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アパルトヘイト

2012年12月13日 | 高3用 授業内容をもう一度

1652年オランダ東インド会社はアフリカ南端の喜望峰に植民地を建設した。その後17世紀末にかけて、オランダ系プロテスタント農民が入植した。これにドイツ系やフランス系移民も加わり、原住民を支配しながらケープ植民地は建設されていった。この人々や、その子孫たちは、現在ではアフリカーナと称している。

その後、イギリスはケープ植民地を自国領とし、ウィーン議定書で正式にこれを認められた。これに対してオランダはその代償として南ネーデルラントを領有することを認められている。イギリスの支配を嫌った人々は、北東部を目指し、内陸部に移住を行い、1850年代にトランスヴァール共和国と続いてその南に位置するオレンジ自由国を建設した。187080年代に両国で大規模なダイヤモンド鉱脈と金鉱脈が発見されると、両国にとって大きな転機となった。ヨハネスブルク近郊で金鉱脈が発見されたトランスヴァール共和国であったが、当時は国家財政が貧弱であったため、多くのイギリス系企業を誘致して開発せざるを得なかった。このことは、帝国主義段階を迎えていたイギリスにとっても好都合であり、ダイヤモンド鉱山開発によって財を成したセシル=ローズは、政界に進出すると、1890年にはケープ植民地政府首相に就任している。彼の政策は本国政府がとるいわゆる3C政策の一環であった。この動きとともに、本国植民地相であったNチェンバレンは、両国の併合を意図し過剰な要求をした。これに対しトランスヴァール共和国のクリューガー大統領はこれを拒否したため、1899年には南ア戦争が始まった。この戦争はイギリスによる帝国主義侵略戦争であった。イギリスは大軍を送り込み、ゲリラ戦での抵抗をようやく抑えて征服に成功したが、それには2年以上の歳月を要したため、大英帝国の威信を揺るがし、「栄光ある孤立」は放棄せざるを得ない状況になった。また、この戦争とほぼ同時期に起きていた、山東省を中心に始まった義和団事件への介入も困難であった。その結果、ロシアが中国東北地方および朝鮮半島への勢力を拡大することへの警戒心も強めたことも、「栄光ある孤立」を放棄した要因である。

一方、オランダ系の人々に対しても原住民や・有色人種に対する優越権を認めた上で、彼らの自治を容認することとなった。その結果、1910年、4州からなる南アフリカ連邦が組織され、イギリス連邦の元で自治領とした。

アパルトヘイトはこの時期から始まった有色人種に対する差別・隔離政策を指す。とくに第2次世界大戦後、南アフリカ連邦は工業化が進展し、それに伴って都市化現象が進むと、バントゥー系原住民および有色人種労働者と、白人支配者層との労使対立が人種間対立に拍車をかける結果となった。さらに、白人間でも貧富の差が拡大していたため、白人貧困労働者を保護するためにも人種差別政策が不可避と考えられていった。このような状況の下、人種差別政策を主張する国民党は議会で勢力を伸張し、アパルトヘイトと呼ばれる人種差別法が制定された。人種間の婚姻を禁止する雑婚禁止法や、18歳以上の黒人に身分証の傾向を義務付けたパス法などがその例である。しかし、1950年代以降の世界は自由主義や民主主義が拡大する傾向にあり、1960年はアフリカの年と呼ばれるように、17の独立国が誕生している。そのため、アパルトヘイト政策はイギリス本国からの非難を受けたばかりでなく、国際世論の反発を受けたが、同国はアパルトヘイトの維持を優先させ、翌年5月南アフリカ共和国として独立を宣言し、イギリス連邦から一方的に離脱した。

独立後、アパルトヘイト政策はいっそう強化され、先住民土地法により、全人口の2/3を占めるバントゥー系住民を国土の13%のホームランドと呼ぶ土地に強制的に居住させる政策がとられた。このため黒人社会からの不満が増大し、黒人たちによる反乱や蜂起が発生した。これに対し、先住民土地法政権はたびたび非常事態宣言を出し、徹底的弾圧政策を堅持したものの、国際社会は経済制裁という形で非難を表明したため、同国は次第に経済的にも苦境に追い込まれていった。反アパルトヘイト運動が拡大していった。マンデラを指導者とするANC(アフリカ民族会議)やそこから分裂したパンアフリカニスト会議の活動が活発になるのもこのころである。強硬路線をとっていた前政権に代わって1898年デクラーク政権が誕生すると、デクラーク政権は人種差別政策の段階的見直しを図り、翌年にはマンデラを釈放して対話路線に転換、さらに1991年アパルトヘイト基幹3法の廃止に踏み切った。1994年4月全人種が参加する初の総選挙が実施された。この選挙に勝利したのは黒人指導者マンデラで、彼は大統領に就任するとアパルトヘイトに関する全ての差別的法律が撤廃された。


