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私大入試直前

2012年01月31日 | 何かの足しになれば

 大学受験は情報量が非常に多い。センターリサーチにしても、45万人以上の受験生が利用しているし、ベネッセの模試も40万人を越える受験生のデータを集めています。そのような大量の受験データが何年も積みあがられているのが大学受験です。そのデータを全受験生が見た、自分が受かる可能性がありそうな大学・学部を選んで受験してくるわけです。したがって、結論は「大学受験は同じくらいの実力がある受験生が受けている」ということです。つまり、自分がわからない問題が出ても、たぶんほとんどの受験生も分からないだろうということです。分からない問題は解けなくても合否に関係しません。

 では、合否は何で決まるでしょうか?それは、自分が分かる問題で得点できないと不合格になり、自分が解ける問題をしっかり得点できた受験生が合格するということです。
 分かる問題を確実に得点することが合否を左右するなら、これから残された時間で何を意識して勉強すべき画が明確になります。これから新しい知識をふやすより、今まで獲得した知識を確実にしていく。これが重要そうです。


中国税制史

2012年01月31日 | 高3用 授業内容をもう一度
 各時代の税制度はその社会のあり方とともに変化する。中国においても税制度は時代と共に大きく変容した。
 唐は【均田制】を隋から受け継ぎ,それに応じて【租庸調制】の税制をとった。しかし【安史の乱】後,【藩鎮】と呼ばれる【節度使】を主体とする軍閥が地方の財政権を握ったために,この制度は崩壊し,【780】年【徳宗】の宰相【楊炎】の進言による【両税法】が行われるようになった。これにより土地の私的所有が認められるようになった。両税法は【6月と11月】に【銅銭】で税を納める税制で、課税場所は戸籍地ではなく、【現住所】に課税された。農民はこの地税のほかに丁税(人頭税)を実際の労働で支払った。

 宋になり【文治主義】がとられたために軍事力が低下し,それへの対処のために国家財政の窮乏が深刻となった。【神宗】のとき宰相となった【王安石】が【新法】を採用した。自営農民や中小商工業者を保護して,財政の立て直しをしようとしたのである。中小商人に低金利で融資を行う【市易法】や農民への【青苗法】が取り入れられたが,歴史家でもある【司馬光】らの【旧法党】の反対に会い,十分な成果をあげることは出来なかった。

 元においては,華北では税糧と科差という新たな税制が施行されたが,江南では両税法が継続された。もともと遊牧民であるモンゴル人は農業の重要性を理解せず,農民に重税を科し,一方で乱脈な国費の支出によって財政は逼迫した。紙幣である【交鈔】の乱発によって切り抜けようとしたが,人々の暮らしは悪化する一方となった。元崩壊の直接的な原因となった【紅巾の乱】はこのような農民達の大反乱である。

 明の時代になり,朱元璋すなわち【洪武帝】は秩序の回復のために農民の連帯責任制度である【里甲制】を実施し,租税台帳である【賦役黄冊】と土地台帳である【魚鱗図冊】などを整備した。明は15世紀後半から【北虜南倭】に苦しんだ。しかし、16世紀後半になると、スペインの【アカプルコ貿易】に見られるような国際商業の活発化とともに【メキシコ銀】や【日本銀】が大量に流れ込み,税も地税と【丁税(人頭税)】を一括して銀で支払う【一条鞭法】に改革された。一条鞭法は【神宗万暦帝】のとき、【張居正】が実施した。【江南地方】から施行されたが、やがて中国全土に拡大された。
 
