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2学期 中間問題「5」と解答

2006年10月20日 | 復習用入試問題
『5』つぎの文章を読んで,下記の設問に答えよ。成城大学

古代インドにおいて成立した仏教とヒンドゥー教はともに、インド北部においてはるかに以前から有力な宗教であった[a]教の影響のもとに形成された。(A) [a]教の成立にかかわる文化的伝統は、インド=ヨーロッパ系の「b」人が、前1500年頃,中央アジアからパンジャーブ地方に侵入して住みつき、さらに前1000年頃以降、東のガンジス川流域へと進出する歴史の長い時間のなかではぐくまれてきた。その長期にわたる民族移動の過程で定住も進み、農業生産が向上して余剰が増大し各地に都市国家が形成される。それにともない、「b」人支配層が先住民族などを階級的に支配する社会構造も確立されて、今日にいたるまでの(B)インド社会に特有の複雑で固定的な身分秩序の基礎がかたちづくられることになる。
前500年頃の「c」を開祖とする仏教の発祥には、(C)こうした階級・階層社会にたいする批判の一面もみられる。それにたいして、その後に隆盛するヒンドゥー教は「a」教を直接の母体としその伝統を継承しつつ、さらにインドの(D)民間信仰や仏教の要素をとりいれながら発展し、インド的な身分秩序の維持に即応する側面が濃厚である。ヒンドゥー教は、とりわけ4世紀に成立した「d」朝の時代から盛んになる。ところが仏教は、その頃からヒンドゥー教に吸収されるようなかたちで、(E)インドにおいてはしだいに衰退し、後のインドのイスラム化の過程で決定的な打撃を被ることになる。

問1、文中の空欄a~dを埋めるのに最も適切な語句を記せ(同一記号は同一語句)。
問2、下線部(A)について,
(1)この宗教の神々への讃歌を記した文献から当時の文化をうかがい知ることができる。その神々への讃歌の文献を総称して何と呼ぶか。
(2)上記(1)に関連して、この宗教に独白の哲学的思索について記した「奥義書」とも訳される聖典は何か。
(3)上記(1)の文献の記述に使用された言語から発達して洗練され、インドの古典の表記に古代から用いられてきた,梵語ともいわれるインド=ヨーロッパ詰系の言語は何か。
問3、下線部(B)について、
(1)この身分秩序の基軸として、四つの「種姓」と訳される階級構造がある。種姓にあたるインドの言葉をカタカナで記せ。
(2)上記(1)に関して、四つの種姓のうち、下層の被征服民の種姓を何と呼ぶか。
(3)上記(1)の種姓に、さらにジャーティといわれる多様な出身集団が組み合わさり構成されたインド固有の身分秩序をポルトガル語起源の言葉で一般に何と呼ぶか。
問4、下線部(C)について,仏教の発祥と同じ頃に、これと同様の批判的な観点をもって登場し、しかも、今日のインドにも約400万人の信者がいる、不殺生・菜食主義の宗教は何か。
問5、下線部(D)について、民間信仰をとりいれることにより、さまざまな神々が生み出され民衆に信仰されることになったが、なかでもヒンドゥー教の最高神とされる二つの神々はシヴァ神と何か。その神の名前を記せ。
問6、下線部(E)について、
(1)仏教は、インドにおいては衰退していったが、その後も,一方では中国やチベットや日本で、他方では東南アジアなどで盛んに信仰されるようになる。そのうち前者にあたる、おもにインド以北の地域で信仰されるようになった仏教を総称して何と呼ぶか。
(2)上記(1)の、北方に伝わった仏教の教義について思索してまとめ、中国や日本の思想にも影響をもたらし、日本の仏教界でも南都六宗・天台宗・真言宗の「八宗の祖師」と仰がれた、2~3世紀の南インド出身の仏教理論家は誰か。中国名を答えよ。

