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* * * * * *
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以下は千川上水の橋梁リストです。元になったのは明治5年(1872年)頃の様子を反映した「東京府志料」で、同18年の千川家による「私費負担橋梁調書」で補充しました。後者は「従来ヨリ私(千川家)ニ於テ工事其他共負担罷在候」とされる七橋です。なお、明治17年頃とされる「千川上水路図」には、100を越える橋が描かれており、10年ほどの間に数倍に増加したとは考えにくいことから、「東京府志料」の橋梁リストは重要なものをピックアップしたのだと推測されています。
種類(名称) | 場所 | 長さ×幅 | 備考*1 | 千川家負担 |
土橋*2 | 吉祥寺村 | 1尺×8尺 | (中野道) | 〇 |
土橋(筋違橋) | 関村 | 1間半×2尺 | (中野通り) | 〇 |
板橋(伊勢殿橋)*3 | 竹下新田 | 1間4尺×1間半5寸 | (青梅往還) | 〇 |
土橋(筋違橋) | 上石神井村 | 2間×1間2尺 | 〇 | |
土橋(堺橋) | 下石神井村 | 1間半×1間 | ||
石橋(八成橋) | 下石神井村 | 1間半×1間1尺 | ||
石橋(久壽達橋)*4 | 上鷺宮村 | 1間半×1間1尺 | ||
土橋 | 下鷺宮村 | 1間5尺×1間1尺 | ||
石橋 | 中新井村 | |||
石橋(筋違橋) | 下練馬村 | 1間1尺×1間4尺 | ||
石橋 | 上板橋宿 | 1間×1間1尺 | 東京道 | |
石橋 | 長崎村 | 1間1尺×1間5尺 | 東京道 | |
石橋(大山橋) | 下板橋宿 | 1間2尺×1間半 | (川越往還) | 〇 |
板橋*5 | 下板橋宿 | 1間半×1間5寸 | (高田道) | 〇 |
石橋(平尾橋) | 下板橋宿 | 1間2尺×1間5尺 | (川越往還) | 〇 |
板橋(仁王塚橋) | 滝野川村 | 7間5尺×1間 | ||
石橋*6 | 滝野川村 | 6間×1間半 | 中山道筋 | |
板橋(大原橋) | 滝野川村 | 6間半×3尺 | ||
板橋(大原橋) | 滝野川村 | 5間×1間 | ||
板橋(弁天道橋) | 滝野川村 | 6間×1間半 |
*1 ) カッコ書きは「私費負担橋梁調書」からの引用で、どちらも原文は「〇〇道ニ架ス」といった書き方です。
*2 ) 最上流の吉祥寺村土橋は「東京府志料」になく、全項目とも「私費負担橋梁調書」からの引用です。
*3 ) 「私費負担橋梁調書」では「伊勢橋」となっています。
*4 ) 一般的には九頭龍橋として知られています。
*5 ) 五兵衛橋(五平橋)のことです。
*6 ) 以下の4橋は王子分水に架かっていました。
明治以降の水車の設置場所に関する絵図並びに一覧表です。該当個所で個別に扱っかってきたものをまとめてみました。その際参考にしたのは、明治17年頃が「千川上水路図」、「東京近傍図」、明治38年頃は「千川上水使用権利詳細平面図」、「千川家文書」中「千川水路水車取調書」、昭和15年頃は武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」です。なお、武蔵高校の「千川上水」には「千川の流れを利用した水車小屋は、昭和4年頃に於てすら六ヶ所を數へ得るのであるが、」とあり、大正末から昭和の初めにかけて減少に転じたことをうかがわせます。その確認のため、「大正10年第二回修正」、「昭和4年第三回修正」の水車を間に挟みました。その際、「1/10000地形図」が未発行の地域は、前後の状況から明らかな場合も「?」にしましたが、昭和4年で最大5ヶ所しか数えられませんでした。
- ・ 「千川上水水車設置場所」 明治38年頃作成の「千川上水使用権利詳細平面図」(紙の博物館所蔵)をベースにしたため、同時代の「千川水路水車取調書」にはカウントされている鴨下水車の回し堀が欠落しています。
