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第2次世界大戦後の西欧

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 フランスとドイツは2回の世界大戦で交戦したが、第1次世界大戦では「【西部戦線異状なし】」に見られるように、独仏国境線は、ほぼ膠着していた。しかし、第2次世界大戦では、ヒトラーはスターリンと【独ソ不可侵条約】を締結し、両国はまず、【】ポーランドに侵攻。その後8ヶ月たってからドイツはフランスを攻撃した。占領されたフランスには3つの状態が存在した。北部はドイツが【直接占領】、南部の【ヴィシー】に【ペタン】を首班とする傀儡政権が樹立された。また【】ロンドンには徹底抗戦をフランス軍部に拒否された【ド=ゴール】が「自由フランス」で【レジスタンス】運動を指導した。
 この違いは戦後の西欧世界に決定的な違いをもたらした。第2次世界大戦後はフランスも戦火にまみれ、イギリスも激しい空襲を受けた。もちろんドイツも同様に破壊された。【ヤルタ会談】の結果、冷戦が決定的になり【46】年には「【鉄のカーテン】」が東西を分断した。当時、労働者階級など貧困層の拡大によって共産主義が拡大すると考えられていたため、第1次世界大戦の比較にならない被害を受けた西欧諸国で共産主義が拡大する可能性が非常に高かった。
 【トルーマン】大統領は「【マーシャル・プラン】」で西欧への積極的な介入を図った。共産主義を「鉄のカーテン」の向こう側に封じ込めることを目的としたのである。


シューマン

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

フランスの【シューマン】によれば、西欧世界は鉄鉱石、石炭といった資源をめぐって長い間紛争を繰り返してきた。西欧世界にこれらの鉱物資源を管理する機関を創設すれば、平和をもたらすことができるという。彼は「EC生みの親」と言われる。
★ECSCのチェック・ポイント
�正式名称            
=ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体  
�創設の年は?
=1952年         
�その目的は?
=石炭鉄鋼資源の共同管理
�参加国は?
=仏・西独・ベネルクス3国


アトリー内閣

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第2次世界大戦の戦時下では【チャーチル】の挙国一致内閣を必要としたイギリス国民も、45年5月のドイツ降伏後は、【アトリー】【労働党】政権を選択した。この政権の下、航空などを含む【主要産業の国有化】、47年には【インド】の独立・さらに【ビルマ】独立が認められている。一方、主要産業の国有化という政策はイギリス戦後経済を停滞させてしまい、後に【イギリス病】とよばれるような停滞期を迎える原因にもなった。アトリー労働党政権の政策のスローガンを「【ゆりかごから墓場まで】」というが、これは徹底した福祉政策を示している。

★アトリー内閣のチェック・ポイント
�アトリー内閣の政党は?
=労働党(期間は1945~51)
�アトリー政権成立の状況は?
=チャーチル内閣に代わって大戦末期に成立。ポツダム会談に途中から出席した。
�アトリー内閣によって独立した植民地は?
=インド独立承認(47年。分離独立)
=パキスタン独立承認(47年)
�アトリー内閣の経済政策は?
=重要産業国有化(石炭・電気・鉄鋼・航空・英国銀行を国有化)
�アトリー内閣の標語は?
=ゆりかごから墓場まで
�その他の業績は?
=1950年に労働党として中華人民共和国を承認


戦後史(5)西欧の情勢�イギリスとEU

2012年12月19日 | トリオDE世界史

(1)アトリー首相が承認した独立 ��独立承認2カ国�完全独立承認
�インドとパキスタン
�ビルマ(ミャンマー)
�アイルランド共和国
(2)重要産業国有化 �首相�スローガン�産業1つ
�アトリー
�ゆりかごから墓場まで
�航空
(3)アトリー �政党�植民地政策�内政
�労働党
�独立を承認
�重要産業国有化
(4)保守党政権の首相3人 �核保有�スエズ動乱�EFTA結成
�チャーチル
�イーデン
�マクミラン
(5)戦後イギリス経済の変遷 �アトリー首相�ウィルソン首相�サッチャー首相
�重要産業国有化
�イギリス病
�自由主義経済の再建
(6)サッチャー首相 �年代�アルゼンチンとの戦争�対中国政策
�1980年代
�フォークランド紛争
�香港返還協定締結
(7)イギリス首相とEU �マクミラン首相�ヒース首相�メージャー首相
�EFTA結成
�EC加盟(拡大EC)
�マーストリヒト条約承認
(8)イギリスとEUの年代 �EFTA結成�EC加盟�EU参加 
�1960年
�1973年
�1992年