正解
問1.aバラモンb.アーリヤc.ガウタマ=シッダールタd.グアタ 問2(1)ヴェーダ(2)ウパニシャッド(3)サンスクリット語 問3.(1)ヴァルナ(2)シュードラ(3)カースト 問4.ジヤイナ教 問5.シヴァ神・ヴィシュヌ神 問6.(1)大乗仏教(2)竜樹

2学期 中間問題「4」と解答

2006年10月20日 | 復習用入試問題
『4』次の文は、インダス文明と古代インドについて述べたものである。これを読んで,下の問いに答えよ。西南学院大学

 インド亜大陸西北部を流れるインダス河流域には,前2300年ごろからインダス文明が栄えた。インダス文明は,モエンジョ=ダロやハラッパー,【a】などの遺跡に見られるように,整備された街路や排水設備を持つ高度な都市文明として栄えた。これらの都市の社会生活については,未だ十分には明らかになっていないが,発見された絵画図像のなかには,後のヒンドゥー教三大神の一つで,破壊の象徴とされる【b】神の原型など,後世に受け継がれたものもある。前1500年ごろには,インド=ヨーロッパ語族である【c】人が先住民を征服し,中央アジアからカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した。前1000年ごろからはガンジス河流域に進出し,先住民と交わりながら定着農耕の生活に入った。彼らは自然現象を神格化した神々を信仰し,その讃歌を聖典である『【d】』にまとめた。この過程で祭式を司るバラモンとよばれる人々がしだいに大きな権力をもつようになり,やがて【e】制とよばれる厳しい身分制度が形成された。この制度のもとでは,人々の身分が,バラモンを最上位に四つに分けられ,他の身分階層の者とは婚姻が許されなかった。後に,この【e】制を原型にして,現在に至るカースト制度が発展した。
 前6~5世紀ごろには,【f】国が小王国を抑えて領土を拡大した。同じころ,特にガンジス川中流域では,鉄器の使用により農業が発達し,多くの都市が生まれ,経済活動が活発になった。それにともない,農民・商人・職人階層である【g】の社会的地位が向上し,特権階級として存在するバラモンヘの対抗意識が高まっていった。このような状況のなかで,複数の宗教革新運動が買った。バラモン教内部ではウパニシャッド哲学が生まれ,また,【h】が開いたジャイナ教や,ガウタマ=シッダールタが開いた仏教など,新しい宗教も生まれた。ガウタマの死後も発展を続けた仏教は,インダス川とガンジス川にまたがる初の統一帝国を打ち立てたマウリや朝のもとで,前3世紀,インド亜大陸の辺境にまで伝えられた。この王朝の最盛期を築いた第三代王【i】は,各方面への布教を推進したほか,磨崖碑・石柱碑を各地に造り,武力ではなく,【j】とよばれる人間の普遍的倫理による統治を図った。また仏典結集とよばれる教説の編纂事業を援助した。
 【i】王の死後,マウリや朝は衰え,やがて紀元1世紀ごろに【k】朝が興り,中央アジアからガンジス川中流域に至る広大な領土を支配した。この王朝の全盛期を築いたカニシカ王は,仏典編纂に貢献し,熱心なサンスクリット文学の保護者でもあった。また,紀元前後には,仏教の中にも新しい動きが生まれた。

問A.文中の【 】(a~k)に最も適当なものを,下の語群(1~4)から1つ選んで,その番号を記入せよ。

a.1.ドーラヴィーラ  2.アジャンター 3.ブッダガヤ  4.ナーランダー
b.1.シヴァ  2.ヴィシュヌ  3.ブラフマー  4.クリシュナ
c.1.ドラヴィダ  2.アッカド  3.アーリヤ  4.シュメール
d.1.マハーバーラタ  2.リグ=ヴェーダ  3.シャクンタラー  4.ラーマーヤナ
e,1.テマ  2.アター  3.ヴァルナ  4.イクター
f.1.マガダ  2.カリンガ  3.チャンデーラ  4.シンハラ
g.1.クシャトリア  2.シュードラ  3.ジャーティー  4.ヴァイシャ
h.1.ビンビサーラ  2.ヴァルダマーナ  3.カーリダーサ  4.ナーガールジュナ
i.1.ハルシャ  2.サムドラグプタ  3.チャンドラグプタ  4.アショーカ
j.1.四諦  2.八正道  3.ストゥーパ  4.ダルマ
k.1.クシャーナ  2.ヴァルダナ  3.ナンダ  4.グプタ

