神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

メインの遊歩道

2016-08-31 06:13:19 | 桃園川1

 昭和の初めの桃園川は天沼から阿佐ヶ谷に二流で入り、すぐに右岸流を分岐して三流になっていました。天沼地区の区画整理で本流一流となったあとも、阿佐ヶ谷ではこの三流が維持され、ただ、いずれも本流から分岐したように付替えられました。今回から数回にわたって、これら三流をとりあえず中杉通りまでたどりますが、まず最初は天沼から連続する中央の遊歩道で、メインのと付けたのは、左岸流跡の遊歩道と区別するためです。(現行の地図に薄いブルーで重ねたのは、天沼のところでUPした→ 地図 と同様、区画整理前の流路です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 慈恩寺前で旧阿佐ヶ谷村に入るところから再開します。現行の住居表示でも横切る通りが 天沼、阿佐谷北の境になっています。

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    2. すぐに右カーブに差し掛かります。このカーブの前後で左右に分岐するよう付替えられましたが、その痕跡は残されていません。 

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    3. カーブを抜けるとほぼ直線で東に向かいます。付替え時の人工的な区間です。 

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    4. ここに松山橋が架かっていました。松山は杉並村大字阿佐ヶ谷の字で、200mほど先の通りの名前に残っています。

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    5. このようなカラーブロック、石造りの車止めの遊歩道が中杉通りまで500mほど続きます。

阿佐ヶ谷村用水

2016-08-30 06:21:16 | 桃園川1

 「用水 保谷新田にて多摩川上水を引分、天沼村より当村に入、処々の水田にそゝぎ、村内をながるゝこと四町許、流末は馬橋村に至る」(「新編武蔵風土記稿」) 「多摩川上水を引分」とは千川上水六ヶ村分水のことですが、阿佐ヶ谷村にかかわる分水口は二つあり、一つはこれまで追って来た北四面道口から天沼村経由のもの、もう一つは杉並口から直接阿佐ヶ谷村を灌漑していたものです。なお、「新編武蔵風土記稿」には「陸田多く水田少なし」とありましたが、「東京府志料」によると田12町4反5畝、畑72町5反7畝余、同じころの「星野家文書」で12町4反歩と、ほぼないし全部を千川用水に依存していました。

 

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    ・ 「阿佐ヶ谷村絵図」  成立年代不詳の「阿佐ヶ谷村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 阿佐ヶ谷村を流れる桃園川の流路は、二ないし三流が並行し、あるいは網の目状に入り組んでいて、かなり複雑ですし、またそれを描く絵図、地図によっても一定していません。ただ、上掲「村絵図」や→ 「東京近傍図」から現在確認できる水路跡まで、左右の側流に挟まれた流域の大枠は一致しています。これは、阿佐ヶ谷地区が前後の天沼や馬橋、高円寺などと異なる最大の特徴で、区画整理による単線かつ直線化を経ていないため、左右の段丘沿いに流れていた用水が、江戸時代そのままに今に至っているためです。

 

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    ・ 中杉通り  第二次大戦後の開通で、世尊院境内を貫き旧阿佐ヶ谷村を東西に二分しています。写真は世尊院北で中杉通りを越える桃園川の谷筋です。

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    ・ 青梅街道  青梅街道沿いに東に向かう六ヶ村分水の杉並口付近です。街道に面した建物の裏には、コンクリート蓋の→ 路地が街道と平行しています。

阿佐ヶ谷村

2016-08-29 06:55:10 | 桃園川1

 「阿佐ヶ谷村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を伝えず、江戸日本橋には三里半の行程なり、村名の起りを詳にせず、『小田原北条家人所領役帳』に、太田新六郎知行八十四貫文中野内阿佐ヶ谷分とあり、・・・・されば古き村なる事は疑ひなけれど、その詳なるころを伝へず、江戸麹町山王の神領に附せらる、村内はすべて平地にして土性は野土なり、陸田多く水田少なし、民家九十四軒、村の広さ東西七町、南北十一町、東は馬橋村にとなり、南は青梅街道に界ひ、又田端、成宗の二村にも続けり、西は天沼村に接し、北は下鷺ノ宮村に及ぶ」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、細線は杉並村当時の大字境です。

