神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

右岸の三村4

2015-03-31 08:01:15 | 千川用水1

 更新橋から吉祥寺橋までの右岸、600m強は吉祥寺村と接していました。村の範囲はさらに東南に二千数百メートルは及びますが、上水のほうが吉祥寺橋で左折して村境と離れるためです。「千川素掘筋普請所積見分」によると、更新橋と思われる土橋(「壱間半巾五尺 向側西久保吉祥寺境」)から、合計で343間(≒624m)のところに、土橋(「巾五尺渡九尺 吉祥寺関村境」)が架かっており、これが吉祥寺橋のことと思われます。

 

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    ・ 千川上水  更新橋から400mほど下流で、奥に見えるのが北裏橋です。北裏は青梅街道沿いのバス停名でもありますが、関村の字にはなく、どこの北裏かも目下のところ不明です。

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    ・ 千川上水施餓鬼(せがき)亡霊供養塔  明治41年3月の建立です。背景に写っているのは北裏橋の一つ下流に架かる東北裏橋です。

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    ・ 吉祥寺橋  千川上水は左カーブ、一方、吉祥寺村境は前を横切る通り沿いに右手奥に向かい、両者は左右に分かれます。ここからは左右両岸とも練馬区です。

 <吉祥寺村>  「吉祥寺村は、郡の東北にあり、当村開発は万治二年(1659年)のことにして、其頃までは此辺をたゞ札野と称せしよし、開発のとき村民十郎左衛門と云ふが、江戸駒込吉祥寺に住せし浪人佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門など相議し、此地へ来りて田畑を起し、皆此所の農民となり、村落をなせしにより、元禄の頃は吉祥寺新田と呼しを、今は吉祥寺村と云へり」(「新編武蔵風土記稿」) 
 吉祥寺は長禄2年(1458年)、江戸城内に創建されたお寺で、太田道灌が江戸城を築城した際、掘った井戸から「吉祥」と刻まれた金印が現れたため、と伝えられています。徳川家康の江戸入国後、水道橋の北東にある現都立工芸高校付近(→ 元吉祥寺)に移転しましたが、明暦3年(1657年)の大火によって全焼、その後の江戸復興計画の一環として、駒込の現在地(→ 駒込吉祥寺)に再度移りました。その際、門前の住人たちが移住したのが吉祥寺村の起こりです。


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右岸の三村3

2015-03-30 07:00:32 | 千川用水1

 千川上水に戻ります。右岸を占める関前、西久保、吉祥寺の三村のうち、西久保村の範囲は三郡橋から更新橋までの600mほど、南北は五日市街道を挟んで玉川上水までの2kmで、現行の住居表示では五日市街道以北の武蔵野市緑町(1~3丁目)及び以南の西久保(1~3丁目)に当たります。なお、西久保村は虎ノ門外の西久保の住民によって、五日市街道沿いに成立した新田でした。「西久保村は、郡の東北にあり、此村は古くより開けし村にあらず、万治の頃開発せしならんと、土人の口碑に伝へり、村名の起は里正の先祖紋衛門と云ふ者、江戸西の久保より来りて開闢せし故にかく号するとぞ」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 西窪橋  上保谷、関村境から80mほどのところに架かる橋で、→ 「東京近傍図」には描かれていません。なお、「西窪」の表記は武蔵野村(のち武蔵野町)当時のものです。

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    ・ 更新橋と庚申塔  西窪橋から200mほど下流のこの橋が西久保、吉祥寺の村境でした。「千川素堀筋普請所積見分」にも「土橋 壱間半巾五尺向側西久保吉祥寺境」とありますが、当時から更新(庚申)橋といったかは不明です。

 <西久保と西久保村>  虎ノ門外の麻布台、愛宕山間の谷筋周辺を指す広域地名で、西窪の表記や、「にしのくぼ」の読みもあります。その底を通る西久保通り(現桜田通り)の周辺の町屋である、神谷町、葺手町、同朋町などが西久保を冠して呼ばれました。地名由来としては、「御府内備考」は「西久保は愛宕山よりの西久保と云義にやその詳なる説をきかす」と書いています。なお、武蔵野の地に西久保村が成立した事情につき、武蔵野市立図書館「こども武蔵野史」は、慶安3年(1650年)、明暦3年(1657年)と二度罹災した西久保城山町の住民が移住、寛文2年(1662年)に西久保新田となり、宝永のころ(1704~10年)さらに新田が開発されたため、旧新田を西久保村と呼ぶようになった、としています。

