神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

耕地整理2

2016-06-30 06:34:41 | 妙正寺川5

 前回詳細した耕地整理の結果、葛ヶ谷村分水も碁盤の目沿いに改修され、今日たどることのできるのは、この改修後の水路跡ということになります。耕地整理前後の二つの地形図を比較すると、流路が全く変えられている印象ですが、郵便図(明治44年、東京逓信管理局刊行)などを見ると、元々、東側を並行して南下する側流があり、それと「大正10年第二回修正」にも描かれている東側から合流する小支流をつなぎ、直線的に改修したものと思われます。

 

Kuzubun2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Kuzubuns12

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。耕地整理直前の「大正10年第二回修正は→ こちらです。

0202a0202b

    1. 水路単独の路地から出て右折します。道路の左手が広くなっていて、水路を含んでいたと分かります。

0202c0202d

    2. 100mほど東に向かい、左手の幅が狭くなったところで左折です。 

0202e

    3. 旭通りを越えます。ここに旭橋が架かっていました。区画整理時に出来た道路には名前が付けられましたが、現在も残っているのはこの通りだけです。 

0202f0202g

    4. ちなみに次の交差点には曙橋が架かり、通りの名前は曙通りでした。

耕地整理

2016-06-29 06:40:16 | 妙正寺川5

 葛ヶ谷村の耕地整理は大正12年(1923年)に協議開始、同14年に組合が結成されました。45万円余の経費と10数年の歳月を費やし、71町余の耕地整理をすべて完了、結果6m幅の道路が碁盤の目状に整備され、1区画およそ300坪という宅地が造成されました。最後に耕地整理組合が解散したのは昭和11年(1936年)です。(御霊神社にある記念碑は→ こちらでどうぞ。)

 

Kuzubun1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Kuzubuns22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0201a0201b

    1. 合流地点からワンブロック、かって水車道と呼ばれた道路を横切ります。

0201c0201d

    2. 目白学園のある台地の西端です。改修前の水路は段丘沿いに右手に向かい、水車道と並行していました。

0201e

    3. 左カーブで台地沿いに北に向きを転じます。全行程中最も自然河川の様相を留めているところです。

0201f0201g

    4. 右手の崖面が徐々に低くなってきました。この先で台地から離れ、直線、カクカクの人工的な水路となります。

葛ヶ谷村分水

2016-06-28 06:56:32 | 妙正寺川5

 妙正寺川は哲学堂公園(下掲「段彩陰影図」では薄いグリーンの区画)のある和田山を抜け、左岸が一気に広くなります。この袋状に広がる低地とその周辺が、旧葛ヶ谷村ですが、妙正寺川の蛇行だけでは、このような台地をえぐる広がりはありえません。現目白通り沿いに合流する支谷筋との共同作業の結果と思われます。葛ヶ谷村はこの支谷筋を利用して、千川用水からの助水を得ていました。葛ヶ谷村分水、あるいは明治以降の落合村の成立に伴い、落合村分水とも呼ばれるものです。

 

Kuzugaya1

    ・ 「段彩陰影図 / 妙正寺川5」(1/18000)  オレンジは区境で、左上から時計回りに中野区、板橋区、豊島区、新宿区です。また、「明治42年測図」の描く葛ヶ谷村分水、左右の側流、小支流をブルーで重ねました。

 葛ヶ谷村分水は「千川上水給水区域」に記載はなく、寛政6年「星野家文書」は「葛ヶ谷村 同五寸巾六分」(立五寸巾六寸の誤りか?)、「千川分水口取調絵図」は「葛ヶ谷村分水口四寸四方長六尺樋」と書いています。さらに、明治10年の「星野家文書」では、「長崎村地内 幅三寸弐分高三寸五厘」、同時期の用水利用の水田は、全体で5.5町歩余のところ4.8町歩余で、ほとんどをこの用水に依存していたことになります。

 

