神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

本村の支流

2018-05-31 06:57:49 | 幡ヶ谷支流

 地蔵橋に戻り、本流をさかのぼります。次の橋が柳橋、その次が氷川橋で、右折すると氷川神社に出ることからのネーミングです。この氷川橋を通る道と並行して、左手(右岸)から小支流が合流していました。さらに、その40mほど先にももう一本の合流がありました。→ 「段彩陰影図」の二又に分かれた谷筋にかかわるもので、この様子は→ 「幡ヶ谷村絵図」に描かれ、→ 「東京近傍図」からも読み取れます。どちらも水路沿いに水田が描かれており、田用水として利用されていたのが分かります。

 

Honmurab1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Honmurabt5

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0301a0301b

    1. 地蔵橋に戻り、本流をさかのぼります。次の柳橋は昭和初期の架橋です。

0310c

    2. 柳橋の先から遊歩道はアンツーカーになっています。突き当りを左カーブです。

0301d0301e

    3. 氷川橋です。右写真の通りの右手に水路があり、ここで合流していました。 

0301f0301g

    4. 40mほど先の左手からも合流がありました。

本村左岸3

2018-05-30 06:21:02 | 幡ヶ谷支流

 本村田圃を灌漑していた左岸流を追っての三回目で、氷川神社前を過ぎ六号通りまでです。六号通りは玉川新水路(水道道路)の六号橋を通るためそう名付けられましたが、元は→ 「幡ヶ谷村絵図」 のほぼ中央に描かれた古道で、大字幡ヶ谷当時二つの字、本村と中幡ヶ谷の境となっていました。というわけで、左岸流はその先も続きますが、本村田圃の左岸流としては六号通りまでで一区切りとします。

 

Honmuras3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0228a

    1. 氷川神社を過ぎても、相変わらずの路地が蛇行しながら続きます。

0228c 0228b

    2. 一般の道路に紛れますが、右カーブのあとの左手に路地が顔をのぞかせています。

0228d

    3. 2.の路地入口にはなかった車止めが復活、水路跡だと確認できます。  

0228f 0228e

    4. 南隣を並行していた幅広道路の一部となります。  

0228g

    5. 50mほどで六号通りに突き当たります。一見終了のようですが、正面左手に車止めの路地が顔をのぞかせています。 

本村左岸2

2018-05-29 06:21:20 | 幡ヶ谷支流

 左岸の用水を追っての二回目で、地蔵橋から7,80mのところに車止めが顔をのぞかせています。そのまま本流と並行し、間もなく旧幡ヶ谷村の鎮守だった氷川神社前に出ます。この7、80mは、→ 「幡ヶ谷村絵図」に描かれた、氷川神社前の本村田圃の幅でもあります。2、あるいは3本の水路の間で用水を遣り取りしながら間に挟まれた田圃を灌漑する、田用水の基本設計通りの構造です。ただ、下掲「地形図」に田圃はなく、昭和の初めには排水路に転用されたのだと分かります。

 

Honmuras2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

Honmurass12

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0227a0227b

    1. 地蔵橋の通りを北に向かうと、道幅が狭くなったところに車止めがあります。

0227c

    2. このような路地が中野通り手前まで1200mほど、ほぼ途切れることなく続きます。

0227d

    3. 道路と交差するたびにポール状の車止めでガードされています。 

0227e0227f

    4. 氷川神社前です。右写真奥の茂みはその境内です。


本村左岸

2018-05-28 06:54:16 | 幡ヶ谷支流

 → 「幡ヶ谷村絵図」で、地蔵橋前後の本村田圃は本流の北側に広がっています。描かれてはいませんが、その北縁に沿って用水が流れ、本流との間の田圃を灌漑していました。その跡は車止め付きの路地となっていて、迷うことなくたどることができます。ただ、昭和の初めに付替えられたのでしょう、余水は地蔵橋で本流に戻っていて、それ以降の痕跡は失われています。今回はその痕跡の失われたところなので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

