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中世封建社会

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 中世西欧社会には「戦う人々(【騎士】)」と「祈る人々(【聖職者】)」と「働く人々(【農奴】)」とがいました。戦う人々を「【騎士】」といいます。騎士は広い領地を持っている「【領主】」でもあります。彼らは自分の領地を守るために、より強い者と主従関係を結びました。自分の領地を守ってもらうために主従関係を結び、その代わりに主人の命令に従って軍役の義務を負う。この関係を「【レーン制】(封建制)」と呼びます。 レーン制は日本の封建制と似てはいますが、大きく違う面もあります。レーン制の場合、主従関係は「【双務的契約関係】」で結ばれています。これは主従の関係が「契約」で定められたものであり、その契約が「双務的」だ、ということです。双務的というのは、一方方向ではないことを意味します。つまり、主人は家来が義務を果たさなければ(契約を違反すれば)、家来を保護する責任を放棄できるし、逆に、家来の側でも主人が自分を守ってくれなければ、主人に対する軍役を放棄し主従関係を解消できるというものです。 さらに、レーン制では、契約は年間40日間のみのものでしたから、一人の騎士が複数の主人を持つことも可能でした。その騎士が2箇所に分かれた領地を持っていれば、必要に迫られて、それぞれの領地を守るために二人の主人を契約を結んだはずです。以上のレーン制はあくまで「戦う人々」の間で結ばれた人間関係です。 次に領主が所有している「領地」の中には「【荘園】」という村がいくつかありました。荘園には「耕区」という農地があり、「働く人々」が耕していました。彼らのことを「【農奴】」といいます。農奴になったのはローマ帝国末期の【コロヌス】や【ゲルマン農民】、没落した【ローマ自作農】などでした。彼らはローマ末期の大混乱の中で生き抜くために、荘園に移り住んできた人々です。荘園で暮らしていれば、領主がならず者を追い払ってくれるでしょう。 しかし農奴は自分の土地を所有していたわけではなく、領主から土地を借りて食べ物を作っていました。この土地を「【農民保有地】」といいます。土地を借りている代わりに領主に対して地代を払う必要がありますが、8~9世紀ころの農奴たちは、農奴に配分されなかった良質な農地を耕して、そこで取れたすべての農作物を領主に献上する必要がありました。このように働いて地代を払ったので「【】労働地代」といいます。また、取れたものを領主がすべて受け取ることになる農地を「【領主直営地】」といい、農民保有地とは区別されました。農奴はまったく自分のためにならない農地を耕さねばならなかったので、生産性は非常に悪かったはずです。 農民保有地を借りていたので、農奴は自分の家族を養うために必要な収入を得ることができました。しかし、農民以外の者になることはできず(【転職の自由】がない)、他の土地に移り住むこともできません(【移住の自由】がない)。だから農奴を「【土地付き小作人】」といいまうす。このように基本的な人権を制限されていたわけです。さらに、【結婚税】や【死亡税】といった農奴だから払わねばならない「【身分上の税】」もあり、パン焼きの竈の使用税や森から薪を拾うことにも税を要求されました。


耕す人々と領主との関係

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度
中世の人間関係は、土地を媒介にしたものである、と説明しました。今回は「中世」の前近代性についてです。 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。
西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。

中世社会の人間関係

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度
土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。 

中世社会の農奴の義務

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 中世社会は領主と農奴に大きく分けられます。領主のうち軍事関係者が諸侯・騎士で、教会関係者が大司教・司教です。また、当然のことですが、領主とは領地を持っている人のことを指します。その領地の中には荘園が点在しているわけです。そしてその荘園には農奴たちが住んでいて、領主から農地を借りる(この農地を「農民保有地」という)代わりに、自分が作った農作物の一部を領主に支払ったり(これを「貢納」という)、荘園内にある教会にも取れた農作物の10%を支払う(これを「10分の1税」という)義務を負っていました。しかし農奴の義務はそれだけではありません。領主が農奴に貸し出さなかった農地(これを「領主直営地」という)を耕すという義務(これを「労働地代」という)までも背負わされていました。


 


 