0131a

    ・ 妙正寺川  四村橋の次の北原橋から下流方向で、右手は上高田公園です。北原は上高田村の字で、 「新編武蔵風土記稿」にも収録されています。

0131b

    ・ 葛ヶ谷村分水  上掲写真の左岸の奥にチラッと見える合流口の上の路地です。次回から数回に分け、ここから千川通りの分岐点まで、葛ヶ谷村分水をさかのぼります。

葛ヶ谷村用水

2016-06-27 07:02:11 | 妙正寺川5

 「新編武蔵風土記稿」は葛ヶ谷村の用水について「前村に同じ」としており、その前村の長崎村には「用水は玉川の分水を引沃く」と記載されています。千川上水の助水を得、葛ヶ谷村分水として利用していました。それともう一つ、妙正寺川に堰を設け用水を分岐しており、下掲「葛ヶ谷村絵図」にも二本描かれています。なお、前回引用した「風土記稿」では、このあたりの妙正寺川は「幅四間許」ですが、鷺宮村や沼袋村では「二間許」で推移してきた川幅が、ここにきて広くなったことがうかがえます。

 

Kuzugaezu1

    ・ 「葛ヶ谷村絵図」  文化3年(1806年)の「葛ヶ谷村絵図」( 首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 左岸流が江古田村境から流れ、葛ヶ谷村分水に合流していますが、明記した文献、地図類は他に未見です。ただ、→ 「明治42年測図」でも、左岸に田圃が描かれており、その北縁に沿う用水の存在は推測できます。一方、葛ヶ谷分水の合流地点で分岐するものについては、バッケの堰として語られています。以下は小冊子「ふるさとは西落合」(平成15年 西落合まちづくりの会)中の「名主と稲葉の水車」の引用です。「中居御霊神社の崖下、バッケのところには堰があって、そのすぐ下には『淀み』があり、四村橋の上流から流れる妙正寺川の用水を引き込んで合流していて、そのころは魚もよくとれたと語られています。」

 

0130a

    ・ 妙正寺川  哲学堂公園を抜け、四村橋の先で蛇行する妙正寺川です。左岸に広がる低地の一方、右岸からは上高田の台地が迫っています。右岸台上からのショットは→ こちらでどうぞ。

0130b

    ・ 西落合公園  左岸に広がる低地を利用した公園です。大正から昭和にかけての→ 地形図を見ると、この場所に大きな池が描かれています。「セイヤの池」と通称され、養魚場だったこともあるようです。 

葛ヶ谷村

2016-06-25 06:11:33 | 妙正寺川5

 「葛ヶ谷村は、日本橋より三里余、家数四十一、東北の二方は長崎村南は下落合村、西は多摩郡江古田村なり、南北九町東西七町余、用水は前村と同じ、『小田原役帳』に、太田新六郎知行寄子衆配当の内一貫二百文高田内葛ヶ谷岸分とあり、正保年中は御料所及び・・・・今は御料の地なし、・・・・井草川 村の中程を流る幅四間許」

 

Kuzugam13

    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、細線は豊多摩郡当時の村境、大字境です。なお。「東京近傍図」のこの部分は、縮尺、方角とも正確さを欠いているため、変形して現行の地図に重ねています。

 オレンジは区境で、左上から時計回りに中野区、(若干の)板橋区、豊島区、新宿区です。江戸時代の旧村でいうと、中野区は江古田、片山、上高田の各村に分かれ、板橋区は上板橋村、豊島区は長崎村、そして新宿区は葛ヶ谷、上下落合村です。注目は四村が接するはずの四村橋のところで、新宿区が右岸にまで食い込んでいることです。諸事情により天領であった上落合村の飛び地となったことが関係しているようで、豊多摩郡落合村当時も大字上落合字四村に属していました。

 

1209b

    ・ 御霊神社  「村の鎮守なり例祭正月十三日自性院持」(「新編武蔵風土記稿」) 例祭には備射祭(びしゃまつり)が行われます。備射は歩射(ぶしゃ)の転化したもので、弓を射ることで豊凶を占い、除災を祈る神事です。

  <地名伝承>  葛ヶ谷村の鎮守の御霊神社には、源義家の奥州遠征に従った京都の桂の里の一族が帰途、故郷と地形、風土の似た当地に定着、八幡社を勧請したとの創建伝承が残されています。桂の里は山城国葛野(かどの)郡に属しており、地名由来とも関連する伝承ではあります。(葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と呼ばれたとの説や、都を追われ当地に着いた葛野大納言の話などもありますが、おそらく、地形由来の地名が先行しそれに伝承が付会したのでしょう。)
 文献的には永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳」に、「高田内葛ヶ谷」とあるのが最初で、ここで登場する「高田」については、中野区上高田から豊島区高田までを包括する広域地名だった、ともいわれています。明治に入り豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷となり、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となって住居表示からは消えました。現在は新宿区西落合1~4丁目です。 

