神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

萩久保の水路2

2018-07-09 06:12:10 | 幡ヶ谷支流

 幡ヶ谷支流の源流を追って、和田村から和泉村に入りますが、字は同じ萩久保です。環七通りの先、甲州街道と水道道路に挟まれた狭い谷筋の底には、車止め付きの路地がそれらしくクネっています。途中、車止めはなくなりますが、谷筋の先端はさらに西にあります。もっとも、谷頭というほどの大規模なものはなく、(地表に近い小規模地下水で、降雨によって溢れ出す)宙水が水源だったのでしょう。

 

Hagikubo2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 環八通りの先の路地を引き続き西に向っています。

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    2. 車止めや連続するマンホールなど、水路跡の雰囲気は相変わらずです。

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    3. 和泉明店街を横切ります。右写真は右手方向で、奥の高いところは水道道路です。 

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    4. やや左に折れ、甲州街道にほとんど接します。

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    5. 車止めはここまでですが、谷頭はあと2ブロックほど先のようです。

萩久保の水路

2018-07-07 05:59:46 | 幡ヶ谷支流

 水道道路を越えたところまで戻ります。すぐに右手からの合流があり、水道道路の南側を並行、150mほどで環七通りに突き当たって中断します。この区間が萩久保のうち旧和田村に属していたところで、明治22年(1889年)以降は、和田堀内村大字和田字萩久保となりました。明治から大正にかけての「地形図」をみると、水道道路の南側には田圃が残されていて、その用水の機能をなお有していたのでしょう。ただ、昭和に入るとここも宅地化され、生活排水路に転用されました。

 

Hagikubo1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 車止め付きの路地がほぼ直線で西に向かいます。「下水道台帳」に「水路敷」とあるところです。

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    2. いったん幅広になりますが、再び水路単独の車止め付き路地です。

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    3. 環七通り手前で右折、左折のクランクがあり、すぐに通りに突き当たって中断します。  

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    4. 環七通りを越えた先です。ここも「水路敷」になっています。

字萩久保

2018-07-06 06:30:28 | 幡ヶ谷支流

 幡ヶ谷支流の最大の源流は玉川上水幡ヶ谷村分水ですが、前々回テーマの南隣の代田村大原方面にも、さらには、今回以降テーマの和田、和泉村方面にも源流を有していました。→ 「段彩陰影図」で、環七通りの先、甲州街道と水道道路に挟まれた細長い谷筋は、和田、和泉両村にまたがって萩久保と呼ばれ、自然河川としての幡ヶ谷支流の本来の谷頭を形成していました。なお、字萩久保は→ 「東京近傍図」にも甲州街道に面して書き込まれています。

 

Wadaezu4

    ・ 「和田村絵図4」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された数葉の「和田村絵図」のうちの一枚で、北側は→ 「和田村絵図3」へと連続します。田用水と村境を強調、道路は主要なものだけをピックアップしています。 

 萩久保の流れの周辺には、「東京近傍図」にもあるように、狭い範囲ではありますが田圃が形成されていました。ただ、明治25年(1992年)に着工した新水道は、和泉村(当時は和田堀内村大字和泉)地先から玉川上水の水を引き取り、この萩久保田圃を築堤で縦断して東に向かいました。そのため、萩久保の流れは田用水としての役割をいち早く終え、新水道の両脇を並行する排水溝と化してしまいます。「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)が「笹塚田圃乃至本村田圃の水源」として、幡ヶ谷村分水以外には「隣村代田大原地区から僅に湧出した地下水に、この細流の流域附近から湧出する野水を合せ」とのみ書き、萩久保からの流れを無視しているのは、こうした事情を反映しているからかもしれません。

 

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    ・ 泉南交差点  環七と水道道路の交差点で、右手に分岐しているのが妙法寺道(現和泉通り)です。「村絵図」で和泉村との境となっている通りなので、この前後が字萩久保だったことになります。 

 萩久保の名前の由来は萩の生い茂る低湿地という、そのままの意なのでしょう。宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」に、「武蔵国中野郷内堀内下萩窪泉村」と書かれているのが、文献上最初に登場するもので、往古は一村を形成していたが、のち上下二村の時代があったのかもしれません。 なお、甲州街道から妙法寺道が分かれるところには、萩久保立場が設けられていました。「甲州道中分間延絵図」には、「字萩久保立場 堀之内妙法寺江道法十八町」の書き込みがあります。立場(たてば)というのは、宿場と宿場の間にある小休憩所のことで、当地には妙法寺参拝客を目当てに、茶屋などが軒を並べていました。上掲写真奥の高架の下、甲州街道大原交差点付近です。