 阿佐ヶ谷の地名が文献上最初に現れるのは、応永27年(1420年)作成の古文書(熊野那智大社「米良文書」)で、檀家であった江戸氏の一族を列記したなかに、「中野殿」と並んで「あさかやとの」とあります。さらに、冒頭の引用文にもある「小田原衆所領役帳」(永祿2年 1559年)は、「中野内阿佐ヶ谷」と、現行と同じ漢字表記です。地名由来としては、桃園川流域の浅い谷筋の意と解するのが一般で、泥が浅く耕作しやすい、麻の生い茂る、葦の生い茂るなどもありますが、いずれにしても谷筋にある地形由来は間違いないところです。「新編武蔵風土記稿」に記載された小名は、向、小山、原、本村で、神明宮や世尊院のある本村を中心に、桃園川流域を開発したのが最初と思われます。

 

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    ・ 神明宮  阿佐ヶ谷村の鎮守で、桃園川を東に望む右岸段丘斜面にあります。西隣の世尊院は江戸時代別当でしたが、中杉通りに面して→ 山門が建っています。

  「神明宮 除地、百五十坪、小名本村にあり、村内の鎮守なり、・・・・右の五社共に村内世尊院の持ちなり」(「新編武蔵風土記稿」) 「江戸名所図会」本文にも記載があり、日本武尊の東征に際し当地に立ち寄った後、地元民がその武功を慕って神明宮を勧請したこと、源頼義の奥州遠征に随行し、病気となって土着した者が、伊勢神宮に参拝して霊石を得、これをご神体としたこと、当初の社地は「七八町東の方にあり、土人これを元伊勢と称」したことなど、神明宮にまつわる伝承を紹介しています。なお旧地は今もお伊勢の森と呼ばれています。

 


村境の小支流

2016-08-27 06:48:09 | 桃園川1

 現日大二高キャンパス付近から発し、天沼、阿佐ヶ谷の村境近くで合流する小支流があります。元々は左岸流に流れ込んでいたのでしょうが、区画整理事業によって左岸流が失われたのに伴い、本流に合流するよう付け替えられました。なお、日大二高は大正15年(1926年)、日本大学の二番目の付属中学(旧制)として当地に開校しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 慈恩寺前で本流は天沼、阿佐ヶ谷の境を越えますが、その手前で左手からの合流があります。(道幅の違いに注目です。)

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    2. 100mほどほぼ直線で北に向かいます。なお、写真右手の宅地の一角から、左岸流跡の遊歩道が始まります。  

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    3. 左折、右折のクランクがあり、その先に車止めが顔をのぞかせる、典型的なカクカクです。 

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    4. 車止め、コンクリート蓋の路地が二ブロック、100m弱続きます。

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    5. 日大二高キャンパスに突き当たって終了です。右写真は東側からのショットで、谷筋が見て取れます。

土地区画整理

2016-08-26 06:38:35 | 桃園川1

 天沼地区の土地区画整理事業は、昭和6年(1931年)に組合結成、同14年に完成しました。昭和30年発行の「杉並区史」の記述では、「天沼1、2丁目の一部三万六千余坪、千川用水の水路改修を主とし、田畑山林の荒地に道路を貫き、橋梁を架し、著大の効果をもたらした」そうです。この36000坪という数字ですが、天沼村の水田面積は4町歩(12000坪)前後で推移しており、ほとんどを千川用水に依存していました。その三倍に過ぎないということは、用水の流域にほぼ限定されていたわけで、「千川用水の水路改修を主とし」というのもうなずけます。(現行の地図に薄いブルーで重ねたのは、都市計画東京地方委員会の「大正12年測図(1/3000)」に描かれた桃園川の流路で、区画整理前後の変化が一目瞭然です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回もUPした遊歩道が左カーブするあたりが、改修前の分岐点でした。なお、左手にある日大幼稚園は昭和2年の開園です。

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    2. 分岐した二流のどちらとも重ならない、区画整理時に開設された区間です。これまでより幅広かつ直線的なのも、そのためなのでしょう。

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    3. 左カーブ以降、遊歩道が中央分離帯のようになっていますが、次のブロックは左手車道、右手遊歩道です。

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    4. 区画整理時に出来た幅広道路を越えます。右写真の奥に左岸流があり、見通せる70mほどが天沼田圃の幅でした。

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    5. 幅広道路の北端にある区画整理記念碑です。事業が竣工した昭和13年に建てられました。 

