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2004年東京大学本試 第1問16-18世紀の世界の一体化と銀経済

2020年04月27日 | 論述問題
2004年 東京大学本試 第1問 16-18世紀世界の一体化と銀経済

 1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に流通を禁止するまで続いた。

 以上を念頭におきながら、16-18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、16行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句に下線を付せ。なお、(  )内の語句は記入しなくてもよい。

 グーツヘルシャフト(農場領主制)、 一条鞭法、価格革、 綿織物、 日本銀、 東インド会社、 ポトシ、 アントウェルペン(アントワープ)




【解き方】
まず、問われているポイントを見つけます。
① 時期:16-18世紀
② テーマ:銀を中心とした世界経済
③ 問い:世界経済の一体化の流れを概観する

次に、③世界経済の一体化とはどのようなことを指すのか?についてリード文から考えます。ここで自分なりに考えてはいけません。リード文から読み取ることが大切です。

【考えるヒント】
1. 「アジア金融危機」をわざわざ持ち出してきたのには理由がある。アジア金融危機に関する基礎知識はタイ通貨のバーツが暴落しアジア各国の通貨も暴落するという連鎖が起こったという程度。ここでポイントはタイで起きたことが「連鎖」していった、という点でしょう。現在は「一国の経済は世界経済の変動と直結している」とリード文で補足しています。
2. リード文初出「世界経済の一体化は」言い換えれば「アジア通貨危機」のような出来事の「連鎖」は、となります。
3. リード文「16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給された」とあるので、「世界経済の一体化」は16,17世紀のメキシコ銀と日本銀(とくにメキシコ銀)のアジアやヨーロッパへの供給から始まったと解釈できます。
4. このような銀経済はアジアにおいては1930年代まで続いたとあるので、銀経済の広がりすなわちリード文によれば「銀貨が国際交易の基軸貨幣」とする経済体制と「世界経済の一体化」とは同じ意味と捉えてよいでしょう。
5. リード文は19世紀耕についても触れています。しかし、解答すべき①時期は16-18世紀です。

さらに「流れ」とは何かです。「流れ」を「文脈」と理解します。「文脈」は大辞林第3版によれば①文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト。②一般に、すじみち・脈絡。また、ある事柄の背景や周辺の状況、ということです。つまり世界史における「文脈」は「出来事と出来事のつながり」といってよいでしょう。
さて、この問題が問う「世界経済の一体化の流れ」が行きついた先は2004年の段階では「1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している」「植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった」ような状況です。そこに向かっていく「文脈」に16-18世紀を位置付けることになります。
「文脈」に従えば、西欧・東欧・新大陸・中国・日本・インドなどが銀経済に組み込まれていく世界各地の状況について「銀経済」にこだわりながら記述してくことになりそうです。

【字数配分】・【記述のポイント】
 問題文から考えると字数配分を16世紀・17世紀・18世紀から480字を3分割しそうですが、地域ごとに字数配分したほうが書きやすそうです。地域は世界中ですが、指定語句を地域に割り振ってみると、グーツヘルシャフト(東欧)、一条鞭法(中国)、価格革命(西欧)、綿織物(インド)、日本銀(日本)、東インド会社(西欧)、ポトシ(南米)、アントウェルペン(西欧)になります。
16-18世紀という時代をチェックしながら、
① 西欧・東欧:200字
16世紀前半までヨーロッパの銀はアウグスブルクのフッガー家が支配する銀山に依存していた。/16世紀後半新大陸から銀が流入しヨーロッパの銀価格が暴落する価格革命が起こった。/その結果アウグスブルクの銀に依存していたフッガー家、ポルトガル、北イタリア諸都市は低迷していった。/16世紀地中海のジェノバと海路で結ばれたアントワープはポルトガルが東インドから持ち込んだ香辛料を買い入れ多大な利益をあげた。さらにスペイン領であったため新大陸の銀もアントワープを経由しヨーロッパ各地を銀で結び付けた。/その結果、アントワープはアルプス以北最大の都市に発展し金融業が栄えた。
17世紀アムステルダムが代わって銀中心の金融中心都市として繁栄した。/イギリス革命後イギリスは議会重商主義の下、輸出を拡大して銀を獲得した。/フランスは17世紀コルベール主義で銀の国外持ち出しを禁じ輸出の拡大を目指した。/17-18世紀英仏両国は銀獲得のために第2次英仏百年戦争をつづけた。
18世紀、フランスは銀獲得のための植民地争奪に敗れたため重商主義から重農主義への転換を図った。

