江戸時代、戸崎町の隣の町屋は御掃除町でした。「当町の儀は小石川村の内にて伝通院知行五百石の内に御座候処、前々より伝通院並外御方々様御廟所御掃除歩役相勤候に付、寛文三卯年十二月伝通院より公儀え被相願、右御掃除に罷出候拾六人え永代役屋敷に被相渡、町並家作仕右の者住居候に付御掃除町と相唱・・・・御廟所御掃除今以右拾六人にて相勤候」(「御府内備考」) 明治に入り近隣の武家地、御先手組屋敷などと共に掃除町となりました。現在の小石川一丁目の北側にあたる区画です。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。
- 1. 右手には無量院がありました。→ 「江戸名所図会」では、その門前を小石川が流れています。
- 2. 無量院の先で右手に蛇行します。その個所が千川通りから半月状にはみ出して残っています。
- 3. ワンブロックで左カーブ、奥の建物の先の千川通りに戻ります。この先、上掲「実測図」で回し堀とともに水車が描かれています。
- 4. 柳町小入口交差点です。ここに「板橋 長三間半余、幅二間」が架かっていました。「実測図」には「千川橋」とあります。