神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井の頭池

2017-08-31 06:38:11 | 神田川1

 神田川の水源は井の頭恩賜公園内にある井の頭池です。長さ600mほどのY字型で、幅は中央で100m、Y字の開いたところでは、間を分ける中之島まで含め、200mといったところでしょうか。面積は4万平方メートル以上はあり、深さ1~3m、平均1.5mとしても7万トン近い水量を擁している計算です。一方、井の頭池を取り囲む公園面積は38万平方メートル、池の西側の高台は御殿山と呼ばれ、三代将軍家光の鷹狩の際の休息所が設けられたところです。御殿が廃止になったあとも、神田上水の水源確保のため、幕府直轄の御林として保護され、また、江戸市中に大火があった際は、建築資材としても利用されたようです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田川1」(1/18000)  オレンジ線は区、市境で、左上から時計回りに、武蔵野市(吉祥寺村)、杉並区(松庵、中高井戸、久我山村)、三鷹市(牟礼村)です。 

 45~50m等高線を境に、薄い黄緑から濃い緑に色が変わっています。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)によると、井の頭池をはじめとする武蔵野台地の湧水池周辺の地質は、池面と同レベルの標高45m前後まで地下水の供給源である礫層で、そこから10mほどの厚さのローム層が堆積しています。10万年ほど前、まだローム層が堆積する以前のことですが、古多摩川の氾濫によって砂礫の層(武蔵野礫層)が扇状地を形成、そのいたるところから伏流水が地表に流れ出していました。そこに火山灰が降り積もり、ローム層を形成するわけですが、伏流水が流れ出している部分は火山灰は洗い流されて堆積しません。こうして、武蔵野台地の中小河川の谷頭は、一般に考えられるように、水の流れがローム層の台地を削って出来たのではなく、ローム層の堆積を阻むことによって形成されました。

 

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    ・ 井の頭池(ボート池)  池を二分する七井橋から下流方向のショットです。Y字の下半分はボート池で、桜の名所ともなっています。

  七井橋の由来は井の頭池の別名、七井の池で、七か所からの湧水がみられたとの意です。その七か所がどこかは不明ですが、Y字の左側の弁天島付近や、右側先端の「お茶ノ水」が有名で、また、豪雨つづきの時には、池の東端の神田川が流れ出す付近の池底から、今も若干の湧水があるそうです。かって湧水豊富な時代は、一日2~3万トンの水を供給、江戸の水がめとなっていました。それが、昭和30年代から水量が減り、お茶の水も昭和40年台初めに枯れてしまいました。現在は5本の深井戸でくみ上げた水数千トンを放出しています。ただ、うち一千トンが神田川に流出、残りは池の底から地中に漏れている計算です。

 


神田川

2017-08-30 06:08:58 | 神田川1

 「三鷹市の井の頭池を源とし、善福寺川、妙正寺川を合流したのち、JR水道橋駅付近で日本橋川を分派し、隅田川に注ぐ全長25.48kmの河川です。」 東京都建設局のホームページにある神田川に関する記述です。全長に関しては24.6kmとの数字もあり、その辺の事情は不明ですが、いずれにしても、都内を流れる中小河川としては最大規模で、流域面積も100k㎡を越えています。上流部分は江戸時代に「神田上水」として整備され、関口大洗堰で分流後、神田、日本橋一帯に飲料水を提供していました。そのため、関口より上流を神田上水(井の頭上水とも)、関口から船河原橋の通称ドンドンまでが江戸川、それ以降が神田川と呼ばれていました。全体を通して神田川となったのは昭和39年(1964年)に制定された河川法以降です。

 

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    ・ 「豊島、多摩、荏原三郡村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「豊島、多摩、荏原三郡村絵図」の一部をイラスト化したもので、神田上水にかかわる村の配置図になっています。 

 これら村々は持場村に編入され、区分けされた各持場の維持、管理の責任を負わされました。「上水記」(寛政3年 1791年)に収録された「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」には、各村の持場が「是より無礼村持場久我山村迄六百六拾九間」といった書き込みとともに図示されています。持場村に強いられた負担のうち特に大きなのは、定期的に行われる葭、茅、雑木、雑草の刈取りで、前後に行われる見分役人の接待も含んだものでした。一方、見返りとしては分水使用があげられます。千川上水の場合と異なり、分水使用の水料米は免除されていましたが、これは「神田上水字猪之頭池之儀、元来多摩郡村之用水ニ御座候ニ付、上水ニ相成候ても水料不相納候」という理由からでした。神田上水が自然河川をもとに成立したことを示すものとして、よく引き合いに出される「上水記」の一節です。