中世社会の特徴 その2

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。


中世社会の特徴

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。


中世の特徴

2024年02月19日 | 高2用 授業内容をもう一度

土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。 また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。 一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありませんでした。10世紀前半の混乱がそうさせたのかもしれません。中国では地主階級が王朝に治安維持など、自分の土地を守る為の行為を委ねていたようです。その代わり彼らは「科挙」を通じて王朝の政治に関与していったわけです。この点についてはまたの機会に触れたいと思います。 「中世」は非常に興味深い時代です。「ダビンチコード」が西洋世界でベストセラーになるのもわかるように思います。21世紀の世界は中世に向かっていくと思います。世界史であつかうような「遅れた」時代では決してないのです。


中世の人間関係は、土地を媒介にしたものである、と説明しました。今回は「中世」の前近代性についてです。 土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。


 さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程度。理不尽な比率です。領主にとって、この理不尽さを「必然」にする必要があった。それが中世のもつ「前近代性」です。現在のわれわれにとって「理不尽」と感じられることですが、中世の人にとっては「必然」でしかなかったといえます。社会倫理が人々の思考をがんじがらめにしていたわけです。 このような窮屈さを打破する力が近代を志向したわけです。


ピューリタン革命の原因

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

【テューダ】朝【エリザベス1世】は、国内の【毛織物工業】を保護・育成しました。しかし、【1588】年の【アルマダの海戦】で、【スペイン】の無敵艦隊に勝利すると、【香辛料】を扱うアジア貿易に参入するチャンスが生まれたため、【1600】年に【東インド会社】を設立し、アジア貿易への参入を図りました。一方、うまくいかなかったものの、【1584~85】年に【北米】大陸への進出も行っています。この計画は中南米をスペインに支配されている当時、北米に植民地を建設するというものです。【ウォーター=ローリー】がエリザベスが結婚をしていなかったことから、この植民地を【ヴァージニア】植民地をしています。しかし、北米大陸の植民地建設は軌道に乗らず、アジア貿易は端緒についたばかりの状態で、エリザベス1世は結婚をせずに亡くなったため、テューダ朝は断絶し、【スコットランド】王国から【ステュアート】家【ジェームズ1世】をイングランド王国の国王に招きました。
 ジェームズ1世は国内の統一を図るため、【国教会】を人々に強要しました。その結果、イングランドのカルヴァン派で、毛織物業者が多かった【ピューリタン】は弾圧され、【1620】年に北米に信仰の自由を求めて亡命しています。彼らのことを【ピルグリム・ファーザーズ】とよびます。このようにピューリタンによる毛織物業が低迷していくこともいとわなかった理由は、エリザベス1世がはじめていた香辛料貿易と北米大陸経営への期待があったからです。
 【1607】年に【ジョン=スミス】がインディアン娘【ポカホンタス】の協力を得て【ジェームズ・タウン】建設に成功し、【ヴァージニア】植民地を軌道に乗せます。【タバコ】生産が期待されましたが、この段階ではまだまだです。そのような中、【1623】年香辛料貿易をめぐって、建国間もない【オランド】に【アンボイナ】事件で敗北してしまいます。東インド会社は更新流貿易から撤退しなければならず、さらに日本との貿易でもオランダに敗れてしまいます。
 こうなると、国内の毛織物製品を輸出して外貨を稼ぐこともできなくなり、香辛料貿易にも失敗。北米大陸経営はまだまだの状態になってしまい、ステュアート朝は【税収難】に苦しみはじめました。これがピューリタン革命の原因です。


ロックの思想

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

ジョン・ロックは,イギリスの政治思想家【ホッブズ】の社会契約説を批判的に継承し,政治社会の成立を【自然状態】から説きおこした。ロックによれば,自然状態において人間はすべて独立・平等で,生命・自由・財産にかんする一定の権利を賦与され,労働や貨幣を通してさらなる財産の形成をするという。そこでは人々の間の紛争を解決する機関も権力も欠けているから,人々は人権を内外の侵略者から守るために,各人が自然状態で保有していた権利の一部を政治社会に譲渡して共通の政治権力を形成することになる。
しかしながらこの政治権力はもっぱら生命・自由・財産にかんする権利を擁護するためのものであるから,政府が信託目的に反してこれを侵害する場合には【抵抗権】が認められ,新たな政府を創ることができるという。この抵抗権はアメリカ独立革命の独立宣言やフランス人権宣言にも採用されている。
このようにロックは,生命・自由・財産という立法権によっても侵されない権利を論じ,政治権力を契約によって成立するものとして位置づけた