 これは清代に【雍正帝】のとき【地丁銀】へと変更されて,より簡略化されていった。


イスラム史 03年 関西学院大学

2012年01月31日 | 復習用入試問題
03年 関西学院大学 文,社会,法,経済,商,総合政策

 次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
 7世紀中頃からのアラブ軍の征服活動によって,(1)アフリカ北岸は徐々にアラブ化とイスラム化が進むことになった。アフリカ北岸の先住民の(2)ベルベル人は,イスラム勢力がさらにイベリア半島に進出するにあたって軍事的に大きな役割を果たしたが,一方でウマイヤ朝やアッバース朝などの中央の支配に抵抗する勢力と結びついて,反乱を繰り返した。
 9世紀以降,アッバース朝の衰退がはじまり,10世紀にはイスラム世界各地で地方政権の自立の傾向が顕著となった。チュニジアではベルベル人の支持をとりつけることに成功した(3)シーア派の一派が(4)ファーティマ朝を建国して,アッバース朝の領域に迫る勢いをみせた。ファーティマ朝が建設した新都カイロは,後継王朝のアイユーブ朝,(5)マムルーク朝時代を通じて,アッバース朝の首都バグダードにかわるイスラム世界の中心となっていった。
 イベリア半島におこった(6)後ウマイヤ朝はファーティマ朝とアフリカ北岸の領有を争ったが,文化や経済の面では東方イスラム世界との交流が盛んだった。イスラム世界からイベリア半島に導入された灌漑技術は農業の生産力を高め,都市の繁栄を支え,首都のコルドバは西方イスラム世界の政治・経済・文化の中心地となった。国内産業の振興に努めたアブド=アッラフマーン3世と息子のハカム2世の時代には,コルドバは人口50万を数える中世の大都市のひとつにまで成長した。
 11世紀になると(7)イベリア半島は群小諸王の時代となり,12世紀にはアフリカ北岸のベルベル系諸王朝の侵略を受けた。イベリア半島最後のムスリム王朝となったナスル朝は小国にすぎなかったが,1492年に滅びるまで北部の(8)キリスト教勢力に対する砦となり,(9)スペイン=イスラム文化の最後の花を咲かせた。(10)チュニジア生まれの高名な歴史家も,一時,ナスル朝に仕えている。
[問 い]
(1) 5世紀前半から6世紀前半にかけてこの地を支配していた国はどれか。
a.ヴァンダル王国 b.ブルグント王国
c.東ゴート王国 d.西ゴート王国
(2) ベルベル人がアフリカ北岸に建設した王朝はどれか。
a.パフレヴィー朝 b.ムワッヒド朝
c.トゥールーン朝 d.パーンディヤ朝
(3) この一派の呼称はどれか。
a.イスマーイール派 b.スンナ派
c.十二イマーム派 d.ザイド派
(4) ファーティマ朝と同時代のイラン系のシーア派王朝はどれか。
a.セルジューク朝 b.ブワイフ朝
c.ガズナ朝 d.サッファール朝
(5) マムルーク朝に関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.モンゴル軍のエジプト進出を阻止した。
b.十字軍に勝利し,イェルサレム王国を滅ぼした。
c.トルコ系の奴隷軍人サラディンが建設した王朝である。
d.アッバース朝のカリフをカイロに迎えた。
(6) 後ウマイヤ朝に関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.ウマイヤ朝の一族がアッバース朝の追手を逃れて建国した。
b.後ウマイヤ朝の君主がカリフと称したことで,イスラム世界には2人のカリフが並び立った。
c.西アフリカで産出される金が流入し,商業の発達を促進した。
d.後ウマイヤ朝後期の政治的混乱が,11世紀末のムラービト朝のイベリア半島への介入を招いた。
(7) イベリア半島にあったイスラム都市はどれか。
a.アヴィニョン b.セビリャ
c.マラケシュ d.セウタ
(8) イベリア半島のキリスト教国に関する記述で誤りを含まないものはどれか。
a.アラゴン王のフェルナンド2世がコルドバを占領して国土回復運動は完了した。
b.1236年にカスティリャがトレドを占領し,イスラム勢力は後退を余儀なくされた。
c.グラナダ陥落の年に,コロンブスがイザベルの援助を受けて航海に出発した。
d.ポルトガル王国はアラゴンから独立し,新航路の開拓に着手した。
(9) スペイン=イスラム文化に関する記述で誤りを含まないものはどれか。
a.イブン=ルシュドはソクラテスの注釈書を著わした。
b.コルドバのアルハンブラ宮殿は代表的なスペイン=イスラム建築である。
c.多くのアラビア語文献がギリシア語に翻訳され,ヨーロッパに伝えられた。
d.中国の製紙法が,イベリア半島を経由してイスラム世界からヨーロッパに伝えられた。
(10) この歴史家はだれか。
a.ラシード=ウッディーン b.イブン=ハルドゥーン
c.イブン=バットゥータ d.イブン=ファドラーン