東欧:15-16世紀エルベ川以東の地域ではグーツヘルシャフトが広まった。西欧への穀物供給地の地位に置かれ、その売却によって領主層は銀を獲得した。/18世紀には啓蒙専制君主が絶対王政を成立させたが、穀物輸出による銀の獲得がその財政を支えた。

② 新大陸:80字
16世紀メキシコのサカテカス銀山やボリビアのポトシ銀山が開発され、スペインへの銀供給地となった。/メキシコのアカプルコ港が銀の積出港であった。

③ 中国:100字
16世紀後半にスペインによってフィリピンのマニラ経由でメキシコ銀が持ち込まれた。/16世紀後半から17世紀前半にポルトガルやオランダ商人によって日本銀も流入した。/江南地方への銀流入の結果、明は銀経済に組み込まれ、1570年代から一条鞭法が施行された。/それまでの両税法は銅銭で納税したいたが一条鞭法では銀納が原則であった。
17世紀の危機により西欧からの銀流入が停滞した影響で対規模な農民反乱(李自成の乱)が発生し明から清に移った。
17世紀後半から18世紀にイギリスから銀が持ち込まれ、中国から茶が輸出された。/その結果、清の経済は安定し,康熙帝は盛世滋生人丁(1713年)を実施、雍正帝は地丁銀を全国に施行した。

④ 日本:60字
16世紀に石見銀山など日本で銀山採掘が本格化した。/ポルトガルとオランダが東シナ海・南シナ海の中継貿易に参入して日本が銀経済に組み込まれていった。
17世紀前半鎖国に入り世界の銀経済から距離を置いた。

⑤ インド:40字
イギリス東インド会社は1623年アンボイナ事件で敗北し香辛料貿易から撤退した。/17世紀東インド会社はインド産綿織物(キャラコ)を輸入し利益を上げたため、インドは綿織物製品を売却し銀を獲得した。/そのような中、ムガル帝国は皇帝アウランゼブ(1658-1707年)のもとで全盛期を迎えた。





ジョン=ロックの「抵抗権」

2020年04月26日 | 高3用 授業内容をもう一度
ジョン=ロックは「同意」に基づいて政府が成立していると考えました。「同意」に基づいて成立している政府にはどのような力があるのでしょうか。
ロックによれば、人々は「自然状態」から離れて政府を作ったのは「自然状態」には不都合が生じるからだと考えます。「自然状態」で「自然法」が犯されたとき、人々は自分自身で問題を解決しなければならなくなる。そのとき人々は冷静に問題を処理できないので、第3者に影響するなどといった過剰に反応してしまう。そのため「自然状態」を維持することが難しくなる。

そこで人々は不都合が生じてしまう「自然状態」から脱するために「同意」をする。同じようにに考える人々と「同意」するわけです。人々は「自然権」を放棄して多数決に「同意」し、政府を作ることに「同意」します。しかし、たとえ民主主義的解決法や政府の立法権に「同意」したとしても、人々が「自然権」を失ったり無効になったわけではありません。なぜなら「自然権」は与えたり奪われたしできるものではない「不可譲の権利」だからです。政府も人々の持つ「生命・財産・自由」を侵害することはできないのだ、と考えます。

「自然権」を人々が放棄したわけではない以上、「同意」によって成立した政府も制約を受けるという考え方が成立します。これがアメリカ独立宣言に生かされた考え方、すなわち「抵抗権」の由来です。

ロックは、政府は人々の「所有権」を奪うことはできない。なぜなら人々の「所有権」を守ることが政府の目的であり、ひとびとは「財産権」を守るために「同意」して社会に入ったのである。ただし、政府が何らかの活動を行うには大きな負担が必要になる。そのため人々は政府を維持するための「割り当て」を自分の財産から支払うべきだともいっています。

アメリカ独立革命が「代表なくして課税なし」という言葉に象徴されるように、政府による課税はどこまで認められるのかという問題が残ります。ロックは課税には「本人たちによって選ばれた代表者によって与えられた多数派の「同意」が必要だといいます。

政府は人々が「自然状態」で持っている「財産権」を認めることが前提になります。しかし、実際の社会では、何を持って「財産」と認定し、何を持って「奪った」とするかを認定するのも政府です。

