神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

字谷端2

2019-05-31 06:19:57 | 谷端川・小石川2

 谷端川を暗渠化した通りは左カーブで向きを東に転じ、400mほどで明治通りを越えます。そこに鎌倉橋が架かっていました。昭和の初めに拡張、整備される以前の旧道が、滝野川村のところで引用した「新編武蔵風土記稿」にもあった、鎌倉街道と目されていることからのネーミングです。→ 「沿革図書附図」にも、田楽橋の個所に次いで橋が描かれていますが、当時からそう呼ばれていたかは不明で、「東京府志料」の橋梁リストにその名はありません。なお、この旧道はおおむね西側の滝野川、池袋及び新田堀之内村と東側巣鴨村の境であり、町奉行支配を画する墨引きとも重なっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大きく左カーブです。ここには大正に入って谷端橋が架けられ、下水道千川幹線の起点でもあります。 

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    2. ここから先はおおむね右カーブで、左手に孤を描いています。 

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    3. 右写真は左岸段丘斜面にある南谷端公園で、「谷端復興区画整理竣工記念碑」が建っています。

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    4. 明治通り手前です。右カーブが続きます。

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    5. 明治通りを越えます。右写真は中山道方向で、300mほどのところに千川上水の終点があります。

字谷端

2019-05-30 06:06:13 | 谷端川・小石川2

 板橋駅東口の駐輪スペースから、地図でもそれとわかるクネッた道路を南に向かいます。左手北区(滝野川7丁目)、右手豊島区(上池袋4丁目)の区境でもあり、水路跡の道路の典型のような区間です。前回も触れたように、「費用の節約を計る為、概して在来河川を利用」、昭和10年ころまでに改修、暗渠化を一挙に行ったため、流路の名残を強くとどめることになったのでしょう。なお、タイトルの谷端(やばた)は左岸、滝野川村の字でした。「新編武蔵風土記稿」には谷畑(ヤハタケ)として収録されています。明治に入り滝野川村大字滝野川の小字として、北谷端、南谷端に引き継がれましたが、現在は小学校や公園にその名を留めるだけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 板橋駅東口の駐輪スペースから再開、奥の通りを南下します。  

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    2. 上掲「地形図」で水路が二重になっているのは、水車の回し堀です。   

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    4. 信号の先で右手から合流する路地は、明治末の「郵便地図」の描く右岸流と重なります。

板橋駅前2

2019-05-29 06:08:16 | 谷端川・小石川2

 板橋駅でJR埼京線を越えると、再び細長い駐輪スペースになっていますが、すぐに一般の道路の一部となって南に向かいます。ここから合流地点の水道橋まで、上流区間のような緑道に遭遇することはありません。ところで、下掲の「空中写真」では、開渠の谷端川が板橋駅を越えたところで左カーブ、北に向きを転じているように見えます。これは昭和10年頃までに完成した付替えの結果で、JR線の東側を北に向かい、石神井川に放流する水路へと接続したためです。その際、上流と切り離された下流域は、周辺の雨水、生活排水を集める排水路となり、暗渠化されて一般の道路の一部となりました。

 

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    ・ 「明治22年米軍撮影の空中写真」  右上隅を蛇行しているのが暗渠化された千川上水です。平成元年に復活した千川上水の余水、一日三千トンも、上記放水路を経由して石神井川に放流されていました。 

 以下は東京府の事業として、昭和5年(1929年)閣議で決定、認可された、(西前橋・山手線間約3kmの)谷端川改修計画の概要の抜粋です。「本川改修は上流より板橋放水路に到達する流水の全部を同放水路によりて石神井川に放流せしめ、夫より下流々域内の雨水汚水のみを流下せしむるものとす。改修は費用の節約を計る為、概して在来河川を利用し、局部的には甚しき屈曲は是を矯正し、且勾配を平均するものとし、板橋放水路より上流の区間を矩形開渠と為し、夫より下流巣鴨町下水道に接続する区間は同町下水道計画と同様全部暗渠となす」

 

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    ・ 板橋駅前  東側にある駐輪スペースです。本来の谷端川は左手に向かっていましたが、付替え後は右手に向かい石神井川に余水を落とすことになります。 

