にあり」と書かれていた、もう一つの溜池からの合流がありますが、合流地点の水路跡は失われています。これは昭和10年代に日大板橋病院が当地で開業、その関連施設の敷地となったことが影響しているものと思われます。なお、「いたばしの地名」によると、病院のあるところは下屋敷と通称されていました。幕臣、酒井日向守の屋敷があったためとありますが、「新編武蔵風土記稿」の「酒井弥門抱屋敷七千九百十九坪余」のことでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 氷川神社下の商店街(パステル宮の下)です。地蔵坂下から100mほどで、右手の路地に入ります。

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    2. 路地の先です。地図上からもそれとわかる蛇行があります。

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    3. 250mほどクネッた路地は続きますが、右写真の左カーブの先でいったん途切れます。

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    4. このあたりの右手から、大谷口溜池の水路が合流していたのでしょうが、その痕跡は不明です。

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    5. 昭和十年頃の区画整理時に出来た幅広の通りを横切ると、間もなく左手は大谷口小学校です。

溜池の水路2

2015-09-04 06:37:12 | 千川用水5

 向原溜池からの水路を追っての二回目で、狭い谷筋を抜け、向原団地の敷地に出たところからです。ここで二流に分かれ、向原田んぼを灌漑しエンガ堀と合流するもの、右岸段丘の裾をめぐり、下流の山崎田んぼへと向かうものです。前者に関し板橋区教育委員会「いたばしの河川」は、エンガ堀のところで、「大谷道の地蔵橋付近で、大谷口二丁目35番付近の湧水池から流れる小川と合流し」と書いています。ただ、エンガ堀との合流の様子などは、→ 「段彩陰影図」に重ねた流路と異なり、昭和10年頃の区画整理時に直線化されています。なお、大谷道は下掲地図の中央を横断している通りで、氷川神社前の坂の中腹に地蔵堂があったことが、坂や橋の名前の由来となったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 向原団地の敷地の、ということは向原田んぼのということですが、その東縁に沿って左カーブします。

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    2. 左右に分岐するところです。まず、左手に向かうと、正面に車止めの付いた幅広の歩道があります。

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    3. 大谷道に出ます。右写真の奥の歩道あたりに、エンガ堀に架かる地蔵橋がありました。

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    4. 右手の路地の先です。やはり大谷道に出たところで、地蔵坂下にあたります。水路は正面のアーケードの通りに向かいます。

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    5. 右岸段丘上にある大谷口の鎮守です。延宝2(1674年)の古文書に記載があり、それ以前の創建とされています。

溜池の水路

2015-09-03 06:51:18 | 千川用水5

 向原溜池の続きです。溜池から流れ出た水路は、北上して向原田んぼを灌漑、その後右カーブで東に向かい大谷口溜池の用水と合流して、現大谷口北町にあった山崎田んぼを灌漑していました。「エンガ堀」のところでUPした→ 「段彩陰影図」で、エンガ堀の右手にあるもので、今回から数回に分け、この水路を石神井川との合流地点までたどります。なお、「段彩陰影図」に重ねたのは、主として「東京近傍図」に描かれたものですが、一部「迅速測図」で補充しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前回の最後の路地の先で、大谷口二公園の下に出ます。

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    2. 向原中学のキャンパスに突き当たって中断しますが、校庭を縦断する向原と大谷口の境が、かっての水路の位置を教えてくれます。

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    3. 向原中の先の水路跡は二本です。「第三回修正」に描かれた幅の狭い水田の両縁に沿っていたものなのでしょう。 

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    4. 向原団地の敷地に出ます。右写真は左手の水路の出口から、右手の水路方向のショットです。

向原溜池

2015-09-02 06:16:24 | 千川用水5

 「村内に溜池三箇所あり、一は字大谷口にありて面積千三百九十六坪、二は字向原にありて面積三百九十坪、共に字山崎向原の用水となる、三は字小竹に在り、面積七十坪許、浅間神社の後に當り昔より同社の御手洗と稱へらる。」 大正7年(1918年)の「北豊島郡誌」の一節で、最後の浅間神社御手洗池のところで一度引用しました。最初のものは→ 「東京近傍図」の上端に描かれていますが、ここでのテーマは二番目の字向原(むかいはら)の溜池で、昨日UPの→ 「昭和4年第三回修正」の左上にあるものです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  七差路の左上に写っているのが向原の溜池で、「空中写真」の当時は釣堀となっていました。

