神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

西武新宿線

2015-05-30 07:21:34 | 千川用水3

 西武新宿線は昭和2年(1927年)、高田馬場、東村山間が村山線として開通、川越鉄道時代に開通していた東村山、川越間と直通運転を開始しました。開通当時から電化、複線だったようです。西武新宿駅が開業した昭和27年(1952年)、西武新宿、本川越間が新宿線として一本化、現行の形になりました。この西武新宿線を越えるため、→ 「東京近傍図」に見られる直線の水路は、S字カーブに改修されました。千川通りも左折、右折のクランクになっていますが、いずれも線路と交差する距離を短くするための工夫です。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  踏切前後の千川通りの様子がだいぶ変わっているため、現在のものを薄いグレーの線で重ねてみました。踏切を越える車が、直進と左折双方混在するため、渋滞の原因となっているところです。

 

 

 

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    ・ 千川通り   庚申塔のある交差点から500m弱で、千川通りは左折して西武新宿線の踏切を越えます。現在はここが上石神井と下石神井の境ですが、元の村境は150mほど手前の交差点でした。 

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    ・ 千川上水  S字カーブで西武新宿線を越えます。この長さ40m、幅5mほどが最後の開渠区間です。(数年前の撮影時は、一日3千トンの水が鉄橋先のヒューム管に流れ込んでいましたが、今は→ 空堀です。)

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    ・ 千川上水橋梁  これまたクランクで越える千川通りの踏切から、東側250mのところにある上井草駅方面のショットです。橋梁の銘板には「一九二六年製 東京石川島造船所」と刻まれています。

築樋(つきどい)2

2015-05-29 06:28:59 | 千川用水3

 築いた土手を踏み固め、地面より高いところに水路を開くのが築樋(つきどい)です。上水のコース取りは尾根筋を縫うようにするのが基本ですが、どうしても谷筋を越えなければならないとき、比較的浅い場合はこの築樋になります。(深い場合は懸樋を使い、神田上水がお茶の水のところで、神田川を越える際採用したものが代表です。) 当地の場合は、数回前にUPした→ 「東京近傍図」で、右岸に井草川の一支流の谷筋がせまっていますが、それを越えるための工夫でした。筋違橋のところで右沿いから左沿いにシフトしたのも、この谷筋を避けるためだったのでしょう。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 上石神井」(1/18000)  オレンジ線は練馬、杉並の区境ですが、江戸時代は上下石神井村と上井草村の村境です。

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    ・ 千川通り  西武新宿線の車両基地の南側歩道は、千川通りより一段高くなっていて、築樋跡のよく分かるところです。なお、正面奥にかすかに見える信号の交差点が、昨日UPした最後の写真の上下石神井村の境です。

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    ・ 練馬、杉並区境  二百数十メートル南の区境を練馬側からのショットです。杉並区の水路跡でおなじみの金太郎車止めの路地が、杉並工高の東まで続き、井草川遊歩道に合流しています。

 <築樋と潜樋>  築いた土手を踏み固め、地面より高いところに水路を開く築樋に対し、トンネルで水路を通す潜樋を組み合わせ、上水と下水(悪水)を立体交差することがよくあります。「千川素堀筋普請所積見分」では、長崎村と滝野川村の二ヶ所でこの組み合わせを設け、潜樋は合計6本を数えます。うち長崎村のものは、左岸の石神井川にかかわる支谷筋を越えるためで、南長崎6丁目交差点で千川用水がVターンをしたあと、長崎村(四ヶ村)分水の分岐までの間に、土手堀下8間ほどのところに、長6間の潜樋三本が設けられました。

 


築樋(つきとい)

2015-05-28 07:05:39 | 千川用水3

 筋違橋や田中水車の次の、信号のある交差点の北東角に、宝永2年(1705年)建立の庚申塔が立っています。「小川家文書」中の「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)は、天明元年(1781年)の千川上水再興に当たっての護岸工事の設計図のようなものですが、その中でこの庚申塔についての言及もあり、筋違橋から73間(≒133m)のところとしたうえで、次のような記述が続いています。これを要約すると、庚申塚から上下石神井村の境の土橋までの数字の合計190間(≒346m)、そのうち80間の左右に高さ2尺の土手を築き、深さ3尺の堀を通したということのようです、