 なお、板橋放水路は上流域の水量調整のため、東京市下水道速成事業の一環として、大正末には開削されていました。また、昭和33年(1958年)の狩野川台風による洪水被害を経て、同40年には下板橋駅付近から石神井川への第二放水路も完成、相前後して、戦後暫時行われてきた上流域の暗渠化も完了しました。(→ 写真はJR埼京線鉄橋下の板橋放水路の放水口です。現在は谷端川緑道下を流れる谷端川雨水幹線と連続、復活した千川上水の余水も一時放流していましたが、目下管渠の老朽化の調査のため停水中です。)

 


板橋駅前

2019-05-28 06:02:55 | 谷端川・小石川2

 一の橋まで戻り、谷端川緑道を東に向かいます。すぐに右カーブで東南に向きを転じ、板橋駅の下でJR埼京線に突き当たったところで終了です。ところで、 → 「明治42年測図」には一部しか描かれてはいませんが、滝野川、池袋の境に沿う流れや池袋の支流などは、全てJR線手前で一本となっていました。→ 「沿革図書附図」で、側流が合流しているのは、より下流のおそらく現明治通りの手前なので、板橋駅開業時にそのように付替えたものでしょう。なお、同駅の開業は明治18年(1885年)、当時は日本鉄道品川線(品川・赤羽間)の新宿に次ぐ駅でした。国鉄の駅となったのは同39年に日本鉄道の国有化に伴ってです。

 

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    ・ 谷端川緑道  下板橋駅前から続く、板橋区管理の谷端川児童遊園の区間です。ここまでほぼ直線で東に向かってきたものが、ここで右カーブして板橋駅に向かいます。

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    ・ 板橋駅前  板橋駅前から南方向にある谷端川の谷筋を見ています。撮影場所の背後100m弱を千川上水が流れ、さらにその奥が旧中山道という位置関係です。 

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    ・ 板橋駅前駐輪場  谷端川緑道の先端は駐輪スペースとなり、JR埼京線に突き当たって終了します。正面は築堤上の板橋駅で、開業当時から谷端川の谷筋を築堤でまたいでいたようです。

 <板橋>  板橋駅のあるところは、江戸時代滝野川村に属していましたが、明治22年(1889年)板橋町大字滝野川となりました。本来の板橋は中山道沿いに発達した、平尾宿、中宿、上宿からなる宿場町ですが、地名自体はさらに古く、延慶本「平家物語」や「義経記」にも登場、「小田原衆所領役帳」には当地を領する板橋氏の名も見えます。地名由来については、石神井川に架かる板橋から発祥とするのが一般ですが、その場所、規模など詳細は伝わってはいません。江戸時代には中宿と上宿の間にある板橋が有名だったため、 → 「江戸名所図会」は「駅舎の中程を流るる石神川に架する小橋あり、板橋の名ここに発るとぞ」としています。

 


池袋の支流6

2019-05-27 06:11:45 | 谷端川・小石川2

 上池袋二丁目アパート南端に戻り、西側から合流する谷筋をさかのぼります。→ 「池袋村絵図」の描くこちらの水路は、雑司ヶ谷道から発し、小石川道を横切っており、各々に橋も架かっています。雑司ヶ谷道は現在の平和通りにあたり、小石川道は川越街道から本町中央通りにかけてなので、おおよその流路をたどることができます。ただ、明治末の「郵便地図」に水路は描かれておらず、今では川越街道、豊島清掃工場、JR線と寸断され、→ 「段彩陰影図」で見るように谷筋も不明瞭になっていて、正確にたどることは困難です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 谷筋の底にある道路を西に向います。水路と重なるかは不明なので、青点線は書き込んでいません。

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    2. 川越街道と高架の首都高5号池袋線を越えます。右写真は越えた先の左手からのショットです。 

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    3. 1999年竣工の豊島清掃工場です。その煙突の高さは210mあり、都内の工場煙突としては最も高いそうです。 

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    4. 清掃工場、JR線、東武東上線を越えた先の、やはり谷筋の底にある道路です。

