神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

浜御殿

2019-09-09 06:12:46 | 平川・外堀1

 「浜御殿 此御殿地は昔蒹葭(けんか オギ、アシの類)など生ひ茂りて、御鷹場に用ひられし処なり、寛永頃の図に御鷹場と記す、その後甲府綱重卿の御下屋敷に進ぜられしなり。『承応記』に元年八月十四日、長松君に御下屋敷海手と山の手にて両所進ぜらると見えたり。・・・・長松君は則綱重卿の御幼名にて、海手御屋敷と云もの当所なるべし。現に寛文十一年梓行の『江戸大絵図』及び延宝八年『江戸安見図』等には、甲府御浜屋敷と記せり。綱重卿逝去ありて、御嫡子綱豊卿御家督たりし時、宝永元年十二月五日、御養君と成らせ玉ひて西丸御城へ御移り有しより、暫くのほど西丸御用屋敷と唱へ、その後浜御殿と改め称せられしと云」(「御府内備考」)

 

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    ・ 潮入りの池  潮の干満によって趣を変えるのが潮入りの池です。歴代の将軍も総檜造りのお伝い橋を渡り、中島の御茶屋(緑の屋根の建物)で休憩しました。

 こうして浜御殿は徳川将軍家の別邸となり、吉宗以降は鷹狩場としても利用されていましたが、幕末になると、江戸城と江戸湾を結ぶ軍事的な機能に重点が移り、大砲が置かれ海軍伝習屯所が築地から移転しました。最後の将軍慶喜が大阪城から開陽丸で逃げ帰った際、上陸したのも浜御殿の→ 将軍お上り場です。明治に入り宮内省の管轄となり浜離宮と名を変え、延遼館(鹿鳴館以前の迎賓館)が置かれました。戦後都立の浜離宮庭園として公開され、最近では江戸時代の建物の復元も相次いでいます。

 

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    ・ 横堀水門  東京湾の水位の上下に応じて、水門を開閉し、潮入りの池の水の出入りを調整しています。奥が潮入りの池に通ずる横堀です。

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    ・ 汐留川水門  上掲写真の海側にある水門越しのショットです。浜離宮を半周した汐留川は、奥の汐留川水門先で隅田川河口に合流します。

汐留川河口

2019-09-07 06:18:33 | 平川・外堀1

 汐留橋、汐先橋を流れた汐留川は浜離宮庭園(江戸時代の浜御殿)大手門前に至ります。そこから左回りで庭園をめぐり、汐留川水門先で隅田川と合流します。昭和30年代までには埋め立てられた汐留川ですが、この周辺だけはなお水面が維持され、今日汐留川と呼ばれるのはこの1km弱の区間です。なお、承応3年(1654年)、当地が甲府徳川家下屋敷となり、海が埋め立てられるまでは、汐留川の河口は大手門前にありました。その後、浜御殿の北西にあたる一辺のみを流れ、西の角で江戸湊に注いでいました。今日のように、左折して二辺を流れ、南の角で隅田川河口に注ぐようになったのは、昭和に入って竹芝埠頭のところが造成されてからです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。  

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    ・ 蓬莱橋交差点  交差点の手前にあった蓬莱橋は、明治7年(1874年)に石橋となった際の名前で、それまでは汐留橋でした。「新橋の東にて、同じ川に架す。潮の此辺にて止まると云義なるべし」(「御府内備考」)  

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    ・ 汐留川  左手は浜離宮庭園大手門橋です。ここから先は開渠となって庭園の西縁を巡ります。なお、大手門橋の先は築地を巡る堀川、→ 築地川の河口に当たります。  

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    ・ 汐留川  浜離宮庭園の西隅で左折し、汐留川水門に向かいます。江戸時代の河口ですが、ここには右岸からの合流がありました。宇田川と呼ばれる大下水化した川で、桜川水系に属します。