水車(通称) | 明治17年頃 | 明治38年頃 | 大正10年頃 | 昭和 4年頃 | 昭和15年頃 |
平井1*1 | 〇 | 〇 | ? | ? | ☓ |
平井2 | 〇 | 〇 | ? | ? | 〇 |
田中*2 | ☓ | 〇 | ? | ? | 〇 |
斎藤 | ☓ | ☓ | ? | 〇 | 〇 |
鴨下*3 | 〇 | 〇 | ? | ☓ | ☓ |
矢島 | 〇 | 〇 | 〇 | ☓ | ☓ |
岩崎 | 〇 | 〇 | 〇 | ☓ | ☓ |
田留 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | ☓ |
青山*4 | ☓ | ☓ | 〇 | ☓ | ☓ |
喜内古屋 | 〇 | 〇 | 〇 | ☓ | ☓ |
平尾*5 | 〇 | ☓ | ☓ | ☓ | ☓ |
加藤*6 | 〇 | 〇 | ☓ | ☓ | ☓ |
*1 ) → 「元治元年取調絵図」に長い回し堀が描かれ、「名主伊左衛門 水車一ヶ所」と書き込まれているものです。「千川水路水車取調書」によると、明治38年当時の平井水車は、(他が精米用なのに対し)二か所とも針金製造用でした。
*2 ) 千川上水関係の水車としては最も遅く、昭和40年代まで稼働していました。
*3 ) 「千川上水使用権利詳細平面図」には欠落していますが、同時期の「千川水路水車取調書」には記載されています。「練馬の文化財(千川上水特集号)」によると、大正9年(1920年)に田柄用水の三原台に移転しました。
*4 ) 「明治42年測図」から「大正10年第二回修正」まで描かれています。
*5 ) 「元治元年取調絵図」には、ほぼ同じ場所に水車小屋が描かれ、「太郎兵衛水車」と付記されています。また、翌年の大砲製造所への引水工事の記録には、「字平尾水車」として登場しています。
*6 ) 「北区史」によると加藤家所有、輪径二丈八尺の精米用で、「大正5年第一回修正」まで描かれています。なお、王子分水には他に鹿島紡績所の輪径二丈四尺のイギリス製鉄造水車がありました。
これまで扱った田用水の分水口を一覧表にしてみました。村名の表記はかならずしも元の文献通りではなく、例えば中荒井は中新井に、滝の川は滝野川など、一般的なものに統一しています。また左右に並んでいるからといって、同一性(ないし連続性)があるとは限らず、特に中新井や滝野川の場合は、→ 「中新井村分水」及び→ 「滝野川村分水」以下で個別の検討を行いました。
参考文献は年代順に、上水使用時の「千川上水給水区域」(「千川家文書」)、上水復興時の「千川素堀筋普請所積見分」ほか(「小川家文書」)、上水再停止時の「千川養水路之件書類」(「星野家文書」)、大砲製造プロジェクト時の「千川分水口取調絵図」(「芦川家文書」)、そして明治初めの「千川用水組合村樋口伏替願」(「星野家文書」)、明治末の「千川上水使用権利詳細平面図」です。
享保年間頃 | 安永 9年 | 寛政 6年 | 元治 元年 | 明治10年 | 明治38年 |
1714~22 | 1780 | 1794 | 1864 | 1877 | 1905 |
関村*1 | 関村 | 関村 | 関村 | ||
井草*2 | 七ヶ村 | 七ヶ村 | 七ヶ村 | 六ヶ村 | 六ヶ村 |
上石神井 | 上下石神井 | 上石神井 | |||
下石神井 | |||||
*3 | 上鷺宮 | ||||
中村*4 | 中村 | 中村 | 中村 | 中村 | 中村 |
中新井 | 中新井 | 中新井 | 中新井 | 中新井 | 中新井 |
同 | 同 | ||||
同 | 同 | 同 | |||
下練馬 | 下練馬 | 下練馬 | 下練馬 | 下練馬 | |
江古田 | 江古田 | 江古田 | 江古田 | 江古田 | |
葛ヶ谷 | 葛ヶ谷 | 葛ヶ谷 | 葛ヶ谷 | 葛ヶ谷 | |
