神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

白山幹線

2019-07-31 06:20:15 | 谷端川・小石川4

 東大下水をさかのぼり、その水元の一つとされる酒井雅楽頭下屋敷近くまで来ました。ここから先、「御府内備考」の記述はしばらく途切れます。というのは、流路の東側は播磨姫路藩酒井家下屋敷、西側は御三卿の一つ一橋家の抱え屋敷が占め、町屋中心の「御府内備考」の範囲外になっているためです。ただ、「郵便地図」など明治から大正にかけての地図と「下水道台帳」の白山幹線のルートを比較すると、ある程度流路をたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 白山通りの西側にシフトします。なお、歩道橋の右手に酒井家の池がありました。

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    2. 「下水道台帳」に「水路敷」の書き込みのある路地から再開します。 

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    3. 水路単独の路地を抜けます。ここから先は通りの右手が水路です。

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    4. 2.から3.にかけてはズレますが、下水道白山幹線のルートと概略一致します。

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    5. 不忍通りを越えます。右写真は左岸からのショットで、谷筋が横切っているのが分かります。

白山通り

2019-07-30 07:14:07 | 谷端川・小石川4

 東大下水の谷筋を追って、京華通りから白山通りに出ました。この区間の白山通りは、旧白山通りをショートカットするかたちで、昭和40年代に開通しました。その際、今回の流路はその下に埋もれたため、水路の痕跡は数百メートルにわたって失われました。明治末の「郵便地図」を見ると、東側に大きく蛇行していて、白山通りと重ならないところもありますが、その後の直線的な改修によって、この個所の流路も痕跡を残していません。

 

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    ・ 白山通り  右手に京華女子中・高校のキャンパスがありますが、東側に蛇行していたのはその裏です。後退している段丘上から裏側を写した写真は→ こちらです。

 ところで、京華女子中・高校の白山通りに面したキャンパスの片隅に、鶏声の井を記念する石碑が据えられています。傍らの解説プレートは、夜毎に鳴く鶏の声に導かれ、金の鶏を堀出したという、例の鶏声ヶ窪の故事を紹介、掘った跡に湧き出た井戸(鶏声の井)を記念して、昭和3年(1928年)に建てたと書いています。当初隣接する旧酒井雅楽頭下屋敷にあったものをここに移したのだそうです。

 

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    ・ 鶏声の井碑  松平定信の詠んだ和歌、「筒井津々いつの暁久みそめて鶏のハ声の名にやたつらん」が刻まれています。

 ただ、「鶏声の井」碑のあった酒井雅楽頭下屋敷は、故事の舞台となった土井大炊頭下屋敷とは数百メートルはずれ、関係する谷筋も別個のものです。それがごっちゃになってしまったのは、「今鶏声が窪と唱える所は東は土井大炊頭下屋敷、西は酒井雅楽頭下屋敷、南は小石川御数寄屋町、駒込片町、北は巣鴨御駕籠町なり」と、「御府内備考」にあるように、鶏声ヶ窪の地名が本来の谷筋を越えて拡張してしまったからで、さらに、石碑がある現在地は、広い意味での鶏声ヶ窪からも外れており、問題を一層混乱させています。

 


指ヶ谷3

2019-07-29 06:32:27 | 谷端川・小石川4

 白山下交差点まで戻ります。→ 「段彩陰影図」で、白山通りと並行している谷筋がテーマですが、こちらのほうが主流扱いで、「御府内備考」も随所で言及しています。例えば合流地点の指谷町一丁目ですが、「下水 幅壱間、但水元は小石川酒井雅楽頭様下屋敷内より流出、夫より小石川村の内より白山権現裏門前え出、当町え流来」となっています。なお、酒井雅楽頭下屋敷は土井大炊頭屋敷の西隣にあり、→ 「東京近傍図」で白山通り沿いに池の描かれているところです。その池が水源の一つなのは間違いないとして、「段彩陰影図」で読み取れる谷筋は、不忍通りを越え、豊島区(巣鴨村)境付近までさかのぼることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 白山下交差点に戻り、京華通り入口の合流地点から再開します。

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    2. それらしく蛇行する京華通りです。水路はこの通りの右手を並行していました。 

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    4. 水路跡は京華学園のキャンパスで中断します。旗本石河家の屋敷地で、その池も水源の一つでした。

