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ツタンカーメン

2013年04月22日 | 高校1年生用

 【ツタンカーメン】は【新王国】第【18】王朝の少年王で、【黄金のマスク】の発見で有名な王です。イクナートンの息子で、彼の妻として有名な【ネフェルティ】の子供ではない、別の妻の子供であろうと考えられています。
 イクナートンがなくなった後、【アモン】を祭る【テーベ】の神官たちに押されてテーベに都を戻し、ツタンク・アモンと名乗りました。在位9年18歳で死去したため、王墓の建設がまにあわず、【テーベ】近くの【王家の谷】にある大臣の墓に葬られました。それから3300年後、イギリス人【ハワード=カーター】が1922年に発掘し、王のミイラには黄金のマスクが被せられていたわけです。


オリエント文明を整理すると

2009年04月08日 | 高校1年生用
※概観
 古代オリエント史はティグリス・ユーフラテス河流域のメソポタミア地方と、ナイル河流域のエジプトの2地域が中心となっている。これに地中海東岸地域とアナトリア(小アジア)を加えて考えていけばよい。これら地域毎に分けて古代オリエント史を考えることが多いのだが、じつはオリエント世界全体を掌握しながら、時代区分を行って見ていくほうが理解し易いのである。
 すなわち、シュメールから始まった古代文明が、農耕文明としてチグリス・ユーフラテス河流域で成熟していき前18世紀のバビロニアで集大成される時期が『第1期』。この時期ではエジプトも同等レベルの文明を完成させたといえる。
 次いで前20世紀頃の中央アジアから始まった遊牧民族の大移動が古代オリエント世界にも波及してきた時期が『第2期』である。『第2期』を理解するためには古代世界の中央アジアからインド、オリエントに至る国際情勢を知る必要がある。この人類史上最初の民族大移動はインド・ヨーロッパ語族の移動で、彼らは馬(馬の原産地は中央アジアであるため彼らが馬を使用したことに不思議はない)を所有したため圧倒的な軍事力で移動先の農耕文明を征服した。インドのインダス文明を破壊したのも彼らの一派であった。そして古代オリエント世界にはミタンニ、カッシート、そして後に鉄器を発明するヒッタイト人が侵入し、先行の農耕文明を征服した。その余波はエジプトにも波及し中王国が滅亡している。この『第2期』は前18世紀から前12世紀頃まで続いた。この時期の古代オリエント世界はダイナミックな動きを見せ、国際関係にもとづく外交政策も展開された。この時代は謎の民族である「海の民」の侵入で幕を降ろすが、鉄器の普及をともなった古代オリエント世界の活発化は、農耕によらず商業活動を主体とする民族に活躍の場を提供することになる。
 『第3期』は海上で商業活動をするフェニキア人や陸上交通を交易の場とするアラム人、古代オリエントの商業世界全体の統合を目指したアッシリア人などが競い合った時代である。フェニキア人とアラム人は「海の民」消滅後に軍事的空白地帯となった地中海東岸を本拠地にしたが、アッシリアはティグリス河上流から勃興したため、まず最初にメソポタミアの既成勢力と自国の存亡を賭けた抗争に勝利しなければならなかった。そのためアッシリアはフェニキアやアラムと違い、軍事大国化の道を歩んだ。
 『第3期』が古代オリエント世界の商業活動を巡る争いであったと理解すれば、アッシリアがフェニキアの都市を徹底的に破壊した理由が知れよう。アッシリアはオリエントの統一に成功したものの官僚制度などの基本的統治機構を持たなかったためにまもなく崩壊した。
 そして『第4期』では、その欠点を十分に解消した統一国家アケメネス朝ペルシアが、西方のギリシア世界と関わっていく中で、古代世界そのものが大きく範囲を拡大していくのである。

前12世紀「海の民」の侵入

2008年03月03日 | 高校1年生用
 【「海の民」】には必ずといってよいほど「なぞの」という言葉がつきます。彼らは【前12】世紀に地中海から【エジプト】・【小アジア】・【メソポタミア】に侵入し、その地にあったヒッタイト帝国やミタンニ王国を滅ぼしています。ただし、新王国はこのときは滅びませんでしたが、以前のようにオリエント世界に影響力を持つような国ではなくなってしまいました。このように、海の民はそれまでインド=ヨーロッパ語族の世界であったメソポタミアに混乱をもたらし、全てを無にしたのです。前12世紀からオリエント世界はまったく新しい世界が始まりました。