 

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    ・ 駒留(駒塚)橋跡  現駒塚橋からの撮影で、江戸時代の橋は現在のものより100m近く下流にあり、その200mほど下流に大洗堰が設けられていました。 

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    ・ 神田川河口  隅田川に架かる両国橋からのショットです。正面奥の緑色のアーチは河口に架かる柳橋で、昭和4年(1929年)に架け替えられたいわゆる震災復興橋です。 

小沢の支流8

2017-08-29 06:19:19 | 善福寺川6

 小沢の支流をさかのぼる最後です。真盛寺境内を離れたあと、堀之内斎場の西南角で右折し北に向きを変えます。あとは青梅街道までほぼ直線で300m、五日市街道入口交差点のやや東に出て終了です。この直線部分は→ 「段彩陰影図」を見てもはっきりした谷筋はなく、青梅街道沿いの雨水、生活排水を集めた排水路として、人工的に開削されたものと思われ、昭和初期の「地形図」に初めて登場します。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 梅橋の架かっていたところから50mほどで右折、堀之内村との境を離れ、青梅街道方向に向かいます。

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    2. 右折直後は蛇行もあり、道幅も徐々に狭くなります。

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    3. その後はほぼ直線で300mほど続き、その間交差する道路ごとに車止めでガードされています。

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    4. 人工的な開削を思わせる直線コースが続きます。

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    5. 五日市街道入口交差点の東南角で、青梅街道に突き当たって終了します。

小沢の支流7

2017-08-28 06:08:12 | 善福寺川6

 小沢の支流をさかのぼって、環七通り手前まで来ました。環七通りが開通する以前は、妙法寺に向かう堀之内新道が横切っていたところです。新しい住居表示となるまでは、右岸は引き続き高円寺ですが、左岸はこの新道を境に和田から堀之内にかわっていました。というわけで、→ 「高円寺村絵図」が高円寺、和田、堀之内三村の境としているのは、今回の水路と環七通りがクロスするあたりということになります。環七通りを越えると正面が真盛寺境内となり、水源の新鏡ヶ池のあるところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 環七通りで中断しますが、その先は真盛寺境内横の細長い空間に連続します。

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    2. 境内に突き当たって中断、新鏡ヶ池は右手の茂みの中にあります。

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    3. 真盛寺境内の水路は不明ですが、その南縁に沿ってコンクリート蓋の水路跡が復活します。(4.から振り返っての撮影です。)

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    4. 堀ノ内斎場前から再び車止め付となります。梅橋が架かっていたところです。

 <字清水> 小沢の支流の水源は新鏡ヶ池に限りません。「高円寺村絵図」の描く村境の水路は、新鏡ヶ池のある場所より西側から発しており、その付近の堀之内村の小名は清水と呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」にも「清水 北の方高円寺村の境を云」とあり、また→ 「堀之内村絵図」にも記載されています。なお、「高円寺村絵図」で水路の発端と接している道は、「堀之内村絵図」の妙法寺の西側に沿うものに連続しており、荒玉水道道路が青梅街道に出るところにあたります。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)に「梅橋」の項があり、「梅里1-2堀ノ内火葬場前・・・・真盛寺の谷に通ずる流れに橋があって」と記述されているのは、この通りに架かる橋のことです。

 


小沢の支流6

2017-08-26 06:17:24 | 善福寺川6

 → 「高円寺村絵図」にしろ→ 「東京近傍図」にしろ、妙法寺道を越えて左折したところから水路が二重になり、間に田圃が描かれています。目下たどっているのは左手が高くなっていることから、そのうちの右岸流だと知れ、とするととすると右手にもう一流あったことになります。現在の地図でもそれらしい道路が、高南中を過ぎた先から並行していて、その間隔30mほどが裏田圃の幅だったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 上掲「地形図」が破線で描く杉並、和田堀内の村境は、このあたりから田圃の南縁と重なっています。

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    2. 右写真は一つ北側を並行する道路で、「地形図」の描く田圃の北縁と重なります。 

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    3. 引き続き左右に蛇行しながら西に向います。 

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    4. 右カーブの先は環七通りですが、右手から合流する堀之内新道と重なります。 