問B.文中の下線部について,正しくないものを,それぞれの短文(1~4)から1つ選んで,その番号を記入せよ。

1,祭式至上主義を批判し,内面の思索を重視した。
2.人間存在の本質であるブラフマンと,宇宙の本体であるアートマンを一致させることで,苦しみから解放されると説いた。
3.生き物は業(カルマ)から影響を受け,輪廻転生を繰り返すという考えを論じた。
4.ウパニシャッドとは「近くに坐る」という意味で,師の傍らで仕える弟子に,秘儀が伝授されることを示す。

正解
11323142441 2

2学期 中間問題「3」と解答

2006年10月20日 | 復習用入試問題
『3』次の文中の   に最も適当な語を語群から選び,また下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。関西学院大学

 ギリシア人たちが①アケメネス朝との戦争を始める少し前,イタリア半島ではティベル河畔の都市ローマにおいて イ 人の王が追放されて共和政が打ち立てられた。これ以後の共和政ローマでは,パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の②身分闘争と,イタリア半島内への勢力拡張が同時進行していった。前3世紀末に半島をほぼ制圧したローマは,地中海世界へと進出していく。東方では,マケドニアのアレクサンドロス大王をついだ③ヘレニズム諸王朝とのギリシアをめぐる戦いがあり,西方では商業国家カルタゴとの3回にわたる④ポエニ戦争があった。結果として,紀元前2世紀中頃にはローマは地中海世界の覇権を握るに至った。しかし,うち続く戦争と海外領土の獲得は,ローマ社会に大きなひずみを生み出すことになった。戦争で無敵を誇ったローマ軍団においては,兵士たちの出身階層である自由農民の没落が進行した。また,ローマは元老院を中心とした比較的コンパクトな政治体制をとりつつ,広大な征服地域を支配するという矛盾をかかえ,⑤「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱の時代を迎えた。独裁者⑥カエサルの暗殺の後,彼の養子に指名されたオクタヴィアヌスによって最終的に内乱は終了し,彼の支配とともにローマは事実上,帝政の時代に入った。当初,皇帝たちはオクタヴィアヌスにならって「市民の第一人者」を称し,元老院との協調体制である⑦元首政を維持していた。けれども3世紀に入ると対外的な危機が進行する中,軍人皇帝の時代が到来し,皇帝位はめまぐるしく入れ替わることになった。3世紀末に ロ 帝がローマ帝国を再編成した時には,皇帝は⑧専制君主へと姿を変えていた。
[語 群] 
イ a.エトルリア b.カルタゴ
c.フェニキア d.ラテン
e.ギリシア
ロ a.コンスタンティヌス b.テオドシウス
c.ディオクレティアヌス d.ユスティニアヌス
e.カラカラ
[問 い] 
