タイムマネージメントの基本は、時間を「ある程度のかたまり」で考えることです。たとえば、日曜日の一日を大きく午前・午後・夜と分けてみる。もし、日曜日にはクラブの試合がある、というように、日曜日をたんに「1つのかたまり」としてとらえるだけでは見えてこない時間、を作ることができます。そこでできた時間をどう使うか?は次の問題として考えればよいでしょう。
とくに、【鉄製の農具】が広く使われたことや、【牛耕】が一般化したこと、また開墾が各地で行なわれたことなどにより、農業生産力が飛躍的に向上しました。その結果として、農産物の流通が起こり、商工業者の活躍も始まりました。各国は独自の【青銅貨幣】を発行して、銅銭による納税も始まりました。なかでも山東省にあった【斉】の都【臨淄】には多くの商工業者があつまり、大いに繁栄しました。
以上のことをすこし整理してみると、中国は、【黄河文明】の時代には新石器時代、【殷】では青銅器時代、【戦国時代】から鉄器時代になったといえます。
東周時代になると周の王室の威光は低下し、【覇者】と呼ばれる有力な諸侯が出現しました。代表的な覇者は【斉の桓公】や【晋の文公】です。覇者は名目的に周王室を守り立てて異民族に立ち向かおう、という姿勢、すなわち【尊皇攘夷】をとっていました。このように周王室の権威がまだわずかながらも残っている時代を【春秋時代】といます。この「春秋」という語は、【孔子】の著作『春秋』からとって名づけられています。
しかし、【前403】年に大国の【晋】が【趙・魏・韓】の3国に分裂したことに象徴されるように、宗法はまったく乱れた時代に移っていきました。前403年から秦の始皇帝による中国統一の【前221】年の時代を【戦国時代】といいます。
すなわち、【東周】の時代は前半を【春秋時代】、後半の前403年からを【戦国時代】に分けられているわけです。
春秋時代は周王室を尊重し異民族を退けるという風潮(【尊皇攘夷】)があった時代で、有力者は「【覇者】」と呼ばれた。しかし、前403年に【晋】が【韓・魏・趙】の3国に分裂すると、このような風潮は失われ、有力者は周王室を無視して「王」の称号を用い、7ケ国それぞれが【富国強兵】策を行って乱立する時代になった。これらを「【戦国の七雄】」とよぶ。
しかし、分家は本家の言うことに従わねばなれないとか、本家は分家よりも偉いとか、いった社会が認める守られるべきルールが存在しなければ意味がありません。この社会が守るべきルールのことを【宗法】といいました。
このような血縁関係による主従関係は、周王室と諸侯の間だけではなく、諸侯とその家来との間にも存在します。諸侯の家来たちを【卿・大夫・士】といいました。
長江文明のうち【河姆渡】遺跡は長江下流域のものです。また、【竜馬古城】遺跡は長江中流域の遺跡です。ただし、これらの遺跡を残した人々と黄河文明の人々との関連性はまだわかっていません。
少し時代が下がると、黄河文明は黄河下流域の【山東】省周辺にまで広がっていきました。紀元前3000年ころの遺跡が【城子崖】で発見されています。灰陶で作られた足が3本ついている【三足土器】が多く見られ、灰陶よりも高度な技術で作られている【黒陶】も使用されていました。ころころになると【牛や馬】の家畜化も行われていたことが解っています。また、人々は【邑】という都市国家を作っていました。
しかし、19世紀の終わり、竜の骨が漢方薬屋で売られていました。この骨に文字が刻まれていることに気がついた【王懿栄】は、早速その骨の入手場所を見つけ、これが古代の文字であることを発見しました。【亀の甲羅】や【鹿の骨】などに刻まれているので、この文字を【甲骨文字】と呼びます。甲骨文字を解読したのは【王国維】たちでした。
甲骨文字が解読されると、そこには司馬遷が史記に残した記述と同じことが記録されていましたから、甲骨文字の発見場所が【殷】という伝説の王朝の後であることが判明し、殷の廃墟という意味で【殷墟】と名づけられました。殷墟は現在の【河南省安陽県小屯村】にあります。
殷の政治の記録である甲骨文字があった殷墟は、つまり殷の都があったところです。殷の都は【商】という大きな規模の邑です。殷はこの大邑商が他の邑を支配下においた王朝で、大邑商と他の邑との連合国家でした。ここでは【神権政治】が行われており、政治や軍事などは、甲骨文字を使った占いによって決めていました。なお、甲骨文字は現在の漢字の源流です。
殷では非常に高度な【青銅器文明】を発達させており、その青銅器を作る技術は現在の中国でも不可能に近いようです。
この甲骨文字は、漢字最古の形式で、金文(殷周の青銅器に刻まれた文字)の原型となった。なお、占いの内容は、天地山川および祖先の祭祀・狩猟・豊凶・外国征伐・天候・王の行動とその病気など多岐にわたっており、殷王朝の公的行事や王の私的生活のほとんどすべてが、これによって決せられた。したがって甲骨文字は、殷代の歴史を知る上で貴重な資料といえる。
問題
19世紀のロシアは,不凍港の獲得などを目指して,隣接するさまざまな地域に勢力を拡大しようと試みた。こうした動きは,イギリスなど他の列強との間に摩擦を引きおこすこともあった。
以上のことを踏まえて,ウィーン会議から19世紀末までの時期,ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について,西欧列強の対応にも注意しながら,20行以内で論じなさい。
使用語句
アフガニスタン
イリ地方
沿海州
クリミア戦争
トルコマンチャーイ条約
ベルリン会議
ポーランド 旅順