谷頭付近

2019-07-27 06:31:17 | 谷端川・小石川4

 → 「段彩陰影図」から読み取れるように、鶏声ヶ窪の谷筋の先端部分は、本郷通りの西側沿いを、数百メートル並行していました。一帯は(下)駒込村の百姓地でしたが、寛永年間(1624~45年)以降、寺町となり、中には後述の江岸寺のように、明暦の大火(1657年)後当地に移転してきた寺院もあります。こうした寺院境内からのはけ水路が、水上となっていたのでしょうが、その詳細は「郵便地図」にもなく不明です。

 

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    ・ 谷頭付近  南谷寺裏の道路の先です。本郷通りからの写真は→ こちらで、谷筋がはっきり分かります。なお、「郵便地図」はこのあたりまでの水路を描いています。

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    ・ 江岸寺門前  本郷通り沿いの寺院のなかで、最も北側に位置しているのが、譜代大名鳥居家の菩提寺、江岸寺です。その門前に埋められた石橋に注目です。 

 ところで、「文京の失われた橋」(平成17年 文京ふるさと歴史館友の会)は、東大下水の水源について、「六義園や本駒込二丁目辺りの池」と書いています。「段彩陰影図」の上端の薄いグレイの区画が六義園なので、千川上水の水を利用していた大泉水の余水が水源の一つとなったことは、十分推測できるところではあります。ただ、一次的な文献、地図類では未確認なため、今後の研究課題としておきます。なお、大泉水の水源だった千川上水ですが、昭和40年代に、白山通り(中山道)を通る都営地下鉄三田線の工事により断水し、その役割を終えました。

 

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    ・ 六義園  春の枝垂桜、初夏のさつき・つつじ、秋の紅葉と、季節ごとの見どころも多く、適時ライトアップも行われます。なお、現在の大泉水は地下水を利用しています。

鶏声ヶ窪2

2019-07-26 06:52:37 | 谷端川・小石川4

 中山道(旧白山通り)まで戻り、鶏声ヶ窪にかかわる水路を追います。といっても、これまでのように水路跡と重なる道路はほとんどありません。明治から大正にかけての地図を見ると、土井家下屋敷の名残と思われる池があり、その埋立てによって地形の改変があったのでしょう。なお、→ 「寛永江戸全図」当時は、中山道の両側とも土井大炊頭(大老土井利勝)の下屋敷ですが、利勝の死後、子供達が分家したため、宗家(下総古河藩土井家)の下屋敷は中山道以北に限られることになります。その古河藩下屋敷を中心に、明治に入ると駒込曙町が成立しました。鶏声暁を告ぐから、鶏の声、曙を連想したネーミングで、駒込を冠したのは中山道以北は駒込村に属していたからです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中山道に虎ヶ橋が架かっていました。尾張屋の「駒込辺絵図」には「此辺ケイセイカクボ」と書き込まれています。 

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    2. 池の南端のあたりです。「郵便地図」には、池から流れ出たあと、2.から1.へと向かう水路が描かれています。

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    3. 「地形図」にも描かれた池を二分する道路から、池の北端にかけてです。 

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    4. 目赤不動で有名な→ 南谷寺の裏に出ます。「郵便地図」の水路はこの道路のやや南側を流れ、池に注いでいました。

白山神社

2019-07-25 06:25:04 | 谷端川・小石川4

  白山神社の創建の詳細は不明ですが、天暦年間(947~57年)に加賀一宮白山神社を本郷元町(現本郷一丁目)に勧請、と伝えられています。元和年間(1615~24年)には、2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現小石川植物園内)に遷りますが、のちに5代将軍となる館林藩主綱吉の屋敷(小石川御殿)造営のため、現在地に再度移転しました。明暦元年(1655年)のことです。なお、小石川御殿の地にあった当時は、氷川神社などと並んでいたといわれています。「相伝、当社は元和三年の勧請なりといへり。当社古白山御殿の地にありて、氷川明神女体宮と共に並びてありしかども、彼地に御殿営作せられし頃今の地へ遷座なし奉ると也」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 小石川白山権現社」  右上隅の表参道部分を拡大したのが→ こちらで、白山坂に面した表門前に描かれた橋が今回の水路とかかわるものです。  

