神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

柿木

2015-11-30 07:20:19 | 妙正寺川1

 西武新宿線の南側に戻り、左カーブで東に向かいます。200mほどで環八通りを越えるところまでです。一帯は下井草村に属し字柿木(柿ノ木)と呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」に「柿ノ木 村の中程にあり」と記載され、その位置からでしょうか、村で唯一の高札場があったところでもあります。井荻村(のち井荻町)時代の大字下井草小字柿ノ木、昭和7年(1932年)の区制施行後は杉並区柿木町へと引き継がれますが、現行住居表示実施後は前回登場した柿木北公園など、公園や図書館に名を残すのみです。「地名由来は不明であるが、古くからの名で、おそらくを代表するような柿ノ木があったことから呼ばれたのであろう。」と、杉並区の運営するサイト「すぎなみ学倶楽部」内「杉並の地名 文化財シリーズ19から」は書いています。

 

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    ・ 井草川遊歩道  環八通りの一つ手前の通りを越えます。杉並区成立に際し、この通りが柿木町と神戸町の境となり、柿木の範囲が狭まりました。

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    ・ 井草川遊歩道  上掲写真からワンブロック、60mほどで環八通りを越えます。といっても、環八の本線は地下の井荻トンネルで、正面に写っているのは井荻陸橋です。 

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    ・ 環八通り  井荻陸橋を南側から写しており、陸橋右手が井荻駅です。なお、現在の井荻陸橋は側道通行車両が西武新宿線を越えるのに利用しています。   

 <柿木橋と環八通り>  矢頭橋のところでも引用した「東京府志料」の橋梁リストにある、「土橋二 下井草村ニアリ一ハ谷頭橋一ハ柿木橋各長二間幅一間」中の、柿木橋についてです。→ 「東京近傍図」で見ると、環八通りと一部重なる旧道に橋が架かっていて、場所、橋名からして、これが柿木橋と思われます。この通りは区画整理時に直線化され、昭和2年(1927年)に井荻駅が開業、その駅前にあることから、いつしか駅前橋と呼ばれるようになります。また、神戸(ごうど)橋と呼ばれた時期もあるようですが、杉並区成立以降、当所が神戸町となったためと思われます。
 なお、この区間の環八通りは昭和50年代後半に四面道、新青梅街道間が開通しますが、西武線とは踏切での平面交差が長く続き、いわゆる開かずの踏切として、都内有数の交通渋滞の原因となっていました。その解消のため、早稲田通り、西武新宿線、新青梅街道、千川通りを一挙に越える、井荻トンネルが計画されました。踏切の渋滞をとりあえず緩和すべく、上下一車線の井荻陸橋が先行して建設され、平成9年のトンネル開通後は側道通行車両が利用しています。

 


西武新宿線2

2015-11-28 07:02:44 | 妙正寺川1

 井草川遊歩道に戻ります。矢頭橋の先で徐々に右カーブ、やがて南下に転じ、再び西武新宿線を越えその南側に戻ります。ここでの西武線の鉄橋は「第5妙正寺川橋梁」と名付けられていて、妙正寺川に架かっている扱いです。ちなみに、高田馬場からここまで、西武新宿線と妙正寺川がクロスするのは三か所で、だとしたらここは第4橋梁のはずですが、妙正寺川が神田川に合流する手前にあった第1橋梁は、昭和50年代の合流地点の改修に伴い廃止され、他の橋の数字はそのままになったようです。

 

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    ・ 井草川遊歩道  (おそらく)矢頭下橋で遊歩道は中断します。正面の茂みの向こうが下掲写真のスペースで、その先で西武新宿線を越えます。

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    ・ 西武線手前  ここも涸れ川のまま残されていて、往時の面影をしのぶことができます。(写真は数年前に撮影したもので、現在は雑草がより繁茂しているので、このようには見通せません。) 

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    ・ 西武新宿線  南側にある柿木北公園から振り返っての撮影です。手前右手に「第5妙正寺川橋梁」と書かれたプレートが立っています。   

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    ・ 井草川遊歩道  西武線を越え柿木北公園先で、遊歩道は再度復活します。今度は左カーブで東に向かい、環八通りまであと200mほどです。

