神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

新井村

2016-04-30 06:44:07 | 妙正寺川4

 とりあえず新道橋まで戻り右岸にわたります。現行の住居表示で新井(1~5丁目)となるのは、新橋以降の右岸ですが、本来の下沼袋村(新橋村)と新井村の境は新橋ではなく、平和の森公園のある舌状台地の先端に位置する新道橋にあり、下掲「近傍図」のオレンジ細線に見るように、両村が舌状台地を下沼袋二、新井八ほどの割合で二分する形をとっていました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境でほぼ中野区、細線は野方村大字下沼袋、江古田、新井などの境です。

 「新井村は、郡の艮(うしとら)の方にあり、江戸日本橋より行程三里許、村の広さ南北七町余、東西十二町余、東は上高田村にとなり、南は中野村に続き、北は片山村ニテ、西は下沼袋村なり、土性黒野土、陸田多く水田少し、民家五十軒あり」(「新編武蔵風土記稿」) なお、北隣の片山村は明治13年(1880年)に江古田村に編入され、のち野方村大字江古田の一部となったため、「東京近傍図」に重ねたオレンジ細線は新井、江古田の境ということになります。

 

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    ・  新道橋  やや上流からのショットで、右手に行けば平和の森公園を抜け、北野天神のある新井五差路から中野方面、一方、左手はすぐに西武新宿線沼袋駅前です。

 <新道(しんどう)橋>  江戸時代の村絵図には、(名前は不明ですが)新橋の次の橋として描かれ、ここが下沼袋と新井の村境となっていました。「東京府志料」には、「板橋 ・・・・新道橋長二間半幅一間」とあり、さらに「豊多摩郡誌」によると、明治39年(1906年)に、「延長一八尺幅九尺」の石橋に架けかえられています。舌状台地の先端を切通して新設されたので新道、そこに架かるので新道橋と名付けられたものと思われます。

 


沼袋氷川神社

2016-04-28 06:57:20 | 妙正寺川3

 西武沼袋変電所前で左手に分岐した水路は、左カーブで西武線の線路と並行します。この水路&線路には、左岸の舌状台地が迫っていますが、その先端に祀られているのが氷川神社です。「除地、九段、小名大下前にあり、村の鎮守なり」(「新編武蔵風土記稿」) これは下沼袋村の項の記載ですが、→ 「沼袋村絵図」では、上沼袋村の飛地に色分けされています。創建は14世紀、南北朝時代と伝えられ、文明9年(1477年)の豊島氏との戦の際、太田道潅は当地に本陣を置き、戦勝を祈願して杉を手植えしたといいます。

 

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    ・ 氷川神社参道  西武新宿線と並行し、氷川神社下に向かいます。左手の崖面の茂みが氷川神社境内です。水路はその先第15号橋へと向かっていました。

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    ・ 氷川神社  上掲写真の通りに面して、鳥居と階段が設けられています。20段の急階段を上ると社殿のある境内です。

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    ・ 氷川神社  右手前の道潅手植えと伝えられる杉は、永く御神木となっていましたが、昭和に入って枯れ今は根株を残すのみです。

 <沼袋の地名由来>  沼袋の地名の初出は「鎌倉大草紙」で、「太田道灌・・・・江古田原沼袋と云所に馳向ひ合戦して」とあります。地名由来としては出口を失い袋状になった沼地、と考えられています。→ 「段彩陰影図」を見ると、左右から交互に突き出す舌状台地が特徴的で、平和の森公園のある舌状台地が右岸から、氷川神社のあるそれが左岸から突き出し、さらにもう一つ、江古田川の合流地点の対岸で通称片山が右岸に控えています。この袋状の流域を縫うように蛇行する妙正寺川一帯は、大雨が降るとあふれ、一面沼状になってなかなか引かなかったことが、容易に想像できる地形ではあります。

 


下沼袋左岸6

2016-04-27 06:40:39 | 妙正寺川3

 下沼袋村の左岸を灌漑する用水を追っています。禅定院境内の弁天池の余水を合流した後、右カーブする氷川神社参道にしばらく沿います。そして、西武線手前で同参道と離れ、南下して新栄橋で妙正寺川本流に戻るまでです。ただ、前回UPの→ 「大正10年第三回修正」を見ても、氷川神社参道沿いに水田は東側に広がっており、そちらに向かう分流の存在も予想されるところです。