 

   上石神井庚申塚ノ所  橋下モ左右五間宛柵

 一  五十間 左右柵長三間つゝ
 一   十間 左右柵長三間つゝ   
 一   五間 農業橋板 橋ノ下も左右柵長三間つゝ
 一  廿五間 南側欠柵土手築長三間
 一  十八間 左右(長八十間)築足 置土弐尺高
           堀敷三尺浚 道方柵弐尺高程
 一 八十弐間 境土橋 巾五尺 上石神井村
           渡弐間 下同  村境        

 

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    ・ 庚申塔   田中水車の解説のあった上石千川児童公園の先、信号のある交差点の北東角に現存していて、筋違橋からの距離も百数十メートルとピッタリです。 

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    ・ 千川通り   庚申塔のある交差点から100mほどのところです。右カーブのあたりから左手の千川上水跡の歩道が、通りよりも徐々に高くなっていくのが分かります。 

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    ・ 千川通り   庚申塔のある交差点から350m、次の信号のところが上下石神井村の境でした。左手の歩道の高さが、通りと同じレベルに徐々に戻っています。

田中水車

2015-05-27 06:18:29 | 千川用水3

 田中水車の田中は所有者名で、また所在地の字から観音山水車とも呼ばれました。明治末に設立され、昭和15年(1940年)頃にはモーターを併用、その頃訪れた武蔵高校生徒たちは、「水車で製粉を行つている相当規模の工場」と表現しています。同水車は練馬区内では最も遅く、昭和44年(1969年)まで操業していました。最盛期には43本の杵を有しフル稼働すると、一日1.2トンの製粉能力があったそうです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  筋違橋の下流から分岐する取水路が見えます。練馬区教育委員会「練馬の水系」(昭和51年 1976年)によると、取水口と排水口の間は200m、排水路は一部トンネルを使用したようです。

 平地に設置された水車の場合、どうしても長い水路を必要とします。取水口と排水口の落差が水車の出力を決めるので、傾斜が緩やかなであればあるだけ、長い水路を必要とするわけです。後でも触れる「千川上水路図」の描き方を見ると、八ヶ所ある水車のうち上流に設置された水車ほどそうなっていて、最上流の平井水車は400mの水路を持っていました。なお、平井水車は元治元年(1864年)の→ 「取調絵図」にも、唯一長い回し堀と共に描かれ、「名主伊左衛門 水車一ヶ所」と書き込まれています。

 

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    ・ 上石千川児童公園  この付近から水車用水を取水していました。中央の砂場に設けられた鉄製の遊具は、水車をイメージしているのでしょう。

 <千川上水の水車>  千川上水に設置された水車が文献上最初に登場するのは、「上水記」(寛政3年 1791年)の記述で、上井草村の伊左衛門が「当村田用水落口」に設置した水車をめぐり、トラブルになった旨書かれています。この事例にとどまらず、水車設置をめぐるトラブルは多かったようで、文化6年(1809年)、新たな水車設置を禁じる取り決めが、用水組合で結ばれています。結果、江戸時代の水車設置はそれほど多くなかったようで、上記「取調絵図」では保谷新田の平井水車と滝野川村の小屋の描かれたところ、二ヶ所のみとなっています。それが明治に入り、需要が増したのと規制が緩和されたためでしょう、明治10年代後半と目される「千川上水路図」には、最上流の平井水車、同じく平井家所有で上保谷村坂上にあり、→ 「東京近傍図」の左端に描かれているものなど、合計八ヶ所が描かれ、その後も上記の田中水車などさらに増加しました。

 

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    ・ 「千川上水の水車」  上石千川児童公園の一角の解説プレートには、田中水車の写真や「最盛期には、この流域だけで10基以上の水車があったといわれていますが・・・・」の文言が見えます。