正解
(1) a (2) b (3) a (4) b (5) c
(6) b (7) b (8) c (9) d (10) b


イスラム文化史 2003年 関西学院大学

2012年01月31日 | 復習用入試問題
03 関西学院大学 経済

 次の文中の   に最も適当な語を語群から選び,また下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
 イスラム文化の核となったのはイスラム教とアラビア語であるが,アラブ人のみならず,(1)ペルシア人をはじめとする(2)ムスリムの諸民族や,「啓典の民」と呼ばれたキリスト教徒・ユダヤ教徒などもその担い手として大きな貢献をした。このようにイスラム文化は,ヘレニズム文化やイラン文化などの伝統文化を受けつぎ,それに多様な要素がとけあった文化であった。アラビア語の言語学・修辞学や『コーラン』の解釈に関わる神学・法学・伝承学・歴史学などの学問分野をイスラム諸学(固有の学問)といい,このなかでも特に宗教諸学の専門家は (イ) と総称され,社会のエリートとして大きな影響力を持った。14世紀の旅行家 (ロ) は各地で学者と交流して学問研鑽を積み,裁判官を勤めながら諸国を探訪した。イスラム諸学に対して,哲学・医学・天文学・光学・地理学などの学問は,特に(3)アッバース朝のもとで,ギリシア語やサンスクリット語文献のアラビア語への翻訳を通じて広まったため,外来の学問と呼ばれる。天文学・光学および代数学などの発展には,(4)インド起源のアラビア数字やゼロの概念が欠かせない要因であった。哲学は (ハ) 哲学が主流をなし,この分野ではイラン系のイブン=シーナーとアラブ系の (ニ) がとりわけ貴重な貢献をなし,中世ヨーロッパのスコラ学,とりわけトマス=アクィナスの神学体系に大きな影響を与えた。この2人のイスラム哲学者は医者としても有名で,その医学書『医学典範』『医学大全』はラテン語などに翻訳されて,17世紀頃まで西ヨーロッパで医科大学の教科書として使われた。西ヨーロッパは12世紀以降に(5)イベリア半島経由のイスラム文化を受容することによって,はじめて本格的にギリシアの古典文献に接することになったのであり,また中国で開発された(6)製紙法・磁針・火薬などもイスラム世界で改良されてヨーロッパに伝えられたのである。
[語 群]
(イ) a.イマーム b.ウラマー
c.マワーリー d.スーフィー
(ロ) a.イブン=バットゥータ b.ラシード=ウッディーン
c.ムハンマド=アリー d.サーディー
(ハ) a.プラトン b.アリストテレス
c.ストア d.エピクロス
(ニ) a.オマル=ハイヤーム b.フィルドゥシー
c.イドリーシー d.イブン=ルシュド
[問 い]
(1) ササン朝ペルシアが,第2代正統カリフのイスラム軍に完敗し,まもなく滅亡することになった戦いはどれか。
a.トゥール―ポワティエ間の戦い b.パーニーパットの戦い
c.ニハーヴァンドの戦い d.マンジケルトの戦い
(2) トルコ系のセルジューク朝時代以降,イスラム世界に急速に普及したものはどれか。
a.マムルーク b.ザミンダーリー制
c.マドラサ d.ミニアチュール
(3) アッバース朝最盛期の第5代カリフで,『千夜一夜物語』の登場人物としてもしられ,学芸を奨励しイスラム文化の黄金時代を現出したのはだれか。
a.ムアーウィヤ b.ハールーン=アッラシード
c.マンスール d.サラディン
(4) 4世紀に北インドを統一し,インド古典文化の発達を促進した王朝はどれか。
a.クシャーナ朝 b.グプタ朝
c.マウリヤ朝 d.ヴァルダナ朝
(5) イベリア半島での最後のイスラム王朝はどれか。
a.ムラービト朝 b.ムワッヒド朝
c.ナスル朝 d.ガズナ朝
(6) 製紙法が唐代の中国からイスラム世界に伝えられるきっかけとなった戦いはどれか。
a.サルフの戦い b.タラス河畔の戦い
c.コソボの戦い d.ソンムの戦い
正解
(イ) b (ロ) a (ハ) b (ニ) d
(1) c (2) c (3) b (4) b
(5) c (6) b


