神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

太宗寺の支流

2018-11-30 06:55:43 | 蟹川

 → 「江戸名所図会」にも描かれた、西向天神下を流れる蟹川を追って、谷頭のある内藤新宿、太宗寺方面までのウォーク&ウォッチです。天神下から新宿中学前にかけては、道路となって残っていますが、途中、天神小学校の校庭で水路跡は途切れます。同校の創立は大正11年(1922年)で、前田圃と呼ばれる水田の一角を造成したため、前々回UPの→ 「大正5年第一回修正」で、その南縁から東縁を廻っていた水路も敷地に含まれてしまいました。なお、前田圃は天神前の田圃の意で、明治に入り大字東大久保の字となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西向天神下から始めます。右写真は天神から見下ろしています。 

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    2. 天神下を離れます。左手に上る階段の脇に見えるのが東大久保富士です。 

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    3. 左手新宿中と右手天神小の間を南に向かいます。 

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    4. 上りに差し掛かる手前で右折、天神小のキャンパスを横切ります。 

 <東大久保富士>  東大久保富士は天保13年(1842年)、西向天神の境内に築造されました。明治34年(1901年)に一時撤去ののち、大正14年(1925年)、現在の姿に再築されたものです。前回UPの「江戸名所図会」には、この東大久保富士が扱われていません。「図会」の刊行は遅くとも天保7年(1836年)なので、刊行当時は築造されていなかったことになります。また、「豊多摩郡誌」(大正5年)に、「昔は境内に浅間社あり、大久保の富士と称して隆盛なりしも、明治三十四年中撤去して今は無し」とあるのも、ちょうど撤去後再建前だったからです。

 


西向天神

2018-11-29 06:10:26 | 蟹川

 「大窪天満宮 大窪にあり、此地の鎮守とす、祭礼は六月廿五日なり。別当は梅松山大聖院と号して、聖護院宮の直末本山派の江戸役所にして、大先達たり。当社を世に棗(なつめ)の天神、或は西向の天神とも称せり。社壇西に向ふ故に云ふなるべし、棗と称する来由しるべからず」(「江戸名所図会」) 「豊多摩郡誌」には、「寛永の頃将軍(三代家光)当所へ御鷹野ありし時、社殿の破壊に及びたるを上覧ありて、金の棗(茶器)をたまはり、是を以て再興すべしと台命ありしに因る」とあります。なお、創建は古く、安貞3年(1229年)と伝えられています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 大窪天満宮」  「社壇西に向ふ故に西向といひ又は棗の天神と称すれとも棗の来由しるへからす、境内すこぶる幽邃あり」 

 左下隅の鳥居は久左衛門坂下からの参道にあり、参道を進んだ右手には弁天池も描かれています。明治初めの地図では、100坪ほどのレモン型でしたが、その後埋め立てられたようで、昨日UPの→ 「大正5年第一回修正」では、宅地になっています。なお、池の西縁に沿って川が流れ、橋も架かっていますが、これは→ 「東大久保村絵図」にもあるように、当時本流と目されていた太宗寺方面からの流れのほうで、画面からは切れますが、田圃を挟んでさらに西側にはもう一本の川があったことになります。 

 

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    ・ 山吹坂下  「図会」左下の参道を進むと、青いフェンスで囲まれた(太田道潅伝説由来の)山吹坂下に出ます。右手は弁天池のあったブロックです。

 山吹坂の名前の由来ですが、太田道灌に山吹を差し出した伝説の娘、紅皿の墓と伝承される中世の→ 板碑が、大聖院境内にあることにちなんでいます。傍らにある新宿区教育委員会の解説プレートによると、中世の十三仏板碑と推定されているものです。それが紅皿の墓とされたのは、江戸時代も中期以降のことで、「新編武蔵風土記稿」にも「紅皿塚 塚は崩れて断碑のみあり、文字湮滅して読得ず、世俗に語伝ふる紅皿欠皿の旧蹟なりと云」と書かれています。紅皿欠皿というのは、器量、気立ての良い継子と、そうでない実子、継子いじめと高貴な求婚者の出現といった、シンデレラとも通ずる類型的な物語があり、これに山吹伝承が絡んで歌舞伎の演目ともなったようです。

 