 「この流域」の範囲は不明ですが、練馬区内で確認されているのは、田中水車を含め4基だそうです。それが、大正から昭和にかけて下降線となり、昭和15年(1940年)、武蔵高等学校の生徒による調査記録では、千川上水を利用した水車は、昭和の初めに6基、調査時には田中水車、坂上の平井水車、そして数回後に訪れる八成橋たもとの斎藤水車と、3基のみになっています。

 


筋違橋

2015-05-26 07:01:32 | 千川用水3

 立野交差点の先120mほどのところに、筋違(すじかい)橋がありました。「土橋 上石神井村ニアリ筋違橋長二間幅一間二尺」(「東京府志料」) 伊勢橋のところで触れた千川家の管理する七橋の一つでもあり、おそらく上水開設の当初から架かっていたのでしょう。「東京近傍図」でもわかるように、千川上水がクランクで通りの北沿いに移動しており、筋違の名前の由来は一目瞭然です。なお、武蔵高校の「千川上水」に、昭和7年(1932年)に架け替えられた筋違橋の写真が掲載されています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬区と杉並区の区境ですが、江戸時代は上下石神井村と上井草村の境でした。

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    ・ 筋違橋跡  ここまで右側にあった幅広の歩道が左側にシフトしています。それに応じて中央分離帯も左側にズレ、「筋違」しているのが分かります。

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    ・ 筋違橋跡  左手の幅広歩道の先に茂みが見えますが、区立の上石千川児童遊園のもので、その付近にあった田中水車は次回のテーマです。

 <下石神井村分水>  「芦川家文書」中、元治元年(1864年)に作成された→ 「取調絵図」には、上石神井村分水と並んで下石神井村分水が描かれていますが、その前後の千川上水と上水沿いの通りの位置関係に注目です。下石神井村分水のところで、上水と通りの左右が入れ替わっており、ここに筋違橋が架かっていたと解すれば、下石神井村分水の大体の位置も想像できます。おそらく現上石神井駅の横を抜け、ほぼ真北に向かって石神井川の右岸流に合流していたのでしょう。もちろんその痕跡はなく、確認するすべはありませんが。

 


千川上水緑道

2015-05-25 06:35:53 | 千川用水3

 練馬区立千川上水緑道に戻ります。伊勢橋北詰から400mほど、千川通りの東側を並行するこの区間は、暗渠となった中では最も遅く、昭和45年(1970年)に暗渠化されています。前回訪問した時には整備中でしたが、このほど、千川通りの拡幅工事に伴い、緑道の一部が道路用地となりました。かっての流路そのままに蛇行していた緑道の大半は、幅広の直線的な歩道、自転車専用道に変貌しています。

 

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    ・ 千川通り  青梅街道から入った直後の、通りの東側に沿う歩道、自転車専用道です。整備される以前の流路の面影を残す緑道の写真は→ こちらでどうぞ。

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    ・ 千川通り  途中、歩道の右手に取り残されたところが、新たな練馬区立千川上水緑道として整備されました。立野橋交差点まで、およそ250mほどの区画です。

 <立野橋>  千川上水緑道は立野橋交差点で終了します。立野橋は伊勢橋の次の橋ですが、江戸時代にはありませんでした。立野(たちの)は上石神井村の字で、練馬区のホームページ内「練馬の地名 今むかし」は、その由来として「延喜式」にある「立野の馬牧」説、牧の監視所の「舘」説を上げた後、「用木を立てた官有林があったところの地名として各地に残っている」と付け加えています。伊勢橋より上流にあって、武蔵野市と隣接する立野(たての)町は、ここの住民が開拓し、その飛び地として成立したところで、→ 「上石神井村絵図」の左下隅の一角です。

 

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    ・ 立野橋交差点  緑道の終点からのショットです。交差点の北側角には小さな→ お堂があり、宝永元年(1704年)造の庚申塔や天保13年(1842年)の観音供養塔が祀られています。