 


四村橋

2016-06-24 06:09:22 | 妙正寺川4

 哲学堂公園を流れ出る妙正寺川に架かるのが四村(しむら)橋です。ここまで左岸江古田、右岸片山の村境だった妙正寺川ですが、この先、左岸葛ヶ谷、右岸上高田の村境となり、四村の接するところに架かる橋の意で名づけられました。文化3年(1806年)の「上高田村片山村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京蔵) には、両村の境に架かる橋に「四村橋」と書き込まれています。また、「豊多摩郡誌」にも規模は不明ながら石橋として記載されています。

 

Simuram42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  中野、新宿の区境をオレンジで重ねました。破線で書き込まれた当時の野方、落合の村境とほぼ同じです。

0128a

    ・ 四村橋  奥は左岸にある西落合公園野球場です。新宿区西落合(1~4丁目)はかっての葛ヶ谷村が上下落合村と合併し、落合村の西三分の一となった名残の地名です。

0128b

    ・ 妙正寺川  四村橋から上流方向を振り返っています。右手は左岸段丘(和田山)にある哲学堂公園、左手はかっての片山田圃に設けられた妙正寺川公園です。

0128c

    ・ 四村橋  右岸方向のショットです。上落合村の飛地が右岸にあったために、現在でも奥行き200mほどが新宿区に属しています。

哲学堂

2016-06-23 06:05:17 | 妙正寺川4

 下田橋から四村橋にかけての妙正寺川は、哲学堂公園(一部妙正寺川公園)の間を流れます。この付近の左岸段丘は江古田村に属し、和田山とも呼ばれていました。源氏の武将、和田義盛の館があったとの伝承もありますが、地形のくねっている意の「わだ(曲)」が元で、伝承はのちに付会されたものと思われます。それはともかく、和田山の南側斜面の起伏を利用した哲学堂は、哲学館(東洋大学の前身)の設立者、井上円了(1858-1919)がその独自の哲学宗教観に基づき、社会教育を目指して私財を投じて完成したものです。彼の死後東京都に寄贈され、昭和21年(1946年)公園として公開されました。現在は中野区立の哲学堂公園となっています。

 

0127a

    ・  哲学堂公園  奥にある富士橋のあたりは、左岸段丘が最も迫っているところです。大堰で分岐し下田田圃を灌漑する左岸流は、その手前で余水を本流に戻していました。

 和田山の南側段丘斜面の起伏を利用した庭園や建物には、井上哲学を具現すべく様々なネーミングが施されています。左右に仁王ならぬ天狗と幽霊が控える→ 「哲理門(妖怪門)」をくぐると、「時空岡」(じくうこう)と呼ばれる台上に出ます。 そこには「四聖堂」及び「六賢臺」が建ち、前者は孔子と釈迦、ソクラテスとカントを東西の四哲人として祀り、後者は東洋の六賢人として、日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、印度の龍樹、迦毘羅を祀っています。うち「四聖堂」は哲学堂の中心的な建物で、明治37年(1904年)いち早く完成しました。当初はこの建物が哲学堂で、同42年に「哲理門」や「六賢臺」などが完成し、全体が哲学堂と呼ばれるようになったものです。

 

0127b

    ・ 「時空岡」  上掲写真の富士橋の左手の台上です。手前の赤い建物が「六賢臺」、奥が「四聖堂」です。「四聖堂」の前には創設者、井上円了の解説も展示されています。

0127c

    ・  哲学堂公園  哲学堂公園の中では、最も下流の左岸にある菖蒲池です。創立時は構想のみで実現しなかった「須弥苑」をモチーフに、平成になって築造したものです。

下田橋

2016-06-22 06:15:48 | 妙正寺川4

 江古田川(中新井川)を水源までたどり終えたところで、妙正寺川本流に戻ってのウォーク&ウォッチを再開します。合流地点から二百数十メートル下流で中野通りを越えますが、そこに架かっているのが下田橋です。「豊多摩郡誌」には「下田橋 江古田地内里道 木橋 長七尺幅九尺」とありますが、中野通りの開通は昭和に入ってからなので、この下田橋はやや上流にあった旧道に架かっていたものです。なお、→ 「昭和12年第四回修正」では新旧下田橋が併存していますが、同時期の地図で新橋の方を境橋としているものもあります。