 


幡ヶ谷村分水口

2018-07-05 06:04:39 | 幡ヶ谷支流

 玉川上水は笹塚駅前にある二号橋で、再び暗渠になりますが、その手前に幡ヶ谷村分水口がありました。その大きさは「上水記」の数字で、「水口竹樋壱尺廻り内法二寸四方」、のち「四寸五分四方」と訂正されています。幡ヶ谷村分水は分水口から北上して甲州街道に突き当たり、その南縁に沿って西に向かいます。いわゆる「逆さ川」です。そして、三郡橋で代田村からの水路と合流、右折して甲州街道を越えていました。このルートは、→ 「幡ヶ谷村絵図」からも読み取ることができます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 中野」  玉川上水の開渠区間をブルーで、甲州街道や笹塚駅などをグレーで重ねています。 

 上掲「地形図」の分水口付近に、神社の記号が書き込まれています。本村隧道付近にあった弁天祠(明治に入り市寸島神社)が、明治31年(1898年)完成の新水道工事の際、数百メートル東に移転したことは、該当個所で一度触れましたが、さらに数年後、そのご神体が当地に遷され、周囲に小さな弁天池が掘られました。弁天池の底は玉川上水とこっそり繋がれ、上水の水はあたかも湧水のように弁天池を満たします。こうして、当時公認の樋口5寸四方を越える助水を得たのだと、「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)は書いています。

 

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    ・ 幡ヶ谷分水口  開渠は笹塚駅前の二号橋で中断します。その二号橋から振り返っての撮影で、手前の左岸(右手)には→ 石組みがあり、幡ヶ谷村分水口の遺構と思われます。 

 それ以前には、毎年行われる検査の時だけ、樋口を土で塗り固めて5寸とし、あとはその土を崩して拡張するようにしていたのですが、コンクリートで5寸に固められてしまったため、窮余の策として考え出されたのだそうです。もっとも、江戸時代ならともかく、特に新水道建設後、和泉で新水道に分流して以降の玉川上水の水は、それほど重要だったとも思えず、このような小細工が必要なのかどうか、若干の疑問もあるところです。なお、幡ヶ谷村分水が「地形図」から消えるのは、「昭和3年第三回修正」からで、同6年(1931年)の調査では、「分水使用を廃止し水路を埋立せり」と報告されています。

 


代田村境

2018-07-04 06:48:04 | 幡ヶ谷支流

 甲州街道を越えた先にもコンクリート蓋の水路跡があります。渋谷、世田谷の区境にあり、江戸時代は幡ヶ谷村と代田村の境だったところです。京王線を越えた先で東に向かう区境と別れ、ほぼ直線で南に向かいます。先端は玉川上水が環七通りと交差する北東角にあたりますが、→ 「段彩陰影図」にあるように、玉川上水が代田橋を過ぎて南に迂回するのは、この谷筋を避けるためだと知れます。なお、「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)は、今回の水路に関し「代田大原から流れて来る野水川」と書いています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 京王線手前で中断しますが、越えた先で左折、右折のクランクがあり、一部→  開渠も残っています。

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    2. ワンブロック先で再開します。右写真は環七通り方向のショットです。 

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    3. コンクリート蓋の古典的な水路跡ですが、「下水道台帳」には「公共溝渠・蓋掛」となっていて、現役なのかもしれません。

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    4. 玉川上水の築堤に突き当たって終了です。この区画の玉川上水は、暗渠の上が玉川上水緑道となっています。 

 <玉川上水と幡ヶ谷支流>  玉川上水にここまで接していることから、その助水を得ていた可能性も考えられます。「渋谷の水車業史」(昭和61年 渋谷区教育委員会)は、幡ヶ谷支流に設けられた水車に関し、明治22年(1889年)の「継年期願」などを引用していますが、そこには「玉川上水樋口代田村ヨリ掛ル用水路」との記述があります。一般に考えられている幡ヶ谷村分水の樋口は、「上水記」のいう「同村地先」(現笹塚駅前)なので、この「樋口代田村」には強い違和感を覚えますが、今回の水路を念頭に置いていたとすれば納得できるところではあります。