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    5. 平和通りの手前に差し掛かります。このあたりに池を描いた明治期の地図もあります。 

池袋の支流5

2019-05-25 06:29:24 | 谷端川・小石川2

 二つある谷頭の合流地点に来ました。今回は南側のものをさかのぼります。→ 「池袋村絵図」に描かれているように、こちらの水路は巣鴨村との境近くから発していました。橋が二ヶ所描かれていますが、小石川道に架かるものは現六ツ又陸橋付近にありました。もう一つはサンシャイン60の手前にあったものと思われます。いずれにしても、都市開発の波に埋もれて、その痕跡をたどることは困難です。なお、村絵図にある御成稲妻道や御成七曲りは、八代将軍吉宗が鼠山での鷹狩の折、あえてジグザグに馬を乗り入れて作物を荒らし、その対価を支払ったとの伝承のあるところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」と「同 / 早稲田」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 上池袋公園の南隣にある上池袋二丁目アパートの先です。南に向かう路地から再開します。

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    2. JR線手前で中断します。なお、水路跡かは不明なので、いつもの青点線は書き込んでいません。 

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    3. 明治通りの堀之内橋の西側でJR線を越え、その先の路地へと連続します。 

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    4. 路地の出口は六ツ又陸橋手前です。正面奥にサンシャイン60が見えています。

池袋の支流4

2019-05-24 06:35:42 | 谷端川・小石川2

 東武東上線、JR埼京線、それにJR池袋運転区の何本もの線路を越えるところからです。ここには昭和4年(1929年)以降、谷筋とほぼ同じ位置に堀之内跨線人道橋、通称どんどん橋が架かっていましたが、平成23年に老朽化を理由に撤去されました。線路を越えた先にも水路跡と重なる路地がありますが、上池袋公園に突き当たって中断するまでです。なお、前回から引き続きこの水路が右手池袋、左手新田堀之内の村境となっていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 南側に架かる川越街道、富士見橋からのショットで、左から東上線、埼京線、そして池袋運転区の線路を越えます。

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    2. 線路の先です。右写真は左手からのショットで、谷筋は明らかです。 

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    3. 一見ここまでのようですが、奥の狭い路地に連続します。 

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    4. 上池袋公園に突き当たります。右写真はその西側の道路で、かっての細長い田圃の西縁にあたります。

 <新田堀之内村>  「新田堀之内村は、元禄以前梶原堀之内村より分郷す、故に元禄の国図に始て堀之内新田村と出たり、其後何の比よりか転倒して今の唱となれり、日本橋より行程二里に足らず、戸数三十、東は巣鴨村西南北は池袋村に隣れり、東西三町半南北二町半許・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) 梶原堀之内村は北東に3kmほどの、現北区堀船(1~4丁目)にあった村で、現在名の堀船は隣村船方村との合成地名です。なお、右岸段丘上にある子安稲荷神社の写真は→ こちらです。「新編武蔵風土記稿」に「稲荷社 村鎮守にて村民持」と書かれています。

 


池袋の支流3

2019-05-23 06:24:50 | 谷端川・小石川2

 一の橋で谷端川に合流していた支流を追っての三回目で、北池袋駅前から東武東上線、JR線を横切るまでです。巣鴨村(のち西巣鴨町)大字池袋の時代、今回の谷筋の下流域は雲雀ヶ谷戸、上流域の字は下り谷でした。前回最後の北池袋駅前の通りが両者の境になっていて、今でも池袋本町の1丁目と4丁目を分けています。もっとも、ここより上流の右岸は、→ 「池袋村絵図」にあるように新田堀之内村に属し、明治以降は大字新田堀之内となっていたため、昭和9年(1934年)開業当時の北池袋駅は、当初は東武堀之内駅と呼ばれていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左手は北池袋駅前にある西念寺です。その脇を右カーブで抜けます。 

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    2. 右カーブの先は200mほどの直線コースが続きます。

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    3. 右写真は北池袋駅南側の踏切からのショットで、谷筋の底にあるのがよく分かります。 

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    4. これまでも見え隠れしていましたが、一帯のランドマーク、豊島清掃工場の排気塔が大きく見えてきました。 