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    ・ 白山神社  白山坂からの表参道です。左右には白山社地門前と称する町屋が、小石川御殿造営の始まった慶安4年(1651年)以降、徐々に成立しました。

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    ・ 白山神社  社殿裏には明治42年(1909年)に開園した、文京区最古の白山公園があります。境内から公園にかけて、3000株のアジサイが植えられています。

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    ・ 白山富士  社殿裏には富士塚(白山富士)も設けられています。普段はフェンスで守られていますが、毎年6月に開催される文京あじさいまつりの期間は開放されます。

鶏声ヶ窪

2019-07-24 07:10:08 | 谷端川・小石川4

 「鶏声ヶ窪  駒込竹町の先、むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、夜ごとに鶏の声あり、あやしみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御やしきの内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のにはとり掘出せり、よってかく名に成りたるといふ」(「江戸砂子」) 「今鶏声か窪と唱へる所は東は土井大炊頭下屋敷、西は酒井雅楽頭下屋敷、南は小石川御数寄屋町、駒込片町、北は巣鴨御駕籠町なりと」(「御府内備考」) 小石川御数寄屋町や駒込片町(竹町はその小名)は白山坂上にある町屋で、酒井家下屋敷は土井屋敷の西隣でした。→ 「寛永江戸全図」でわかるように、土井屋敷前後の板橋道(中山道、旧白山通り)沿いが、鶏声ヶ窪と呼ばれていたことになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 都営三田線白山駅の先で、白山神社に向かう参道を横切ります。 

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    2. 左右にお寺の立ち並ぶ寺町ですが、明暦の大火(1657年)後移転してきたものです。

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    3. この付近の右手から旧白山通りかけて、小石川御数寄屋町(通称白山坂上町)がありました。

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    4. 左カーブで北西に向きを転じ、右手崖面に沿います。

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    5. 東洋大キャンパスに突き当たって中断しますが、この先右折して旧白山通りを越えます。

指ヶ谷2

2019-07-23 07:05:07 | 谷端川・小石川4

 白山下交差点の北側で、東大下水の水元となる二本の水路が合流していました。→ 「段彩陰影図」から読み取れる二本の谷筋にかかわるもので、今回からしばらく、東側の本郷通り(岩槻街道)に沿っているほうを扱います。ただ、こちらの下水については、「御府内備考」は全く触れておらず、明治以降の地形図にも描かれていません。「郵便地図」など限られた地図類で確認できるだけですが、実際に歩いてみると、思いのほか痕跡は残されています。なお、この谷筋との関係で、「鶏声ヶ窪」の伝承や「虎が橋」の名前が出てきますが、その詳細は次回以降とします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 京華通り入口の右手に、建物の間の狭いスペースが顔をのぞかせています。 

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    2.  通り抜けは出来そうもないのですが、それでも100m近く続いています。 

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    3.  浄雲院心光寺境内に突き当たって中断します。 

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    4. 心光寺門前は低くなっていて、おそらく水路が横切っていたのでしょう。  

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    5. 都営三田線白山駅の横から始まるこの通りが、「郵便地図」の描く水路とおおむね重なります。

指ヶ谷

2019-07-22 07:00:41 | 谷端川・小石川4

 「当町の儀は往古武州豊島郡小石川村御料所に候処、元和九亥年(1623年)中伝通院様御仏供料に相成、・・・・町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名と相成候儀と奉存候」(「御府内備考」) 指谷自体の由来については触れていませんが、「江戸砂子」には、「寛永の頃は町並みなく、木立の茂りたる谷也。御鷹それし時あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」とあります。指谷一、二丁目、南片町がありましたが、明治に入り千川屋敷や武家地、寺地を併せ、(小石川)指ヶ谷(さすがや)町となりました。なお、「さしがや」との読みも併存しています。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 小石川2」  中央で二つの谷筋が合流している付近が指谷で、岬状に突き出す台地の先に白山神社が祀られています。なお、オレンジ線は区境ですが、大半が文京区です。

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    ・ 白山下交差点  浄心寺坂下からのショットで、横切っているのは旧白山通り、右手の白山坂を上ると中山道に出ます。大下水は正面の指谷町の通り(現京華通り)から流れて来ました。  