イスラム史 東洋大学

2012年01月28日 | 復習用入試問題
次の文章を読み,後の問い(問1~13)に答えよ。東洋大学

 11世紀後半の西ヨーロッパでは,(1)修道院改革運動の精神を継承し教会改革に熱心なローマ教皇グレゴリウス7世と(2)神聖ローマ帝国皇帝の A との間に鋭い対立が起こった。聖職者叙任権闘争と呼ばれるこの争いは1122年の B による教皇権の拡大につながった。こうした教会と世俗権力との抗争のなかで,ローマ教皇ウルバヌス2世は聖地回復の戦いを起こすことをクレルモン教会会議で決議し,1096年西ヨーロッパの軍隊が突如,西アジアへ侵攻することになった。
 この時期の西アジアはイスラム教徒が支配していた。イスラム教は7世紀の前半,アラビア半島でムハンマドによって創始された宗教であるが,(3)正統カリフ時代を経てその勢力は拡大し, C を首都としたウマイア朝はイベリア半島に進出して D を倒し,さらにピレネー山脈を越えて西ヨーロッパにまで進出した。しかしウマイア朝は,その後アッバース朝の成立によりイベリア半島へ追われた。
 (4)アッバース朝は第2代カリフ E の時,ティグリス川中流域に首都バグダードを建設し,第5代カリフ,ハールーン=アッラシード時代には最盛期を迎えた。しかし,10世紀中葉になると実権はイラン系のブワイフ朝に奪われ,11世紀にはブワイフ朝を倒したトルコ系のセルジューク朝がバグダードに入城し,アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けて世俗の権力を掌握し,さらにアナトリアに進んでビザンツ軍を破った。こうしたセルジューク朝の拡大が十字軍遠征の契機となったのである。
 第1回十字軍は,イェルサレムを占領し(5)イェルサレム王国を初めとするキリスト教徒の封建国家を建設するなど一定の成果をあげたが, F に首都を置いた(6)ファーティマ朝の反撃にあい,さらにアイユーブ朝によってイェルサレムは再びイスラム勢力によって回復された。しかし,これとほぼ同時期にイスラム世界はモンゴルによる東からの侵略に直面し, G に率いられたモンゴル軍の攻撃によってアッバース朝はついに滅亡した。
 一方,十字軍遠征は宗教的情熱だけで行われたわけではなかった。第1回十字軍で建国された封建諸国家に見られるような領土獲得の欲望や,ヴェネツィア商人の要求に従った(7)第4回十字軍などは,経済的利害がこの軍事行動の背景にあったことを示している。ことに北イタリアの諸都市は東地中海の貿易に積極的に関与し,遠隔地商業の発展に寄与した。
問1 上記の文の空欄 A ~ G に入る最も適切なものを一つずつ選べ。
A � コンラート1世 � ハインリヒ4世
� ハインリヒ7世 � フリードリヒ1世
B � アウグスブルク和議 � カノッサの屈辱
� トリエント公会議 � ヴォルムス協約
C � カイロ � グラナダ � コルドバ � ダマスクス
D � 西ゴート王国 � 東ゴート王国
� ヴァンダル王国 � ランゴバルド王国
E � アブー=アルアッバース � アブド=アッラフマーン
� サラーフ=アッディーン � マンスール
F � アレクサンドリア � アレッポ
� カイロ � ダマスクス
G � グユク � バトゥ � フラグ � モンケ
問2 下線部(1)の運動と関係のない修道会はどれか。最も適切なものを一つ選べ。
� イエズス会 � シトー会
� フランチェスコ会 � ドミニコ会
問3 下線部(2)の帝国の起源となった事項は次のどれか。最も適切なものを一つ選べ。
� イスラムのウマイア朝を破ったシュタウフェン家のオットーは,帝冠を授けられた。
� 西フランクのユーグ=カペーが,マジャール人を撃退したことから帝冠を授けられた。
� ザクセン家のオットーはマジャール人を撃退したことなどから,帝冠を授けられた。
� メルセン条約でドイツ王となったザクセン家のカールが帝位についた。