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    5. 東武東上線に突き当たって中断します。左手奥はもう一つのランドマーク、サンシャイン60です。

池袋の支流2

2019-05-22 06:24:50 | 谷端川・小石川2

 一の橋で合流していた支流をさかのぼっての二回目で、東武東上線の踏切を越えた先からです。この支流は江戸時代から明治にかけて、→ 「池袋村絵図」にあるように、細長い田圃の両縁に沿う二本の水路からなっていました。それが、大正末ないし昭和初めの改修によって、元の水路とほぼ重なる道路が二本でき、うち東側の道路に沿って水路が設けられました。今回一の橋からさかのぼっているほうです。田圃から宅地への転換に伴い、農業用水路から生活排水路へと機能を変え、単線かつ直線的な付替えがされるのは、これまでも度々目にした、都市近郊の小支流の一般的な変遷史ではあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 東上線の踏切の先です。右写真は一つ西側の通りからのショットで、見通せる数十メートルが田圃の幅でした。 

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    2. 左カーブの先で越える通りは「村絵図」にも描かれていて、右手に行くと氷川神社です。

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    3. 昭和の初めの詳細図を見ると、水路はこの右手を並行していました。 

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    4. 右写真は池袋中脇からのショットで、ここでの田圃の幅は100m弱に広がっていました。 

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    5. やはり「村絵図」に描かれた通りを越えます。今では北池袋駅改札口前の商店街になっています。

池袋の支流

2019-05-21 06:54:41 | 谷端川・小石川2

 一の橋で右岸から合流する支流がありました。→ 「段彩陰影図」で、池袋六又交差点付近を起点に、北池袋駅の南でJR線、東武東上線を越え、下板橋駅の東側で合流する谷筋にかかわるものです。谷頭は元は二つあり、→ 「沿革図書附図」では、その各々から発した二本の水路が、やがて並行する様子が描かれていますが、→ 「池袋村絵図」にもあるように、二本の水路の間は細長い田圃になっていました。その規模からいって支流と呼ぶべきものですが、名称に触れた文献は未読なので、ここでは仮に池袋の支流としておきます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 王子」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。今回の水路は描かれていませんが、おおむね田圃の両縁に沿って二本流れていました。

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    1. 一の橋の合流地点ですが、直線的な付替えの結果そうなったものです。  

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    2. 区境を横切ります。区境沿いに側流が流れていたことは度々触れました。  

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    3. やや右に折れますが、ここから先は付替え以前の流路(そのうち田圃の東縁に沿う右岸流)とほぼ重なります。

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    4. 下板橋駅の東側(池袋寄り)で東武東上線の踏切を越えます。

三つの橋

2019-05-20 06:31:50 | 谷端川・小石川2

 東武東上線下板橋駅前の右カーブから、遊歩道(谷端川児童遊園)が再開します。JR埼京線板橋駅まで、駐輪スペースと交互に続きますが、そこには三つの橋が架かっています。上流から三の橋、二の橋、一の橋で、いずれも「昭和4年第三回修正」で初めて登場しています。なお、この区間の谷端川は、これまでと違って板橋、豊島の区境とはなっていません。前回も触れたように、一つ南側の通りとその延長線上がそうなっています。これは、江戸時代に滝野川、池袋の村境が右岸の側流にあったことの名残です。

 

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    ・ 三の橋  右岸方向のショットです。100mほどで東上線の築堤ですが、かっての田圃の南縁にあたり、また中ほどには前回触れた村境の用水が流れていました。  

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    ・ 一の橋  アーチの先は一の橋で、谷端川に架かる現存する最後の橋になります。なお、ここには右岸からの合流がありましたが、次回以降のテーマとします。 

 <お多福弁天>  下板橋駅前の道を数十メートル北に向かった右手に、お多福弁天が祀られています。その由来書によると、一帯はお多福弁天沼と呼ばれる沼地で、400年以上前に甲斐武田家の池田内匠という家臣が、守り本尊の弁天を祀ったのが最初だそうです。当初は谷端川を守る弁天として、橋かけ弁天と呼ばれたとも。→ 「池袋村絵図」で「弁天前道」とあるのは、おそらくこの弁天の前を通る道のことです。(駅前通りに面したビルの一角に祀られたお多福弁天の写真は→ こちらです。明治21年(1888年)に造られた石の祠は、弁天池から遷されたと伝えられています。)