実際の社会で人々は「自然状態」に戻ることはできません。「同意」を取り消すことはできません。すなわちロックによれば「不可譲の権利」である「生命・財産・自由」を与えること、つまり放棄することはできないからです。だからこそ政府は権限を行使することを制限される。

ロックによれば「同意」によって成立した政府は、政府が自分勝手に望む目的のために、あるいは思うまま独善的に振る舞って人々の「自然権」すなわち「生命・財産・自由」を奪うことは許されないと結論づけています。

ロックが国王の絶対的権力を制限しようとしたことはあきらかです。その点で名誉革命を支持したとされます。


15-16世紀 ENGとオランダとプロイセンの関係

2020年04月26日 | 高3用 授業内容をもう一度



 15世紀にジェノヴァの商人によって地中海経済圏と北海バルト海経済圏が大西洋航路で結ばれました。これによって陸路で
この2つの経済圏を結んでいた中仏のシャンパーニュ地方は衰退します。かわって北ネーデルラント(のちのオランダ)が羽石升。
16世紀になると第2次大交易時代が始まり、フランドル地方の毛織物工業が躍進します。本国(ネーデルラントがスペイン領になったのは
1556年フェリペ2世の時)が中南米高地を結ばれ、その地に移住した人々が毛織物を欲したからです。フランドル地方の毛織物業者は
毛織物を本国の大商人に売り、彼らが中南米に毛織物を売る仕組みです。

 これに呼応してENGでは羊毛の増産が始まりました。15-16世紀の羊毛増産を第1次エンクロージャといいます。暴力的に囲い込みを行った
地主によって追い出されたヨーマンは失業したり毛織物業に転職したようです。第1次エンクロージャによって作られた羊毛はフランドル地方に
運ばれました。ENGではデザイン性が高い毛織物は技術が低いために製造できなかったようです。
 
 ヨーマンの数が減少すると、言い換えれば羊毛生産が増えると穀物生産が減少します。その穴を埋めたのがオスとエルベ(エルベ川以東の地方)
で、プロイセン公国などです。ここでは15-16世紀に穀物増産のためにグーツヘルシャフトが始まります。土地が肥沃ではないため増産には
大規模経営が不可欠でした。農奴の生活を支え絵板農民保有地は没収され全て領主直営地に転換されました。農奴は生活基盤を失って地主(ユンカー)
への隷属を強めました。農民の身分は低下したのです。
 

2012年一橋大学本試 第1問 ナントの勅令

2020年04月24日 | 論述問題
2012年一橋大学本試 第1問 ナントの勅令

1598年のナント勅令(王令)の公布は,16世紀後半のフランスで30年以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。では,この勅令(王令)公布に至るまでの経緯はどのようなものであったのか,またその目的は何であったのかを,当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内)


解き方:
書くべきポイント
① 公布に至るまでの経緯
② 公布の目的
この2点について「当時の政治状況」・「当時の宗教問題」に焦点を当てながら記述する。
①の経緯については「当時の政治状況」・「当時の宗教問題」に触れて記述するのは分かりやすいが、②目的についておの2点を意識することが、この出題のポイントになっている。当時の政治状況からナントの勅令を出したのだ、当時の宗教問題からナントの勅令を出したのだ、という説明になる。
 字数配分は、①が200字程度、②政治状況が100字、宗教問題が100字といったところ。


解説
当時の政治状況:
① アンリ2世の死後メディチ家出身の王妃カトリーヌ=ド=メディチが政治的実権を持っていた。
② ヴァロア家国王アンリ3世、カトリック同盟の中心にギーズ公アンリ、プロテスタント派のナバラ王アンリ=ド=ブルボンの王位をめぐる対立(3アンリの対立)が激化していた。
③ 王位継承者はカトリックに限られていた。

【目的】
1. 新教徒アンリ=ド=ブルボンはカトリックに改宗して即位。
2. 新教徒を代表する人物であったアンリ=ド=ブルボンがフランス王に即位する「正統性」を追求する新教徒勢力を抑えるため、また、新教徒の協力を得て国内統一を図るために彼らに信仰の自由を認めた。



当時の宗教問題
① 国内が国王を中心とするカトリック諸侯勢力とユグノー諸侯勢力とに分裂・対立していた。
② 1555年アウグスブルクの和議で諸侯や都市にルター派・カトリックの選択権が付与された。

