神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

田町五、六丁目境

2014-10-14 06:24:00 | 城西の堀川3

 赤坂通りを越えてワンブロック、120mほどで田町五、六丁目の境です。もっとも、江戸時代の田町は五丁目までだったので、明治に入り、七丁目まで拡張したあとの話ですが。その五、六丁目の境に右岸から下水の合流がありました。→ 「段彩陰影図」の描く、外苑東通り付近の三つの谷頭から発し、途中合流して溜池に向かう谷筋にかかわるものです。とくに〇〇川の名称はありませんが、自然河川がベースになっているのは間違いありません。正保年間(1644~48年)までに町屋となった赤坂田町や、承応(1652~55年)以降、流域を造成して武家地とした赤坂築地の成立に伴い、大下水化したものと思われます。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火後成立とされる「明暦江戸大絵図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、書き込みの大半は省略しています。なお、グレー(原図ではピンク)は町屋、薄いブルーは明地で、「段彩陰影図」の描く谷筋と重なります。

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    ・ 浅野家中屋敷跡  谷筋の左岸台上にある安芸広島藩浅野家中屋敷跡地には、TBS放送センター(ビックハット)が立っています。坂下の通りは赤坂通りです。

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    ・ 毛利家下屋敷跡  南側の谷頭を望む長門萩藩毛利家下屋敷は、檜屋敷と通称されていました。現在は檜町公園や後方の東京ミッドタウン(防衛庁跡地)となっています。

 <「寛永図」と「明暦図」>  上掲「明暦図」では、今回テーマの下水は溜池西岸に沿う大下水(赤坂川)に合流していますが、寛永19年(1642年)頃とされる「寛永江戸全図」では、大下水はなく直接溜池に注ぐよう描かれています。→ 同図では鮫川も弁慶堀に流れ込んでおり、大下水が整備され鮫川、大刀洗川、そして今回の下水がそこに流れ込むよう付替えられたのは、寛永19年から明暦3年までの十数年間のことと推測できます。赤坂田町の成立がその間の年号である正保であることを考えると、同町の起立と連動していたのは間違いないところです。

 


田町三、四丁目

2014-10-11 06:51:18 | 城西の堀川3

 大下水(赤坂川)に戻り、外堀通りの一つ西側の通りを南下します。江戸時代、右手は田町三丁目から四丁目にかけてで、左手は溜池端まで長二百五十間幅五間の明地でした。「明地 赤坂御門外より、溜池御堀に添て、葵坂の上まで打続けり、御普請方の持場にて、松平備前守、松平肥前守等の御預り地なり、宝暦十年(1760年)備前守御預り内田町一丁目より四丁目まで、長弐百五十間幅大下水より御堀の方へ五間通り合千四百坪、伝馬町田町紺屋合羽屋の願に依て、物干場と成り、明和七年(1770年)同所表伝馬町一丁目向弐百七十坪の地も、物干場増地になし給ふと云、」(「御府内備考」)

 

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    ・ 田町三、四丁目境  下水(大刀洗川)の合流があった二、三丁目境からワンブロック、120mほどで、各丁の長さはおおむね同様です。

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    ・ 田町三、四丁目境  外堀通り方向で、その先に日枝神社の北側の鳥居が見えています。明治9年(1876年)、溜池最初の橋(日吉橋)が架けられたところです。

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    ・ 田町四、五丁目境  赤坂通りを越えます。右手に向うと、乃木坂を経て外苑東通りへと至る通りです。

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    ・ 田町四、五丁目境  外堀通りの山王下交差点方向で、日枝神社の大鳥居が見えています。

谷頭付近

2014-10-10 06:41:42 | 城西の堀川3

 「御府内備考」は大刀洗川の水源に関し、「妻木彦右衛門様屋舗より流出」と書いていました。切絵図を現在の地図に重ねてみると、三千四百石の旗本、妻木家の屋敷のあったのは、コロンビア通りと青山通りに挟まれた現山脇学園キャンパスあたりで、→ 「段彩陰影図」の示す青山通り沿いの谷頭のやや手前です。なお、「御府内備考」は妻木家屋敷について、別の個所でこう書いています。「千代姫君御下屋敷跡も、一ツ木の内なり、二ヶ所有しと、今の妻木氏の屋敷、井上氏の屋敷なとその所なりと、」 千代姫は三代家光の長女で、尾張藩二代藩主光友に嫁ぎました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 山脇学園キャンパス  手前がコロンビア通り、左手奥の高層ビルは、谷頭付近にある赤坂ガーデンシティやパークコート赤坂です。

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    ・ 谷頭付近  上掲写真の二つの高層ビルの間の通りです。「実測図」の描く池はこの右手にありましたが、明治末の地図からは消えています。