小沢の支流5

2017-08-25 06:47:00 | 善福寺川6

 → 「高円寺村絵図」に描かれた字小沢の水田は、昭和の初めまで裏田圃と通称されていました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には、「立正佼成会のある和田1、2丁目の田を表田圃と呼び、こちらを裏と呼んだのは収穫がわるいからである。真盛寺入口に池があって湧水が出て梅本から神田川の方に流れていた。この水が冷水であるため稲の出来が良くなかったのである」との記述があります。ここでは収穫の多少を問題としていますが、一般には北にあるために裏と呼ばれることが多いようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 妙法寺道の先から再開します。水路は元からある通りの左手に沿っていました。

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    2. 100mほどで左折、再び水路単独の狭い路地になります。

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    3. 車止め付きの路地は左右に微妙に蛇行しながら西に向います。

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    4. 右手は高南中学キャンパスです。同校は昭和23年(1948年)、田圃を造成して開校しました。

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    5. 左手が高くなり、右岸段丘に沿っているのが分かります。

小沢の支流4

2017-08-24 07:54:51 | 善福寺川6

 高円寺村字小沢から発する支流をさかのぼる続きです。和田中央公園を過ぎ、右カーブで向きを北に転じたところで、妙法寺道を越えます。鍋屋横丁から十貫坂に向かう手前で右手に分かれ、堀之内妙法寺に向かう道で、参詣客のにぎわう沿道には料理屋、土産物屋が並び、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)は「しがらき、梅本、花園、大黒屋、大つた」と料理屋の名前を列挙しています。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)の湧水リストには「梅本の池」があり、やはり今回の支流に余水を落としていました。なお、→ 「東京近傍図」に書き込んだように、妙法寺道から先の流域は高円寺村となります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    2. 右カーブで西から北に向きを変えます。

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    3. 相変わらず交差する通りごとに車止めでガードされています。

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    4. 妙法寺道を越え旧高円寺村に入ります。右写真は妙法寺方向で、右手に梅本がありました。

 <妙法寺道と堀之内新道>  青梅街道経由の参拝客でにぎわう妙法寺道でしたが、明治22年(1889年)に中野駅が開通し、同36年に妙法寺に直行する新道ができたために、すっかりさびれてしまいました。私財を投じて新道を開設したのは、妙法寺檀家総代の関口兵蔵でした。農道やあぜ道を整備、幅4間、延長2kmの新道ができ、それまで逆戻りで鍋屋横丁を経由していたものが、中野駅から現蚕糸の森公園西の、通称桜新道を経由したため、全体で1kmほどの短縮になりました。新道が途中桃園川を越えたところにある→ 田中稲荷境内には、「故関口兵蔵翁開道記念碑」が建てられています。

 


小沢の支流3

2017-08-23 06:38:50 | 善福寺川6

 「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)の引用です。「(小沢川を)さらに下っていくと今の女子美大の坂と交差する。その低地にも小さい池があった。ここから先は和田北田圃の終わりになるが、西側の谷戸には、俗称『谷戸の池』があり、一日中太陽の光が当たらないので、冬は池に氷が張りスケート遊びも出来たと言われていいる。」 「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)にも「谷戸 池があって冬は氷滑りをした。西に入込んだ浅い谷である」との記述があり、同様の個所を指しているようです。ただ、前者は和田1-38としているのに対し、1-36と南隣の住所を書いており、地形的にも谷戸からはズレています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左折して都営住宅の敷地の縁を進みます。ここから先は南側が崖面になっていて、日差しはありません。

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    2. 左右に蛇行しながら段丘の際を西に向います。

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    3. 都営住宅の敷地を離れ、古い車止め付きの路地を進みます。

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    4. 右写真は左手段丘上からのショットです。対岸は女子美大なので、ここが女子美大の坂なのでしょう。

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    5. 和田中央公園前に差し掛かります。確かに一日中日陰のようですが、谷戸の池があったのはこのあたりでしょうか。

小沢の支流2

2017-08-22 06:56:07 | 善福寺川6

 前々回の途中、左手からの合流があったところに戻り、小沢の支流を谷頭までさかのぼります。左折してしばらくは一般の道路に紛れますが、鍋屋横丁からの古道を越えたところから車止め付きの路地が再開します。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は、「和田1-52付近」、「女子美術大学の東の小さな谷」を「清水窪」としています。→ 「明治42年測図」中央の池の並んでいるあたりです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 富士見橋左岸の直線状の水路に戻り、途中で左折します。左折後の通りの右手が幅広になっています。