新橋

2019-09-06 06:01:46 | 平川・外堀1

 外濠川と合流後の汐留川を東に向かいます。土橋、難波橋(涙橋とも)の次が新橋です。「新橋 尾張町通り、出雲町と芝口町との間に架す。是芝口御門の橋なり。故に今尚石垣等そのまゝ存せり。御門を立てられし等の事は前巻古蹟の條に弁ず」(「御府内備考」) 日本橋を起点とする東海道(中央通り)の四番目(のち三番目)の橋で、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)にも、新橋と付記されているところです。日本橋、中橋、京橋に比べ新しく架けられた橋の意です。それが、宝永7年(1710年)に芝口門が当地に移され、芝口橋となりましたが、享保9年(1724年)に門は焼失し、以後再建されなかったため、当初の呼び名が復活しました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 新橋 汐留橋」  注目は新橋・汐留橋間の左岸から合流している堀川で、その幅から三十間堀と通称されているものです。  

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    ・ 新橋  南詰の一角に保存された親柱越しの撮影です。この親柱は大正14年(1925年)、コンクリート橋に架け替えられた際のもので、橋自体は汐留川の埋め立てに伴い、昭和39年(1964年)に撤去されました。  

 三十間堀は上流部分の楓川とともに、 → 「段彩陰影図」から見て取れる江戸前島東岸の海岸線に位置しており、沖合を埋立てる際、海岸線に沿って埋め残した堀川と考えられています。汐留川との合流地点にある解説プレートによると、慶長17年(1612年)、江戸の船入堀を整備するため、西国大名に命じて完成、当初、堀幅が30間(≒54.6m)あったため三十間堀と呼ばれましたが、その後半分近くに縮小されました。戦後、戦災によって出た瓦礫により埋立てられ、昭和27年(1952年)には消滅しています。 

 

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    ・ 三十間堀跡  合流地点には中央区教育委員会の解説プレートが立っていますが、積み上げられた石は三十間堀の護岸に使用されていたもののようです。合流地点から三十間堀方向の写真は→ こちらです。

汐留川

2019-09-05 06:56:41 | 平川・外堀1

 山下橋を過ぎた外濠川は、四百数十メートルを直線で南下し、幸橋門外で溜池方面からの外堀と合流します。左折して東に向きを転じ、土橋、汐留橋を経て浜離宮へと至る後半は、汐留川と呼ばれていましたが、これは明治に入ってからのようで、江戸時代は特に名前はありませんでした。「川 巾拾六間程 右者町内北之方ニ有之幸橋御門外御堀より土橋東之方え相流申候尤名目者無之川巾拾六間長十九間半弐尺程町内持場ニ御座候」 

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 これは土橋のある二葉町に関する「御府内備考」の記述で、土橋に関しては「巾五間四尺長三間二尺 右者御堀吐水口ニ掛渡し有之町内より丸屋町え相渡候橋ニ而」云々としています。なお、幸橋、幸橋御門に関しては、「古くは御成御門と云。寛永中の『江戸絵図』には御成橋と註す」とあります。芝増上寺への参詣のルート上にあるため、そう呼ばれたものです。枡形門の築造は山下門と同じく寛永13年(1636年)なので、引用文中にもある「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年)には木橋しか描かれていません。

 

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    ・ 新幸橋跡  合流地点の一つ手前の新幸橋交差点近くに、新幸橋の記念碑が立っています。昭和に入ってからの架橋で、記念碑には昭和4年と刻まれています。 

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    ・ 土橋跡  左カーブでいったん分かれていた外堀通りと交差するところに、土橋が架かっていました。高架は引き続き東京高速道路で、やはり左カーブで汐留川跡の上にシフトします。  

山下橋

2019-09-04 06:39:57 | 平川・外堀1

 前回UPの→ 「実測図」にあるように、数寄屋橋、数寄屋橋門のカーブから200mほどで、右手から日比谷堀が合流、その先に山下橋、山下門がありました。「山下御門 古くは姫御門といひしよし。『寛文江戸図』等にみゆ。又山下町ある故に後に山下御門といへり。又俗に鍋島御門と唱ふるは鍋島家の屋敷ありてよりの名なるべし」(「御府内備考」) ここまでの外郭門より後の築造のため、「武州豊島郡江戸庄図」には土橋のみで門はありません。同図には近くに「山下丁」の書き込みがあり、山王社の山下の意と思われます。

 

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    ・ 外濠川跡  数寄屋橋の左カーブの先で、東京高速道路の右手に回り込みます。右手のJR線までが外濠川の幅で、こから500mほど先の汐留川まで、二つの高架に挟まれた状態が続きます。