長崎*5 | 四ヶ村 | 四ヶ村 | 四ヶ村 | 四ヶ村 | 四ヶ村 |
滝野川*6 | 滝野川 | 滝野川 | 滝野川 | 滝野川 | *7 |
同 | 同 | ||||
同 | 同 | ||||
巣鴨 | 巣鴨 | 巣鴨 | 巣鴨 | 巣鴨 | *8 |
7分水 17ヶ村 |
14分水 19ヶ村 |
12分水 20ヶ村 |
15分水 20ヶ村 |
11分水 17ヶ村 |
8分水 15ヶ村 |
*1 ) 「此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」
*2 ) 「此水口より荻久保村天沼村阿佐ヶ谷村に相懸り申候」
*3 ) 「上鷺宮古分水口」
*4 ) 「此水口より上鷺宮村に相懸り申候」
*5 ) 「此水口より池袋村中丸村金井窪村に相懸り申候」
*6 ) 「此水口より平尾村に相懸り申候」
*7 ) 「瀧ノ川村元樋口」
*8 ) 「巣鴨村元樋口」
明治13年(1880年)、岩崎弥太郎らにより千川水道株式会社が設立され、千川「上水」は三度目の復興を果たします。給水範囲も同じく、小石川、本郷、神田、下谷、浅草方面で、翌年上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会にあわせ、突貫工事で開業にこぎつけました。次いで、明治15年に公開された上野博物館付属動物園には、千川水道の水を利用した観魚室(水族館)も設けられました。なお、下掲「実測図」から読み取れるように、途中日光御成道(本郷通り)にシフトした江戸時代と異なり、本郷追分まで中山道を利用していました。現本郷3丁目交差点で、そのまま南下と左折の二系統に分かれるのは、江戸時代と全く同じです。この図からは切れますが、南下する経路は聖堂前で、左折するほうは切通し手前で途切れており、工事中の様子と思われます。
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている北東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。上半分は本郷追分、下半分は本郷3丁目交差点で、通りの中央の点線が千川水道です。
千川水道成立から20年も経たない明治31年(1898年)、淀橋浄水場から神田、日本橋方面に、東京最初の近代水道が通水されます。給水範囲は順次拡大され、翌年にはほぼ市内全域をカバー、明治34年には神田、玉川上水が給水を停止します。千川水道もその役割を終え、明治41年、千川水道株式会社は解散しました。市内への通水は岩崎家の所有する六義園に限られ、昭和13年(1938年)、六義園が東京市に寄贈された後も、同43年、都営地下鉄の工事により、六義園への給水が断たれるまで続きました。六義園への給水が停止して間もない昭和45年(1970年)、都水道局板橋浄水場は、(陸軍造兵廠から引き継いでいた)千川上水からの取水をやめ、同46年大蔵省印刷局王子工場が工業用水道に切り替えます。戦後、王子製紙王子工場を承継していた十条製紙も、すでに水利権を放棄していたため、千川上水の利用は皆無となり、その歴史はひとまず終わることになります。
- ・ 千川上水公園 溜池(沈殿池)の出入口二か所の水門を操作するものです。水門から推測される池は、→ 「明治42年測図」のものに比べると、はるかに小さくまた位置も明治通り寄りにあり、公園化された昭和15年(1940年)前後に、コンパクトに作り直されたものと思われます。
「東京市史稿上水編」が「千川家文書」中、「千川上水給水区域」として引用しているものは、上水の給水範囲を大きく三口に分けています。(引用分中、「才」は水量の単位で、樋口1寸×1寸が1才のようです。)
一、・・・・村数合テ拾七ヶ村御領私領共・・・・此分水百四十八才。 |
- ・ 千川上水給水範囲(江戸市中) 同じ「東京市史稿上水編」にある「正徳末頃ノ上水図」を元にしています。ただ、正徳4年(1714年)閉鎖の小石川御殿は元図からは脱落しており、給水経路は不明ですが、当初の給水目的である綱吉御成の四か所の第一であるため、あえて付け加えました。
