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モンゴル帝国は終わらない

2014年12月04日 | 高2用 授業内容をもう一度

1206年チンギス=ハンの即位で始まった13世紀は、「モンゴルの世紀」です。モンゴル帝国は第5代フビライ=ハンの即位に反対するハイドゥの乱で分裂し、14世紀は各ハン国がそれぞれ全盛期を迎えました。しかし、14世紀後半から新しい時代が始まります。つまり、1370年中央アジアの西トルキスタンにあった西チャガタイ=ハン国から登場したティムールは、都をサマルカンドに置いてシルクロード上にある商業都市を支配し、イル=ハン国衰退後のイラン・イラクに侵入しました。そこで1402年小アジアからバルカン半島に拡大していたオスマン帝国とぶつかります。この1402年アンカラの戦いでティムールは、オスマン帝国のバヤジット1世を破り捕虜にしました。勢いに乗ったティムールは、モンゴル帝国の中心だった元を倒した明を討つべく、中国遠征に出発しましたが、残念ながらその遠征中に病死しました。ティムールは「歴史上最高の将軍」といわれています。また、「チンギス=ハンは壊したが、ティムールは作った」という言葉があります。これはティムールがシルクロード上で活動する商業民を保護し、都市文明を築いたことを意味しています。

 ティムール死後、その子シャー=ルフの時にティムール帝国(ティムールが作った帝国)は全盛期を迎えました。都はヘラートに移しましたが、サマルカンドを中心とする勢力とヘラートに中心を億勢力とで対立し、やがて帝国は衰退していき、中央アジアをウズベク族に奪われて1500年に滅亡しました。

 しかしティムール直系の王族の一人であるバーブルは、アフガニスタンを経てきたインドに入り、1526年パーニパットの戦いでデリー=スルタン朝最後の王朝ロディー朝を倒してムガル帝国を建国した。この「ムガル」とはペルシア語でモンゴル人を意味します。まさに、モンゴル帝国は13世紀にはじまり、1857年まで続いたといえます。

 


自分という人間はどのようであるかを知ること

2014年12月04日 | 何かの足しになれば
 試験を前にして眠れない自分がいる。部活で大きな大会の前日に目がさえてしまう自分がいる。このように、自分が置かれた「危機」を前に、自分とはどのような人間であるかを知っておくことは、普段の自分の生活態度や考え方を変えるきっかけになる。そして、次に似たような状況に置かれたときには、それを乗り越えることができるようになっていく。いまは、自分ってこんな感じになるんだ!という気づきが財産になることを知るべき。とくに私立文系にとってセンター試験を受験する意味はこんなところにもある。

勝者の展開

2014年12月04日 | 何かの足しになれば

 勝負事に接したときに人はよい結果を得るために準備をします。勝負の時期がまだ先の場合はPDCAなどの方法で、計画・実行・検証・行動に取り組む事とよいとされています。
 しかし、勝負の直前になった場合はどうでしょう。まだやり残した事が山積していることが多いことがよくあることですし、それが普通だと思います。このとき、勝者の展開と敗者の展開が存在するように思います。
 勝者になれる者は、やるべきことを明確にして、そこにのみ焦点を当てることができたものたちです。やりたい事は山ほどあっても、時間と能力を分散する事は賢明ではないからです。
 勝負の直前期に入ったら「薄く・広く」ではなく、「自信を持ってできると言い切れること」を1つずつ積み上げていくだけでよいのです。