問4 下線部(3)の時代の説明として最も適切なものを一つ選べ。
� イスラムの法律学者が征服地の統治に当り,軍営都市(ミスル)は統治拠点とならなかった。
� 総督(アミール)が征服地統治にあり,イラクのバスラなどの軍営都市が統治の拠点となった。
� ムハンマドの長男アリーの子孫だけがカリフと認められ,征服戦争を指導することができた。
� 東ゴート王国やビザンツ帝国などを滅ぼしたイスラム教徒の征服戦争はジハードと位置付けられた。
問5 下線部(4)の時代の特徴として,最も適切なものを一つ選べ。
� ムスリム(イスラム教徒)は,アラブ人・非アラブ人の区別なくジズヤが免除された。
� ムスリムであっても,アラブ人・非アラブ人の区別が厳格に設けられ,アラブ人にはジズヤが免除された。
� ムスリムの土地所有者はハラージュを免除される一方で,非アラブ人ムスリムも官僚に登用された。
� イラン出身のアッバース家にとって,シーア派の擁護がカリフとしての最も重要な職責であった。
問6 下線部(5)に該当しないものはどれか。最も適切なものを一つ選べ。
� アンティオキア公国 � エデッサ伯国
� トリポリ伯国 � ロンバルド王国
問7 下線部(6)の説明として最も適切なものを一つ選べ。
� 中央アジアのトルコ系の王朝であるファーティマ朝は,スンナ派を基盤としてエジプトを支配した。
� スンナ派を基盤とするファーティマ朝の君主は,ウマイア朝の権威を否定しスルタンを名乗った。
� ファーティマ朝はシーア派にもとづいた王朝で,チュニジアからエジプトヘと勢力を拡大した。
� マムルーク朝の君主を倒してエジプトの支配権を獲得したのがファーティマ朝である。
問8 下線(7)の遠征の結果,建国されたのはどれか,最も適切なものを一つ選べ。
� ラテン帝国 � ニケーア帝国 � キプロス王国 � グルジア王国
問9 イスラムの文化に関する次の文のなかで誤っているものを一つ選べ。
� 『コーラン』の解釈にかかわる神学,法学などイスラム諸学を修めたものはウラマーと称された。
� テュニス生まれのイブン=ハルドゥーンは,『歴史(世界史)序説』において定着民と遊牧民の関係を中心に歴史発展の法則性を論じた。
� ギリシア語文献のアラビア語訳からはじまった「外来の学問」は,アリストテレス哲学の研究ではイブン=シーナーなど優れた学者を輩出した。
� エジプト生まれのイブン=バットゥータの『四大陸周遊記』は10世紀半ばに書かれたものである。
問10 イスラム世界におけるイクター制の説明として,最も適切なものを一つ選べ。
� イクター制は土地の徴税権を軍人に与え,農民や都市民から徴税するものである。
� ブワイフ朝によって導入されたイクター制は,カリフに替わり大アミールが地方の統治をおこなう制度である。
� イクター制はセルジューク朝によって初めて導入されたが,その普及はエジプトのイスラム世界に限定された。
� 後ウマイア朝では,イクター制によって軍人は現金による俸給を保証された。
問11 次のA~Dは,モンゴル勢力の拡大に関する事件である。年代順に適切に並んでいるものを一つ選べ。
A リーグニッツ(ワールシュタット)の戦い B 南宋の滅亡
C 元朝の成立 D アッバース朝の滅亡
� A-B-D-C � A-D-C-B
� B-D-A-C � D-B-A-C
問12 中世から近世にかけてのヨーロッパ都市に関して,次の問に答えよ。
ヨーロッパ中世都市について次の説明のうち,最も適切なものを一つ選べ。
� 11~12世紀以来,北イタリアやドイツでは皇帝や国王から特許状を得て自治都市化した。
� ドイツと異なりイギリスの有力都市は皇帝直属の自由都市として諸侯と同じ地位を得た。
� 南フランスを中心とする諸都市は,リヨンを盟主としてハンザ同盟を結成した。
� 南ドイツ諸都市はハンブルクを盟主としてロンバルディア同盟を結成した。