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    2. 一般の道路に紛れますが、この右手を水路は並行していました。

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    3. 鍋屋横丁からの古道の先に車止めがあり、ここから水路単独となります。

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    4. この右手が、「杉並の通称地名」のいう清水窪のあたりです。「明治42年測図」には水田のマークも描かれています。

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    5. 都営住宅のある一角に出ます。右写真は左手からのショットで、奥の台上にあるのは女子美の建物です。

清水窪

2017-08-21 06:26:52 | 善福寺川6

 → 「段彩陰影図」で杉並、中野の区境に沿って、北側から合流する短い谷筋があります。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、「高台にかこまれた小谷地で清水が噴出していた」ため、昭和初年まで「清水窪」と呼ばれていました。一方、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)の湧水リストは区境にまたがる谷頭を「蛇窪」としてしていますが、いずれにしても、この谷筋が富士見橋で合流している水路の水源の一つでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後に十貫坂下で左折しましたが、40mほどで今度は右折します。

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    2. 右手に車止めが並んでいますが、その先には細長い空間が残されています。

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    3. 数年前の→ 写真には、同じ場所に中野区の車止めが置いてありました。

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    4. この前後からしばらく、杉並、中野の区境と重なります。

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    5. ここで行き止まりです。200mほどの今となっては意味不明な細長い空間でした。

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2017-08-19 06:47:57 | 善福寺川6

 富士見橋下流で神田川左岸に合流する水路を追っての二回目で、中野区との境の西隣を北上しています。途中左手から小沢の支流の合流がありますが、今回はそのまま北上を続け、鍋屋横丁からの古道に突き当たります。右折すると数回前の→ 写真にあった十貫坂ですが、水路を追ってここで左折します。なお、下掲「地形図」を見ると、十貫坂下南に池が描かれています。(榎本武揚の系譜の)榎本子爵邸の池で、「杉並の川と橋」によると、その余水も水源となっていたようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左手から小沢の支流の合流がありますが、とりあえずこのまま北上します。

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    2. ワンブロック離れた右手に、榎本邸の池があったことになります。 

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    3. 古道に突き当たって左折です。左折後の通りの右手が幅広になっています。 

 <十貫坂>  十貫坂の名前の由来には、中野長者と呼ばれた鈴木何某が、坂上から見渡す限りの土地を銭十貫で買ったとか、坂の近くの畑から銭十貫入りの壺が掘り出されたことがあり、やはり、中野長者が埋めたのではないか、とかいった話が伝えられています。これらは「なかのの地名とその伝承」(昭和56年 中野区教育委員会)に収録されていますが、一方、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には、「陣観坂」の字を当て、和田義盛鎌倉攻めの本陣(立正佼成会大聖堂の北側の本陣山)を望むので、との説も紹介されています。ことの当否とは別に、中野側では中野長者との、和田側では和田義盛とのかかわりがいわれているのは、地名由来の発生過程を考察するうえで興味深いところです。

 


和田左岸3

2017-08-18 07:15:33 | 善福寺川6

 神田川は地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅前で本郷通りとクロスします。山手通りと環七通りを結ぶ幅広の本郷通りは、中野町から和田堀町にかけての土地区画整理事業区域を貫いていて、事業が進展するにつれ西側に延長されてきた道路ですが、その本郷通りに架かるのが富士見橋です。この富士見橋の下流には左岸からの合流があります。 → 「東京近傍図」の描く左岸流や小沢の支流にかかわるものですが、昭和初期の和田堀町第一土地区画整理事業によって付替えられたため、「近傍図」の描く流路に比べ直線的なものになっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 富士見橋下流の神田川です。右カーブのところに左岸から合流があります。

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    2. 合流地点からさかのぼります。すぐに右カーブがあり、あとはほぼ直線です。

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    3. 道路と交差するごとに車止めがあり、単調ですが迷うことはありません。

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    4. ほぼワンブロック離れた右手を杉並、中野の区境が同じく北上しています。

小沢の支流

2017-08-17 06:51:04 | 善福寺川6

 高円寺村字小沢から発し、和田村で左岸流に合流していた小支流があります。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)では、通称として「小沢川」の名前を採用していますが、この名称に歴史的な根拠があるわけでなく、区史、町史の類でこの支流に関し唯一言及している「豊多摩郡誌」(大正5年)も、和田堀内村の水利の項で、単に「田用水」としているだけです。「田用水 大字堀の内妙法寺裏手の清泉より起り、杉並町の一部及び村内大字和田地内の、天水場の灌漑用水に供せらるゝ小流れあり、大字和田字本村地内に於て神田上水と合す、延長九町許なり。」