1898年戊戌の変法と戊戌の政変

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1895】年の三国干渉後,欧米列強の中国進出が本格化した。【1898】年にはドイツが【膠州湾】を租借し,ロシアは【遼東半島】の南部の【旅順・大連】を,イギリスは山東省の【】威海衛に加え香港対岸の【九竜半島】を租借した。その一方で、1898年の【米西戦争】で【フィリピン】と【グアム島】を獲得したアメリカ合衆国は,中国進出の遅れから、国務長官【ジョン=ヘイ】の名で中国の【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】を提唱した。
 日清戦争の敗北を教訓とした知識人のうち,【公羊学派】の【康有為】が中心となって,皇帝【光緒帝】を擁して,日本の近代化政策を参考に【戊戌の変法】をおこした。洋務運動は【中体西用】をスローガンに、中国的価値観を残したまま、近代西洋文明を導入して近代的軍隊の創設を狙ったが、日清戦争でその限界がはっきりした。そこで変法運動は、【変法自強】をスローガンに、【明治維新】をモデルにした立憲君主制への移行まで踏み込む改革を目指した。
しかし,宮廷内保守派の【西太后】らは北洋軍の全権を握る【袁世凱】を味方に付け、この運動に対して転覆を図り、【光緒帝】を幽閉したばかりか、運動を指導した康有為や,そのもとで活躍した【梁啓超】らを失脚に追い込んだ。この宮廷クーデタを【戊戌の政変】という。


中国反乱の歴史 

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

中国の農民反乱は,その規模の大きさ,数の多さ,かつ王朝の交替に絡むことで,よく知られている。しかし,農民反乱は,歴代王朝の側からみれば,謀反であり,犯罪であり,反乱者は匪賊であり,罪人であった。中華人民共和国成立後,そのような歴史評価は大きく変わることになる。農民反乱は中国革命の源流をなすものとして積極的に評価されることになった。
 歴代農民反乱の最初は,秦末の【陳勝・呉広の乱】である。陳勝と呉広は北辺を守る兵士として徴発されたが,期間内に目的地に到着できず,斬罪にとわれるところであった。二人はやむをえず,同行の兵士とともに挙兵し,国号を張楚とした。小さな反乱者の集団にすぎなかったが,秦の圧政下にあった農民の支持を得て勢力が急速に拡大し,全国的な反乱を呼び起こすことになった。中国最初の統一王朝である秦の命運を決定づけた陳勝・呉広の蜂起であったが,この反乱の時代を勝ち残ったのは,【楚】の項羽と漢の劉邦であった。両者の争いは,劉邦の勝利に終わり,漢王朝が創立される。
 漢は前漢と後漢に分れる。前漢は紀元後8年,王莽によって簒奪される。だが王莽の新も,また緑林・銅馬・【赤眉の乱】などの反乱に悩まされ,その混乱の中,後漢にとって代わられる。後漢末,【太平道】の指導者【張角】が衆を率いて蜂起し,華北一帯に広がる大規模な農民反乱となった。曹操・劉備・孫堅など後漢末の群雄は,【黄巾の乱】を平定するために朝廷の呼びかけに応じてはせ参じたつわものたちであった。
 三国時代,五胡十六国時代,南北朝時代など,長い分裂期を経て,【589】年,隋の統一が実現する。この長い分裂期に,仏教が広がり,それに刺激されて道教がかたちづくられた。その頃より,農民反乱には仏教と道教という二つの宗教の影響を受けるものが現れる。
 隋唐の交替期もまた群雄が覇を競う時代であった。群雄を抑え,新しい王朝を樹立したのは唐の李淵と,その子李世民であった。【755】年,唐の最盛期に起きた【安禄山・史思明の乱】も大きな混乱をもたらしたが,農民反乱としての性格は薄い。安禄山は【ソグド】系の出身であり,北辺を守る節度使であった。唐最大の農民反乱は,唐末の【黄巣の乱】である。乱は約10年続き,その流寇的性格から影響は広い範囲に及んだ。反乱軍の一部将であった【朱全忠】は,唐に降り,黄巣の乱の鎮圧に功をたてたが,【907】年,唐を滅ぼし,【後梁】を建てた。
 宋は【契丹】・女真・タンダートなど北方や西方の民族に圧され,ついに南遷を強いられることになる。だが,南宋もまたモンゴル人の元によって滅ぼされる。元末,弥勒下生を信仰する【白蓮教徒の乱】が起こり,モンゴルの中国支配に終止符を打った。この反乱は,【紅巾の乱】とも呼ばれる。明を創立した朱元璋は,もと紅巾軍の指導者の一人であった。
 明代・清代には,華北から華中にかけ白蓮教系結社の反乱が続いた。また,清代初期以降,反清復明を掲げる秘密結社,地会が華南・長江流域を中心に勢力を伸ばし,反清活動を続けた。白蓮教系・天地会系の諸結社の活動により,多数の蜂起が生じた。
 明末の【李自成の乱】は,陝西から起こり,流賊として勢力を拡大し,【1644】年,首都北京の攻略に成功する。皇帝【崇禎帝】は追いつめられて自殺する。だが,山海関に拠り,清軍に対峙していた明の守将【呉三桂】らは,清軍に投降し,山海関を開き,清軍を関内に招き入れた。清軍は大挙して南下し,李自成軍を北京から追い,農民軍を敗走させ,たちまちのうちに全土を平定した。
 清朝三代の治と呼ばれる【康熙】・【雍正】・【乾隆】の治世の直後,白蓮教徒の大反乱が起こる。8年に及ぶ反乱は,最盛期の清朝を震撼させ,清朝衰退の原因の一つとなった。アヘン戦争後,華南に起こった【太平天国の反乱】は,江南を席巻する。太平天国軍は【南京】を攻略し,そこを首都とした。一時,清朝をも転覆させる勢いをみせた太平天国軍は,内紛および清朝の反撃によって勢力を失う。ほぼ同じ時期,長江以北では【捻軍】の活動が続き,清朝の支配を動揺させた。
 清末の【義和団】は,【扶清滅洋】を掲げているという点において,これまでの反乱軍とは異なっている。反乱の矛先が,むしろ中国侵出を強めていた帝国主義列強に向けられていたからである。義和団運動は,1900年,【日・露】など八カ国共同出兵によって鎮圧される。帝国主義時代の到来により,世界市場の枠組に組み込まれつつあった中国において,それは一種,農民の伝統文化や生活をまもるという自衛の側面をもっていた。