 

0126a

    ・ 下田橋  やや上流の元の下田橋があったあたりからの撮影です。なお、下田は左岸一帯の通称地名で、江古田村の本村から見て下流にある田の意でしょう。

0126b

    ・ 中野通り  下田橋の右岸側からのショットで、撮影地点あたりを右岸流が、下田橋と奥の新青梅街道の中程を左岸流が横切っていました。

 <野方配水塔>  哲学堂公園の北、蓮華寺の東隣に野方配水塔があります。昭和5年(1930年)に荒玉水道野方給水場の配水タンクとして完成したもので、直径18~16.4m、高さ33.6m、総貯水量3500トン、60万人に2時間の給水が出来るように設計され、昭和41年まで使用されていました。その後災害用給水槽となっていた時期もありますが、現在は国の有形文化財として登録、保全されています。なお、上掲写真の中野通りの正面奥に配水塔が写っていますが、元々この区間は、荒玉水道道路から野方給水塔に向う水道管埋設に伴い、片山の台地を開削して新設されたものです。

 

0126c

    ・ 野方配水塔  野方給水所跡地は公園、幼稚園の用地となっています。写真は東にある幼稚園側からの撮影で、空襲時に受けた弾丸跡があるそうです。公園側からの写真は→ こちらです。

学田公園2

2016-06-21 07:11:31 | 妙正寺川4

 中新井川(江古田川)は水源である中新井池で、千川上水の助水を得ていましたが、かかわる分水は→ 「東京近傍図」に描かれているように、中村分水と中新井分水の二本です。うち中村分水は明治11年(1878年)の「星野家文書」の数字で、9町4反歩の水田を灌漑したあとの余水なので、メインは中新井村分水のうちの上新街分ということになります。こちらは途中の水田の灌漑が主目的でないため、最短距離となる真北に分水口を設け、ほぼ直線で中新井池まで南下していました。なお、同じ「星野家文書」によると、中新井村は11町六畝歩の水田を千川分水に依存しています。

 

Gakudens22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  学田公園を緑の枠で囲んでいます。

0125a

    ・ 学田公園前  公園の西縁に沿う水路跡の道路です。上掲「空中写真」のほぼ中央で、左手から中村分水の余水が合流しているところです。

0125b

    ・ 中村分水   詳細は→ 「千川用水4 / 中村分水」以下でどうぞ。なお、練馬区のホームページ内「写真で見る練馬の今昔」に、昭和38年ころの写真が掲載されています。

0125c


学田公園

2016-06-20 06:51:01 | 妙正寺川4

 中新井川の水源は現学田公園にあった池や周囲の湧水でした。享保10年(1725年)の「江古田村鑑帳」に「当村川 水上西ハ中荒井村池より、東ハ落合川江流申候」とあるのがそれで、大きさは文政6年(1823年)の「地誌調置写」では、「溜池 東西三十間 南北百五十間」となっています。享保ころにはすでに、千川上水の助水を得ていましたが、「竹戸樋」による助水の占める役割はそれほどではなかったのでしょう。それが、明和8年(1771年)の「江古田村鑑帳」では、「此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候」と書かれ、湧水の減少と千川用水への依存の増大を示唆する書き方になっています。

 

0124a width=

    ・ 学田公園前  前回最後の学田公園南交差点から100m強のところで、学田公園の西縁に沿って北上する水路跡の道路です。左手は練馬区立中村南スポーツ交流センターです。

0124b

    ・ 左岸流跡  前々回UPの→ 「昭和4年第三修正」では、学田公園の東南角から流れ出す左岸流が描かれていますが、ほぼこの道路と重なります。左手奥の茂みが学田公園です。

0124c

    ・ 学田公園  その東南角からの撮影です。昭和10年代の土地区画整理事業に伴い開園されたもので、現在は野球場一面を中心に10000㎡強の面積を有しています。

 <学田の由来>  明治に入ると池は涸れ、茅や葦の茂る沼地となっていたことは、鎮守の屋根葺きに使用するので茅や葦をみだりに刈ってはならない旨の、「江古田村御用留」に収録された通達や、→ 「東京近傍図」の描き方からも推測できます。明治18年(1885年)には、この低湿地を学田とするプロジェクトが企画されます。官有沼地3町5反余を借り受けて水田を拓き、設立間もない豊玉小学校の維持費を捻出しようというものです。水源を確保するための溜池建設などを条件に認可され、明治20年から開墾に着手、同24年には開墾された水田2町3反余が学校財産として払下げられました。(引用が当事者の中新井村ではなく隣村江古田村に偏在していることは、かねてから疑問でしたが、中新井村の近世資料が散逸するといった事情があったようです。)

