たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

人類学私的メモワール

2008年01月06日 17時16分33秒 | 文献研究

1.人類学的思考の現在

『人類学的思考の歴史』(竹沢尚一郎著、世界思想社、2007)は、人類学的な思考とはどのようなものだったのかを丁寧に跡づけた、他に類を見ない、驚くべき篤実な研究書である。どのページも、批判的なまなざしにつらぬかれており、それぞれの読み解きは深く、光を放っている。わたし自身は、19世紀から20世紀の初頭にかけてイギリスにおいて、人類学思考が誕生し、同時並行的に、フランス社会学の流れを汲んで、レヴィ=ストロースによる人類学が勃興し、さらには、アメリカに舞台を移して、ボアズの弟子筋にあたる人たちによって、アメリカの文化人類学が形成されていった過程の記述検討に、特に、迫力があるように思われた。最終章、第10章「世界システム論と人類学」は、アフリカにおける人類学研究から世界システム論へと向かったウォーラーステインの業績を踏まえて、世界システム論的な観点から生み出されてきた民族誌研究の成果を取り上げて、民族誌をベースとした、人類学内部からの「内破」的な問題の提起になっている。宗教人類学に重点を置く(と語る)著者が、何ゆえに、そのような突破の試みを最終章に置いたのだろうか。そのことを、わたしは、にわかには飲み込むことができないでいる。それは、たんに、人類学の現在をどう捉え、そこに何を見ようとするか、それに何を託すのかについての考えの差であるのかもしれない。なお、そういったからと言っても、「これまでの人類学的な思考の流れを大きくとらえること」によって、「人類学の内外において、相互理解と討議のための場をつくりだそうという試み」(2ページ)を標榜する本書の価値は、いささかも低められるものではない。

2.わたしが考える人類学

わたしが考えている人類学とは、先人たちがすでに示してくれているレールの上を歩いていくことにすぎないのだが、しかしながら、その歩みは、そうとうにしんどいものであると感じられる、という偽りのない気持ちをあらかじめ述べておいた上で、川田順造と中沢新一という二人の巨人の影を踏むことにほかならないと、ひとまずは言っておきたい。そのような想いを抱いたのは、最近『文化人類学とわたし』(川田順造著、青土社、2007)を読んでいて、そこで展開されている主題が、対称性人類学』(中沢新一著、講談社、2004)に併走するように、いや、絶妙なかたちで、交差するように感じられたことに発する。両書の随所に論じられていることが、サラワクのプナン社会でのフィールドワーク以降に、わたしがためこんできた問題に共振していることを、確信したからである。一方の川田は、日本における文化人類学教育の「純粋培養された一代雑種」であり、文化の三角測量を提唱する、パワプルなフィールドワーカーであり、他方の中沢は、わたしたちの手の届くところに「知」をもたらしてくれた、かつてのニュー・アカデミズムの旗手であり、宗教だけでなく、経済や政治にいたるまで、幅広い関心と知識をタテ・ヨコ・ナナメに駆使して、人間を探究する思想家である。二人の思考は、それぞれ違う出自に発しながら、交差しているように思える。一方は、人類学内部から、他方は、人類学のへりから、レヴィ=ストロースを共通の基盤として。川田は、レヴィ=ストロースの弟子であり、中沢は、レヴィ=ストロースの最良の理解者かつ継承者である。しかし、その交差は、あらかじめ/その後に、二度と交わることがないであろう隔たりを含んでいるようにも感じられる。いずれにせよ、わたしが圧倒されるのは、両先達が切り拓いてきた人類学の構想の壮大さ、思弁の深さ、広がりである。

3.川田順造による

地球環境の破壊は、近年、切羽詰ったものとして喧伝され、国際政治の争点の一つにもなっているが、「自然を守れ」「地球環境を守ろう」という場合の、人間のアメニティー(快適さ)を保障するための自然という考え方は、あくまでも、人間中心的なものだと、川田はいう。「そういうことではなくて、もっと根本的に自然の中での人間の位置をどう考えていくか」(川田、前掲書161ページ)ということこそが、問われなければならないのだ。川田の思考には、自然のなかでの人間の位置づけという、レヴィ=ストロースの流れを汲む課題検討の意識が深く根づいているように思える。そのことを考えてゆくための「人間中心主義」の操作モデルを、川田は、以下の四つの型のなかに整理している。第一に、人間も自然のなかに、自分の意思ではなく存在し始めた生物のうちの一つであって、人間は、自然のなかで受動的な存在であるという意識をもつような捉え方(①「自然史的間中心主義」。第二に、人間は人間を中心に生きていくのが自然であるし、そのためにほかの動物を家畜化したり、それを殺したりしても当然であるというような、わたしたちがごく常識的に抱いているような見方(②「自然史的人間中心主義」)。第三に、全知全能の神が自分の姿に似せて人間をつくり、人間に役立てるために他の動物や植物をつくった、つまり、人間は、神によって他の動物を支配し、食べてもいいとしてつくられたというような考え方(③「一神教的人間中心主義」=「創世記パラダイム」。そして、第四に、アニミズムなどに裏打ちされるような、間世界のものを人間による比喩的な投影で擬人化し、それに働きかけたり、それにお供えをしたりして願い事をするような捉え方(④「汎生的世界像」)。これらのうち、「いままで世界を制覇して、いまもグローバル化の中でいちばん力をもっている一神教的人間中心主義は、どうしてもやめなければいけない」(167ページ)と述べて、川田は、ヒトだけが、確信犯的に、自らを自然のなかで突出して生かしていかなければならないとするヒト中心主義、とりわけ、「創世記パラダイム」のヒト中心主義を攻撃する「自己中心主義」「自民族中心主義」「地球中心主義=天動説」というような狭隘なセントリズムは、これまで、ヒトの聡明さによって否定されてきた。次に乗り越えなければならないのは、西洋近代を支えてきたヒト中心主義であることを、川田は強調する(155ページ)。そのために、ヒトの快適さのためにではなく、ヒトとヒト以外の生物の間にあるべき掟を探る努力をすること、つまり、「種間倫理(interspecific ethics)」を探求することこそが、わたしたちの最重要課題となるのだ。ひるがえって、農耕・牧畜を種とする食料生産を選び取ったヒトは、生産性と能率性と安楽性、もっと多く、もっと早く、もっと楽にという欲望の三原則を駆動力として、わたしたちは自ら、地球環境の危機をつくり上げてきた。その意味で、「私たち『生産性・能率性・安楽性』の権化が世界の辺境に追いやった採集狩猟民の知恵に、私たちが学ぶべき点は多はずだ」(66ページ)という。