第1次国共合作

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1924】年中国国民党第1回全国大会(これを一般に一全大会という)が【広州】で開催された。この一全大会では国民党と共産党(1921年結成)との協力関係について討議され、「【連ソ】・【容共】・【扶助工農】」のスローガンが決定。共産党員を【個人の資格】で中国国民党に入党させ(ただし、その逆はNG)、各地で勢力を張っている軍閥を打倒して中国を再統一するという共通の目的に向かうことになった。各地の軍閥を倒すために【広州】から華北に向かうことを「【北伐】」という。
 しかし、北伐に出発する前に、【1925】年3月【孫文】が「革命いまだならず」の言葉を残して、急死してしまった。孫文の後継者に成ったのは、【黄埔軍官学校】校長であった【蒋介石】である。蒋介石の妻宋美齢と孫文の妻宋慶齢は大財閥宋家の出身で、蒋介石は孫文の義理の弟にあたる。
 1926年5月、【上海】の日本人が経営する工場で、大規模な労働者ストライキが発生した。ストライキを辞めさせるために景観が発砲し多数の死者が出たため、各地に反日・反帝運動が発生した。これを「【5.30事件」】という。このストライキは組織的なもので【共産党】が関与していた。
 【1926】年7月いよいよ蒋介石を総司令官に国民革命軍が【北伐】を開始。広州から武漢を経て上海、南京を攻略した。しかし、上海攻略直前に北伐軍に呼応した労働者が共産党員とともに上海を自主解放して、上海臨時市政府を樹立し、自治組織を作ったいた。このことは労働運動に脅威を感じる財閥勢力や列強の脅威になったいた。
 【1927】年【4月12日】から13日、蒋介石は一部の国民党軍を使って【上海租界】から軍隊を出し、上海臨時市政府の軍隊を襲撃して数1000人を逮捕、数100人を殺害した。これを「【上海クーデタ】」という。蒋介石が浙江財閥や列強の要請を受けて共産党弾圧を開始したのである。共産党弾圧は各地の共産党支部にも波及したため、各地の共産党員は指導者の下に終結し、各地の山間部などに拠点(【】解放区)を築いて攻撃をしのいだ。
 一方、蒋介石は上海クーデタ後、4月18日に南京で「【南京国民政府】」を樹立。共産党勢力と共産党に味方する一部の国民党勢力を追放して、北伐を再開した。したがって、上海クーデタで第1次国共合作は解体した。