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    ・ 外濠川跡  右手から日比谷堀が合流していたところです。正面奥の突き当たりが山下橋の架かっていたところで、その左手が山下町、右手に山下門がありました。

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    ・ 山下橋跡  上掲写真の突き当たり左手からのショットです。手前の東京高速道路下に山下橋、奥のJR線の下に山下門がありました。なお、山下門は江戸城門のなかでは最小の門でした。

 <外濠川と江戸前島>   これまでも度々引用した「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)ですが、その堀川と海岸線をブルーで重ねた→ 「段彩陰影図」を見ると、今回の外濠川の流路が江戸前島の西の海岸線と一致しているのがわかります。 これは → 「別本慶長江戸図」の欠落している個所で、当時の外堀は右カーブに差し掛かる前あたりで、日比谷入江に注いで終了していたものが、日比谷入江の埋め立ての進捗に伴い、江戸前島との間を埋め残すかたちで、「慶長十二年江戸図」の描く様に、延長されたものと思われます。

 


数寄屋橋

2019-09-03 06:21:37 | 平川・外堀1

 鍛冶橋、鍛冶橋門の次は数寄屋橋、数寄屋橋門ですが、大正から昭和の初めにかけて、間に有楽橋、新有楽橋が架けられました。織田信長の弟で、茶人としても名高い有楽斎(うらくさい)が、慶長年間に当地に屋敷を拝領し、のち有楽原と呼ばれたことが、明治に入って成立した有楽町の名前の由来です。次の数寄屋橋、数寄屋橋門の名前も、御数寄屋坊主の屋敷地説とともに、有楽斎の作った茶室(数寄屋)が由来との説が併存しています。門は寛永6年(1629年)の築造で、橋の創架も同時期との説もあり、 「武州豊島郡江戸庄図」でその名と共に初めて登場します。同図には数寄屋橋町も描かれていますが、のち火除地となったため元数寄屋町と通称されるようになります。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部と南部を合成した一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

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    ・ 外堀通り  東京高速道路の高架をくぐると、銀座柳通りとの有楽橋交差点です。その名の通りここに有楽橋が架かっていました。  

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    ・ 外堀通り  数寄屋橋交差点手前で右カーブ、外堀通りからいったん離れます。右手でカーブする東京高速道路下が外濠川の流路です。

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    ・ 数寄屋橋跡   東京高速道路下に数寄屋橋、その奥の有楽町マリオン前に数寄屋橋門という位置関係で、さらにその奥には南町奉行所がありました。

鍛冶橋

2019-09-02 06:50:05 | 平川・外堀1

 呉服橋、呉服橋門の次は鍛冶橋、鍛冶橋門ですが、明治10年代になって、間の現在の東京駅八重洲口前に八重洲橋が架けられました。大正3年(1914年)に東京駅が出来た際、いったん撤去され、大正末には再架橋されています。次の鍛冶橋に関しては、 → 「慶長十三年江戸図」に描かれているものがそうかは不明ですが、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、「かぢ橋」と付記されています。「鍛冶橋御門 鍛冶町へ出る御門なればかくいへりと」(「御府内備考」) 「江戸庄図」には橋の前に「かぢ丁」の書き込みがあり、のちに神田鍛冶町に対し、南鍛冶町となったところです。

 

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    ・ 外堀通り  八重洲通りとの八重洲中央口前交差点で、ここに八重洲橋が架かっていました。右手は東京駅八重洲口です。  

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    ・ 外堀通り  鍛冶橋通りとの鍛冶橋交差点です。正面奥に見える高架は、京橋川上に敷設された東京高速道路のものです。 

 京橋川は鍛冶橋下流で外堀から分岐、東(左手)に向かう600mほどの堀川で、白魚橋先で楓川・三十間堀とクロスし、八丁堀(桜川)に連続していました。江戸前島の中央を横断する人工のものですが、開削時期は特定されてはいず、慶長8年(1603年)の豊島洲崎の埋立て、造成の際ともいわれています。江戸前島の背にあたる現中央通りにある京橋から、京橋川と呼ばれています。外濠川と同じく戦後埋立てられましたが、その跡地に建てられたビルの上を利用して、東京高速道路(民間会社運営の無料自動車道路)が営業しています。