 <薬研坂>  「薬研坂 青山の方へ行手の坂なり、形薬研に似たれはとてかくいふなり、また何右衛門坂ともいへり」(「御府内備考」) この坂のある通りが、江戸時代は赤坂と青山の境となっていましたが、現在は西に500mほどの外苑東通りで分けています。なお、薬研(やげん)というは、漢方薬を作る時、材料を細かくすりつぶす道具で、小舟型のすり鉢とハンドル付車輪のようなローラーでワンセットです。そのすり鉢の底の断面がV字なことから、同様な断面をもつものが薬研堀とか薬研坂とか呼ばれました。

 

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    ・ 薬研坂  上掲写真の坂上を横から見たところで、正面は青山通り、その奥の茂みは赤坂御用地のものです。

円通寺坂

2014-10-09 06:51:22 | 城西の堀川3

 大刀洗川の右岸に沿う通りが円通寺通りで、西に向うと円通寺坂の上りに差し掛かります。坂の中腹にある仏智山円通寺がその名の由来ですが、それ以前に同名の寺院があったともいわれています。「円通寺坂 赤坂の内。円通寺と云日蓮宗の寺あり。門内の大鐘は、むかし円通坊といふ沙門、此鐘を建立し寺と成ける所に破壊(はゐ)したり。今の日蓮宗の寺は四谷にありて何寺とかやいひけるが、鐘の旧蹟あるにより合体し円通寺となして一寺とす。」(「続江戸砂子」) 同書は続けて「黒鍬谷 円通寺坂の下の谷、組やしき也。」と書いています。なお、円通寺は当初、赤坂一帯の時の鐘を任されていましたが、時の鐘はのち田町にあった成満寺に移転しています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 一木弁天 龍泉寺 松泉寺 専修寺」  龍泉寺前の通りが一ツ木通り、松泉寺寺前の通りが円通寺通りで、円通寺坂の上りに差し掛かるところです。二つの通りの交差する角、源氏雲のところに浄土寺が、専修寺奥に円通寺があるはずですが、残念ながら描かれていません。

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    ・ 円通寺通り  円通寺坂の上りに差し掛かるところです。左手に港区設置の解説標識があり、「元禄八年(一六九五)に付近から坂上南側に移転してきた寺院の名称をとった」としています。

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    ・ 仏智山円通寺  「寛文図」には百数十メートル南の三分坂上に、「エンツウジ時のかねつく」の書き込みがあり、三分坂上が旧地だったようです。

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    ・ 円通寺坂公園  坂の南側の段丘斜面にある公園から、大刀洗川の谷筋(黒鍬谷)を見下ろしています。対岸は青山通り沿いの建物です。

 

 

 


黒鍬谷

2014-10-08 06:50:07 | 城西の堀川3

 浄土寺境内の北縁を流れていた下水を追って、西に向かいます。浄土寺から先の谷筋は明らかですが、底を縦断する道路が断片的なため、左右の道を行ったり来たりしながらのウォーク&ウォッチとなります。谷筋の底には、側溝跡を思わせる個所もありますが、これも断片的なため、いつもの青点線は書き込んでいません。ところで、この谷筋は黒鍬谷と呼ばれていました。「右町(新町三丁目)前組屋舗ヲ一円ニ黒鍬谷と唱申候右者同御組屋舗有之候ニ付唱来候と奉存候」(「御府内備考」) 黒鍬(くろくわ)というのは陣地構築などを担う工兵のことで、その大縄地(公務員住宅)があったことからのネーミングです。谷筋を造成し〇〇大縄地とするパターンは、これまでもたびたび遭遇してきました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 浄土寺境内北縁の延長上にある道路です。右写真は右岸の円通寺通りから写したもので、谷筋は明らかです。 

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    2. 左岸のコロンビア通りからのショットです。日本コロムビアの本社ビルがあったことからの通称ですが、現在は虎ノ門に移転しています。

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    3. 「実測図」の水路の起点です。その先にも谷筋の底の道路はありますが、水路があったかは不明です。

赤坂新町

2014-10-07 06:37:36 | 城西の堀川3

 みすじ通りと一ツ木通りの間の町屋が赤坂新町でした。五丁目までありましたが、通りの間に挟まれていたのは一丁目から三丁目までで、寛永17、8年(1640、41年)頃、武家方に給付され、一丁目は延宝元年(1673年)、二、三丁目は元禄9年(1696年)に町奉行支配となりました。赤坂田町などより後の成立であることが、その名の由来と思われます。以下はそのうちの新町二丁目の下水に関する、「御府内備考」の記述です。「下水 幅三尺五寸 右町内西之方一ツ木町浄土寺境より東之方田町御堀端明地内大下水え流レ落申候」

 

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    ・ 一ツ木通り   赤坂見附方向のショットで、右手が江戸時代の赤坂新町二丁目、左手前が浄土寺門前、奥が一ツ木町です。浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。