Honmuras1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

0226a

    1. 村木橋の左岸方向です。左岸流は通りの左手を並行、余水を本流に戻していました。 

0226c 0226b

    2. 40mほどで左折、50mほど通りと並行しますが、その先は重なる道路はありません。 

0226d

    3. このあたりから通りと重なります。渋谷区のコミュニティバス、「ハチ公バス」が走っています。

0226f 0226e

    4. この通りは昭和初期に出来たものなので、その際水路は埋立てられたのでしょう。

0226h 0226g

    5. 地蔵橋の通りに突き当たり右折です。右写真奥の道幅の変わっているところに、車止め付きの路地があります。

本村田圃3

2018-05-26 06:23:45 | 幡ヶ谷支流

 本流に戻り新橋から再開します。新橋上流には→ 「東京近傍図」にも描かれた本村水車がありました。代々幡村の村長だった並木代右衛門持ちで、明治22年(1889年)の記録には、「水輪一丈五尺、臼六個(一斗張)、右水車ハ幡ヶ谷村字本村北玉川上水樋口代田村ヨリ係ル用水路ニ於テ従来許可ノモノニ有之」とあります。大正中頃には廃止され、前回UPの→ 「大正10年第二回修正」には描かれていません。

 

Honmura3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0225a

    1. 新橋から再開です。このあたりで前回の右岸流を左手に分岐していたことになります。

0225c0225b

    2. この右手に回し堀があり、本村水車が稼働していました。

0225d

    3. 左手は本町小学校跡地です。本町東小学校、本町中学校と共に、平成24年に小中一貫の渋谷本町学園に統合されました。  

0225f0225e

    4. 地蔵橋です。右写真は右手方向で、この通り沿いに次回テーマの左岸流が合流していました。 

 <地蔵橋>  → 「幡ヶ谷村絵図」で、大宮八幡道が氷川神社に向かう途中、架けられている古くからの橋です。橋のたもとには酒呑地蔵が祀られていました。宝永5年(1708年)の建立で、酒によって丸太橋から落ちて亡くなった若者を供養するため、村人によって建てられたと伝えられています。最近まで当地に祀られていましたが、現在は中野通りに面した清岸寺境内にあります。なお、橋の架かる大宮八幡道は、「幡ヶ谷風土記」(昭和53年 堀切森之助編)では国分寺街道となっていて、幡ヶ谷氷川神社、雑色多田神社を経て大宮八幡、さらには、国分寺、府中方面に向かう古道でした。(地蔵橋にあった酒呑地蔵は→ こちらで、清岸寺境内の酒呑地蔵は→ こちらでどうぞ。)

 


本村田圃2

2018-05-25 06:12:45 | 幡ヶ谷支流

 → 「幡ヶ谷村絵図」を見ると、前回の区間は南側に田圃が広がっています。その南縁に沿う用水もあり、右岸段丘の際を流れていました。大関橋のところで引用した「本町東小学校前を流れる水路」は、この右岸流についてのものと思われます。ただ、こちらはいち早く暗渠化されたのでしょう、明確な痕跡は失われているため、いつもの青点線は書き込んでいません。(本流、側流の区別は相対的で、→ 「東京近傍図」は右岸流を本流扱いで、その北側に田圃を描いています。)

 

Honmura2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

Honmurat10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0224a0224b

    1. 本町東小跡(渋谷本町学園に統合)の西側の道路です。右写真は本流方向で、奥に二軒家橋が架かっています。

0224c

    2. 本町公園手前です。上掲「地形図」に水路が描かれているのはこのあたりからと思われます。

0224d

    3. 2.から3.にかけて左手が高くなっていて、右岸段丘の際にあるのが分かります。 

0224e0224f

    4. 通りは突き当たって終了ですが、すぐ右手は本流に架かる新橋です。

本村田圃

2018-05-24 06:58:48 | 幡ヶ谷支流

 → 「幡ヶ谷村絵図」を見ると、幡ヶ谷支流に沿って細長い田圃が続いています。上流から笹塚田圃、中幡ヶ谷田圃、本村田圃と呼ばれ、また全体としては長田圃と通称されていました。注目は本流と目される水路と田圃の位置関係で、ほとんどが左岸(北側)に広がっていますが、本村田圃の一部は右岸(南側)にシフトしています。今回のウォーク&ウォッチの対象はこの区間に当たり、清水橋で山手通りを越えてから本村橋までです。

