神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

千川通り4

2019-06-29 06:51:23 | 谷端川・小石川3

 江戸時代、戸崎町の隣の町屋は御掃除町でした。「当町の儀は小石川村の内にて伝通院知行五百石の内に御座候処、前々より伝通院並外御方々様御廟所御掃除歩役相勤候に付、寛文三卯年十二月伝通院より公儀え被相願、右御掃除に罷出候拾六人え永代役屋敷に被相渡、町並家作仕右の者住居候に付御掃除町と相唱・・・・御廟所御掃除今以右拾六人にて相勤候」(「御府内備考」) 明治に入り近隣の武家地、御先手組屋敷などと共に掃除町となりました。現在の小石川一丁目の北側にあたる区画です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    2. 無量院の先で右手に蛇行します。その個所が千川通りから半月状にはみ出して残っています。 

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    3. ワンブロックで左カーブ、奥の建物の先の千川通りに戻ります。この先、上掲「実測図」で回し堀とともに水車が描かれています。

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    4. 柳町小入口交差点です。ここに「板橋 長三間半余、幅二間」が架かっていました。「実測図」には「千川橋」とあります。 

極楽水

2019-06-28 06:55:39 | 谷端川・小石川3

 「吉水山宗慶寺  同所三丁ばかり西北にあり。朝覚院と号す、浄土宗にして伝通院に属せり。・・・・相伝ふ、伝通院の了誉上人、応永22年(1415年)乙未此地に至り、隠栖の地を卜し草庵を葺きてこゝに居せらる、側に清泉あり、洛陽の祖跡を追慕し是を吉水と号く、則当寺是なり。・・・・極楽水、境内本堂の前にある井を云、上に屋根を覆ふ、吉水と号くるもの是なり。此辺をすべて極楽水と唱ふるは、此井に依て名とすといへり」(「江戸名所図会」)  

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 宗慶寺極楽水」  門を入って右手を→ 拡大すると、屋根で覆われた井戸に「極楽水」とあります。なお、吹上坂は門前でクランクになっていて、これは→ 「東京近傍図」でも同様です。  

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    ・ 吉水山宗慶寺  当時と違って直線で上る吹上坂の中腹にあって、直接坂に面して建っています。背景の高層マンション辺が松平播磨守上屋敷旧地です。

 一方、「御府内備考」は「町内(橋戸町)里俗極楽水と唱来申候儀は、松平播磨守様御上屋敷内に了誉上人古跡、極楽の井有之候に付唱来候儀と奉存候」と書いていて、極楽水の所在場所は宗慶寺境内なのか、松平播磨守上屋敷なのかは問題です。「御府内備考」は別のところで、「宗慶寺地所の儀は寛文ニ年(1662年)壬寅四月廿九日御用地に被召上、松平播磨守様え同様御拝領地に被下置、宗慶寺は同所吹上下の方え引移、当時字極楽水と相唱候処に罷在候」と書いています。どうやら、元は極楽水=宗慶寺だったものが、湧水の地に松平播磨守の上屋敷ができ、近くに移転した宗慶寺の井戸もまた、極楽水と呼ばれるようになったようです。

 

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    ・ 極楽水跡  高層マンションの敷地内にありますが、通り抜けのできる道が設けられていて、見学可能です。残念ながら湧水を見たことはありません。  

千川通り3

2019-06-27 06:45:39 | 谷端川・小石川3

 小石川沿いに出来た町屋のうち、もっとも北にあるのが橋戸町、石橋を挟んで隣接していたのが戸崎町です。石橋は「長九尺余巾八尺余」の規模で、橋戸町の地頭伝通院の一手持でした。「東京府志料」の橋梁リストでは、「小石川久堅町ニアリ無名板橋ナリ」となっていますが、明治に入り成立した町名から久堅橋と呼ばれるようになります。なお、橋戸町の町名はこの橋に由来します。「町内中程に古来より橋有之候に付橋戸町と相唱候」(「御府内備考」)

 

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    ・ 千川通り  植物園前交差点です。右手に見えるのが吹上坂の上り口で、橋戸町の由来となった石橋が架かっていました。なお、正面右手は共同印刷ですが、→ 「東京近傍図」には池が描かれています。  