アジェンタ石窟寺院のほうが古く、【5世紀】ころ、グプタ朝時代の前半からの遺跡です。アジェンタ遺跡は【仏教寺院】や【仏教絵画】が多く残されています。このことからもグプタ朝時代前半には仏教が盛んであっただろうと想像できます。
しかし、グプタ朝時代後半の【6世紀】以降から建設されたエローラ遺跡は、おもに【ヒンズー教】の遺跡です。このころになるとインドでは、仏教よりもヒンズー教のほうが広く人々に受け入れられていとことがわかります。つまり、衰退して放棄されたエローラの仏教寺院をヒンズー教徒がリフォームして使い始めたということです。
次の文中の に最も適当な語を語群から選び,また下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。01年関西学院大学
イギリスではエリザベス1世の死後, � 家のスコットランド王が王位につき, � と称した。彼は王権神授説を信奉し,王は神に対してのみ責任があると主張し,財政窮乏から慣習を無視して国民に重税を課し,貴族や商人に特権を与え,財政を補おうとしたため,議会と対立した。宗教的にも国教を強制しようとして,ピューリタンの反発を招いた。彼の死後,父を継いだ � も絶対王政を強行したため,王と議会の対立はいっそう厳しくなり,議会は1628年に � を可決し,議会の権利を国王に確認させた。しかし,その後も国王は議会を軽視し,1629年から11年間,議会を召集しなかった。こうした国王の専制政治に対して反感が強まり,自由を求めてイアメリカに移住するピューリタンも多くなった。
このような状況のなかで,国王は � に国教を強制しようとしたが,厳しい反発を招き反乱が起こった。国王は反乱を鎮めるため,戦費徴収を目的とした議会を1640年に召集した。しかし,議会は戦争に反対し,国王の政策を攻撃したので,議会は3週間で解散された。反乱の鎮圧に手をやいた国王は再び議会を召集したが,議会は国王の暴政を非難した。国王が武力で議会をおさえようとしたため,1642年,王党派と議会派の間で内乱が始まった。議会派のクロムウェルは鉄騎隊を編成し,1645年, � の戦いで王党派を破った。
このころ議会派のなかでは,貴族や大商人を中心とした穏健派の長老派と,徹底抗戦をとなえ,共和主義に傾く中産階級の独立派が対立し,さらに王政の廃止と人民主権を主張する水平派と呼ばれる一派もあった。
クロムウェル率いるロ独立派は,水平派と協力して長老派を武力で議会から追放し,1649年に高等裁判所の判決により国王を処刑し,共和政を樹立した。これがピューリタン革命である。
その後,ハクロムウェルは,内外の難局に対処するため,1653年に自ら終身の護国卿となって軍事独裁を強めた。彼の死後,国民の不満は高まり,1660年に長老派が中心となって王党派と妥協し, � が国王に迎えられた。
[語 群]
� a.ノルマン b.スチュアート c.ハノーヴァー
d.テューダー e.プランタジネット
� a.ジェームズ1世 b.チャールズ1世 c.ウィリアム3世
d.ジェームズ2世 e.チャールズ2世
� a.ジェームズ1世 b.チャールズ1世 c.ウィリアム3世
d.ジェームズ2世 e.チャールズ2世
� a.権利の章典 b.権利の宣言 c.権利の請願
d.大憲章 e.大諫奏
� a.アイルランド b.ウェールズ c.ニューイングランド
d.ヴァージニア e.スコットランド
� a.ヘースティングス b.アルマダ c.ネーズビー
d.ヨークタウン e.レキシントン
� a.ジェームズ1世 b.チャールズ1世 c.ウィリアム3世
d.ジェームズ2世 e.チャールズ2世
[問 い]
イ.イギリスから移住したピューリタンが1629年に建設した植民地はどれか。
a.ニューヨーク b.ペンシルヴァニア c.ジョージア
d.マサチュセッツ e.ヴァージニア
ロ.独立派を構成した社会層で,第1次囲い込みの推進の主体となったのはどれか。
a.ヨーマン b.ナイト c.ピアー
d.ジェントリ e.プロレタリアート
ハ.クロムウェルは経済政策の面では重商主義政策をとったが,そのために制定した法律はどれか。
a.団結禁止法 b.航海法 c.審査法
d.人身保護法 e.穀物法
正解
� b � a � b � c � e
� c � e
問い イ d ロ d ハ b
これに代わって【ガンジス】川中流域から拡大して、北インド一帯を支配したのが【グプタ】朝です。
建国者は【前4世紀】に初めて北インドを統一した【マウリヤ】朝の国王【チャンドラグプタ】王にあやかって【チャンドラグプタ1世】と名乗りました。次の国王は【チャンドラグプタ2世】です。チャンドラグプタ2世も【仏教】を保護しています。また中国の僧侶である【法顕】と面会し、彼によって「【超日王】」と呼ばれました。法顕の旅行記「【仏国記】」にチャンドラグプタ2世の中国名超日王の記述が残っています。
大乗仏教の成立に大きな影響を与えたのは【ナーガルジュナ】です。ナーガルジュナは中国名を【竜樹】といいます。彼は「熱中して、しかもとらわれず」の思想を示したインド最大の哲学者です。「【空】の思想」を仏教において完成させた人物でした。
彼はもともと【南インド】のバラモン階級でした。しかし欲望は苦しみの原因であると知って出家しました。彼の思想は『【中論】』という書物に書かれています。
大乗仏教ではブッタ以外にも解脱した仏が存在するという立場をとっています。たとえば、西方極楽浄土の「阿弥陀仏」や東方浄瑠璃世界の「薬師如来」などがそれです。また、このほかにおおくの「菩薩」が修行を行なっており、われわれのような世俗の人間も菩薩を信仰すれば出家しなくても最終的に解脱を得ることができると考えています。