 

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    ・ 東京高速道路  高架下の分岐点に比丘尼橋が架かっていました。比丘尼は尼僧のことですが、ここではその恰好をした私娼の宿(比丘尼宿)があったためといわれています。

呉服橋

2019-08-31 06:35:55 | 平川・外堀1

 しばらく日本橋川から離れ、一石橋以南の外堀を追います。外堀は元飯田町堀留を起点に、右回りで追ってみるとちょうど「の」の字を描きますが、今回の対象はその内側の線の下半分に当たるところで、明治以降、外濠川と呼ばれることもあった区間です。開削年代は特定できませんが、 → 「別本慶長江戸図」の右隅に一部記載されており、慶長7年(1602年)までには開削され、日比谷入江埋立ての進捗に応じて、延長、整備されていったものと思われます。なお、外濠川は戦災により発生した瓦礫を処理するため、戦後間もなく埋立てられ、完全に消滅するのは昭和30年代に入ってからです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、外濠川を挟んで左が千代田区、右が中央区、また左下隅は汐留川を挟んで港区です。  

 外濠川は途中4つの橋と外郭門を有していました。北から呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、そして山下橋の各門で、八重洲橋、有楽橋などは明治以降に架橋されたものです。うち最初の呉服橋門は寛永6年(1629年)に奥州の諸大名により築造されました。名前の由来は門外に幕府御用達の呉服商後藤家があったためで、初出の「武州豊島郡江戸庄図」では後藤橋となっています。明治に入り外郭門は取り壊され、その石塁を用いて石橋となり、のち鉄橋となりましたが、戦後外濠川の埋め立てにより呉服橋もなくなりました。

 

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    ・ 外堀通り  永代通りとの呉服橋交差点です。外堀通りの左半分は元々通りだったところで、通りの右半分が外堀の左半分にあたります。

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    ・ 永代通り  上掲写真の右手で、横断歩道のあたりに呉服橋が、その奥に呉服橋門がありました。橋の東西を直線で結ぶ道路ができたのは明治に入ってからです。 

一石橋

2019-08-30 06:53:00 | 平川・外堀1

 常盤橋下流の十字路には、前々回UPの→ 「江戸名所図会」からも見て取れるように、(時計回りに)常盤橋、一石橋、呉服橋、銭瓶橋が架かっていました。うち一石橋の架橋は他の三橋より遅れ、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)で、その名と共に初めて登場します。橋名の由来は江戸ッ子好みの小話風で、近くに後藤を名乗る屋敷が二つあり、後藤(五斗)と後藤(五斗)で十斗、すなわち一石だというのです。ちなみに二つの後藤というのは、常磐橋前の金座(現日本銀行)にあった御金改役の後藤家と呉服橋近くにあった呉服商の後藤家です。

 

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    ・ 一石橋  正面は大正11年(1922年)改架の花崗岩張りアーチ橋の親柱ですが、平成に入り改修された際一基だけ保存されました。

 江戸時代も後半になると、一石橋から東隣の日本橋にかけては盛り場となり、そのため迷子も多かったのでしょう、橋のたもとには迷子を知らせる→ 石柱が立てられました。現在も上掲写真の親柱の隣に保存されていますが、その正面には「まよい子のしるべ」とあり、左側に迷子、尋ね人の特徴を書いた紙を、右側に見かけた旨知らせる紙をはる、といったものでした。同様のものが湯島天神、浅草寺、両国橋といった江戸屈指の繁華街に置かれたそうです。

 

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    ・ 日本橋川  一石橋から下流方向で、左カーブで東に向きを転じた後です。高架は同様に左カーブした都心環状線、奥に呉服橋出入口が見えます。

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    ・ 外堀通り  一石橋上から呉服橋交差点方向です。通りの右半分から隣のビルまでが、ほぼ埋立てられた外堀の幅に当たります。