① この頃,都市国家アテネで起った出来事はどれか。
a.ペリクレスによる民主政 b.ソロンの改革
c.ドラコンの立法 d.デロス同盟の結成
e.クレイステネスの改革
② 身分闘争についての出来事を年代順に並べたものはどれか。
a.護民官設置→リキニウス・セクスティウス法制定→十二表法制定→ホルテンシウス法制定
b.護民官設置→十二表法制定→リキニウス・セクスティウス法制定→ホルテンシウス法制定
c.十二表法制定→護民官設置→リキニウス・セクスティウス法制定→ホルテンシウス法制定
d.リキニウス・セクスティウス法制定→十二表法制定→護民官設置→ホルテンシウス法制定
e.十二表法制定→リキニウス・セクスティウス法制定→護民官設置→ホルテンシウス法制定
③ ヘレニズム諸王朝のうち,マケドニア王国の創始者はだれか。
a.アンティゴノス b.セレウコス
c.アエネイス d.アガメムノン
e.プトレマイオス
④ ポエニ戦争に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.第1回ポエニ戦争は,シチリア島の支配をめぐって戦われた。
b.第2回ポエニ戦争で,ハンニバルがアルプスを越えてイタリアに侵入した。
c.ローマの将軍スキピオがザマの戦いで勝利した。
d.ローマの将軍ポンペイウスはカルタゴを滅亡させた。
e.この戦争の名はローマ人によるフェニキア人に対する呼称に由来する。
⑤ 「内乱の1世紀」に含まれない出来事はどれか。
a.閥族派のスラと平民派のマリウスが対立した。
b.ローマ市民権をめぐって同盟市戦争が戦われた。
c.イタリアでスパルタクスの反乱が勃発した。
d.カエサルがガリアに遠征した。
e.グラックス兄弟が大土地所有を制限する改革に着手した。
⑥ カエサルが暗殺される以前に起った出来事はどれか。
a.第2回三頭政治が結成された。
b.女王クレオパトラが自殺し,プトレマイオス朝が滅んだ。
c.クラッススがパルティア遠征中に戦死した。
d.アントニウスはアクティウムの海戦で敗北した。
e.レピドゥスはエジプト以外のアフリカ北岸を勢力範囲とした。
⑦ 元首政(プリンキパトゥス)時代に含まれない出来事はどれか。
a.タキトゥスが『年代記』を著した。
b.ポリビオスがローマの歴史を記述した。
c.ネロ帝は哲学者セネカを自殺させた。
d.プリニウスが『博物誌』を著した。
e.マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が『自省録』を著した。
⑧ 専制君主政(ドミナトゥス)の時代に含まれない出来事はどれか。
a.帝国を4つの分担地域に分けて統治する政策が実施された。
b.キリスト教が公認される前の,最後の大迫害を受けた。
c.ゲルマン人の大移動が始まった。
d.帝国の都がコンスタンティノープルに移された。
e.帝国領内のすべての自由人にローマ市民権が与えられた。