井草森公園

2015-11-27 08:02:25 | 妙正寺川1

 井草川のUターン部分の左岸台上には、杉並区最大の面積を有する井草森公園があります。一帯は、井草村の領主だった今川氏の御用野菜を栽培していて、御菜園跡との通称が昭和初期まで残っていたそうです。また、柿ノ木山とか遅ノ井山とかも呼ばれ、豊多摩郡井荻村(井荻町)時代は、大字上井草の飛地で、小字柿ノ木山だったところです。昭和14年(1939年)以来、商工省機械試験所(のち通産省機械技術研究所)の敷地となっていましたが、研究所が筑波に移転後の跡地を利用して、平成8年(1996年)に井草森公園が開園しました。面積は39500㎡余り、サッカーやラグビーのできる天然芝のグランドを併設しています。なお、隣接して設けられていた不燃ごみ圧縮施設(杉並中継所)は、周辺住民の健康被害(「杉並病」)の要因ともいわれていましたが、ゴミ分別の徹底による不燃ごみの減少もあり、平成21年3月をもって廃止されました。

 

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    ・ 井草森公園  その南側ゲートです。井草川遊歩道のUターンの区画から、緩やかな坂を上って100mほどのところにあります。

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    ・ 井草森公園  貯水槽や災害備蓄倉庫も用意され、災害時は避難所となるスペースで、ゲートシャワー、スプリンクラーなどの放水装置も完備し、周囲の樹木は防火林の機能を兼ねています。 

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    ・ 井草森公園  (上掲写真右手奥に当たる)公園の東側の茂みの陰には、回遊式の泉水や東屋など、日本庭園風の一角があり、他のスペースとは違った癒し空間となっています。

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    ・ 井草森公園  公園の北西角の「花の丘」と称する区画です。菜の花やヒマワリ、キバナコスモスなど、四季の花が咲き乱れます。(写真は数年前の夏撮影したキバナコスモスです。)

矢頭2

2015-11-26 07:01:58 | 妙正寺川1

 矢頭上橋の次は矢頭橋です。「東京府志料 / 巻之六」には井草川に架かる橋のリストがあり、そのなかに「土橋二 下井草村ニアリ一ハ谷頭橋一ハ柿木橋各長二間幅一間」と書かれています。この谷頭橋が矢頭橋だと思われます。豊多摩郡井荻町当時の地図を見ると、この橋の架かる道が上井草、下井草の二つの大字の境になっていて、かってはこの付近に上下井草村の村境があり、橋は下井草村に属していたのでしょう。→ 「東京近傍図」で見ると、丁度Uターンの頂点で流域を二分していることになり、それなりに納得できる村境の設定ではあります。 

 

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    ・ 井草川遊歩道  矢頭上橋を過ぎて右カーブ、東に向かって100m弱のところで、ここに矢頭橋が架かっていました。

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    ・ 井草川遊歩道  矢頭橋の先で右カーブ、ここがUターンの頂点です。左手の車止めは前回の左岸流の→ 合流地点のものです。

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    ・ 矢頭公園  右岸沿いに設けられた区立の公園です。矢頭橋からこの公園にかけて、井草川はその流域中、最も北を流れていました。

 <谷頭と矢頭>  矢頭と同じ読みである江戸時代の小名、谷頭との異同の問題です。「新編武蔵風土記稿」は「谷頭 北の方にて、竹下新田の堺にあり」としており、また寛政6年「星野家文書」の「谷頭口」の位置からも、井草川谷頭から離れ、下石神井村と境を接するこの矢頭とはずれが生じています。豊多摩郡井荻村(のち井荻町)の時代、谷頭からUターン部分までの井草川左岸は、大字上井草及び大字下井草にまたがって、広く小字谷頭だったことがあり、本来の谷頭から離れたUターン部分のみに、その地名が表記を変えて残ったものと思われます。
 なお、矢頭の地名由来ついては、上記の地形由来の谷頭説以外にも、これまでもたびたび出てきた道灌伝承との関係で、石神井城を攻略する際、矢合戦の先陣を切った場所といった、歴史由来の解釈も考えられます。うがった見方をすれば、そのような連想を期待して、昭和7年(1932年)の新町名制定時に、「矢」の字を採用したのかもしれません。