 


滝野川村

2019-05-18 07:05:56 | 谷端川・小石川2

 「滝野川村は古き地名なり、・・・・日本橋への行程二里、戸数百十八、東は西ヶ原村西は下板橋宿、南は巣鴨村北は石神井川を隔て王子村、東西廿町余南北十二町、用水は仙川分水の下流を引沃く、村の東の方日光御成道南の方中山道係れり、又金剛寺より南の方石神井川の対岸小高き処鎌倉古街道の跡と云、今其所は村民の宅地なり、『南向茶話』鎌倉古海道のことをいへる條に、高田馬場より雑司ヶ谷法明寺脇通り(中略)中山道を横きり、谷村瀧の川村を経て豊島より千住の方へ古の道筋なりとあり、谷村は村の小名谷津なるへし」(「新編武蔵風土記稿」) 最後の鎌倉街道については、面影橋や雑司ヶ谷鬼子母神など、随所に出てきましたが、谷端川や中山道とは、現明治通り付近で交差していたと目されています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は滝野川村当時の町村、大字境です。  

 冒頭の「滝野川村は古き地名なり」の続きの中略した個所です。「『源平盛衰記』頼朝隅田川を渡て府中へ趣し條に、武蔵国豊島郡上瀧の川松橋と云処に陣取由を載せ、及『豊島系図』に宮城八郎重中か次男滝野川太夫五郎信久、信久子滝野川次郎信川、・・・・とみえ、是等皆当所に住して在名を氏に唱へしならん、・・・・村名の起りは村の北王子村境を流るゝ石神井川、急流にして水声四方に響く事瀧にひとしとて瀧の川と唱へ始めしより村名ともなせりと、村内金剛寺松橋弁天の縁起にいへり」 (同書の挿絵、「瀧の川之図」は → こちらでどうぞ。)

 

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    ・ 八幡神社  「八幡社 村の鎮守なり、金剛寺持にて羽黒派修験宝隆院社を守れり」(「新編武蔵風土記稿」) 別当だった瀧河山松橋院金剛寺の写真は→ こちらです。

 ところで、明治22年(1889年)町村制の実施に伴い滝野川村や板橋町が成立した際、旧滝野川村の一部(字平尾、北谷端)が切り離され、板橋町大字滝野川となりました。上掲「近傍図」で中山道と谷端川に挟まれたJR線の西側の区画です。これは下板橋宿からの合併意見書が認められたもので、明治18年には板橋駅が開業しており、中山道の宿場町だった下板橋が、鉄道の駅まで範囲に取り込もうとしたためでしょう。この行政区分は現在に引き継がれ、JR以西は板橋区板橋、東は北区滝野川となっています。

 


下板橋駅前

2019-05-17 06:11:06 | 谷端川・小石川2

 谷端川は東武東上線下板橋駅前で左カーブ、東上線を越えますが、越える前後で緑道は中断し、かわって細長い駐輪スペースとなっています。注目は、東上線を越える際、ほぼ直交するようになっていることで、これは元の流路でないのはもちろん、区画整理によってそうなったのでもありません。大正3年(1914年)の東上線(当時は東上鉄道)開通時の改修で、鉄道や幹線道路とクロスする際、直交する付替えは一般的です。なお、東上線を越えたあと右カーブで駅前広場を横切ります。ここは→ 「池袋村絵図」で「弁天前道」と書かれ、→ 「東京近傍図」にも描かれた古道でした。谷端川右岸は引き続き池袋村ですが、左岸はこの道を境に金井窪村から滝野川村に移ります。

 

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    ・ 駅前駐輪場  左カーブで東上線を越えるところです。直接の踏切はないので、東上線を越えるには右手に写る下板橋駅前まで迂回しなければなりません。 