文化センター通り

2018-11-28 06:26:56 | 蟹川

 西向天神前の蟹川の流路は、→ 「蟹川全図」に見るように、二つの谷頭からの合流が錯綜していました。それが、今日たどることのできるルートに単純化されたのは、蟹川の河川敷を利用して、大正の初めに都電(当時は市電)13系統の専用軌道が開通、それと並行するように付替えられたためでした。また、宅地化に伴い田用水は順次廃止され、道路と重なる一部を除いて痕跡は失われ、昭和に入ると本線も暗渠化されました。なお、13系統は昭和45年(1970年)に廃止されました。その軌道プラス暗渠は一般道路に転用され、今は文化センター通りと呼ばれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 長く途絶えていた本流ですが、抜け弁天通りの先のビルの谷間の路地から再開します。 

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    2. すぐ右折して専用軌道跡と並行します。左手から天神下の水路も合流していましたが、重なる道路はありません。

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    3. 左折すると西向天神下に出ます。天神下の流れとの連絡水路がありました。  

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    4. 天神小学校前に差し掛かります。右写真の右手は前回の戸山幹線の通りです。

抜弁天通り

2018-11-27 06:27:17 | 蟹川

 抜弁天通り(職安通り)を越えます。抜弁天通りは→ 「東京近傍図」にあるように、久左衛門坂を下り、北側に迂回していたのをショートカットしたもので、大正末には開通していました。ただ、現在のように幅広になったのは、昭和も終わり頃のことです。ショートカットの際築堤されたために、前後の蟹川本流(右岸流)の痕跡は失われ、今日たどることのできるのは戸山幹線と重なる左岸流の方です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 抜け弁天通りの元となった古道(久左衛門坂の通り)を越えます。本流に架かっていた橋から7、80m西側です。 

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    2. 次いで抜弁天通りを越えます。右写真は左手方向で、低くなっているところが本流の跡です。

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    3. 「郵便地図」はこのあたりから先、通りの左手にズレた流路を描いています。 

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    4. 一方、戸山幹線はこの道路下を直進しており、暗渠化の際そのように付け替えたのでしょう。

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    5. 天神小学校前で文化センター前通りに連続します。

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2018-11-26 06:38:00 | 蟹川

 前回UPの→ 「第三回修正」では省略されていますが、砂利取場跡新田を灌漑するため、左岸にもう一本用水路がありました。→ 「東大久保村絵図」の描く左岸流を、そのまま椎木坂下まで北上させたものです。内務省地理局の「東京実測図」や、明治末の「郵便地図」には、段丘の際から合流する短い水路共々描かれていて、後者は「新編武蔵風土記稿」のいう「鏡の井」とかかわるものかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 椎木坂下に戻ります。本流から70m弱西側、上り坂の手前を入る路地があります。 

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    2. 「下水道台帳」で水路敷となっていますが、ワンブロック、70mほどで終了です。

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    3. 別項の「弁慶の井」があるとされる旧字砂利場155番地は、左手の銭湯の裏あたりです。 

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    4. 前回の通りの先です。戸山幹線はこの下にあり、暗渠化の際左岸流のほうに付替えられたのでしょう。

 「豊多摩郡誌」のなかに、「弁慶井 東大久保字砂利場百五十五番地の田の側、小流れの中に在りて清水噴出す、如何なる旱魃にも涸れしことなし、附近に義経井といへるもありたるよし」との記述があります。「新編武蔵風土記稿」のいう「鏡の井」と同じものかどうか不確かですが、場所的には同じ砂利場に属し、→ 「段彩陰影図」で大久保通りの下の左岸に食い込んでいる谷筋や、「村絵図」の同じ位置の田圃のでっぱりなど、こうした湧水にかかわるものと思われます。

 


砂利場

2018-11-24 06:16:27 | 蟹川

 大久保通りの先、→ 「東大久保村絵図」で、蟹川が大きくカーブしているところまでが、今回テーマの砂利場で、江戸時代、砂利取場御用地だったところです。「又村の東北若干の処砂利取場御用地となり、後墾闢して砂利取場跡新田と号し、享保十七年筧播磨守検地して御料に属す」(「新編武蔵風土記稿」) 同書の字には収録されていませんが、明治に入ると、東大久保村(のち大久保村大字東大久保)字砂利場となり、昭和7年(1932年)に淀橋区東大久保二丁目となるまで存続しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 椎木坂下のこの道路から再開です。やや右カーブのあとほぼ直線で南下します。 