江戸市中の給水ルートは大きく二系統で、本郷四丁目と三丁目の間(現本郷3丁目交差点)で左折、湯島切通しを抜け下谷、浅草方面に向かうものと、そのまま直進して聖堂に向かい、神田川沿いに外神田から浅草御門に至るものです。天明元年(1781年)に再興された際の給水ルートも、やはりこの二系統ですが、前者は寛永寺門前まで、後者も浅草御門までということで、浅草方面は給水範囲外となっています。これは「千川上水・用水と江戸・武蔵野 / 第11章 宝暦・天明期の千川上水再興運動」によると、この地域が、前回廃止以降の掘り抜き井戸の普及、水銀支払いが負担となることを理由に、上水再興に消極的だったことが関係しているようで、例えば浅草寺は安永4年(1775年)という再興計画の早い段階で、給水範囲から除外されています。このように、給水範囲が当初予定ほどには広がらず、また消極的な町に対し水銀の軽減措置が取られたこともあり、結局、初期投資分も回収できないまま、わずか6年で上水再興はとん挫することになります。
- ・ 本郷3丁目交差点 本郷通りを直進すると1000mほどで聖堂裏、そこから浅草門まで2kmほどです。一方、左折して春日通りを東に向かうと、700mで湯島天神下の切通しを抜け、浅草寺まではさらに3kmほどあります。
前回のつづきで、鹿島紡績所の水車を回した王子分水の寸積66坪8合はそのまま石神井川に落とされ、王子村以下の下用水組合が補助用水としていました。これに目を付けたのが、渋沢栄一らによって設立された抄紙会社(のちの王子製紙)で、鹿島紡績所、下用水組合と余水使用について合意、明治8年(1875年)に現王子駅北側で操業を開始します。その陰には工場誘致を主導した王子村の先見性があり、土地と用水を提供し、用水費用の肩代わりと村民の雇用を確保しました。翌明治9年、偽造できない紙幣用紙を製造するため、紙幣寮抄紙局が抄紙会社の東隣で操業を開始します。その際やはり王子分水の余水が当てにされ、結局紙幣寮と下用水組合(実質は抄紙会社)が半々で使用することで合意、のち明治11年、(紙幣寮抄紙局改め)印刷局抄紙部には千川口で新規に50坪の増量が認められ、都合印刷局抄紙部83坪4合、下用水組合は33坪4合が割り当てられた計算で、→ 千川上水分配堰碑にあった数字、「樋口寸積百拾六坪八合 内 八拾三坪四合印刷局抄紙部 三拾三坪四合王子村外廿二箇村」と一致します。(これに対し千川水道150坪、分配堰碑にはありませんが、上下井草村以下の南6ヶ村63.84坪、中村以下の北11ヶ村は53.18坪でした。)
- ・ 「千川上水使用権利詳細平面図」(部分) 豊島区教育委員会「千川上水展」に掲載された、明治38年頃とされる平面図(紙の博物館所蔵)を元に、その一部をイラスト化しました。巣鴨村分水のところでUPした→ イラストの上部に(若干の中略を挟んで)続くものです。なお、カッコ書きは原図にはありません。
- ・ 醸造試験場跡地公園 大砲製造所跡地は鹿島紡績所、印刷局抄紙部をへて明治37年(1904年)、大蔵省醸造試験所の敷地となりました。現在は独立行政法人酒類総合研究所の東京事務所に移行し、跡地の大半は公園になっています。
- ・ 逆川跡 西ヶ原村(字西谷戸)付近から発する石神井川の支流で、通常とは逆の北向きに流れることからそう呼ばれています。明治通りを越えたところで、→ 「明治42年測図」では、この付近で左手からの王子分水と合流しています。
- ・ 音無橋 日光御成道(現本郷通り)が迂回して石神井川を越えていたのを、ショートカットして架けた橋です。このやや上流に王子石堰(上掲絵図では「堰堤」)があり、左右に二流の用水を分けていました。