 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 氷川神社参道に沿って南下します。正面に西武沼袋変電所の鉄塔が見えます。

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    2. 変電所の敷地を横切り、西武新宿線を越えます。「空中写真」には左手に分岐し、西武線と並行する分流も写っています。

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    3. 西武新宿線を越えた先で、すぐに広い通りに出ます。水路は通りの右手を並行していました。 

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    4. 合流地点の新栄橋です。右写真は下流方向で、左カーブで氷川神社のある舌状台地を回り込みます。

禅定院

2016-04-26 06:41:59 | 妙正寺川3

 「禅定院 除き地、百四十坪、村の東北の方小名内匠にあり、瑠璃光山薬王院と号す、新義真言宗にて是も宝仙寺末、客殿七間に五間、西向きにて本尊不動木の立像にて長一尺五寸、開山詳ならず、」(「新編武蔵風土記稿」) → 「東京近傍図」には、同寺の境内池からの流れが描かれていますが、池(弁天池)自体はその後の地形図でも健在です。余水も前回の水路に合流していたのでしょうが、その詳細を描いた「近傍図」以外の地図類は目下のところ未読です。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」  昨日UPした→ 地図と同一場所、同一縮尺です。左岸流が左折して沿ったのが禅定院旧参道、右折後沿うのが氷川神社参道です。

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    ・ 禅定院参道  前回の最後に横切った参道で、奥に→ 山門が見えています。なお、現在の参道は上掲地形図のものより、やや東側にズレているようです。

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    ・ 禅定院  上沼袋村の名主を勤めた伊藤家の菩提寺で、実相院が矢島寺と呼ばれたのに対し、伊藤寺との別名もありました。

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    ・ 禅定院  境内の西南角にある池です。地形図に描かれた弁天池よりは、やや北東にズレており、また湧水池の趣きはありません。

下沼袋左岸5

2016-04-25 06:39:31 | 妙正寺川3

 沼袋駅の北側の飲食店が密集するところがまで来ました。今回の左岸流の流路の中で、→ 「東京近傍図」の描くものとの違いが目立つところです。同図では左岸流は右折して現平和公園通りに沿い、沼袋駅南で本流に戻っています。また、それとは別に、禅定院境内の池からの流れが、氷川神社のある舌状台地をめぐり、その先端で本流に合流しています。これに対して、「明治42年測図」以降の地形図では両者は連結しており、現在確認できる跡もそのようになっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 平和公園通りから40mほど東にある路地から再開します。前回の最後の→ 写真の奥に写っていた銭湯の脇の路地です。

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    2. やはりワンブロック、40mほどで突き当りを右折します。

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    3. 直進すると沼袋駅から禅定院へ向う参道に突き当たりますが、その手前で左折です。

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    4. 右折して禅定院参道を越えます。右折すると沼袋駅前、左折するとワンブロックで禅定院です。

下沼袋左岸4

2016-04-23 06:56:04 | 妙正寺川3

 北原の水路の合流地点まで戻り、下沼袋左岸のウォーク&ウォッチを再開します。100m強で西武新宿線を越えます。今回の左岸流は昭栄橋の起点以来、下水道妙正寺中幹線の経路と一致していますが、この踏切の手前で下水道幹線は右折しています。沼袋駅の先の最初の踏切で西武線を越えており、駅北側の繁華街を回避するためと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 北原の水路の合流地点まで戻り、改めて左岸流跡の道路をたどります。

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    2. 西武新宿線の踏切を越えます。水路は左折、右折のクランクで、踏切のやや左手を越えていたようです。

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    3. 沼袋駅前に出る商店街を進みます。水路は通りの左手を並行していました。

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    4. 沼袋駅前のバス通り(平和公園通り)を越えます。道は直進していますが、水路はやや左手に向っていました。

 <実相院>  平和公園通りを左手に向かうと、左岸段丘斜面に実相院があります。「除地、四百五十坪、村(下沼袋村)の東北の方本村にあり、如意山世尊寺と号す、新義真言宗にて中野村宝仙寺の末、客殿南向きにて広さは七間に五間、本尊十一面観音木の坐像にて長六寸五分、開山開基詳ならず」(「新編武蔵風土記稿」) 南北朝の戦に敗れた新田氏の一族、矢島氏が当地に定住した際開基、との伝承があり、矢島寺とも呼ばれました。山門の写真は → こちらです。