 板橋区教育委員会「いたばしの地名」によると、溜池では大正、昭和の初めころまでは毎年梵天祭がおこなわれ、旱魃時には群馬県の榛名神社の水を奉じて、雨乞がなされたようです。それが、田用水として利用されなくなったのでしょう、昭和に入り釣堀営業に転じます。「昭和の初期、釣堀を営業していて、戦後千川上水が暗渠化されたとき釣堀ができなくなったのは、水源が千川上水からの漏水であったのであろうかといわれています。」 ことの真偽はわかりませんが、これまでの悪水吐と(非公式の)分水の関係を考え合わせると、相当量の漏水があった可能性は否定できません。なお、「戦後千川上水が暗渠化されたとき」とありますが、この区間の暗渠化は昭和30年(1955年)前後です。

 

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    ・ 向原溜池跡  板橋高校前の七差路から、直線で百数十メートルのところにあり、現在は釣堀跡を留めたままマンションの敷地になっています。

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    ・ 水路跡  向原と大谷口の境となっている水路跡の路地です。マンション敷地の北側から始まり、途中向原中学キャンパスで中断したあと、向原団地に向かいます。

上板橋村境

2015-09-01 07:30:33 | 千川用水5

 千川上水が要町3丁目交差点を越えるところに戻ります。上水跡はいったん都道420号線と接しますが、すぐに右手に離れ、100mほどでまた接します。その間は現在、孤状の細長い駐輪場となっています。その駐輪場の先で、(自身を含めて)七差路に突き当たり、右折します。ここが豊島区と板橋区の境で、「千川素堀筋普請所積見分」が、「是迄長崎村分上板橋村境」と書いているところです。V字ターン以降長崎村を流れてきた上水は、右折後は500mほど左岸上板橋村、右岸長崎村の境となっていました。なお、「所積見分」は方向転換の際、その旨付記することが多く、ここでも「子(北)・・・・橋より曲り寅(北北東)」と書いていています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。左上にある谷筋と溜池については次回詳細します。

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    1. 「千川素堀筋普請所積見分」にあった、長崎村分水口から11間目の石橋(「巾四尺 石三枚 渡七尺」)の架かっていたあたりです。

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    2. 上掲写真の茂みの裏から、上水跡の細長い空間が再開します。この区画は駐輪場になっています。

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    3. 板橋高校前の七差路に突き当たったところで駐輪場は終了、千川上水はここで右折します。

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    4. 板橋高校前です。左手の植込みのところが千川上水跡で、新クール「千川用水6」を開始する予定の大谷口まで500mほど続きます。 

長崎村分水2

2015-08-31 06:31:17 | 千川用水5

 以下は武蔵高校生徒が千川上水を調査した昭和15年(1640年)当時の長崎村分水の様子です。「この庚申橋の稍々下流には千川を利用した釣堀がある。釣堀の裏の所から、千川の分水の中最大のものである谷端川(所謂長崎村分水)が岐れる。・・・・近年まで分水口には立派な鐡の水門があり、扉によって開閉したが、今日は水量が僅かとなり、水門の必要がなくなったので、僅かに四寸四方の穴を穿ち、千川から水を引いているに過ぎない。」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) 別の個所には、「千川文書によれば水口は七寸四方であるが、現在は三寸四方程に縮小し、僅かの水が流れているに過ぎず、殆ど下水に等しい」との一節と共に、石積に穴を開けた分水口の略図も添付されています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」 引用文にある釣堀も写っています。なお、千川上水と並行する都道420号線は開通したばかりで、当時未着工の要町通りはグレーで重ねました。  

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    ・ 要町3交差点  分水口付近から、長崎村分水の流路方向のショットです。正面奥の→ 通りの右手を分水は並行していました。

 <谷端川>  「小石川并谷端川  長崎村より出る細流落合て、池袋村、滝野川村、巣鴨村等を歴て、小石川村に至て此名起り、橋戸町、柳町より伝通院東の方を流れ、夫より水戸殿屋舗内にかゝり、流末同屋敷外、南の方往還に架せる仙台橋の辺にて、神田川の上流に合す、昔はよほどの川なりしにや、広き地名にも唱へて聞えたる川なり、後年追々道敷等に埋立られ、今は川幅広き所にて三四間に過ず、此川巣鴨村にては谷端川と称す」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

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    ・ 粟島神社弁天池  谷端川の水源の一つです。大正末から昭和の初めまでは、雑木林に囲まれた弁天池から流れ出た小川が、写真奥から左手を流れる長崎村分水に合流していました。現在の池の水はポンプで循環しています。