石神井村分水2

2015-05-23 06:43:43 | 千川用水3

 石神井村分水の二回目です。幕末にかけて、千川用水への依存を深めていたかのように見える上下石神井村ですが、明治に入り用水組合から脱退します。「上下石神井村両村・・・・千川用水不用ニ付口揚ケ致候ニ付明治三午年より水料取立止ミ相成候」 これは明治4年(1871年)の「千川家文書」の一節で、では両村が「千川用水不用」となった事情は何なのか、そのあたりを推測させる記述が「東京府志料」(明治5年 1872年)の上石神井村の項にあります。「用水ハ関村溜井ノ流レ及び村内三宝寺池ノ流レ又千川用水ヲモ引漑ク 猶又辛未ノ春玉川分水新川一條ヲ開鑿シテ村内ヲ通シ用水トナル」 明治4辛未年の玉川分水の新堀開削によって、千川用水が不用になったと読み解けます。

 

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    ・ 「迅速測図 / 神奈川県武蔵国北豊嶋郡土支田村埼玉県武蔵国新座郡橋戸村」  現在の石神井川の流路、三宝寺池、石神井池を薄いブルーで重ねています

 上下石神井村の田用水中、最大の供給源は、石神井川の水源の一つでもある三宝寺池でした。「池 三宝寺の側にあるをもて、三宝寺池と称す、石神井川の水元なり、古は大さ方四五町余もありしか漸く狭まりて、今は東西六十間余南北五十間余となれり、水面清冷にしていかなる久旱にも水滅することなし」(「新編武蔵風土記稿」) その流れが下石神井村において、「関村溜井の余流」と合流し、石神井川となっていました。現在は間に石神井池がありますが、元は三宝寺池からの流路にある水田で、昭和初期にせき止めてレジャー用の池としたものです。

 

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    ・ 三宝寺池  「風土記稿」の数字ではおよそ1ha(110m×90m)ですが、現在の面積は2.4haほど、水深は2mです。正面の中之島には厳島神社が祀られています。

 <田柄用水> 冒頭で触れた玉川分水新川は、一般に田柄用水と呼ばれています。玉川上水田無用水は、それまで余水を田無宿の東で石神井川に落としていました。関、上下石神井を含む10ヶ村は田無用水を富士街道(大山道)沿いに延長、後半は田柄川上流の谷筋を利用して土支田、田柄方面(現練馬区光が丘団地一帯)の田用水としました。一応の完成を見たのは、「東京府志料」にあるように明治4年の春といわれています。上掲「迅速図」の左上隅を横切るのが富士街道で、並行する田柄用水も描かれています。昨日UPの→ 「石神井村絵図」では、道者に先導されて富士や大山に詣でたことから「道者道」となっていますが、もちろん田柄用水は描かれていません。なお、同絵図にある「神田道」のうち北側のものは旧早稲田通りです。

 


石神井村分水

2015-05-22 06:48:35 | 千川用水3

 「芦川家文書」中、元治元年(1864年)に作成された→ 「取調絵図」には、青梅街道を越えた左岸に上下石神井村分水が並行して描かれ、「上石神井村分水口四寸四方樋長六尺 下石神井村同四寸四方長六尺樋」と記されています。ただ、このように上下石神井村の分水が独立し、別個に扱われているのはむしろ例外で、享保7年(1722年)の上水廃止以前と思われる分水リストには、「関村水口内法五寸四方 此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」(「東京市史稿上水編」)とあり、当初は独立した分水口を持たず、関村分水の流末を石神井川に落として利用していたと解釈されます。

 

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    ・ 「上石神井村絵図」  練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された練馬区郷土資料室所蔵「栗原家文書」中の一葉を元に、その一部をイラスト化したものです。この年代は不詳ですが、慶応4年(1868年)の作成で、用水の様子がほぼ同じものも収録されています。

 これに対し、天明年間(1781~87年)の千川上水再興期と思われる「小川家文書」中の「工事見取図」には、「関村分水口」と「上石神井村分水口」が別個に描かれ、同時期の「千川素掘筋普請所積見分」では「関店前橋」から34間(61.9m)のところに「分水口有」と書かれています。どちらも下石神井村分水にあたるものはなく、次いで寛政6年(1795年)の→ 「星野家文書」では、「関村田養水口四寸四方 上下石神井村右同断」と、関村が一つ、上下石神井村がまとまって一つと解釈される書き方です。一方、練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された上下石神井村絵図のうち、分水路が描かれているのは「上石神井村絵図」の一部のみです。乏しい史料から確定的なことをいうのは困難ですが、このように時系列でみる限り、当初は関村分水の流末に依存していたのが、やがて上下石神井村で一つの分水口、ないし別個の分水口を有するようになったと考えられます。