正解
イ a ロ c
① e ② b ③ a ④ d
⑤ e ⑥ c ⑦ b ⑧ e

2学期 中間問題「2」と解答

2006年10月20日 | 復習用入試問題
『2』下記の問題文を読み,以下の問いに答えなさい。同志社大学

 エジプトとメソポタミアをつなぐ交通路上に位置する地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は,古くから交易で栄えていた。この地方を支配していたエジプト・ヒッタイトの勢力が後退したのに乗じて,いずれもセム系であるアラム人,フェニキア人,ヘブライ人が活動するようになった。このうち(1)アラム人は内陸都市を結ぶ交易に活躍し,アラム語は国際商業語として広く利用されるようになった。そして,アラム文字は,ヘブライ文字,アラビア文字,シリア文字など,オリエント世界で使われた多くの文字の源流となったばかりでなく,( a )文字などのように中国の周辺に位置した民族の文字にも影響を与えた。
 フェニキア人は,地中海東岸のシドンや( b )などの港湾都市を拠点として地中海での交易で利益をあげた。彼らは地中海各地に進出して,北アフリカの( c )をはじめとする植民都市を建設した。彼らが使用したフェニキア文字は,ギリシアに伝えられて,( d )の起源となった。
 遊牧民であったヘブライ人は,預言者( e )に率いられてエジプトから脱出してパレスチナの地に復帰したという伝承をもっており,一時は王国を築いて栄えたが,まもなく分裂し,新バビロニアに征服された後は,多くの者がバビロンに連行された。しかし,(2)前538年に( f )朝が新バビロニアを滅ぼし,古代オリエントの支配者となった。( f )朝の支配は,属国の自主性を認めるものであり,バビロン捕囚以降にはユダヤ人と呼ばれるようになる彼らは帰国を許された。
 その後,(3)アレクサンドロス大王が( f )朝を滅ぼし,オリエントの支配者となった。彼の死後,その帝国は( g )朝エジプト,( h )朝シリア,( i )朝マケドニアに分裂し,ユダヤ人はシリアによって支配されるようになった。しかし,前166年にユダヤ人は( j )朝のもとで完全な独立を果たした。もっとも,彼らの独立は長く続かず,前63年には( k )によって征服され,その領域はローマに組み込まれた。
 元来ローマは,ラテン人の一派によって建設された都市国家であったが,中小農民の重装歩兵を軍事力の中核として,元老院の指導のもとに周辺の都市国家を征服し,前272年にはイタリア半島を征服した。さらに,地中海西方に大きな勢力をもっていた( c )と覇権を競い,3回にわたる( l )戦争に勝利した。こうしてローマは地中海沿岸各地に領土を拡大し,属州として支配した。
 属州支配を担った元老院貴族や徴税を請け負った騎士身分には富が集中した。しかしながら,絶え間ない遠征を担った中小農民は疲弊して没落していった。荒廃した土地を富裕者が買い集め,戦争捕虜を奴隷として使役する大所領が広まった。農地を失った農民の多くは,ローマなどの大都市に流入した。無産市民は遊民と化した。中小農民の没落は,ローマの軍事力と共和政の基盤を揺るがすものであったため,前2世紀後半に相次いで護民官に就任した( m )兄弟は,大所領を制限して自作農再建を企てる改革を試みたが,元老院貴族らの反対にあって失敗した。以後,ローマでは長期間にわたる対立抗争が続いた。この混乱を武力によってしずめたのが,軍人の( k ),平民派の実力者カエサル,大富豪の( n )であった。彼らは密約を結んで元老院と対抗したが,三者の協力は長くは続かず,カエサルは( k )を倒して独裁的な権限を手に入れた。しかし,共和政を擁護する者によってカエサルは暗殺され,最終的には,オクタヴィアヌスが混乱をおさめた。ローマは(4)地中海全域に広がる大帝国となっていた。
 ユダヤ人がローマ支配下に入ったころ,ユダヤ教信仰は排他的な形式主義に陥っていた。ユダヤ教を指導していた祭司やパリサイ派は律法を形式的に守ることを重視した。そして,ユダヤ人支配層はローマ支配に協力して,重税に苦しむ民衆の声にこたえようとしなかった。
 ナザレに生まれたイエスは,律法主義とユダヤ人の支配層を批判し,神の愛と隣人愛を説いて,神の国の到来が近いと唱えた。このためイエスは,ユダヤ人支配層によって反逆者としてローマの総督( o )に訴えられ,( o )はイエスを十字架につけた。
 イエスの死後,彼が復活したという信仰が弟子たちのあいだにうまれた。イエスの筆頭弟子である( p )をはじめとする使徒やその後の伝道者たちは,イエスを神の子と信じて,彼の十字架上の死と復活を全人類を救済するための贖罪であると考えて,ローマ帝国の各地に伝道した。こうして小アジア・ギリシア・ローマなどにも信者の団体が作られた。( p )は( q )において殉教したが,彼は西方キリスト教世界においては,初代の教皇と見なされるようになった。