北原の水路4

2016-04-22 07:19:30 | 妙正寺川3

 仮称北原の水路を追っての四回目で、その先端のある野方駅の北西、北原小学校付近まできました。同校は昭和11年(1936年)野方北原尋常小学校として開校しました。現在確認できる水路は、キャンパス北縁に沿って迂回していますが、前後の地図を比較すると、開校に合せて付替えたのだと分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後にクランクで北にシフトしましたが、その先の北原通り商店街を越えるところです。

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    2. 北原小学校に突き当たり、右折します。開校時の付替えと思われるところです。

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    3. キャンパスの北東角で左折、その北縁をめぐります。水路は通りの左手を並行していました。

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    4. 左カーブで北原小の正門前に向かい、その手前で右折します。ただ、右折のところに重なる道路はありません。

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    5. 右折後ワンブロックだけ重なる道路があり、突き当たったところで終了です。

北原の水路3

2016-04-21 06:51:11 | 妙正寺川3

 環七通りを北原歩道橋の南で越えます。歩道橋の名前もそうですが、この先、北原通り商店街、北原小学校と北原を冠した名称が増えます。北原は野方村大字下沼袋の小字で、昭和7年(1932年)の中野区成立まで存続していました。文字通り北側に位置する原の意でしょうが、「新編武蔵風土記稿」には上沼袋村の小名として、原が収録され「艮(うしとら 東北)の方にあり」となっています。→ 「沼袋村絵図」で、上鷺ノ宮村境から江古田村境にかけて、上沼袋村の範囲が孤を描いているあたりと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の野方第一公園を過ぎたあたりから、蛇行は緩やかなものになり、このあたりはほぼ直線です。

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    2. 環七通りの手前です。左右に蛇行しながら、やや上って環七通りに差し掛かります。

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    3. 北原歩道橋のやや南で環七通りを越えます。この区画の環七の開通は昭和30年代でした。

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    4. 環七通りの先の通りに連続します。野方駅の北百数十メートルのところを西に向います。

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    5. 北原通り商店街の手前です。右折、左折のクランクで、やや北側にシフトします。

北原の水路2

2016-04-20 06:28:51 | 妙正寺川3

 野方駅の北から発し、清谷寺付近で左岸用水に合流する水路の二回目です。本村橋の架かっていたところから先は、環七通りで中断するまで、500m弱にわたってクネッた路地が続きます。元々水路単独だったものを、昭和30年代までに暗渠化し道路として整備したため、従来の蛇行の跡を色濃く残したものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 本村橋のクランクの先です。左右に微妙に蛇行しています。

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    2. 「空中写真」の流路そのままに、右折、次いで左折のクランクで、やや北にシフトします。

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    3. 野方村大字下沼袋当時、2.のクランク以降のこの水路が右手北原、左手中通の字境になっていました。

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    4. 野方第一公園横を通ります。右写真は左手からのショットで、浅い谷筋なのが分ります。

北原の水路

2016-04-19 06:42:14 | 妙正寺川3

 左岸段丘沿いをめぐる灌漑用水を追って、段丘上に清谷寺のあるところまで来ました。間もなく西武新宿線を越えますが、その手前に左手からの水路の合流があります。→ 「段彩陰影図」で、野方駅の北を西武線と並行する谷筋にかかわるもので、先端部分の旧字(野方村大字下沼袋字北原)から仮に北原の水路としておきます。谷筋は狭く浅いため、新橋で合流している右岸のそれのように、灌漑用水として利用されることはなく、悪水路として機能していたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後で、左岸流跡の道路がクランクしていましたが、その左手から合流する通りをさかのぼります。

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    2. 右写真のフェンスの中は、文字通りのさんかく公園ですが、水路跡はその左手です。

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    3. さんかく公園の脇で西武新宿線を越えます。フェンスのない時の写真は→ こちらでどうぞ。

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    4. 西武線を越えた先です。左折、右折のクランクでやや左手にシフトします。ここに本村橋が架かっていました。