清全盛期の統治体制  2002年世界史 北海道大学

2012年12月13日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,問いに答えよ。

 17世紀から18世紀にかけて,康煕・ A ・乾隆の三代の間に,清朝は国内統治の基盤を確立し,また,大きく版図を広げた。清朝を建てたのは,人口の多数を占める B 族ではなく,(1)北方の少数民族である C であった。このことは,清朝の統治体制に大きな影響を及ぼした。正規の軍隊としては, C を中心として(2)八旗が編成され,軍事的要地に置かれる一方,(3) B 族によって構成された D は,各地に配置されて主に治安維持などにあたった。国内行政制度については,伝統的な官僚選抜方式である E を継承し,(4)人員の配置でも C と並んで B 族の登用を図った。歴代の皇帝は,(5)反清思想を弾圧するため厳しい統制を行ったが,同時に,(6)中華帝国の皇帝として伝統的な文化の振興に努めた。こうした直轄領での統治に対して,モンゴル・チベット・新疆などは F の管轄下に置かれ,広汎な自治と(7)宗教の自由が与えられた。

問1 空欄AからFにあたる適切な語句を答えよ。

問2 下線部(1)について,この民族が清に先立って建てた王朝の名称を答えよ。

問3 下線部(2)について,「八旗は軍事組織であるばかりでなく,行政・社会組織でもあった」と言われている。このことについて,簡潔に説明せよ。

問4 下線部(3)について,この軍事的原則は19世紀に入ると崩れる。その原因と結果を簡潔に記せ。

問5 下線部(4)の政策名を答えよ。

問6 下線部(5)について,代表的な例を2つ挙げよ。

問7 下線部(6)について,(ア)康煕以下三代の皇帝の下で行われた大規模なへん編さん纂事業の名称を3つ挙げ,(イ)康煕帝の下で起きた「典礼問題」について120字で説明せよ。

問8 下線部(7)について,モンゴル・チベットの住民の多くと新疆の住民の一部が信仰していた宗教を答えよ。

【解答2】 
問1 A 雍正 B 漢 C 女真族
D 緑営 E 科挙 F 理藩院
問2 金
問3 省略
問4 省略
問5 満漢併用策 問6 文字の獄・禁書
問7 ア 康熙字典・古今図書集成・四庫全書
イ 省略
問8 チベット仏教



プラトン的に存在するか?ニーチェ的に存在するか?

2012年12月13日 | 何かの足しになれば

 「存在」について対照的な志向を示した二人の巨人の話です。倫理や世界史でプラトンの「イデア」について学習します。「イデア」とは不変の真理のこと。たとえば「机」を紙に書いてみてください。多種多様な「机」が存在するにもかかわらず、誰もが「机」をイメージできます。その誰もが共通して持っている「机」こそが、机のイデアです。したがって、そのイデアは個別に存在する机の中に含まれていることになります。つまりプラトンが言う「存在」とは、イデアすなわち「不変の真理」のこと。誰かに出会ってその人の影響を受けても、決して変わることのない自分が存在する。それがプラトンのいう「存在」です。決して変わることのない自分がいる。そうプラトンは説くのです。


 一方、19世紀に登場したニーチェは、「変化することによって存在する」といいます。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉がニーチェを理解するヒントになるのですが、それは「人間は決して同じ川に入ることはできない」という有名な言葉です。一回目に入った時の川とは全体としてみれば変わってないように思えますが、そこに流れている川の水は、一回目に入った時の水ではない。なかなか示唆に富んだ言葉です。ニーチェは存在が立証できるのは、その存在が常に新しく変化しているからだ、というわけです。彼は、そのように不断の変化を続けている人間を「超人」といいました。つまり過去の自分を越えていくことを続けることで、自分の存在を感じる人間のことです。


 過去の自分、現在の自分、未来の自分、これらは刻々と時間とともに変化している。そうであるからこそ人間は存在しているといえるのだ、とニーチェは言うわけです。誰かと出会ったときに、その人から受けた影響を自分のものにして、新しい自分が存在することを感じる。そんな存在の仕方がニーチェ的です。
 あなたはプラトン的に存在しますか?それともニーチェ的ですか?