 長崎村分水は谷端川の形成する自然の谷筋を利用、長崎、池袋、中丸、金井窪四ヶ村の水田を灌漑しており、言い換えれば、長崎村分水が谷端川の最大の水源でした。→ 「段彩陰影図」に重ねたのは「明治42年測図」に描かれた谷端川です。なお、谷端(やばた)は中流域にある旧滝野川村の字で、現在は板橋駅近くの小学校や、付近の公園に残るだけです。谷端を流れていたから谷端川なのか、谷端川が流れていたから谷端なのか、その辺はよくわかりませんが、意味としては「谷の端」か「谷の畑」かどちらかでしょう。

 


長崎村分水

2015-08-29 06:30:53 | 千川用水5

 長崎村分水は四ヶ村分水ともいい、当初から一貫して長崎、池袋、中丸、金井窪、四ヶ村の田用水となっていました。樋口の大きさは、「千川上水給水区域」で「内法七寸四方」、寛政6年の「星野家文書」で「九寸四方」、「千川分水口取調絵図」で「古来八寸四方当時壱尺四方」、明治10年の「星野家文書」で「幅六寸五分高六寸三分壱厘」と、七ヶ村分水に次ぐ規模を有していました。 

   用水使用  水田全体
長崎村 13.8町歩  17.7町歩
池袋村  3.4町歩  15.3町歩
中丸村  1.1町歩   5.4町歩 
金井窪村  1.9町歩   6.4町歩
合計 19.2町歩  44.8町歩

 

    ・ 千川用水使用の水田面積  明治10年頃のもので、数字は「星野家文書」、全体は「東京府志料」を用い、少数2位(「畝」)以下切り捨てです。ちなみに、同じ史料を元にした六ヶ村組合の場合、六ヶ村全体で81.8町歩中64.2町歩が千川用水に依存していました。

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    ・ 千川上水跡  要町通りの手前です。フェンスに囲まれた一角には、「千川管理地」と書かれた都第四建設事務所の看板があり、周囲には石橋の遺構と思われる石材が置かれています。

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    ・ 要町3交差点  上水は正面の茂みのところに向かいます。長崎村分水口はその手前にありましたが、拡幅された要町通りに呑みこまれ、その場所を特定することはできません。

 <分水口の位置>  前回も引用した「千川素堀筋普請所積見分」によると、長崎村分水口から合計83.5間(≒151m)のところに土橋が架かり、「是迄長崎村分上板橋村境」と付記されています。これは→ 「東京近傍図」で、千川上水と区境が交差した後、並行するところにあたり、現在の板橋高校前の六ないし七差路です。そこから150m手前は要町3交差点内となり、長崎村分水口は安永9年(1780年)当時から、現在確認できるのと同じ場所にあったことになります。なお、同「見分」は分水口から11間(≒20.0m)目に石橋とも書いています。「近傍図」にある、直後に横切る通りに架かっていたものなのでしょう。

 


千川親水公園

2015-08-28 06:54:08 | 千川用水5

 以下は庚申橋と目される石橋から長崎村分水までの、「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)の記述です。

 

        橋ノ上み寅卯
一 百拾弐間メ 石橋  巾石三枚渡九尺 橋台石垣
        橋ノ上ヘニ而 子 四十間下り子 五間下り曲丑寅

一 百七十弐間半メ 長崎悪水吐潜樋 長六間
        往来道ニ石橋有 石壱本

一 九拾五間メ 長崎村分水口九寸 尺

 

 一部意味不明なところもありますが、これを概略解釈すると、庚申橋のところで寅卯(東北東)から子(北)に方向転換、合計40間(≒72.8m)ないし45間(≒81.9m)下ったところで丑寅(北東)に向きを変えると読め、→ 「東京近傍図」の描き方とも一致します。

 

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    ・ 千川親水公園  庚申橋での左折後の上水跡は、豊島区立親水公園となっています。その途中に立てられた解説プレートによると、区内の暗渠化は昭和28~34年、公園となったのは平成元年です。

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    ・ 千川親水公園  親水公園らしく水の流れが設けられています。庚申橋跡から80m前後のところにあり、右カーブで北から北東に向きを転じていて、距離も方向も「所積見分」の記述と一致します。
 <三本目の悪水吐>  「所積見分 」の記述によると、子から丑寅への転換点から(あるいは箇条書きからして、庚申橋からかもしれませんが)、172.5間(≒313m)のところに、三本目の長崎悪水吐が設けられ、そこから95間(≒172m)で長崎村分水口です。この172.5間という数字が問題で、これでは悪水吐が現在確認できる長崎村分水口の位置を越え、その後の長崎・上板橋村境、上下板橋の境など、実際より下流にずれてしまいます。そこで、172.5間は保留しておいて、分水口から95間手前の方を採用すると、次の写真のあたりとなり、「往来道ニ石橋有」の記述とも合致します。