【目的】
1. アウグスブルクの和議のように諸侯に選択権を付与することは諸侯に主権の一部を認めることになるため、これを避ける目的で個人に信仰の自由を認めた。

2004年一橋大学本試 第1問ドイツとイギリスの宗教改革の相違

2020年04月21日 | 論述問題
2004年一橋大学本試 第1問 ドイツとイギリスの宗教改革

宗教改革は、ルターにより神学上の議論として始められたが、その影響は広範囲に及び、近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し、その政治的帰結について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

アウグスブルクの和議   首長法




解き方:
書くべきポイントは
① ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較する。
② その政治的帰結の違いを比較する。
400字以内なので①をドイツに100字、イギリスに100字を配当して、②を200字で記述する。②もドイツとイギリスを100字ずつ記述するほうが書きやすい。

 次に細かいことだが、②政治的帰結とは何かを考えたい。リード文に「近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした」とあるので、政治的帰結とは近代の政治状況においてドイツとイギリスとの相違に影響したことを念頭に記述したい。

①について解説:ドイツの宗教改革の経緯(100字):
 年表風に箇条書きのように記述していく受験生がほとんどで、それで十分だと思うが、「近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした」ことを念頭に置くことから考えたい。近代ドイツは1648年ウェストファリア条約で領邦国家体制が確立し、領邦国家単位で主権国家が成立した。神聖ローマ帝国は形骸化しウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とされた。「ドイツ」という単位で主権国家は成立せず「領邦」単位に分立する状況が生まれた。
 このことから、「95カ条」⇒シュマルカルデン戦争ではルター派諸侯とカトリック諸侯とが戦った。⇒アウグスブルクの和議でルター派とカトリックが認められその選択は都市や領主が担った、と続けたい。

①について解説:イギリスの宗教改革の経緯(100字)
 近代ドイツの領邦国家体制とは異なり、イギリスでは英国教会体制が確立し英王権による「宗教の一元化」が成立した。その意味で、1534年首長令で教皇権から分離を宣言⇒1559年統一令で国内教会に対して英王を主張とする教会組織への参加を求めた⇒スペインと結んだカトリック勢力が巻き返し⇒スチュアート朝では王権神授説の下でピューリタンを弾圧した、と続けたい。

②について解説:ドイツ(100字)
 1618年30年戦争は48年ウェストファリア条約で終結し、近代の主権国家体制が成立した。しかしドイツでは領邦国家がそれぞれ主権国家となる領邦国家体制となり、ドイツ統一は1871年まで持ち越された。

②について解説:イギリス(100字)
 宗教改革の政治的帰結を記述する。1642年ピューリタン革命⇒王政復古後、フランスと結びカトリック勢力が復権を目指すと国教徒中心の議会が1673年審査律で公職就任を国教会に限定し宗教の一元化を完成させ議会主権に基づく近代主権国家が完成した⇒1828年審査律を廃止し宗教上の差別が撤廃された。
 

 




絶対王政の図解

2020年04月21日 | 高3用 授業内容をもう一度


重商主義政策とは絶対王政を成り立たせるための経済政策。
絶対王政(近代主権国家)は主権者である国王と聖職者・貴族と大商人(都市貴族)が「持ちつ持たれつの関係」を保って経営させて国家。
絶対王政では主権者国王に対抗する勢力(聖職者や貴族)が国内に存在せず、外国勢力(教皇や外国の国王)が主権者国王の主権を制限しない状態の国家。
聖職者と貴族は大地主だが免税特権を持つ。その代わり主権者国王に対して協賛する。国家財政収入は貿易独占権を国王から与えられた大商人が支払う特許料。大商人の貿易独占を守るのが国王や貴族の仕事。
大商人(特許商人)が行う商業活動に重きを置いた経済政策だから「重商主義」。農業(地主)に対して課税する政策に重点を置かない。したがって重商主義政策が破綻すれば絶対王政は崩壊する。
ところが難しいのは17-18世紀に貿易で儲かる商品は限られていること。


