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アラブ帝国

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 ウマイヤ家カリフであった【アルマリク】はウマイヤ朝の基礎を作りました。ウマイヤ朝は「【アラブ帝国】」と称されますが、【アラビア】語が公用語であり、アラブ人が経済を握り、アラブ人に税制上の優遇政策がとられたためです。
 とくにアラブ人だけ免税特権を持ち、同じイスラム教徒でも、異民族で改宗したイラン人などは【ジズヤ】に加え【ハラージュ】の支払いを求められました。彼ら異民族でイスラム教徒に改宗した人々のことを【マワーリー】といいます。この点もウマイヤ朝を「アラブ帝国」とよぶ理由です。つまり、イスラム教徒の間でも歴然とした不平等があったということです。

アッバース革命

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 「【アラブ帝国】」とも言われ、【アラブ人至上主義】をとったウマイヤ朝は、8世紀になると【マワーリー】となっていた【イラン】人などの反発を受けるようになりました。その一方で、ウマイヤ家カリフを認めない【シーア】派勢力も反ウマイヤ家に動き出し、ついに【】イラン人と【シーア】派の支持を受けた【アブー=アッバース】がウマイヤ朝を打倒し、【750】年に【アッバース】朝を建てました。このときウマイヤ家の一部が【イベリア半島】まで逃れ、【756】年、【】後ウマイヤ朝を建国しています。建国者は長い名前ですが、【アブド=アッラフマーン1世】。都はイベリア半島中央部の【コルドバ】です。ただし、彼らはカリフ位を持たず【アミール】(地方太守として一つの地方を支配するポスト)の称号を用いています。
 750年のアッバース朝成立を「【アッバース革命】」といいます。そのように評価される理由は、ウマイヤ朝が「アラブ帝国」であったのに対して、アッバース朝が【イスラム教徒間の税制上の平等を実現した】「【イスラム帝国】」であったことから、「革命」と呼ぶわけです。
 アッバース朝では【全ムスリム】が【ハラージュ】(地租)を支払います。異教徒は【ハラージュ】に加えて信仰税の意味合いのある【ジズヤ】(人頭税)の義務もあります。ただし逆の言い方をすれば、ジズヤを払えば信仰を許されるともいえますから、ジズヤは【信仰税】という感じです。
 アッバース朝建国に貢献したイラン人勢力は、アッバース朝全盛期に多く登用されましたが、シーア派は採用されず、【スンナ】派が採用されました。90%を占める多数はのスンナ派を採用したほうが統治がしやすいことが理由でしょう。アッバース朝の時代、都【バグダッド】を中心とする西アジアにおいてアラブ人・イラン人など多くの民族を内含する、「【イスラム文化圏】」が成立しました。
また、公用語は以前として【アラビア】語でしたから、イスラム文化圏に参加する人々は、アラビア語を使う必要があります。その結果、現在でも北アフリカから西アジア一帯でアラビア語を使用しています。

ワリード1世の大征服時代

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 8世紀に入るとすぐにウマイヤ家カリフとして【ワリード1世】が即位しました。彼は東は【ソグディアナ】から西北インドの【シンド】地方まで征服し、西へは【ジブラルタル】海峡を越えて【】イベリア半島に達しました。当時イベリア半島にはゲルマン民族の【西ゴート】族が建てた西ゴート王国が都を【トレド】においていました。彼らは【アリウス】派というカトリックから【325】年の【ニケーア】公会議で異端とされたキリスト教の一派を振興していた人々です。【711】年【ワリード1世】の軍隊はこれを滅ぼし、以後【1492】年までスラム勢力がイベリア半島を支配する端緒となりました。このようにして、ワリード1世の時代のウマイヤ朝はイスラム教の【単独王朝として最大版図】を現出しました。
 ただし、注意したいのは、イベリア半島を支配下に置いたウマイヤ朝はさらにピレネー山脈を越えて現在のフランスにあった【フランク】王国に、何度も侵略を試みている点です。【732】年の【トゥール=ポワティエ間の戦い】がとくに有名です。この戦いはフランク王国を率いたフランク王国宮宰【カール=マルテル】が奮闘し、キリスト教徒を率いてウマイヤ朝の軍勢を撃退しています。「【マホメット無くしてカール大帝なし】」という有名な言葉は、イスラム教徒からキリスト教世界を守った英雄カール=マルテルの孫【カール大帝】が、キリスト教世界の支配者として君臨したことを示しています。ただし、もうひとつ注意したいのは、この732年トゥール=ポワティエ間の戦いの時には、ワリード1世はすでになくなっている点です。

