「浜御殿 此御殿地は昔蒹葭(けんか オギ、アシの類)など生ひ茂りて、御鷹場に用ひられし処なり、寛永頃の図に御鷹場と記す、その後甲府綱重卿の御下屋敷に進ぜられしなり。『承応記』に元年八月十四日、長松君に御下屋敷海手と山の手にて両所進ぜらると見えたり。・・・・長松君は則綱重卿の御幼名にて、海手御屋敷と云もの当所なるべし。現に寛文十一年梓行の『江戸大絵図』及び延宝八年『江戸安見図』等には、甲府御浜屋敷と記せり。綱重卿逝去ありて、御嫡子綱豊卿御家督たりし時、宝永元年十二月五日、御養君と成らせ玉ひて西丸御城へ御移り有しより、暫くのほど西丸御用屋敷と唱へ、その後浜御殿と改め称せられしと云」(「御府内備考」)
- ・ 潮入りの池 潮の干満によって趣を変えるのが潮入りの池です。歴代の将軍も総檜造りのお伝い橋を渡り、中島の御茶屋(緑の屋根の建物)で休憩しました。
こうして浜御殿は徳川将軍家の別邸となり、吉宗以降は鷹狩場としても利用されていましたが、幕末になると、江戸城と江戸湾を結ぶ軍事的な機能に重点が移り、大砲が置かれ海軍伝習屯所が築地から移転しました。最後の将軍慶喜が大阪城から開陽丸で逃げ帰った際、上陸したのも浜御殿の→ 将軍お上り場です。明治に入り宮内省の管轄となり浜離宮と名を変え、延遼館(鹿鳴館以前の迎賓館)が置かれました。戦後都立の浜離宮庭園として公開され、最近では江戸時代の建物の復元も相次いでいます。
- ・ 横堀水門 東京湾の水位の上下に応じて、水門を開閉し、潮入りの池の水の出入りを調整しています。奥が潮入りの池に通ずる横堀です。
- ・ 汐留川水門 上掲写真の海側にある水門越しのショットです。浜離宮を半周した汐留川は、奥の汐留川水門先で隅田川河口に合流します。