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    ・ 浄土寺門前  「平河山(へいかさん)浄土寺 昔は御城内平河口の辺にありしを、元亀3年(1572年)今の地に移されしと云。」(「江戸名所図会」)

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    ・ 浄土寺境内  本堂前には享保4年(1719年)作成の地蔵菩薩坐像が祀られています。例の「江戸六地蔵」と同じく、地蔵坊正元の勧進、鋳物師は太田正義ですが、六地蔵には数えられていません。

 <大刀洗川>  冒頭で引用した新町二丁目の書上の続です。「尤(もっとも)横切ニ而水源之儀者妻木彦右衛門様屋舗内より流出申候右者年代不知梶原源太景季鎌倉より奥州え通り候節景季右川ヲ渡り水中え帯候太刀ヲ落シ候ニ付居候者之内ニ而取上ヨゴレヲ洗ひ候由ニ御座候右ニ付其頃より大刀洗川と申伝候由然ル処追々町屋出来仕而当時者下水ニ相成候得共今以右下水ヲ梶原源太大刀洗川と里俗ニ申伝候」
 梶原景季は鎌倉幕府の有力御家人ですが、木曽義仲の四天王、今井四郎兼平を物語の主人公とする説も、「新選東京名所図会」に収録されています。こちらは赤坂と麻布の間にあった広域地名、今井や、現赤坂サカス付近にあったといわれる、今井城跡とのかかわりが考えられますが、その詳細は該当個所で稿を改めます。

 


田町二、三丁目境

2014-10-06 07:13:14 | 城西の堀川3

 大下水(赤坂川)が田町二丁目と三丁目の境に差し掛かったところで、右岸からの合流がありました。「御府内備考」に収録された田町二丁目の書上には、大下水と共に合流する下水についての記述があります。「下水 幅弐間余 右者町内向御明地内ニ有之委細同所壱丁目より申上候」 「下水 右者町内家前折廻ニ有之同所新町弐丁目より相流同所田町三丁目当町堺より前書大下水え落込申候尤往古者大刀洗川と相唱候由ニ御座候」 なお、明治末の「郵便地図」を見ると、赤坂川に合流していた水路は現外堀通りを越え、東側の改修後の溜池に流れ込むよう付替えられています。そこに架かる橋は明治34年(1901年)に架替えられており、付替えもその頃のことなのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 元は田町二丁目と三丁目の境ですが、現在は同じ赤坂3丁目です。

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    2. 付替え後の外堀通りに向かう水路跡です。通りには中柳堤橋(長10尺幅8間)が架けられていました。

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    3. みすじ通りに突き当たって左折です。この通りの西側には赤坂新町(1~3丁目)がありました。

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    4. すぐに右折して次の一ツ木通りに向かいます。左折以降の流路と重なる道路は不明なので、青点線は書き込んでいません。

赤坂田町

2014-10-04 07:06:14 | 城西の堀川3

 溜池を一通りめぐったところで、赤坂見附交差点まで戻ります。鮫川下流の大下水(赤坂川)の続きです。弁慶堀の南岸沿いを元赤坂町、裏表の伝馬町を流れた大下水は、赤坂見附交差点手前で右折、今度は溜池に沿って南下します。溜池と大下水の間には幅五間の明地が設けられ、埋樋の玉川上水が流れていました。一方、幅二間余の大下水の西側は、赤坂田町(1~5丁目)と呼ばれる町屋でした。その名の通り、元は一ツ木村の田地でしたが、隣接する表裏の伝馬町と同様、赤坂門などの普請時に土置場として利用されたあと、南伝馬町の傳馬役三人に給付され、正保年間(1644~48年)までに町屋として起立したものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    2. 赤坂見附交差点手前で右折します。この右手が表伝馬町一丁目でした。

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    3. エスプラナード赤坂通り(田町通り)の入口で、左手にシフトします。この通りが赤坂田町と明地を隔てていました。

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    4. 左手を並行する通りで、明治の末の地図に赤坂川に代わって登場、ここから六本木通りまで、ほぼ直線で900m弱続きます。

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2014-10-03 06:56:36 | 城西の堀川2

 溜池の終点は現特許庁前に設けられた堰でした。オーバーフロー構造の洗堰で、虎の門へと向かう水の落ちる音から、赤坂のどんどん、溜池のどんどんと通称されました。飯田橋駅前の船河原橋が、どんどん橋と呼ばれたのと同様です。明治に入り、このどんどんが撤去され溜池の干潟化が進行しますが、その詳細は項を改めます。なお、堰の設けられていた左岸には、江戸時代、日向延岡藩内藤家の上屋敷がありましたが、明治6年(1873年)に工学校(同10年工部大学校と改称、東大工学部の前身)が創立されます。その用地確保との関係で堰が撤去されたともいわれています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」と「同 / 三田」の合成で、昨日UPの→ 「1/5000実測図」と同一個所、同一縮尺です。