イスラム教成立の背景

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス555年に東ゴーと王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、地中海世界の再統一に成功しました。6世紀中ごろは西アジアのササン朝ペルシアホスロー1世が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地であるシリアをめぐって抗争しています。さらに、この2人の後になっても、シリアを両国の抗争は続きました。東ローマ皇帝ヘラクレイオスとササン朝ペルシアのホスロー2世とは長く戦争を続けましたが、7世紀にはいると東ローマ帝国がシリアを確保する状態でした。
 東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを通って交易することができなくなりました。そこで、アラビア半島を横断する交易ルートが活発になり、ラクダに荷を背負わせて砂漠を横断するベドウィン(隊商)がその交易を担ったのです。そのため、いままで砂漠の民であった彼らの生活は大きく変わってしまったしたわけです。とくにメッカやメディナに代表されるような砂漠のオアシスでは人々の行き来が盛んになり、豊かになった人々と失敗した人々との間でトラブルが発生しました。また、社会のモラルも低下しました。このような人々の中でイスラム教が必要とされたのです。

イスラム教の成立

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【東ローマ帝国】皇帝【ユスティニアヌス】は【555】年に【東ゴート】王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、【地中海世界の再統一】に成功しました。
 6世紀中ごろは西アジアの【ササン朝ペルシア】に【ホスロー1世】が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスとホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地である【シリア】をめぐって抗争しています。さらに、この2人の後、東ローマ皇帝【ヘラクレイオス1世】とササン朝ペルシアの【ホスロー2世】の時代になっても、シリアを両国の抗争は続きました。長く続いた戦争でしたが、7世紀にはいると【東ローマ帝国】がシリアを確保する状態でした。
 東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを通って交易することができなくなりました。そこで、【アラビア半島】を横断する交易ルートが活発になり、ラクダに荷を背負わせて砂漠を横断する【ベドウィン】(【隊商】)がその交易を担ったのです。そのため、いままで砂漠の民であった彼らの生活は大きく変わってしまったしたわけです。とくに紅海沿岸の【ヒジャーズ】地方にある最大のオアシス都市【メッカ】や【メディナ】には交易にかかわる人々の行き来が盛んになり、豊かになった人々と失敗した人々との間でトラブルが発生しました。また、社会のモラルも低下しました。このような人々の中でイスラム教が必要とされたのです。

ムハンマド(マホメット)

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【ムハンマド】(【マホメット】ともいいます)は【メッカ】の名門一族【クライシュ】族の【ハーシム】家の出身です。彼は25歳のときに、年上(40歳)の未亡人【ハディージャ】と結婚しました。商売名順調だったようですが、ムハンマド40歳のとき、【610】年ヒラー山で大天使【ガブリエル】から啓示を受け、イスラム教を創始しました。啓示を受けるというのは、神アラーの教えを大天使ガブリエルによって伝えられたということです。したがって、マホメットはこのときから神アラーの言葉を預かった【預言者】担ったわけです。マホメットの言葉は神の言葉ですが、マホメット自身は預言者ではあるが人間です。
 イスラム教は、唯一神【アラー】への絶対的服従を求め、【偶像崇拝】を極度に否定する宗教です。妻の【ハディージャ】が最初の信徒になりました。イスラム教ではムハンマドは「【最後にして最大の預言者】」であるとしています。彼はあくまでも【人間】であって神でも、イエスのように神の子でもないのです。「最後にして最大の」というのは、モーゼやイエスも預言者として認めているためです。しかしイスラム教徒たちは615年頃から【メッカ】で迫害を受けるようになりました。