 一方、戸崎町の由来に関する興味深い伝承が、やはり「御府内備考」に収録されています。「往古此辺一円沼川に有之、小石川の流此辺の沼水落込、小川町辺え相流候由申伝、白山御殿御取立以後も通船有之、此辺迄は遠浅にて着船不申故・・・・」 以下長くなるので要約すると、数隻の船が白山御殿に向かって舳先を並べ、荷物の積み下ろしをしていた様から、舳先(へさき)町、その後戸崎(とさき)町となったというものです。

 

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    ・ 吹上坂  「坂 長三拾間、幅弐間半、右当町(善仁寺門前)北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より湧吹上水とも申候」(「御府内備考」) 

 一方、右手は新たに開削された播磨坂です。台上の春日通りに至る、意味不明なほどの幅広道路ですが、戦災復興により外苑東通りと結ばれるはずだった、幻の環状3号線の一部として開削されました。坂名は常陸府中藩二万石、松平播磨守によっており、一万六千坪余の上屋敷及び抱え屋敷を有していました。なお、中央分離帯や坂周辺に植えられた150本近い桜並木は、今では区内有数のお花見スポットに成長、→ 「文京さくらまつり」の舞台となっています。

 


小石川植物園

2019-06-26 06:55:28 | 谷端川・小石川3

 網干坂に隣接する左岸段丘には、起伏にとんだ地形を利用した小石川植物園(敷地面積16万㎡余)があります。その歴史は古く、氷川神社や白山神社の鎮座する景勝の地に、五代将軍綱吉がまだ館林藩主だった当時、小石川御殿(白山御殿)を営んだのが承応元年(1652年)、その後幕府直営の大塚にあった薬草園(御薬園)が、護国寺造営に伴い転々としたあと、貞享元年(1684年)には当地に落ち着き、さらに享保7年(1722年)には養生所が併設されました。明治に入り東京大学が設立された際、付属植物園となり今日に至っています。

 

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    ・ 小石川植物園  白山御殿の名残の大泉水です。奥の白山台上には、御薬園当時からの薬用植物が栽培され、また養生所の→ 井戸も残されています。

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    ・ 小石川植物園  網干坂側にある赤い建物は、明治9年(1876年)建築の旧東京医学校本館で、本郷にあったのを移築した国の重要文化財です。

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    ・ 小石川植物園  園内には上掲写真の大泉水をはじめ、大小の沼池が連なっています。その最深部に祀られた次郎稲荷付近からは、湧水が流れ出しているようです。

 御薬園内の大泉水の余水も小石川の水源の一つでした。以下は小石川御薬園と小石川の間にあった町屋、戸崎町に関する「御府内備考」の記述です。「石橋 長三尺、幅弐間程、右当町より北の方御薬園下通武家屋敷角に有之、橋名無御座、御薬園より清水出候下水橋にて、右清水町内前え流大下水え落申候」 ちなみに同じ戸崎町のところで、小石川に関しては次のように述べています。「下水 巾弐間より三間迄 右当町南の方橋戸町境を流、水上は巣鴨村の方より小石川氷川明神下田間を流来、流末は水戸様御屋敷え入、水道橋え落申候、当時此辺にて川名唱不申候得共字の儀は小石川と唱申候」

 


祗園橋(氷川橋)

2019-06-25 06:04:02 | 谷端川・小石川3

 簸川神社のところでUPの→ 「江戸名所図会」の左下隅に、小石川に架かる祗園橋が描かれています。「続江戸砂子」(享保20年 1735年)によると、「七八間の土橋」でした。ただ、「新編武蔵風土記稿」にその名はなく、小石川村のところで「橋二を架す各長二間、一は板橋にて氷川橋と唱へ、一は石橋にて猫股橋と称す」とあるうち、氷川橋のことと思われます。それが、「東京府志料」の橋梁リストでは再び祗園橋となっていて、「板橋長二間半幅四尺 名義詳ナラス」と書かれています。

 

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    ・ 湯立坂  中腹からのショットで、坂下に祇園橋(氷川橋)が架かっていました。左手の茂みは→ 窪町東公園で、坂沿いの細長い公園です。 

