赤坂通りを越えてワンブロック、120mほどで田町五、六丁目の境です。もっとも、江戸時代の田町は五丁目までだったので、明治に入り、七丁目まで拡張したあとの話ですが。その五、六丁目の境に右岸から下水の合流がありました。→ 「段彩陰影図」の描く、外苑東通り付近の三つの谷頭から発し、途中合流して溜池に向かう谷筋にかかわるものです。とくに〇〇川の名称はありませんが、自然河川がベースになっているのは間違いありません。正保年間(1644~48年)までに町屋となった赤坂田町や、承応(1652~55年)以降、流域を造成して武家地とした赤坂築地の成立に伴い、大下水化したものと思われます。
- ・ 「明暦江戸大絵図」 明暦3年(1657年)の大火後成立とされる「明暦江戸大絵図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、書き込みの大半は省略しています。なお、グレー(原図ではピンク)は町屋、薄いブルーは明地で、「段彩陰影図」の描く谷筋と重なります。
- ・ 浅野家中屋敷跡 谷筋の左岸台上にある安芸広島藩浅野家中屋敷跡地には、TBS放送センター(ビックハット)が立っています。坂下の通りは赤坂通りです。
- ・ 毛利家下屋敷跡 南側の谷頭を望む長門萩藩毛利家下屋敷は、檜屋敷と通称されていました。現在は檜町公園や後方の東京ミッドタウン(防衛庁跡地)となっています。
|