たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



ニューギニア・サンビア社会(仮名)の「儀礼的同性愛」の研究者であり、自らの同性愛経験を核として、同性愛をめぐる研究を行っている文化人類学者、ギルバート・ハート。日本語にも翻訳されている著作(『同性愛のカルチャー研究』現代書館)のなかで、彼は、日本の同性愛文化にふれ、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)の質の高さを賞賛している。数年前に、そのことを知って、今学期からO大学で、「性の人類学」という授業を始めるにあたって、ずっと、その本をぜひとも読んでおきたいと思っていた。この週末に、一気に読み終えた。わたしのなかでは、サンビアの儀礼的な同性愛と日本の同性愛が、線でつながったような気がする。

川端康成をモデルにしたとも言われる頽齢の小説家・檜俊輔は、母に愛されず、三度の結婚に失敗し、すでに女に絶望している。彼を慕う娘・康子を追ううちに現れた、希臘彫刻のような精悍な美青年・南悠一。悠一は、自分が女を愛することができない男であることを、俊輔に告白する。俊輔に芽生えた目論見。それは、悠一を自らの分身として、自分を愛すことがなかった女たちに復讐をすることであった。俊輔は悠一に50万円を与え、女を愛せない悠一に、その美貌を用いて、女たちに不幸を与えるというはかりごとを画策したのである。

俊輔の言いつけどおりに、悠一は康子と結婚する。しかし、康子は、夫に愛されることがない。悠一は、そのことで、康子が、夫の男色にすでに気づいているのではないかと疑うようになる。

もし康子が、その良人は女一般を愛さないという事実に直面するならば、はじめから欺かれていたことになって、救いがない。しかし妻だけを愛さない良人は世間に数多く、この場合、今愛されているというその事実は、妻にとって、昔愛されていたという事実の逆の証跡にもなるであろう。康子だけを愛さないと知らせることこそ肝要である」(235ページ)と、悠一は、身勝手に考える。

倒錯した感情の微細なまでの心理描写が光を放っている。

俊輔の復讐の対象である鏑木夫人が、彼女の夫と悠一の男色の濡れ場を覗き見てショックを受けて、京都へと逃げた。鏑木夫人が悠一に対してつづった手紙を読み終えて、悠一が鏑木夫人に対して感動した、愛してしまったと告白したのであるが、そのとき、俊輔は悠一の情動を冷徹に分析する。

「・・・この世に肉感以外の感動はないことを。どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。人は思想の恥部に感動しているくせに、見栄坊な紳士のように、思想の帽子に感動したようなことを言いふらす。むしろ感動というようなあいまいな言葉はやめたらいい・・・君は心の中で、肉感を伴わない感動が何ものでもないことを知っているんだ。そこであわてて愛という追而書をつけたのだ。すると君は、愛をもって肉感を代表させたことになる」(310ページ)。

その語り口には、女になぞ、感動するものではない、愛したなどと軽々に語るものではないという、俊輔の女に対する怨念のようなものが宿っているように思う。

悠一は、ますます、男色の深みへとのめりこんでいく。

「・・・もし彼が、青年に合意の徴笑を示す。二人は夜おそくまで落ち着いて酌み交わすだろう。二人は店が看板になるとそこを出るだろう。酩酊を装って、ホテルの玄関先に立つだろう。日本では、通例、男同士の泊り客もさほど怪しまれない。二人は深夜の貨物列車の汽笛を間近に聴く二階の一室に鍵をかけるだろう。挨拶の代わりの永い接吻、脱衣、消された灯を裏切って窓の摺硝子を明るくする広告灯、老朽したスプリングがいたいたしい叫びをあげるダブル・ベッド、抱擁とせっかちな接吻、汗が乾いたあとの裸の肌の最初の冷たい触れ合い、ポマードと肉の匂い、はてしれぬ焦燥にみちた同じ肉体の満足の模索、男の虚栄心を裏切る小さな叫び、髪油に濡れた手、・・・そしていたたましい仮装の満足、おびただしい汗の蒸発、枕もとに手さぐる煙草と燐寸、かすかに光っているおたがいの潤んだ白目、堰を切ったようにはじまる埒もない長話、それから欲望をしばらくして失くしてただの男同士になった二人の子どもらしい戯れ、深夜の力較べ、レスリングのまねごと、そのほかさまざまの莫迦らしいこと・・・」(408ページ)。

男たちの情欲とその果て。それらがまざまざと浮かび上がるような描写である。

悠一と出会った青年・稔の心中。

「『この人もアレだな』と稔は思っていた。『でもこんなにきれいな人が、アレだということは、なんて嬉しいんだろう。この人の声も、笑い方も、体の動かし方も、体全体も、匂いもみんな好きだ、早く一緒に寝てみたいな。こんな人になら、何でもさせてやるし、なんでもしてやろう。僕のお臍を、きっとこの人も可愛いと思うだろう。』--彼はズボンのポケットに手を入れて、突っ張って痛くなったものを、うまく向きをかえて、楽にした・・・」(448-9ページ)。

稔と悠一の関係に嫉妬した、やはり男色家である稔の養父は、悠一の妻・康子と悠一の母の元に、悠一が男色であることを密告する手紙を送る。悠一の母は、その手紙が真実であるのかどうかを、実地に確かめようとする。

彼女は目をつぶって、この二晩に見た地獄の光景を思いうかべた。一通の拙い手紙のほかには、かつて彼女が予備知識をもたなかった現象がそこに在った。たとえようもない気味の悪さ、怖ろしさ、いやらしさ、醜さ、ぞっとする不快、嘔吐をもよおすような違和感、あらゆる感覚上の嫌悪をそそる現象がそこに在った。しかも店の人たち客たちも、人間のふだんの表情、日常茶飯事を行うときに平然たる表情を崩さぬことが、まことに不快な対比を形づくる。『あの人たちは当たり前だと思ってやっているんだわ』と彼女は腹立たしく考えた。『さかさまの世界の醜さはどうでしょう!ああいう変態どもがどう思ってやっていようと、正しいのは私のほうだし、私の目に狂いはないんだ』」(475ページ)。

男色の世界を驚愕のまなざしでもって眺める悠一の母の思いが、閃光のごとく表現されている。 悠一に恋心を寄せながら、彼の男色行為を覗き見して、ショックで京都に遁走していた鏑木夫人が、上京して、その窮地を救ったのである。

最後に、俊輔の身代わりであることを拒むために、俊輔と会った悠一は、俊輔の自殺に立ち会うことになる。俊輔は、悠一に、1千万円という財産を残したのであった。

人間の過剰なる性の叙述。性の人類学は、過剰なる性へと経験的に接近し、その息づかいまでをも含めて、活写しようとする点に、その最大の特徴を抱懐する。マリノフスキーの古典的な名著『未開人の性生活』は『禁色』に肩を並べる読み物、性のエスノグラフィーだったのだと思う。悠一の母のいうように、同性愛が「感覚上の嫌悪をそそる現象」であるかどうかは別にして、ある意味で、身近な他者の現象であるならば、性行動の記述にあたって、『禁色』は、性の人類学が目指すべき叙述のある型を示しているのではないかと思う。



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コメント
 
 
 
Unknown (さとうまり)
2009-04-24 21:41:26
どうもお久しぶりです。
太田一誠ゼミ長期の佐藤茉莉です。

「禁色」是非読みたいと思いました。

近況としては、昨年10月に籍を入れて
藤本茉莉になりました。

今度先生のところにもお邪魔したいです。
何かの折には是非お誘いくださいませ。
 
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