 

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    ・ 西窪稲荷神社  「新編武蔵風土記稿」に「村の西より源正寺と並びてあり、・・・・村の鎮守」とあるように、源正寺の東隣にあって、五日市街道(同書では「江戸道」)に面しています。
 

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関村溜井2

2015-03-28 06:37:04 | 千川用水1

 → 「関村絵図」にも描かれているように、関村の溜井は下流に堰を設けていました。堰の南側に村の鎮守(別の村絵図では「三十番神)が祀られており、現在の水門と右岸段丘上にある鎮守、天祖若宮八幡宮の位置関係と変わりません。なお、関村の名前の由来として、この溜池の大堰も有力な候補です。最有力は関所説で「新編武蔵風土記稿」は次のように述べています。「関村は郷庄、及び日本橋よりの行程前村(下石神井村)に同じ、当所は多摩新座郡の接界にて、古へ京都より奥州筋への街道掛り、豊島氏石神井に在城せし頃関を構へし所なり、今も大関小関等の小名あるは其遺跡なりと云」(「新編武蔵風土記稿」) 同書に収録された小名は10ですが、うち大関、小関、関原と関がらみが3あります。

 

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    ・ 富士見池  最下流の区画で、左手に写るのが松の島、正面奥に水門が見えています。なお、富士見池を中心とする武蔵関公園は昭和13年(1938年)に開園しています。

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    ・ 富士見池水門  石神井川の増水時には、水門を閉め切ることにより、水位を1.5mかさ上げすることができ、最大3.1万トンの貯水が可能となります。

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    ・ 石神井川  弁天橋からのショットです。水門を流れ出した水は、富士見池の南縁を回り込む石神井川と合流、弁天橋先で右折して西武新宿線としばらく並行します。

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    ・ 天祖若宮八幡宮  弁天橋の右手、右岸段丘上にあります。三十番神社が明治に入り天祖神社と改称、さらに若宮八幡と合併したもので、村絵図にある弁天社も合祀されています。

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関村溜井

2015-03-27 06:42:14 | 千川用水1

 「溜井 村の西北の方にあり、広さ六十間もしくは百間程の処あり、上下石神井田中谷原及当村五ヶ村組合で修理を加へ用水とす、是を石神井用水と云、余流石神井村にて石神井川に合す」(「新編武蔵風土記稿」) 溜井(現富士見池)は井の頭池、善福寺池などと同様、標高50m前後のところにある湧水池ですが、→ 村絵図が池下に大堤を描くように人工の堰き止め池でもあり、時代、時期によって広さ形状は一定していないようです。現在の富士見池の規模は幅20~80m、長450m、面積2.1ha、本来は1.5m程度の水深ですが、石神井川の調整池としての機能もあり、最大水深は3mほどとなっています。昭和40年代後半には、周囲の宅地化と石神井川の改修により湧水量は激減したため、現在は石神井川からの導水のほか、地下水や早稲田グランドの湧水などを水源としています。

 

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    ・  「迅速測図 / 神奈川県武蔵国北多摩郡田無街及西窪村」(参謀本部測量課 明治13年測量)の一部を加工したものです。現在の石神井川の流路、富士見池を薄いブルーで重ねました。中央左寄りを縦断する黒点線が、新座郡上保谷村と豊島郡関村の境です。

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    ・ 石神井川  前回UPの→ 溜淵橋から下流方向です。現在の富士見池は石神井川の雨水調整池になっていて、左手に見える取水口で、増水時オーバーフロー分を取り込む構造になっています。

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    ・ 富士見池  富士見池は細長いひょうたん型をしており、中央のくびれに架かる中之橋で二分されますが、こちらは芦の島のある上流の区画で、バードウォッチングのスポットです。

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    ・ 富士見池  ボート乗り場のある下流の区画から、乗り場越しに見た中之橋です。ボートの利用は3月15日から11月末まで、料金は一般200円(30分)です。