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    ・ 駅前駐輪場  東上線を越えた先です。本流はこの先で右カーブですが、右手に入る→ 通りはかっての村境、現在は板橋、豊島の区境になっていて、前回触れた堰からの右岸流が流れていました。 

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    ・谷端川児童遊園  上掲写真の右手奥に写るアーチから、板橋区管理の児童遊園が再開されます。その先JR板橋駅前まで、児童遊園や駐輪スペースが続きます。

 「いたばしの地名」(板橋区教育委員会 平成7年)によると、下板橋駅前には谷端橋と田楽橋が架かっていました。どちらも「池袋村絵図」のいう「弁天前道」にかかわるようで、うち谷端橋は村境(現区境)沿いの右岸の用水に架かっていたようです。田楽橋のほうは右カーブのところに架かる橋に、そう書き込んでいる地図もあります。「いたばしの地名」には、「川が二つ流れていて、それをつなぐ橋があり田楽豆腐のようになっていたので田楽橋と名付けられた」との古老の話が紹介されています。なお、子易神社境内に長さ10尺ほどの→ 遺構が保存されており、「田楽橋」、「明治四十三年七月竣成」と刻まれています。


谷端川北緑道2

2019-05-16 06:51:29 | 谷端川・小石川2

 谷端川北緑道に戻り、豊橋の手前から東上線下板橋駅方面に向かいます。谷端川は昭和37年(1962年)に河川として廃止され、地下は暗渠の下水道幹線、地上部は昭和46年より児童遊園や遊歩道となって、一般に開放されていましたが、うち、西前橋から下板橋駅前駐輪場に至る区間は、平成2年に、豊島区管理の谷端川北緑道となって整備、公開されました。この北緑道のうち、豊橋の右カーブから下板橋駅前まで、300m余はほぼ直線コースで、横切る道路もないため、橋一つ架かっていません。これは一帯の耕地整理、谷端川の改修に先立ち、大正3年(1914年)には東武東上線(当時は東上鉄道)が開通しており、その線路敷に沿っての改修となったためです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 王子」  破線は巣鴨村、板橋町の境、東上鉄道開通、耕地整理後の「昭和4年第三回」は→ こちらです。 

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    ・ 谷端川緑道  豊橋の手前にある板橋変電所の→ 南縁が池袋、金井窪の村境とほぼ重なり、村境沿いに右岸流が流れていました。「いたばしの地名」にある堰とかかわるものなのでしょう。  

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    ・ 谷端川緑道  左手は東武東上線の留置線になっていますが、開業当時は下板橋駅がありました。それ以前は田圃だったところで、こちらにも網の目状に用水が流れていましたが、たどることはできません。

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    ・ 谷端川緑道  下板橋駅の手前です。緑道はこの先で左カーブ、東武東上線を越えます。なお、下板橋駅が現在地に移転したのは、次の金井窪駅(昭和20年廃止)の開業に伴う昭和6年(1931年)のことです。

金井窪の水路3

2019-05-15 06:50:00 | 谷端川・小石川2

 豊橋の左岸で合流する水路を追っての最後で、東武東上線の踏切を越えたところからです。すぐに左折、今度は右折で大山東町交差点に出ます。ここを起点とする地図もありますが、谷筋はさらに西側から延びています。谷頭は大山駅の西側にあって、千川上水とほとんど接しており、「いたばしの地名」が「一説に千川上水の洩水が水源とも言われています」としているのも、さもありなんの位置関係ではあります。ただ、同書は「大山町三七番地付近から大山駅の南側を通り」、と書いていますが、大山町37番地は千川上水の北側にあって、今回の谷筋には属しておらず、その辺の事情はよく分からないところです。

 

Kanaiku3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 踏切の先で左折したところです。再び水路単独の狭い路地となります。  

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    2. 路地を出て右折、大山東町交差点で左折するまで道路右手が広くなっています。  

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    3. 大山東町交差点で左折した先です。大山駅に向かうこの道路が、谷筋の底にあたります。

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    4. ただ、通りに水路を描いた地図類は未見なので、青点線は書き込んでいません。  

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    5. 大山駅です。谷筋は東上線を再び越え、駅の西側300mほどのところが谷頭です。