大砲製造プロジェクトによって開削された新堀(王子分水)ですが、明治の殖産興業政策のもと、工業用水として利用されることになります。その先鞭をつけたのは、鹿島万平が設立、明治5年(1872年)に大砲製造所跡地で操業を開始した、民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)です。鹿島紡績所には撚糸器を回すため、輪径2丈5寸(≒6.15m)のイギリス製鉄造水車が導入され、王子分水の水(水積66坪8合)がその動力源となります。この水は水車を回すだけなので、66坪8合はそのまま石神井川に落とされ、王子村以下の下用水組合が補助用水としていました。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- 1. 前回最後の左折の続で、50mほどで今度は右カーブします。なお、庚申塔には「これより左弁天道」とあり、→ 松橋弁天への道標となっています。
- 2. 左折以降の王子分水が並行する通りは、→ 巣鴨庚申塚で中山道から分かれ、王子へと向かう旧道で、王子道と通称されるものです。
- 3. 滝野川1交差点を過ぎて間もなく、桜丘中、高校前で下り坂に差し掛かります。
- 4. 坂下です。その先の路地の左手を水路は並行していました。
- 5. 明治通りに突き当たります。その先、大砲製造所跡地までの水路跡は失われています。
王子分水の続です。前回、古堀拡張の起点として名前の出た滝野川村平尾水車は、→ 「取調絵図」の上樋と中樋の間にあって、元図では「太郎兵衛水車」と付記された水車小屋で、→ 「近傍図」の左下端にあるものと思われます。平尾水車から高枡跡までの古堀分の延長は474間半(≒863m)とあり、現明治通りの滝野川、巣鴨村境を起点とすれば、ある程度の距離計算は可能です。一方、新規開削部分は幅4~6間、深さ6~18尺、延長は744間(≒1350m)、「芦川家文書」中の「普請出来形帳」にある数字です。結局このプロジェクト、大砲製造にまで至ったかどうかは、幕末の混乱によってよく分かっていませんが、重要なのは千川上水を軍事・工場用水として利用しようとしたことで、明治に入り大砲製造所跡地には紡績工場が稼働、近くに出来た王子製紙の前身の抄紙工場や大蔵省紙幣寮(のち印刷局)の工場も、千川上水を工場用水として利用することになります。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- 1. 明治通りから分かれた区境の路地の続です。50m弱で中山道に突き当たります。
- 2. 中山道を越えた先で右折します。高架は首都高中央環状線です。
- 3. 今度は中山道と交差したばかりの明治通りを越えます。
- 4. 明治通りの先の道路は、左手を並行していた水路跡を含んで幅広になっています。
- 5. 都電荒川線の西ヶ原4丁目駅前で左折、これまで一緒だった区境と離れます。
元治元年(1864年)、現醸造試験所跡地公園に幕府直営の大砲製造所建設が計画され、砲身を穿孔する錐付水車の動力源として千川上水の水が注目されます。たびたびお世話になっている「千川分水口取調絵図」が作成されたのはこの際で、普請方は9月21日から4日間かけて千川上水の調査を行い、分水口の場所、大きさ、利用する村を取調べています。結局、翌慶応元年9月から3カ月ほどかけて、大砲製造所まで引水する水路が開かれますが、工事内容は大きく二分され、一つは滝野川村平尾水車から高枡跡までの在来堀(古堀)の拡張、もう一つは高枡跡から大砲製造所までの新規開削(新堀)でした。
- ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半は北区(旧滝野川村、王子村など)です。
- ・ 堀割交差点 明治通りと旧中山道の、その名も掘割交差点から、王子分水を大砲製造所跡までたどります。しばらくは明治通りに含まれ、痕跡らしいものはありません。
- ・ 明治通り 堀割交差点の先です。この付近に王子分水を利用している、精米用の榎本水車がありました。「近傍図」にも描かれています。