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関村分水2

2015-03-26 07:12:19 | 千川用水1

 関村分水の二回目で、旧村境(郡境)の道路を北上します。→ 「関村絵図」に「溜井」とあった富士見池まで、ほぼ一直線で迷うことはありません。ただ、この道路と分水路が重なっているのかは、確実な地図、文献がないことから、いつもの青点線は書き込んでいません。ところで、千川上水の農業用水転用の当初から、分水口を設けられていた関村分水ですが、石神井川や溜井(現富士見池)という独自の水源を擁していた関係でしょう、千川用水への依存度は低かったようで、その使用は断続的なものでした。明和7年(1770年)の干ばつの際、分水使用を再開しようとして、下流域の組合村々の反対にあった際の史料が、「千川上水・用水と江戸・武蔵野 /  第七章千川用水の用水組合」に引用されています。結局、明治に入り上下石神井村とともに用水組合から脱退しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 西東京市戸練馬区の境の道路は、千川上水から青梅街道まで、ほぼ直線で140mほどです。

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    2. 青梅街道を越えます。左手にある歩道橋からのショットで見ると、やや谷筋にあるようですが。 

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    3. 青梅街道の先100mほどで右カーブ、石神井川の形成する段丘に差し掛かります。

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    4. 石神井川に架かる溜渕橋です。右写真の上流からのショットの左右に写るのは、早大東伏見グランドの関連施設です。

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関村分水

2015-03-25 06:44:34 | 千川用水1

 昨日UPの三郡橋の下流、300m弱のところに、新座郡上保谷村と豊島郡関村の境がありました。上水復興時の護岸工事見積り、「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)によると、三郡橋と思われる無名の土橋から合計して163間(≒297m)のところに、「関村分水口 保谷関村境」と書かれています。「関村水口内法五寸四方 此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」 これは「東京市史稿上水編」の引用する「千川家文書」の記載で、 宝永4年(1707年)に田用水への転用が認められた当初からの分水のようです。

 

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    ・  「関村絵図」  練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された「関村絵図」中の一葉を元に、その一部をイラスト化したものです。元になった絵図は天明4年(1784年)の作成で、他に文化3年(1806年)のものがありますが、後者には分水路は描かれていません。

 関村分水の流路については、天明以前に存在した、「東京市史稿上水編」の記す当初の関村分水も、このようなルートだったかどうかはわかりませんが、「此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」とあることから、いったん溜井に落ち、石神井川により上下石神井村に向かったのは間違いないところです。上下石神井村は当初、→ 「取調絵図」に描かれたような、独自の分水口を有していなかったものと思われます。

 

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    ・  上保谷関村境  現在の住居表示では、左手西東京市東伏見(4丁目)、右手練馬区関町(南4丁目)なので、この何でもない路地が23区と多摩を分けていることになります。

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    ・  上保谷関村境  最初に左カーブした後は、青梅街道までほぼ直線ですが、「練馬の文化財(千川上水特集号)」に掲載された聞き取りによると、昭和20年代以降の改修の結果です。

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三郡橋

2015-03-24 07:17:57 | 千川用水1

 電通研究所前交差点から百数十メートルのところに、三郡橋(みごおりはし)が架かっています。右岸の多摩郡(関前村、西久保村、吉祥寺村)、左岸の新座郡(上保谷村)、豊島郡(関村)を分かつ位置にあることからのネーミングですが、新座郡と豊島郡の実際の境は三郡橋の下流になります。明治に入り→ 「東京近傍図」に書き込んだように、神奈川県北多摩郡、埼玉県新座郡、東京府北豊島郡の三郡になりました。明治26年(1893年)、北多摩郡を含む多摩3郡が東京府移管、同40年、保谷村も北多摩郡に編入され、すべて東京府に所属することになりました。なお、この橋のところで、右岸は関前村から西久保村となり、実際のところは左岸の上保谷村を含む三村橋でした。

 

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    ・ 千川上水  前回の最後にUPした→ 電通研究所前交差点を越えたところです。ここから青梅街道まで、千川上水の左右に大きな通りはありません。

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    ・ 三郡橋  「千川素掘筋普請所積見分」の当時、「巾弐尺渡壱間」の土橋が架かっていましたが、名前は特に書かれていません。