 なお、湯立坂の由来に関して、「御府内備考」は「江戸志」を引用しています。「里人の説に、往古はこの坂の下は大河の入江にて、氷川の明神へは河を隔てゝ渡ることを得ず、故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり」  小石川の入江がこのあたりまで食い込んでいたことは、対岸の網干坂や隣町の戸崎町の地名由来ともかかわり、広く伝承されていたようです。(戸崎町の由来については、該当個所で詳細します。)

 

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    ・ 占春園  湯立坂の北側の段丘斜面にある大名庭園で、園の中央を占める池は落英池、架かる橋は折柳橋と呼ばれていました。現在は自然観察園の一部になっています。

 占春園を含む北側一帯一万数千坪は、陸奥守山藩(福島)二万石、松平家(藩祖は水戸光圀の弟)の上屋敷及び抱屋敷でした。明治36年(1903年)、東京高等師範学校の敷地となりましたが、その後身の東京教育大学が筑波に移転してからは、筑波大付属小学校など関連施設を除くと、段丘上の敷地の大半が教育の森公園となっています。一方、千川通りに近い段丘斜面には、その起伏を利用して大名庭園が造られ、占春園と呼ばれました。青山の池田邸、溜池の黒田邸とともに、江戸の三名園の一つとされたとか。現在は附属小学校の自然観察園ですが、一般にも公開されています。


千川通り2

2019-06-24 06:41:40 | 谷端川・小石川3

 猫又坂下を越え、旧小石川村に入った谷端川、これ以降は小石川と呼ぶことにしますが、その流路を追っての二回目で、千川通りの右手にシフトしてからです。右手に移ってから後は、これまでと違い、現行の道路との重なりは断続的なものになります。暗渠化直後は、流路そのままの道路が残されていましたが、戦後一部宅地となって失われたためです。なお、右手にあるのは300mほどの間で、湯立坂下を越え再度千川通りに戻るまでです。そこから先は千川通りとほとんど重なり、通りの左右に水路跡を求めても徒労に終わります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。暗渠化直後の → 「昭和12年第四回修正」を見ると、流路がそのまま道路になっています。

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    1. 千川通りの右側にある道路の途中から再開します。

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    2. 網干坂対岸の湯立坂下に出ます。ここに架かっていた祇園橋(氷川橋)は次回のテーマです。 

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    3. 2.の奥の道路で、すぐに左折して千川通りに出ます。

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    4. 千川通りです。ここから先の流路は、ほとんどこの通りと重なります。

千川通り

2019-06-22 06:21:23 | 谷端川・小石川3

 都道436号線のうち、猫又坂下にあたる千石3丁目交差点から先は、千川通りと通称されています。これは谷端川(小石川)を暗渠化して開通した当時、千川の呼び名が一般化していたため、通りの名前もそう呼ばれるようになったものです。昨日UPした簸川神社に建てられた「千川改修記念碑」もそうですが、例えば一度引用した昭和5年(1930年)の谷端川改修計画においても、「其ノ下流ハ市内ニ入リ千川トナリ、小石川区を経・・・・」というように、小石川区以降を千川と呼んでいます。なお、本物の千川上水を暗渠化したうち、練馬区関町1丁目・豊島区南長崎6丁目間の都道439号線も、千川通りと通称されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 猫又橋の遺構の下の路地から再開します。

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    2. 千川通りとの間に、気になる車止め付きの路地がありますが、水路跡かどうかは不明です。

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    3. → 「東京近傍図」はこの右手に水車マークを描いています。現在も本社のある太田胃散が製薬に使っていたようです。 

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    4. このまま進むと簸川神社下に出ますが、右折して千川通りに出ます。 

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    5. 左折して千川通りに合流、次の信号の先まで右手を並行した後、右折して南側に離れます。

簸川神社

2019-06-21 06:05:38 | 谷端川・小石川3

 「氷川明神社 同所西の方五町ばかりにあり。相伝ふ、孝昭天皇の御宇の鎮座なりと云々。祭神武州大宮の氷川明神に同じ、昔は白山御殿跡の地にありしが、白山権現と共に地を替させられしより、当社は此地に遷る。極楽水宗慶寺の持にして、祭祀は九月十日なり。・・・・当社は千有余年を経る所の宮社にして、八幡太郎義家公奥州下向の時、当社に参籠ありしと云伝ふ。中古荒廃して形ばかり残りしを、伝通院の開山了誉上人、此地の幽遂を愛し庵を結んで聖冏庵(しょうけいあん)と号け、此地に閑居ありし頃、宮居を重修ありしとなり。聖冏庵は本社より右にありて、今は氷川明神の御供所なり」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 氷川明神社 聖冏庵旧跡 祇園橋」  神社下から左下隅の小石川まで氷川田圃が広がっています。小石川に架かる祗園橋(氷川橋とも)については、該当個所で改めて扱います。