 

Honmura1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

0223b 0223a

    1. 山手通りの先の遊歩道ですが、水路跡は右手のアンツーカーです。 

0223c

    2. 二軒家橋です。橋名は大字幡ヶ谷当時の字、二軒家前が由来です。 

0223e 0223d

    3. 「渋谷の橋」に「(弁天)神社へ通じる道に架かっていた」とある弁天橋です。

0223g0223f

    4. 左カーブの先の村木橋を過ぎると、並行していた道路はなくなり、水路単独となります。

0223h

    5. 本村橋です。本村は「新編武蔵風土記稿」にも収録された字で、幡ヶ谷村の中心だったところです。

清水橋

2018-05-23 06:36:31 | 幡ヶ谷支流

 方南通り南の半月状の駐輪スペースを抜け、再度方南通りに接するところに架かっていたのが大関橋、その後すぐに山手通りを越えますが、そこに架かっていたのが清水橋です。清水橋は昭和11年(1936年)に、山手通りの拡幅、開通に伴い架橋されました。「渋谷の橋」(平成8年 渋谷区教育委員会)によると、延長4.2m、幅員22mとあり、縦横のバランスを著しく欠いた橋だったようです。名前の由来は付近に清水が湧いていたためです。平成15年(2003年)、山手通りの整備の際撤去され、その→ 遺構は遊歩道脇に保存されています。

 

Simizu1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Simizus22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0222a0222b

    1. 方南通りの左手をしばらく並行した後、山手通り方向に向かいます。このあたりに大関橋が架かっていました。

0222c0222d

    2. 清水橋交差点南で山手通りを越えます。右写真は左岸(右手)から初台方向のショットです。  

0222e

    3. 山手通りの先で遊歩道として再開します。なお、清水橋前後はこの数年間で現在のように整備されました。

 <大関橋>  「渋谷の橋」は大関橋について、「水路が栄町通り(現方南通り)に突きあたる地点にある橋。橋の手前で、本町東小学校前を流れる水路が合流し、水量が増大するので、この通り沿いにコンクリート製の護岸大関を、橋を架け替えた昭和5年10月に併設した。数年前、本町東小学校前の地下水路に大型遊水場が設けられ、ここに流れ込む水の貯水、調節ができるようになった」と書いています。「本町東小学校前を流れる水路」は、次々回に詳細しますが、右岸段丘の際を流れていた側流のことです。単線化の過程で暗渠化されたのでしょう。上掲「空中写真」には写っていません。

 


幡ヶ谷村用水

2018-05-22 06:36:24 | 幡ヶ谷支流

 前回引用した「新編武蔵風土記稿」の幡ヶ谷村の水利に関し、「用水は玉川上水を分流して田間に沃けり」とありましたが、これは一般に玉川上水幡ヶ谷村分水と呼ばれるものです。「多摩郡幡ヶ谷村 樋口同村地先より引取申候 水口竹樋壱尺廻り内法二寸四方(四寸五分四方) 幡ヶ谷村一ヶ村限り、樋口より水末迄十六町許 伊那右近将監支配所神谷縫殿助知行所」(「上水記」) 「水口竹樋壱尺廻り内法二寸四方」は全分水中最小規模で、下高井戸村分水でも「水口三寸四方」でした。もっとも、「上水記」には天保15年(1844年)に見分した際の訂正も併記され、それによると「四寸五分四方」に拡張されていて、変わらなかった下高井戸村分水を上回っています。

 

Hatagaezu1

    ・ 「幡ヶ谷村絵図」  「図説渋谷区史」(平成15年)に収録されている「幡ヶ谷村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとにイラスト化しました。例によって田用水を強調しています。 