独立派 クロムウェルの軍隊と党派

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

ピューリタン革命の争点は、【国王大権】を認めるか(王党派)、認めずに議会主義を政治の基本に据えるか(議会派)という点でした。したがって特権階級が王党派と議会派に分裂し内戦になったといえます。ただし、王党派と戦う人々には、国王【ジェームズ1世】や【チャールズ1世】に弾圧されていた【ピューリタン】も多くいました。彼らを【クロムウェル】が軍隊に組織して、【鉄騎隊】を創設し、王党派の軍隊に勝利していきます。鉄騎隊が強かった理由は、【実力主義】を取ったためで、家柄や身分が低くても、戦いで活躍すれば出世できる仕組みになっていたからでした。議会派の軍隊組織は鉄騎隊をもとに改編され、【ニュー・モデル軍】となりました。そこにはピューリタンだけでなく国教徒の特権階級の人々も加わっています。【1645】年【ネイズビーの戦い】で勝利したニュー・モデル軍は王党派に勝利を決定付けました。
 国王【チャールズ1世】を取り除いて議会中心に政治が始まりましたが、政治のやり方に詳しい特権階級の【国教徒】たちが、初めは政治の実権を握りました。彼らを【長老派】といいます。しかし、軍隊で活躍したピューリタンのエリート達はクロムウェルを中心に【独立派】を形成し、【長老派】を追放しました。この長老派がいなくなった議会を【残部議会】といいます。ピューリタンたちが政治の実権を握り、【1649】年には国王【チャールズ1世】を処刑し、イギリス史で唯一の【共和制】が始まりました。ただし、クロムウェルの軍隊は実力主義でったため、ピューリタンのエリートの中には、もともとは貧しかった人や身分が低かった人もいます。彼らの代表となった【リルバーン】は6か条の「【人民協約】」を発表し、【男子普通選挙】を要求しています。リルバーンを支持する人々を【水平派】(【レベラーズ】)といいます。また、【ウィンスタンリー】を支持する人々はもっと過激な発言を繰り返し、【真正水平派】(【ディカーズ】)と呼ばれ、【身分制度】の廃止まで主張しました。しかし、レベラーズもディカーズもクロムウェルによって弾圧されました。
 クロムウェルは【1653】年に【護国卿】に就任し、5年間の独裁政治を行いました。しかし、彼のあとを継いだ息子の【リチャード=クロムウェル】が護国卿になるとすぐに政治が乱れていきました。そのため、【長老派】はクーデタでリチャード=クロムウェルを追放し、【フランス】に亡命していた王子を呼び戻し、【1660】年【チャールズ2世】として即位させました。これを【王政復古】といいます。


長老派について少し詳しく

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度
独立派のうち立憲君主制を志向した人々を長老派と呼びます。しかし、ピューリタン革命は党派がきれいにわかれていません。つまり特権階級でも大商人は議会派で、貴族は王党派であるといったようにはいかない。どちらかというとロンドン商人は議会派が多かったと考えられています。

さて長老派は特権階級に近いもしくは特権階級に属していた人々です。彼らはジェームズ1世が新しい特権を乱発したり、関税を新しく設けたことに反発した人々です。さらに国王が無理な遠征をして財政をさらに悪化させることに腹立たしく思い、国王が勝手に政治をするという状況を改めて、議会が国王の政治を制限することを目指していました。
しかし特権階級に近い長老派のおおくは国教会に属していました。政治的に反国王を標榜して国王による特権の濫発や戦争のための課税に反発していたので、ピューリタンの経済活動には好意的で、むしろピューリタンの経済活動によって利益を得ていた人々でした。
また特権階級に近かったため政治のノウハウについては素人のピューリタンよりよく知っていたともいえます。

しかし、クロムウェルが独裁を始めやがてその独裁政治が行き詰まると、ピューリタンの政治活動に対する風当たりは非常に強くなります。クロムウェル達の独立派は、王党派だけでなく長老派、水平派、真性水平派を弾圧していたのだから仕方が無いでしょう。