[1] ( a )~( q )に最も適した語句を,以下の語群から選んでその番号を解答欄に記入しなさい。同一記号は同一語句とする。同じ語句を複数回選んでもかまわない。
〔語群〕 
1.線文字A 2.線文字B
3.アルファベット 4.ヒエラティック
5.ソロモン 6.ソロン
7.ダレイオス 8.ポンペイウス
9.グラックス 10.タキトゥス
11.クラッスス 12.マクシミヌス
13.ピウス 14.ピラト
15.プトレマイオス 16.モーセ
17.アブラハム 18.ユスティニアヌス
19.ユダ 20.ヨセフ
21.ヨハネ 22.ペテロ
23.ティルス 24.リディア
25.アケメネス 26.メディナ
27.アンティゴノス 28.ポンペイ
29.コンスタンティノープル 30.コンスタンツ
31.ササン 32.セレウコス
33.アクティウム 34.ハスモン
35.ヒクソス 36.カルタゴ
37.ミタンニ 38.ポエニ
39.ローマ 40.女真
41.満州 42.西夏
43.朝鮮

[2] 下線部(1)~(4)に関する設問の解答を解答欄に記入しなさい。
(1) 彼らの活動の拠点となった都市の名を述べよ。
(2) 前5世紀にこの国の襲撃を撃破したギリシアのポリスが,この国の反撃に備えて組織した同盟の名称を述べよ。
(3) アレクサンドロス大王の父親が結成した,ギリシア諸ポリスの同盟の名称を述べよ。
(4) ローマ帝国の領土が最大となったときの皇帝の名前を述べよ。

正解
[1] (a) 41 (b) 23 (c) 36 (d) 3
(e) 16 (f) 25 (g) 15 (h) 32
(i) 27 (j) 34 (k) 8 (l) 38
(m) 9 (n) 11 (o) 14 (p) 22
(q) 39
[2] (1) ダマスクス (2) デロス同盟
(3) コリントス [ヘラス同盟] (4) トラヤヌス



2学期 中間問題「1」と解答

2006年10月20日 | 復習用入試問題
『1』以下の文章を読み,下線部(ア)~(テ)に関する設問Aに対する答えとして最も適当な人名・地名を〔語群〕から選び,解答欄に番号で記入しなさい。また,波線(あ)~(え)に関する設問Bに対する答えとして最も適切な語句を解答欄に記入しなさい。同志社大学

 キリスト教は1世紀にローマ支配下のパレスチナからうまれた。(ア)この地にうまれたイエスは,権威主義と戒律主義におちいっていた(イ)ユダヤ教を批判し,神の愛と隣人愛を説いて,神の国の到来が近いことを唱えた。このため彼はユダヤ教の祭司らによってローマに対する反逆者として訴えられ,属州総督によって十字架刑に処せられた。しかしその死後,(ウ)弟子たちのあいだにイエスが復活したとの信仰がうまれ,これを中心に(あ)キリスト教が成立した。
 当時のローマの国家は多神教で,皇帝も神の一人とされた。唯一絶対神を信じるキリスト教徒は皇帝礼拝をこばんだため,たびたび(エ)迫害を受けた。だがキリスト教は帝国全体に拡大を続け,ついにはこれを禁じれば帝国の統一が維持されないことが明らかになったため,コンスタンティヌス帝は(オ)313年の勅令でキリスト教を公認した。
 当時,キリスト教会では教義をめぐって論争がおこっていた。それを収拾するために325年に(カ)公会議が召集された。会議は,(キ)神としてのイエスを認める説を正統とみなし,(ク)人間としてのイエスを唱える説を異端と断じた。その後,(ケ)異教復興による混乱もみられたが,392年にさまざまな異教はすべて厳禁され,キリスト教は国教となった。その後431年の(コ)公会議で同じく(サ)異端とされた一派は,(シ)ササン朝をへて(い)中国に伝わった。
 キリスト教を公認することで帝国の統一をはかったコンスタンティヌス帝は,また軍隊を増強して帝国支配を安定させようとした。さらに財政基盤を整備するため(う)小作人を土地にしばりつけて税収入を確保し,下層民の身分や職業を世襲化した。彼は330年に(ス)遷都するとともに,巨大な官僚体制をきずいた。官吏の力は強大となり,皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制ができあがった。
 こうしたコンスタンティヌス帝の改革にもかかわらず,膨大な軍隊と官僚を支えるための重税は,あいつぐ属州の反乱をまねいた。さらに(え)375年にはじまるゲルマン人の大移動によって帝国内部は混乱したため,帝国の分裂を防ぐことは困難となり,395年に(セ)東西に分割された。(ソ)東ローマ帝国は都市経済が比較的健在で,(タ)その後1453年まで続いた。だが(チ)西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で混乱をきわめ,ついに476年(ツ)ゲルマン人傭兵隊長によって西ローマ皇帝が退位させられ,ここに西ローマ帝国は滅亡した。
 西ローマ帝国滅亡後,ローマ帝政末期の五本山とよばれるキリスト教会のうち,ローマ教会は独自の活動を強め,(テ)ゲルマン人への布教を熱心におこない,西ヨーロッパ全体に大きな権威をおよぼすことになる。

