神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

汐留川水系

2014-08-30 07:39:28 | 城西の堀川2

 江戸城の外堀は食違見附を分水界にしており、四谷堀から右回りのものは神田川水系に、弁慶堀から左回りのものは汐留川水系に属しています。→ 「長禄年間江戸図」で、江戸城の上部をめぐるのが神田川水系、下部を流れるのが汐留川水系です。城西の堀川の新しいクールは、弁慶堀から溜池、汐留川へと至る後者がテーマですが、さらに、鮫川、赤坂川、大刀洗川、桜川、宇田川など、汐留川水系に属する支流、傍流も扱います。こうした小河川は流域の宅地化に伴い、江戸時代の中ごろまでには大下水化しており、「御府内備考」では大下水、下水として記載されています。なお、水系の名前となっている汐留川については、前回のシリーズである「神田川、平川」で、外濠川と合流して以降を扱っており、今回は幸橋、土橋までとする予定です。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 城西の堀川2」 オレンジ線は区境で、左上から時計回りに新宿、千代田、港、そして左隅が渋谷の各区です。中央のグレーを重ねたのが紀州家中屋敷、現在の赤坂御用地で、この区画内の谷筋に関しては、直接確認することはできません。

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    ・ 迎賓館  赤坂御用地の北端に位置する迎賓館を東側から見ています。奥の茂みが新宿御苑で、間の低地が汐留川水系の谷頭にあたる鮫川の谷筋です。

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    ・ 汐留川  汐留川水系で水面が現存しているのは、弁慶堀と浜離宮大手門橋から河口まで、延長1km弱の汐留川、ただ二ヶ所のみです。

 <鮫川と桜川>  以下は「東京府志料」の引用です。「水源ハ鮫河橋ヨリ出テ離宮ノ内ニ入リ夫ヨリ元赤坂町裏一町目表一町目田町一町目ヨリ七町目ニ至マテ溜池の側ヲ流レ葵坂辺ニテ溜池ニ落ツ 此落口幅稍(やや)広クシテ其状瓢ニ似タリ故ニ里俗瓢箪堀ト呼フ 古ヘ赤坂川ト称セシハ此流ナレト今ハ僅ニ一間許(ばかり)の小流ナリ之を鮫河ト云」 葵坂はアメリカ大使館前の坂で、葵の群生があったことからそう名付けられました。
 次いで「東京府志料」は桜川の記述に移ります。「又此水赤坂田町七町目榎坂下ヨリ右折シテ石ノ埋樋テ以テ溜池葵町潮見坂ノ脇ヲ通シ東流シテ西久保明船町桜川町ヨリ南折シ愛宕町一町目ヲ経テ又東行シ増上寺裏門前通リ三島町ニ至リテ南行シ芝宮本町ニテ西折シ増上寺表門前通リヲ過キ将監橋ニ至リテ赤羽川ニ入ル之ヲ桜川ト云」 最後の赤羽川は現在は渋谷川、下流は古川と呼ばれています。

 


山下門

2014-08-29 07:04:51 | 城西の堀川1

 日比谷堀から流れ出た御堀の水は、途中左折して東に向きを変え、山下門で外堀(外濠川)と合流していました。「山下御門  古くは姫御門といひしよし。『寛文江戸図』等にみゆ。又山下町ある故に後に山下御門といへり。又俗に鍋島御門と唱ふるは鍋島家の屋舗ありよりの名なるべし『江戸紀聞』」(「御府内備考」) 「武州豊島郡江戸庄図」には土橋が描かれ、あるバージョンではその東隣りの町屋が「山下丁」となっています。そして、次の「寛永江戸全図」で初めて枡形が登場します。山下は山王社の山下の意かと思われますが、詳細は目下のところ不明です。なお、姫御門にかんしては、「御府内備考」の別のところに、「山下御門と幸橋の間土手際にあり。此姫が井あるゆへに姫御門といへり。又桜が井とも称す『江戸記聞』」とあります。最後の鍋島御門とかかわる備前佐賀藩鍋島家の上屋敷は、日比谷公園の正門である日比谷門から大噴水のあたりにありました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 日比谷公園  日比谷公園の日比谷門前から山下門方向です。日比谷堀からの流れは、左手の日生劇場付近でクランクしたあと左折、通りの左手を並行していました。