 白山下交差点は旧白山通りの開通によって六差路になりましたが、江戸時代は五差路で、寛永19年(1642年)頃とされる→ 「寛永江戸全図」では、浄心寺坂を除く四差路になっています。注目は川が描かれていることで、前後は省略されていますが、目下追っている大下水の原型です。(図中の濃いグレイは崖面を現わしており、薄いブルーの田地とあわせ、今回の谷筋の概略が分かります。) 橋も架かっていますが、「御府内備考」当時は「長弐間、巾ニ間」の板橋でした。なお、白山神社が描かれていませんが、「寛永図」の時代には、現小石川植物園内にあり、館林藩主で後の5代将軍綱吉の御殿建設に伴い、当地に遷ったのは明暦元年(1655年)のことです。

 


千川屋敷

2019-07-20 06:39:19 | 谷端川・小石川4

 「下水堀 巾三尺、右北の方小石川村酒井雅楽頭様御下屋敷より流出、指谷町通りより武家屋敷境通り小石川馬場の方え相流申候、尤下水上橋の儀は指谷町にて申上候」 「御府内備考」の白山前町千川屋敷の記述です。千川屋敷は都道301号線(旧白山通り)、白山下交差点の南側にあった拝領町屋敷です。千川上水開設を請け負った多磨郡仙川村出身の徳兵衛、太兵衛の両名は、その功により上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得るとともに、千川の苗字と帯刀が許されました。そのうち、太兵衛は当地に200坪余の土地を与えられ、屋敷を構えたことから、以後千川屋敷と呼ばれるようになったものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右手から合流があります。この先の胸突坂からのものです。 

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    2. 急坂なので胸突坂、あるいは、台上の新道に至るので新道坂です。水路は坂の右手にありました。 

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    3. 坂下に戻ります。奥の路地に連続しますが、「郵便地図」は左手からも合流を描いています。 

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    4. 「御府内備考」が「武家屋敷境通り」と呼んでいるところで、通りの左右には短冊状の武家屋敷が並んでいました。

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    5. 路地はフェイドアウトします。ここから現白山下交差点までが千川屋敷でした。 

小石川築地

2019-07-19 06:37:00 | 谷端川・小石川4

 白山通りとしばらく並行した後、右カーブで通りを離れ、左岸段丘(丸山)の裾をめぐります。東大下水の東側は本郷(本郷丸山)なのに対し、西側は小石川に属していました。承応年間(1652~55年)に、沼地を築立て武家地に造成し、(小石川)築地と通称されたところです。万治2年(1659年)には、築地の中央に馬場が設けられましたが、この辺の事情は江戸川流域の小日向築地、小日向馬場の関係と全く同じです。なお、小石川片町のところで引用した「御府内備考」に、「下水 幅八尺余 右馬場東の方より流来」とあるのは、この小石川馬場(築地馬場)のことです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新坂(福山坂)下を過ぎます。中腹の解説プレートによると、文京区内に新坂は六つあるそうです。 

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    2. ここで左カーブ、再び北に向かいます。なお、水路はこの道路の右手を流れていました。 

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    3. 左手が小石川馬場跡です。地図からも読み取れる長方形の区画で、「東西長九十間、南北幅十壱間弐尺」ありました。 

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    4. 本線は右手の狭い路地ですが、「郵便地図」は左手からの水路も描いています。

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    5. 水路単独を思わせる狭い路地が続きます。なお、4.から先の下水道白山幹線は、左手の整備された道路を利用しています。 

丸山

2019-07-18 06:32:27 | 谷端川・小石川4

 白山通りの西片交差点に戻り、東大下水を北上します。大下水の東側にあった町屋、小石川片町にかかわる「御府内備考」によると、この区画の大下水の幅は八尺余でした。「下水 幅八尺余 右馬場東の方より流来、流末水戸様御屋敷え入、神田川え落申し候」 なお、タイトルの丸山は左岸段丘を指す広域地名で、「御府内備考」の記述(「昔林など在てその形の円う成しより、まる山の名は起りしなるべし」)を待つまでもなく、→ 「段彩陰影図」からも地名由来が推測できます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和5年第三回修正) / 上野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 西片交差点に戻り白山通りを北に向かいます。この右手が小石川片町でした。 

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    2. 幅広歩道が出現します。昭和40年代に白山通りを拡張、離れていた水路跡を歩道に含みました。

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    3. 幅広車止め付の歩道の右手に、「樋口一葉終焉の地」の→ 記念碑があります。 