第2次大交易時代

2020年04月20日 | 高3用 授業内容をもう一度
「第2次大交易時代」では西欧商人の交易活動によってそれまで分立していた地域が地球規模で結び付けられ、相互に影響を与える時代が始まったわけです。16世紀後半に武装化したポルトガル商人が大西洋からアジアの海域で活躍しました。南シナ海や東シナ海では中継貿易に参加しています。しかし紅海を遮断できなかったためマムルーク朝の交易活動を抑えることができなかったといえます。
南米ボリビアのポトシ銀山(1545年発見)やメキシコのサカテカス銀山(1548年発見)を発見したスペインはメキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラ市(1571年建設)経由で明に銀を持ち込みました。日本銀と合わせてメキシコ銀が世界に銀本位制経済をもたらしました。
17世紀アジア海域における「第2次大交易時代」の主役はオランダ商人です。1619年バタヴィア市建設、1623年アンボイナ事件、1624年台湾ゼーランディア城、1641年マラッカをポルトガルから奪取、1669年インドネシアのマッカサルもポルトガルから奪取し、南シナ海の香料貿易を支配しました。なお大西洋とアジア海域とを結ぶケープタウン建設は1652年です。また、オランダはバルト海を利用して東欧諸国と交易しています。穀物・帆布・木材・タールを西欧に持ち込みました。

1980年東大本試第1問 地理上の発見の世界史的意義

2020年04月20日 | 論述問題
1980年東大本試第1問

 いわゆる「地理上の発見」にともなうヨーロッパ人の海外進出は、世界の諸地域における変化・変動のきっかけとなったとみられている。このできごとの意義を世界史の観点からとらえ、進出をおこなったヨーロッパ、およびそれを受けたアメリカ、アジア等の諸地域における、16世紀末までの変化・変動について、650字以内で述べよ。


解き方
最初に、この問題が求めている問いを問題文から判断します。
①世界史の観点からみた地理上の発見の意義
②1492年~16世紀末のヨーロッパにおける変化・変動
③1492年~16世紀末のアメリカにおける変化・変動
④1492年~16世紀末のアジア等における変化・変動
ただし、②は「ヨーロッパ」とあるので西欧と東欧、③はアメリカとあるので北米と中年米・南米、④アジアなどとあるのでアフリカ、についても記述するべきだろうと考えます。ここが東大世界史を説く上での重要ポイントです。つねにリード文・問題文から考える姿勢です。東大世界史では無駄な文はないと考えたいところです。

次に字数配分を考えます。大きく4点書くのでそれぞれ150字ずつ。ただし650字以内とあるので書くことが多そうな②を200字としたらちょうど良さそうです。

解説
①世界史の観点からみた地理上の発見の意義:
 「地理上の発見」の意義を世界史の観点から書くので、「第2次大交易時代」として「地理上の発見」を捉える。商業革命のようなヨーロッパ商業活動の変化ではなく世界貿易の変化として捉えることです。
 以下は高校世界史の基礎知識です。
 世界の交易ははじめそれぞれの文化圏とその周辺海域に限られていました。その中でローマ帝国と漢王朝、アッバース朝と唐王朝が東西で繁栄した時期にインド洋と南シナ海を結ぶ「海のシルクロード」が存在しました。この時期の特徴は東西の文化圏が相互に影響しあう側面は小さく、物流が中心といえます。
「海のシルクロード」が発展的に完成したのは「第1次大交易時代」です。モンゴル帝国によってユーラシア大陸とその南方海域が一つの交易路として成立しました。ただし、この時期の交易活動は陸路ではジャムチが整備されていたものの、海路はアレクサンドリアやカイロのカーリミー商人がダウ船を利用して紅海からアラビア海で活躍し、ベンガル湾から南シナ海ではジャンク船を使った中国民間商人が活躍しました。しかしこの「第1次大交易時代」はモンゴル帝国の分裂と前期倭寇にともなう明王朝の海禁策で終焉しました。

さらに「第2次大交易時代」では西欧商人の交易活動によってそれまで分立していた地域が地球規模で結び付けられ、相互に影響を与える時代が始まったわけです。16世紀後半に武装化したポルトガル商人が大西洋からアジアの海域で活躍しました。南シナ海や東シナ海では中継貿易に参加しています。しかし紅海を遮断できなかったためマムルーク朝の交易活動を抑えることができなかったといえます。
南米ボリビアのポトシ銀山(1545年発見)やメキシコのサカテカス銀山(1548年発見)を発見したスペインはメキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラ市(1571年建設)経由で明に銀を持ち込みました。日本銀と合わせてメキシコ銀が世界に銀本位制経済をもたらしました。
17世紀アジア海域における「第2次大交易時代」の主役はオランダ商人です。1619年バタヴィア市建設、1623年アンボイナ事件、1624年台湾ゼーランディア城、1641年マラッカをポルトガルから奪取、1669年インドネシアのマッカサルもポルトガルから奪取し、南シナ海の香料貿易を支配しました。なお大西洋とアジア海域とを結ぶケープタウン建設は1652年です。また、オランダはバルト海を利用して東欧諸国と交易しています。穀物・帆布・木材・タールを西欧に持ち込みました。
以上のように「第2次大交易時代」がこれまでの時代と違うのは、西欧勢力が各地にそれまであった現地支配者を排除して要塞を建設している点でしょう。