アトリー内閣

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第2次世界大戦の戦時下では【チャーチル】の挙国一致内閣を必要としたイギリス国民も、45年5月のドイツ降伏後は、【アトリー】【労働】党政権を選択した。この政権の下、主要産業の国有化、47年【インド】独立がなされた。

アトリー内閣のチェック・ポイント
�アトリー内閣の政党は?
=労働党(期間は1945~51)
�アトリー政権成立の状況は?
=チャーチル内閣に代わって大戦末期に成立。ポツダム会談に途中から出席した。
�アトリー内閣によって独立した植民地は?
=インド独立承認(47年。分離独立)
=パキスタン独立承認(47年)
�アトリー内閣の経済政策は?
=重要産業国有化(石炭・電気・鉄鋼・航空・英国銀行を国有化)
�アトリー内閣の標語は?
=ゆりかごから墓場まで
�その他の業績は?
=1950年に労働党として中華人民共和国を承認


シューマン・プランとEC

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 近世以降のヨーロッパの戦争は鉱業地帯の争奪戟でもあった。とくに【アルザス・ロレーヌ】地方は30年戦争・普仏戦争・第1次世界大戦でドイツ(プロイセン)とフランスの争奪の的となり、【シュレジェン】地方はオーストリア継承戦争とそれに続く7年戦争でオーストリアとプロイセンの争奪の地となり、【シュレスヴィヒ・ホルシュタイン】は普墺戦争で争奪合戦が行われた。
 フランス外相【シューマン】はこのような戦争をなくすために、工業原料の共有化を提案したのである。彼の構想の下で、1952年に【ECSC】(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が結成され、さらに58年には【EURATOM】(ヨーロッパ原子力共同体)が、59年には【EEC】(ヨーロッパ経済共同体)が結成された。これら3つの組織が発展的に統合され【EC】が【1967】年に成立するが、シューマンはECの生みの親ともいえる存在である。


EU(ヨーロッパ統合まで)