設問A 
(ア) イエスがうまれたとされる時代のローマ皇帝は誰か。
(イ) ユダヤ教の唯一神は何と呼ばれるか。
(ウ) そのうち,後にローマカトリック教会の初代の教皇と位置づけられたのは誰か。
(エ) 64年の迫害の時の皇帝は誰か。
(オ) この勅令が発せられたのはどこか。
(カ) この公会議が開かれたのはどこか。
(キ) この説を唱えたのは何という派か。
(ク) この説を唱えたのは何という派か。
(ケ) 4世紀後半に異教復興をくわだてた皇帝は誰か。
(コ) この公会議が開かれたのはどこか。
(サ) この一派は何という派か。
(シ) ササン朝の首都はどこか。
(ス) 遷都先の都市はこれ以前は何と呼ばれていたか。
(セ) この時の皇帝は誰か。
(ソ) この東ローマ帝国の首都は,オスマン帝国による占領後,何と呼ばれるようになったか。
(タ) その間6世紀に地中海のほぼ全域にローマ帝国を復活させた大帝は誰か。
(チ) 西ローマ帝国の最初の首都はどこか。
(ツ) この傭兵隊長の名前は何か。
(テ) 6世紀末にゲルマン人への布教を熱心におこなったローマ教皇は誰か。
〔語群〕 
1.アタナシウス 2.アッティラ
3.アッラー 4.アテネ
5.アフラ=マズダ 6.アリウス
7.アンカラ 8.アントニウス
9.イスタンブル 10.ヴェネツィア
11.エフェソス 12.オクタヴィアヌス
13.オドアケル 14.クテシフォン
15.グレゴリウス1世 16.グレゴリウス7世
17.サマルカンド 18.ダマスクス
19.ディオクレティアヌス 20.テオドシウス
21.テオドリック 22.トラヤヌス
23.ニケーア 24.ネストリウス
25.ネルヴァ 26.ネロ
27.パウロ 28.ハドリアヌス
29.バビロン 30.ビザンティウム
31.ペテロ 32.ペルセポリス
33.マルクス=アウレリウス=アントニヌス
34.ミラノ 35.メッカ
36.メディア 37.ヤハウェ
38.ユスティニアヌス 39.ユリアヌス
40.ヨハネ 41.ローマ
設問B 
(あ) ヘレニズム世界の共通語コイネーで書かれたキリスト教の教典は何か。
(い) この派の中国での呼び名は何か。
(う) こうした土地にしばりつけられた小作人は何と呼ばれていたか。
(え) この年南下をはじめ,ローマ帝国に侵入したゲルマン人の一派は何か。

正解
設問A (ア) 12 (イ) 37 (ウ) 31 (エ) 26
(オ) 34 (カ) 23 (キ) 1 (ク) 6
(ケ) 39 (コ) 11 (サ) 24 (シ) 14
(ス) 30 (セ) 20 (ソ) 9 (タ) 38
(チ) 34 (ツ) 13 (テ) 15
設問B (あ) 新約聖書 (い) 景教
(う) コロヌス (え) 西ゴート族