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    ・ 山下門  ガード下に山下門があり、その北側で内堀と外堀(外濠川)は合流していました。外濠川方向からのショットは→ こちらです。

日比谷門

2014-08-28 06:57:39 | 城西の堀川1

 内堀の水は半蔵門を分水界として、半蔵堀、千鳥ヶ淵、清水堀、大手堀と右回りに、桜田堀、凱旋堀と左回りにめぐりますが、結局は日比谷堀のL字の角で内堀を離れます。そこに土橋があり日比谷門が立っていました。土橋については→ 「慶長江戸図」のうち十三年のものにありますが、枡形門の築造は寛永年間のことです。「『寛永日記』に云、四年丁卯日比谷御門建、南方の石壁を浅野但馬守長晟(ながあきら)築之と云々。又六年己巳の条に云。今年江戸総曲輪の堀石垣の普請大名勤之。芝口、日比谷両所御門枡形石垣、松平陸奥守正宗築之と。」(「御府内備考」) なお、日比谷門は今の日比谷交差点にあり、桜田門に近い外桜田が門外、有楽町、丸の内の側(大名小路)が門内になっていました。

 

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    ・ 日比谷見附  石垣の一部が日比谷公園の、日比谷交差点に面した門(有楽門)内に保存されています。

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    ・ 心字池  上掲写真の石垣の裏側です。日比谷堀から南に向かう堀のあったところで、日比谷公園開園に合わせて、埋立てられ池となりました。

 <日比谷公園>  江戸時代は毛利や鍋島といった大大名の上屋敷があり、明治に入ると日比谷ヶ原と呼ばれる更地となったあと、陸軍練兵場が置かれました。それが現明治神宮外苑に移転した跡地に公園建設案が浮上、明治35年(1902年)に着工し翌年には仮開園の運びとなりました。元々官庁街として予定されたものが、埋立地とあって地盤が悪く、ビル建設には不向きと判断されたといわれています。日本で最初に出来た西洋式の公園で、面積は16万平方メートル余、園内には日比谷公会堂や大小の野外音楽堂があります。

 

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    ・ 日比谷公園  ほぼ中央にある大噴水から、日比谷公会堂方向のショットです。噴水池の直径は30m、噴水は12mまで吹き上がります。

日比谷堀

2014-08-27 07:32:52 | 城西の堀川1

 外桜田門、馬場先門間のL字の堀が日比谷堀です。桜田堀や馬場先堀から日比谷堀に流れ込んだ水は、L字の角にある日比谷門から流れ出、山下門前で外堀川と合流していました。この構造が完成するのは、慶長8年(1603年)の幕府成立以降で、その前年に作成された→ 「別本慶長江戸図」では、小田原口(外桜田門)からの流れは、直接日比谷入江に注いでおり、馬場先堀などは未だ姿を見せていません。それが神田山の切り崩し、桜田堀の開削などによる残土をもって日比谷入江を埋立てた際、のちに日比谷堀や馬場先堀となる個所を埋め残し、「慶長13年江戸図」に見るような、内堀の配置になったと考えられています。なお、明治39年(1906年)に日露戦争の戦勝記念として凱旋道路が開通した際、祝田橋が日比谷堀を二分し、桜田門よりは凱旋堀と呼ばれるようになりました。

 

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    ・ 凱旋堀  桜田門橋からのショットで、奥が元の凱旋通りに架かる祝田橋です。→ 「東京近傍図」の時代までは、この区画も日比谷堀でした。

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    ・ 日比谷堀  祝田橋から日比谷通り方向です。祝田は架橋当時の町名で、隣接する千代田、宝田とともに、道潅築城のころの村名との伝承があります。

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    ・ 日比谷堀  L字の角から馬場先門、馬場先堀方向です。このあたりから右手一面が日比谷入江だったのでしょう。