 


和田村境2

2018-07-03 06:27:21 | 幡ヶ谷支流

 和田村境を流れる幡ヶ谷支流を、水道道路から甲州街道までさかのぼります。水道道路を越えるところは本来は二流ありましたが、現在たどることのできるのは村境と重なる左岸流のみです。これに対し、甲州街道を越えるところは、→ 「幡ヶ谷村絵図」の描くように、村境の一流のみでした。なお、同図は甲州街道に橋を描いていますが、和田、幡ヶ谷、代田三村の境に架かり、三村が別の三郡に属することから、三郡橋と呼ばれていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 水道道路を越えた先にある区境となっている通りです。右手に見える路地も水路跡ですが、今回は区境を直進します。 

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    2. 区境は正面の町会掲示板奥へと連続します。右写真は右岸からのショットで、手前に右岸流が流れていました。

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    3. 2.から通り抜けできないので、甲州街道から回り込んだところです。この付近が二流の分岐点、笹塚田圃の最先端と思われます。 

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    4. 甲州街道を越えます。左手から幡ヶ谷村分水の合流もありますが、今回は車止めを直進します。

和田村境

2018-07-02 06:44:16 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃の西端は和田村との境に接します。→ 「幡ヶ谷村絵図」の描く三日月の先端で、左岸流と村境が重なっていますが、現在たどることのできる水路跡も同様で、やはり左岸流が境界となっています。ただ、現行の住居表示では、隣接するのは杉並区方南1丁目です。方南は「新編武蔵風土記稿」にも収録され、「東南よりにあり」と書かれた和田村の小名で、明治に入り和田堀内村(のち町)大字和田の小字となり、昭和7年(1832年)の杉並区発足の際にも、また、現行の住居表示への変更においても、その名を引き継ぎ現在に至っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 幅広道路はここで終了、水路単独の車止め付き路地が再開します。 

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    2. ワンブロックで一般の道路に紛れますが、その先に車止めです。なお、ここから水路跡と区境は重なります。

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    3. さらにワンブロック先です。築堤上の水道道路の手前は本流ですが、右手にも路地があります。  

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    4. 右手のワンブロックも「下水道台帳」で「水路敷」となっています。 

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    5. つながりは不明ですが、環七通りを越えた先にも開渠の溝が残っています。

笹塚左岸3

2018-06-30 06:38:37 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃を灌漑する田用水のうち北側に沿うほうを追っての三回目です。富士見丘中・高キャンパスを過ぎ、100mほどのところの左手に、車止めで幾重にもガードされた通路があります。右岸流のところでも指摘した、連絡水路かと思われますが、地図類では未確認なので、いつもの青点線は書き込んでいません。それ以外はほぼ直線の幅広道路が、中野通りを越えてから800mほど続きます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 富士見丘中・高キャンパス前を過ぎます。右写真は本流に架かる新十一号橋方向です。 

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    2. 前回最後の十号通りを越えて以降は緩やかな右カーブが続き、南側に孤を描いています。  

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    3. 左手に車止めが重なり合っています。奥の高い所は水道道路、その手前が右岸流の流路です。  

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    4. このあたりほとんど直線ですが、細かく蛇行する元の水路とはズレています。  

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    5. 中野通りから800mほど、同じような幅広道路の連続でそろそろ飽きてきましたが。

笹塚左岸2

2018-06-29 06:35:25 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃の北縁に沿う左岸流をさかのぼっての二回目です。相変わらず幅広道路の一部となっていますが、これまでのような微妙な蛇行もなく、水路跡らしい特徴は失われています。元々水路しかなかった区間で、宅地化に伴い昭和10年ころ暗渠化し、代わって幅広道路を開設しました。幡ヶ谷支流の全区間のなかで最も暗渠化が早く、かつ最も人工的なところです。

 

Sasadukas2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. ここから先が最初に暗渠化されたところで、「空中写真」にも写る→ 道幅の変化が今も残っています。 

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    2. 引き続き左カーブです。元々道路のなかったところなので、人工的な印象が強く出ています。

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    3. 十号通りとの富士見丘高裏交差点です。左折すると十号坂商店街を抜け笹塚駅前に出ます。 