ヒジュラ(聖遷)

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 イスラム教徒のことを【ムスリム】といいます。彼らの教団を【ウンマ】といい、イスラム教寺院を【モスク】といいます。
 メッカで迫害を受けたムハンマド達は、【622】年【メッカ】を逃れ、北方のオアシス都市【メディナ】に引越しました。メディナは【ヤスリブ】とも言いますので、注意してください。この引越しを【ヒジュラ】(聖遷)といいます。また、引越しについていったイスラム教徒たちの集団を【ウンマ】といいますが、このウンマはのちに【イスラム教徒の共同体】という意味で使われます。この【622】年をイスラムの暦(【ヒジュラ暦】)で紀元としています。メディナで起きていたメディナ市民間のトラブルを解決することを委ねられたとされています。
 メディナで問題を解決し、人々の人望を確立したムハンマドは、【630】年メディナの人々を率いて、今度は逆に【メッカ】に乗り込み、自分たちを迫害した人々を排除し、メッカにあったすべての【偶像】を破壊してメッカの支配者になりました。
 ムハンマドがアラビア半島最大のオアシスであるメッカと第2のオアシスであるメディナを支配したということは、アラビア半島で活動するすべての【ベドウィン】を支配することを意味しています。【632】年には完全に【アラビア半島】を統一したのち、ムハンマドは【イエルサレム】で昇天しました。現在、その地に「【岩のドーム】」があり、イェルサレムはイスラム教の聖地とされます。

イスラム教の特有の用語(1)

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
(1)ムスリム・・・イスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。江戸時代の日本でキリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んでいたのと似ています。ムスリムは世界に9億人以上いて、アフリカなどでは今での増え続けています。
(2)ウンマ・・・「ムスリム共同体」と訳します。つまり、仲間意識を持っているムスリム達の世界のことです。例えば、関東学院にも三春台と六浦がありますが、なんとなく関東学院生としての一体感や仲間意識がありますよね。他校の生徒よりも親近感を持っていると思います。そのような「仲間意識」をもったムスリム社会を「ウンマ」と呼びます。少し前に、「オウム真理教」が富士山の麓に「サティアン」を作って生活していました。初期のムスリム達のウンマはそんな感じだった?のかもしれません。
(3)ヒジュラ・・・メッカで成立した「ウンマ」が622年にメディアに移ったことを「ヒジュラ」といいます。メッカで弾圧されたマホメットたちイスラム教徒が、弾圧を避けて第2のオアシス都市である北方のメディナに引越しをしました。この「引越し」のことを「ヒジュラ」と呼びます。なお、イスラム教を信仰している国では、この622年を紀元1年とする暦を使用しています。この暦を「ヒジュラ暦」といいます。
(4)ジハード・・・「聖戦」と訳します。「右手に剣、左手にコーラン」という言葉があります。イスラム教を受け入れるか、戦うか、という二者択一を迫ったという言葉です。イスラム教徒の中に存在する敵(アラーを信じきっていない自分)を倒すことも「ジハード」です。「ジハード」が成功するとイスラム教が広まっていく、と考えて結構です。
(5)ミスル・・・「軍営都市」と訳します。ジハードが成功した結果、ムスリム達が都市を支配することになります。ムスリムの軍隊がその都市を支配するので、「軍隊が経営する都市」という意味です。都市を征服するために基地として建設される場合もあります。
(6)アター(アター制)・・・「俸給制」と訳します。ムスリム達が兵士として戦争に参加した代償を受け取る制度です。ジハードに勝ったら負けた敵から財産を奪い取ります。そしてジハードに参加した兵士たちで、その戦利品をを山分けしました。こうして兵士たちは報酬を得たわけで、このやり方(制度)を「アター制」といいます。この制度は10世紀くらいまで続きました。
(7)ティマーム制・・・イスラム教徒たちが支配する地域が広がっていくと、組織的に統治する必要が出てきました。無駄がないように税を集めたり、反乱などが起こらないようにする必要があるからです。そのために作られた組織を「ティマーム制」といいます。現在の役所のように役人とか官僚とかの組織です。しかし、征服に成功していったアラブ人たちは、このような組織(官僚組織)を作るのが苦手だったようです。しかしイラン人たちはアケメネス朝ペルシアからずっと、このような官僚組織を運営してきた経験があったので、この「ティマーム制」の官僚にはイラン人のアイディアが多く取り入れれら、実際にイラン人が活躍しました。