 <日比谷>  「小田原衆所領役帳」に大胡氏(のちの牛込氏)の所領として、「六拾七貫七百八拾文 江戸比々谷本郷」とあり、同時代の他の文献には、比々谷郷、比々谷村の記載も見られます。地名由来としては、「ひび」は魚や海苔を取る竹、木で作った道具、「や」は谷か屋、あるいは簗(やな)の転訛か、といったところですが、地形的には川の注ぎ込む入江を谷としたのかもしれません。
 「別本慶長江戸図」当時は、「町人住居」とあるように町屋が形成されましたが、江戸城拡張、日比谷門築造に伴い、新橋の南側に代地を得て日比谷町(芝口門が出来たあとは芝口町)を名乗ります。この間の事情は、西の丸のところで一度引用した「落穂集追加」に詳細されています。「惣(そうじ)て西の御丸下の儀は、地高に在之候処に、西の御丸御堀などもほられ候に付、大分の余り土有之、猟師町辺の葭原の儀は、大形築地のごとくに成、猟師町の儀も、程なく一つゞきの町屋となり、肴店其外種々の売買物なども有之、処の名をばひゞ屋町と申、殊之外繁盛仕候処に、其以後又御曲輪内と成候節、只今のひヾや町引被申候由、・・・・」 

 


平河天満宮

2014-08-26 09:11:10 | 城西の堀川1

 「平川天満宮 御城西、麹町三丁目の南、平川町にあり。・・・・伝云、当社は文明十年戊戌六月廿五日、太田持資当国入間郡川越三芳野の天神を、江戸城に勧請し、数株の梅を栽ると。今の御城内平川の梅林坂と唱ふるは、其梅林の旧跡なり。・・・・其後天正十八年御入国の頃、彼宮を平川口の外へ移さる。・・・・又其後慶長に至り、御本丸造営の頃、竟(つい)に今の麹町に地を改めさせ給ふ。」(「江戸名所図会」) 当初平川門外にあったので平川天神、それが江戸城を挟んで反対側に移り、その周辺が平川町(現在の平河町)となりました。この間の経緯は「落穂集追加」の「御城内天神之事」にも記載されています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 平川天満宮」  右下の通りが平川天神前通り、現在の国立劇場通りです。また、左下隅に土手があり一段低くなっていますが、この一角に馬場がありました。「御府内備考」が「麹町平河町三丁目天神原にあり」と書いているものです。

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    ・ 平河天満宮  上掲「図会」と同じく、天神前通りから一つ入ったところに階段があり鳥居が立っています。鳥居は天保15年(1844年)建立の銅鳥居なので、「図会」より一代後のものなのでしょう。

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    ・ 平河天満宮  江戸時代平川天神、平川天満宮と呼ばれていましたが、明治に入り平河神社となりましたが、現在は平河天満宮と元の呼び名に戻しています。

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    ・ 梅林坂  平川門から天神堀を越え、本丸に上る坂の周辺は、→ 「別本慶長江戸図」の時代から変わらず、今でも梅林となっています。

平河町2

2014-08-25 07:25:08 | 城西の堀川1

 平河町の谷筋にかかわる水路を描いた地図類は未見ですが、江戸初期の「寛永江戸全図」及び「明暦江戸大絵図」には、谷頭にあたる平河天神の南側に、比較的大きな池が描かれています。周囲の旗本屋敷二軒分くらいはあり、曲輪内では唯一描かれた池ですが、その後の地図からは確認することができません。あるいは、下掲「1/5000実測図」に描かれた谷頭の池は、小ぶりながらその名残なのかもしれません。なお、同図にも「カイ坂」と書き込まれている坂ですが、今回の谷頭を縦断して青山通りから甲州街道へと向うものです。「貝坂 麹町四丁目南の方貝塚にある所のさかなり。」(「御府内備考」) 貝塚は一帯の惣名で、「小田原衆所領役帳」にも「一木貝塚」とあります。由来に関しては貝塚があった以外、貝塚法印なる人物の墓があった、あるいは、甲州街道沿いの一里塚で甲斐塚などもあります。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 国立劇場通り  右手は千鳥ヶ淵に向かう首都高で、その高架に遮られ見えませんが、奥の段丘斜面に国立劇場が建っています。

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    ・ 国立演芸場  内堀通りに面した国立劇場(大劇場、小劇場)の裏にあり、こちらでは落語、漫才などが演じられます。

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    ・ 貝坂通り  国立劇場通りの200mほど西側を並行する通りですが、こちらは青山通りからいったん下り、甲州街道に向けて上ります。