矢頭

2015-11-25 06:59:39 | 妙正寺川1

 井草川は北上して西武新宿線を一旦越え、すぐにUターンしてその南側に戻ります。Uの字といっても、底が300mほどある幅広のUの字を天地逆にした形ですが、その底の部分一帯から(旧下石神井村と境を接する)千川通りにかけては、昭和7年(1932年)の区制施行に伴い、杉並区矢頭(やがしら)町となったところです。現行の住居表示では失われましたが、井草川遊歩道には前回最後の矢頭上橋をはじめ、矢頭橋、矢頭中橋、矢頭下橋とフルメンバーで並び、また沿道の区立公園の名前にも残っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 矢頭上橋と矢頭橋の間で、左手に車止め付きの路地が分岐しています。

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    2. ワンブロックで右折、右写真の道路の左手が幅広になっていて、水路を含んでいるのだと分かります。 

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    3. 100mもいかないところで、道幅が変わります。右手に路地があり、ここで右折です。 

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    4. 井草川遊歩道に戻ります。この水路も「区画整理後路線図」に明記されています。  

西武新宿線

2015-11-24 07:51:15 | 妙正寺川1

 井草川遊歩道は四宮森公園前で左カーブして北上、すぐに西武新宿線と直交します。→ 「東京近傍図」の流路のままなら、斜めに横切るところで、最短距離で越えるよう付替えたものと思われます。鉄道とクロスする際、クランクに付替えるのは、これまでも度々遭遇してきたところです。ところで、西武新宿線は始発の新宿駅以降、ここまでに5度妙正寺川(井草川)と交差していますが、同水系とはここが最後で、次は上井草駅先の→ 千川上水橋梁、そして武蔵関駅先の→ 石神井川橋梁と続きます。

 

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    ・ 井草川遊歩道  四宮森公園前で左カーブした直後、西武新宿線手前で中断します。なお、→ 「区画整理後路線図」では、この左手から左岸流が合流しています。

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    ・ 西武新宿線  鉄橋の下には涸れ川が残され、暗渠化される以前そのままの雰囲気です。(写真は数年前に撮影したもので、現在はここまで近寄れません。)

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    ・ 西武新宿線  井荻駅よりの踏切から上井草駅方面のショットです。黄色く塗られた部分が鉄橋で、そこから上井草駅にかけて、緩やかに上っているのが分ります。

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    ・ 矢頭上橋  西武新宿線を越えた先の最初の橋です。ここで遊歩道は復活、すぐに右カーブして東に向かい、井草川の最北端の区画に差し掛かります。

四宮森公園

2015-11-21 12:08:45 | 妙正寺川1

 前回の最後の橋は四宮上橋でした。→ 「区画整理後路線図」に点線で書き込まれているように、横切る通りが当時の杉並区上井草町と同四宮町の境となっており、ここから四宮中橋、四宮下橋と続きます。なお、四宮(しのみや)も一帯の字ですが、「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」に記載はなく、明治22年(1889年)成立の井荻村(のち井荻町)大字下井草の小字でした。下井草村の最西部と一部上井草村を含んでおり、ということは、そろそろ上井草村と下井草村の境に差し掛かることになります。現在の住居表示では上下井草の境は環八通りですが、元は→ 「東京近傍図」にオレンジ細線で書き込んだように、その数百メートル西寄りにあったわけです。

 

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    ・ 井草川遊歩道  三度目の左カーブで北上する途中に、四宮中橋が架かっています。左手のプレートには「四の宮中橋 昭和36年11月」と書かれており、日付の入っているのはここだけです。

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    ・ 井草川遊歩道  次の右カーブの先に架かる(おそらく)四宮下橋です。→ こちらは右岸段丘上からのショットで、坂下から突き当りの西武新宿線までが田圃の範囲でした。

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    ・ 井草川遊歩道  四宮森公園前で四度目の左カーブ、すぐに西武新宿線と直交します。なお、右岸流はこの左カーブで本流に戻っていました。

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    ・ 四宮森公園  右岸段丘の起伏を利用した設計で、斜面を流れ落ちるせせらぎや、段丘下に設けられた池が特徴です。井草川の暗渠化や遊歩道整備と同時期の、昭和55年(1980年)開園です。

区画整理後路線図2

2015-11-20 07:13:26 | 妙正寺川1

 井荻町土地区画整理組合による「区画整理後路線図」に基づき、瀬戸原下橋から西武新宿線に至る区画の側流を復元する作業の二回目です。この区画は規模は小さいながら、谷頭(西山田圃)に次いで、流域に水田を有していました。水田を描く下掲「昭和4年測図」と、前回UPの→ 「路線図」を比べると、水田の縁に沿って側流を整備したことが見て取れます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。(「区画整理後路線図」ともほぼ同じです。)