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    4. 200mほどで右カーブ、北東に向きを転じ、白山通りから離れます。

本郷の支流5

2019-07-17 06:02:29 | 谷端川・小石川4

 菊坂町奥山からの流れをさかのぼり、本郷通りに向かいます。水路の東側の大半は三河岡崎藩本多家下屋敷が占めていましたが、先端は本郷通りの森川宿にありました。中山道の立場(たてば 宿場間の休憩所)があったところに、森川氏配下の御先手組が屋敷を給わったため、森川宿と通称されたところです。明治に入り本多家下屋敷・森川宿合せ本郷森川町となり、現在は本郷6丁目です。なお、途中清水橋の下を通ります。左手西片、右手本郷を結ぶ陸橋で、樋口一葉の日記には空橋(からはし)と記されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 清水橋に向かいます。右写真は右手段丘上からのショットで、かなり深い谷筋です。

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    2. 清水橋から西片2丁目交差点にかけてです。橋と同様、この通りも明治に入ってから開削されたもので、水路はその右手にありました。

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    3. 西片2丁目交差点です。本郷通りに向かう通りと分かれ、右手の路地に入ります。

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    4. 水路は右手の本多家下屋敷と左手の御先手組屋敷の境にありました。

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    5. 本郷通りに突き当たります。本郷弥生交差点のやや南側です。

本郷の支流4

2019-07-16 06:42:27 | 谷端川・小石川4

 菊坂下の合流地点まで戻り、「御府内備考」のいう「菊坂町奥山」からの流れをさかのぼります。菊坂町の北の、奥山と通称されているところは、今回の谷筋を境に、東側に三河岡崎藩五万石本多家、西側に備後福山藩十一万石阿部家といった、寺社奉行や老中の要職にある譜代の大名家の下屋敷が占めていました。うち阿部家の屋敷のあったところは、明治に入り、周辺の武家地と共に駒込西片町を形成しました。なお、ペリー来航時の老中でもあった阿部家は、殖産興業の時代には養蚕業を営むなど、なかなかの商才を発揮、のちには1万坪余の敷地を住宅地として分譲し、今に残る住宅街の礎を築きました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 合流地点に戻り、左手にある水路単独を思わせる狭い路地をさかのぼります。 

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    2. 菊坂下を越えます。ここに「長三尺幅六尺」(「御府内備考」)の石橋が架かっていました。 

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    3. 西片交差点からこんにゃく閻魔前に至る道に合流します。

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    4. このあたりは通りからやや離れた右手を並行していました。

別れの橋

2019-07-13 06:20:51 | 谷端川・小石川4

 菊坂下道は本妙寺坂までですが、水路の起点は200mほど先の本郷通りで、以下は「御府内備考」の本郷四丁目の引用です。「町内下水東側中程軒下より西の方え横切丸山通え落込候下水、往古不忍より小石川え続候川にて橋掛り有之、わかれ橋と唱え候由、何故名付候哉申伝等無御座候、当時下水に相成、幅五尺石蓋致地中え埋有之」 名前の由来については、「改選江戸志」の「別の橋は四町目にかゝる小橋なりしと『紫の一本』云、むかし太田入道道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ、その頃追放の者など此処より放せしと」を引用しています。

 

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    ・ 菊坂通り  本郷通り手前の菊坂通り(菊坂上道)です。本郷通り沿いに発達した町屋が本郷一丁目から六丁目で、正面にあったのはそのうちの四丁目でした。

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    ・ 本郷3丁目交差点  春日通りとの交差点から、上掲写真の正面を写しています。今でも浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。  

 なお、引用文中の「往古不忍より小石川え続候川」ですが、不忍池は小石川とは別個の水系に属しており、誤解があったのでしょう。ただ、今回の谷筋が本郷通りを越えているのは間違いなく、谷頭は東大構内の、現在は迎賓館として利用されている懐徳館周辺です。懐徳館や周辺の日本庭園(懐徳園)は、明治に入って前田侯爵家によってに整備されたもので、 → 「東京近傍図」にも池が描かれています。

 

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    ・ 懐徳館  東大130周年記念事業の一環として、数年前に一般公開された時に撮影したものです。日本庭園内の本郷通りよりには池も現存しているようですが、この時は立ち入り禁止になっていました。