FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

全神奈川 優勝

2007年10月10日 | 何かの足しになれば
 9日は秋田国体の決勝戦でした。26対10で開催県の秋田県代表に勝利し、少年ラグビーで神奈川県が初優勝を飾りました。彼らの集中力・判断力・適応力・冷静さ・勝利への貪欲さには、感動すら感じました。全国大会で優勝するチームはこんなチームだったのか!と知ることができ、大きな財産をもらいました。皆さんもぜひ、がんばって下さい。

12世紀以降のインド史 05早稲田大学改

2007年10月08日 | 高3用 授業内容をもう一度
 05早稲田大学改 
 インドへのイスラム教徒の侵入は8世紀初めに始まり,10世紀以降アフガニスタンから【ガズナ朝】と【ゴール朝】の侵入によって本格化した。さらに13世紀初頭にアフガニスタンを本拠とする【ゴール朝】の【奴隷武将】であった【アイバク】が【デリー】でインド最初のイスラム王朝をたて,その後,北インドには,【デリー=スルタン朝】と総称されるイスラム王朝が続いた。一方,南インドでは14世紀前半に【ヒンドゥー教】を奉じる【ヴィジャヤナガル王国】がおこり,17世紀半ばまで独立を維持した。
 16世紀前半に【ティムール】の子孫といわれる【バーブル】は,【パーニパットの戦い】に勝利してインドに侵入し,デリーへ入城して【ムガル朝】を創始した。ムガル帝国の真の建国者といわれる第3代皇帝【アクバル】は,領土を拡大し,ヒンドゥー教徒との融和を進めるため【ジズヤ】を廃止し,官僚機構や徴税制度を整備し中央集権体制を確立した。さらに彼は、首都をデリーから【アグラ】に移転し,その後も他の都市に首都を移転した。その後ムガル帝国の繁栄は続いたが,第6代の【アウラングゼーブ】は,イスラム化政策を強行して【ジズヤを復活】し、ヒンドゥー教徒の反発を招き,彼の死後,帝国は衰退していった。
 一方,インドに進出してきたイギリスとフランスは,それぞれの【東インド会社】が根拠地を建設してインドにおける利権を争った。その結果,【南インド】では【カーナティック戦争】で,ベンガル地方ではプラッシーの戦いで,それぞれイギリス側が勝利してインドでの勢力を固めた。イギリス東インド会社は【ブクサールの戦い】でムガル皇帝と地方政権の連合軍を破り,【ベンガル地方】の徴税権や司法権を得て,東インドを実質的に支配するようになった。またイギリスは,4次にわたる【マイソール戦争】に勝利してインド南部を,また3次にわたる【マラータ戦争】によってインドの中央部を獲得し,さらに【シク戦争】によって西北インドもイギリスの支配下となった。こうしてイギリス東インド会社は全インドにその領土を拡大するに至り,ムガル帝国は名目化した。
 イギリスは,新しい地税徴収制度である【ザミンダーリー制】を導入し,ベンガル地方などでは大地主に土地所有権を与えて納税の義務を負わせ,一方,南インドでは耕作農民に土地所有権を認め,彼らから直接に地税を徴収した。これを【ライヤットワーリー制】という。こうした土地政策と商品経済の浸透によって,インドの伝統的な村落社会は崩壊していった。また,インドの手織り綿布【キャラコ】はインドの最も重要な輸出品であったが,産業革命以後にイギリスで安価な機械織り綿布が生産され,インドに輸入されるようになると,伝統的な手織り綿布産業は壊滅的な打撃を受けた。その後,インドは原料供給地および工業製品市場と化していった。
 イギリスは,鉄道や道路の整備,インド人官吏登用のための英語教育や新たな司法制度の導入など,植民地支配を強化する政策を進めた。こうした中で,インドの中間層の間では,ヒンドゥー教の伝統をふまえながら西欧文化も摂取して,ヒンドゥー社会の改革をめざすものも現れた。だが,イギリスのインド支配に対してインド人の各層の反イギリス感情は次第に高まり,ついに1856年に【メーラト】で【シパーヒー】が暴動を起こしたことをきっかけとして「【大反乱】」がおきた。反乱は全国に波及し,広い層の国民がこれに加わったが,結局イギリス側に鎮圧された。反乱軍に擁立されたムガル皇帝はイギリスにより廃位させられ,ムガル帝国は滅亡した。この反乱を機に,イギリスは東インド会社を解散してインドをイギリス政府の直接支配下におき,さらに【1877年】,【英領インド帝国】が正式に成立した。インド帝国の構成は,イギリス国王が兼ねるインド皇帝のもとに総督をおき,そのもとに植民地政庁の直轄地と,イギリスの保護下で存続を認められた【藩王国】をおくというものだった。また,イギリスはインド周辺の地域にも進出し,第2次アフガン戦争の末に,【アフガニスタン】を保護国化し,【ビルマ(ミャンマー)】を3度の戦争の結果,英領インド帝国に併合した。
 インド帝国成立以後インドではイギリスによる開発が進んだが,それはイギリス本国の利益を優先したものであり,インドの困窮化は進み,飢饉も頻発した。こうした中,インドの都市知識人や民族資本家を中心に民族主義的な運動が起こり,やがて自治の獲得とイギリスからの独立に向けた運動が展開されていくことになった。