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    ・ 千川上水  三郡橋から下流方向です。上水は関前橋の前から緩やかな右カーブを描いて、このあたりではほぼ真東に向かっています。

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    ・  上保谷関村境  三郡橋から300m弱の左岸にある上保谷村と関村の境を、千川上水越しに見通したところです。

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右岸の三村2

2015-03-23 07:04:43 | 千川用水1

 武蔵野市を構成する右岸の三村の続きで、関前新田が関前村となった事情です。「元禄の頃は関前新田と唱へしが、享保年中(1716~35年)武蔵野新田開けて元文元年(1736年)大岡越前守忠相検せり、よりて本村は新の文字を除きたゞ村と唱ふ、享保中の新開の地を新田となづけしならん」(「新編武蔵風土記稿」) 享保の新田は呑用水のところで触れたものです。なお、関前新田と関前村の境は、「千川素掘筋普請所積見分」の数字で、五日市街道から626間(≒1140m)、関前村の東端にあたる三郡橋まで126間(≒229m)のところなので、前回UPの→ 「東京近傍図」の最上流に架かる、(現在はない)無名橋のあたりです。

 

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    ・ 千川上水  電通研究所前交差点の手前で暗渠に入るところです。関前新田と関前村の境はこのあたりにあったものと思われます。

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    ・ 電通研究所前交差点  前をクロスする道路は、武蔵野大前交差点以降、右手を並行していた道路(都道7号線)で、左手に向かい青梅街道と連絡しています。

 <中島飛行機跡地>  前回の「近傍図」にグレーで重ねたのが中島飛行機武蔵野製作所(のち武蔵製作所)の敷地、うち薄緑は米軍宿舎をへて、現在は武蔵野中央公園になっています。中島飛行機が当地で操業を開始したのは昭和13年(1938年)、最盛期には徴用工員や動員学徒など5万人に及ぶ従業員をようし、隼やぜロ戦のエンジンを製造していましたが、昭和19年11月24日以降、十回近い空襲によって、壊滅的な打撃を受けます。戦後は米軍に接収され、グリーンパークと呼ばれますが、順次返還され、昭和26年には武蔵野グリーンパーク野球場でプロ野球が行われ、翌年には上掲写真の交差点名にある電通研究所(電気通信研究所、現NTT研究開発センタ)が移転してきました。なお、野球場は数年で解体され、現在は都市再生機構(UR)の武蔵野緑町パークタウンです。

 

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    ・ 武蔵野中央公園  平成元年に開園した原っぱとスポーツ広場中心の公園で、面積はおよそ10haです。なお、正面奥はNTT研究開発センタです。

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右岸の三村

2015-03-20 07:03:36 | 千川用水1

 境橋で玉川上水から分かれて以降、吉祥寺橋で市境と分かれるまで、千川上水の右岸は4kmにわたって武蔵野市で、江戸時代には上流から関前新田、西久保村、吉祥寺村となっていました。これら三村は、いずれも明暦の大火後の新田開発によって成立したものです。下掲「近傍図」でも明らかなように、短冊状の区割りがその由来を物語っていますが、区割りは五日市街道を挟んで両側に、20間(≒36.4m)×635間(1160m)の細長い長方形が並び、街道に面して住居、その奥が畑、さらに奥が木材や燃料用の山林でした。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部に加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、左上から西東京市、練馬区、武蔵野市です。 

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    ・ 関前橋  前を通る幅広の伏見通りですが、橋ともども昭和10年代の新設で、昭和13年(1938年)に操業を開始し、零戦のエンジンなどを製造した中島飛行機がらみと思われます。

 <関前村>  関前新田(のち関前村)の成立は、江戸市中から移転してきた他の二村とは異なり、千川上水を挟んで東北に位置する関村の名主、井口氏が新田を開発、村名もその関村の前の新田の意で名付けられました。「関前村は、郡の東北にあり、村の名義は当村より東北にあたりて関村と云あり、其所の農民出て開発せり、故に其まゝ各名づけしと云、開発の年代を詳にせざれども、是も万治の頃の開発なるべしと里人いへり、」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 関前八幡神社  「新編武蔵風土記稿」に「村内の鎮守」とあり、鳥居は五日市街道に面しています。なお、関前橋前後の右岸の住居表示、武蔵野市八幡町(1~4丁目)はこの神社が由来です。