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    ・ 網干坂  「図絵」にも描かれた白山台地に上る坂で、左手が簸川神社、右手は小石川植物園裏門ですが、一般の入口はここから700mほど先にあります。

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    ・ 簸川神社  鳥居脇に立っているのは、「千川改修記念碑」です。裏面に「昭和九年九月建立」と刻まれていて、暗渠化の年が特定できます。  

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    ・ 簸川神社  社殿は先の大戦で焼失後、昭和33年(1959年)再建されました。なお、社殿前の幟(のぼり)立ては、元禄5年(1692年)に奉納されたものです。

小石川村

2019-06-20 06:18:13 | 谷端川・小石川3

 「小石川は日本橋より一里八町許、古は広き地にて江戸古図にも載せ、又『回国雑記』に、小石川と云る所にまかりて、我かたを思ひ深めて小石川、いつこを瀬とか恋渡るらんとみへ、『北条役帳』に五貫四百八十文、島津孫四郎知行小石川内法林院分松月分・・・・と載たり、然るに後年次第に武家屋敷寺社の拝領地及び町屋等に、起立ありしより、今村地に属するものは僅に百四十四石余の地なり、其四界東は御薬園及び・・・・武家屋敷、南は小石川橋戸町宗慶寺、西は松平播磨守・・・・及武家屋敷小石川大塚上町等にて、北は巣鴨村小石川新田なり、・・・・民戸二十四」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上隅の豊島区以外は文京区です。  

 以下は小石川の地名由来に関する「御府内備考」の引用です。「『江戸志』に、此地は小石の多き小川幾流もある故小石川と名付しといふ、こは最古世の話なるにや、詳なる事を聞かす、正保改の武蔵国図には、今の御薬園の西なる田間より伝通院後の方へ達する流と覚しき川を小石川と注したり、則『江戸砂子』に、伝通院の後の流れ猫また橋の川筋を小石川の濫觸(らんしょう 物事の始まり)と書くも是なり、・・・・一説に『神社略記』を引て、白山権現は加賀国石川郡より勧請せしゆへ小石川の名起りしと云、是最無稽の言なり、白山権現を此地に移せしは元和元年の事といへり」

 

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    ・ 簸川神社  小石川植物園内にありましたが、白山御殿造営のため転出、当地に遷座したのは元禄12年(1699年)です。なお、簸川(ひかわ)は当社独自の表記です。 

 途中省略したところには、冒頭の「新編武蔵風土記稿」にあった「回国雑記」(准后道興 長享元年 1487年)や「北条役帳」が引用されています。なお、「新編武蔵風土記稿」にある、川名としての小石川に関する記述は以下の通りです。「小石川 村の中程にあり、幅三四間巣鴨村より入て橋戸町へ達す、巣鴨村にては谷端川と呼へり、橋二を架す、各長二間、一は板橋にて氷川橋と唱へ、一は石橋にて猫股橋と称す」

 


猫又橋

2019-06-19 06:40:52 | 谷端川・小石川3

 豊島、文京の区境を離れ百数十メートルで不忍通りを越えます。そこには猫又橋が架かっていました。「狸橋 小石川氷川の社の下、此流を小石川といふとぞ。相つとふ、むかし此辺に狸ありて夜な夜な赤手拭をかぶりおどるといふ事、子供むかしの物語あり」(「続江戸砂子」) 猫又は年を経て妖怪化した猫のことで、鎌倉時代の「名月記」や「徒然草」にも登場します。ただ、今回の橋名に関しては、根っこの又を橋代わりに渡したとの根っこ又説が有力で、→ 「江戸名所図会」にも紹介されています。「猫狸橋 同所西の方、小石川の流れに架せり。南向亭茶話云く、昔大木の根木の股を以て、橋にかへて架したる故に此名ありとぞ」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. プラタナス通りの一つ北側を並行する路地で、ここでも蛇行が目立ちます。 