正統カリフ時代

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【632】年にムハンマドが亡くなった後、【ウンマ】の経営を任せる【預言者ムハンマドの後継者】が選出されました。【預言者の代理人】という意味であるカリフに初めて選出されたのは【アブー=バクル】です。彼から【4人】のカリフは世襲ではなくウンマの中で選ばれたカリフで、この時代を【正統カリフ】時代(【632~661】年)をよびます。
 第2代カリフは【ウマル】です。ウマルは大規模な征服活動を行なったカリフで、【642】年【ネハーヴァントの戦い】で【ササン朝ペルシア】に勝利。その結果、【651】年にはササン朝ペルシアは滅亡しました。また【東ローマ帝国】から【シリア】と穀倉地帯の【エジプト】を奪い支配下におさめました。このようなイスラム教徒の征服活動を【ジハード】(聖戦)といいます。各地にムスリムが住む軍営都市【ミスル】が建設され、征服した人々から地租【ハラージュ】を取りました。戦いに参加したムスリムには戦利品を【アター】(【俸給】)として支払われました。これを【アター】制といいます。砂漠民であったアラブ人には土地を与えるという習慣がなかったわけです。
 イスラム教の経典『【コーラン】』は第3代カリフの【ウスマーン】の時に編集されました。
 最後の正統カリフである第4代カリフの【アリー】は、【ムハンマドの従兄弟】であり、ムハンマドの娘【ファーティマ】の夫(娘婿)です。元シリア総督クライシュ族【ウマイヤ】家の【ムアーウィア】は、アリーの即位に反対して両者は内乱状態になりました。この戦いは両者で和睦が成立しましたが、その和睦に反対する者にアリーは殺されました。
 その結果、【661】年ウマイヤ家の【ムアーウィア】がカリフに就任し、以後カリフ位はウマイヤ家に【世襲】されたので、【ウマイヤ】朝といいます。
 一方、ウマイヤ家と対立していたアリーの支持者たちはムアーウィアの即位を認めず、【アリーの子孫】だけが正統なカリフであるとする「【シーア派】」を形成しています。シーア派とは「【アリーの一派】」という意味です。現在、シーア派は全ムスリムの10%であり、多くは正統派すなわち【スンナ派】です。

ウマイヤ朝の成立

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 ムハンマド時代から正統カリフ時代にかけて、西アジア世界は安定期に入ります。ササン朝ペルシアと東ローマ帝国とのシリアをめぐる抗争もすでに終結し、【シリア】を経由する貿易路が復活しました。シリアが利用できるならわざわざ砂漠を横断する貿易を行う意味はなくなります。
 そのシリア総督に就任したのはウマイヤ家の【ムアーウィア】でした。ウマイヤ家はクライシュ族の名門です。彼は正統カリフ第4代【アリー】の即位に反対し、アリーと戦争になりました。結局、両者の和睦が成立しましたが、アリーは和睦に反対する過激派によって殺されました。
 ムアーウィアがカリフに即位すると、彼に反対する人々は「【アリーの一派】」と呼ばれる【シーア】派を形成しました。シーア派は、ウマイヤ家カリフを認めず、アリーの子孫のみがカリフ位を継承できると考えた人々です。現在、ムスリムの約10%がシーア派で、イランやリビアなどに比較的多くいます、一方、ウマイヤ家カリフを容認する人々は正統派すなわちスンナ派と呼ばれます。
 ムアーウィアのあとカリフ位はウマイヤ家によって世襲されたため、ウマイヤ朝とよびます。都はシリアの中心都市【ダマスクス】に置かれました。なお、【ヒジャーズ】地方にある【メッカ】やメディナは宗教面での中心都市といえます。