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    1. 左岸を流れる二本の水路のうち中央のものは、水路プラス道路だったため、現況の通りも幅広です。

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    2. 遊歩道のほぼ中央で、左手に向かう路地があり、途中車止めが見えています。 

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    3. 向山公園の前で、段丘際を流れていた左岸流跡の道路と合流します。 

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    4. 本流に架かっていた(おそらく)四宮上橋です。右写真は右岸からのショットで、道路左手が水路を含んで広くなっています。  

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    5. 左岸流はここで北に向かい、すぐに右折していましたが、そこから先は重なる道路はありません。 

区画整理後路線図

2015-11-19 07:41:11 | 妙正寺川1

 今日たどることのできる井草川の流路は、大正末から昭和の初めにかけて行われた、井荻町土地区画整理事業による改修の結果で、本流に関しては井草川遊歩道として整備、保存されています。当時は灌漑用水として機能していたため、水田のあるところは側流も整備されましたが、こちらのほうは一般の道路に紛れたり、住宅地の一部になったりで、現況だけから側流をたどるのは容易ではありません。ただ、井荻町土地区画整理組合が事業の成果をまとめた、昭和10年(1935年)発行の小冊子があり、その中に工区ごとの区画整理後の道路、水路状況を記した路線図が収録されています。これを現況と照らし合わせることで、全体像を復元することが可能です。

 

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    ・ 「区画整理後路線図」  左下隅の瀬戸原橋から右上隅で西武新宿線を越えるまでの、谷頭の西山田圃に次いで、本流以外に複雑な水路網を有する区画です。

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    ・ 井草川遊歩道  瀬戸原橋の次が瀬戸原中橋、その次の瀬戸原下橋の架かっていたところです。ここで左右に側流を分けていました。

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    ・ 連絡水路跡  右岸流から遊歩道(中央やや右手の茂み)を挟んで、左岸流までを見通しています。通り右手が幅広になっているのに注目で、連絡水路跡を含んでのことです。

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    ・ 右岸流跡  上掲写真の右手から始まり50mほど続く路地があり、その先には→ 車止めが付いています。「路線図」ではあとワンブロックありますが、現況の水路跡はここまでです。

井草川遊歩道3

2015-11-18 08:16:29 | 妙正寺川1

 「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)には、上井草村(遅野井村)絵図が二枚収録されています。そのどちらにも、井草川に架かる橋は四か所描かれていますが、うち谷頭口(新町口)からの分水直後の青梅街道に架かる、「東京府志料」では新町橋となっているもの、及び現切通し公園前のものを除くと、本来の井草川に架かるのは二か所ということになります。これは→ 「東京近傍図」でも同様で、(名前は書かれていませんが)道灌橋と今回テーマの瀬戸原橋の場所に当たるものです。ただし、区画整理の結果、特に瀬戸原橋の位置はだいぶずれ、通りを観泉寺前から上井草駅の東口に向かって真直ぐにしたため、「近傍図」中央のクランクの手前にあったものが抜けた後に移動しています。なお瀬戸原は一帯の字で、「新編武蔵風土記稿」にも、「瀬戸原 これも北の方にて、下石神井村界によれり」と書かれています。瀬戸は狭い海峡、転じて内陸でも狭い谷あいを指すので、地形由来のネーミングと思われます。

 

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    ・ 井草川遊歩道  前回の最後にUPした瀬戸原上橋(眼鏡橋)から、北に80mほどのところです。遊歩道は今度は右カーブで東に向きを転じます。

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    ・ 瀬戸原橋  前を横切るのは荻窪駅、青梅街道から觀泉寺前を通り上井草駅の東口に向かうバス通りで、その井草中バス停が見えています。

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    ・ 瀬戸原橋  旧井草川と書かれたこの種のモニュメントは、井草川遊歩道中、瀬戸原橋の前後の二ヶ所のみです。

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    ・ 瀬戸原中橋  瀬戸原橋の先で左カーブ、再び北上する井草川遊歩道に架かる橋です。その先で右カーブすると、今度は瀬戸原下橋になります。