平河町

2014-08-23 06:48:51 | 城西の堀川1

 三宅坂下に戻り、桜田堀に利用された谷筋を追って、青山通りを西に向います。→ 「段彩陰影図」に見るように、谷頭は青山通りと甲州街道(新宿通り)の間にありました。現在の平河町(1~2丁目)にあたり、町名の由来は慶長12年(1607年)に、江戸城拡張によって現在地に移転した平河天満宮によっています。もっとも、江戸時代の平河町(1~3丁目)は天満宮周辺に限られており、谷頭の大半は旗本屋敷が占めていました。谷筋にある町屋としては麹町谷町のうち、三軒家(三軒屋)と通称されるところがありました。両替商、酒屋、魚屋の三軒だそうで、三軒家を模したデザインは今でも、平河町2丁目の町会で使われています。

 

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    ・ 青山通り  内堀通りとT字の三宅坂交差点です。右手の最高裁のところに、三河田原藩三宅家の上屋敷があったのが坂名の由来です。

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    ・ 青山通り  次の隼町交差点で青山通りを離れます。隼町は最高裁のある右手一帯の町名ですが、江戸時代は新宿通り近くの町屋の名で、鷹匠屋敷によっています。

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    ・ 国立劇場通り  このあたりの左手に三軒家がありました。「三軒屋 平河天神前通り元山王の内なり」(「御府内備考」) 

 <元山王>  上で引用した「御府内備考」の「元山王」ですが、田原藩上屋敷のあたりが山王社(現日枝神社)の旧地だったためそう呼ばれました。山王社は江戸城築城にあたり、太田道潅が勧請したといわれ、家康入府の際は紅葉山に祀り、江戸城鎮守としました。慶長年間の江戸城の拡張に伴い、城外に移転しますが、その間の事情は「落穂集追加」の「西御丸之事」に書かれています。
 当初は紅葉山へは往来可能だったものが、「紅葉山下と坂下の両所にしまりの御門出来、御本丸と一構に被仰付候を以て、山王の社へ参詣も成かね、貴賎とも氏神詣迷惑仕候段上聞に達し」ます。そこで「半蔵御門外御堀端に山王権現の社新に御建立被仰付」というのです。「殊の外繁昌仕候所、酉の年大火(明暦の大火)の節類焼いたし候以後、只今の山王の宮地へ御引移被遊候と也」、そうこの一文は締めくくられています。

 


桜田堀3

2014-08-22 07:07:43 | 城西の堀川1

 前々回引用した「江戸砂子」に、弁慶堀の由来として「西東の縁をとり弁慶堀と云と也」がありましたが、そのネタ元と思われる「落穂集」のなかに「弁慶堀之事」という一文があります。関ヶ原の戦いの後、東西の外様大名が大名小路や外桜田に屋敷地を得た際のエピソードです。「其節大名小路辺の義は葭はらにて候へ共、御堀々より揚土を引取候に付、地形も早速出来候由、外桜田辺の義は殊外(ことのほか)地形に高下是あり、各土取場に難義被仕、夫迄の義は御新城の外構への御堀幅漸(ようや)く十間余りも有之候を、屋敷拝領の諸大名方よりの願ひを以、只今の通り御堀幅も広がり、底も深く相成候付、其揚け土を方々へ引取地形に用ひられ候と也」 このあと加藤清正をはじめとする東西の諸大名が競ったことから、「西とうの武蔵坊と申心にて弁慶堀」となったと続きます。また、(現在国会議事堂がある)浅野家添屋敷の井戸を掘ったところ、地下2間ほどのところから葭の根がたくさん出てきた、昔を知るものが深い谷を御堀の土を以て埋めたためと説明した、との後日譚も載っています。

 

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    ・ 桜田堀  青山通りの起点である三宅坂下の桜田堀です。→ 「段彩陰影図」に見るように、谷筋はこのあたりで合流していました。

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    ・ 桜田堀  上掲写真の右手方向を写したものです。正面の吹上御苑には、明暦の大火まで御三家の屋敷があり、その後、火除地とし庭園(吹上御庭)が整備されました。