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    2. 上掲「地形図」にも特徴的に描かれている、山型の蛇行に差し掛かります。 

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    3. 山型の頂点を抜け、不忍通りに突き当たる手前で中断します。 

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    4. 不忍通りを越えます。大正7年(1918年)通りの開通に伴う猫又橋の遺構は→ こちらで、越えた先の左手に展示されています。 

大塚三業通り3

2019-06-18 06:20:19 | 谷端川・小石川3

 東福寺橋跡を過ぎ、巣鴨小学校前から300mほどで、豊島、文京の区境に差し掛かります。江戸時代には巣鴨村と小石川新田が入会になっていたところで、明治に入り巣鴨町と小石川区に分かれました。なお、小石川新田は護国寺造成の時の砂利取場で、享保年間に新田開発されました。谷端川流域は村方の耕地でしたが、左右の段丘斜面は武家屋敷が占め、それが大正末から昭和の初めにかけて、相次ぎ宅地造成されました。ちなみに、区境付近にあったのは上総鶴牧藩水野家や六千石の旗本、平岡家の下屋敷です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右カーブの次は左カーブと、相変わらず蛇行する大塚三業通りを南下します。

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    2. 区境となっている坂は、昭和の初めに左岸段丘一帯を宅地造成した際の開削です。

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    3. ここは左手文京、右手豊島ですが、その先で区境は右手に離れ、どちらも文京になります。 

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    4. 大塚三業通り(及び地下の下水道千川幹線)は、右カーブでプラタナス通りに合流します。

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    5. 一方、谷端川は直進し、上掲写真正面の公園先の路地に連続します。

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2019-06-17 06:12:10 | 谷端川・小石川3

 熊野橋(熊野窪橋)の架かっていたところから二百数十メートルで、東福寺前に架かる東福寺橋です。「新編武蔵風土記稿」では「長四間」の土橋ですが、「東京府志料」では松下橋と名を改めて収録され、「板橋長六間幅四尺五寸、旧名東福寺橋ト云、然ルニ橋辺に松樹アルニ因テ今ノ名ニ改ム」と付記されています。もっとも、その後の地図では、東福寺橋となっているので、この改名は定着しなかったのでしょう。なお、橋名の由来となった東福寺は、初め小石川大塚にありましたが、元禄4年(1691年)に当地に移ってきたお寺です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 熊野橋から東福寺橋までの200m強も、同じようにクネッた道路が続きます。

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    2. ここまでの左カーブから一転、しばらく右カーブが続きます。

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    3. 東福寺橋の架かっていたところで、→ 東福寺は左手段丘上です。 

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    4. 昭和22年(1947年)開校の巣鴨小学校前を蛇行しながら離れます。

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    5. 小石川村との境が近くなります。江戸時代にはこれまでの農地から一転、大名、旗本屋敷が点在していたところです。

大塚三業通り

2019-06-15 06:07:38 | 谷端川・小石川3

 大塚駅南口の東端で、谷端川は都道436号(ここからはプラタナス通り)を離れます。地図でもそれとわかるクネッた道路がその名残で、大塚三業通りと呼ばれているところです。通りの名前は大正時代に料理屋、芸者置屋、待合の三業の営業が認可され、大震災からの復興とともに、東京屈指の花街に成長した大塚三業地に由来します。昭和初期の暗渠化の時には、その最盛期へと向かっていたわけで、周囲にはすでに住宅が密集していたのでしょう。通常なら区画整理によってある程度改修してから暗渠化するのでしょうが、この区間は流路そのままをなぞったような、蛇行の跡が顕著に残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図 / 早稲田)」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。地図中の神社マークは、右上隅が子安天満宮、左下が熊野社です。

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    1. 大塚三業通りの入口です。プラタナス通りより一段低くなっています。

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    2. 右カーブの先は蛇行しながら東南に向きを転じます。

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    3. 左右に蛇行する通りに面して、三業名残の料亭が点在しています。

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    4. 熊野橋(熊野窪橋)が架かっていました。→ 「沿革図書附図」の子安天満宮からの小支流の合流もこのあたりです。 