フェンキア人

2008年03月03日 | 高校1年生用
 【シリア=セム】に属する【フェニキア人】は、地中海沿岸の【海上貿易】に従事して繁栄しました。フェニキア人は【前12世紀】頃から活発に地中海に出没したようです。彼らが扱った貿易品は、【エジプト】の【パピルス】・【奴隷】・【穀物】・【象牙】、【黒海北岸】地帯で取れる【穀物】、シリアのレバノン山脈で取れる良質な【レバノン杉】などです。
 フェニキア人が建設した港湾都市には【シドン】・【ティルス】・【ビブロス】などがあります。海岸沿いにレバノン山脈が迫っているため、これらの都市は切り立ったがけで分けられていて、狭い土地に作られました。そのため、フェニキア人は農業では生計を立てられなかったので、危険を承知で海上貿易に乗り出していったのでしょう。【ティルス】の人々は現在の【チュニジア】(北アフリカ)という場所に【カルタゴ】という名の植民市を建設し、貿易の拠点を建設していますが、このようにフェニキア人は地中海沿岸で港が作りやすい土地に移り住むことも多かったようです。
 フェニキア人が地中海各地に出向いて、それぞれの土地の人々と交渉した結果、フェニキア人が【シナイ文字】から作った【フェニキア文字】は、地中海沿岸の人々にも使用されるようになりました。このように、フェニキア文字は現在の【ギリシア文字】・【ローマ字】原型になっています。フェニキア人が古代地中海世界に与えた文化的影響は大きかったといえるでしょう。

エジプトの神

2008年03月03日 | 高校1年生用
 エジプトの各【ノモス】(都市国家)には、それぞれ主神がいてその都市を守っていて、エジプト全体は【太陽神ラー】を守護神としていました。エジプトは多神教の世界だったわけです。たとえば、テーベの主神は【アモン】神でした。中王国と新王国の時代を通じて、テーベに都が置かれ、他のノモスを支配していたので、やがてテーベの神アモンと太陽神ラーが一体となった【アモン=ラー】の信仰が生まれました。
 エジプト人は不死の魂を切望したといわれています。早稲田大学の吉村教授は古王国【第4】王朝時代に作られたピラミッドも、王が不死の力を得るための建造物であったという説を唱えています。しかし、一般の人々はそのようなチャンスはありません。死後に再生できるかどうかは、【オシリス】神が行う【最後の審判】で、天秤が右に傾けばその心臓が食われ、逆ならば再生することができると考えました。
 このようなエジプト人の様子を現在の私たちが知ることができるのは、水草で作られた【パピルス】紙に残っている【死者の書】の記述からですが、エジプト人が使用した絵文字(象形文字)は、フランス人【シャンポリオン】が「【ロゼッタストン】」を使って【ヒエログリフ】(神聖文字)や【デモティック】(民衆文字)を解読してからに他なりません。現在、大英博物館にある「ロゼッタストン」はフランス革命の時に【ナポレオン】が率いた歴史学者ブッサールたちが発掘したものです。

ファラオ

2008年03月03日 | 高校1年生用
 ギリシアの歴史家【ヘロドトス】は「【エジプトはナイルのたまもの】」という言葉を残しました。彼は【前5】世紀の歴史家ですが、ピラミッドについても多数の奴隷に労働によって作られたと、書き残しました。
 【カイロ】の対岸にある【ギザ】という場所に【3大ピラミッド】があります。【クフ】王のピラミッドが最大ですが、カフラー王やメンカフラー王のピラミッドも巨大なものです。彼らのようなエジプトの王を【ファラオ】とよびました。現在ではピラミッドはファラオの墓ではないのでは??と考えられています。このような大ピラミッドは【古王国】時代の【第4】王朝にさかんに作られました。
 それより以前、上エジプト(ナイル川【上流】地域のことをそうよびます)から登場して、下エジプト(ナイルの【デルタ】地帯)を征服し、最初のファラオになったのは【メネス】です。ファラオは【太陽神ラー】の化身とされ、ファラオも神の名によって政治をしましたから、まさに【神権政治】が行われていたわけです。