- ・ 区境の路地 堀割交差点から200mほどのところで、北区と豊島区の境になっている路地が左手にはなれます。王子分水はこの左手を並行していました。
前回、上水利用停止時の巣鴨村分水は、独自の分水口を持たず、流末をかけ流していたのではと推測しましたが、いずれにしても、この時期の千川用水の恩恵は少なく、幕末近くには「巣鴨村者矢張用水相掛り兼候ニ付、田耕地更ニ無之候」「用水行届兼其後仕付荒ニ相成候」(「千川家文書」)という状態で、水料米もおさめていませんでした。事態が一変したのは、幕末の滝野川大砲製造所プロジェクトで、この時、独立した「四寸四方長六尺」の分水口(→ 「元治元年取調絵図」)が復活しました。明治に入り王子分水を利用する抄紙会社(のちの王子製紙)が操業を開始、巣鴨村分水は「字本村口幅壱寸四分高壱寸四分五厘」(明治10年「星野家文書」)と縮小しましたが、それでも、流末までの水行が確保され、(村全体で7町5反中)1町歩の水田を灌漑することができました。ただ、それも長続きせず、明治13年(1880年)の千川水道会社の設立以降、巣鴨村分水の役割はフェイドアウトします。同17年頃の「千川上水路図」からは消え、「千川上水使用権利詳細平面図」では「元樋口九合九勺」となっています。なお、1寸四方を1坪とするので、最後の樋口は1寸四方以下だったことになります。
- ・ 「千川上水使用権利詳細平面図」(部分) 豊島区教育委員会「千川上水展」に掲載された、明治38年頃とされる平面図(紙の博物館所蔵)を元に、その一部をイラスト化しました。火薬製造所分水のところでUPした→ イラストと連続するものです。
- ・ 千川上水跡 明治通りを越え、旧巣鴨村に入ります。村境には土橋が架かり、「東京府志料」当時は板橋(「仁王塚橋長七間五尺幅一間」)でした。なお、左手に→ 千川上水分配堰碑が見え、右手奥の茂みは千川水道の沈殿池のあった千川上水公園です。
- ・ 明治通り およそ300m先を横切る谷端川の谷筋に向かってのショットです。なお、明治末の「郵便地図」では、村境手前で分岐した水路が村境沿いを谷端川に向っており、あるいは巣鴨村分水の名残かもしれません。
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千川用水最後の分水が巣鴨村分水ですが、そのあり様は上水利用の有無など流末の全体構造とかかわっており、まずそこから話を始めます。「小川家文書」中の上水復興時の護岸工事用の→ 「絵図」に見る千川上水の最下流は、水門、分水枡、巣鴨村分水、そしてかけ流しの流末となっています。このうち最初の水門は増水時の吐水門のことで、享保7年(1722年)の上水廃止以前の様子とされる「江戸配水図」にもあり、同年代の「千川上水給水区域」が、「板橋御林之内二而吐申候、并巣鴨村二而吐申候」としているものです。次の上水枡は当然のことながら、上水使用時期限定で設けられるもので、「江戸配水図」ではこちらが「水門」となっています。また、「小川家文書」中の上水復興時の「樋枡仕様書」に、「滝野川大枡 六尺四方深サ八尺」とあるのがこれでしょう。一方、こうした上水利用時の流末に対し、その停止時はいたってシンプルで、次にUPするのは 天明6年(1786年)に上水利用が再停止されたあとの様子です。
- ・ 「一橋家小石川屋敷分水絵図」 豊島区郷土資料館「千川上水関係史料集Ⅰ」に収録された絵図を元に、その一部をイラスト化したものです。なお、図中、庚申塚手前の「下水吐」については、→ 「谷端川・小石川3 / 字新田2」で扱っています。