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    2. この下には蟹川の機能を代行する下水道戸山幹線が通っています。

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    3. 右にカーブします。この道路までが字砂利場、ここから南は字天神前で、東大久保村の中心でした。

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    4. この付近で左折、久左衛門坂下の橋へと向かいますが、抜け弁天通り(職安通り)の先まで、重なる道路はありません。(戸山幹線は道なりです。) 

東大久保村用水

2018-11-22 06:03:36 | 蟹川

 以下は「新編武蔵風土記稿」の東大久保村の水利に関する記述です。「内藤新宿より流来る細流あり、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」「内藤新宿より流来る細流」は蟹川の二つある谷頭のうち、太宗寺方面からのものを指しており、当時はこちらの方を本流扱いしていたふしがあります。「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された「東大久保村絵図」もそのような描き方です。これに対し、「豊多摩郡誌」(大正5年)の大久保町の水利の項では、「本町内に水流の記すべきものなし、唯内藤新宿町及淀橋町地内より流下する細流あり」と、二つの谷頭を併記しています。

 

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    ・ 「東大久保村絵図」  「東大久保村絵図」(堀江家文書 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、イラスト化したもので、例によって田用水を強調しています。

 

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    ・ 久左衛門坂下  前回UPの→ 永福寺前から下る坂の下には、「村絵図」で大きく描かれた橋が架かっていました。万年橋と書いた地図もあります。

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    ・ 西向天神下  右手から合流している道が、天神下に向かう参道なので、このあたりが「村絵図」で天神下に描かれた橋の架かっていたところです。 

 ところで、「新編武蔵風土記稿」のいう「所々の清水」の一つに、「鏡の井」がありました。「乾の方奥州古街道の傍田間の小流を云、旱魃にも水涸るゝことなし」 この「奥州古街道」については、別のところで「村北に奥州の古街道あり、田畑の間を戸山の方に達す」と書いており、戸山屋敷と接する村の北部、砂利場と呼ばれるあたりと思われます。いずれにしても、こうした細流や湧水など天水頼みの水利のため「水損旱魃ノ患アリ」(「東京府志料」)、「古来水田多く開けず」(「豊多摩郡誌」)という状態でした。「東京府志料」の数字では、東大久保村の水田面積は5町7反4畝23歩となっています。

 


東大久保村

2018-11-21 05:57:58 | 蟹川

 「東大久保村は日本橋より二里余、古老の説に、古は当村及び西大久保、諏訪の三村皆戸塚に通して一村なり、当時文字も富塚と記せしと云、然とも正保の改には、大久保の一村のみ取て余の地名は収めず、元禄の図に大久保村の傍に同村枝郷東大久保村及枝郷諏訪村と記し、又戸塚村をも載す、推考するに、元来は富塚のみなりしを、一旦大久保と改め、元禄の前又各村に分れしならん、又大久保を東西に分ちしは天正十九年の繩よりなりと西大久保に伝へたり、・・・・家数八十七、北は尾張殿別業戸山屋敷に接し、其余は武家屋敷及大縄組屋敷にて、唯西のみ西大久保及諏訪村の飛地に隣れり、東西十町余、南北六町余」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は大久保村当時の牛込区、内藤新宿町などとの境です。 

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    ・ 西向天神  「天神社 村の鎮守なり、棗(なつめ)の天神とも西向天神とも号す」(「新編武蔵風土記稿」) 社殿が大宰府のある西に面していることから、西向天神と呼ばれています。 

 大久保の地名由来については、「豊多摩郡誌」に以下の四説が併記されていますが、蟹川の谷筋にちなむ地形由来が有力です。「太田新六郎寄子衆に大久保の姓氏を唱ふる者あり。当所の辺を領してより村名となりしものならんか、一説に大久保の地形凹字型なるを以て、大窪村と唱へ後今の字に改むと。或は説を為す者あり、是永福寺の旧山号を大窪山と号せしに基けるものなるべしと。徳川幕府の初め諸組の同心に市ヶ谷大久保等の地を給与し、且つ此に居住せしめ、総取締として大久保某を選任し、邸を大久保に給ふ、是れより大久保村の称あり云々と」

 

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    ・ 大久保山永福寺  職安通りに面し、その旧道にあたる左手の坂(久左衛門坂)を下ると蟹川です。その立地からも、地形にちなんだ山号と思われます。

 