三国干渉と列強の中国侵略

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

 19世紀末の中国は,【日清戦争】の敗北によってその弱体ぶりが明らかになると,欧米に日本を加えた諸列強の利権争奪の舞台となった。利権の争奪は,【鉱山採掘権】や【鉄道敷設権】の獲得,【借款】の供与,【租借地】の獲得や勢力範囲の設定などの形で展開された。
【シベリア鉄道】の完成を間近にして南進の機会をねらっていた【ロシア】は,日本が【1895】年【下関条約】によって【遼東半島】を獲得すると,ロシアと同盟関係にあった【フランス】と中国分割への参入に野心を持つ【ドイツ】をさそって日本に干渉し,これを清に返還させた。【1895】年のこの出来事を【三国干渉】という。
ロシアはその代償として清から【東清鉄道】の敷設権を獲得し,その後,【遼東半島】南部の【旅順】と【大連】を租借した。ドイツは【山東半島】の【膠州湾】・【青島】を,フランスは【広州湾】を租借し,イギリスも【山東半島】の【威海衛】と香港島の対岸の【九竜半島】 (【新界】)を租借した。
【1861~65】年の【南北戦争】から国内問題に傾注し、中国分割におくれをとっていたアメリカは,【1898】年【米西戦争】の勝利によってアジア・太平洋地域にある【フィリピン】と【グアム島】を獲得し,中国市場への関心を高めていた。そのためアメリカは,【1899】年国務長官の【ジョン=ヘイ】の名で【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】の「【門戸開放宣言】」を提唱し,中国への進出に意欲を見せた。


ロシアと清の貿易

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1689】年の【ネルチンスク条約】以後、ロシア商人と清商人はクーロン(庫倫)などで無統制な交易を行っていた。しかし、交易の縮小を考える清は拡大を望むロシアが調整して【1727年】に【キャフタ条約】を結んだ。ロシアの【シベリア経営】にとって清からの食糧獲得は不可欠であった。シベリアの【毛皮】はパリなどで高値で売買された。


孫文の運動

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

  【孫文】は清朝の同治5(1866)年に広東省に生まれた。生家は裕福ではなく,14歳の時に,ハワイの兄のもとに身を寄せて教会学校に入学し,18歳で帰国した後は広州の博済医学校,西医書院に学び,27歳で卒業してマカオや広州で開業したが,救国の志を強くしたことから,革命運動に身を投じることになった。
日清戦争の開始とともに再び【ハワイ】に渡り,【1894】年【興中会】を組織し,翌年に帰国して蜂起をはかったが失敗して日本に亡命,さらにイギリスに滞在し,この時期に【民族・民権・民生】を説く「【三民主義】」の理論的基礎が築かれた。光緒23(1897)年から後は再び日本に滞在し,犬養毅や宮崎滔天らと交友し,義和団事件に際しては恵州での蜂起を画策したが,これも失敗に終わった。
  【1905】年【日露戦争】の戦勝で沸き立つ【東京】で、革命団体を集合させ【中国同盟会】を結成した。その基本方針は「【4大綱領】」で、【駆除韃虜】(満州人を追い出す)・【恢復中華】(中国人の中国を取り戻す)・【創立民国】(共和制樹立)・【平均地権】(大土地所有解体)をその内容とする。辛亥革命では中心的な役割を果たすにはいたらなかった。
  【1911】年11月11日、【辛亥革命】が勃発したのを受けて、遊説先のアメリカから急きょ帰国すると,【臨時大総統】に推挙され,【1912】年1月に【中華民国】を発足させたが,まもなく【袁世凱】にその座を奪われた。この経緯については孫文と袁世凱の間の密約が存在したとされる。【国民党】を組織して選挙に圧勝した【宋教仁】は、【共和党】を組織したものの敗北した【袁世凱】により暗殺され、以後、袁世凱による独裁化が進んでいった。これに対し孫文は第二革命の失敗から,三たび日本に亡命している。
 第一次世界大戦後の【パリ講和会議】で,「【21ヵ条要求】」の取り消しなどの提訴が列国によって認められなかったことから、【1919】年【北京大学学生】を中心に天安門広場などで【五・四運動】が起ると,孫文は【中華革命党】を【中国国民党】に改組し,大衆参加型の政党に改めた。さらに「【連ソ・容共・扶助工農】」を【国共合作】の基本方針として、【1924】年共産党員が【個人の資格で国民党に入党する】ことを認め,乱立状態にあった軍閥や帝国主義との対決姿勢を明確にした。そして第2次奉直戦争に呼応して【北伐】の敢行を宣言し,それに先だって北上したが,持病の悪化のため北京で死亡した。その遺骸は,1929年に南京に葬られた。