銭瓶橋

2019-08-29 07:01:01 | 平川・外堀1

 道三堀が外堀に合流する手前に架かる銭瓶橋は、「慶長見聞集」の「江戸の川橋にいわれ有る事」の中で、五つの橋の最後に登場します。「町には舟町と四ヶ市のあひにちいさき橋只一つ有。是は往ふくの橋也。文禄四年の夏の比、此橋もとにて銭かめをほり出す。永楽、京銭打交りて有りしを四ヶ市のもの共、此銭かめを町の両御代官板倉四郎右衛門殿、彦坂小刑部殿へさゝけ申たり。それより此橋を銭かめ橋と名付たり」 文中の舟町がどこにあるのかは、「江戸の川橋にいわれ有る事」の冒頭、「見しは今、江戸にいにしへよりほそきなかれたゝ一筋有。・・・・此水御城堀のめくりを流て舟町へおつる」から、平川の河口が日比谷入江なのか、それとも江戸湊なのかという、重要な問題と関わっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

 四ヶ市(四日市)は、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)によると、日本橋下流の右岸にあり、対岸は大船町(のち本船町)です。この大船町を舟町とすると、銭瓶橋は江戸橋のところにあったことになりますが、同図は現在位置に銭瓶橋を描いています。数十年の間に銭瓶橋を名乗る橋が変わったのか、それとも四日市町や舟町の場所が移動したのか、「東京市史稿市街篇」は、町のほうが移転したのではと推測しています。→ 「別本慶長江戸図」で、道三堀周辺は「町人住居」となっていますが、「武州豊島郡江戸庄図」では大半が武家地です。江戸城の拡張に伴い、押し出される形で移転したのかもしれません。

 

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    ・ 道三堀跡  一石橋から道三堀跡を振り返っての撮影で、奥の建物(日本ビルジング)付近に銭瓶橋が架かっていました。この区画は目下再開発中で立ち入りはできません。 

 <平川付替え論2>  平川付替えをめぐる二説のうち、現在有力なのは平川河口=日比谷入江説ですが、その内部にも付替えの経緯を巡って対立があります。道潅以降付替えの進んでいた平川に、江戸開府時に道三堀を連結したというもの、この場合の道三堀は辰の口・銭瓶橋間を指します。あるいは、江戸開府時にまず道三堀を開削し、それに平川を付替えて繋げたというもの、こちらの道三堀は、一般にいわれているのとは異なり、江戸前島の根元を江戸湊まで開削した、広義のものということになります。いずれにしても確定的な文献はなく、推測の域を出ない問題で、かの鈴木氏自身、初期の著作での道灌による付替え説から、家康入国時の付替え説にシフトしているように見えます。

 


外堀と道三堀

2019-08-28 06:41:27 | 平川・外堀1

 常盤橋の先で日本橋川は、ほとんど左折といっていい角度で左カーブします。もっとも、江戸時代には「江戸名所図会」が描くように、二本の水路がクロスする十字路だったところですが、明治末には道三堀が埋め立てられてT字路になりました。戦後、呉服橋以南の外堀(外濠川)がやはり埋め立てられ外堀通りとなり、その結果、手前の常盤橋から左手の一石橋への流れだけとなり、今日の日本橋川の形となったものです。ところで、十字路となったのはいつ、どのような経過によってなのか。平川の本来の流路とかかわる謎であり、様々な仮説が考えられるところですが、ここでは平川河口=日比谷入江説の立場から、平川の付替えと道三堀の開削によってとしておきます。

 

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    ・  「江戸名所図会 / 八見橋」  八見橋は一石橋の別名です。自身を含め八つの橋を一望出来るという意味ですが、図には左手にある日本橋、江戸橋を欠いています。別途、単独で取り扱っているからでしょう。  

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    ・ 常盤橋  旧常盤橋の親柱(常磐の文字を使用)越しに見た現常盤橋です。関東大震災後の復興橋として、元の位置から100mほど下に架け替えられ、旧常盤橋は歩行者専用となりました。  

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    ・ 日本橋川  現常盤橋からのショットです。左カーブ上に架かるのが一石橋で、外堀通りが通っています。右手のスペースは、合流する道三堀を埋め立てたところで、今は小公園になっています。  

 <平川付替え論>  平川付替えをめぐる諸説は大きく二分され、平川河口=江戸湊説から、現行の日本橋川の流路を自然河川のそれとするもの、平川河口=日比谷入江説から、日本橋川の一ツ橋、神田橋以降を付替えによるとするものです。前者を論じたのは菊池山哉「五百年前の江戸」(昭和31年)で、「今の常盤橋の地底高くとも、最初言うた如に、平川の流れは一ツ橋から東へ向って、末は日本橋川にあったと考えて居る」としています。ただ、今日この説によるものはほとんどなく、これは昭和初期の地下鉄銀座線の敷設に当たって作成された地盤図をもとに、日本橋川の人為的な開削を立証した鈴木理生氏の著作によるところが大きいようです。