寛政元年(1789年)から2年にかけて、一橋家小石川屋敷への千川上水引水が企画されました。結局実現しませんでしたが、上掲絵図はその設計図のうち裏通り経由のもので、もう一枚は枡で分水して中山道を経由しています。注目は滝野川村境に接した流末の傍らに、「巣鴨村田用水」と書き込まれていることで、流末の余水をかけ流し、巣鴨村分水としていたのだと推測できます。「此所有来用水落口へ水門仕付吐水口ニ仕ル様」は、巣鴨村分水口に水門を取り付け、吐水口に再転用しようということでしょう。なお、この図面から切れるところに、別個吐水門や巣鴨村分水口があったかどうかは不明ですが、上水未使用時に吐水門は不要ですし、後者もなかったことが推測されます。寛政6年の「星野家文書」には、巣鴨村分水について「巣鴨村流落し候也」と、やはり流末の転用を思わせる記述があります。
- ・ 千川上水跡 巣鴨村境の現明治通りまであとワンブロック、100m弱です。なお、「千川素堀筋普請所積見分」は、最後の分水口、土橋から巣鴨村境まで記述がなく、吐水門以下の位置を計算することができません。
「小川家文書」中の護岸工事用の→ 「絵図」には、滝野川村内に「悪水吐潜樋」と「分水口」のセットが3セット描かれています。一方「千川素堀筋普請所積見分」でセットになっているのは二ヶ所で、一里塚前は潜樋のみ、最後は分水口のみとなっています。今回はそのうちの2セット目(「絵図」では3セット目)の場所がテーマです。「所積見分」の距離を当てはめると、一里塚まえの潜樋(分水口なし)から120間(≒218m)、現明治通りに当たる巣鴨村境まで242間(≒440m)で、これらを昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で距離計算すると、現谷端小学校の正門付近となります。一方、「中山道分間延絵図」で、4番目の最も江戸寄りにある石橋は、一里塚からの距離およそ220mなので、これも今回の潜樋に対応していると考えて間違いないでしょう。
- ・ 千川上水跡 一里塚からワンブロック、50mほどのところで、右カーブで旧中山道からやや離れます。なお、住居表示は板橋区から北区に変わっていますが、江戸時代は同じ滝野川村のうち、字平尾から字三軒家です。
- ・ 千川上水跡 谷端小学校の正門前です。谷端(「新編武蔵風土記稿」では谷畑)も滝野川村の字ですが、その名を残すのは谷端川、そして小学校と付近の二つの公園のみになりました。
- ・ 千川上水跡 上掲写真からワンブロック、60mほどのところで、市場通りと交差します。「所積見分」によると、2番目と3番目の分水口の間隔は30間(≒54、6m)、そこから2間(≒3.64m)のところに土橋が架かっていました。
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千川上水跡の道路は板橋駅の北で、JR埼京線を越えます。その直後左カーブで旧中山道とほとんど接するところに、平尾一里塚がありました。本郷追分に続く中山道の2番目の一里塚ですが、痕跡も解説プレートもありません。ところで、「小川家文書」中の上水再興時の護岸工事用と思われる絵図には、平尾一里塚と思われるすぐ下流に、滝野川村の2番目の「悪水吐潜樋」があり、次いでやはり2番目の分水口が描かれています。「千川素堀筋普請所積見分」には、一里塚の前に距離の欠落が一か所あるため、終点の巣鴨村境(現明治通り)から距離計算してみると、「潜樋 内法壱尺」のあるのは362間(≒658m)のところで、やはり一里塚のやや江戸よりです。なお、同「見分」には、この潜樋の直後は「土橋」のみで、分水口の記述はありません。
- ・ 「千川上水流末絵図」 小平市教育委員会発行「小平市史料集 第二十七集 玉川上水と分水5」に収録された、上水復興時の護岸工事用と思われる絵図を元に、その流末部分の一部をイラスト化しました。
- ・ 千川上水跡 JR埼京線を越えて100m弱のところで、左カーブで左手の旧中山道に再接近、両者の間隔はほんの10mあるかないかです。
- ・ 旧中山道 旧中山道越しのショットで、小高くなっているのが千川上水跡、奥は板橋駅南口広場、その先の谷端川に向かって低くなっています。なお、一里塚は撮影地点のやや右手にありました。
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