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    ・ 桜田堀  半蔵堀と隔てる半蔵門前の土橋です。この区画も谷筋を転用したものか、あるいは人工的なものなのか、「段彩陰影図」からは後者のように思われますが。

 <落穂集>  江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639~1730年)が、享保12年(1727年)に発表したもので、内容的に大きく二つに分かれます。前半は家康の出生から大坂の陣までを編年体で記した一種軍記物で、後半は江戸入府以降のエピソードを随筆風に綴っています。「御府内備考」や「東京市史稿」などに、「落穂集(追加)」として引用されているのが、10巻63話からなる後者で、古老からの聞き取りとはいえ、江戸初期の制度、社会などを知るうえで貴重な資料となっています。
 なお、大道寺友山は「寛文図」に集大成される江戸図作成を主導した、時の大目付北条正房の弟子にあたり、そのスタッフの一員として作成に参画しています。「落穂集」に収録された「江戸大絵図之事」には、作成過程が詳細されていますが、その中に世間が「寛文図」の作者とみなす遠近道印を、「遠近道印と申書物屋」とする一文があります。刊行者に過ぎなかったものが、その後の改訂を請け負ったために、事情を知らない世間は「始終道印が自作の様に取さた仕候」というわけです。

 


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2014-08-21 06:45:35 | 城西の堀川1

 桜田堀沿いに二つの名水がありました。桜の井と柳の井(若葉の井)です。「桜の井 井伊候藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘(わた)り九尺ばかり、石にて畳し大井なり。釣瓶も車三つかけならべたり。或云、事跡合考に、井伊家中屋敷四ッ谷食違の屋敷ともあり。若葉の井は同所御堀端番屋の裏にあり、柳の木をうえし故に柳の水ともいへり。いづれも清冷たる甘泉なり。」(「江戸名所図会」) うち桜の井は「御府内備考」にもありますが、同書の「御曲輪内」の項には、13か所もの〇〇の井が収録されています。これは江戸の飲料水の事情を反映しており、享保以降掘抜き井戸が普及するまでは、たまたま宙水を掘り当てた井戸が、名水として珍重されたのでしょう。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 桜の井」と「同 / 柳の井」  ただ、左側の「柳の井」は、清水坂下にあったもう一つの柳の井(「御府内備考」では「柳井」)の可能性があり、とすると井戸際に描かれているのは赤坂弁慶堀です。

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    ・ 桜田堀  左手の内堀通り国会前交差点に桜の井、正面の土手の茂みの下の堀端に柳の井、という位置関係です。

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    ・ 桜の井  本来の場所は交差点内にありましたが、昭和43年(1968年)に10mほど移動して復元されました。

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    ・ 柳の井  柳の木の右下付近に井戸の石組みがあるようですが、下草に覆われて確認できません。

桜田堀

2014-08-20 07:32:56 | 城西の堀川1

 外桜田門から半蔵門にかけての堀が桜田堀です。12ヘクタール近い面積があり、次の日比谷堀や大手堀が4ヘクタール強であることからも、江戸城内堀中ダントツの規模を有しているのが分かります。この堀も自然の谷筋を一部転用したもので、→ 「段彩陰影図」に見るように、新宿通りと青山通りの間、現平河町付近から発し、三宅坂で桜田堀に合流している谷筋があります。また江戸城西の丸と吹上御庭を分ける道潅堀も、支谷筋を利用しているのように見えます。なお、道潅堀をその名との関係で、道潅時代の名残とする考えもありますが、当時の江戸城の配置を含め、その当否は目下のところ不明です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で外堀(左下隅は溜池)に沿っており、大半が千代田区、一部港区です。

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    ・ 桜田堀  桜田門橋からのショットで、正面に国会議事堂が見えています。江戸時代には彦根藩井伊家、広島藩浅野家などの大大名の上屋敷があったところです。

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    ・ 桜田堀  上掲写真の右手に写る、土塁が突き出たところを正面から撮っています。「東京近傍図」にも見える土塁の凹みのところで、道潅堀の谷筋は合流しています。