独裁政治が行き詰まると政治の素人の独立派などは上手く立ち回ることができず、長老派がフランスに亡命していたチャールズ2世と妥協して政治の安定を確保することを目指したわけです。長老派は立憲君主制を志向していたのだから国王が議会政治を認めるならば、この妥協は最高の結果です。チャールズ2世もなんとか国王に即位してしまえば、あとはどうにかなると考えていました。

こうして長老派が実権を握り、国教会を堅持する政治を始めました。これが王政復古の時代です。

第2次英仏百年戦争

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【ハンザ同盟】は【ロンドン】に四大商館のひとつを置いたが,当時のイギリスはヨーロッパの辺境でしかなかった。海外進出の面でもポルトガルとスペインに遅れをとったイギリスだが,16世紀初めの【ヘンリ8世】治世下に,ローマ=カトリック教会と絶縁し中央集権化がすすみ絶対主義が生まれた。この国家は国内統治を固めるかたわら,輸出産業の保護育成に力を注ぎ,植民地獲得にむけて積極的な海外進出を企てた。
 絶対主義国イギリスの海外進出は【エリザベス1世】の治世にひとつの頂点に達した。エリザベス1世は西インド貿易をスペインから奪取するために,【カリブ海域】で頻発した【私掠(海賊)】行為すらも援護したといわれる。またアジアとの貿易のために【1600】年には【東インド会社】を設立した。
 イギリスの重商主義政策は【ピューリタン革命】後も踏襲された。これを【議会重商主義】という。【オリヴァ=クロムウェル】は【1651】年に【航海法】を発布して,中継貿易国家【オランダ】に打撃を与え制海権を奪おうとした。このため両国は3度にわたって戦いを繰り広げた。これに勝利したイギリスは,その間にも海上交通の要衝を次々とオランダから奪い取り,17世紀末には世界貿易の覇権を握った。
 イギリスの最後の敵は【フランス】であった。両国は18世紀を通じて海外植民地で血みどろの戦いを繰り広げた。インドでは,財務総監【コルベール】の下で再興されたフランス【東インド会社】が,【ポンディシェリ】などを拠点に活動し,イギリス東インド会社と張り合っていた。だがフランス総督【デュプレクス】が本国召還されると力関係は逆転し,【クライブ】の率いるイギリス東インド会社軍が,【フランス・ベンガル太守】連合軍を破った。これが【プラッシーの戦い】である。これに勝利したイギリスはインド経営の基礎を固めた。
 北米大陸では,フランスは【ハドソン湾】から【五大湖】を経由して【ミシシッピ川】に至るルートを開拓し,その広大な流域一帯を領有していた。だが【】七年戦争の一環として展開された【フレンチ=インディアン戦争】において,フランスの拠点都市【ケベック】が陥落して決着がついた。イギリスは【ミシシッピ川以東ルイジアナ】のフランスの植民地を奪い,他方フランスは北米大陸のすべての植民地を失った。
 こうしてパクス=ブリタニカ(覇権国家イギリス)の第一幕は完了した。


名誉革命でオランダの資本がイングランド経済を支えていくことになった

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 名誉革命には興味深い点が考えられます。コメントにあった卒業生の大学の授業で扱っているように「経済面」について考えたいと思います。


 名誉革命の本質は、オランダ総督のウェレム(ウィリアム)がイングランドを征服したという点にあります。すなわち、ジェームズ2世を議会勢力が追放したというよりも、オランダから軍隊を率いて上陸したウェレムに対抗できずにジェームズ2世がフランスのルイ14世に助けを求めるためにフランスに亡命した、ということです。その結果は、オランダの商業のノウハウがイングランドに持ち込まれ、イングランドの経済発展に大きく貢献したことと、航海法以来対立を繰り返していたイギリス・オランダ間の関係が改善に向かい、イングランドが発行した国債の購入など、オランダの資本がイギリス(イングランド)の戦争遂行能力を支え続けていったことに大きな意味があります。


 17世紀はオランダの世紀といえますが、彼らは7つの州が別々に政治経済を運営し、最も勢力があったホラント州の代表が一応、オランダ総督として7つの州のとりまとめのようなことをしていました。したがってオランダの弱点は中央集権的に経済政策ができないという点にあります。彼らが活躍したのはバルト海の穀物貿易と木材貿易でした。17世紀の段階では新大陸との貿易により利益はまだまだ少なく、18世紀にならないと新大陸貿易はバルト海貿易を上回りません。