大久保通り

2018-11-20 06:46:26 | 蟹川

 戸山公園、東戸山小学校の南端は築堤されていて、その上を大久保通りが通っています。前回UPした→ 「昭和3年第三回修正」と同一場所、同一縮尺の→ 「昭和12年第四回修正」を見比べると、その間に開通、蟹川も暗渠化されているのが分かりま。なお、大久保通りの開通以前は、南に迂回して勾配を緩和する坂道になっていました。戸山屋敷内に椎の大木があって、坂道を覆っていたため、椎木坂と呼ばれ、また、東西に上る坂が向かい合っていることから、向坂とも称されました。東は150間、西は60間許と「豊多摩郡誌」にあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 蟹川2」(1/18000)  大久保通り前後の谷筋は、左手豊島台(武蔵野面)、右手淀橋台(下末吉面)の境です。なお、東京の地形は西高東低が原則ですが、ここでは東の淀橋台のほうが数メートル高くなっています。  

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    ・ 大久保通り  右岸から明治通り、新大久保駅方向を見通しています。築堤上にあるとはいえ谷筋は明らかで、その幅は200mほどです。

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    ・ 椎木坂  南に迂回して谷筋を越える旧道の下り口で、上掲写真の左手です。坂下には冒頭で触れた坂名の由来を書いた標柱が立っています。 

 <大久保通り>  新宿区飯田橋交差点を起点に、新宿区、中野区を経由して杉並区高円寺で環七通りに接続するまで、延長8600mほどの都道の通称です。うち神楽坂上交差点から終点までは都道433号線に当たります。中野区内は区画整理事業によって新規に成立した道路で、杉並区内もその後の延長ですが、新宿区内の大部分は江戸時代、牛込、大久保等の武家屋敷を横切っていた道を明治以降、順次拡張整備していったものです。古道部分にはそれらしい蛇行が残され、交通のネックとなってところもあります。このように、成立過程をまったく異にする二つの道路が、昭和10年代始めには連結され、現在の大久保通りの形ができあがりました。

 


戸山公園3

2018-11-19 06:19:03 | 蟹川

 戸山荘時代、大泉水の南側にあたる低地、現在戸山ハイツや東戸山小学校のあるところは、濯纓(たくえい)川、あるいは大井川が流れていました。蟹川をそう呼んだもので、濯纓川は屈原作と伝えられる「漁夫」の、「滄浪の水清まば 以て吾が纓を濯ふべし」から、纓(冠の紐)を洗うほどの清く澄んだ川の意と思われます。→ 「尾州邸園池全図」にも描かれていますが、川の周囲には水田を配し、田園風景を演出していました。明治に入り、陸軍の用地となってからは、熊笹の覆う沼地のまま放置されていましたが、のち幼年学校が市ヶ谷から移転、運動場として整備され、流路も迂回するように付替えられました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 早稲田」と「同 / 四谷」の合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。付替え以前の「明治42年測図」は→ こちらです。

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    1. 東戸山小学校西縁の道路です。「第三回修正」に描かれた付替え後の水路とほぼ重なります。

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    2. 下水道戸山幹線もほぼ同じコース取りですが、左手にシフトするのはやや早く、このあたりからです。 

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    3. 左折、右折のクランクで大久保通りを越えます。右写真は右手台上からのショットです。

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    4. 大久保通りの先です。右写真は振り返っています。

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2018-11-17 06:33:09 | 蟹川

 戸山公園内の大泉水や蟹川の流路は失われました。明治に入り陸軍戸山学校、戸山公園と、大規模な造成を経ているため、地形も改変されています。そこで古い地図をあてにするしかありませんが、これまでお世話になった参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」は、残念ながら範囲外になっていて利用できません。そこで、参考にしたのは内務省地理局が明治20年(1887年)に発行した「東京実測図」(1/5000)と、陸地測量部の明治42年以降の「1/10000地形図」で、後者にはすでに大泉水はありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。薄いブルーが「実測図」、濃いブルーが「明治42年測図」です。(「下水道台帳」の戸山幹線のコース取りは後者と重なり、暗渠化して下水道に転用したのでしょう。)

 大泉水の下流側(東半分)の大半は戸山公園内の広場になっています。一方、西半分の一部は都営戸山ハイツの敷地にかかっています。同ハイツは昭和24年(1949年)、米軍の提供した資材をもとに1052戸の木造住宅群が建設されたのがもとで、当時としては画期的な水洗トイレ付でした。昭和44年には鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられ現在に至っています。なお、戸山公園の開園はやや遅れて昭和29年です。