4.中沢新一による

いくぶん現世的な匂いを放つ川田の構想に対して、中沢は、人間の思考を、「対称性の論理」である神話的な思考から、「非対称性の論理」であるアリストテレス型の論理や一神教的(=キリスト教的)な形而上学が未分化であった時代にまでさかのぼって、ホモサピエンスの「心」の基体にまで純化させた上で、語りはじめる。前出した川田の攻撃目標の一つである「創世記パラダイム」は、たしかに、中沢の問題意識の中心にも、どっしりと鎮座している。ところが、中沢は、それを、わたしたちが真正面から取り組むべき課題として指し示すのではなく、レヴィ=ストロースの流れを汲みながら、それ(=「創世記パラダイム」)が、抑圧してしまったのだけれども、不動の作動を続けている基体(=「対称性の論理」)との関わりのなかで明らかにしようとする点で、川田に比べて、純度が高いと同時に、より神秘性を含んでいるように感じられる。
「人間と熊はかつて兄弟であった」という語りは、「A≠非A」をベースとするアリストテレス型の論理では破綻していて、分裂ぎみに映るが、同時に、じつは、わたしたち人間は、そのような神話的な語りを聞くと、胸の奥から、不思議な感動のようなものがこみ上げてくるという奇妙な存在でもある。そのような神話に対する感動という情動こそが、ニューロンの組み換えによって、流動的知性を獲得した現生人類の「心」の基体であり、人間と自然が対称的に、溶け合って存在することを前提とする対称性無意識なのである。対称性無意識は、「非対称性の論理」が支配する世界からは、分裂症的な情動障害のように見えるのだ。そして、そのような領域は、「無意識」として一括して抑圧されることによって、地球上の人類の思考が形而上化されて、「非対称の論理」が支配するような、今日の科学と経済のグローバルな時代が立ち現れてきたのだと、中沢は考える。その意味で、わたしたちには、「対称性の論理」の原型を、「A=非A」をベースとするような、文字をもたない、国家をもたない社会の知識の体系のなかに探り出す可能性が残されているのではないだろうか。「人間と動物のあいだには神話的思考が発見した対称性の関係があるために、狩猟民の世界には動物の乱獲もおきなかったし、動物たちの暮らしている領域をみだりに人間がおかして、彼らの生存をあやうくするなどという危険が発生することもまれでした。つまりそこでは、動物たちにたいして、自然にたいして、人間はきわめて『倫理的』なふるまいをしていたわけです」(中沢、前掲書154ページ)。川田のいう「種間倫理」とは、「A≠非A」ではない、つまり、人間が熊でもあるというような神話的思考が行われるような「A=非A」世界において、自然なかたちであふれ出るよりほかになかったということになる。そのようにして、中沢にとって、対称性無意識とは、人類の「心」の働きを生み出している「自然」にほかならないのである。そのため、逆に、「形而上学化された世界をもう一度、対称性無意識の働きによって『自然化』する必要がある」(295ページ)ということになる。

5.交差のその先へ

①「ヒト中心主義、とりわけ、創世記パラダイム的な人間中心主義に対する批判と、それを乗り越えるために『種間倫理』を探求しようとする」、やや現世的なおもむきのある川田順造の構想は、②「『非対称性の論理』をつうじて世界を構成しているわたしたちが、抑圧することによってその自由な活動を奪ってしまったけれども、作動し続けている『対称性の論理』へと到達し、動物や弱者を思いやる態度に満ちあふれた神話的思考に光をあてようとする」、純度が高いがゆえに神秘的でもある、中沢新一の構想に交差し、もつれ合う。ふたたび、人類学に何を託すのかという最初の問いに戻るならば、そのようにして交差する両者の構想を引き継いで、わたしが取り組んでみたいのは、「創世記パラダイム」/「非対称性の論理」が幅を利かせるようになる世界より以前の狩猟民の共同体において、どのような「心」の基体が見られるのか、作動していたのかを、抉出することである。それを、現代の狩猟民社会でのフィールドデータに基づいて、取り組みたいのである。サラワクのプナン人は、そのようなテーマに見通しを与えてくれるような気がする。なぜならば、彼らは、学校があっても学校には行かないし、向上心みたいなものはないし、反省はほとんどしないし、嫌になったらすぐに別のキャンプに行ってしまうし、マルクスのいうような「なまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上に使い果たしてしまうくずども」(中沢、前掲書287ページより孫引)のような、「分裂症」ぎみの人びとだと思われるからである
。彼らの「心」の基体へと、なんとかより深く接近することができないものかと考えている。

(写真について:人間はサルではないから、近寄ったり、目を合わせたりしてはいけないぞ!「非対称性の論理」は、つねに、わたしたちの身近にある。奥比叡ドライブウェイの山中にて撮影)


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