アラブ帝国

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 アルマリクはウマイヤ朝の基礎を作りました。ウマイヤ朝は「アラブ帝国」と称されますが、アラビア語が公用語であり、アラブ人が経済を握り、アラブ人に税制上の優遇政策がとられたためです。とくに地租にあたるハラージュアラブ人だけ免税になり、同じイスラム教徒でも、イラン人などの異民族はハラージュの支払いを求められました。この点もウマイヤ朝を「アラブ帝国」とよぶ理由です。また、人頭税ジズヤは宗教税の側面があり、イスラム教徒はアラブ人以外でも免税でした。このため、アラブ人以外のムスリムたちはウマイヤ朝に対して不満を持っていました。

ムアーウィアによるウマイヤ朝建設

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度

 ムハンマド時代から正統カリフ時代にかけて、西アジア世界は安定期に入ります。ササン朝ペルシアと東ローマ帝国とのシリアをめぐる抗争もすでに終結し、シリアを経由する貿易路が復活しました。シリアが利用できるならわざわざ砂漠を横断する貿易を行う意味はなくなります。
 そのシリア総督に就任したのはウマイヤ家ムアーウィアでした。ウマイヤ家はクライシュ族の名門です。彼は正統カリフ第4代アリーの即位に反対し、アリーと戦争になりました。結局、両者の和睦が成立しましたが、アリーは和睦に反対する過激派によって殺されました。
 ムアーウィアがカリフに即位すると、彼に反対する人々は「アリーの一派」と呼ばれるシーア派を形成しました。シーア派は、ウマイヤ家カリフを認めず、アリーの子孫のみがカリフ位を継承できると考えた人々です。現在、ムスリムの約10%がシーア派で、イランやリビアなどに比較的多くいます、一方、ウマイヤ家カリフを容認する人々は正統派すなわちスンナ派と呼ばれます。
 ムアーウィアのあとカリフ位はウマイヤ家によって世襲されたため、ウマイヤ朝とよびます。都はシリアの中心都市ダマスクスに置かれました。なお、ヒジャーズ地方にあるメッカやメディナは宗教面での中心都市といえます。


 


 


 


ワリード1世の大征服時代

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
 8世紀に入るとすぐにウマイヤ家カリフとしてワリード1世が即位しました。彼は東はソグディアナから西北インドのシンド地方まで征服し、西へはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に達しました。当時イベリア半島にはゲルマン民族の西ゴート族が建てた西ゴート王国が都をトレドにおいていました。711年ワリード1世の軍隊はこれを滅ぼし、以後1492年までスラム勢力がイベリア半島を支配する端緒となりました。このようにして、ワリード1世の時代のウマイヤ朝はイスラム教の単独王朝として最大版図を現出しました。
 ただし、注意したいのは、イベリア半島を支配下に置いたウマイヤ朝はさらにピレネー山脈を越えて現在のフランスにあったフランク王国に、何度も侵略を試みている点です。とくに732年のトゥール=ポワティエ間の戦いは有名です。この戦いはフランク王国を率いた宮宰カール=マルテルが奮闘し、キリスト教徒を率いてウマイヤ朝の軍勢を撃退しています。「マホメット無くしてカール大帝なし」という有名な言葉は、イスラム教徒からキリスト教世界を守ったカール=マルテルの孫カール大帝が、キリスト教世界の支配者として君臨したことを示しています。ただし、もうひとつ注意したいのは、この732年トゥール=ポワティエ間の戦いの時には、ワリード1世はすでになくなっている点です。