 

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    ・ 悪水吐跡(?)  この推測の当否はともかく、この前後の千川上水は築堤上にあり、潜樋が設けられていたとしても何の不思議もありません。やや下流の築堤を横から見た写真は→ こちらです。

庚申橋

2015-08-27 06:10:50 | 千川用水5

 久しぶりに千川上水の本流に戻ります。明豊中学の東隣にある千早高校前で、千川上水はいったん、並行していた通り(V字ターン以降は千川通りではなく都道420号線)から離れます。要町通りとの要町3交差点までの500mほどの上水跡は、隣接する道路には呑みこまれず、フェンスで囲まれた遊び場や親水公園となっていて、全体として千川上水緑道といっていい区間になっています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、主に板橋区と豊島区ですが、江戸時代は上板橋村、下板橋宿及び長崎村です。

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    ・ 都道420号線  二本目の悪水吐から50mほどのところです。「千川素堀筋普請所積見分」によると、26間(≒47.3m)のところに「巾石二枚渡七尺」の石橋が架かっていました。

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    ・ 千川上水跡  千早高校前で右カーブ、並行していた都道420号線と離れます。ここからキャンパス沿いに150mほど進んだあと、上掲「近傍図」にもあるように、ほぼ90度の角度で左折します。

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    ・ 庚申橋跡  その左折するところに、かっては庚申塔が立ち、石橋が架かっていました。庚申塔は武蔵高校生徒の調査当時もこの場所にありましたが、現在はその一部が50mほど手前の→ お堂に祀られています。

幻の感応寺分水2

2015-08-26 07:03:59 | 千川用水5

 「新編若葉の梢」(昭和33年 海老澤了之介)の付録として、雑司ケ谷村の名主、戸張苗竪の残した「櫨楓(ろふう)」が掲載されています。以下はその記述をベースにした、千川上水から感応寺境内へのの引水計画の概要です。発端は天保12年閏正月、放生会のため大御台(家斉正室)より下された鰻が、折からの干ばつで弱ってしまったことでした。「それに付境内外二三町を隔、玉川分水・仙川上水の流あり、是を引還流水とならば満全なるべしとの事にて、大御台様御用人小野佐渡守殿へ内談の事可然に相極りける。」 このときは千川上水といっても、近場の長崎村分水(谷端川)からの引水を考えていたふしがあり、「境内外二三町」というのは、同分水からの最短距離200m強を指してのことと思われます。それが、関係する村々や千川家の意向を踏まえ、「保谷新田、樋ノ口三四分増寸」を前提に、上水本流からの分水という見積りとなりました。

 

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    ・ 「感応寺分水図」  「新編若葉の梢」中の「櫨楓」に載っているものをイラスト化しました。うち黒実線は町奉行所の支配する江戸御府内を画する、いわゆる「墨引き」で、元図にはありません。

総長延凡千九百六十間余 但差渡し廿丁程の処、堀筋屈曲長延に積り候付相延申候
 内千四百六十間程 長崎村地内
 弐百五十間程 感応寺山内 但山内の内 四十三間程は西の方垣根より池迄。
                    廿七間程は池の中。
                    百八十間程は池より東垣根際迄。
 弐百五十間程 雑司ケ谷村内

 

 千川上水から感応寺境内にかけて、絵図には「三丁程」と書き込みがありますが、これは上述した長崎村分水(谷端川)からの距離と思われ、本文では千川上水・感応寺間を1460間(≒2657m)、幅平均3尺、深さは2尺ないし7、8尺、人足一人当たり4間として、延べ365人必要と見積っています。千川上水からの最短距離は2000m程ですが、それでは谷端川の谷筋に落ち込んでしまうので、迂回が必要ということでしょう。鼠山の北麓を回り込んで、境内西からの引水を考えたようです。ただ、分水口をどのあたりに予定したのかは、V字ターンから長崎村分水口の間という、大雑把なことぐらいしかわかりません。
 これに対して、雑司ケ谷村内の250間(455m)ははっきりしていて、「落とし水の儀は境内東方・・・・雑司谷村疇地ヘ相流、同村鶴巻川と申用水へ落合申候」とあります。西谷戸と呼ばれる直近の谷筋を経由すると、弦巻川まで450mほどでピッタリです。「深さ二間程より三間迄、巾四尺程平均長壱間に付人足三人掛りの積り」と、こちらの方が難工事ですが、池からの合計500間中430間は、「雑司ケ谷村百姓共為冥加自分堀に仕候間、御入用等一切相掛り不申」とあります。雑司ケ谷といえば日蓮宗徒の信仰厚い鬼子母神が有名ですが、村民は日蓮宗の名刹の名を引き継ぐ感応寺には、ことのほか思い入れが深く、名主だった戸張苗竪自身、家督を譲って感応寺境内に住み込んでいるほどです。それとともに、余水を弦巻川に受け入れることは、「村方弁利にも相成候」という事情もあったのでしょう。こうした感応寺分水計画ですが、計画が持ち上がったまさに同時期、天保12年閏正月に大御所家斉が亡くなり、同年10月5日には感応寺廃寺が申し渡されます。翌年3月7日には戸張苗竪が境内から立ち退くに至り、感応寺分水は幻のまま終りました。