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平井水車2

2015-03-19 06:44:28 | 千川用水1

 昨日UPした千川橋前後の左岸には、ほぼ400mにわたって水車用水が並行していました。平井家所有の水車のうちの、二台目にかかわるもので、所在地から字坂上の水車といわれています。「千川家文書」中、明治38年(1905年)の「千川水路水車取調書」は、一台目と同様、針金製造用としていますが、こちらは、昭和15年(1940年)、武蔵高等学校の生徒による調査当時も稼働していて、以下はその「千川上水」の引用です。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年測図) / 吉祥寺」  中央やや下に架かるのが、(当時の橋名は不明ですが)千川橋です。

 「川はこれから(五日市街道を過ぎてから)雑木林に入り、小徑がこれに沿って通じてゐる。約三百米の下で流は半ば堰止められ、左へ小徑を横切って、この堰から四百米下流の水車小屋に送られ、製粉に用ひられてゐる。因に千川の流を利用した水車小屋は、昭和四年頃に於てすら六ヶ所を數へ得るのであるが、、現在は僅かにこゝを加へて三ヶ所しか残ってゐない。」 一方、「ねりまの文化財(千川上水特集号)」の聞き取りでは、「柳沢三-2、現在岩崎家の有料駐車場があるところに、中島飛行機の部品を作っている小さな工場があった」とあり、戦時中は軍需工場に転用されたのでしょう。なお、当時水車のあった三ヶ所は、今井水車のほか、筋違橋の田中水車、八成橋の斎藤水車ですが、各々該当個所で改めて扱うつもりです。

 

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    ・ 平井水車跡付近  千川橋から200m下った、こいこい橋やや下流の左岸で、住所は「ねりまの文化財」のいう「柳沢三-2」です。

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    ・ 千川上水  上掲写真に写る小橋から上流方向です。ここからはほぼ直線なので、200m先にある関前橋がチラッと見えています。

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上保谷新田

2015-03-18 07:04:40 | 千川用水1

 分水口から五日市街道を過ぎるまで、千川上水の左岸を占めるのは旧上保谷新田です。「本村の民伊右衛門なるもの開発せり其年歴詳ならす、地形は東の方へ長く千川上水の水涯に至り凡十八町許西は多摩郡田無村に隣れり、江戸を離れること六里・・・・」 「新編武蔵風土記稿」の引用ですが、同書は別のところで、「上保谷新田は郡の東北にあり、享保年中上保谷村より開きし故に斯唱えしか」と書いていて、本村は上保谷村、開発年代は享保年中と分かります。享保の改革の一環として、享保7年(1722年)に開始され、大岡越前守が担当した武蔵野新田開発の一翼を担うものでした。現在の西東京市新町(1~6丁目)が中心ですが、五日市街道を越えた柳沢や東伏見の一部も元の上保谷新田に属しています。

 

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    ・ 千川上水  武蔵野大前交差点で右折する五日市街道と分かれ、暗渠から流れ出た直後の千川上水です。平成27年3月現在、遊歩道などを整備中なので、数年前の写真を使いました。

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    ・  千川上水  葭窪橋から下流方向です。葭窪(よしくぼ)は右岸が武蔵野村(のち町、市)大字関前当時の字で、左岸の保谷村(のち町、市)大字上保谷新田には字、葭窪北台もありました。

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    ・  千川橋  右岸の千川小学校からそう名付けられたのでしょう。一方、左岸の住居表示は西東京市柳沢(1~6丁目)ですが、柳沢は「新編武蔵風土記稿」にも収録された上保谷村の字でした。

 <上保谷村>  「上保谷村は新倉郷広沢庄に属し郡の南にあり江戸を離ること五里、此村は土地平かなれとも水利宜しからされは古来より畑なり、保谷氏の人主として開墾せし故にこの名あり、・・・・東西(東南?)は千川上水の流を隔てゝ是も同郡関前村に隣り東は豊島郡関村により、村内に青梅街道かゝり西の方田無村に達せり、この村開墾の年代はたしかに伝へされと北条分限帳にも地名を載せされは永禄以後御討入の前後なるへし」(「新編武蔵風土記稿」) 保谷氏云々に確証はなく、江戸初期には穂屋、穂谷が使われていることから、穂の茂る(地味豊かな)の意との説もあります。また、「北条分限帳にも地名を載せされは」とありますが、太田大膳亮の所領として「小榑(こぐれ)保屋」が載っています。