 次いで、たびたび引用している明治17年(1884年)の「田用水に関する調査」からの抜粋です。「郡町村名 南豊嶋郡幡ヶ谷村角筈村 用水名稱 別ニ無之(幡ヶ谷村ハ玉川上水ヨリ樋口ヲ以テ引取ル。右流末角筈村ニ入リ該川涯ニテ砂利ヲ堀取ル故ニ亦砂利場川トモ云フ。) 川幅 平均六尺(幡ヶ谷村三尺、角筈村九尺) 川延長 三千八百九十間(内幡ヶ谷村三千五百三十間、角筈村三百六十間)・・・・ 水掛反別 拾九町三反拾壹歩(内幡ヶ谷村拾六町五段四畝拾五歩、角筈村貮町七反五畝貮拾六歩)」 分水口については「樋口竪三寸横四寸長九尺」となっていて、江戸時代のものと規模に大差はありません。

 

0221a

    ・ 幡ヶ谷村分水口  玉川上水は京王線笹塚駅手前の二号橋から暗渠になりますが、その二号橋から振り返っての撮影です。右手に分水口の石組みが見えます。

 <「幡ヶ谷郷土誌」>  今回の幡ヶ谷村とその用水の記述に関しては、ネタの多くを「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編 区立渋谷図書館発行)に負っています。昭和30年代中頃に行われた、明治生まれの古老からの聞き取りと、「豊多摩郡誌」の記述をベースに編集されたもので、笹塚、幡ヶ谷、本町に三分される以前の、旧幡ヶ谷村の歴史、風物を再編しようとするものでした。(特に名前は付けていませんが)幡ヶ谷支流に関しては、灌漑用水として果たした役割が重視され、幡ヶ谷村分水にまつわるエピソードや、各支々流の流路が詳細されています。 

 


幡ヶ谷村

2018-05-21 06:19:23 | 幡ヶ谷支流

 「幡ヶ谷村は『小田原役帳』に遠山藤六知行十一貫文幡ヶ谷とあり、江戸より三里、民戸百三十八、東西二十三町、南北八町余、東は角筈村、南は代々木村、西は荏原郡代田村及ひ多摩郡和田村、北も同郡雑色村なり、用水は玉川上水を分流して田間に沃けり、・・・・村の南に甲州道中係れり、道幅4間半」(「新編武蔵風土記稿」) 小名としては、「新町(甲州街道に添いし地にて、代々木新町に続けり)、原、笹塚、本村、山谷」が収録されています。

 

Hatagayam13

    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに中野、新宿、渋谷区、同細線は代々幡村当時の大字境です。 

 明治22年(1889年)には、甲州街道を挟んで南隣にあった代々木村と合併、代々幡村が成立、大正4年(1915年)に町制が施行されています。さらに、昭和7年(1932年)には渋谷町、千駄ヶ谷町と共に渋谷区となり、昭和40年代に実施された現行の住居表示では、旧幡ヶ谷村の範囲は本町(1~6丁目)、幡ヶ谷(1~3丁目)、笹塚(1~3丁目)にあたります。上掲「近傍図」は主に本町1~6丁目の範囲で、江戸時代の小名でいうと村の発祥の地の意の本村です。

 

0220a

    ・ 氷川神社  「氷川社 村の鎮守なり、荘嚴寺持」(「新編武蔵風土記稿」) 「近傍図」の中央やや左側にあって、神田川支流を左岸から望んでいるのが氷川神社です。 

 地名由来に関しては源義家にまつわる伝承があります。奥州遠征(後三年の役)の帰途、当地の池で源氏の白旗を洗ったというもので、その旗洗池は「豊多摩郡誌」当時は現存していました。「蒼然たる十五六坪ばかりの心字池にして、辨天社の西に遶る、往時は其の大さ今に三四倍せしよし」 おそらく、地形に由来する「畑」「畠」プラス「谷」が本来で、同音の「旗」「幡」に転化する過程で旗洗い伝説が発生したのでしょう。これは単なる門外漢の感想ですが、地形に由来した地名が、様々な漢字表記を経る過程で物語を生むというのが、もっともよくあるパターンです。

