神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

薬研堀

2019-12-11 15:45:06 | 平川・外堀4

 「薬研堀 両国橋の南、元矢の倉の入堀なり。昔は横山町辺まで入て、幅も殊に広く、御米蔵の船入川も此堀に続きしと云。今の如く狭められしは、元禄年中御蔵を築地へ移されし後なるべし」(「御府内備考」) 「1/5000実測図」で、両国橋の南に描かれた入堀がそれで、L字の折れ曲がっていた先端は埋立てられ、→ 「江戸名所図会」にも描かれた、二つのブロックからなる町屋(薬研堀埋立地)となりました。なお、薬研は漢方薬を作る時、材料を細かくすりつぶす道具で、小舟型のすり鉢とハンドル付車輪のようなローラーでワンセットです。そのすり鉢の底の断面がV字(ないしU字)なことから、同様の断面を有する堀を薬研堀と呼んだものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 河口は日本橋中学の敷地になっています。ここに架かっていた元柳橋は、前々回UPの→ 「図会」にも描かれています。

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    2. 日本橋中学の北西のブロックで、次のブロックと共にL字の折れ曲がったところに当たります。

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    3. もう一つのブロックを振り返っています。右写真の薬研堀不動ですが、「図会」の場所とはズレており、移転したのでしょう。

 <矢野倉>  「浜町山伏井戸の辺に御蔵とあり。是世に称せる矢野御蔵なり、元禄年中築地本願寺の東、小田原町続の海岸へ転地ありしに、潮風強き地なれば多くふけ米と成し故、幾ほどもなく享保の始、浅草の御蔵地へ合せ移されしと云」(「御府内備考」) 正保年間(1644~48年)、このあたり一帯が谷野の呼ばれていたころ、幕府の米蔵、谷野倉(矢之倉)が設けられました。その入堀が薬研堀で、元禄11年(1698年)、米蔵が築地に移転した後、明和8年(1771年)までに大半が埋立てられますが、河口部分は明治の中頃まで残っていました。