 


中新井川児童遊園

2016-06-18 06:32:04 | 妙正寺川4

 中新井川緑道は、学田橋の架かっていた学田橋交差点で終了、そこから先はやや幅広の中新井川児童遊園です。中新井川が大きく左カーブ、南から東に向きを変えていたいたところで、→ 「東京近傍図」では沼地から流れ出す二流が描かれ、前回の→ 「昭和4年第三回修正」には、カーブのところに溜池と思われる池があります。明治に入り中新井村大字中新井当時、このあたりの小字は池下ですが、この沼地ないし溜池の下流の意と思われます。

 

0123a

    ・ 中新井川児童遊園  半ばで右カーブするところです。 → カーブの右手には都営住宅やマンションが建っていますが、昭和30年代から最近まで、自動車教習所がありました。

0123b

    ・ 中新井川児童遊園  カーブを抜け北上します。同遊園は昭和46年(1971年)の中新井川の暗渠化に伴い、翌年に開園しました。延長200mほどの細長い公園で、面積は2000㎡強です。

0123c

    ・ 学田公園南交差点  中新井川児童遊園の北で、氷川神社から下徳田橋へと向かうバス通りと交差します。学田公園まで100m強のところです。

 <「古老聞書」>  練馬区教育委員会の「古老聞書」(昭和61年改訂)の中に、区画整理以前のこのあたりの様子の記述があります。「今の豊玉南小学校の前の道路から中野寄りの方は水田であった。自動車教習所のところは沼地で、そこへ北の方から千川上水を分水して流し、氷川神社の前から徳田の方に用水路を配していた。これらの用水が南側の水田に流れ、そして排水されたものが中新井川(現在暗渠になり、グリーンベルトのある道路)に流れ込んでいた。」 千川上水の助水を溜池から左岸流に流し、南にあるる田圃を灌漑、その余水が右岸流(中新井川)となっていたということで、徳殿公園のところでUPした→ 「昭和4年第三回修正」には、右岸流が途中から描かれていますが、こうした事情を反映しているのでしょう。

 


西本村橋、学田橋

2016-06-17 06:04:17 | 妙正寺川4

 中新井川緑道に戻ります。環七通りの先に架かっていたのが西本村橋、その次の橋が学田橋です。どちらも、北側を通る路線バスのバス停にその名を残しています。なお、武蔵学園記念室「千川上水 歴史・写真・探訪」は昭和38年頃の西本村橋の写真と共に、「環状七号線の橋上より西本村橋を望む。明治の頃、不動滝の橋と呼ばれた石橋であった」と「練馬区の昭和史」(写真集 1990年)を引用しています。区画整理の前後で流路も道筋を大きく異なっていますが、おそらく不動滝の橋は下掲「昭和4年第三回修正」で、環七通りの西を通る道に架かっていたのでしょう。

 

Gakuhas4

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」と「同 / 荻窪」を合成したものです。中新井川児童遊園や学田公園などを緑で、練馬、中野の区境をオレンジで重ねています。

0122a

    ・ 中新井川緑道  環七通りを越えても中新井川緑道は続きます。通りからワンブロック、数十メートルのところに西本村橋が架かっていました。

0122b

    ・ 旧学田橋  練馬区のホームページ内に「写真で見る練馬の今昔」というコーナーがあり、そこには昭和38年ころの、未だ田園に囲まれた学田橋の写真が掲載されています。

0122c

    ・ 中新井川児童遊園  学田橋の先は流路幅の中新井緑道より幅広の中新井川児童遊園です。すぐに右カーブで北に向きを転じ、終点である学田公園を目指します。

三の橋庚申

2016-06-16 06:19:45 | 妙正寺川4

 庚申通りと並行して流れ、中新井川に合流していた水路を追っています。「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に、「練馬郵便局南側にあった池からの小流れが、三の橋をくぐり、豊玉中3丁目付近で当分水に合流していた」とあるように、湧水池を水源とする小支流があり、そこに前回の水車分水が合流していました。なお、引用文中の三の橋のたもとには庚申塔があり、三の橋庚申と通称されました。これが豊玉庚申通りの名前の由来となったのでしょう。現存するのは新しいものですが、正覚院境内にある「年癸卯(享保8年か)11月」の庚申塔が元の三の橋庚申と伝えられています。