 <弁慶堀>  弁慶堀というと、今日では赤坂見附の堀をそう呼ぶのが一般ですが、桜田堀もまた弁慶堀と呼ばれていました。安藤広重の「名所江戸百景」の中に、「外桜田弁慶堀糀町」というタイトルのものがありますが、描かれているのは桜田堀越しに見える井伊家の屋敷です。名前の由来については、「江戸砂子」に三説が併記されています。「弁慶堀 井伊家の上やしきの前の御堀を云。此所の御堀は、東の方加藤肥後守、西の方浅野但馬守、鈞命をうけてほられし也。加藤家の奉行、森本儀太夫、浅野家奉行、亀田大隈、西東にわかれ功を立たる御堀なれば、西東の縁をとり弁慶堀と云と也。又云、弁慶の木偶、掘り出したるゆへとも、又弁慶小左衛門の縄はりゆへとも。」
 加藤清正は当地に屋敷を構えていましたが、寛永9年(1632年)、二代忠広の時に改易になり、その跡地が井伊家の上屋敷となりました。なお、第一の説のシャレはピンときませんが、弁慶の正式の名乗りは西塔の武蔵坊弁慶というのだそうで、その西塔と西東をかけているようです。また、最後の説の弁慶小左衛門は、藍染川の弁慶橋のところに登場、赤坂弁慶堀の名前の由来の際も語られる、江戸初期の大工の棟梁です。

 


外桜田門

2014-08-19 08:00:53 | 城西の堀川1

 西の丸大手門から西に向かうと、百数十メートルで桜田門です。江戸時代には内桜田門(現桔梗門)に対し、外桜田門と呼ばれました。桜田は一帯の旧名で、→ 「長禄年間江戸図」にも江戸城の南、溜池からの流れの東に「桜田村」と書かれています。「内桜田御門に対して、外桜田御門と称せしならん。『落穂集』に云、小木曽太兵衛語り候は、御入国の節も只今の外桜田御門の立候所は、大きなる扉無の木戸門立て是あり。名をば小田原御門と申候。」(「御府内備考」) → 「別本慶長江戸図」でも「小田原口」となっています。今日に通じる枡形門が築造されたのは元和6年(1620年)、半蔵門などと同じく奥羽の諸大名によってでした。現存する門は寛文3年(1663年)頃、再建されたものが元となっています。

 

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    ・ 桜田門  門内の桜田堀越しのショットです。ここから堀も、堀と並行する通路も右折、左折のクランクで門外に出る構造です。

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    ・ 桜田門  門内から見た渡櫓門です。なお、桜田門は昭和36年(1961年)、田安門、清水門と共に国の重要文化財(建造物)に指定されています。

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    ・ 桜田門  枡形内部から見た高麗門で、渡櫓門とは直角に配置されています。枡形の広さは320坪あり、現存する江戸城内のものでは最大規模だとか。

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    ・ 桜田堀  枡形内部から見た桜田堀です。土塁と石垣を組み合わせ、石を節約する構造になっていて、水際を腰巻石垣、上部を鉢巻石垣というのだそうです。

坂下門、二重橋

2014-08-18 06:37:59 | 城西の堀川1

 蛤堀の西隣にある坂下門は、西の丸裏門から西の丸大奥に通じる通用門でした。→ 「別本慶長江戸図」に「山の御門」とあるところで、山とはその北に描かれた、当時日枝神社のあった「紅葉山」あるいは「下山」のことでしょう。一方、坂下門の西には二重橋堀があります。二重橋堀の西端には、西の丸の正門にあたる西の丸大手門があり、その北には西の丸下乗橋が架かっていました。大手門から入りUターン、下乗門から西の丸へと向かう設計です。この下乗橋が二重橋と呼ばれるもので、木橋の当時堀が深いため橋桁を二階建て構造にしたことから、そう呼ばれるようになりました。現在は鉄橋となっていて、構造上は二重橋ではありません。これに対し、大手門のところに架かる明治20年(1887年)建造の石橋が、めがね橋と通称される二重アーチ構造のため、こちらを二重橋と誤解するむきもあるようです。

 

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    ・ 坂下門  右手が本丸を縦にめぐる蛤堀、左手が西の丸を横にめぐる二重橋堀です、ここから左手に300mほどで二重橋です。

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    ・ 二重橋  正面石橋からのショットです。現在の正式名称は正門鉄橋です。なお、右手の伏見櫓には、寛永5年(1628年)に京都伏見城から移築との伝承があります。