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヨーロッパ統合の起源は,古く中世に遡ることができるが,統合が具体的な政治運動に発展したのは第一次大戦後クーデンホフ=カレルギーが「パン=ヨーロッパ運動」を呼びかけてからである。この運動は第二次大戦で頓挫するが,戦後イギリス元首相【チャーチル】がいち早く「ヨ一ロッパ合衆国」を提唱している。大戦による荒廃,東西対立の激化の中で米ソ二大勢力に対抗できるヨーロッパ再建の気運が高まった。ヨーロッパ諸国の協力の噛矢となったのは【マーシャル=プラン】(【ヨーロッパ経済復興援助計画】)受け入れのために,1948年西ヨーロッパ17カ国で結成した【OECD】である。さらに,1951年【シューマン】の提唱に基づいて【ECSC】(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が発足したのに続いて【A】が6カ国の間で調印され,1958年EEC(ヨーロッパ経済共同体)とE【URATOM】(ヨーロッパ原子力共同体)が発足した。
 【EEC】はまず共通関税をもつ関税同盟を1968年に完成させ,翌年には共通農業市場も確立し,12年の過渡期を乗り切った。これと相前後として【1967】年には【EEC】,【ECSC】,【EURATOM】がブリュッセル機関融合条約によって結合され,全体が【EC】と総称されることとなった。1969年ハーグ首脳会議は完成(共同農業市場の融資方式の決定),拡大(イギリスなどの加盟),深化(経済・通貨同盟の結成)を掲げたが,このうち実現をみたのは【イギリス】,デンマーク,アイルランドの加盟のみである。イギリスは【EFTA】を結成してこれに対抗しようとしたが,【1973】年ついに加盟することになったのである。イギリスの加盟が【ド=ゴール】が率いた【フランス】によって二度にわたって拒否されたことは,有名である。これを第一次拡大と呼ぶが,1970年代に入ってドルの金交換を公式に停止した【ニクソン=ショック】にともなう国際通貨危機,【1973】年と【79】年に起きた二度の【オイルショック】などが発生すると,失業とインフレが共存する【スタグフレーション】に多くの加盟国が陥った。そのため,統合への動きも停滞してしまった。これをユーロペシミズムと呼ぶが,1980年代にいたってやっとペシミズムから脱することになる。
 ペシミズム脱出のきっかけになったのは,1979年のEMS(ヨーロッパ通貨制度)の発足である。その中核となる通貨は【ECU】であったが,実質的には西ドイツマルクが基軸通貨の役割を果たして,域内貿易の拡大と経済成長に寄与した。ただし,1993年には変動幅を拡大したため,EMSは共同変動制の実を失っている。
 つぎに,加盟国についてみると,第二次拡大(1981年),第三次拡大(1986年)ではそれぞれ1カ国,2カ国の加盟をえた。1990年のドイツ統一,旧ソ連の崩壊後1991年には,さらに東欧3カ国のちに合計6カ国と連合協定(ヨーロッパ協定)を結ぶとともに,EAFTとも翌年ヨーロッパ経済領域協定を締結したうえ,1995年には第四次拡大でこの中の3カ国の加盟を承認した。こうした加盟国の拡大や連合協定によって,その領域はヨーロッパの主要地域をカバーすることになった。
 大きな進展がみられたのは,市場統合の面である。1985年に理事会は【域内市場白書】を採択し,域内市場統合に向けて本格的取り組みをスタートさせた。これを受けてチェッキー二報告(1987年発効)は1992年末までに物,人,サービス,資本の自由市場を実現するとし,これに従って市場の統合が実現され,単一市場がスタートした,また,【1993】年までに批准され,発効した【マーストリスト条約】は,EMU(ヨーロッパ通貨同盟),共通外交・安全保障政策の樹立を目指すEPU(ヨーロッパ政治統合),司法・内務の分野における政府間協力を三本柱とする【EU】(ヨーロッパ連合)を創設するとしていた。このうち,EMUは1998年の段階で11カ国が参加を表明し,その中核となるヨーロッパ中央銀行(ECB)も同年6月に発足した。さらに,【1999】年には新しい単一通貨に全面的に移行することになっている。


ECからEUへ

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカは【1947】年にヨーロッパの復興を援助するために,【マーシャル・プラン】を提唱した。このマーシャル・プランを受け入れるための組織が【ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)】である。また軍事面では1948,イギリス,フランス,ベネルクス3国の間で,【ブリュッセル】条約が結ばれ,さらに【1949】年にはこれにアメリカ,カナダ,イタリアなどが加わって【北大西洋条約機構(NATO)】が結成された。
 また、ヨーロッパ諸国間の経済的協力もすすめられ,フランスの外務大臣【シューマン】の提案にしたがってフランス,イタリア,西ドイツ,ベネルクス3国の間に【1951】年【ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)】条約が結ばれた。これが本格的な欧州統合の始まりである。1950年代後半に入ると統合への動きはさらに進み,【1957】年ローマ条約によって【ヨーロッパ経済共同体(EEC)】と【ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)】が発足した。これに対してイギリスは大陸市場からの孤立を恐れ、1960年【ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)】を結成した。これには北欧3国・オーストリア・スイス・ポルトガルが加わり、のちにフィンランド・アイルランドも加わった。
一方、【1967】年にはEEC・ECSC・EURATOMが統合されて【ヨーロッパ共同体(EC)】が成立した。このことで,ヨーロッパの経済統合がさらにすすんだ。その後ヨーロッパ共同体(EC)は組織を拡大し,【1973】年には【イギリス】・【デンマーク】・【アイルランド】が新たに加盟したことで【拡大EC】と呼ばれた。さらに1981年には【ギリシア】,1986年には【スペイン】などもこれに加わった。
こうした流れの中で【1991】年12月には欧州共同体首脳会議が開かれ,翌【1992】年【マースとリヒト】条約が調印され,【1993】年には同条約が発効して【欧州連合(EU)が】成立し,ヨーロッパはさらに高度な統合の時代を迎えている。


