神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

方南通り

2018-01-31 06:40:41 | 神田川4

 角田橋の次が睦橋、その次の栄橋で方南通りを越えます。方南通りは都道14号新宿国立線の一部となっていて、山手通りとの清水橋交差点を起点に、西永福駅前で井の頭通りと合流するまでの区間で、井の頭通り以西は人見街道、東八道路へと連絡します。昭和の初めに幅員15mで計画され、10年代には東側から一部着工されましたが、第二次大戦と戦後の中断を挟んで、完成したのは昭和30年代になってからで、ちなみに、栄橋の欄干には「昭和三十年八月完成」とあります。雑色村を縦断する古道(大宮横町道)がベースになっていて、古道が神田川を越えるために、多田神社、角田橋と迂回しているところをショートカット、あとは大宮八幡前に至る道と重なります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  現行の神田、善福寺両河川、および方南通りを重ねています。また、グレーの区画は東京メトロ中野車両基地の範囲です。

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    ・  神田川  睦橋から栄橋方向のショットです。改修以前の本流は50mほど左手の、現在はホームセンターが建っているところを流れ、前々回の左岸流とも方南通りで合流していました。 

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    ・ 方南通り  正面は特別支援学校前歩道橋、その奥は中野車両基地です。右岸の用水は多田神社、宝福寺下から北上、歩道橋先で方南通りを斜めに横切り、車両基地方向に流れていました。

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    ・ 方南通り  正面の公務員宿舎用地は、再開発中でフェンスに囲まれているため、数年前の写真です。二棟の建物間に段差があり、その際を左岸流と合流後の本流が流れていました。

向田橋、角田橋

2018-01-30 06:25:05 | 神田川4

 → 「雑色村絵図」で神田川本流に架かる橋は二本で、(下流から現在名で)向田(むこうだ)橋、角田(つのだ)橋です。この名前はすでに「東京府志料」の橋梁リストに見え、「板橋三 雑色村ニアリ一ハ向田橋長三間幅五尺一ハ角田橋長三間二尺幅一間・・・・」となっています。なお、向田は中野村(のち中野町)大字雑色の小字で、橋の西側の水田地帯を指していました。多田神社のある本村から見て、向かいにある田圃という、そのままの意と思われます。一方、角田橋の由来は不明ですが、あるいは水田の形状と関係するのかもしれません。

 

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    ・ 神田川  向田橋からのショットで、ここから善福寺川との合流地点手前まで、700m弱が直線的に改修されています。上、中流域では最長の直線区間です。  

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    ・ 神田橋  向田橋の次にかかるのが神田橋です。方南通りに至る400m弱の幅広道路が開通し、それに伴い昭和35年(1960年)に創架されました。 

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    ・ 神田川  神田橋の次の角田橋からのショットです。睦橋を挟んでその先は方南通りになります。右岸からの角田橋の写真は→ こちらでどうぞ。 

 <八島橋、峯下橋>  「豊多摩郡誌」では角田橋を通る道を大宮横町道とし、「淀橋町甲州街道筋大宮横町より分岐し、本町大字雑色を經て和田堀内町にて井の頭道に合す」と書いています。どうやら、甲州街道と山手通りの交差点付近が起点のようですが、いずれにしても多田神社と大宮八幡を結ぶ、雑色村にとっては最重要な古道でした。その大宮横町道に架かる橋として、「同誌」は角田橋の他に八島橋、峯下橋を記載しています。「雑色村絵図」で角田橋の前後の用水路に架かるのがそれで、右岸流に架かるのが八島橋、左岸流に架かるのが峯下橋でした。八島、峯下とも大字雑色当時の小字で、「新編武蔵風土記稿」に収録された雑色村の小名矢島、峯下を引き継いでいます。

 


雑色左岸

2018-01-29 06:40:22 | 神田川4

  神田川と杉並、中野の区境がクロスするところまで戻り、今度は左岸に分岐していた田用水の流路を追います。こちらも一部区境と重なりますが、50mほどで離れます。さらに50mほどでマンションの敷地に突き当たり、以降の水路の痕跡は失われます。右岸と同じく、昭和30年代の宅地造成によるもので、今となっては古い地図を頼りに、段丘沿いの流路を想像するしかありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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     「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左岸段丘が後退する付近で分岐していましたが、 その直後の痕跡は失われました。  