右岸の小支流

2016-08-25 06:37:03 | 桃園川1

 本流跡の遊歩道に戻り、改めて東に向かいます。日大幼稚園前を過ぎたところで、右手から合流する水路跡の路地があります。→ 「段彩陰影図」のほぼ中央の谷筋にかかわるもので、車止め、コンクリート蓋の水路跡を三ブロック、百数十メートルたどることができます。なお、改修以前は合流地点付近で本流自体、二流に分岐していましたが、その詳細は次回のテーマとします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 桃園川の本流に戻り、改めて遊歩道を東に向かいます。 

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    2. 通りの右手が水路跡の遊歩道ですが、左カーブの先では通りの中央にシフトしています。

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    3. 左カーブの右手に路地が合流しています。右折してこの路地をさかのぼります。

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    4. コンクリート蓋、車止め付きで、緩やかに右カーブしながら150mほど続きます。

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    5. 車止めの先は一般の道路に紛れて終了です。ただ、右写真のように、谷筋はその先にも認められます。

左岸の小支流

2016-08-24 06:18:09 | 桃園川1

 天沼地域を流れる桃園川には、左右から小支流が合流しています。 → 「段彩陰影図」で見ても、弁天池からの流れに続いて左岸から一つ、次いで右岸からもう一つ、短い谷筋が合流していますが、前回合流していた路地は、左岸からの小支流のものでした。なお、→ 「東京近傍図」の時代、この小支流は左岸流に合流していたものと思われます。それが左岸流を廃止した際、最短距離で本流に合流する様に付替えられたのでしょう。現在残された合流地点の水路が直線的なのは、その付替えの結果と考えます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブで徐々に西に向きを転じます。元はこのあたりで左岸流に合流していたのでしょう。

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    2. コンクリート蓋になり、途中鉄板に覆われたりします。

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    3. ここから先は水路単独で、コンクリート蓋の幅も狭まってきました。

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    4. やがてフェイドアウトします。合流地点から延長280mほどの小水路でした。

 <熊野神社>  「十二社権現社 除地百五十坪、小名宝光坊にあり」(「新編武蔵風土記稿」) 「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会」によると、熊野神社と改称したのは明治に入ってからで、同7年(1874年)に村社に指定されました。なお、同社には元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めの途中、この地に陣を敷いて戦勝を祈願したとの伝承があります。その際手植えしたと伝えられる杉は、長く御神木として信仰されてきましたが、昭和に入って枯れたため伐採され、現在は掘りだされた→ 切株が保存れています。傍らの解説プレートには、杉は二本あり「大願成就の杉」「出世杉」と呼ばれたこと、二本とも枯れたため、昭和21年(1946年)に伐採されたことなどが記されています。

 


天沼村用水2

2016-08-23 06:51:39 | 桃園川1

 → 「東京近傍図」を見ると、八幡社前を過ぎた桃園川は、次の通りと交叉する手前で左岸流を分岐、その後は二流が並行して阿佐ヶ谷村へと向かっています。ただ、現在残された水路跡は一流で、左岸流の流路をたどることはできません。これは天沼地区の土地区画整理事業に伴うもので、区画整理のなかった阿佐谷地区に入ると、左岸流は遊歩道となってその痕跡をとどめています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. このあたりで左手に分岐があったことになります。なお、右写真の通りには天沼橋が架かっていました。 

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    2. 引き続き微妙な蛇行をしながら、東に向かいます。流域の字は中谷戸から宝光坊に変わっています。

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    3. 幅広の道路を越えます。右写真は左岸方向で、左岸流との100m弱が天沼田んぼの範囲でした。

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    4. 左手から合流する路地があります。ここでいったん左折して北に向かいます。

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    5. こちらもワンブロックごとに車止めが付ていて、水路跡なのは明らかです。

八幡神社

2016-08-22 06:03:02 | 桃園川1

 弁天池からの合流地点に戻り、水路跡の遊歩道を東に向かいます。右手にもえぎ公園を見ながら100mほどで天沼八幡通りです。八幡神社前を通ることからのネーミングで、八幡神社は「新編武蔵風土記稿」では、「此所(中谷戸)の鎮守」、「東京府志料」では「村ノ鎮守」となっています。ただ、「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会)は「昭和二年四月に村社となる」としており、その辺の事情はよく分かりません。明治末に天沼弁天社を合祀、それに伴い、弁天池も八幡神社の社地となりましたが、昭和50年(1975年)、社殿改築のため西武鉄道に売却したとの顛末が、「杉並風土記」(森泰樹 昭和62年)に載っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 合流地点から東に向かいます。右手にあるもえぎ公園には、ビオトープなどが設けられています。

