「【アラブ帝国】」とも言われ、【アラブ人至上主義】をとったウマイヤ朝は、8世紀になると【マワーリー】となっていた【イラン】人などの反発を受けるようになりました。その一方で、ウマイヤ家カリフを認めない【シーア】派勢力も反ウマイヤ家に動き出し、ついに【】イラン人と【シーア】派の支持を受けた【アブー=アッバース】がウマイヤ朝を打倒し、【750】年に【アッバース】朝を建てました。このときウマイヤ家の一部が【イベリア半島】まで逃れ、【756】年、【】後ウマイヤ朝を建国しています。建国者は長い名前ですが、【アブド=アッラフマーン1世】。都はイベリア半島中央部の【コルドバ】です。ただし、彼らはカリフ位を持たず【アミール】(地方太守として一つの地方を支配するポスト)の称号を用いています。
750年のアッバース朝成立を「【アッバース革命】」といいます。そのように評価される理由は、ウマイヤ朝が「アラブ帝国」であったのに対して、アッバース朝が【イスラム教徒間の税制上の平等を実現した】「【イスラム帝国】」であったことから、「革命」と呼ぶわけです。
アッバース朝では【全ムスリム】が【ハラージュ】(地租)を支払います。異教徒は【ハラージュ】に加えて信仰税の意味合いのある【ジズヤ】(人頭税)の義務もあります。ただし逆の言い方をすれば、ジズヤを払えば信仰を許されるともいえますから、ジズヤは【信仰税】という感じです。
アッバース朝建国に貢献したイラン人勢力は、アッバース朝全盛期に多く登用されましたが、シーア派は採用されず、【スンナ】派が採用されました。90%を占める多数はのスンナ派を採用したほうが統治がしやすいことが理由でしょう。アッバース朝の時代、都【バグダッド】を中心とする西アジアにおいてアラブ人・イラン人など多くの民族を内含する、「【イスラム文化圏】」が成立しました。
また、公用語は以前として【アラビア】語でしたから、イスラム文化圏に参加する人々は、アラビア語を使う必要があります。その結果、現在でも北アフリカから西アジア一帯でアラビア語を使用しています。