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    2. この段丘下の路地が水路跡と重なり、かつ左手杉並、右手中野の区境です。

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    3. 中野みなみ保育園の手前で区境は左手に折れ、これからは両岸とも中野区です。

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    4. 右折すると向田橋に出る通りです。その先のマンション敷地で痕跡は失われますが、その→ 段丘際にあったはずです。

雑色右岸3

2018-01-27 06:36:13 | 神田川4

 田用水と区境が分かれた地点まで戻り、改めて右岸の用水を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じ、向田橋を通る道路、神田橋を通る道路と相次いで越え、200mほどで南中野中学校に突き当たります。昭和30年(1955年)に中野第一中学校として開校、その拡張、整備のため田圃は埋め立てられ、また同時期の宅地造成によって、同校以北の用水の痕跡は失われました。ただ、古い地図との対比から、多田神社のある右岸段丘に沿う流路を想像することができるだけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中野、杉並の区境から離れ、すぐに左カーブで北に向きを転じます。 

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    2. 左折すると向田橋に出る通りを越えます。→ 「村絵図」にも描かれた古道です。

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    3. 神田橋を通る道を越えます。昭和30年代中ごろに開設された幅広の通りです。 

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    4. 南中野中学校に突き当たります。これ以降、水路跡と重なる道路は現存しません。

雑色右岸2

2018-01-26 06:50:12 | 神田川4

 たつみ橋下流で右岸に分岐した用水を追っての二回目です。分岐点から200mほどで左カーブ、北に向きを転じますが、その手前に右手からの合流があります。起点は250mほど先にあり、その間はこの水路が区境と一致します。かって水路に合わせて村境を確定し、それが今日まで引き継がれたのでしょう。現行の住居表示の境が道路と重ならない場合、水路を基準にしていることがよくありますが、細かな蛇行からもそれと推測できるところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図や空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブの手前で区境は右手に折れますが、そこにに車止めが顔をのぞかせています。 

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    2. 昭和30年代を思わせる開渠が続いているようです。ただ、住宅の間に挟まれていて通り抜けはできません。

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    3. 境界を流れる本線とは別の水路跡です。 

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    4. 区境に戻ります。といっても、立ち入りはままならず、ここからは大分前の写真なので、現在はどうなっているか不明です。

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    5. たどれるのはここまでですが、一つ南の道路までさかのぼっている地図もあります。

雑色右岸

2018-01-25 06:08:46 | 神田川4

 和田村(字方南)と雑色村の境にあって、右岸に分岐していた用水がありました。昭和30年代中ごろの本流の改修と同時期に埋め立てられ、道路となって現在に至っているため、迷うことなくたどることができます。ただ、途中で村境(現在は杉並、中野の区境)と離れ、北上しますが、南中野中学校の敷地に突き当立って以降の流路は失われ、重なる道路も残されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図や空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. たつみ橋の下流で右岸に分岐する道路から始めます。すぐに右手から合流があります。

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    2. 左カーブで東に向かうこの道路が、現在、左手中野区と右手杉並区の境になっています。 

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    3. ここで右手から合流する道路も、方南田圃を灌漑してきた用水跡です。

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    4. 次に合流する道路も「下水道台帳」に「水路敷」と書き込まれています。

雑色村用水

2018-01-24 06:40:18 | 神田川4

 雑色村の水利に関する「新編武蔵風土記稿」の記述です。「井ノ頭上水 水元は吉祥寺村の内井ノ頭池より出、西の方和田村より当村にいり、村の西北を流るゝこと十四五町にして、末は本郷村へ至る、又善福寺池より流出る一条の水あり、和田村さかひにておち合、此水を和泉村境にて引分、村内所々の水田に沃く」 最後の「此水を和泉村境にて引分」は、和泉村と境を接していない以上疑問で、ここでは「和田村境にて引分」の誤りと考えておきます。

 

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    ・ 「雑色村絵図」  中野区立歴史民俗資料館の「常設展示図録」(平成元年)に収録されている「雑色村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとにイラスト化しました。例によって田用水と村境を強調しています。