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    4. 一転して右カーブで笹塚公園前を抜けます。左手は富士見丘中・高で、右岸流の中断しているところです。

笹塚左岸

2018-06-28 06:55:58 | 幡ヶ谷支流

 中野通り手前まで戻り、三俣橋から左岸流をさかのぼります。こちらは北側を並行する道路があったため、暗渠後はその一部となって、水路の痕跡は失われてしまいました。交通量の割には幅の広い道路という以外、特に水路跡を思わせるものは何もありません。なお、ここから先昭和10年代に一部暗渠となりましたが、全体が暗渠化され幅広道路の一部となったのは昭和30年代に入ってからです。

 

Sasadukas1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 三俣橋の架かっていたところまで戻り、左岸流をさかのぼります。50m先は中野通りです。 

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    2. 笹塚3丁目交差点で中野通りを越えます。本流に架かる栄橋に対し、新栄橋が架かっていました。

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    3. 中野通りの先です。左カーブの連続で北側に孤を描きます。 

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    4. 水路は通りの左手を並行していました。

笹塚田圃4

2018-06-27 05:50:48 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃の南縁に沿う本流の四回目で、水道道路を離れ堺橋に差し掛かります。その手前には水車が設けられていました。「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助)によると、「専ら笹塚字の人々の共同使用であり、所有も此等の人々に属してゐた」ものです。「右水車之儀者村内協議之上食糧之米麦舂搗之為メ当村字北笹塚ニ建設有之養苗之季節外ノミ支用致度」 これは明治22年(1189年)の東京府知事宛「稼続願」で、「渋谷の水車業史」(昭和61年 渋谷区教育委員会)の引用するものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Sasadum42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 水道道路から離れ、右手に弧を描いています。

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    2. 堺橋手前の右手に笹塚水車がありました。なお堺橋の通りは昭和初めの開通です。 

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    3. 再び水道道路に接します。本来の水路はここで水道道路を越えますが、その先の痕跡はありません。 

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    4. 左岸流と重なる区境の道路と突き当たります。このワンブロックは、左右の流れの連絡水路だったのでしょう。

笹塚田圃3

2018-06-26 06:20:22 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃の両縁に沿って並行する二流のうち、本流と目される南側のものを追っての三回目です。十号通り先で富士見丘中・高キャンパスの中断を挟み、その西側で水路単独の路地が復活します。前回、前々回とあまり変わり映えしませんが、水道道路下を沿うところだけは、若干違った景色になっています。なお、途中には、連絡水路と思われる車止め付きの路地もありますが、地図類で未確認のため、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 富士見丘中・高校の西で再開する右岸流跡の路地です。ここには新十一号橋が架かっていました。新水道に架かる十一号橋との対のネーミングです。  

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    2. 右カーブで水道道路の下に沿い始めます。

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    3. 右手に車止めの道路があります。30m強で左岸流なので、その連絡水路かもしれません。

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    4. 新十二号橋のあったあたりです。左手に上ると、新水道に架かる十二号橋でした。

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    5. この区間は家一軒を隔てて水道道路と並行しています。

笹塚田圃2

2018-06-25 06:03:44 | 幡ヶ谷支流

 笹塚田圃を灌漑していた用水のうち右岸流の続きで、中野通りを越え水路単独の路地に入った先です。ワンブロックで明治橋の架かっていたところです。昭和の初めに笹塚田圃が造成され、その右岸に明治薬学校(明治薬科大学の前身)が麹町から移転してきました。それを機会に明治橋と呼ぶようになったようです。水路単独はその先も続き、10号通りの商店街に突き当たったところで、富士見丘中・高キャンパスに阻まれて中断します。

 

Sasaduka2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 水路単独の路地に入ってワンブロックで、明治橋の架かっていたところです。  

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    2. 笹塚中学キャンパスの北縁に沿い、左カーブから右カーブに転じます。

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    3. 引き続き左手は笹塚中学キャンパスです。同校は昭和23年(1948年)、明治薬学校跡地に開校しました。  

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    4. 笹塚駅前に出る十号通りに突き当たって中断です。その先は富士見丘中学・高校のキャンパスです。 