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    2. 八幡通りを越えます。ここに谷戸橋が架かっていました。右写真は八幡神社方向で、奥に鳥居が見えています。 

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    3. 八幡神社の社殿です。創建は17世紀末の天正年間、ないし江戸初期といわれていますが、詳しいことは伝わっていません。

 <区画整理と付替え>  → 「東京近傍図」を見ると、天沼弁天池からの余水は、八幡神社前を東南に流れ、(当時の橋名は不明ですが)谷戸橋付近で北四面道口からの水路と合流しています。これに対し、現在確認できる水路は弁天池から南に向かい、最短距離で合流しています。出来る限り下流へ向かうか、最短距離で合流するかは、区画整理による付替えのポイントの一つであり、田用水から排水路への転換を象徴するものです。なお、天沼地区の区画整理は昭和6年(1931年)に組合結成、同14年に完成しており、その途上にある上掲「昭和12年第二回修正」では、合流する水路が省略されているのは残念ですが、弁天池から八幡前にかけて、宅地造成が進んでいることが分かります。(ちなみに、「昭和4年測図」では荒地になっており、すでに水田耕作は放棄されていたようです。)

 


天沼弁天池

2016-08-20 06:09:49 | 桃園川1

 「新編武蔵風土記稿」で、「小名中谷戸に広さ一段許(≒1000㎡)の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」とあるのが、桃園川の源流の一つである天沼弁天池(中谷戸の池とも)です。池には弁天様が祀られ、大正時代までは渇水期の雨乞いの対象でした。ただ、関東大震災後の周辺の宅地化で湧水が減少、昭和30年代には干上がって荒地となり、同50年代初めに西武鉄道の所有地となった際、大半は埋め立てられました。(現行の地図にブルーで重ねたのは、都市計画東京地方委員会の「大正12年測図(1/3000)」に描かれた弁天池、及びその西側に連なる池ないし水路状の施設で、薄いブルーは水田の範囲です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1.  教会通りを越えて200mほどで、もえぎ公園前に差し掛かります。左手からコンクリート蓋の水路跡が合流します。

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    2. コンクリート蓋が70mほど続き、天沼弁天池公園に突き当たります。右写真は突き当りの左手に祀られた天沼弁天です。

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    3. 天沼弁天公園は平成19年に杉並区立の公園として開園しました。園内の池は人工的に作られたもので、井戸水をポンプで循環しています。

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    4. 公園の西にワンブロックだけの車止め付道路と橋の遺構(?)があります。地図に重ねた池状の施設とかかわるのでしょう。

 <井荻天沼地下水堆>  「その頃(大正十年頃)天沼キリスト教会は、周囲をカラタチの生垣で取囲まれ、屋根に十字架の立っている礼拝堂の脇に、地下水をモーターで汲みあげる高いタンクの塔があった。」(「荻窪風土記」) 「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)もこの部分を引用、敷衍して、「ここらあたりから清水にかけては『井荻天沼地下水堆』の中でも地下水位が非常に高いところである」と付け加えています。地下水堆とは聞きなれない言葉ですが、地下水位を等高線で表した際、山の頂上のように閉曲線となる部分で、日大二高通りを挟む清水、天沼付近はその地下水堆の頂上に当たるそうです。→ 「段彩陰影図」に見る弁天池やその西側一帯の低地は、地下水面と地面の高さがほとんど変わらず、雨が降って水位が上昇すれば、自然と水が湧き出るような土地柄だったようです。

 


北四面道口

2016-08-19 06:41:29 | 桃園川1

 千川用水六か村分水の北四面道口(字四面道北口)を起点に、桃園川の流路をたどって天沼、阿佐ヶ谷方面に向かいます。水路跡はカラーブロックの遊歩道になっていて、徐々に右にカーブしながら東へと向きを変え、間もなく教会通りと交叉します。大正6年(1917年)に設立された天沼教会にちなんだネーミングで、荻窪駅北口前から東京衛生病院、天沼教会にかけては、「鐘の鳴る街」をキャッチコピーとした「教会通り商店街」です。なお、この通りはかって、天沼弁天池にちなんで弁天通りと呼ばれており、「荻窪風土記」に「荻窪駅北口の弁天通り(現在の教会通り)」との一節があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 荻窪駅前から四面道交差点に向かって100mほどの、青梅街道に面した北四面道口から始めます。