 「東京市史稿 市街篇 第68」に、明治17年(1884年)に行われた「田用水に関する調査」の結果が収録されています。その中に、東多摩郡に属していた各村が神田川に設けていた堰に関して、「久我山村草堰二ヶ所 上高井戸村四ヶ所 下高井戸村ニヶ所 和泉村二ヶ所 和田村二ヶ所 雑色村ニ本郷村ノ堰壹ヶ所アリ。外ニ二ヶ所 本郷村ニ中野村ノ堰壹ヶ所アリ」と、その個数が列挙されています。このうち、雑色村にあるとされる本郷村の堰は、上掲「村絵図」の右上で、右岸に分岐し本郷村との境を画しているもので、本郷堰と呼ばれています。「外ニ二ヶ所」は和田村(字方南)との境に設けられ下掲写真の二ヶ所と思われます。

 

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    ・ 神田川  たつみ橋からのショットです。本流は左カーブしますが、そのまま右岸に分岐する用水があり、その跡と重なる道路は杉並、中野の区境となっています。

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    ・ 神田川  その左カーブからのショットです。左岸段丘が後退するのに合わせて、左岸に用水を分岐していました。こちらも最初は杉並、中野の区境と重なります。

雑色村

2018-01-23 06:46:39 | 神田川4

 「雑色村は、郡の東方豊島郡の界にあり、郷庄の唱を失ふ、開闢の年代は詳ならざれど、村民武助が家に、天正十九年辛卯九月五日と書せる水帳あり、武州多東郡大宮之内雑色村とあり、是御入国の前開けしことしらる、・・・・村の広さ東西十一町南北九町、東より北へは本郷村をめぐらし、西は和田村にとなり、南は多摩郡幡ヶ谷村に及ぶ、村内平地にして少しく高き所もあり、土性はすべて野土なり、江戸日本橋より行程二里半余、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は中野町当時の町、大字境です。 

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    ・ 多田神社  雑色村の鎮守多田神社は、別当だった宝福寺と並んで、神田川を右岸から望む段丘斜面にあります。上掲「近傍図」にも神社記号が描かれていますが、右岸の田用水がその裾を巡っていました。

 「多田権現稲荷合社 除地、二千三百三十二坪、外に稲荷除地九十六坪、村の中程にて平地より八九尺許高き所にあり、石段十五級を設く、わずかなる社にて二間に三間の拝殿あり、南向、前に木の鳥居をたつ、鎮座の年代詳ならず、例祭九月廿六日」 「新編武蔵風土記稿」では「鎮座の年代詳ならず」としていますが、境内に掲げられた中野区教育委員会の解説プレートには、「当社は約九百年前、寛治6年(1092年)、源義家が大宮八幡に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまる」との伝承が記述されています。一方、「武蔵名勝図会」(文政6年 1823年)には「永禄年中摂州の住人多田和泉守が子孫多田某この地に住居して、祖神なるゆえ多田権現を勧請すと。その子孫天正年中に退去しける由」と、別個の伝承が収録されています。

 

 <地名由来>  雑色(ぞうしき)は律令制下の一身分です。時代によって変遷しますが、大雑把に言うと、雑役に従事する下級の役人、使用人といったところで、雑司ヶ谷の雑司とも相通ずる言葉です。そこから転じて、雑色の人々に与えた給付地をも雑色と呼ぶようになりました。多田神社の創建伝承や、「新編武蔵風土記稿」に収録された「武州多東郡大宮之内雑色村」との文言、あるいは、多田神社前を通り雑色村を横断する古道が、直近で大宮八幡へと至ることなど、当地と大宮八幡宮とのつながりの深さから、その造営のために働いた人たちの居住地、ないし給付地ではないかと推測されています。

 


方南右岸4

2018-01-22 06:24:27 | 神田川3

 方南小学校のキャンパス付近は、方南田圃の中心でした。→ 「段彩陰影図」を見ると、そこに右岸から環七通りを挟んで二本の谷筋が合流しています。うち左側のものの谷頭近くには、和泉弁天が祀られ弁天池がありました。ただ、そこからの水路に関しては、はっきりした痕跡が残っていません。一方、右側の谷筋の底には水路跡の路地も一部残されています。ただ、合流地点の痕跡はなく、右岸流とどのようにかかわっていたのか不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図や空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 右岸流からワンブロック南の通りに細長い空間が顔をのぞかせています。 

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    2. 通り抜けできないので回り込みながらの撮影です。

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    3. 水路単独と思われる路地はここで終了です。 

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    4. 谷筋は環七通りを越えていますが、その先の痕跡は未発見です。 