辛亥革命

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

 清朝政府は、【1905】年【科挙を廃止】し、【1908】年【憲法大綱】を制定して憲法を起草、さらに1916年に【国会開設】が公約した。また【1911】年には【軍機処】を廃止している。
 一方、洋務運動期から徐々に成長してきた民族資本家は、列強から鉄道を買い戻す運動を進めていた。これを【利権回復運動】という。しかし、清朝政府は【1911】年5月に近代化による財政難打開のため、彼らが買い戻していた【粤漢鉄道】や【川漢鉄道】を列強に売り渡す目的で、「【鉄道国有化宣言】」を出した。
  これに激怒した民族資本家を中心となって【1911】年【四川暴動】を起こし、さらに武昌総督【蔡元洪】が革命側に加わったことで、大規模な革命運動に発展した。これを【武昌起義】という。この辛亥革命はさらに中国各地の軍団も呼応して拡大したが、清朝軍を掌握している【袁世凱】は、清朝政府による鎮圧命令を無視して【宣統帝溥儀】に退位を迫ったため清朝は滅亡した。【1912】年1月【孫文】を【臨時大総統】とする【中華民国】の成立が宣言され、【南京】が首都とされた。
 このとき、孫文と袁世凱は裏取引を行っていた。袁世凱が革命派に加担して宣統帝に退位を迫るかわりに、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けるというもの。そのさい、袁世凱の本拠地である北京には遷都せず、革命勢力が多い南京を首都とすることが約束された。


中国近代史(戊戌変法~義和団事件)

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

日清戦争後、清朝政府の衰退と諸外国による勢力の拡大の中で,中国では,日本にならって【立憲君主政】を導入し,制度改革をはかろうとするグループが【光緒帝】の周辺に登場した。その中心となったのが,【公羊学】の【康有為】や【梁啓超】らの知識人であり,こうした制度改革の動きは,【1898】年に【変法自強】をスローガンとした【戊戌変法】となって表面化したが,清朝政府の実権を掌握した保守派の代表的人物である【西太后】らはこの動きを弾圧し、【戊戌政変】という宮廷クーデタを強行した。その結果、康有為は【日本】に亡命し、【光緒帝】は幽閉された。
 日清戦争さらに【三国干渉】後の列強による中国進出は、【山東半島】などに拡大していた。こうした中、キリスト教の宣教師は各地で布教を行っていたが,民衆の間では宣教師の活動への反感が強まり,【1898】年には【義和団】の【仇教運動】という反キリスト教の動きが表面化した。義和団の民衆は,【扶清滅洋】を唱えて【1900】年北京に進出し,列国の公使館地域を包囲した。民衆による【反帝国主義運動】である。保守派【西太后】の独裁政権が支配していた清朝もこの動きに応じて列国に宣戦したため,清朝政府も巻き込んだ戦争状態となった(【義和団事件】または【北清事変】ともいう)。 列国は【日本やロシア】を中心とする【8】カ国連合軍を組織してこれを鎮圧した。しかし、イギリスは【1899】年から始まっていた【南ア戦争】に関わっており、またアメリカも【フィリピン】の【アギナルド】が指した反米闘争の鎮圧に手を焼いていたため、中心的な役割を演じることはできなかった。結局、【1901】年に列強と清朝政府は【北京議定書】 (【辛丑条約】)を結び,多額の賠償金と外国軍隊の【北京への駐屯権】などを認めさせた。
 義和団事件の結果,中国に大量の軍隊を派遣したロシアと日本の対立が深まり,日本は,【1902】年【日英同盟】を結び,ロシアとの戦争にそなえ、【1904】年にはついに戦争となった。日露戦争は,アメリカ大統領【Tローズベルト】の仲介によってかろうじて日本の勝利となり,講和条約としてアメリカで締結された【ポーツマス条約】によって【朝鮮における日本の優越権】や,【旅順・大連の租借権】,【南サハリンの割譲】,【長春・旅順】間を結ぶ【南満州(満州)鉄道】の経営権の譲渡などが締結された。