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    2. カラーブロック、車止め付の遊歩道が、右カーブで徐々に東に向きを転じます。 

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    3. 教会通りを越えます。右折すれば青梅街道に出、左折して200mほどで名前の元となった→ 天沼教会です。

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    5. ここからしばらく幅広道路の右手を並行します。カラーブロックの色もグリーン系に変わっています。

天沼村用水

2016-08-18 07:13:00 | 桃園川1

 「用水 多摩川上水の分水なり、青梅街道のほとりより当村へ流る、所々の水田にそゝぎ、阿佐ヶ谷村へ入、村内をふること十町ばかり、小名中谷戸に広さ一段許の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」(「新編武蔵風土記稿」) 明治初年の「東京府志料」によると、天沼村の土地質は「高燥ニシテ平坦ナリ 動スレハ旱魃ノ患アリ」とされ、田面積は4町17歩とごく少ないものでした。ちなみに、隣村の阿佐ヶ谷村の水田は12町4反5畝です。そして、同時代の「星野家文書」は、千川用水のかかわる田面積を天沼村4町(阿佐ヶ谷村12町4反)としており、その少ない水田のほとんどを千川用水に依存していたことになります。

 

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    ・ 北四面道口  → 「東京近傍図」には分水口付近は描かれていませんが、ここでら取り込まれた用水はすぐに大きく右カーブ、350mほどで天沼弁天池からの流れを合せていました。

 昭和の初めから70年近くを荻窪で過ごした作家、井伏鱒二は当初、この写真の右手付近にあった平野屋酒店二階に下宿していました。「昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家が出来るまで、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である)千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分れている分岐点である。」(「荻窪風土記」 昭和57年) ここでいう半兵衛堀の井口半兵衛は井草村の名主で、宝永4年(1707年)の田用水転用を主導した一人です。一方、相沢喜兵衛は阿佐ヶ谷村の名主として、杉並口まで延長された用水にその名を残しました。

 

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    ・ 天沼弁天池公園  関東大震災以降、荻窪周辺の宅地化で湧水が減少、結局30年ほど前に枯渇、大半は埋め立てられました。西武鉄道関係の所有地になっていましたが、最近杉並区が買い取り公園としました。

 「荻窪風土記」には、「天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池」に関して、次のような一文もあります。「一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。」 この後に、同行した知人の短歌が引用されます。「このあたり野良低みかもわが踏める足元ゆらに清水湧くかも」 雨が降り続くと、弁天池の湧水は溢れて大沼となり、いつしか雨沼(転じて天沼)と呼ばれるようになった。そんな地名由来の一説がもっともらしく感じられる描写ではあります。

 


天沼村

2016-08-17 06:47:47 | 桃園川1

 「天沼村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を伝へず、江戸麹町山王の神領なり、民家七十七軒、東西九町許、南北七町余、青梅街道村の南を東の方へつらぬく、井草村より阿佐ヶ谷村に達す、村内にかゝること凡九町、又東の方阿佐ヶ谷村より北の方井草村に達する道あり、江戸四ッ谷への道なり、村にかゝること三町許、四境をいはヾ、東は阿佐ヶ谷村にとなり、西より北は井草村をめぐらし、南は青梅街道をかぎり、道をこえては下荻窪村なり」 (「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・  「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は豊多摩郡当時の村境、大字境です。

 天沼村の小名に関し、「新編武蔵風土記稿」は「中谷戸 青梅街道の内にあり、宝光坊 中程にあり、土人云古へ十二社権現の別当なるよし、今に小名にのこるをもて見れば、よほど盛なりし修験なりしときこゆれど、その詳なること伝へず、本村 北の方井草村の境を云」と書いています。中谷戸に八幡神社、宝光坊に十二社権現(現熊野神社)、本村に稲荷神社があり、例祭もこれら三社が毎年九月に持ち回りで行うなど、対等な関係だったことをうかがわせます。

 

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    ・ 八幡神社  「除地百五十坪、これも中谷戸にあり、此所の鎮守なり、本社は三尺四方にて覆屋二間に三間南向き」(「新編武蔵風土記稿」)