 <和泉弁天>  弁天社自体は新泉小学校の西側に現存し、その名からして湧水池の存在が推測できます。「杉並の小祠」(平成8年 杉並区教育委員会)には「元は現在の倍ぐらいの池があった」とあり、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)は「10坪ほどの広さしかなかったが、湧水は枯れることがなかった」と書いています。ただ、現在の→ 境内には池らしきものも見当たりません。なお、新泉小学校は大正15年(1926年)の開校ですが、その「創立60周年記念誌」の中に、「今の体育館のうらには、小さな川が流れていて、水すましやめだかが泳いでいました」との記述があります。こうした池や小川が水源となって方南田圃に流れ込んでいたのでしょう。


方南右岸3

2018-01-20 06:13:49 | 神田川3

 字方南の右岸の用水を追っての続きで、方南小キャンパスの東南角まで戻り、本線を東に向かいます。左手に方南中央公園を見ながら進み、公園の東南角で左折するもの、しばらく直進したあと左折するものがありました。いずれにしてもその先には、たつみ橋の下流で新たに分岐した右岸流があり、雑色村との村境となっていましたが、そこに余水を戻していました。なお、雑色村は明治に入り中野町の一部となり、現在は中野区を構成しているため、村境は中野区との区境となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 方南中央公園を過ぎ、その東南角で二手に分かれます。 

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    2. 左折した方です。公園の東縁に沿い、離れた後やや右カーブがあります。

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    3. 正面は中野区との境になっている、かっての右岸流と重なる道路です。 

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    4. 「下水道台帳」ではこの道路も「水路敷」となっています。1.とつながっていたものと思われます。 

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    5. こちらも中野区との境になっている道路に合流して終了です。

方南右岸2

2018-01-19 06:16:50 | 神田川3

 字方南の右岸の用水を追っての二回目です。方南小学校の南縁に沿って、車止めでガードされた路地が再開、キャンパスを迂回して東に向かいます。これは昭和30年代に同校が拡張された際、そのように整備されたもので、本来はキャンパスのあるところを横断していました。また、右岸流から本流に戻る水路網も張り巡らされていましたが、現在確認できるのはキャンパスの北東角にある30mほどの路地のみです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 方南小学校の敷地で中断後、その南縁に沿う路地となって再開します。

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    2. 突き当りを左折し、方南小の東側に回り込みます。 

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    3. 正門前で右折、グランドを左手に見ながら東に向かいます。

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    4. 直進すると方南中央公園前ですが、その手前で右手からの水路と交差していた可能性があります。  

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    5. 30mほど残された水路跡の路地です。正面は中野区との境になっている、かっての右岸流と重なる道路です。 

方南右岸

2018-01-18 06:50:21 | 神田川3

 方南第一橋まで戻ります。→ 「和田村絵図4」にも描かれた、村境付近で右岸に分岐していた用水がテーマです。しばらく本流沿いを流れた後、環七通りの先で「村絵図」に描かれ、念仏堂道と呼ばれた古道を越えます。この古道の東側が方南田圃の中心ですが、昭和14年(1939年)に開校した方南小学校の敷地によって、田圃を灌漑していた水路網の多くは失われました。現在たどることができるのは、宅地造成後に整備された排水路の流路です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. 方南第一橋からのショットです。「空中写真」を見ると、この付近から分岐し、しばらく本流と並行していました。

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    2. 左カーブする本流と離れます。車止め付きの路地が顔をのぞかせています。 

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    3. 50mほどで環七通りを越えます。流路沿いに歩道橋が設けられています。

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    4. 念仏堂道の先で方南小に突き当たって中断します。右写真は右岸方向の念仏堂道で、すぐに環七通りとクロスします。 

上水橋

2018-01-17 06:46:22 | 神田川3

 方南地域の橋の中では、環七通りに架かる方南橋が有名ですが、歴史的には次の上水橋が重要で、江戸時代から明治、大正にかけては唯一の橋でした。→ 「和田村絵図4」で、字方南のほぼ中央を南北に縦断している道があります。 → 「東京近傍図」にも描かれていて、現在は環七通りと一部重なりながら、その左右を蛇行しています。この古道に架かっているのが上水橋ですが、当時はそう呼ばれていたわけではありません。「東京府志料」の橋梁リストでは、「板橋 和田村ニアリ念佛堂橋長四間半幅五尺」となっていて、また、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)によると、大橋と書いている絵図もあるようです。

 