明・清全盛期

2014年12月04日 | 年代暗記法

(1)1368年 明建国・・・勇むや明の朱元璋
(2)1402年 永楽帝・・・人知れず永楽帝
(3)1449年 土木の変・・・石ひく土木の変
(4)1592年 壬申・丁酉の倭乱・・・異国に攻め入る豊臣秀吉
(5)1616年 後金建国・・・ドロドロ、ヌルハチ、後金建国
(6)1636年 後金が清に改称・・・疲労寒さシンシン
(7)1644年 明滅亡・清入関・・・色シンシン
(8)1661年 康熙帝即位・・・
(9)1673年 三藩の乱・・・色なさ過ぎる呉三桂
(10)1683年 清康熙帝が中国統一・・・むやみな抵(鄭)抗(功)、止め台湾
(11)1689年 ネルチンスク条約・・・色は黒き(黒竜江)ネルチンスク
(12)1727年 キャフタ条約・・・夏ならキャンプだ、キャフタ条約


アヘン戦争

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

中国の近代は,欧米列強が積極的なアジア進出を展開した19世紀半ばにはじまる。当時清朝では,【海禁】政策をとり外国貿易を【広州】1港に制限しつつ,【公行】 (特許商人の組合)所属の商人にだけ取引を許していた。
一方、産業革命の進んだイギリスは,綿糸・綿布など工業製品の中国への輸出をのぞみ,自由主義貿易にのりだした。イギリスは「【世界の工場】」と呼ばれ、圧倒的な公卿生産力を有していたため、競争相手が不在であった。
しかし、イギリスと清朝との貿易関係は【片貿易】であったため、中国から購入する【茶】の代金支払によってイギリスから銀が大量に流出するというイギリスにとっての貿易赤字の状態であった。そのため、18世紀末ころ、清朝の【乾隆帝】の末期から,イギリスはインドに綿布を輸出する一方、銀にかえてインド産のアヘンを中国にもちこむようになっていた。これを【三角貿易】という。
 アヘンの輸入により,逆に激増する銀の流出とアヘンの害毒をふせぐため,清はしばしば禁令をだしていた。しかし実効がなかったので,ついに強硬処置をとり,【1840】年【欽差大臣】に就任した【林則徐】を広州に派遣して,イギリス商人所有のアヘンを没収して廃棄し,一般の通商をも禁じた。イギリスは外交,貿易上の問題を,武力で解決しようと,1840年遠征軍をおくり,【アヘン戦争】をおこした。
 清朝の伝統的な軍隊である【八旗】はこの戦争で機能することはなく、近代的軍備をもつイギリス軍がアヘン戦争に勝利して,【1842】年【南京条約】が結ばれた。ただし、イギリスの広州上陸に対して民衆の一部が【平英団】を組織して抵抗したことは、以後の反帝国主義運動の端緒と位置づけられる。
南京条約の結果、【上海】や【広州】を含む5港が開港され、【公行体制】は終焉を迎え、清朝の【海禁策】は放棄された。しかし、南京条約にはアヘン貿易に関する条項はなく、アヘン貿易が【黙認】されることになったが、イギリス産の綿布の輸出はイギリスの期待通りには増加しなかった。また、【香港島】がイギリスに割譲され、多額の賠償金支払いが義務付けられたものの、不平等条約ではなかった。
翌【43】年イギリスは【虎門塞追加条約】を広州で結び、清朝の【関税自主権】を奪う一方、清朝に【治外法権】を認めさせ、両国間で不平等条約が締結された。ついで【44】年には,中国でも市場拡大をのぞむアメリカは【望厦条約】を、フランスも【黄埔条約】を結んだ。