ECSC

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

フランスのシューマンによれば、西欧世界は鉄鉱石、石炭といった資源をめぐって長い間紛争を繰り返してきた。西欧世界にこれらの鉱物資源を管理する機関を創設すれば、平和をもたらすことができるという。

ECSCのチェック・ポイント
�正式名称            
=ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体  
�創設の年は?
=1952年         
�その目的は?
=石炭鉄鋼資源の共同管理
�参加国は?
=仏・西独・ベネルクス3国


西ドイツの戦後の政党と政治史

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1949】年に建国した西ドイツでは、冷戦の影響で【KPD】(ドイツ共産党)は復活を認められず、【SPD】(社会民主党)もマルクス主義を否定することを求まられた。そのため政権政党になったのは、キリスト教系の政党を合同させた【CDU】(【キリスト教民主同盟】)であった。これはカトリック系の中央党とプロテスタント系政党から成立した。「【奇跡の復興】」と呼ばれる経済復興を成し遂げた【アデナウアー】はこのCDUの首相。
 一方、【SPD】の【ブラント】首相は70年代に「【東方外交】」を展開し、ポーランドと東ドイツとの国境線である「【オーデル・ナイセ線】」を承認し、さらに【72】年に東ドイツを国家として承認する「【基本条約】」を結び、さらに、国連に【同時加盟】を果たした。圧倒的に経済力の優位があるものの、【ブラント】首相は「東方」に外交政策の目を向けたのである。
 【1989年11月9日】、【ヤルタ体制】を象徴した【ベルリンの壁】が崩壊した。この時の【コール】首相は「1年以内に東西ドイツを統一する」を宣言し、【ヴァイツゼカー】大統領は後世に残る演説を行い、ドイツ統一を世界に呼びかけた。事実、1年後の【】1990年にドイツは統一された。


社会主義政党史 ドイツ 2009津田塾大学

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 世界に先がけてイギリスで始まった産業革命は,伝統的な生活様式や価値観に重大な変化をもたらした。都市では大規模工場で働く賃金労働者が急増し,貧困者の人口集中によるスラム化が起こった。労働者は,利潤の追求を優先する資本家によって,不衛生な環境のもとで長時間労働と低賃金を強いられることが多く,労働争議が多発した。団結する機会が増えた労働者は,一つの階級としての意識を高めて労働組合を結成し,自らの手で労働条件の改善をめざすようになった。こうした状況のなかで,団結禁止法を制定して労働運動を弾圧していたイギリス政府も,1824年には同法を廃止して労働者の団結や団体行動を認めるようになった。また,数度にわたって工場法が制定され,労働条件の改善が進んだ。

 

 こういった動きのなかから,資本主義そのものを批判し,富が公平に分配されるといった理想社会の実現をめざす社会主義思想が発展した。工場法の制定に尽力し,自らも理想的協同社会の建設を試みたイギリスの工場経営者ロバート=オーエンや,フランスの二月革命で活躍し,国立作業場の設置を推進したルイ=ブランなど,社会主義の考えを実践する者も現れた。また,ドイツのマルクスとエンゲルスは,資本主義体制の崩壊が歴史的必然であるとする学説を展開し,労働者階級による政権獲得と,労働者の国際的団結による社会主義の実現を訴えた。彼らの思想は後にマルクス主義と称され,以後の社会主義運動に大きな影響を与えた。

 