「地理上の発見」を「第2次大交易時代」の幕開けとして捉え、各地域が西欧諸国によって地球規模で結び付けられ、相互に影響を与える時代の始まりと考えます。この問題では世界史の大きな文脈に位置付ける記述が求められています。

②1492年~16世紀末のヨーロッパにおける変化・変動
使用する用語:西欧について150字程度。商業革命とその影響・価格革命とその影響・覇権国家・中核国
使用する用語:東欧について50字程度。穀物供給地域として周辺国の地位に置かれた

③1492年~16世紀末のアメリカにおける変化・変動
使用する用語:北米について50字程度。インディアンを排除して東海岸にアングロサクソンが入植
使用する用語:中年米南米について100字程度。アステカ帝国とインカ帝国が滅亡・17世紀までエンコミエンダ制・カトリック布教・インディアンが激減しアフリカから黒人奴隷を持ち込んだ

④1492年~16世紀末のアジア等における変化・変動
使用する用語:中国について50字程度。1570年代に江南地方から一条鞭法が広がる(銅経済の両税法からメキシコ銀流入で経済規模か拡大し一条鞭法が採用され銀経済の時代に変化した)・銀と紙幣による経済活動・トウモロコシ栽培で人口が急増
使用する用語:日本について50字程度。鉄砲伝来により統一が早まる・イエズス会がカトリックを布教
使用する用語:その他の地域について50字程度。フィリピンがカトリック化・オランダが台湾や東南アジア各地に貿易拠点を建設し中継貿易を行った・
 
 














2009年東大本試第2問 北イタリア諸都市

2020年04月20日 | 論述問題
2009年東大本試第2問  

人口集中地としての都市は、古来、一定地域の中心として人々の活動の重要な場であり続けてきた。それらの都市は、周囲の都市や農村との関係に応じて、都市ごとに異なる機能を果たしてきたが、ある特定の地域や時代に共通する外観や特徴を示す場合もある。以上の点をふまえて、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。
 
問(3) 西ヨーロッパでは、11世紀ころから商業活動が活発化し、さびれていた古い都市が復活するとともに、新しい都市も生まれた。(a)地中海沿岸や北海・バルト海沿岸の都市のいくつかは、遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった。(b)また、強い政治力をもち独立した都市のなかには、その安全と利益を守るために、都市どうしで同盟を結ぶところも出てきた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えない。

 (a) 地中海における遠隔地交易を代表する東方交易について、2行以内で説明しなさい。
 (b) 北イタリアに結成された都市同盟について、2行以内で説明しなさい。


解き方と解説
(a) この問題では東方交易を「地中海における遠隔地貿易の代表」と位置付けています。つまり「地中海を舞台」とした「遠隔地貿易」という意味合いから「東方交易」を説明する必要がありそうです。 また「遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった」とあるのでこれを具体化してルネサンス期の繁栄まで書く必要があると判断できます。
東大世界史ではこのように「何を書くのか?」を自分で判断せずに問題文から読み取ることが重要です。また、リード文から記述する時期がわかります。つまり11世紀から北イタリア諸都市が繁栄した15世紀くらいまででしょう。
つぎに60字以内の記述なので、3つ程度の重要語句を考えます。
交易の担い手:北イタリア諸都市とカイロのカーリミー商人
扱った商品の特徴:香辛料などの小さくて軽い付加価値が高い商品
交易の結果:ルネサンスの繁栄を築いた

(b) 高校世界史の知識からロンバルディア都市同盟を記述します。しかしすぐに書き始めずにもう一度リード文・問題文を見たいところです。東大世界史には模範解答が存在するようです。つまり解答は1つ。そのためには記述を限定する必要があります。そのためにリード文・問題文があるわけです。リード文に「周囲の都市や農村との関係」「共通する外観や特徴」とあり、問題文に「強い政治力をもち独立した都市」とあります。したがってこの問題が求めているロンバルディア都市同盟の説明は以下の点でしょう。
周囲の都市や農村との関係:コムーネ
共通する外観や特徴:都市を囲む城壁
強い政治力:都市貴族による共和制
独立した都市:ミラノを中心として神聖ローマ帝国皇帝に対抗して結成した