 <くろんぼ地蔵>  「路傍の石仏をたずねて」(昭和51年 中野区教育委員会)は今回の水路に関し、「現在は暗きょになっているが、その昔、くろんぼ川と呼ばれ」と書いています。そして、その川のほとりに化け物が出没したため、供養のために建てた庚申塔が、「くろんぼ川のお地蔵さん」と呼ばれたといいます。また、「実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史」に収録された「大正初期の沼袋、野方」という手書きの地図には、今回の水路のほとりに「くろんぼ地蔵」と書かれています。4.のクランクの右手に、元文5年(1740年)造立の→ 庚申塔が現存します。

 


下沼袋左岸3

2016-04-18 06:23:36 | 妙正寺川3

 下沼袋村左岸の田用水の三回目です。これは前回も書きましたが、この田用水は古くからの流路がそのまま道路となったため、現行の地図でもそれと分るクネクネを残しています。暗渠化に先立ち、大規模な区画整理や改修がなかったためでしょう。なお、環七通りを越えて以降、沼袋駅前で西武新宿線とクロスするまで、今回の流路は下水道妙正寺川中幹線のルートと重なります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新橋の通りの先です。右手には妙正寺川まで達する沼袋西公園があります。

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    2. 平成23年に閉校となった沼袋小学校の跡地前です。右折、次いで左折します。

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    3. 左手に数十メートルの段丘上に、下沼袋村鎮守氷川神社や大場村鎮守八幡神社の別当だった→ 清谷寺があります。

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    4. 右折、左折のクランクを抜けた先に、左手から水路の合流があります。次回から数回に分けてのテーマです。

 <字本村>  野方村大字下沼袋当時、新橋から新道橋にかけての妙正寺川左岸は、字本村(ほんむら)でした。村で最初に開拓、居住した地域の意で、周辺の江古田村、高円寺村、下鷺ノ宮村などにも、「新編武蔵風土記稿」に小名として採用されています。大字下沼袋の本村にも、氷川神社や八幡神社の別当だった清谷寺があり、同様の意味で用いられたのでしょう。同書には小名としては出てきませんが、下沼袋村実相院のところに、「村の東北の方字本村にあり」となっていて、江戸時代から使用されていたのが分かります。なお、小名として収録されているのは、上沼袋村が内匠(たくみ)、原、下沼袋村が三谷と大下前です。

 


下沼袋左岸2

2016-04-16 06:51:49 | 妙正寺川3

 環七通りに架かる新昭栄橋の手前から分岐し、下沼袋村の左岸を灌漑していた水路の二回目です。妙正寺川取水施設の下に埋もれた分岐点や、西武新宿線とクロスするところを除くと、そのほとんどが道路の一部となっています。特に左岸段丘沿いを蛇行しているところなどは、現在の地図でもそれと分り、ほとんど迷うことはありません。なお、途中一ヶ所、→ 「東京近傍図」など明治の地図と流路の異なるところがあります。三谷橋、新橋を通る通りの前後なので、通りの整備と連動して付替えたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中野工高の正門前で左折、その敷地の北縁に沿います。

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    2. このあたりから付替えがあったのでしょう。「大正10年第二回修正」からは、現在の流路になっています。 

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    3. 三谷橋に出る通りに突き当たり、左折して通りの左手に沿います。

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    4. 新橋に出る通りに突き当たり右折、直ぐ左折して通りを離れます。 

下沼袋左岸

2016-04-15 06:37:45 | 妙正寺川3

 今回から数回にわたり、下沼袋村の左岸を灌漑した用水がテーマで、その分岐点の環七通り、新昭栄橋の手前から始めます。→ 「東京近傍図」では旧大場村(現大和町)の八幡神社の北側、現在は宮下橋の架かっている辺りから分岐していたように描いていますが、「明治42年測図」以降の地形図は、一貫して現環七通り、新栄橋手前からの分岐を描いています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 左写真は宮下橋、新昭栄橋間の歩行者専用橋から下流方向で、奥に取水口が見えますが、その手前で左岸に用水が分岐していました。

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    2. 大新横丁を横切り、環七通りを越えるところです。正面のスペースに連続します。

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    3. 環七通りの先です。ここから沼袋駅前まで、地図からもそれとわかるクネッた道路が続いています。 