新王国時代

2008年03月03日 | 高校1年生用
異民族【ヒクソス】を追い出して建国した新王国は【第18】王朝と【第19】王朝の時が全盛期でした。当時のエジプト人はヒクソスを撃退できたのは、テーベの主神【アモン】の守護があったからだ、と考えました。この時代は小アジアに【ヒッタイト帝国】、メソポタミア北部に【ミタンニ】王国、南部に【カッシート】王国が繁栄し、互いに争っていました。そのような国際情勢の下、第18王朝10代目のファラオになった【アメンホテップ4世】は、アモン神を讃える神官たちが発言力を強めている状況を嫌い、即位から5年後に【テル=エル=アマルナ】という新都を建設しました。そして【アトン】神のみが神であり、他の神々は偽りだと宣言したのです。自らの名前も【イクナートン】(アトンを歓ばせる者)に改めました。当時の国際情勢からこのような宗教改革が必要だったといえます。
 イクナートンになったアメンホテップ4世は、積極的に【ミタンニ】王国と国際条約を結び、ヒッタイト帝国と対抗したことが、【アマルナ文書】に残されています。世界最古の国際関係の存在を示す基調内資料です。
また、エジプトが国際関係に関わる時代であったため、壁画に描かれた絵画にもそのような【躍動感や写実性】が表れていて、これらを【アマルナ美術】と呼びます。

琉球の歴史からみる世界史(4)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(4)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(11)琉球処分
 260年あまりつづいた徳川幕府は、1867年に政権を天皇に返し、この大政奉還によって江戸幕府は滅亡しました。翌1868年には、明治新政府がスタートしました。1871年に明治政府は、大名が支配してきた藩をなくし、全国に府と県をおく「廃藩置県」をおこないました。
 そのような時期に、1871年12月、宮古の船が台湾の東海岸に流れつき、乗組員66人のうち54人が台湾島民に殺される事件がおこりました。日本政府は台湾に出兵し、清朝からの抗議に対して、「琉球は日本に属する」ことを清朝にみとめさせました。
 日本政府は、1875年に「中国の冊封を受けないこと」「藩政を他の府県と同じようにすること」など、政府の命令を伝えました。このことは琉球が日本の県の一つになることです。琉球はこれを拒否しましたが、1879年3月、松田道之が400人の兵士をひきいて首里城に入り、「琉球藩を廃止し、沖縄県をおく」ことを命じました。琉球と中国の反対をおしきって強行された、こうした一連の政策を、「琉球処分」といいます。これに反対する士族のなかには、支援をもとめて、中国にのがれていく者もいました。
 
(12)大正・昭和の時代(ソテツ地獄と海外への移民)
 ヨーロッパで始まった第一次世界大戦(1914年~1918年)は、日本に好景気をもたらしました。世界の砂糖も不足し、価格があがったことで、沖縄も好景気になりました。当時、沖縄県民60万人のうち、約70%の人が農業についていましたが、ほとんどの農家がお金になるからといって、米やイモを植えていた土地をサトウキビ畑にしてしまいました。そのため、戦争が終わって好景気が去ると、たちまち砂糖が余り、県民の食糧が不足しました。ソテツの実は有毒であることを知りながら、ほかに食べるものがなかったため、毒ぬきが不十分なまま、それを食べて中毒死する人もいました。これを「ソテツ地獄」といいます。
 
 こうしたソテツ地獄からのがれようと、新天地をもとめて海外へ出ていく人もたくさんいました。沖縄県からの移民は、第一次世界大戦後から移民は急増し、第二次世界大戦までに7万2000人が海外へ移住しました。移民先はハワイのほか、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、メキシコなど中南米の国ぐにのほか、カナダやフィリピンなど21か国におよびました。

 沖縄県からの移民は、日本全体の11%にもなり、「移民県」とよばれました。かれらはなれない土地での生活にたえながら、はたらきつづけ、沖縄の家族に送金しました。その額は、1929年には沖縄県の歳入(収入)の約66%に相当しました。移民からの送金が、家族と沖縄県をささえたのです。

(13)太平洋戦争と沖縄戦
 1937年に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が本格化すると、日本は石油などの資源をもとめて、東南アジアへ侵略を開始しました。当時は、フランスがヴェトナムを、イギリスがミャンマーやマレーシアを、オランダがインドネシアを、アメリカがフィリピンを植民地にしていました。
 これに対して、日本はイギリスやアメリカ、フランスなどヨーロッパ強国による植民地支配からアジアを解放し、アジア民族がともにさかえるようにという「大東亜共栄圏」を訴えました。しかしじっさいは、日本の支配下におこうとするものです。