 






西欧近代史(3)教皇のルネサンス ミケランジェロとラファエロ

2020年04月18日 | 高3用 授業内容をもう一度
西欧近代史(3)教皇のルネサンス ミケランジェロとラファエロ

ダ=ヴィンチ同様に初期のミケランジェロも「人間中心」の絵を描いています。ダ=ヴィンチは人体実験など「解剖学的観察」を行いましたが、それはキリスト教の教えから離れていくことを意味します。しかし少し後の時代に活躍したラファエロは「美人を何人並べても、その手足の良いものを集めても美しくない。自分の中にあるイデアで描いたほうが美しい。」という言葉を残しているそうです。ダ=ヴィンチとラファエロとの間には大きな違いが存在します。目の前にある「人間」を忠実に表現しようとしたダ=ヴィンチに対して、自分の中にある「美のイデア」に忠実であろうとするラファエロとの違いです。18世紀までの西洋美術にもっとも影響を与えたのはラファエロでした。見たものに忠実に描く時代から,自分が思考の中で思い描くものを表現する時代へ。

その二人の間の時代にいたのがミケランジェロです。ミケランジェロの代表作にヴァチカン宮殿システィナ礼拝堂天井画『天地創造』(1508-12)と、同じシスティナ礼拝堂祭壇画『最後の審判』(1538-41)があります。天井画『天地創造』の人間表現は解剖学的観察によって精緻なものです。一方、30年後に描かれた祭壇画『最後の審判』の人間表現はドラマ性を強調して中央のイエス=キリストの上半身が長く下半身とのバランスに欠いています。よく見るとイエスのおなかは長すぎます。そんな感じの人が何人か描かれています。
すなわち30年前に描かれた天井画『天地創造』はルネサンス様式に分類されます。祭壇画『最後の審判』はラファエロが様式に取り入れたマニエリスム様式といいます。

天地創造


最後の審判

西欧近代史(3)教皇のルネサンス 人間を表現する

2020年04月18日 | 高3用 授業内容をもう一度
西欧近代史(3)教皇のルネサンス 人間を表現する

 ルネサンス期には人間を描いたり彫刻する場合、「人体」に目が向けられました。マザッチオ『楽園追放』では当時の倫理観が影響し、アダムは男性モデルを裸体にして描いたのに対し、イヴ用の女性モデルを手配することができませんでした。その結果、アダムに比べてイヴは写実性に欠けてしまいました。マザッチオは当時のアプロディーテー像から描いたそうです。ちなみにボッティチェリが『ヴィーナスの誕生」を描いた際もメディチ家が所有するアプロディーテー像もとに描いています。
 
 ダ=ヴィンチの偉大さはたくさんあります。それをキリスト教の自然観という面から考えたい。ルネサンス期には「神中心から人間中心へ」という人文主義が生まれました。神にのみ注目していた社会から人間に着目する社会への転換でもあります。その文脈からダ=ヴィンチを見ると、人体実験を行い忠実に絵画に表現していく彼の姿勢は「人間中心」そのものです。「目に見える形で人間中心」を実践したダ=ヴィンチたちの作品を見てルネサンス期を生きた人々の意識を変えていったのでしょう。その広がりが次の宗教改革につながっていきます。信仰という「目に見えない形で人間中心」への発展です。
 

西欧近代史(2)ルネサンス 遠近法と中世の終焉

2020年04月18日 | 高3用 授業内容をもう一度
西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ 遠近法

 ルネサンス期の発明の中で重要なものの一つに「遠近法」があります。遠近法には『モナリザ』にも用いられた空気遠近法、『最後の晩餐』で知られる『線遠近法』など多様にあります。しかしルネサンス期に遠近法が大いに用いられたことは人々がキリスト教への考え方を変えつつあったことを示しています。
下の写真はマサッチョ(マザッチオ)『イエスの磔』です。この絵は非常に挑戦的な絵といえるでしょう。それはイエスのサイズと前にいる人間のサイズの問題です。遠近法を用いているので後ろにいるイエスの方が前方の人間よりも小さく描かれています。このような描き方は中世キリスト教社会では考えられないものです。イエスが人間より小さい?