 労働運動や社会主義運動の高揚に直面したヨーロッパ各国政府は,ある程度の社会福祉政策を実施するようになった。たとえば,19世紀半ばごろから工業発展をとげたドイツでは,宰相ビスマルクが1878年に「社会主義者鎮圧法」を制定して労働運動に打撃を与える一方で,災害保険や疾病保険などの社会保険制度を実施した。こうした対応は労働運動の一つの成果だったが,一連の福祉立法の実現を背景に,社会民主党のベルンシュタインなど,革命ではなく議会を通じての社会改良によって社会主義の実現をめざす理論家も現れ,社会主義運動のあいだに分裂と対立をもたらした。さらに,こうした福祉政策は,労働者に国家への帰属を意識させる要因ともなり,労働者の国際的な連帯を弱めることになった。


アパルトヘイト

2012年12月13日 | 高3用 授業内容をもう一度

1652年オランダ東インド会社はアフリカ南端の喜望峰に植民地を建設した。その後17世紀末にかけて、オランダ系プロテスタント農民が入植した。これにドイツ系やフランス系移民も加わり、原住民を支配しながらケープ植民地は建設されていった。この人々や、その子孫たちは、現在ではアフリカーナと称している。

その後、イギリスはケープ植民地を自国領とし、ウィーン議定書で正式にこれを認められた。これに対してオランダはその代償として南ネーデルラントを領有することを認められている。イギリスの支配を嫌った人々は、北東部を目指し、内陸部に移住を行い、1850年代にトランスヴァール共和国と続いてその南に位置するオレンジ自由国を建設した。187080年代に両国で大規模なダイヤモンド鉱脈と金鉱脈が発見されると、両国にとって大きな転機となった。ヨハネスブルク近郊で金鉱脈が発見されたトランスヴァール共和国であったが、当時は国家財政が貧弱であったため、多くのイギリス系企業を誘致して開発せざるを得なかった。このことは、帝国主義段階を迎えていたイギリスにとっても好都合であり、ダイヤモンド鉱山開発によって財を成したセシル=ローズは、政界に進出すると、1890年にはケープ植民地政府首相に就任している。彼の政策は本国政府がとるいわゆる3C政策の一環であった。この動きとともに、本国植民地相であったNチェンバレンは、両国の併合を意図し過剰な要求をした。これに対しトランスヴァール共和国のクリューガー大統領はこれを拒否したため、1899年には南ア戦争が始まった。この戦争はイギリスによる帝国主義侵略戦争であった。イギリスは大軍を送り込み、ゲリラ戦での抵抗をようやく抑えて征服に成功したが、それには2年以上の歳月を要したため、大英帝国の威信を揺るがし、「栄光ある孤立」は放棄せざるを得ない状況になった。また、この戦争とほぼ同時期に起きていた、山東省を中心に始まった義和団事件への介入も困難であった。その結果、ロシアが中国東北地方および朝鮮半島への勢力を拡大することへの警戒心も強めたことも、「栄光ある孤立」を放棄した要因である。

一方、オランダ系の人々に対しても原住民や・有色人種に対する優越権を認めた上で、彼らの自治を容認することとなった。その結果、1910年、4州からなる南アフリカ連邦が組織され、イギリス連邦の元で自治領とした。

アパルトヘイトはこの時期から始まった有色人種に対する差別・隔離政策を指す。とくに第2次世界大戦後、南アフリカ連邦は工業化が進展し、それに伴って都市化現象が進むと、バントゥー系原住民および有色人種労働者と、白人支配者層との労使対立が人種間対立に拍車をかける結果となった。さらに、白人間でも貧富の差が拡大していたため、白人貧困労働者を保護するためにも人種差別政策が不可避と考えられていった。このような状況の下、人種差別政策を主張する国民党は議会で勢力を伸張し、アパルトヘイトと呼ばれる人種差別法が制定された。人種間の婚姻を禁止する雑婚禁止法や、18歳以上の黒人に身分証の傾向を義務付けたパス法などがその例である。しかし、1950年代以降の世界は自由主義や民主主義が拡大する傾向にあり、1960年はアフリカの年と呼ばれるように、17の独立国が誕生している。そのため、アパルトヘイト政策はイギリス本国からの非難を受けたばかりでなく、国際世論の反発を受けたが、同国はアパルトヘイトの維持を優先させ、翌年5月南アフリカ共和国として独立を宣言し、イギリス連邦から一方的に離脱した。