 

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    ・ 千川緑道  村絵図にある分岐している通りは右手奥のものなので、それとの位置関係や34間という距離から推測すると、上石神井村分水はこのあたりから、正面の上石神井体育館方面に向かったのでしょう。

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    ・ 石神井川  都営上石神井アパートの敷地内にある豊栄橋から右岸方向です。上掲写真から900mほどのところで、このあたりの水田を灌漑していたものと思われます。

伊勢(殿)橋

2015-05-21 06:36:59 | 千川用水3

 千川上水が青梅街道を越えていたところに戻り、新しいクール、千川用水3を開始します。そこには伊勢橋ないし伊勢殿(いせどの)橋が架かっていました。「板橋 竹下新田ニアリ伊勢殿橋長一間四尺幅一間半五寸」 「東京府志料」(明治5年 1872年)の千川上水に架かる橋梁リストに記載されています。伊勢殿は上水開設を監督した道奉行、伊勢平八郎のことと思われます。「武蔵国新座郡保谷村地先ヨリ豊島郡巣鴨村ニ至ル迄延長五里二十四町余ノ地ヲ相シ、敷地ヲ撰定シテ、道御奉行伊勢平八郎殿御掛ニテ工事ニ着手シタルニ・・・・」 千川上水と自家のかかわりに関し千川家が残した文書(「千川上水履歴」)中、「東京市史稿上水編」に引用されているものの一節です。

 

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    ・ 「明治22年米軍撮影の空中写真」  前クールでUPした→ 「空中写真」の左上隅を拡大したものです。道路を最短距離で越えるよう、直交している様子が分かります。

 この伊勢橋には別名があり、石神井村の字から出店(でだな)橋とも呼ばれました。練馬区のホームページ内の「練馬の地名 今むかし」によると、出店とは本村から商いに出た店の意で、青梅街道が御嶽詣のコースとなり、茶店などができたことに由来するようです。よく引用される御嶽詣の案内書「御嶽菅笠」(天保5年 1834年)には、千川上水が青梅街道を越えたところに、橋を挟んで水番小屋と二八そば屋(石神井村伊国屋)が向かい合っています。また、これまでもたびたび引用した「小川家文書」中の「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)には、「五三間 関店前橋迄 板橋巾弐間渡弐間」と記載があります。「出店」でなく「店前」という微妙な異同ではありますが、位置からして同じ橋を指しているようです。

 

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    ・ 伊勢橋  千川緑道の起点にあった伊勢橋の欄干です。数年前の、緑道が改修される以前のもので、現在は→ 写真のように撤去されています。

 <千川家負担の七橋梁>  明治2年(1869年)、新宿・田無間に乗合馬車が開通しました。明治10年代中頃には、青梅街道の往来する車馬の増加に伴い、伊勢橋を石橋にする案が浮上します。 推進したのは千川家です。なぜ千川家かというと、上水開削時のいきさつから、伊勢橋を含む主要七橋が千川家持ちになっていたからです。ということは田用水組合村の納める使用料が原資となるわけですが、その不足分の援助を東京府に求める書類が残されています。数年に及ぶ請願の結果は定かではありませんが、明治に入っても続く千川家の役割を知ることができます。なお、橋梁リストは上流から、吉祥寺村土橋、関村土橋(筋違橋)、伊勢橋、下石神井村土橋(筋違橋)、下板橋村石橋(大山橋)、同村板橋(五兵衛橋)、同村石橋(平尾橋)です。

 


天保新堀用水2

2015-05-20 06:30:21 | 千川用水2

 前回UPの→ 「迅速測図」の左下隅に描かれているのが成宗弁天池です。元々あった湧水池ですが、新堀用水が青梅街道を越えるのに必要な水位を得、泥やごみを沈殿させるための中継点として、新堀用水開削と同時に拡張、整備されました。当時の規模を450坪とする文書がありますが、大正の中ごろには個人所有となり、徐々に埋め立てられて姿を消しました。その跡地に成宗弁天社が祀られ、境内には明治13年(1880年)に建立された「中野村、高円寺村、馬橋村三ヶ村用水記念碑」があります。