 17世紀のヨーロッパは食糧難の時代でした。北イタリアはコムーネという形態の都市国家だったため、都市は周辺の農村を支配し、穀物貿易にはあまり関心を向けなかったようです。したがって17世紀の食糧難の時期に穀物をポーランドのダンツィヒ市から北イタリアなどヨーロッパ各地に輸送し、その輸送費で大きな利益を上げたのがオランダ商人です。世界史的にはさらに奴隷貿易をオランダが独占したことも考える必要があります。


 名誉革命はこのようにオランダ商人が穀物・木材・奴隷貿易で細かく利益を上げていた時期に発生しました。世界史では英蘭戦争はイギリスの勝利として扱ってしまいますが、実際はオランダが勝利を収めたといえます。その間のイギリス議会とオランダとの和平交渉のなかで、王女アンとホラント州の名門出身のウェレム(ウィリアム)との結婚が実現したわけです。そのウェレムがのちにオランダ総督に就任し、軍隊とともにイギリスに上陸したのが名誉革命でした。


 結果的にオランダがイングランドを征服したともいえます。両者はルイ14世とフランスに亡命したジェームズ2世との連合と対抗するために連帯したともいえます。とくに経済面で両者の提携は進み、先述したような状況になったわけです。


 オランダの貿易独占は18世紀になると崩れていきました。ロシアが啓蒙専制主義をとり、穀物輸出を積極的におこなったことがオランダの独占を崩壊させたわけです。ロシア穀物を扱ったのはイングランド商人でした。さらに新大陸経営が拡大したことも、オランダの経済的覇権を相対的に低下させたといえるでしょう。したがって、オランダ経済は貿易活動からイングランドなどに対する金融活動で利益をあげることがメインになっていったわけです。


 


 


コルベール主義

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

絶対王政は極端にいえば、農業からは税金を集めずに、大商人に外国と貿易をやらせて、その利益の一部を
「特許料」という名目で納めさせることで、財政を運営する方法を取りました。これを、商業に重きをおいた経済政策なので、重商主義政策と言います。
重商主義には大きく分けるとふた通りの方法があり、一つは
、ポルトガルやスペインがやっていた重金主義、もう一つがイギリスやフランスがやっていた貿易差額主義です。重金主義は国内では毛織物生産を行わずに、中継貿易のみで利益を上げる方法です。一方、貿易差額主義は、国内で毛織物生産を行い、貿易全体を黒字にすれば良いという考え方です。毛織物生産を行うには羊毛の輸入や、穀物の輸入などが必要になるからで


啓蒙専制君主

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【18】世紀にフランスやイギリスで啓蒙思想が盛んになった頃になって、ロシア・プロイセン・オーストリアではようやく絶対王政が成立しました。それは、イギリスでは17世紀のピューリタン革命や名誉革命で絶対王政は崩れ去っていましたし、フランスのブルボン朝では重商主義政策の失敗から国家財政が苦しくなり、絶対王政に先行きに不安が大きくなっていた頃です。
 【ロシア】・【プロイセン】・【オーストリア】では、そのような英仏の政治情勢を無視して絶対王政を築くことはできませんでした。新しい政治思想である【啓蒙思想】がすでにこの3国の人々にも知られていたからです。
 そこで、この3国の王たちは、啓蒙思想家が説くような世の中にするには、強力な指導力が必要なのだ!といいました。とくに【プロイセン】の【フリードリヒ2世】は自らを「【国家第1の下僕】」と呼び、国王が進んで国民を指導し、イギリスやフランスに追いつく必要性を説いています。このことは矛盾した考え方です。民主主義を実現するために強力な独裁が必要だ、というわけです。
 以上ような考え方に基づいて絶対王政をおこなった、ロシアの【ピョートル1世】や【エカチェリーナ2世】、プロイセンの【フリードリヒ2世】、オーストリアの【マリア=テレジア】や【ヨーゼフ2世】のことを、【啓蒙専制君主】とよびます。啓蒙専制君主は東欧で出現した絶対王政の一種といえます。