アフリカ史(1)サハラ以南のアフリカ史

2012年12月13日 | トリオDE世界史

(1)サハラ以南のアフリカ文化の地域3つ �川�川�海岸
�ニジェール川
�ザンベジ川
�アフリカ東海岸
(2)3地域の繁栄の理由 �ニジェール川�ザンベジ川�東海岸
�塩金貿易 
�金を産出
�インド洋の季節風貿易
(3)ニジェール川流域の3王国 �8世紀�13世紀�15世紀
�ガーナ王国
�マリ王国
�ソンガイ王国
(4)ガーナ王国 �特産品�貿易�滅亡の理由
�金
�塩金貿易
�ムラービト朝に滅ぼされた
(5)マリ王国 �国王�都�宗教
�マンサ=ムーサ(=カンカン=ムーサ)
�トンプクトゥ(黄金と学問の都)
�イスラム教
(6)ソンガイ王国 �都�特徴�滅亡の理由
�ガオ
�黒人初の大学を建設
�ベルベル人に滅ばされる
(7)ザンベジ川 �王国�都�特徴
�モノモタパ王国
�ジンバブエ
�石造りの家屋
(8)東海岸主要な港湾都市3つ
�マリンディ
�キルワ
�ソファーラ
(9)東海岸の文化 �文化圏�宗教�関連人物
�スワヒリ語文化圏
�イスラム教
�鄭和
(10)ナイル川上流探検に関係する人物 �最初の探検家�それを救出した探険家�それを援助した国王
�リヴィングストン
�スタンレー
�ベルギー国王
(11)ナイル上流の国家3つ �前8世紀�前6世紀�4世紀
�クシュ王国
�メロエ王国
�アクスム王国
(12)クシュ王国 �民族�特徴�エジプトとの関係
�ヌビア人
�最古こ黒人王国
�エジプトを征服し、新王国第25王朝を建設
(13)メロエ王国 �都�文字�特徴
�メロエ
�メロエ文字
�製鉄技術をもつ
(14)アクスム王国 �現在�宗教�民族
�エチオピア
�コプト派キリスト教
�セム計アクスム人
(15)第1次世界大戦前のエチオピアとイタリア �戦い�結果�年
�アドワの戦い
�エチオピアが勝利して独立を守る
�1896年
(16)第2次世界大戦前のエチオピアとイタリア �イタリアの政治家�エチオピア皇帝�結果
�ムソリーニ
�ハイレ=セレシエ皇帝
�ムソリーニが勝利するが国際連盟がイタリアに石油の除く経済制裁を行った


アフリカ史(2)アフリカ諸国の独立

2012年12月13日 | トリオDE世界史

(1)アフリカ独立の主な指導者 �ガーナ�ギアナ�アルジェリア
�エンクルマ
�セク=トゥーレ
�ベン=ベラ
(2)ガーナ独立 �指導者�意義�旧宗主国
�エンクルマ
�ブラックアフリカ初の独立(1960年以前)
�イギリス
(3)ギニア独立 �指導者�独立の時期�旧宗主国
�セク=トゥーレ
�1960年のアフリカの年以前
�フランス
(4)アフリカの年 �年�独立した国の数�代表的な独立国
�1960年
�17カ国
�コンゴ
(5)コンゴ独立 �指導者�独立年�旧宗主国
�ムンバサ
�1960年(アフリカの年)
�ベルギー
(6)コンゴ動乱 �年�原因�国連の対応
�1960年から
�ベルギーが地下資源の保持を目的に独立を認めない
�国連軍が組織
(7)アルジェリア �19世紀の反仏運動指導者�独立の主役�反仏組織
�アヅデュール=カーディル
�コロン
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
(8)アルジェリア独立へのフランスの対応 �政体の変化�その特徴�フランス大統領
�第5共和制
�大統領権限の強化
�ド=ゴール
(9)アルジェリア独立戦争 �期間�独立戦争の組織�独立承認
�1954~62年
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
�エヴィアン協定
(10)エヴィアン協定 �年�フランス大統領�アルジェリア大統領
�1962年
�ド=ゴール大統領
�ベン=ベラ大統領
(11)アフリカの組織 �アルジェリア独立�アフリカ統一機構�南アフリカの反アパルトヘイト
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
�OAU
�ANC(アフリカ民族会議)
(12)アフリカ統一機構 �略称�指導者�目的
�OAU
�エンクルマとセク=トゥーレ
�アフリカ新独立国の団結
(13)アパルトヘイト基幹3法
�先住民土地法
�人口登録法(パス法)
�集団地域法
(14)反アパルトヘイト �組織�その略称�指導者
�自由の憲章
�ANC
�ネルソン=マンデラ
(15)アパルトヘイト廃止 �政権�年�黒人発の大統領
�デクラーク大統領
�1991年
�ネルソン=マンデラ