武蔵野市を構成する右岸の三村の続きで、関前新田が関前村となった事情です。「元禄の頃は関前新田と唱へしが、享保年中(1716~35年)武蔵野新田開けて元文元年(1736年)大岡越前守忠相検せり、よりて本村は新の文字を除きたゞ村と唱ふ、享保中の新開の地を新田となづけしならん」(「新編武蔵風土記稿」) 享保の新田は呑用水のところで触れたものです。なお、関前新田と関前村の境は、「千川素掘筋普請所積見分」の数字で、五日市街道から626間(≒1140m)、関前村の東端にあたる三郡橋まで126間(≒229m)のところなので、前回UPの→ 「東京近傍図」の最上流に架かる、(現在はない)無名橋のあたりです。
・ 千川上水 電通研究所前交差点の手前で暗渠に入るところです。関前新田と関前村の境はこのあたりにあったものと思われます。
・ 電通研究所前交差点 前をクロスする道路は、武蔵野大前交差点以降、右手を並行していた道路(都道7号線)で、左手に向かい青梅街道と連絡しています。
<中島飛行機跡地> 前回の「近傍図」にグレーで重ねたのが中島飛行機武蔵野製作所(のち武蔵製作所)の敷地、うち薄緑は米軍宿舎をへて、現在は武蔵野中央公園になっています。中島飛行機が当地で操業を開始したのは昭和13年(1938年)、最盛期には徴用工員や動員学徒など5万人に及ぶ従業員をようし、隼やぜロ戦のエンジンを製造していましたが、昭和19年11月24日以降、十回近い空襲によって、壊滅的な打撃を受けます。戦後は米軍に接収され、グリーンパークと呼ばれますが、順次返還され、昭和26年には武蔵野グリーンパーク野球場でプロ野球が行われ、翌年には上掲写真の交差点名にある電通研究所(電気通信研究所、現NTT研究開発センタ)が移転してきました。なお、野球場は数年で解体され、現在は都市再生機構(UR)の武蔵野緑町パークタウンです。
・ 武蔵野中央公園 平成元年に開園した原っぱとスポーツ広場中心の公園で、面積はおよそ10haです。なお、正面奥はNTT研究開発センタです。