 


常盤橋

2019-08-27 05:50:51 | 平川・外堀1

 竜閑川の分岐点から100mほどで、日本橋川は高架のJR線をくぐり、その先すぐに新常盤橋、そして常盤橋門前にある旧常盤橋、現在の常盤橋と連続します。常盤橋は → 「慶長江戸図」の当時、浅草への道筋にあることから浅草口、浅草橋と呼ばれていました。7年のものには「さんやより千じゅへ出、奥州道」と添えられています。それが、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では大橋となり、12年の「慶長江戸図」で大橋とされた大手門のところは、「もと大橋口」となっていて、江戸城の拡張に伴い、大橋の名称が移動したことがうかがえます。

 

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    ・ 日本橋川  山手線などの走る高架のJR線をくぐります。その先に大正時代に路面電車開通に合わせて架けられた→ 新常盤橋があり、江戸通りが通っています。  

 いずれにしても、日本橋、日本橋通りができる以前の江戸市街は、常盤橋から浅草方面への道筋(本町通り)を中心に形成され、町支配を担った奈良屋など町年寄は本町通りに居を構えていました。なお、現在に至る名称、常盤橋については、三代家光の時代、「金葉集」の一首、「常盤のはしにかゝる藤なみ」から命名したとの伝承が、「御府内備考」に収録されています。(常盤橋、常盤門は先の震災で損傷を受け現在閉鎖して改修中のため、以下の写真はそれ以前のものを使用しています。)

 

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    ・ 日本橋川  新常盤橋から下流方向で、左手奥のレトロな建物が日本銀行です。その前に架かるのが常盤橋、さらに右手には常盤橋門の枡形石垣があります。

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    ・ 常盤橋  奥は常盤橋門の枡形石垣、なお、明治10年(1877年)改架の橋は、桝形の石材を利用した都内髄一の洋式石橋です。

鎌倉河岸

2019-08-26 05:50:22 | 平川・外堀1

 神田橋の次は鎌倉橋です。当地に荷揚げ場、鎌倉河岸があり、隣接する町屋が鎌倉町と呼ばれたのが由来ですが、橋自体は関東大震災後の架橋で、錦橋などと同じいわゆる震災復興橋です。一方、鎌倉河岸、鎌倉町の歴史は古く、江戸城の天下普請の際、当地に建築資材の荷揚げ場ができ、取り仕切ったのが鎌倉の材木商だった、といわれています。江戸城本丸最寄りの荷揚げ場として、江戸期を通して利用されました。なお、鎌倉町にあった酒屋豊島屋は、白酒で有名ですが、酒の肴を提供し居酒屋の先駆けとなりました。

 

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    ・ 日本橋川  鎌倉橋から下流方向で、この先右カーブで常磐橋を目指します。なお、右岸の石垣および右カーブのところの水門に注目です。  

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    ・ 鎌倉河岸遺構(?)  鎌倉橋の下流の左岸を覗き込んでいます。石組みがここだけ切れ込みテラス状になっていて、荷揚げ場の遺構と思われます。

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    ・ 龍閑川跡  左手の水門は江戸時代の神田堀、明治に入り龍閑川と呼ばれた水路のもので、現在は埋め立てられ下水道馬喰町幹線に転用されています。 

 <龍閑川>  龍閑川は江戸時代、神田堀、神田八丁堀、白銀堀等と呼ばれました。「神田堀 鎌倉河岸龍閑橋の辺より御堀の枝流となり、東の方馬喰町に達し、それより南に折れ、浜町にかゝりて大川に合す。近き年馬喰町辺にて船入りを止めしゆへ、今の二流の入堀のごとくなれり。馬喰町辺より浜町辺迄を浜町堀といふ」(「御府内備考」) 八丁堀は8丁(900m弱)ほどの長さがあったための、白銀堀は右岸の本銀(ほんしろがね)町に由来する名前です。一方、龍閑川の名前は、分岐地点に架けられていた龍閑橋によっていて、付近に井上竜閑という幕府坊主の屋敷があり、そう名付けられたといいます。