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関前五差路

2015-03-17 07:30:50 | 千川用水1
 

 境橋北詰めから1.25km、千川上水と並行してきた五日市街道ですが、武蔵野大前交差点で右折、吉祥寺方面に向かいます。この交差点はまた、北上して川越に至る古道とも交差し、上保谷新田に向う鈴木街道の起点でもあります。こうした交通の要所であることから、周辺には、関前や上保谷の歴史を物語る石碑、石塔がいくつか保存されています。そのうち、鈴木街道入口に立つ庚申塔は道しるべを兼ねていました。正面下部に「北 たなし きよと 川ごゑ ところざハ 東 江戸道」とあり、右側面の「右 小川 村山道」、左側面の「左 〇〇〇 すな川 八王子道」は、それぞれ鈴木街道、五日市街道の向う先ということになります。

 

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    ・ 「関前村五路集合点」  「迅速測図 / 神奈川県武蔵国北多摩郡田無街及西窪村」の挿絵です。視点は昨日UPの→ 写真の奥から見返す形で、右手奥に鈴木街道入口に立つ庚申塔があります。

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    ・ 庚申塔  上保谷新田の開発から60年後の天明4年(1784年)、天明の飢饉のさなか建立されました。正面上部に庚申の種子(しゅじ / 如来や菩薩などの仏を梵字で標示したもの)「ウン」、中央に「庚申塔」の文字が刻まれています。

 <井口橋>  「迅速測図」には橋も描かれていますが、交通の要所とあって、上水開設の当初から橋が設けられました。関前村(当時は本村昇格前の関前新田)の名主井口家は、その功により名字帯刀を許されたと伝えられ、また橋は井口橋と通称されました。「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)に、「関前石橋 石四枚巾五尺渡り壱間 橋上ニ而・・・・往還」とあるのは、この石橋のことと思われます。

 

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    ・ 石橋供養塔  天保12年(1841年)建立で、交差点を暗渠で抜けた千川上水が、再び地上に出る右岸のフェンス内にあります。井口家文書ある碑文の草稿には、村民の総意や近隣の助成を得て付け替えたことなどが記されています。

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五日市街道

2015-03-16 07:12:17 | 千川用水1

 杉並区梅里1丁目で青梅街道から分かれ、吉祥寺、砂川を経て伊奈宿、五日市宿(現あきる野市)に至る全長42kmの街道で、横田基地周辺など一部を除き、現在の都道7号杉並あきる野線とほぼ重なっています。江戸城と江戸市街建設時には石材を、やがて秋川谷の炭荷や沿道の作物を江戸に運ぶ生活道路となり、当初は伊奈道、やがて五日道、青梅街道脇道などと呼ばれていました。各区間ごとのローカルな名前もあり、玉川上水・千川上水の左岸に沿っていたこのあたりでは、砂川道、江戸道が一般で、五日市街道となったのは明治以降のようです。玉川上水とその分水が開削され、武蔵野台地の新田開発が促されると、街道沿いに大宮前、中高井戸、松庵、吉祥寺、西久保、関前、保谷などの各村が誕生、玉川上水と五日市街道は武蔵野新田の二大ライフラインでした。

 

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    ・ 武蔵野大学前交差点  左手が武蔵野大学キャンパス。千川上水と遊歩道は直進、五日市街道は右カーブで分れ、吉祥寺駅方面に向かいます。→ 「東京近傍図」のように、本来は五差路になっていました。
 

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    ・ 五日市街道  武蔵野大学前交差点で右カーブ、吉祥寺駅方向に向かう五日市街道です。およそ11kmで、高円寺陸橋手前の青梅街道との分岐点に至ります。