琉球の歴史からみる世界史(3)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(3)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(8)中国と日本の支配下へ
 朝貢貿易により、さかえていた琉球王国にとって、①豊臣秀吉の朝鮮出兵は、大きな問題を投げかけてきました。琉球は秀吉の命令を一度はことわりましたが、衝突をさけ、要求された金銀の半分を送ることにしました。1603年に②江戸幕府が誕生すると、徳川家康は中国との貿易をのぞみ、琉球にその仲介役を期待しました。しかし、琉球王国は幕府の意図に従いませんでした。そこで③薩摩藩の④島津氏は、家康の許しをえて1609年3月、100隻の船と3000の兵でもって琉球に攻めいりました。長いあいだ、武器をもってたたかうことをしてこなかった琉球王国は、4月1日、はげしく抵抗することなく降伏し、琉球王尚寧は薩摩に連れていかれました。
 
 こののち島津氏は琉球に奉行所をおき、中国貿易やポルトガル船、スペイン船の監視をしました。琉球王国は、中国との関係をたもちながら、江戸幕府の支配体制のなかにくみこまれるという二重外交をせざるをえなくなります。
 江戸時代、琉球は将軍の代がかわるときに⑤慶賀使を、琉球国王がかわるときは⑥謝恩使を、江戸に送りました。こうした「江戸上り」は1634年から1850年までに、18回おこなわれました。

 一方、中国の皇帝は琉球国王の地位をみとめ、中国を中心とした世界にくみこむ「⑦冊封」体制の中に琉球王国を組み込んでいました。琉球国王が代わるたびに中国から⑨冊封使が送られました。琉球国王は中国の皇帝のもとに使節を送り、忠誠をちかいました。中国とこうした冊封関係をむすんだ国は、琉球のほかに朝鮮、ジャワ(現インドネシア)、シャム(現タイ)、マラッカ(現マレーシア)、アンナン(現ベトナム)など10数か国ありました。これらの国を⑧朝貢国とよびます。
 薩摩藩の支配のもとに入ってから、琉球王国の財政は年々、苦しくなっていきました。収入の大半は薩摩に年貢として取られ、借財はふくれあがっていたのです。

(9)産業と文化の基礎の発展
 17世紀はじめ、島津氏の侵入により、琉球王国が混乱しているなか、2つの農作物がもたらされました。ひとつはイモ、そしてもうひとつはサトウキビです。イモは、農民の常食となり、飢饅のときもしのぐことのできる画期的な農作物となりました。のちに、このイモは薩摩藩にわたり「サツマイモ」として日本全国に広まりました。また、1623年には、砂糖の製造方法を中国から学びました。サトウキビは沖縄の風土にあい、急速に広まりました。砂糖は王府の重要な交易品となり、薩摩にもはこばれ、日本各地に送られました。
 
 17世紀から18世紀にかけて、琉球王国の現状をとらえ、いかにたてなおすかを考え、努力をした2人の政治家がいました。歴史書『⑩中山世鑑(チュウザンセイカン)』を著した⑪羽地朝秀と察温です。かれらの努力により、王国の政治が安定し、文化面でも大きな発展が見られました。 
この頃、歌謡集『おもろさうし』の編集がほぼ完成しました。各地に伝わる「オモロ」という歌謡を集めたもので、沖縄の『万葉集』ともいわれています。全22巻、1554首がおさめられました。また、陶器や漆器、織物、染織などにおいて、琉球独自の作風が生みだされたのです。音楽では、サンシン(三線)が発達しました。

(10)ペリーの来航
 19世紀に入ると、近海には西洋の船が頻繁にすがたをあらわすようになりました。1797年に、イギリス海軍のプロビデンス号が宮古島沖で遭難し、島民に救助されました。艦長のブロートンは、『北太平洋探検航海記』をあらわし、琉球人の友好的な態度をほめ、日本との貿易の中継地として琉球が適しているとしるしています。1816年には、イギリスの艦船アルセスト号とライラ号が那覇港に入り、40日間とどまりました。ライラ号の艦長バジル=ホールは、のちに『朝鮮西海岸および大琉球島探検航海記』をあらわしました。

 ⑫1853年5月26日、⑬ペリーがひきいるアメリカの軍艦4隻が、那覇港に入港しました。ペリーは、日本との交渉に失敗したら、琉球を占領するつもりでいました。ペリーは「奴隷のように苦しんでいる」住民を、薩摩支配から解放し、生活を向上させることができると考えていたのです。1854年3月、ペリーは幕府と「日米和親条約」をむすび、その後、琉球とも「琉米条約」をむすびました。これにより、アメリカの船は、いつでも自由に那覇港に寄ることができるようになりました。

琉球の歴史からみる世界史(2)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(2)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