 


角筈、幡ヶ谷村境

2018-05-19 06:16:00 | 幡ヶ谷支流

 神田川幡ヶ谷支流をさかのぼっています。合流地点自体は旧角筈村に属していますが、しばらくすると流路は幡ヶ谷村との境を形成、進行方向右手は幡ヶ谷村、左手は角筈村になります。江戸時代の両村境は朱引とも重なるので、ここまでが広い意味での江戸御府内でした。もっとも、村境となっていたのはほんの百数十メートルで、現方南通りを越えたところで両岸とも幡ヶ谷村になります。

 

Murasakai1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0219a

    1. 引き続き村境と重なるところで、現在は新宿区(西新宿5丁目)と渋谷区(本町3丁目)を分けています。 

0219b

    2. → 親柱に「えのきはし」とあります。こちらには大正(おそらく13年)の日付で、この区間は付替えがなかったのでしょう。 

0219d 0219c

    3. 都営大江戸線の西新宿5丁目駅前で方南通りを越えます。

0219e

    4. 方南通り南側に半月状にはみ出したスペースは、駐輪場に転用されています。

0219g0219f

    5. 再び方南通りに突き当たりますが、今度は越えずに左カーブで並行します。

合流地点

2018-05-18 06:01:50 | 幡ヶ谷支流

 仮に幡ヶ谷支流と名付けた水路を合流地点からさかのぼります。現在は長者橋から200m強下流で合流していますが、そうなったのは昭和の初めに、本流の改修に合せ付替えた結果です。合流地点から数えて4番目の柳橋には昭和7年の日付があり、付替え時の架橋と思われます。この橋は→ 「角筈村絵図」にも描かれた、「砂利道」(「豊多摩郡誌」)に架かる橋で、付替えに際して20mほどズレたところに架け替えられました。なお、砂利道や下掲「地形図」の字砂利場は、甲州街道や青梅街道の普請の際、当地が砂利の採掘場だったことに由来しています。

 

Goryu1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Goryut10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。付替え後の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。

0218a

0218b 0218c

    2. 児童遊園風の遊歩道が続きます。右写真は羽衣橋で、親柱に昭和32年の日付があります。  

0218d 0218e

    3. 柳橋です。付替え以前の水路は右手に折れ、通りと並行して西に向っていました。

0218f

    4. このあたりから左手新宿、右手渋谷の区境と重なります。かっての角筈、幡ヶ谷の村境です。  

幡ヶ谷支流

2018-05-17 06:53:22 | 幡ヶ谷支流

 山手通りに架かる長者橋から200mほど下流の右岸に、これまでになく大きな合流口が開いています。今回のクールのテーマである神田川の一支流の合流地点です。→ 「東京近傍図」では、合流地点は枝分かれしていますが、うち左折して中野、新宿、渋谷三区(本郷、角筈、幡ヶ谷三村)の境近くで合流するのがメインで、合流地点の属する → 「角筈村絵図」から明治42年以降の「地形図」までそうなっています。

 

Hatagaya1

    ・ 「段彩陰影図 / 幡ヶ谷支流1」(1/18000)  オレンジ線は区境で、左上から時計回りに中野、新宿、渋谷区です。 

 谷筋の先端は幡ヶ谷村の範囲を越え、和泉、和田両村にまたがる萩久保と呼ばれる天水場でした。さらに、甲州街道沿いの数か所からの合流もありますが、なんといっても最大の水源は玉川上水でした。それ以外は天水頼みの小河川であったことなど、桃園川との類似が指摘できますが、たどった運命も似通っていて、昭和の初めに農業用水としての使命を終え、住宅密集地の生活排水路となりました。昭和30年代末から40年代初めにかけて、暗渠となり地上は遊歩道、地下は下水道幹線となったのも同様です。もっとも、区画整理を経過した桃園川に比べ、直線化、単線化は徹底せず、遊歩道としての整備も中途半端な印象です。

 