 <御門訴事件記念碑>  五日市街道を吉祥寺方向へ150メートルほどのところに、御門訴事件記念碑が建っています。明治2年(1869年)、新政府は社倉制度(飢饉に備えた貯穀制度)を布告します。これを実質的な増税ととらえた関前村など武蔵野新田12ヶ村は、翌明治3年1月、700余名をもって当時の管轄庁である品川県庁に門訴します。門訴というのは門前での直訴で、門内に入ると強訴として重罪になります。結果、出穀量の減免を得ましたが、農民側も50余名が逮捕、うち数名が犠牲という代償を払いました。

 

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    ・ 御門訴事件記念碑  明治27年(1894年)、犠牲者を慰霊し事蹟を後世に伝えるため建立されました。碑文の撰者中島信行は、当地が品川県から神奈川県に管轄がえとなった後の神奈川県令で、のち自由党副総裁、最初の衆議院議長です。

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平井水車

2015-03-14 06:58:53 | 千川用水1

 前回UPした→ 「空中写真」の左岸の弧状の水路に注目です。保谷新田の名主、平井家の設置した水車用の回し堀で、→ 「元治元年取調絵図」にも、江戸道(五日市街道)手前の長い回し堀が描かれ、「名主伊左衛門 水車一ヶ所」と付記されています。明治に入っても存続し、→ 「東京近傍図」や明治17年頃の「千川上水路図」にも描かれています。また、「千川家文書」中、明治38年(1905年)の「千川水路水車取調書」によると、平井家はいずれも針金製造用に二ヶ所の水車を所有していました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中撮影」  茂みに隠れて見えませんが、五日市街道が左カーブをしている個所の左下が境橋、その左カーブ付近から千川上水は開渠となり、前回の「空中写真」へと連続します。 

 ただ、武蔵高校の生徒が訪れた昭和15年(1640年)当時、稼働していなかったようで、前々回引用した同校の「千川上水」では「水車用水の跡」となっています。一方、練馬区教育委員会「ねりまの文化財(千川上水特集号)」の聞き取りによると、「終戦直前に平井家の水車を譲り受け、のちに水力を電力に換え、安間伸銅所として昭和60年代まで経営していました。」とあり、「空中写真」当時は稼働していたことになります。同書の別の個所には、「水車を営業していた平井家も昭和初めにこの地を離れてしまい」とあり、一時休業していたものが所有者を変えて再稼働したということなのでしょう。

 

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    ・ 五日市街道  境橋の北東100m弱のところで、左カーブを抜け直線に入る五日市街道です。上掲「空中写真」で、五日市街道の左手に水路が出現しているのは、このあたりと思われます。

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    ・ 千川上水  柳橋、柳橋交差点手前の千川上水です。「ねりまの文化財」には、「(平井水車の)跡地には自動車販売関係のビルが建って」いるとあり、この付近なのでしょう。

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井ノ頭通り

2015-03-13 10:07:34 | 千川用水1

 境橋北詰めから武蔵野大学前までの1.25km、五日市街道の上下車線を分かつ千川上水沿いの遊歩道を先に進みます。遊歩道の起点から400mほどで、井ノ頭通り(水道道路)と交差します。羽村で取水された多摩川の水が、多摩湖(村山貯水池)、東村山浄水場、多摩湖自転車道経由でここまで送られ、さらに境浄水場を経由して→ 和田堀給水所と向かうわけで、現代の玉川上水ともいえるライフラインです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中撮影」  左下隅で上水と交差しているのが井ノ頭通り、右上隅が都道12号線との柳橋交差点で、柳橋が架かっています。あと、左岸に写る孤状の水路は次回のテーマです。

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    ・ 千川上水と上水沿いの遊歩道  右手が井ノ頭通りの終点です。通りとしては終点ですが、本来の機能である、境浄水場・和田堀給水所間の水道管敷としては、ここから始まります。

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    ・ 多摩湖自転車道  上掲写真の左手です。ここから東村山浄水場、多摩湖までのおよそ10kmをほぼ直線で結ぶ狭山・境緑道と、多摩湖を一周する道路からなる多摩湖自転車道の起点です。

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    ・ 井ノ頭通り 上掲写真の反対方向で、400mほどの右手が境浄水場です。正門は → こちらですが、井ノ頭通りではなく、途中で直交している都道12号線に面しています。

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