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    ・ 正門石橋  かっての西の丸大手門です。奥に上掲写真の二重橋(正門鉄橋)があり、その重なりから両者を二重橋とする誤解もあるようです。

 <西の丸>  道潅時代の江戸城にはなく、江戸入府直後に家康によって築造されました。本丸と同様の大奥などを有する独立した構造で、(駿府に隠居した家康を除く)歴代大御所や将軍後継者の住居となったところです。なお、「東京市史稿」は西の丸築造に関し、「家忠日記」の「御普請、御隠居御城堀当候」を引用、その日付から文禄元年(1592年)から2年のこととしています。また、「落穂集」からの、以下のような引用も見られます。「関東御入国の節、只今の西の御丸の所は野山にて、所々に田畑抔(など)も有之」 「惣(そうじ)て西の御丸下の儀は、地高に在之候処に、西の御丸御堀などもほられ候に付、大分の余り土有之、猟師町辺の葭原の儀は、大形築地のごとくに成、猟師町の儀も、程なく一つゞきの町屋となり、肴店其外種々の売買物なども有之、処の名をばひゞ屋町と申、殊之外繁盛仕候処に、其以後又御曲輪内と成候節、只今のひヾや町引被申候由、・・・・」

 


乾堀、蛤堀

2014-08-16 06:23:22 | 城西の堀川1

 千鳥ヶ淵を形成する谷筋を一通りめぐったところで、北の丸トンネルのところで切り離された、千鳥ヶ淵の下流部分に向かいます。この個所もまた江戸城内堀に転用されました。上流から乾堀、蓮池堀、そして蛤堀です。乾堀はその名の通り、北桔橋門から西桔橋門にかけて、本丸の北西をカバーしている堀です。その形状から、江戸時代には三日月堀と呼ばれていました。明治に入り乾門が新設されて以降、乾堀の名前が定着したものと思われます。次の蓮池堀は蓮の生い茂る堀で、西桔橋門から蓮池門にかけて、本丸と西の丸を隔てています。東御苑のように出入り自由ではありませんが、一般参観を申し込むと見学することができます。そして最後が蛤堀です。坂下門外の変で知られる坂下門の脇にあり、この付近が日比谷入江に注ぐ河口と考えられています。

 

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    ・ 首都高代官町出入口  正面に見えるレンガの東京国立近代美術館工芸館から左手の茂み(奥は乾門)にかけて、ここで千鳥ヶ淵をせき止め、ダム湖化したと考えられています。

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    ・ 乾堀  乾門と北桔橋門の間からのショットで、左手が本丸です。正面やや右手には、桜田門外にある警視庁の通信塔が見えています。

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    ・ 蛤堀  画面からは切れますが左手が坂下門、右手の石垣上には江戸時代、蓮池二重櫓があり、その奥に本丸と西の丸を繋ぐ蓮池門がありました。なお、蛤堀の名前の由来については、目下のところ不明です。

 <局沢> ダムによって千鳥ヶ淵と切り離された下流部分、江戸城本丸と西の丸(紅葉山)の間の低地周辺は局沢と呼ばれていました。「小田原衆所領役帳」に島津弥七郎の所領として「六貫七百文 江戸局沢」とあり、「天正日記」の天正18年(1590年)9月5日、6日の条にも登場します。「五日、はれ、つぼね沢の寺々のこりなく引うつし候へと仰出さる、日れんしう五ヶ寺、かいづかのまつ寺三ヶ寺、しんごん二ヶ寺、天だいしう一ヶ寺、ぜんしう五ヶ寺、つがう十六ヶ寺なり」 「六日、はれる、ひき寺のしらべ、神田のだい、谷原まちのかたへ十六ヶ寺を引わけて、寺やしき地わり」 最後の「谷原まち」については、「東京市史稿 皇城編」は「市内矢ノ倉付近か」としています。明暦の大火で移転するまで、柳原の南、藍染川流域には寺町が形成されており、その一帯のことと思われます。江戸城、江戸市街地の拡張に伴い、寺院がその都度郊外に移転していったことは、これまでも度々触れたところです。

 