正解
問1 A � B � C � D �
E � F � G �
問2 � 問3 � 問4 � 問5 � 問6 �
問7 � 問8 � 問9 � 問10 � 問11 �
問12 � 問13 1 � 2 �

大学入試問題 国際経済史 2011慶應大学経済

2012年01月21日 | 復習用入試問題
(2) 第二次世界大戦後の国際経済の復興・発展のための機構として国際通貨基金がある。発足当初の国際通貨基金を説明した次の文章中の下線部1~5の中から,誤っているものを1つ選びなさい。

 国際通貨基金は,1ブレトン=ウッズ会議により設立が決まった機構である。この制度によって,アメリカのドルは2金1オンス=35ドルの割合で金と結びつけられ,アメリカ以外の加盟国はアメリカに3ドルと金との交換を要求できた。また,各加盟国は4自国通貨の為替相場を固定する義務や5関税を引き下げる努力をする義務を負った。


正解 5

大学入試問題 国際経済史 2005 早稲田大学 商学部

2012年01月21日 | 復習用入試問題
次の文章を読み,空欄1~13は,所定欄に適切な語句・数字を記入せよ。下線部14は,その内容と意義について100字以内で説明せよ。なお,句読点・算用数字も1字と数える。2005 早稲田大学

 アメリカの国際収支は,1958年以来赤字を続けていたが, 1 戦争での軍事費の増加が重圧となり,ドルの信用が大きく低下した。その結果,1968年にはアメリカは金二重価格制を採用した。さらに, 2 年には 3 大統領が,ドルの金兌換停止,ドルの 4 を発表した。これは,一般的にはドル=ショック(ドル危機)と呼ばれており,14ブレトン=ウッズ体制が崩壊したことを意味する。
 この背景には,当時ECと日本が経済力を増し,世界経済の機軸に成長する一方,アメリカ合衆国の経済が以前の力を失い,単独ではもはや世界経済を支えることができなくなったことがある。これにより,戦後の国際経済・金融体制の基盤は大きくかわらざるをえなくなった。
 また,他の先進工業国でも,経済成長の鈍化,インフレの進行,多国籍企業の問題などがあらわれたため,1975年,開催国である 5 の提唱により, 6 が開かれ,以後毎年経済政策の相互協力と調整を協議している。この会議は,アメリカ・日本・ドイツ・イギリス・フランス・ 7 ・カナダで構成されていたが,1997年には 8 も加えられた。こうして世界経済は,1970年代以降米・欧・日を中心とする3極の構造が形成されるようになった。
 アメリカの貿易赤字が拡大し,債務国へ転落したことを救うために,1985年9月先進5カ国の蔵相と 9 がニューヨークのプラザホテルに集まり,各国の協力でドル安政策を進めることになった,いわゆる 10 が結ばれた。しかし,アメリカの貿易赤字は解消されなかった。
 一方,1947年10月,関税その他の貿易障壁を取り除き,自由で平等な国際貿易を促すことを目的として,23カ国が調印した 11 によって,戦後の貿易の自由化が促進されてきた。しかし,南北の経済格差の問題が大きくなるにつれて,1964年発展途上国71カ国グループは 12 設立によって,南北間での経済問題の話し合いを促そうとした。貿易自由化の問題については,サービス貿易や知的所有権などに関しても監視の対象となる国際機関として 13 が1995年に発足した。

【解答3】2005 早稲田大学 2/22,本学 商学部
1 ヴェトナム 2 1971 3 ニクソン
4 切り下げ 5 フランス
6 サミット [先進国首脳会議] 7 イタリア 8 ロシア
9 中央銀行総裁 10 プラザ合意
11 関税および貿易に関する一般協定 [GATT]
12 国連貿易開発会議 [UNCTAD] 13 世界貿易機関 [WTO]
14 1944年金1オンスを35ドルと定め、ドルを基軸通貨とする固定相場制を採用した。これにより各国通貨の安定を目指した。また、45年IMFと世界銀行を設立することで、各国経済の安定を図った。

大学入試問題 国際経済史 2005 明治大学

2012年01月21日 | 復習用入試問題
次の文章を読み,下記の問に答えなさい。2005 明治大学

 第二次世界大戦中の1941年8月,(ア)フランクリン=ローズヴェルトとチャーチルが会談し,領土の不拡大・民族自決・通商の自由・社会保障の充実・すべての国家の安全と自立の保障・海洋の自由・平和機構の再建・軍備縮小などを内容とする ① を発表した。これは,ファシズム打倒という共通の戦争目的を明らかにするとともに,戦後の世界平和構想を示すものであった。
 1944年7月には,連合国側44カ国の参加のもとに,ニューハンプシャー州北部 ② で開催された会議において,国際通貨基金(IMF)や国際復興開発銀行(IBRD)を発足させることなどが決定された。両者の組織は,翌年末に設立されることになるが,その基本的な考え方は,通商の自由の進展と国際経済の安定が,戦後の恒久平和の確保につながるというものであった。両者の組織の樹立とともに,(イ)アメリカ=ドルを基軸とする固定為替相場制がとられることになり,このような国際通貨体制は ② 体制と呼ばれる。また,1948年には,関税と貿易に関する一般協定(GATT)が発足した。これは,関税その他の貿易障壁を軽減し,通商の差別待遇を廃止することによって各国経済の発展を期することを目的とした。しかし,その後,先進国主導型のGATT体制は,発展途上国からの不満を招き,(ウ)1960年代にその是正が試みられ,1995年には,GATTにかわる ③ が設立された。
 1944年8月から10月には,ワシントン郊外で, ④ 会議と呼ばれる,(エ)4大国の代表者による会議が開催され,そこで国連憲章の原案が作成され,翌年のサンフランシスコ会議において,連合国50カ国の代表により国連憲章が採択された。国連憲章に基づき発足した国際連合は,国際平和機構であり,国際平和と安全を維持し,経済・社会・文化面での国際協力を推進し,基本的人権と自由を擁護するとともに,紛争の原因を取り除くことなどを目的とするものである。国際連合は,加盟国全部で構成される総会の決定によって運営され,5大国を常任理事国とする安全保障理事会を設けて,国際平和を維持する仕組みがとられている。安全保障理事会は,国際間の紛争や国際平和を危うくするおそれのある事態に対して,その解決のために必要な経済的・外交的・軍事的制裁を行う権限を有するものとされ,前身である(オ)国際連盟におけるよりも権限強化がはかられるとともに,これを構成する5常任理事国には ⑤ が与えられていることが特徴的である。このことは,その後,米ソ両国の対立が深刻化するにつれて,国際連合が機能不全に陥る原因となっていく。冷戦の時代には, ⑤ の濫用が問題となったことも少なくない。国際連合発足当初,安全保障理事会の非常任理事国は6カ国であったが,その後アジア・アフリカ諸国などの要求によって10カ国になった。国際平和・安全を維持するために,安全保障理事会の構成国およびその数をめぐって,様々な議論や検討が展開されている。