独立後、アパルトヘイト政策はいっそう強化され、先住民土地法により、全人口の2/3を占めるバントゥー系住民を国土の13%のホームランドと呼ぶ土地に強制的に居住させる政策がとられた。このため黒人社会からの不満が増大し、黒人たちによる反乱や蜂起が発生した。これに対し、先住民土地法政権はたびたび非常事態宣言を出し、徹底的弾圧政策を堅持したものの、国際社会は経済制裁という形で非難を表明したため、同国は次第に経済的にも苦境に追い込まれていった。反アパルトヘイト運動が拡大していった。マンデラを指導者とするANC(アフリカ民族会議)やそこから分裂したパンアフリカニスト会議の活動が活発になるのもこのころである。強硬路線をとっていた前政権に代わって1898年デクラーク政権が誕生すると、デクラーク政権は人種差別政策の段階的見直しを図り、翌年にはマンデラを釈放して対話路線に転換、さらに1991年アパルトヘイト基幹3法の廃止に踏み切った。1994年4月全人種が参加する初の総選挙が実施された。この選挙に勝利したのは黒人指導者マンデラで、彼は大統領に就任するとアパルトヘイトに関する全ての差別的法律が撤廃された。


清全盛期の統治体制  2002年世界史 北海道大学

2012年12月13日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,問いに答えよ。

 17世紀から18世紀にかけて,康煕・ A ・乾隆の三代の間に,清朝は国内統治の基盤を確立し,また,大きく版図を広げた。清朝を建てたのは,人口の多数を占める B 族ではなく,(1)北方の少数民族である C であった。このことは,清朝の統治体制に大きな影響を及ぼした。正規の軍隊としては, C を中心として(2)八旗が編成され,軍事的要地に置かれる一方,(3) B 族によって構成された D は,各地に配置されて主に治安維持などにあたった。国内行政制度については,伝統的な官僚選抜方式である E を継承し,(4)人員の配置でも C と並んで B 族の登用を図った。歴代の皇帝は,(5)反清思想を弾圧するため厳しい統制を行ったが,同時に,(6)中華帝国の皇帝として伝統的な文化の振興に努めた。こうした直轄領での統治に対して,モンゴル・チベット・新疆などは F の管轄下に置かれ,広汎な自治と(7)宗教の自由が与えられた。

問1 空欄AからFにあたる適切な語句を答えよ。

問2 下線部(1)について,この民族が清に先立って建てた王朝の名称を答えよ。

問3 下線部(2)について,「八旗は軍事組織であるばかりでなく,行政・社会組織でもあった」と言われている。このことについて,簡潔に説明せよ。

問4 下線部(3)について,この軍事的原則は19世紀に入ると崩れる。その原因と結果を簡潔に記せ。

問5 下線部(4)の政策名を答えよ。

問6 下線部(5)について,代表的な例を2つ挙げよ。

問7 下線部(6)について,(ア)康煕以下三代の皇帝の下で行われた大規模なへん編さん纂事業の名称を3つ挙げ,(イ)康煕帝の下で起きた「典礼問題」について120字で説明せよ。

問8 下線部(7)について,モンゴル・チベットの住民の多くと新疆の住民の一部が信仰していた宗教を答えよ。

【解答2】 
問1 A 雍正 B 漢 C 女真族
D 緑営 E 科挙 F 理藩院
問2 金
問3 省略
問4 省略
問5 満漢併用策 問6 文字の獄・禁書
問7 ア 康熙字典・古今図書集成・四庫全書
イ 省略
問8 チベット仏教



プラトン的に存在するか?ニーチェ的に存在するか?