①第一尚氏の系図
尚巴志(1422)→尚忠(1440)→尚思達(1443)→尚金福(1450)→尚泰久(1454)→尚徳(1461)1470年に第1尚氏から尚円が政権を奪い、②第2尚氏王朝を建国しました。

(6)15~16世紀の琉球王国
15~16世紀ごろの琉球王国は、独立国として中国や東南アジア諸国、朝鮮、日本などと交易をしていました。琉球王国は③那覇港からは各国に貿易船を送り、中継貿易でさかえ、王国の最盛期をむかえました。④首里城はその繁栄のシンボルでもあったわけです。
琉球王国は明(中国)と、朝貢貿易の形をとっていました。周辺の国ぐにが明に朝貢した回数は、1位が琉球で171回、2位がベトナムで89回、3位がチベットで78回と、朝鮮は30回、日本は19回です。

琉球王国は明のほかにも、東シナ海や南シナ海へくり出し、朝鮮や日本、東南アジアとの交易をおこなっていました。琉球からの輸出品は、硫黄や砥石、馬などしかありませんが、中国の生糸や絹織物、陶磁器、日本の刀剣や美術工芸品、朝鮮のニンジン、東南アジアの香辛料、染料、象牙などを買いいれて、それを別の国に売るという中継貿易によって巨大な利益をあげていたのです。
 琉球王国は約150年間にわたり、中継貿易でさかえていました。しかし、西ヨーロッパ諸国が大航海時代を迎えた16世紀の中ごろから、東シナ海には⑤ポルトガル船をはじめ、中国や日本の商船が進出するようになり、国際競争の時代をむかえました。そして琉球王国の繁栄にも、かげりが見えてきました。

(7)琉球王国のシンボル、首里城
 首里城は那覇市の東北、標高約130mの丘の上にありました。いつ、だれが、最初に首里にグスクをきずいたのかわかっていませんが、13世紀末ごろではないかと考えられています。首里城は、尚巴志によって王宮としてととのえられ、15世紀末の尚真の時代に、正門である歓会門がたてられるなど、城としての品格をそなえていきました。次の尚清の時代に、城壁を二重にしました。このころ東西400m、南北270m、総面積4万6000㎡の首里城の大きさが確定しました。これは琉球最大のグスクです。首里城は東シナ海や中国をのぞむことのできる西向きにたてられています。国王が壇の上に立ったとき、ちょうど太陽が出る東側に、国王が位置するようにしてあるのです。

 城郭の中心に、国王がまつりごとをおこなう正殿と、中国からの使節をむかえるときに使う広場(御庭)があります。正殿は3階建てで、高さ16.3mあり、四方に屋根がのびる入母屋造りです。柱や屋根など、至るところに中国風の竜のかざりがめぐらされています。日本や中国、琉球の技術がとりいれられた建物です。


琉球の歴史からみる世界史(1)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(1)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(1)「港川人」が暮らしていた時代
 アジア大陸の東の海上に、九州から台湾につらなる大小190あまりの島じまがあります。これらの島を総称して、「②琉球列島」とよんでいます。この琉球列島に人類が住みはじめたのは、今から3万年~2万年前とされています。そのころは、①氷河期にあたり、海面は今よりもずっと低いところにありました。そのため琉球列島の南のほうも、台湾や中国大陸と地つづきでつながっていました。この時代の旧石器時代といいます。その人骨約7人分が、バラバラの状態で発見され、「③港川人」とよばれています。男性は身長約153cm、女性は約143cmで、脳の大きさは現代人の80~90%くらいで、やや小さめです。港川人は、中国南部やインドネシアのジャワ島から出土した旧石器人骨と似ているとも、また縄文人の先祖のひとつであるともいわれています。

(2)「琉球列島」の出現
 今から約1万年前、地球上の気温があがり、海面が上昇しました。また地殻の変動もおこり、日本海や東シナ海があらわれ、日本列島や沖縄の島々もでき、やがて現在のすがたになりました。ただし、港川人がいた時代から約1万年間、沖縄では人がくらしたあとは発見されていません。その後の琉球の遺跡から発見されている④爪形文土器は、指や爪で文様をつけた土器で、沖縄でつくられていたと思われますが、縄文土器の影響を受けていたとみられます。この時代を⑤貝塚時代と呼びます。

(3)九州や中国との交流
 前800年~前200年には、それまで海の近くの岩かげなどでくらしていた人びとは、台地に竪穴住居をたてて住み、小さなムラをつくるようになりました。そのため、このころから畑作農耕がおこなわれていたという説もあります。前200年~紀元後200年ごろには、九州からやってきた⑥弥生人とのあいだで、交易がおこなわれていました。沖縄産の貝でつくられたアクセサリーが、九州や中国地方で見つかっています。また、沖縄の遺跡からは、中国の貨幣も出土していることから、中国とも交流していたことがわかります。