 

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    ・ 「高円寺村絵図」  成立年代不詳の「高円寺絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。 

 「村絵図」の下端で堀之内村境から発し、「南八ッ田」を灌漑している流れがそれですが、→ 「東京近傍図」ではより詳細に、水源の池も描かれています。現在真盛寺境内にあって、新鏡ヶ池と呼ばれるものです。ただ、真盛寺が本所から移転してきたのは大正11年(1922年)なので、「近傍図」には描かれておらず、「豊多摩郡誌」も「妙法寺裏手の清泉」としているわけです。当時は他に「小沢の池」とか「弁天池」とか呼ばれていたようです。

 

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    ・ 新鏡ヶ池  中之島には弁財天が祀られ、殺生禁止の放生(ほうじょう)池となっています。水面に糸を渡してあるのはそのためなのでしょう。

 ところで、「小沢川」や「小沢の池」の小沢ですが、「新編武蔵風土記稿」に高円寺村の古名として登場します。「当村古は小沢村と云、・・・・土人のいへるは、今の村名に唱え始めしいわれは、大猷院殿(三代将軍家光)しばしばこの村内高円寺に御遊ありければ、世人高円寺に御成ありなどいひしにより、いつとなく村名となりて古名は遂にうせはてしなりと、今は漸く小名にのこれり」 その小名、小沢については「南の方にて和田村の堺なり」と書いています。青梅街道に沿った一帯が村の発祥の地で、のち高円寺周辺に中心が移っていったものと思われます。なお、新鏡ヶ池やそこからの流れを小沢の地名由来とする説が有力です。

 


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2017-08-16 07:28:06 | 善福寺川6

 → 「村絵図」の左岸に分岐した用水は、和田田圃の北縁を流れ、本郷村との境手前で南下、余水を本流へと戻しています。この点は異同の多い→ 「近傍図」でも同様です。 区画整理後その大半は消滅しましたが、一ヶ所通りと並行するところは今でもたどることができます。堀之内村のところでも触れましたが、鍋屋横丁と大宮八幡を結ぶ鎌倉街道と目される古道で、地図でもそれとわかる蛇行のまま健在だからです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. この左カーブ付近から並行します。すぐに右手から合流がありますが、次回以降のテーマです。

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    2. 今度は右カーブです。水路は通りの右手を並行していました。 

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    3. 左手からの合流を受け、その先右折して神田川へと向かいますが、次回神田川からさかのぼります。 

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    4. 十貫坂下です。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)によると、右手のマンション付近の池からの合流もあったようです。 

和田左岸

2017-08-15 06:18:49 | 善福寺川6

 → 「村絵図」から→ 「明治42年測図」など、区画整理以前の「地形図」まで、駒ヶ坂橋で右岸段丘へと戻る本流とは別に、途中分岐して左岸段丘沿いを流れる一流が描かれています。それも、駒ヶ坂橋を通る道の手前で本流に戻るもの、左岸流になるものの二流に分かれますが、これらは区画整理によって埋立てられ、碁盤の目状の道路の下に埋没してしまいました。ただ、区画整理の過程で、本流に戻るところが付替えられ、一部現行の道路と重なっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺で、区画整理以前の「大正5年修正」は→ こちらです。

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    1. 駒ヶ坂橋を通る道路です。区画整理以前はこの手前で左岸への分岐がありました。

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    2. この直線道路の左手を水路が並行していました。 

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    3. 奥は和田見橋手前の神田川です。付替え以前は南下して、善福寺川に合流していました。 

 <堰と水車>  明治22年(1889年)に成立した和田堀内村大字和田は、八つの小字に区分されましたが、うち左岸流と本流で囲まれた水田地帯は堰山と称されました。左岸流を二ヶ所で分岐していますが、それらの堰にかかわるものと思われます。また、→ 「近傍図」の中央下部で、駒ヶ坂を通る道と善福寺川が交差する付近に水車があります。「大正5年修正」など大正までの「地形図」にも描かれていますが、この水車に関し「杉並の通称地名」は、「橋場 昭和初年まで使った。善福寺川に橋がかかり、川に水車がかかっていた。榎本家が昔から居住し屋号『橋場』と呼んだ」と書いています。