 <乗潴と天沼>  「日本書紀」に続く勅撰史書、「続日本紀」の中に「武蔵国ノ乗潴、豊島の二駅」との記述があり、その所在地について古くから争われています。うち「乗潴」については読み方にも定説がありません。これを「乗(剰)・あまり」「潴・みずたまり」から「あまぬま」と読み、奈良時代、当地に官立の駅が設けられていた、との説が提唱されています。とすると、天沼は古くから成立した地名ということになりますが、それを裏付ける考古学上の発見は皆無で、現在のところ机上の論議にとどまっているのが現状です。(「乗潴・のりぬま」が「練馬・ねりま」に転化したとの説もあります。)

 


桃園川

2016-08-16 06:51:05 | 桃園川1

 桃園川は天沼弁天池など、多摩郡野方領天沼村(現杉並区天沼)周辺の湧水を源に、阿佐ヶ谷村を流れ、馬橋、高円寺、中野各村を経由して神田川に注ぎ込む、神田川水系の一支流です。江戸時代から明治、大正にかけては、上記各村の農業用水として利用されましたが、天水頼りのため水不足は慢性的で、青梅街道沿いの七ヶ村分水(明治以降は六ヶ村分水)の助水が不可欠でした。むしろその水が最大の水源といえ、独立の〇〇川というよりも千川用水の一部の扱いで、「千川用水」、「多摩川上水の分水」、あるいは単に「田用水」と書かれるのが一般でした。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 桃園川」(1/18000)  「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路を重ねました。日大二高通りと早稲田通りが右上隅の妙正寺川との、青梅街道が左下の善福寺川との分水界となっています。

 大正11年(1922年)、それまで駅のなかった中野、荻窪間に、阿佐ヶ谷駅、高円寺駅が誕生、大震災を経た昭和10年代にかけて、急激な都市化の波が押し寄せます。農村から住宅街への転換に伴い、桃園川流域は区画整理事業が行われ、複雑、多岐な流路は一本化されますが、それまでの田園風景は失われ、水質悪化と大雨時の氾濫に悩まされることになります。その解決のためには、第二次大戦、戦後復興、高度経済成長を挟んだ30年間を要し、昭和42年(1967年)、ようやく暗渠化に成功、地下は「桃園川下水幹線」、地表は「桃園川緑道」になり現在に至っています。

 

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    ・ 桃園川緑道  阿佐ヶ谷駅の東でJR中央線を越えた直後の、桃園川緑道の起点です。ここから末広橋で神田川に合流するまでの4.4kmが、このようなカラーブロック舗装の遊歩道として整備されています。

 ところで、現在は桃園川の呼称が定着していますが、これは昭和初期の区画整理後普及したもので、現中野駅近くにあった八代将軍吉宗ゆかりの桃園や、中野五差路付近に架かる桃園橋からの命名です。昭和8年(1933年)の「中野町誌」の橋梁リストに桃園川の呼び名はなく、昭和12年の中野区役所土木課の「橋梁表」に至って、ようやく桃園橋の架かる河川としてその名が登場します。

 


合流地点2

2016-08-15 06:42:06 | 妙正寺川5

 昭和30年代以降頻発した都市型水害に対応するため、折から整備されていた新目白通りの下、およそ1.2kmに神田川のバイパスが設けられました。神田川高田馬場分水路です。幅6.65メートル、高さ6.6メートルの二連のボックスで構成され、毎秒330トンの水を流すことができます。妙正寺川はこの高田馬場分水路に合流するように付け替えられ、それに伴い合流地点は100mほど北の、新目白通り沿いに移動しました。高田橋下にある高田馬場分水路吐口に貼られたプレートに、「1978年 神田川吐口部工事」とあり、工事が最終的に完了したのは昭和50年代です。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  昨日UPのと同じ→ 「空中写真」に現行の流路をブルーで、新目白通りをグレーで重ねました。

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    ・ 高田馬場分水路呑口  神田川に架かる新堀橋の手前に、大きな→ 呑口が開いています。増水時に段差を越えて水が流れ込む構造のようで、この時点では全く流れ込んでいません。 

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    ・ 妙正寺川  正面に見えるのは妙正寺川の最下流に架かる辰巳橋です。橋下で右手からの分水路に合流、妙正寺川としては終了します。その先で新目白通りの下にもぐり込むのは高田馬場分水路です。 

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    ・ 高田馬場分水路吐口  新目白通りに架かる高田橋下で、神田川本流と合流します。吐口前には水草が繁茂していることから、落合水再生センターの処理水も流れているのでしょう。