問1 文中の空欄①~⑤のそれぞれにもっとも適切と思われる語句を解答欄に記入しなさい。

問2 文中の下線部(ア)~(エ)に関して,下記の問(ア)~(エ)に答えなさい。解答は解答欄に記入しなさい。
(ア) フランクリン=ローズヴェルトは,恐慌下の経済を立て直す積極的政策と並行して,中南米諸国に対して友好的な外交政策をとった。この外交政策を何というか。
(イ) 固定為替相場制は,その後維持できなくなり,この体制が崩壊することになるが,その原因となったドルの金兌換停止を発表したアメリカ大統領は誰か。
(ウ) 1960年頃から,アフリカ諸国では,先進国が発展途上国を経済的に従属させる関係を意味する言葉が用いられるようになった。政治力・軍事力による支配ではなく,経済援助などを通じて実質的に支配維持をはかろうとするもので,非同盟諸国首脳会議において打破されるべき対象とされた主義を何というか。
(エ) この4大国は,設立された国際連合の安全保障理事会の常任理事国となる。常任理事国であるが,この会議には参加していなかった国はどこか。

問3 文中の下線部(オ)の国際連盟は,連盟の提唱国であるアメリカが参加しなかったことがその意義を低下させた大きな理由となった。連盟不参加の理由となったアメリカの孤立主義とはどのような内容か。25字以内で解答欄に記入しなさい。


【解答2】2005 明治大学 2/14,本学 法学部
問1 ① 大西洋憲章 ② ブレトン=ウッズ
③ 世界貿易機関 [WTO] ④ ダンバートン=オークス
⑤ 拒否権

大学入試問題 国際経済史2009 南山大学

2012年01月21日 | 復習用入試問題
(45) 第二次世界大戦後の国際経済に関する以下の記述の下線部のうち,誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びなさい。

 1944年7月に連合国代表がブレトン=ウッズ会議(ア)で合意した国際通貨基金と国際復興開発銀行(イ)は,1945年12月に発足した。しかし,この国際経済体制は基軸通貨ドルに支えられていたため,1971年のドル=ショック(ウ)により転換点をむかえた。他方,1947年に調印された関税および貿易に関する一般協定(GATT)(エ)は1990年代にその役割を終え,新たに世界貿易機関(WTO)が成立した。


【解答1】(45) (オ)

ウマイヤ朝の成立からアッバース朝の成立まで

2012年01月21日 | トリオDE世界史
(1)ウマイヤ朝成立 �創始者�成立年�都
�ムアーウィア
�661年
�ダマスクス
(2)ウマイヤ朝カリフ3人
�ムアーウィア
�アルマリク
�ワリード1世
(3)ウマイヤ朝の特徴 �公用語�特徴�領域
�アラビア語
�アラブ帝国
�最大版図
(4)ウマイヤ朝の制度 �地租�人頭税�俸給制度
�ハラージュ
�ジズヤ
�アター制
(5)アラブ帝国 �アラブ人の特権�マワーリーの税�異教徒の税
�ハラージュを免税
�ジズヤは免税・ハラージュは納税義務
�ジズヤ・ハラージュともに納税義務
(6)ワリード1世 �業績�西方への拡大�東方への拡大
�大征服活動により最大版図を現出
�イベリア半島の西ゴート王国を征服
�インダス河流域まで支配
(7)イベリア半島への拡大 �征服した王国�その王国の都�征服した年
�西ゴート王国
�トレド
�711年
(8)ウマイヤ朝の重要年 �建国年�イベリア半島征服�トゥール・ポワティエ間の戦い
�661年
�711年
�732年
(9)トゥール・ポワティエ間の戦い �年�キリスト教指導者�その立場
�732年
�カール=マルテル
�フランク王国宮宰
(10)アッバース朝成立 �建国年�中心民族・中心勢力�意義
�750年
�イラン人・シーア派
�アッバース革命
(11)後ウマイヤ朝 �建国者�建国年�地位
�アブド=アッラフマーン1世
�756年
�アミール(太守)
(12)タラス河畔の戦い �年�対戦国�文化的意義
�751年
�アッバース朝勝利・唐敗北
�製紙技術の西伝