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    4. 細かい蛇行はありますが、この区間は全体として右カーブの孤を描いて東に向かいます。

新昭栄橋

2016-04-14 07:19:29 | 妙正寺川3

 環七通り、新昭栄橋まで戻ります。その手前で左岸に分岐していた用水を扱うためですが、その前提として新昭栄橋が今回のテーマです。なぜ「新」かというと、元々の昭栄橋はほぼ同じところを通る大新横丁に架けられていました。大新横丁は大正14年(1925年)、関東大震災後の宅地開発に対応して、左岸の野方村役場(2年後には野方駅も開業)に直行するため開設された新道で、西の大場村と東の新橋村の一字を取ってのネーミングです。それが昭和30年代、ほぼ重なる位置に環七通りが建設され、また近年環七地下調節池に取水する施設が完成したため、妙正寺川を越える前後の大新横丁は、旧昭栄橋もろともそれらの下に埋もれてしまいました。なお、昭栄橋は架橋当時沼栄橋の字を当てていました。沼袋が栄えるの意と思われます。

 

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    ・ 新昭栄橋  やや上流からのショットで、間に昭栄橋が架かっていました。環七通りを右手に行けば高円寺、左手は野方、豊玉方面です。

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    ・ 大新横丁  新昭栄橋から振り返っての撮影で、大新横丁が妙正寺川に突き当たって中断するところです。正面に→ 「沼栄橋、新道開設記念碑」も写っています。

 <環七地下調節池>  新昭栄橋手前の左岸には、環七地下調節池への妙正寺川取水施設があります。集中豪雨や台風による神田川水系の氾濫を防ぐため、環状七号線の道路下に延長4.5km、内径12.5m、貯水量54万立方メートルのトンネルを建設する計画の一環として、平成20年に完成しました。1時間に50mmの雨量に対応できるそうです。昭和63年から20年がかりで工事が行われ、平成9年に方南橋の神田川取水施設が完成、同19年に和田堀橋の善福寺川取水施設が、そして翌年春に妙正寺川取水施設が完成し、全工事終了となりました。

 

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    ・ 妙正寺川取水施設  新昭栄橋手前の左岸に妙正寺川取水施設があり、環七地下調節池への大きな取水口が開いています。 

平和の森公園

2016-04-13 07:37:54 | 妙正寺川3

 右岸の舌状台地に立ち寄ります。新道橋を通る平和公園通りによって二分されていますが、その西半分に市谷監獄が移転してきたのは明治43年(1910年)、その後豊多摩監獄、豊多摩刑務所と改名、戦後の米軍接収を経て、昭和32年(1957年)に中野刑務所として再開と、長年にわたって刑務所用地として使われてきました。主に思想犯、政治犯が収容され、収監者には大杉栄、小林多喜二などの名前があります。昭和58年に閉鎖となり、現在は跡地8.4haには防災公園(平和の森公園5.5ha)と中野水再生センターが併存、一部に法務省の施設も残されています。

 

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    ・ 平和の森公園  その中心となる1.2ha弱の草地広場で、競技としてのスポーツ以外は自由に使えます。自転車やバイク、犬は不可です。

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    ・ 弥生式住居の復元  舌状台地のお約束通り、弥生時代を中心に縄文時代や古墳時代の住居跡、土器などが出土しています。

 <中野水再生センター>  落合水再生センターを補完する施設として、平成7年に稼働開始しました。運転管理は下水道管の中を通した光ファイバーを利用して、落合水再生センターが行っています。処理対象は落合処理区(中野区の大部分と、新宿、世田谷、渋谷、杉並、豊島、練馬の一部分)のうち、中野区と杉並区の一部です。一日の処理能力は4.6万立方メートル、処理水は→ 写真のように、妙正寺川に放流しています。ちなみに落合水再生センターの処理能力は一日45万立方メートル、こちらは大部分を神田川に放流していますが、一部は新宿副都心や中野坂上の高層ビルの用水に使用、渋谷川(古川)、目黒川、呑川の清流復活事業にも活用しています。

 

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    ・ 中野水再生センター  平和公園通りを中野に向かう途中にある正門です。後方が草地広場にあたり、その周辺2.9haの地下には沈殿池が設けられています。