2012年12月13日 | 何かの足しになれば

 「存在」について対照的な志向を示した二人の巨人の話です。倫理や世界史でプラトンの「イデア」について学習します。「イデア」とは不変の真理のこと。たとえば「机」を紙に書いてみてください。多種多様な「机」が存在するにもかかわらず、誰もが「机」をイメージできます。その誰もが共通して持っている「机」こそが、机のイデアです。したがって、そのイデアは個別に存在する机の中に含まれていることになります。つまりプラトンが言う「存在」とは、イデアすなわち「不変の真理」のこと。誰かに出会ってその人の影響を受けても、決して変わることのない自分が存在する。それがプラトンのいう「存在」です。決して変わることのない自分がいる。そうプラトンは説くのです。


 一方、19世紀に登場したニーチェは、「変化することによって存在する」といいます。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉がニーチェを理解するヒントになるのですが、それは「人間は決して同じ川に入ることはできない」という有名な言葉です。一回目に入った時の川とは全体としてみれば変わってないように思えますが、そこに流れている川の水は、一回目に入った時の水ではない。なかなか示唆に富んだ言葉です。ニーチェは存在が立証できるのは、その存在が常に新しく変化しているからだ、というわけです。彼は、そのように不断の変化を続けている人間を「超人」といいました。つまり過去の自分を越えていくことを続けることで、自分の存在を感じる人間のことです。


 過去の自分、現在の自分、未来の自分、これらは刻々と時間とともに変化している。そうであるからこそ人間は存在しているといえるのだ、とニーチェは言うわけです。誰かと出会ったときに、その人から受けた影響を自分のものにして、新しい自分が存在することを感じる。そんな存在の仕方がニーチェ的です。
 あなたはプラトン的に存在しますか?それともニーチェ的ですか?


アフリカ史(1)サハラ以南のアフリカ史

2012年12月13日 | トリオDE世界史

(1)サハラ以南のアフリカ文化の地域3つ �川�川�海岸
�ニジェール川
�ザンベジ川
�アフリカ東海岸
(2)3地域の繁栄の理由 �ニジェール川�ザンベジ川�東海岸
�塩金貿易 
�金を産出
�インド洋の季節風貿易
(3)ニジェール川流域の3王国 �8世紀�13世紀�15世紀
�ガーナ王国
�マリ王国
�ソンガイ王国
(4)ガーナ王国 �特産品�貿易�滅亡の理由
�金
�塩金貿易
�ムラービト朝に滅ぼされた
(5)マリ王国 �国王�都�宗教
�マンサ=ムーサ(=カンカン=ムーサ)
�トンプクトゥ(黄金と学問の都)
�イスラム教
(6)ソンガイ王国 �都�特徴�滅亡の理由
�ガオ
�黒人初の大学を建設
�ベルベル人に滅ばされる
(7)ザンベジ川 �王国�都�特徴
�モノモタパ王国
�ジンバブエ
�石造りの家屋
(8)東海岸主要な港湾都市3つ
�マリンディ
�キルワ
�ソファーラ
(9)東海岸の文化 �文化圏�宗教�関連人物
�スワヒリ語文化圏
�イスラム教
�鄭和
(10)ナイル川上流探検に関係する人物 �最初の探検家�それを救出した探険家�それを援助した国王
�リヴィングストン
�スタンレー
�ベルギー国王
(11)ナイル上流の国家3つ �前8世紀�前6世紀�4世紀
�クシュ王国
�メロエ王国
�アクスム王国
(12)クシュ王国 �民族�特徴�エジプトとの関係
�ヌビア人
�最古こ黒人王国
�エジプトを征服し、新王国第25王朝を建設
(13)メロエ王国 �都�文字�特徴
�メロエ
�メロエ文字
�製鉄技術をもつ
(14)アクスム王国 �現在�宗教�民族
�エチオピア
�コプト派キリスト教
�セム計アクスム人
(15)第1次世界大戦前のエチオピアとイタリア �戦い�結果�年
�アドワの戦い
�エチオピアが勝利して独立を守る
�1896年
(16)第2次世界大戦前のエチオピアとイタリア �イタリアの政治家�エチオピア皇帝�結果
�ムソリーニ
�ハイレ=セレシエ皇帝
�ムソリーニが勝利するが国際連盟がイタリアに石油の除く経済制裁を行った