 

 

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    ・ 戸山公園  大泉水の東半分の大半を占める広場です。左手奥の高いところが多目的運動広場、そのさらに奥が箱根山です。

 <龍門橋>  昨日UPの→ 「尾州邸園池全図」で、大泉水の東南端に架かっていたのが龍門橋、その下から龍門の滝が流れ落ち、鳴鳳渓と称する渓谷を形成していました。「さかしき谷に下るに、誠に世に類ひなき様にて庭ながら鳥も通はぬ渓谷に入ると覚ぼゆ。龍門の瀧たぎり落ちて岩角に当り砕け散るしら玉のさま、又あたりの山に包まれて、瀧壷に響く水音、嵐もはげしくそひぬと思はる」 寛政5年(1793年)に11代将軍家斉が戸山荘を訪れた際、随行した旗本の文章の一節です。なお、平成10年に早大の→ 学生会館を建て替える際、この龍門の滝の遺構が発掘されました。伊豆石360個余りからなる滝壷の石組みで、現在は名古屋市にある徳川園に移築されています。

 


戸山公園

2018-11-16 06:04:02 | 蟹川

 戸山公園(箱根山地区)まで来ました。一帯が和田戸山(外山)と呼ばれたのが名前の由来ですが、その詳細は不明で、源頼朝配下の有力武将、和田義盛の領地で、和田、外山両村にまたがっていたとか、あるいは、和田戸何某という武士の館だったところだとかいわれています。江戸時代に入り、寛文8年(1668年)以降、尾張徳川家の下屋敷が置かれ「戸山荘」と呼ばれました。約45ヘクタールの敷地は江戸の大名屋敷では最大規模です。明治から第二次世界大戦までは、陸軍戸山学校など陸軍関係の施設があり、戦後の国有化をへて、都営戸山ハイツや公園となっ て現在に至っています。

 

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    ・ 「寛政年間戸山尾州邸園池全図」(「新撰東京名所図会」より)  箱根山のふもとに、東京都の設置した解説プレートがあり、そこに掲示されている絵図の水部を着色、また北が上になるように回転しています。 

 「和田戸山の風景誠に善盡し美盡せり。江都より京都にいたる駅路五十三次の宿々、名産名物に残物なく、渡舟、山道茶屋、渡りやはさらに、本陣、旅籠、つぎ馬問屋、川渡し舟、東海道の産物、一としてあらずと云事なしとぞ。近来は度々御成りあらせられ、愈々増々美麗を盡し給へりと云」 「若葉の梢」(寛政4年 金子直徳)の一節です。元禄年間(1688~1703年)に完成した庭園ですが、その後放置されて荒廃が進み、寛政年間(1789~1800年)の初め、将軍家斉の御成りを契機に修復されました。家斉は大いに気に入り、「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と讃えたといいます。

 

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    ・  箱根山  戸山公園のシンボル箱根山の山頂部分です。蟹川はこの山の麓をめぐり、北から東寄りへと向きを転じていました。大泉水も蟹川も失われた今、当時の唯一の遺構です。 

 箱根山は戸山荘時代麻呂ヶ嶽、あるいは玉円峰と呼ばれました。麻呂は丸ですから、どちらも円形の山の意です。標高44.6m、旧東京市内で一番高い山といわれていますが、蟹川の形成する右岸段丘上に、その名の通り、お椀をふせた形の盛り土をしたもので、自然の山というわけではありません。ちなみに、都心にある自然の山としては、愛宕山を思い浮かべますが、その標高は25.7メートルです。(上掲写真のこんもりしたところが、その盛土の部分で、大泉水を掘った際の残土を利用したようです。)

 