(4)稲作が始まり、有力な「按司」が登場
 沖縄で稲作が始まったのは、l1世紀ごろと考えられています。稲作が行なわれた新しいムラに指導者があらわれ、やがてまわりのムラをもしたがえる力の強い支配者が生まれました。このような人を「⑦按司(アジ)」とよびます。かれらは、祭りをノロとよばれる神女にまかせました。ノロは祖先神をはじめ海、山、水など、もろもろの神が天からおりてくる御嶽(ウタキ)とよばれる聖地で、お祈りや祭りをしました。ときには政治の方針をうらなうこともありました。
 12世紀後半から15世紀にかけて、沖縄島をはじめ、奄美、宮古、八重山などで石垣をめぐらせた⑧グスク(城)がつくられました。その数は300あまりです。グスクは按司の領地や領民を守るための拠点となったり、人が住むためにつくられたグスクや、倉庫としてつくられたグスクもあります。首里城などの大型グスクは2000年12月、関連遺産群とともに、世界遺産に登録されました。このように、各地にグスクがつくられた時代を「グスク時代」とよびます。


(5)尚巴志が琉球を統一「琉球王国」が成立
 14世紀になると、沖縄本島には中国や朝鮮、日本との交易によって、力をたくわえた強力な按司があらわれました。本島北部の今帰仁城(ナキジン=グスク)による③北山、本島中部の⑥首里城による④中山、本島南部の大里城による⑤南山の3つの勢力です。
 明を建国した中国の洪武帝は、琉球を属国にして、貢ぎ物をおさめさせようとしました。これを⑦朝貢制度といいます。1372年、中山王察度が最初に朝貢をしました。ほかの王も朝貢し、それぞれ北山王、中山王、南山王の王号をあたえられました。三山とも朝貢にともなう中国との貿易により、おおいにさかえました。
このころ、南山の一按司だった⑧尚巴志(ショウアハシ)は、1406年に中山王をやぶり、1416年に北山王を、1429年に南山王をたおし、琉球をはじめて統一しました。これを第1尚氏の琉球王国といいます。

「万里の長城」その3 明代の長城  ①

2006年10月12日 | 高校1年生用
(1) 13世紀はモンゴルの世紀
① 元を建国したモンゴル民族
 1206年、チンギス=ハン(幼名テムジン)が可汗(ハン)に即位すると、20年間のうちにモンゴル高原から中央アジア一帯を征服していきました。次いで可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年淮水以北の華北を征服する一方、バトゥに命じて西方にも軍を派遣して、現在のロシアまでその支配下に納めました。そのときには、中国の南半分の華南には南宋という中国人の王朝が存続していました。しかし、フビライ=ハンが第5代可汗に即位し、1271年に華北で元を建国すると、1279年にフビライ=ハンによって滅ぼされました。以後、約100年の間、中国は異民族モンゴル人によって支配されたのです。

 中国を支配したフビライ=ハンは「モンゴル人至上主義」をとり、それまでの中国の伝統的な政治手法などを軽んじる傾向がありました。科挙という、唐の時代から続いた役人を採用する制度を廃止したことなどが、そのよい例です。しかしその一方で、ソグド人やムスリムなど西域の人々を多く採用するなど、家柄や身分よりも実力・能力本位による人材登用を行っています。

② モンゴル民族が支配したユーラシア大陸
 13世紀、5人の可汗たちによって、モンゴル民族はユーラシア大陸のほぼ全域を支配する大帝国を建設しました。しかし、この大帝国も元・オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国・キプチャク=ハン国・イル=ハン国の5カ国に分裂します。

 しかし、ユーラシア大陸が一つの民族によって支配されていたという意味は大きいといえます。とくにシルク=ロードの交通網であるジャムチは、モンゴル帝国分裂後も、モンゴル各国によって保護され、13世紀に歴史上もっとも活発な動きを見せました。イタリアのジェノヴァ人であるマルコ=ポーロが元の都の大都を訪れ、帰国後に「東方見聞録(世界の記述)」を著したことはよく知られています。また、モロッコ出身のムスリムの大旅行家イブン=バトゥータは、14世紀に「三大陸周遊記」を著しましたが、彼もモンゴル民族が築いた交通網の恩恵を受けた一人であったといえます。