アッバース革命

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度

 「アラブ帝国」とも言われ、アラブ人至上主義をとったウマイヤ朝は、8世紀になるとイラン人などの反発を受けるようになりました。その一方で、ウマイヤ家カリフを認めないシーア派勢力も反ウマイヤ家に動き出し、ついにイラン人とシーア派の支持を受けたアッバースがウマイヤ朝を打倒し、750年アッバース朝を建てました。このときウマイヤ家の一部がイベリア半島まで逃れ、756年後ウマイヤ朝を建国しています。建国者はアブド=アッラフマーン1世。都はイベリア半島中央部のコルドバです。ただし、彼らはカリフ位を持たずアミール(太守)の称号を用いています。
 750年のアッバース朝成立を「アッバース革命」といいます。それはウマイヤ朝が「アラブ帝国」であったのに対して、アッバース朝がイスラム教徒間の税制上の平等を実現した「イスラム帝国」であったことから、「革命」と呼ぶわけです。
 アッバース朝では全ムスリムがハラージュ(地租)を支払います。異教徒はハラージュに加えて信仰税の意味合いのあるジズヤ(人頭税)の義務もあります。ただし逆の言い方をすれば、ジズヤを払えば信仰を許されるともいえます。
 アッバース朝建国に貢献したイラン人勢力は、アッバース朝全盛期に多く登用されました。しかし、シーア派は採用されませんでした。90%を占める多数はのスンナ派を採用したほうが統治がしやすいことが理由でしょう。アッバース朝の時代、西アジアにおいてアラブ人・イラン人など多くの民族を内含する、「イスラム文化圏」が成立しました。
 


アッバース朝の最盛期

2023年01月24日 | 高2用 授業内容をもう一度
  アッバース朝は「イスラム帝国」と呼ばれるように、アラブ人の特権は廃止され、ムスリム間の平等が実現した時代です。そのため、カリフは多民族帝国にふさわしく、民族を超越する存在であることが求められました。これをカリフの神格化ととらえることができます。アッバース家第2代カリフのマンスールのとき、カリフの神格化が進み、さらに彼の手によって「平和の都(マディーナ=マッサラーム)」と言う名の都市バグダッドが建設されました。アラブ人至上主義の世界が終わり、イスラム教世界としてひとつにくくることができるイスラム文化圏が成立したわけです。同じ8世紀には中国のが「東アジア文化圏」を確立していたので、同時期にユーラシア大陸の東と西で、強大な文化圏が成立していたことになります。西のバグダッドと東の長安はともに100万人の人口を持つ国際都市でもありました。
 8世紀後半、第5代カリフのハールン=アッアシードが登場すると、アッバース朝は最盛期を迎えました。この人物は「千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)」の登場人物のモデルであることでも有名です。しかし、彼の時代になると、アッバース朝に変化が生じてきました。840年ウイグルの西走により中央アジアにトルコ系民族が移動し、彼らがさらに、バグダッドのある西アジアにも出現してきたことが、その要因でした。もともとアッバース朝の建国を支持し、アッバース朝の繁栄を支えてきたのはイラン人でしたが、ハールン=アッラシードは、そのイラン人に代わってトルコ人をマムルークという傭兵として安く雇い、重用し始めました。これに反発するイラン人の一部はホラサーン地方などに引っ込んで、自立していくようになりました。アッバース朝の支配権が及ばない地方が出現し始めたわけです。このような傾向は、第7代カリフのマームーンの時代にも加速しています。
 一方、アッバース朝時代最盛期には、イスラム文化の成熟が見られます。とくにマームーンは文化面の功績が大きく、バイト=アル=ヒクマ(知恵の館)バグダッドに建設し、ギリシアのアリストテレス哲学・ヘレニズム時代のユークリッド幾何学・天文学・医学などの多くのギリシア文化がこの研究所で、ギリシア語からアラビア語に翻訳され、保存されました。ここで翻訳されたギリシア・ヘレニズム文化はやがて西欧のルネサンスに継承され、現在に受け継がれていきます。