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    ・ 上水橋  方南橋からのショットです。昭和の初めに環七通りの元となる通りが開通し、そこに方南橋が架かるまで、こちらを方南橋と呼ぶ一時期もあったようです。 

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    ・ 上水橋  左岸方向のショットです。奥の茂みが東運寺(通称釜寺)で、江戸時代は念仏堂と呼ばれ、甲州街道から門前に至るこの道は念仏堂道でした。 

 <釜寺身代り地蔵縁起>  念仏堂は天正元年(1573年)、一安上人が創建したと伝えられています。その縁起は安寿と厨子王伝承とかかわっていて、姉弟の守り本尊である地蔵菩薩を背負い、行脚していたところ、当地に信者を得て念仏堂を創建したというものです。地蔵菩薩は姉弟の苦難をたびたび救い、大釜に投げ込まれた時にはお坊さんの姿になって助け、身代り地蔵と呼ばれました。なお、屋上にあった大釜は戦災で焼け落ち壊れたため、現在のものは戦後寄進されました。直径60cmのいわゆる四斗炊きで、米1俵(4斗)を炊くことができます。

 

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    ・ 東運寺本堂  念仏堂は大正11年(1922年)に入谷にあった東運寺が移転、合併し、念仏山東運寺となりました。本堂屋上の大釜から釜寺とも呼ばれています。 

環七通り

2018-01-16 07:03:03 | 神田川3

 現在の環七通りの元となった通りは、昭和7、8年ころ高円寺、代田橋間が開通しました。当時は東京乗合バス(青バス)が運行したことから、青バス通りとも呼ばれたようです。昭和2年(1927年)に策定された東京市をめぐる環状線網の一部として予定され、当時の地図を見ると、より幅広で直線的な予定道路が点線で書き込まれていたりします。ただ、第二次大戦と戦後の混乱で計画は凍結され、この区間の開通は東京オリンピックを控えた昭和30年代後半でした。なお、全線が開通するのは昭和60年(1985年)、計画から60年近くたってからのことです。

 

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    ・ 神田川  左岸には環状七号線地下調節池の取水口、奥には環七通りに架かる方南橋、そのはるか先に新宿副都心の高層ビルが見え始めました。

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    ・ 環七通り  方南橋の南側にある陸橋から、方南通り、高円寺方向のショットです。陸橋下は右岸流の流路にあたり、ここから100mほどが方南田圃の幅でした。 

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    ・ 方南橋  昭和5年(1930年)に幅9m、長さ10.66mの鉄筋コンクリート橋として、環七の元となった青バス通りに架けられました。それ以前は下流の上水橋が方南橋でした。

 <環状七号線地下調節池>  ここから妙正寺川と交差する野方までの4.5kmの間、環七通りの地下50mには環状七号線地下調節池と呼ばれる内径12.5m、54万立方メートルを貯水可能な地下トンネルが開通しています。昭和63年から20年がかりで工事が行われ、平成9年に神田川取水施設が完成、予定の半分ほどが供用されていましたが、平成19年に善福寺川取水施設が、同20年に妙正寺川取水施設が完成しました。より将来的には、埼玉県境の白子川から石神井川、さらに目黒川まで、途中4水系10河川の増水を引受け東京湾に注ぐ、延長30kmの「環七地下河川」が構想され、その一部となる予定だとも。神田川の延長が24.6kmなので、それを凌駕する人工河川ということになります。

 


方南左岸4

2018-01-15 07:11:39 | 神田川3

 字方南の左岸を灌漑する用水を追っての四回目で、コンクリート蓋の路地は環七通りに突き当たって終了しますが、通りを越えて以降も一般の道路の一部となります。越えたところで右折して本流に戻る水路もありましたが、昭和30年代に環七通りが現行のように拡張、整備された際、その一部となって失われました。直進するほうも、雑色村境(中野区境)で本流に戻っていましたが、これは→ 「段彩陰影図」から読み取れるように、本流が左岸の舌状台地に接するように流れるためです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 環七通りを越えます。「地形図」で本流に戻る水路は、環七の東側にあったようです。

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    2. 上水橋を通る通りを越えます。→ 「和田村絵図4」で、南北に縦断する古道です。左手の東運寺(通称釜寺)は次々回詳細します。

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    3. 東運寺を過ぎ、右折するとすぐにたつみ橋です。 

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    4. 道路はここまでですが、すぐ先は区境ともなっている神田川本流です。