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    ・ 外堀通り  特許庁前交差点からのショットで、堰のあったのは次の信号の左手です。なお、その先の外堀通りは左カーブしますが、元の外堀は直進した後左折していました。 

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    ・ 外堀通り  堰のあったところを葵坂上から見ています。葵が植えられていたことからそう呼ばれた葵坂は、虎の門外から溜池端への上り坂でしたが、明治に入り削られて坂の面影を失いました。

 <溜池の歴史2>  溜池は赤坂のどんどんによって堰き止められた人造池で、明治初年の「東京府志料」の数字でも、長さ792間(≒1440m)、幅25~107間(45.5~194m)の規模を有していました。それが明治8、9年頃から堰の石垣を2尺ほど取り除いて水を落としたため、昨日UPの「1/5000実測図」のように、干潟を流れる溝川となりました。干潟は宅地造成され、その一部四千坪余が溜池町となったのは明治21年のことです。さらに、東京市区改正事業により、明治末までに溜池の埋立て、造成は完了しました。上掲「明治42年測図」に描かれているのは、この際できた市電の通る現外堀通りと、その東側を並行する水路です。なお、現在の外堀通りの山王下交差点から溜池山王駅までの区画は、埋立てられた水路跡を含んで幅広になっています。

 


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2014-10-02 07:18:38 | 城西の堀川2

 外堀通りを南下して六本木通りとの溜池交差点まで来ました。ここから現特許庁前に設けられた堰(通称赤坂のどんどん)までが、溜池のもっとも幅広な個所で、幕末の切絵図などで左岸にふくれヘチマのように描かれているところです。もっとも、こうなったのは18世紀に入ってからで、当初は→ 「段彩陰影図」にも書き込んだように、左右共にふくれた瓢箪型でした。その経緯は項を改めて詳細します。なお、下掲「1/5000実測図」当時は、溜池の水を落として造成する工事に着手しているため、元の形がよく分からなくなっています。そこで、江戸末の切絵図などを参考に、薄いブルーでその形を重ねてみました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 溜池交差点  外堀通りと六本木通りの交差点で、高架は六本木方面に向かう都心環状線です。手前の三角コーナーにあるのは、平成9年に設けられた「溜池発祥の碑」です。

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    ・ 特許庁前  外堀通り特許庁前交差点から永田町方面です。切絵図で溜池がふくらんで描かれているところで、今でもはっきり分かる低地が左岸に食い込んでいます。

 <溜池の歴史1>  「池の堤に榎の古木二三株あり、是を印の榎と名(なづ)く。昔浅野左京太夫幸長、欽命を奉して此所の水を築止めらる、其臣矢島長雲是を司り、堤成就の後、其功を後世に伝んため印にとて栽けるとなり。」(「江戸名所図会」) 慶長11年(1606年)の天下普請に際してのことで、旧領の甲州の人夫を動員、武田家伝来の土木技術を活用しました。完成後家康は幸長を従えて、赤坂門までの堀をめぐり、その功をねぎらったと伝えられています。
 当初は軍事的な役割と共に、上水機能を有していましたが、玉川上水の開削がなされ、後者の意味がなくなった承応以降、埋立てが始まります。特に大規模なものは18世紀前半の宝永から享保にかけてで、赤坂側のふくらみのところが削られました。当初は水田や畑、のちには(弓の練習用の)大的稽古場や馬場が設けられ、一部紺屋などが製品を干す干場として貸し出されたりします。この埋め立ての際、細長い瓜状に埋め残されたところは、「大溜」と称されますが、これは赤坂川(大下水)の溜池への落ち口でした。 

 


山王坂下

2014-10-01 08:17:52 | 城西の堀川2

 昨日UPの→ 「江戸名所図会」の山王坂下に、水路が描かれ石橋が架かっています。→ 「段彩陰影図」の溜池に左岸から合流する谷筋にかかわるもので、合流の様子は前々回の→ 「1/5000実測図」にも描かれています。同図からは切れますが、山王社下にあったものなど、いくつかの池があり、その湧水が流れ込んでいたのでしょう。なお、下掲の地図に書き込んだ青点線は、明治末の「郵便地図」を参考にしています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 左手の池のあったところは、江戸時代は山王社別当、観理院境内だったところで、今はキャピトルホテル東急が建っています。

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    2. 山王坂下で右折、左折のクランクがあります。

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    3. 左折すると男坂、女坂下に出るところで、正面奥の駐車場になっている区画に池がありました。

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    4. ここは逆に左折、右折のクランクです。江戸時代門前町屋だったところです。

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    5. 三べ坂下です。周囲に和泉岸和田藩岡部家、武蔵岡部藩安部家、和泉伯太藩渡辺家の三つの部(辺)の屋敷があったことが由来です。