 

0121a

    ・ 豊玉庚申通り  前回の豊玉中2交差点の一つ北の三叉路です。左手に折れるとすぐ右カーブしますが、その左手に三の橋庚申を祀る小さなお堂があります。

1  0121b

    ・ 三の橋庚申  右面に「父之碑 子之碑」、左面に「豊玉住人 より合う人々建之 昭和四十一年九月吉日」と刻まれています。正覚院に移転した旧三の橋庚申は→ こちらでどうぞ

0121c

    ・ 谷筋の底の通り  三の橋庚申から北に向かう通りが谷筋の底に位置しています。ただ、こちらの水路を明記した地図類は未見で、この通りと並行していたかは断定できません。

0121d

    ・ 練馬郵便局前  上掲写真の通りを二百数十メートル北に向かったところです。奥が練馬郵便局なので、このあたりに水源の池があったのでしょう。

矢島水車分水

2016-06-15 06:14:09 | 妙正寺川4

 前回引用した「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)に、「(千川上水の分水が)豊玉上2-27付近にあった水車にかかっていた。この分水途中から南に流れ、中新井川に通じる」とありますが、この水車名から仮に矢島水車分水と名付けた水路を、豊玉庚申通りの合流地点からさかのぼります。なお、→ 「千川用水4 / 矢島水車」では、今回の水路に関し、「昭和一ケタに着手された、環七や環七から練馬駅に向かう道路(都道442号)によって、中新井の他の分水に比べ痕跡はほとんど失われ、今日たどることは困難です」と書きましたが、その後入手した詳細図によって、区画整理後に排水路となったものをある程度たどることが可能になりました。

 

Yajimabun1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0120a

    1. 環七通りから分かれて450mほどのところです。豊玉庚申通り商栄会という商店街の入口です。

0120c0120b

    2. 豊中通りとの豊玉中3交差点です。矢島水車分水を追って、ここで右折します。

0120d

    3. ワンブロックで左折します。道路幅に変化はなく見た目にはわかりませんが、左折前後の道路左手を並行していました。

0120f0120e

    4. 130mほど北上したところで、右手に車止めの路地があります。水路中唯一の痕跡です。

0120g

    5. 「水路敷き」と明記された路地ですが、ワンブロックで終了です。地図でもここまでしかなく、水車分水の全体像は不明です。

本村3

2016-06-14 06:27:53 | 妙正寺川4

 → 「段彩陰影図」に見られる、環七通り付近で左岸から合流する谷筋に関し、「みどりと水の練馬」(平成元年 練馬区土木部公園緑地課)を引用します。「文献上は不明。千川上水は西方にあった筋違橋から道路北側に移るが、その分水がそのまま千川通り南側を東に流れ、豊玉上2-27付近にあった水車にかかっていた。この分水途中から南に流れ、中新井川に通じる。さらに練馬郵便局南側にあった池からの小流れが、三の橋をくぐり、豊玉中3丁目付近で当分水に合流していた。現在地中埋没。」 

 

Honmuram42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  中新井川緑道を緑で環七通り及び都道442号(この付近の通称豊玉庚申通り)をグレーで重ねています。

 水路こそ記されていませんが、氷川神社の西側を北上する谷筋に沿って水田が描かれており、千川上水の助水があったればこそと思われます。それが、「昭和4年第三回修正」では、水田は荒地と化しており、この頃までに助水は停止になっていたのでしょう。なお、次の「昭和12年第四回修正」は江古田川の改修と共に、用地確保中の環七通りや開通した豊玉庚申通りも描いていて、現況とほとんど変わりません。

 

0119a

    ・ 環七通り  中新井川緑道は環七通りを越えます。交差点はなく右手の豊玉南歩道橋が越えるための唯一の手段です。歩道橋を下りたところが、豊玉庚申通りの起点になっており、今回の水路の合流地点でもあります。

0119b

    ・ 豊玉庚申通り  この通りが開通した際、水路はその右手(東側)を600m弱並行するよう付替えられました。なお近くのバス停西本村橋は、中新井川に架かっていた橋名の名残です。