井草川遊歩道2

2015-11-17 09:11:15 | 妙正寺川1

 昨日UPの→ 「空中写真」にも写っていますが、上井草球場(現上井草スポーツセンター)周辺の道路は碁盤の目状に整備され、そこまでほぼ直線で東に向かっていた井草川は、球場の東南で北に向きを変え蛇行しながら北上しています。蛇行とはいっても各々の区間は道路と並行しており、むしろクランクを重ねながら北上している、といったほうがいいかもしれません。本来の流路を描いていると思われる、→ 「東京近傍図」と比べてみると、人工的に改修されたのは明らかで、ここに大正末から昭和の初めにかけて行われた、井荻町の土地区画整理事業の成果が読み取れます。

 

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    ・ 井草川遊歩道  → 左手に上瀬戸公園や防災備蓄倉庫のある一角です。区画整理時、三谷小学校からここまで、二百数十メートルの側流が設けられました。

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    ・ 井草川遊歩道  「東京近傍図」のほぼ中央で、東から北に向きを変えているところです。ここから左折、右折のクランクが連続、全体として東北に向かいます。

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    ・ 瀬戸原上橋  上掲写真の左折の先です。瀬戸原上橋は眼鏡橋とも呼ばれていました。コンクリートヒューム管を利用していたため、その丸い形状からの名前です。

 <井荻町土地区画整理事業>  井荻町は明治22年(1889年)、上下井草村及び上下荻窪村の四村が統合、東多摩郡(のち豊多摩郡)井荻村として成立しました。大正15年(1926年)井荻町となった前後から、関東大震災後の急激な市街地化に対応して、土地区画整理事業に取り組みます。総面積888町歩(888ha)に及ぶ区域を対象に、道路、水路の改修、農地の宅地化はもとより、善福寺池畔の地下水を水源に、独自の水道を開発するなど、近隣の土地区画整理事業のなかでも突出した規模、内容を有していました。ちなみに、やや遅れて開始された江古田川流域の区画整理事業は、中村、中新井、江古田と個別に行われ、各々数十町歩規模となっています。なお、森泰樹「杉並風土記」によると、前回テーマの上井草球場の敷地も、西武線の駅の増設と引き換えに、地域発展の公共事業への使用を条件に、組合から西武鉄道に提供されたものだそうで、結果当初の井荻駅のほか、上井草駅、下井草駅の三駅が開設されました。

 


上井草球場

2015-11-16 07:05:50 | 妙正寺川1

 昭和11年(1936年)、かって道灌山とか向山とか呼ばれた深い山林で、崖には豊島方の落武者が隠れたとの伝承もある横穴のあった井草川左岸の台上に、プロ野球「東京セネタース」の本拠地グランドとして、セネタースに出資していた西武鉄道により、東京球場(のち上井草球場)が建設されます。鉄道プラス球場によって都市近郊を開発しようとの、現代にも通ずるプロジェクトの先駆でもあります。両翼100.6m、中堅118.9m、収容人数29500人(戦後拡張され45500人)、入場料は高田馬場から上井草までの西武線の運賃込みで50銭だったと、球場跡地にある上井草スポーツセンターに展示された解説パネル「上井草スポーツセンターの歴史」は述べています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  戦争中はグランドに穴を掘り、資材や油缶などの貯蔵倉庫となっていた球場ですが、終戦の年には全国の球場中もっとも早く復興し、区民野球大会なども開催されたそうです。

 ただ、翌昭和12年には後楽園球場ができたため、交通の便で及ばない上井草球場の公式戦は徐々に減り、昭和25年に設立されたパリーグの試合が最後となりました。もっとも、戦後しばらくは神宮球場が米軍に接収されていたため、東京六大学リーグや高校野球は盛んに行われたようです。昭和30年代には、朝霞から送水される利根川水系の水道水を貯水するため、上井草給水所配水池が建設され、上井草球場の歴史は幕を閉じました。現在は配水池上に野球場4面を有する人工芝のグランド、体育館、温水プールなどが建設され、杉並区の総合スポーツセンターになっています。

 

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    ・ 井草川遊歩道  三谷小学校を過ぎたところから、左岸台上方面のショットです。台上左手に見える茂みが井草中学キャンパス、上井草スポーツセンターはその奥に当たります。