天祖神社

2019-06-14 06:55:18 | 谷端川・小石川3

 境内にある由緒書によると、天祖神社の創建は元享年間(1321~24年)、豊島氏中興の祖といわれる景村のとき、巣鴨村鎮守として祀られたと伝えられています。江戸時代、鬼子母神信仰により鬼子母神の娘ともいわれる十羅刹女(じゅうらせつにょ)神が合祀され、明治に入り神仏分離によって天祖神社と改称、今日に至っています。一方、→ 十羅刹女堂は別当だった福蔵寺に属しましたが、同寺が火災で焼失し東福寺と合併したため、現在は東福寺境内に祀られています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 十羅刹女堂」  見ずらいですが右上隅に藤橋の別名、「乞食橋」とあります。また正面にも橋が架かっていますが、 → 「沿革図書附図」の描く、池からの小流れにかかわるものかもしれません。 

 「新編武蔵風土記稿」が「十羅刹社 鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり」とし、あるいは「江戸名所図会」が「十羅刹女堂 巣鴨本村、藤橋の川より南の方にあり。別当は真言宗にして福蔵院と号す。里老云、昔此地に鬼子母神の像を安置してありしが、賊の為に奪はれて今は雑司ヶ谷にありと。其説是非知るべからずといへども、云伝ふるに任せて是を載すのみ」と書いているのは、こうした事情によっています。

 

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    ・ 天祖神社  天明年間(1781~89年)造営といわれる旧社殿は、昭和に入って改築を経て、第二次大戦末に空襲で失われました。現在のものは昭和40年代の再建です。

 <藤橋>  王子道に架かる藤橋は旧巣鴨村内最大で、「御府内備考」の数字で「長五間」、「東京府志料」は「板橋長六間幅一間二尺 橋辺藤多キ故ニ名トス」と書いています。→ 「巣鴨村絵図」にももちろん描かれていますが、原本には「コジキバシトモ云」と付記されており、この別名は「江戸名所図会」でも確認できます。なお、「嘉陵紀行」の「新曽妙顕寺詣の記」のなかに、大塚波切不動前から庚申塚に向かう途中、「橋をわたりて行ば、浅茅がもとにかやふく家あるは、乞丐(こつがい)の徒のすめる処なりけり」との一節があります。(3kmほど下流の善光寺坂、沢蔵司稲荷境内に保存された→ 親柱には「ふじはし」とあります。)

 


大塚駅前2

2019-06-13 06:38:04 | 谷端川・小石川3

 「御府内沿革図書附図」を見ると、藤橋と十羅刹の間に三つの池があり、各々から谷端川に注ぐ小流れが描かれています。藤橋と十羅刹の間というと、現在の大塚駅にあたりますが、駅周辺はすり鉢状の低地になっており、かっては大きな沼地だった可能性があります。それが、耕地化の過程で縮小し、いくつかの池が点在するようになった、そんな想像を駆り立てられる描き方です。巣鴨の地名由来に関し、大塚駅周辺の地形を指摘したことがありますが、その傍証の一つとして、この古地図を挙げておきます。

 

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    ・ 「御府内沿革図書附図」(嘉永7年 1854年)に描かれた、巣鴨村内の谷端川とその支流です。書き込みは主要なもののみ、また道路は主要なもの、橋にかかわるものをピックアップしています。

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    ・ 大塚駅南口  南口広場のほぼ中央に、三つの池の真ん中のものがありました。その奥のビルの裏側は小高くなっていて、十羅刹(現天祖神社)が祀られています。 

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    ・ 大塚三業通り  南口広場の東南角で、谷端川を暗渠化して出来た大塚三業通りは、(宮仲公園通り改め)プラタナス通りと分かれます。  

 ところで、大塚駅周辺は巣鴨村に属し、それも「江戸名所図会」や「尾張屋切絵図」などによると、開村時の中心である本村でした。それが南に1~2kmは離れた王子道、現春日通り沿いに発達した町屋の名前の大塚が駅名となり、現行の行政区分では駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となるなど、駅名が歴史を無視してつけられた典型のような展開になっています。これに、本来の(小石川)大塚の方は、文京区大塚となって別個存続しており、また中山道沿いに発達した町屋、巣鴨町の方に巣鴨駅が設けられるなど、話をややこしくする要素が重なって、今や、大塚駅の周辺が巣鴨本村だったといっても、ピンときません。