半蔵門

2014-08-15 07:21:06 | 城西の堀川1

 半蔵門は大手門の対面にあり、江戸城搦め手門の位置を占めています。江戸城の後背地である麹町台地、さらには幕府直轄の甲州まで通じる軍事拠点にあり、家康の入国直後、この門の内外から甲州街道にかけて、服部半蔵とその配下の伊賀同心が屋敷を構え、警備を担当したことから半蔵門と呼ばれるようになった、といわれています。 → 「慶長江戸図」では半蔵町口となっており、この説を裏付けますが、ただ、初期の名称は麹町口、麹町門が一般的で、服部半蔵家は慶長期に断絶したにもかかわらず、半蔵門の名前がその後普及した理由はよく分かりません。なお、「慶長江戸図」に土橋とあるように、この時代には枡形門はなく、初めて築かれたのは元和6年(1620年)でした。上杉、伊達など奥州諸藩の大名が担当し、外桜田、和田倉、竹橋、清水、田安等の諸門もこの時の築造です。

 

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    ・ 半蔵門  明治4年(1871年)に渡櫓は撤去され、高麗門だけとなりました。その高麗門も第二次大戦で焼失し、関東大震災後解体、保存されていた和田倉門のものが移築されました。

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    ・ 桜田堀  半蔵門以南の桜田堀の水位は、次の日比谷堀を0mとして3.40m。千鳥ヶ淵、半蔵堀とは別個の水系で、ここから左回りで日比谷堀へ向かいます。

 <甲州街道>  江戸五街道のひとつ、甲州街道の起点は日本橋で、江戸城を南側から迂回してここに至り、次いで四谷門を目指します。内藤新宿、八王子、甲府を経て下諏訪宿で中山道に合流するまで、38の宿場が置かれました。家康の江戸入府当時、江戸城陥落の際の甲府までの避難路として想定されたといわれ、服部半蔵率いる伊賀組(与力30騎同心200人)が半蔵門周辺を固め、また百人組(百人づつ四組からなる鉄砲隊)が、大久保百人町など沿道に配置されたのもそのためです。なお、服部半蔵家は幕府開設後間もなく、伊賀同心支配の任を解かれ、その後改易されますが、伊賀者組屋敷は寛永12年(1635年)、江戸城拡張に伴い四谷門外に移転して存続、甲州街道の両脇に南北の伊賀町の名前となって残ることになります。

 

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    ・ 甲州街道  半蔵門交差点から四谷方向のショットで、横切っているのは内堀通りです。なお、このあたりの甲州街道は麹町通り、その先は新宿通りと名を変えます。

半蔵堀

2014-08-14 07:12:07 | 城西の堀川1

 半蔵堀は元々千鳥ヶ淵と連続していました。それが明治33年(1900年)、代官町通りを開設したさい分離されました。ただ、現在でも水門を通じて連絡していて、千鳥ヶ淵と同じ水位を保っています。馬場先堀や日比谷堀に比べ、14.9m高くなっており、内堀のなかでは最高水位です。なお、代官町通りの代官町ですが、明治に入って現北の丸公園一帯に成立した町名で、江戸時代からの通称をもとにしています。「代官町 竹はしの内。むかしは武家屋敷あり。」(「江戸砂子」) 家康入府から幕府開設にかけて、関東総奉行を勤めた内藤清成の屋敷などがあったといわれ、 → 「別本慶長江戸図」には「御代官衆」の書き込みがあり、その後の北桔橋門のところが「御代官門」になっています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の中部及び西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。千鳥ヶ淵と分かれた後を描いた、同一縮尺、同一個所の→ 「明治42年測図」と見比べてみてください。

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    ・ 代官町通り  左手千鳥ヶ淵と右手半蔵堀を二分しています。さらに北の丸と本丸の間を通り、紀伊国坂を下って竹橋に出ます。

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    ・ 半蔵堀  代官町通りからのショットで、正面に桜田堀と隔てる土橋(半蔵門橋)が見えています。幅50m前後長さ450mほどで、面積は2.46ヘクタールです。

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    ・ 半蔵堀  千鳥ヶ淵との間を連絡する水門が見えています。半蔵堀の水は千鳥ヶ淵に向い、さらに牛ヶ淵、清水堀、大手堀と時計回りに内堀を廻ります。