笹塚田圃

2018-06-23 05:58:38 | 幡ヶ谷支流

 庚申橋及び左岸流に架かる三俣橋から、1kmほど西にある旧和田村境にかけて、相変わらず南北二流が並行し、その間の笹塚田圃と通称される細長い田圃を灌漑していました。→ 「幡ヶ谷村絵図」の描く和田村境に接する三日月状の区画にあたります。その笹塚田圃の南北を行き来しながら、二本の水路をさかのぼります。うち北側のものは大半が一般の道路の一部となっていて、かっての水路を想像させるものはほとんどありません。これに対し南側の本流と目されるほうは、水路単独がそのまま路地となっているのが大半で、橋の遺構も随所に見ることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 庚申橋から再開します。左カーブの先の右手に路地が顔をのぞかせています。  

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    2. 水路単独の路地を西に向うと、ワンブロックで中野通りに突き当たります。

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    3. 中野通りの先です。右写真は左岸流との連絡水路に見えますが、確証はなく青点線は書き込んでいません。  

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    4. ワンブロック先の車止めです。ここからしばらく、水路単独と思われる狭い路地が続きます。   

 <幡ヶ谷村の堰>  「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)によると、幡ヶ谷村では毎年4月中旬に川に堰を設け、下流の川を涸らして川浚いが行われました。川下に水田を持つ農家から、一軒あたり男子一人が出て作業にあたったとあります。堰のもうけられたのは三ヶ所で、「一は笹塚の上、一は笹塚と原の境界中幡ヶ谷の庚申塚附近、今一個所は本村地蔵尊の附近」でした。最初の笹塚の上はよくわかりませんが、おそらく「村絵図」の村境で二流が分岐するあたりでしょう。二番目は庚申橋のこの付近、三番目の本村地蔵尊は酒呑地蔵のことですから、地蔵橋のあたりで、それぞれ笹塚、中幡ヶ谷、本村の各田圃の灌漑用ということです。

 


字笹塚

2018-06-22 05:52:48 | 幡ヶ谷支流

 庚申橋に戻ります。この橋や左岸流に架かる三俣橋以西が、大字幡ヶ谷当時の字笹塚でした。現行の住居表示では、西隣の中野通り以西にシフトしています。笹塚は「新編武蔵風土記稿」にも原、本村、山谷と並んで収録された幡ヶ谷村の小名で、明治に入り代々幡村大字幡ヶ谷になると、甲州街道を境に北笹塚と南笹塚の二つの字に分かれました。昭和7年(1932年)の渋谷区発足時には、一つになって幡ヶ谷笹塚町となり、新住居表示実施に伴い、甲州街道、水道道路を境に笹塚1~3丁目に三分されて今日に至っています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに杉並、中野、渋谷、世田谷区、同細線は代々幡村当時の大字境です。  

 笹塚の地名由来については、当地にあった一里塚が笹に覆われていたため、といわれています。ただ、「豊多摩郡誌」には、甲州街道の一里塚として二ヶ所が併記されています。「幡ヶ谷志村兵四朗邸外なる甲州街道の南側に三尺餘の石塚ありたるも、今は壕中に没して其の形だも見えず、又同所中村祺作邸前甲州街道北側にも石塚ありたれど是亦た土中に埋れて今見る能はず、以上は孰れも慶長九年建設せしものなりと言傳ふ」 これに対し「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助)は、現笹塚2丁目12番にあったとされる後者を、笹塚の地名由来の一里塚としています。

 

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    ・ 甲州街道  笹塚駅前の甲州街道で、正面が一里塚のあった笹塚2-12に当たります。なお、右手のアーケードは、10号通り商店街の入口です。 

  <甲州街道と一里塚>  甲州街道は五街道の一つで甲州道中とも呼ばれ、江戸日本橋から下諏訪で中山道と合流するまで、内藤新宿、(上下)高井戸など四五宿が置かれました。他の主要街道と異なり、参勤交代で利用する藩は少なく、信州の高島、高遠、飯田の三藩のみで、最寄りの藩の大半は中山道を通りました。その街道筋に一里毎に設けられた一里塚のうち、笹塚駅前にあったのは新宿追分の次の三里目のもので、前回UPの→ 「甲州道中・青梅街道図」にも描かれています。渋谷区教育員会による解説プレートには、「昔、このあたりの甲州街道の南北両側には、直径が一メートルほどの塚(盛土)がありました。その上に笹(または竹)が生い茂っていたことから、笹塚と呼ばれていたようです」と書かれています。