 

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    ・ 成宗弁天社  成宗村本村の鎮守だった須賀神社(江戸時代は牛頭天王社)に隣接して祀られています。なお、弁天池は左手マンションの敷地にありました。

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    ・ 「中野村、高円寺村、馬橋村三ヶ村用水記念碑」  石碑には以下の碑文とともに三ヵ村の名主、水盛大工(設計施工責任者)の名、そして「明治十三年三月建立」と刻まれています。

 <三ヶ村用水記念碑碑文>  「武州多摩郡中野村高円寺村 / 馬橋村之地平原乏水屡羅凶 / 旱三村之民相謀上請開新渠 / 引池水以灌漑時懸令中村氏 / 給費天保十二年辛丑正月工竣」 工事から40年の歳月の間には、「代官」を「県令」と読み替えるだけの時代の大転換がありました。にもかかわらず「灌漑時懸令中村氏給費」の文字が、自ら実地見分の上、善福寺川の水利権を有する(私領だった)成宗、田端両村との調停や、合計420両に及ぶ補助金の供出など積極的にかかわった、当時の代官中村八太夫の尽力の大きさを物語っています。
 なお、碑文では「天保十二年辛丑正月工竣」となっていますが、新堀用水が一応の完成を見たのは天保11年(1840年)9月ごろ、それが獺(カワウソ)の巣穴による漏水や秋の大雨により崩壊、「田端村大堰より弁天池迄堤崩場所長延千二百間余」という被害をこうむります。そこで、一部ルート変更の上、被害個所の工事をやり直し、改めて完成したのは天保12年末でした。結局総延長2.3km弱、うちトンネル部分は二ヶ所で、合計700m近くに及ぶ大工事でした。

 


天保新堀用水

2015-05-19 06:28:23 | 千川用水2

 七ヶ村分水は杉並口で街道を離れ、桃園川に流れ込んで阿佐ヶ谷田圃の用水となっていました。以東の馬橋、高円寺、中野の各村は、七ヶ村分水の恩恵にあずかることなく、「天水場」、すなわち田植え、収穫が雨の多寡に左右される地域でした。そこで天保11年(1840年)、三村はこの状態から脱するため、お隣の善福寺川からの引水というプロジェクトを実行に移します。問題は桃園川と善福寺川の分水界である青梅街道の尾根筋をどう越えるかで、延長420mのトンネルを貫通させることで解決しました。結果、(三か村の水田の45%に当たる)22町7反歩(22.7ha)余りの水田が灌漑され、その恩恵は大正時代まで続いたそうです。(→ 「段彩陰影図」の◎の個所です。)

 

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    ・ 「迅速測図 / 東多摩郡高圓寺村」(参謀本部測量課 明治13年測量)の一部を加工したものです。成宗弁天池から桃園川の支流の谷頭に向かって、青梅街道越えのトンネル部分が点線で描かれています。 

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    ・ 青梅街道  写真左手の杉並区役所のある一角をトンネルで抜け、区役所裏のアーケード街(パールセンター)先で地上に出ていました。もっとも、区庁舎建設の際の基礎工事では、トンネルの痕跡はみつからなかったそうです。

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    ・ トンネル入口  青梅街道の南250mほどのところで、正面には街道沿いの建物が見えています。なお、奥の左手に車止めが見えますが、街道から善福寺川(その左岸流)へと向かう排水路跡です。

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    ・ トンネル出口  パールセンターは元は「迅速測図」にも描かれた、権現道と呼ばれた古道で、阿佐ヶ谷駅開通を機にそれまでの二間から三間に拡張、やがて商店街化したところです。