第2次アヘン戦争と太平天国

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

イギリスはさらに大きな利権を得ようと,たまたま【1856】年広州港でおこった【アロー号事件】を口実に,英仏連合して【第2次アヘン戦争】を起こした。フランスは【キリスト教宣教師殺害事件】を口実に戦端を開いている。いったん【1858】年【天津条約】が結ばれたが,清が条約の批准を拒絶して攻撃したため,英仏軍は60年【北京】に進撃した。その際、明代に【カスティリオーネ】の設計した【円明園】が消失している。まもなく敗れた清は同年【北京条約】を結んだ。
 この間、【南下政策】を展開していたロシアは19世紀中ごろから,清の弱体化に乗じて,ふたたび積極的な進出政策をとり,イギリスの中国進出と対立する関係にあった。これは20世紀初めまで英露両国は対立を続くことになる。
【1858】年ロシアは【アイグン条約】を清朝と結んで,【アムール川(黒竜江)】以北の地を獲得した。ついで英仏連合軍の北京入城のとき和議を仲介した代償として,【1860】年【北京条約】を結び,念願の【沿海州】を獲得し,太平洋進出の拠点とした。
 1796年から1804年の【白蓮教徒の乱】や,【1851】年から64年の【太平天国の乱】は,清の国力がおとろえたことを示している。太平天国軍の鎮圧に清朝政府の正規軍である【八旗】は役にたたず,【漢人官僚】の【曽国藩】や【李鴻章】が【郷勇】を組織して鎮圧にあたるとともに,イギリス人【ゴードン】らが西洋式に訓練した【常勝軍】をひきいて力を貸した。この教訓から,ヨーロッパの近代機械文明をとりいれる【洋務運動】がひろがっていった。