板書(35)イスラムの成立から正統カリフ時代

2012年01月19日 | トリオDE世界史
(1)6世紀後半シリアの抗争 �東ローマ皇帝�ササン朝皇帝�東ローマ皇帝
�ユスティニアヌス
�ホスロー1世
�ヘラクレイオス1世
(2)ユスティニアヌス帝の業績3つ
�イタリア支配(555年東ゴート王国征服)
�北アフリカ支配(ヴァンダル王国征服)
�ローマ法大全の編集
(3)ホスロー1世 �ライバル�同盟国�挟撃した中央アジア
�ユスティニアヌス帝
�建国間もない突厥
�エフタル
(4)ヘラクレイオス1世 �行政組織�兵制�征服地
�テマ(軍間区)制
�屯田兵制
�シリア
(5)イスラム教の成立 �創始者�創始年�場所
�ムハンマド
�610年
�メッカ
(6)ムハンマドの年代 �イスラム教創始年�ヒジュラ�半島統一の年
�610年
�622年
�632年
(7)イスラム教 �唯一神�マホメット�経典
�アラー
�最後にして最大の預言者
�コーラン
(8)イスラム教重要語 �教団�聖遷�聖戦
�ウンマ
�ヒジュラ
�ジハード
(9)マホメット �出身一族�妻�娘
�クライシュ族ハーシム家
�ハディージャ
�ファーティマ
(10)アラビア半島 �民族�最大のオアシス�隊商
�アラブ人
�メッカ
�ベドウィン
(11)ヒジュラ �年�内容�状況
�622年
�メッカからメディナ(旧名ヤスリブ)に移住
�メディナは社会的に混乱していた
(12)正統カリフ �初代�2代目�4代目
�アブー=バクル
�ウマル
�アリー
(13)カリフ �意味�初代カリフ�カリフ制廃止年
�預言者ムハンマドの代理人
�アブー=バクル
�1924年
(14)ウマルの征服地3つ
�西アジア(ササン朝ペルシア滅亡)
�エジプト(東ローマ帝国から)
�シリア(東ローマ帝国から)
(15)ササン朝ペルシアの滅亡 �戦い�そのときのカリフ�滅亡年
�642年ネハーヴァントの戦い
�ウマル
�651年
(16)ウマルの業績 �兵士への俸給制度�太陰暦制定�聖戦
�アター制
�ヒジュラ暦
�ジハード
(17)アリー �ムハンマドとの関係�出身�アリーの一派
�ムハンマドの娘婿(妻はファーティマ)
�ハーシム家
�シーア派










ササン朝ペルシアとローマ帝国の関係

2012年01月19日 | 高3用 授業内容をもう一度
 紀元前【3】世紀から紀元後【3】世紀までイランを支配した【パルティア】は、【アルサケス】が建国した。彼の名からパルティアを中国では「【】安息」と呼んでいる。パルティアはローマと【シリア】を巡って対立し、【第1回三頭政治】の【クラッスス】を戦死させた。
 一方、ヘレニズム国家であるギリシア系の【セレウコス朝シリア】は、パルティアに帝国の東方地域を奪われたが、シリアの【セレウキア】に遷都しつつ延命していたが、第1回三頭政治の【ポンペイウス】によって前【64】年に滅ぼされた。
 次いで【226】年に【アルデシール1世】が建国した【ササン朝ペルシア】は、第2代【シャープール1世】のとき最初の全盛期を迎えた。260年【エディッサ】の戦いでは、軍人皇帝時代で内乱状態にあったローマ帝国の軍人皇帝【ヴァレリアヌス帝】を捕虜にしている。
 ローマは【395】年東西ローマに分裂。東ローマ帝国は6世紀【ユスティニアヌス帝】の時全盛期を迎えた。これに対抗したのが、ササン朝ペルシア第2期全盛期を現出した【ホスロー1世】で、シリアを巡る争奪戦を繰り広げた。