桃園川

2015-05-18 06:51:30 | 千川用水2

 桃園川は弁天池など天沼周辺の湧水を源に、阿佐ヶ谷を流れ、馬橋、高円寺、中野を経由して神田川に注ぎ込む、南の善福寺川と北の妙正寺川とに挟まれた、神田川水系の一支流です。江戸時代から明治にかけては農業用水として利用されましたが、天水頼りのため水不足は慢性的で、青梅街道沿いの七ヶ村分水の助水が不可欠でした。むしろその水が最大の水源といえ、独立の〇〇川というよりも、千川用水の一部の扱いで、千川用水、多摩川上水の分水、あるいは単に田用水と呼ばれることが多く、中野付近では石神井川、石神川、宮園川、中野川などもありました。

 

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    ・ 「江戸名所絵図 / 桃園春興」  高台は現在の中野駅南口、中野マルイ裏付近で、背景には桃園川が流れています。源氏雲の陰に桃園橋も架かっているはずですが、当時そう呼んだかどうかは疑問で、本文では「岡の前を流るゝ小川に架せる橋を石神橋と唱ふ」としています。

 大震災後から昭和10年代にかけて、宅地化に伴い区画整理事業が行われ、複雑、多岐な流路は一本化されますが、それまでの田園風景は失われ、水質悪化と大雨時の氾濫に悩まされることになります。昭和42年(1967年)、長年の課題だった暗渠化に成功、地下は「桃園川下水幹線」、地表は「桃園川緑道」になり現在に至っています。桃園川というのはその区画整理後の呼称で、現中野駅近くにあった(八代将軍ゆかりの)桃園、桃園橋からの命名です。

 

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    ・ けやき公園  阿佐谷駅から高円寺方向に400m弱のところにあります。杉並口からの用水は公園の前で、左手に車止めの見える桃園川本流と合流し、右手に流れてJR中央線を越えていました。

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    ・ 桃園川緑道  けやき公園の先、JR中央線の南側にある桃園川緑道の起点です。末広橋で神田川と合流するまで、およそ4.5kmを途切れることなく続きます。神田川水系の中では最長の、かつ最も整備された緑道です。

杉並口

2015-05-16 07:02:18 | 千川用水2

 天沼陸橋下から300mほど、青梅街道の北側に杉並口の遺構があります。寛政6年→ 「星野家文書」の「天沼村阿佐ヶ谷村堀割流落し」が、一つ前の北四面道口を指すとしたら、七ヶ村分水の開削当初はこの支分水口はなかったことになります。あるいは北四面道口と杉並口双方を、まとめてこう呼んだのかもしれません。同じ寛政6年の「井口家文書」中の分水口リストも、「天沼村口 堀割流落シ 阿佐ヶ谷村口 右同断也」とあって、両様に解釈できる書き方です。

 

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    ・ 杉並口付近  青梅街道に面した建物の裏に、コンクリート蓋の→ 路地が街道と平行しています。前回UPの→ 「東京近傍図」で、青梅街道沿いに出現した水路が、街道からやや離れてしばらく並行している部分です。

 ところで、杉並口の「杉並」ですが、街道南側にあった成宗、田端両村の領主岡部氏が、街道沿いの杉並木で領地の境を画したのが由来といわれています。江戸時代に通称地名として定着、明治に入り杉並木自体はほとんどなくなりますが、明治22年(1889年)の町村制施行の際、街道北側の天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺を含めた杉並村(のち杉並町)の名前に引き継がれます。というわけで、現在の杉並区に至る地名の発祥の地は、(成宗、田端の合成地名である成田という住居表示を持つ)青梅街道沿いのこのあたりだったわけです。

 

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    ・ 杉並七小前  コンクリート蓋と車止めの路地は、ここで中断しますが、水路は杉並七小キャンパスを横切り、阿佐ヶ谷駅を経由、駅東側にあるけやき公園付近で、四面道口や天沼弁天池からの桃園川と合流します。

 <阿佐谷村>  「阿佐ヶ谷村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を傳へず、江戸日本橋には三里半の行程なり、村名の起りを詳にせず、・・・・江戸麹町山王の神領に附せらる、村内はすべて平地にして土性は野土なり、陸田多く水田少なし、・・・・用水 保谷新田にて多摩川上水を引分、天沼村より當村に入、處々の水田にそゝぎ、村内をながるゝこと四町許、流末は馬橋村に至る」(「新編武蔵風土記稿」) 「東京府志料」によると田12町4反5畝、畑72町5反7畝余、水田のすべてを千川用水に依存していました。なお、地名由来としては、桃園川流域の浅い谷筋の意と解するのが一般で、泥が浅く耕作しやすい、麻の生い茂る、葦の生い茂るなどもありますが、いずれにしても谷筋にある地形由来は間違いないところです。