総理各国事務衙門と清末の対外関係

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1861】年,清朝は【総理各国事務衙門】という役所を設立した。外国に関する事務を統一管理する役所という意味であるが,【総理衙門】とも略称された。【雍正帝】の時代に設置された【軍機処】の分局という形でつくられ,数名から10名前後の侍郎(中央行政官庁の次官)以上の官僚によって構成された。
主席には皇族である【恭親王】をあてて合議制をとったが、専任のものはなく、実質的な権限は限られていた。外国との交渉を担当する外務省のようなものになった。専任の外交官がいなかったことは,諸外国にとっては不満であった。この不満は義和団事件の後に締結された北京議定書(辛丑条約)によって解決された。つまり,総理衙門はこの条約によって1901年に廃止され,あらたに外交部が設立された。このような総理衙門や外交部などの外国との交渉を担当する役所は,清朝政府が進んで設立したものではなく,外国からの圧力によってつくられたのであった。
 そもそも総理衙門のような役所が設立されたことは,ある意味で,中国の伝統的世界観を根本的に揺るがすものであった。伝統的世界観では,世界を秩序づけるものは【華夷の別】であり,中華が世界の中心であるとした。中華以外の世界-夷狄との交渉は夷務と呼ばれ,あるべき関係は【朝貢関係】とされた。したがって周辺諸国との交渉は礼部(中央行政官庁の一つで,儀礼,祭典,学事,考試を司った)が管轄し,場合によっては地方の役所がおこない,また、2代目【ホンタイジ】のときから同盟関係にある地域とは【理藩院】という役所が事務を処理した。ところがこの新しい役所は中華と夷狄とを区別して対処するのではなく,対等な関係を認めるという立場にたったのである。
 このような役所はすでに述べたように,清朝が積極的に設立しようとしたものではなく,「各国の事情に通じ,外国人にごまかされないため」というのがその設立理由であった。直接の背景は【1856】年に起こった【アロー号事件】であった。【1840~42】年の【アヘン戦争】後も中国との貿易や外交関係に満足しなかったイギリスは,【広州】の珠江で偶然おこった香港籍のロルチア船(西洋型の中国船)のアロー号が清朝官憲に捕獲された事件を口実に,懸案の中国問題を一挙に解決しようとはかった。清朝は先のアヘン戦争で締結した条約を永久条約と考え,イギリスはこれ以上要求してこないだろうと思っていた。しかしイギリスはこの年に広西省で起こった【フランス人宣教師】の殺害事件を解決しようとしていたフランスに共同出兵をもちかけ,事件に因んでアロー戦争とも呼ばれる【第二次アヘン戦争】が勃発した。英仏連合軍は広東を占領したのち北上し,白河を遡って【天津】に進駐した。清朝は敗北を認め,【1858】年に【天津条約】を締結した。しかし翌1859年に批准書の交換をもとめて【北京】に赴こうとした英仏両国公使は,「国書親呈」問題で入京を拒否され,戦闘が再開された。【1860】年,英仏両国の遠征軍は【北京】へ進駐し,【カスティリオーネ】が設計した【円明園】を焼き討ちして宝物を掠奪した。熱河に避難していた【咸豊帝】にかわって戦争の終結をはかった恭親王は不平等条約締結の役割を負わされた。19世紀末の中国は,【日清戦争】の敗北によってその弱体ぶりが明らかになると,欧米に日本を加えた諸列強の利権争奪の舞台となった。利権の争奪は,【鉱山採掘権】や【鉄道敷設権】の獲得,【借款】の供与,【租借地】の獲得や勢力範囲の設定などの形で展開された。
【シベリア鉄道】の完成を間近にして南進の機会をねらっていた【ロシア】は,日本が【1895】年【下関条約】によって【遼東半島】を獲得すると,ロシアと同盟関係にあった【フランス】と中国分割への参入に野心を持つ【ドイツ】をさそって日本に干渉し,これを清に返還させた。【1895】年のこの出来事を【三国干渉】という。
ロシアはその代償として清から【東清鉄道】の敷設権を獲得し,その後,【遼東半島】南部の【旅順】と【大連】を租借した。ドイツは【山東半島】の【膠州湾】・【青島】を,フランスは【広州湾】を租借し,イギリスも【山東半島】の【威海衛】と香港島の対岸の【九竜半島】 (【新界】)を租借した。
【1861~65】年の【南北戦争】から国内問題に傾注し、中国分割におくれをとっていたアメリカは,【1898】年【米西戦争】の勝利によってアジア・太平洋地域にある【フィリピン】と【グアム島】を獲得し,中国市場への関心を高めていた。そのためアメリカは,【1899】年国務長官の【ジョン=ヘイ】の名で【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】の「【門戸開放宣言】」を提唱し,中国への進出に意欲を見せた。

19世紀末の中国は,【日清戦争】の敗北によってその弱体ぶりが明らかになると,欧米に日本を加えた諸列強の利権争奪の舞台となった。利権の争奪は,【鉱山採掘権】や【鉄道敷設権】の獲得,【借款】の供与,【租借地】の獲得や勢力範囲の設定などの形で展開された。
【シベリア鉄道】の完成を間近にして南進の機会をねらっていた【ロシア】は,日本が【1895】年【下関条約】によって【遼東半島】を獲得すると,ロシアと同盟関係にあった【フランス】と中国分割への参入に野心を持つ【ドイツ】をさそって日本に干渉し,これを清に返還させた。【1895】年のこの出来事を【三国干渉】という。
ロシアはその代償として清から【東清鉄道】の敷設権を獲得し,その後,【遼東半島】南部の【旅順】と【大連】を租借した。ドイツは【山東半島】の【膠州湾】・【青島】を,フランスは【広州湾】を租借し,イギリスも【山東半島】の【威海衛】と香港島の対岸の【九竜半島】 (【新界】)を租借した。
【1861~65】年の【南北戦争】から国内問題に傾注し、中国分割におくれをとっていたアメリカは,【1898】年【米西戦争】の勝利によってアジア・太平洋地域にある【フィリピン】と【グアム島】を獲得し,中国市場への関心を高めていた。そのためアメリカは,【1899】年国務長官の【ジョン=ヘイ】の名で【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】の「【門戸開放宣言】」を提唱し,中国への進出に意欲を見せた。