 


錦橋、神田橋

2019-08-24 05:41:47 | 平川・外堀1

 内堀にシフトする直前の一ツ橋まで戻って、日本橋川(外堀)のウォーク&ウォッチの再開です。ここまでほぼ南下していた日本橋川ですが、雉子橋のところで左折、右折のクランク、一ツ橋のところで左折と、徐々に東向きにシフトし、次の錦橋から神田橋にかけて→ 「段彩陰影図」から読み取れるように、江戸前島の微高地に差し掛かります。人工的に開削したといわれている区間です。なお、錦橋は江戸時代にはなく、昭和の初めに架けられたいわゆる震災復興橋です。左岸の錦小路がその名の由来で、最寄りの武家地に一色家の屋敷二軒があり、一色が二つで二色(錦)小路と呼ばれたともいわれています。

 

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    ・ 日本橋川  錦橋から下流方向で、ここは右カーブ、左カーブの蛇行が見られ、次の神田橋は見通せません。ほぼ直線の首都高とズレのあるのはこの蛇行のためです。

 次の神田橋は神田橋門のあったところで、 → 「別本慶長江戸図」には「芝崎口」と記されています。橋の南側に土井大炊頭利勝の屋敷があり、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)では、「大炊殿はし」となっています。土井大炊頭の屋敷は、神田明神旧地を賜ったもので、それに伴い同明神は駿河台に遷ったといわれています。現在地の外神田に改めて遷座したのは、元和2年(1616年)のことです。なお、神田橋を通る道筋(現本郷通り)は、上野寛永寺や日光東照宮参拝のための将軍御成道でした。

 

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    ・ 日本橋川  正面に見えるのが神田橋です。神田橋門は、ここまで見てきた雉子橋門、一ツ橋門など、多くの日本橋川筋にある門と同様、寛永6年(1629年)の天下普請によって修築されました。

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    ・ 神田橋  明治以降市電開通や震災復興などで度々改架されましたが、現在のものは昭和55年(1980年)の架け替えです。なお、右手奥あたりが神田明神の旧地といわれています。

道三堀

2019-08-23 06:36:38 | 平川・外堀1

 和田倉堀が右折する通称辰の口から、道三堀跡を追って外堀、一石橋へと向かいます。といっても、道三堀のあったのは、丸の内、大手町という日本屈指のオフィス街です。明治42年(1909年)という早い段階で、市区改正計画の一環として埋め立てられてしまいました。流路と重なる道路も残されていないため、起点と終点以外は地図上でたどるしかありません。なお、名前の由来ですが、代々典薬寮の医官を勤めた今大路道三の屋敷が、堀の南側にあったため、道三堀、道三河岸と通称されるようになりました。もっとも、今大路家の元となった二代目、曲直瀬(まなせ)道三が、秀忠に招かれ京から下ったのは、慶長年間も中ごろのことなので、開設当時の名前は道三堀ではなかったことになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) /  日本橋」  道三堀は埋め立て中で、辰の口から永代通りまで流路がそのまま道路になっています。  

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    ・ 辰の口跡  和田倉堀と道三堀の接続する、通称辰の口のあったところです。「形ち龍の水を吐出すが如くなれば、龍の口と唱へしより、近き辺をもその名を襲ふと云」(「御府内備考」)

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    ・ 永代通り  大手町駅前交差点の北東角を写しています。正面に写る大手町野村ビルの裏側に、千代田区教育員会の→ 「道三橋跡」の解説プレートが立っています。

 道三堀には三本の橋が架かっていました。辰の口のところに一つ、一石橋手前の合流地点に一つ、そして中間にあった道三橋です。「昔此橋の南に、典薬寮の御医官今大路家の第宅ありしとなり。・・・・俗間伝云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故にその道遠と申上ければ、其後此橋をかけしめ給ふとなり」(「江戸名所図会」)  → 「慶長江戸図」にはなく、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)で初めて、南側の「道三」の書き込みと共に描かれており、年代的にはこのエピソードと附合しています。(合流地点にあった銭瓶橋については、該当個所で詳細します。)