穴八幡

2018-11-15 06:52:19 | 蟹川

 「八幡社 穴八幡と号す、正八幡なり、・・・・社伝に云此所古より八幡の小祠及ひ阿弥陀堂あり、・・・・同十八年、石清水八幡宮を勧請し良昌をして別当たらしむ、依て草庵を造営せんとて山麓を穿ちけるに、一つの穴あり人々怪しみ燈を取て内を伺へは、銅仏の阿弥陀長三寸許なるを得たり、是八幡の本地なれはとて、則神殿に安置し、今に秘仏とすと」(「新編武蔵風土記稿」) 寛永18年(1641年)は三代将軍家光に長男(後の四代将軍家綱)が誕生した年で、その夢のお告げがあったともいわれ、将軍家の庇護が格別だったようです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田八幡宮」  右下隅の十字路は馬場下町交差点にあたり、通りに架かる橋の下を流れるのが蟹川です。画面からは切れますが、早稲田通りを越えた先には、→ 「江戸名所図会 / 高田稲荷ほか」の描く田圃が広がっていました。 

  なお、穴八幡の社地は下戸塚村に属し、「新編武蔵風土記稿」も下戸塚村のところで扱っていますが、旅所(神輿の休憩所)が神楽坂にあるなど、むしろ「牛込の総鎮守」(「江戸名所図会」)と目されていました。そのためでしょう、明治に入りその一角のみ下戸塚村から離れて牛込高田町を形成、のち牛込区に編入されています。

 

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    ・ 穴八幡宮   八代将軍吉宗が享保13年(1728年)、世嗣の病気平癒を祈願して流鏑馬を奉納、その後も世嗣誕生を祝い厄除けを祈願して、歴代将軍が奉納するようになり、現在は毎年10月に戸山公園で行われています。

 <駒之橋>  以下は穴八幡下の石橋についての「御府内備考」の記述です。「石橋 長一間半余巾二間余 右町内穴八幡前に有之下水え掛渡駒之橋と唱申候」「新編若葉の梢」(昭和33年 海老澤了之介)では駒留橋となっていて、「門前に石橋が掛っている。これが駒留橋で、神事流鏑馬の時、この橋の所に馬を揃えたので、この名がある」と書いています。大正から昭和にかけての地図で、駒止橋となっているものもあります。「新編若葉の梢」はさらに、昭和5年(1930年)に蟹川が暗渠となった際、橋名を記した石の欄干だけが残ったが、戦災で失われてしまったことにも触れています。

 


馬場下町

2018-11-14 06:36:08 | 蟹川

 穴八幡下で早稲田通りを越えます。今では通りの左右とも馬場下町ですが、こうなったのは明治に入ってからで、江戸時代には通りの南側が馬場下町、北側は馬場下横町でした。うち馬場下町に関する「御府内備考」の引用です。「高田馬場東方ニ当り八幡坂と申坂有之右坂下故ニ馬場下町と相唱申候」「下水 右当町ニ有之候水元大久保村下水尾州様戸山御屋舗え入夫より流出末は早稲田村下戸塚村より江戸川え流落申候」

 

Babasita1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Babasim42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0716a

    1. 早稲田中・高校のキャンパスを横断し、反対側の道路に出る直前で左折、早稲田通りに向かいます。

0716b 0716c

    2. 穴八幡下で早稲田通りを越えます。ここに架かっていた石橋については次回扱います。 

0716d 0716e

    3. 早稲田通りの先の路地です。左折して早稲田大学戸山キャンパスに沿います。 

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    4. 100mほどで途切れますが、水路は右折して戸山キャンパスを横切っていました。

下戸塚村境

2018-11-13 06:52:08 | 蟹川

 蟹川本流を追って、早稲田大学大隈庭園前まで来ました。手前で左折して南に向きを転じ、さらに早大通りのところで右折、左折のクランクで西にシフト、この辺りまでは直線的で、やはり明治末の付替えの結果です。その先は下戸塚、早稲田の村境を流れますが、昭和に入るまで蛇行の跡をとどめていました。昭和30年代に幅広の直線道路ができ、あいまいになりましたが、早稲田鶴巻町などと戸塚1丁目の境は、この蛇行を反映しており、特に、早稲田通り手前で右折、早稲田中・高校のキャンパスを二分するところに顕著です。(今回のルートは、蟹川の機能を代行する下水道戸山幹線と重なります。)

 

Sakai1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 早大通りとの早稲田鶴巻西交差点です。右折して北側歩道に沿います。 

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    2. 左折して早大通りを越え、奥の路地に連続します。

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    3. 幅広道路に出ます。このあたりから水路は戸塚村、早稲田村の境に沿っていました。 

0715f

    4. 村境に沿う水路はこの幅広道路の左右を蛇行していました。

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    5. 右折して早稲田中・高キャンパスを横切り、さらに左折して早稲田通りに向かいます。