幻の感応寺分水

2015-08-25 06:24:12 | 千川用水5

 千川上水がV字ターンする南長崎6丁目交差点から東に2kmほどのところに、「大江戸のしっぽのあたり鼠山」と川柳に読まれ、→ 「江戸名所図会 / 落合惣図」にも描かれた鼠山があります。町奉行所の支配する江戸御府内(墨引き)の北西端に位置し、武蔵野の原野の広がるこの地には、三河以来の譜代大名、磐城平藩安藤家の下屋敷があり、三代将軍家光も狩りで度々訪れたといいます。なお、名前の由来としては、源頼朝、あるいは太田道灌が陣を敷き、寝ずの見張り番をたてたので「不寝見(ねずみ)山」、あるいは、ネズミが多いのでという、そのままのものもあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 長崎」(1/18000)  グレーの三角が磐城平藩安藤家の下屋敷、二万八千六百余坪、その西の丸い台地が鼠山です。オレンジ線は区境で大半は豊島区、そのほとんどが旧長崎村です。なお、「明治42年測図」に描かれた谷端川を重ねました。
 この安藤家下屋敷のあった地に、天保7年(1836年)、突如、上野寛永寺や芝増上寺に匹敵する一大伽藍が出現します。長耀山感応寺です。このお寺にまつわる虚実ないまぜのエピソードは、11代将軍家斉、その側室お美代の方、お美代の方の実父、智泉院住職日啓、長持ちに入った大奥女中やら、イケメンの破戒僧やら、役者も小道具もそろって、時代劇の格好の材料を提供します。大御所家斉がなくなり、最後に老中水野忠邦が登場、感応寺は跡かたもなく取り壊されてジエンド、天保12年(1841年)のことでした。

 

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    ・ 徳川黎明会  安藤家下屋敷のあった一角は、のち徳川侯爵家が所有、昭和6年(1931年)に徳川黎明会を創設しました。尾張徳川家所有のコレクションなどを管理、公開する財団法人です。

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    ・ 目白の森  鼠山の一角のマンション予定地1000坪弱を区が購入、平成9年に区立公園となりました。 → 園内には邸宅当時の緑が保存され、池も設けられています。

エンガ堀支流5

2015-08-24 06:25:51 | 千川用水5

 向原団地内で合流するエンガ堀支流を追っての二回目で、その先端にあたる環七通りと要町通りの武蔵野病院前交差点付近です。この区画は昭和30~50年代に出来た二つの大きな通りによって、痕跡が断片的になっていますが、それでも谷頭のある環七通り羽沢2丁目交差点付近までたどることができます。ところで、この小支流の流域は、概ね練馬区(小竹町)と板橋区(小茂根)の境と重なりますが、これは同じ上板橋村に属していた字小竹と字上ノ根の境を引き継いでいます。羽沢2丁目交差点を南北に縦断する古道が、上板橋村と下練馬村の境でしたが、字小竹などが練馬区に編入された結果、今日のような区境になったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回から引き続き、中央分離帯が水路跡ですが、最後のワンブロックだけは普通の道路になっています。

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    2. 環七通りの一つ手前の道路に突き当たって左折です。通りの左手が水路と重なります。

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    3. 要町通りに突き当たって中断しますが、元の水路は越えた先で右折、左折のクランクでした。

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    4. 武蔵野病院前交差点の南角です。ここからの水路跡は環七通りの南側歩道と重なります。

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    5. 南側歩道と重なるのはこの付近までで、この先は環七通りに紛れてよく分かりません。

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    6. 羽沢2丁目交差点手前です。左手にワンブロックだけ車止め付きの路地がありますが、全体とのつながりは不明です。