0503a

    ・ 神田川  菖蒲(あやめ)橋からのショットです。左カーブで北に向きを転じるところに、右岸からの大きな→ 合流口が開いています。

 ところで、この神田川支流の名前ですが、その規模や果たした役割にもかかわらず、〇〇川といった固有の名前は普及していません。起点に注目して和泉川、終点に注目して砂利場川などが、一部文献に登場したのみです。歴史的に果たした役割からすると、幡ヶ谷村分水ないし幡ヶ谷村用水が妥当なのでしょうが、本来は自然河川であることも考慮して、ここでは仮に幡ヶ谷支流としておきます。(流域の大部分をカバーする渋谷区の発行する文献では、ほぼ一貫して「神田川支流」の扱いです。)

 


三村境

2018-05-16 06:16:59 | 神田川5

 神田川本流に戻ります。面影橋から駒塚橋にかけて、神田川は右岸の下戸塚村、左岸の(下)高田村の境となっていました。昭和に入り直線的な改修がなされましたが、元の蛇行の様子が新宿区と豊島区の区境となって残っています。これに対し、駒塚橋前後の本流の流域は、両岸とも関口村に属しており、現在は文京区の一部となっています。結局、駒塚橋手前に三村境があり、現在は三区の境となっているわけです。

 

Sansonm42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  現行の神田川をブルーで、新目白通りをグレーで重ねています。オレンジ線は区境で、右上隅から時計回りに豊島、文京、新宿です。

0216a

    ・ 左岸の区境  神田川と並行する左手文京区、右手豊島区の道路です。左手の塀は熊本藩細川家の庭園を公園にした→ 細川庭園、右手のフェンスは神田川です。 

0216b

    ・ 右岸の区境  神田川の右岸から離れるこの路地が、右手新宿区、左手文京区の境になっています。すぐに左折して神田川と並行、中川の流域とほぼ重なります。

 <駒塚橋>  「神田上水堀に架せり、長九間駒塚橋と号す、相伝ふ古へ橋北に老松一株あり、行客常に駒を繋しゆへ駒繋橋と称せしか、後松も枯しより駒塚橋と呼誤れりと云」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「江戸名所図会」は橋名を駒留橋とし、「駒とめて猶水かはん山吹の花の露そふ井出の玉川」という古歌によっているとか、あるいは、源頼朝がここで駒を引き返した、といった伝承を収録しています。「若葉の梢」によると、古来丸木橋が架かっているだけだったが、御成り道となったため板橋に架け替えたとあります。いずれにしても、江戸時代には面影橋の次の橋は、この→ 駒塚(駒留)橋でした。なお、大正末の神田川の直線化に際し、橋の位置は100m強上流に移動しました。上掲「地形図」の白く抜いたところが現在位置です。

 


字稲荷前の用水

2018-05-15 06:36:17 | 神田川5

 昨日UPの→ 「江戸名所図会」を見ると、守宮(いもり)池からの流れがあり、また段丘沿いには水路も描かれています。こうした左岸の天水が稲荷前の田圃(現早稲田中・高キャンパス)を灌漑し、さらに段丘沿いに北上して、中川の水源の一つとなっていたようです。一方、蟹川本流は画面から切れる田圃の反対側を流れ、→ 「下戸塚村絵図」にあるように、下戸塚と早稲田の村境を形成していました。

 

Inarimae1

    ・  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

0215b 0215a

    1. 蟹川は穴八幡前で早稲田通りを横切り、水稲荷前に流れていました。

0215c

    2. 右手は早稲田中・高キャンパスです。本流は右折、左折のクランクでキャンパスの東側にシフトしていました。 

0215e 0215d

    3. 高田稲荷(水稲荷)の旧社地前です。別当だった宝泉寺は健在です。 

0215f

    4. 早稲田大学構内に入ります。左手が高くなっていて、左岸段丘に沿っているのが分かります。

0215h 0215g

    5. 大隈講堂前で、その奥は大隈庭園です。左岸流はこの先の田圃(字石田前)を灌漑し、余水を中川に落としていました。