「万里の長城」その3 明代の長城  ①

2006年10月12日 | 高校1年生用
(1) 13世紀はモンゴルの世紀
① 元を建国したモンゴル民族
 1206年、チンギス=ハン(幼名テムジン)が可汗(ハン)に即位すると、20年間のうちにモンゴル高原から中央アジア一帯を征服していきました。次いで可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年淮水以北の華北を征服する一方、バトゥに命じて西方にも軍を派遣して、現在のロシアまでその支配下に納めました。そのときには、中国の南半分の華南には南宋という中国人の王朝が存続していました。しかし、フビライ=ハンが第5代可汗に即位し、1271年に華北で元を建国すると、1279年にフビライ=ハンによって滅ぼされました。以後、約100年の間、中国は異民族モンゴル人によって支配されたのです。

 中国を支配したフビライ=ハンは「モンゴル人至上主義」をとり、それまでの中国の伝統的な政治手法などを軽んじる傾向がありました。科挙という、唐の時代から続いた役人を採用する制度を廃止したことなどが、そのよい例です。しかしその一方で、ソグド人やムスリムなど西域の人々を多く採用するなど、家柄や身分よりも実力・能力本位による人材登用を行っています。

② モンゴル民族が支配したユーラシア大陸
 13世紀、5人の可汗たちによって、モンゴル民族はユーラシア大陸のほぼ全域を支配する大帝国を建設しました。しかし、この大帝国も元・オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国・キプチャク=ハン国・イル=ハン国の5カ国に分裂します。

 しかし、ユーラシア大陸が一つの民族によって支配されていたという意味は大きいといえます。とくにシルク=ロードの交通網であるジャムチは、モンゴル帝国分裂後も、モンゴル各国によって保護され、13世紀に歴史上もっとも活発な動きを見せました。イタリアのジェノヴァ人であるマルコ=ポーロが元の都の大都を訪れ、帰国後に「東方見聞録(世界の記述)」を著したことはよく知られています。また、モロッコ出身のムスリムの大旅行家イブン=バトゥータは、14世紀に「三大陸周遊記」を著しましたが、彼もモンゴル民族が築いた交通網の恩恵を受けた一人であったといえます。


現在完了 必読「(高校英語より転載)

2006年10月08日 | 何かの足しになれば
まず1つ目の山場ですね。

まず、完了というのは「時制」ではなく「考え方」であることを念頭において。
で、どういう考え方かというと、「現在進行形」が「現在」において「進行中」
要は「言及されている現象は『未だ終わっていない』という感覚」なのだ。
それと全く逆の考え方が「完了」。要するに(現在において)「言及されている
現象は『すでに終わっている』という感覚」である。

『すでに終わっている』のならば過去形でも同じではないか?と思うだろうが、
そうではない。発話者の立っている時間のポイント(time of speechと言う)が
全く別次元なのだ。

現在完了は「過去の現象を用いて」「『今』を述べる」
単純過去は「過去の現象を用いて」「『過去』を述べる」

I have not yet finished the book you gave me yesterday.

→「昨日もらった」本、「(今は)まだ読み終えてないんだ」

have not yet finished は「未だ読み終わっていない」現在の状態。
you gave me the book yesterday は「現在とは関係のない」単純な過去。

多分、この後に I'm so busy now that I can't spare any time to read it.
とかが続くとvisualになるかな。

では、例文で確認

I think I can do it easily because I have done it many times before.

→できると予測、「以前に何度も…」という経験を「いま持ってる」から。

She won't come to the meeting because she is ill in bad since last week.

→「来ない」と予測できるのは、「先週からずっと今まで…」と言う事実による。

大体分かっていただけたでしょうか?

現在完了とは、「過去の現象を用いて」「今の状況を述べる」という用法。
実は、「述べられている現象」よりも「そこから推測できる今のこと」が大事。

I have finished my homework. に続けて、
So, I have nothing to do for the time being. と思いついたアナタは完璧!