 


天水田圃

2015-05-15 06:18:17 | 千川用水2

 昨日UPの→ 「空中写真」の右下隅で、新旧青梅街道が再合流していますが、その南側に宅地化されていないスペースが写っています。現在、杉並区立の荻窪体育館や中央図書館のあるこの一角が、天水田圃と通称される善福寺川に合流する谷筋の、二つある谷頭のうちの一つで、→ 「段彩陰影図」に書き込まれた右側の☓印のところです。杉並区教育委員会「杉並の通称地名」によると、江戸時代、二つある谷頭の西側のものに直径5mほどの池を二ヶ所掘り、湧水を得て下流に水田を造成したそうです。もっとも、「東京近傍図」で先端に丸い池が描かれているのは、(読み取りにくいですが)向かって右側のほうなので、どちらにも池があったのか、あるいは何らかの誤解があるのか、その辺の事情はよくわかりません。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。

 天水というのは湧水や雨水など、天然の水を指す言葉です。その意味でも、この田圃に千川用水は関係していないはずですが、実際に調べてみると、現天沼陸橋下からその助水を得ていたふしがあります。明治10年「星野家文書」をはじめとする諸文献に記されていないので、おそらく明治10年代以降から大正にかけてのある時期、周囲の開発による湧水の枯渇や旱魃など、天水だけでは賄いきれない事情があったのではないでしょうか。権利のある村に使用料を払うことで、別の村(この場合は下荻窪村)が分水を利用することも可能だったようです。

 

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    ・ 天沼陸橋下  新旧青梅街道の再合流地点です。街道に面しての遺構はありませんが、右手のビルの裏にある荻窪体育館や中央図書館の脇に、水路跡を確認できます。

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    ・ 読書の森公園  中央図書館裏1800㎡余は、所有者の寄贈を得て、平成18年公園として公開されました。正面のフェンスの先に→ 水路跡があります。

天沼陸橋2

2015-05-14 06:19:02 | 千川用水2

 天沼陸橋の続です。四面道以西の青梅街道がそれまでの9mから25mに拡幅され、それに伴い分水が暗渠化されたのは昭和一ケタです。以東の区間はやや遅れて昭和10年代のようで、杉並区立郷土博物館「杉並の川と橋」によると、昭和16年当時、中央線沿いの青梅街道には、素掘りの水路がどぶ川状態で残っていたとあります。こうして整備、拡幅された青梅街道ですが、電車の通るたびに交通がストップする「あかずの踏切」ある限り、拡幅の効果は半減されてしまい、その意味で、天沼陸橋の完成が焦眉の課題だったわけです。なお、戦争中にもかかわらず陸橋の完成を急いだのも、また米軍によりいち早く空爆されたのも、零戦のエンジンなど製造していた中島飛行機がらみといわれています。ちなみに昭和19年11月24日、本格的な東京空襲に先駆け最初のターゲットとなったのは、現武蔵野中央公園にあった中島飛行機武蔵野工場でした。

 

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    ・ 旧青梅街道  荻窪駅前のロータリーを回り込み、JR線に沿ったところです。水路はこの左手を並行し、大踏切のワンブロック先まで線路の北側にありました

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    ・ 大踏切  荻窪駅の東側に利用不可ながら現存しています。街道は線路をクランクで越えていますが、これは最短距離で越えるための工夫で、踏切建設時の改修と思われます。

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    ・ 旧青梅街道  大踏切でJR線を越えたところです。水路の方はワンブロック先にズレ、正面の建物付近で越えたあと、再び街道左手を並行していました。

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    ・ 天沼陸橋  幅25m、長42m強。中央線の前後の駅の中で、荻窪駅だけが高架でない理由として、様々なことがいわれていますが、こうして見ると天沼陸橋がネックになっているようです。