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    ・ 上井草スポーツセンター  井草中交差点からのショットで、奥の黄色いドームが温水プール、左手のフェンスは人工芝グランドのものですが、その外周は650mのジョギングコースです。

井草川遊歩道

2015-11-14 07:22:16 | 妙正寺川1

 三谷公園に戻って、井草川遊歩道のウォーク&ウォッチ開始です。妙正寺公園の終点までおよそ3.2km、途中、西武新宿線を行き来する二か所と、環七を越える一か所を除いて、地図にも明記された緑道が連続します。ところで、井草川がこのように姿を変えるまでには、二度の大きな改修を経ています。大正末から昭和の初めにかけて、東京近郊の宅地整備の画期となった井荻町の土地区画整理事業、そして、昭和56年(1981年)までに完了した暗渠化で、結果、地下の一部は下水道妙正寺上幹線となり、地上は現在の井草川遊歩道となりました。

 

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    ・ 井草川遊歩道  三谷公園の起点から120mほどのところで、ここに→ 「東京近傍図」にも描かれた最初の橋が架かっていました。道潅橋と通称されるものです。

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    ・ 井草川遊歩道  上掲写真のすぐ先です。左手は道潅橋公園、右手の茂みの中には石橋の石材、四本中の一本で作られた道潅橋跡の→ 石碑があります。

 <道潅橋>  なぜ道灌橋かというと、橋の架かっていた通りを北上すると、2kmほどで三宝寺池に出ますが、池畔の石神井城に拠る豊島氏を攻略すべく、太田道灌がこの付近に陣を構えたとの伝承があるためで、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると右岸台上にある道潅公園周辺には、幕陣という通称地名が、昭和30年ころまで残されていました。また、青梅街道沿いにある荻窪八幡まで、直線で1kmに満たない距離ですが、その境内には必勝を祈願して植えたと伝えられる、樹齢数百年の道潅槙があります。( → 「千川用水2 / 上荻窪村境」

 

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    ・ 道灌坂  右岸に上る道潅坂の中腹から井草川緑道を見下ろしています。右手の茂みは三谷小学校キャンパス、道潅公園は後方200m弱のところにあります。

西山田圃左岸3

2015-11-13 07:06:02 | 妙正寺川1

 西山田圃にかかわる水路めぐりの最後で、左岸の支谷頭から合流する水路をさかのぼります。→ 「段彩陰影図」にも描かれていますが、谷筋の先端は千川上水にまで達しています。この谷筋を越えるために、千川上水は築樋(つきどい)という工夫をしており、→ 「千川用水3 / 築樋2」で扱いました。文献上の分水ではありませんが、あるいはその漏水が流れ込んでいた可能性もあります。また、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)中の杉並の湧水リストに、「西山邸の池 上井草4-26」があります。この住所は、谷頭の二本の水路のうち北側のの先にあたり、この湧水も水源だったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後で左折したあと、ワンブロック先に車止め付きの路地が顔を見せています。 

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    2. すぐ右折、かさ上げされた道路を越えます。その先で今度は左折します。 

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    3. コンクリート蓋の残る区画の先で、右手からの合流があります。右写真の通りの左手が水路分広くなっています。

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    4. 幅広の道路はワンブロック、100mほどで終了します。その先が上井草4-26です。

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    5. 左手の路地の最後の車止めです。杉並区と練馬区の境にあり、千川通りまで300m弱のところです。

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2015-11-12 07:34:11 | 妙正寺川1

 西山田圃の左岸をめぐる分流の続きです。杉並工高キャンパスでの中断のあと、車止め付きの路地が復活したところからで、三谷公園先で井草川緑道に合流するまで、200m弱迷うことなくたどることができます。この分流の特徴は途中、左岸からの合流があることで、→ 「段彩陰影図」からも読み取れる支谷筋にかかわるものです。→ 「東京近傍図」を見ても、西山田圃は左岸に突き出しており、そこに水路の合流のあることは容易に想像できます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. ここで左手からの合流がありますが、とりあえずそのまま東に向い、すぐに右折です。

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    2. 細かく蛇行しながら井草川緑道に向かいます。 

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    3. 井草川緑道に合流します。数回前にUPした緑道側からの写真は→ こちらでどうぞ。 

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    4. 1.に戻り北から合流する水路を追います。50mほどで道幅が狭くなったところで左折します。なお、この間の水路は道路左手を並行していました。