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世界史の学習方法

2014年10月29日 | 何かの足しになれば
世界史の学習方法について

「板書のプリント」が基本です。
早稲田や慶應に合格しているOBに聞くと、「板書のプリント」のどこに何が書いてあるかがわかるくらい覚えているそうです。「板書のプリント」はテーマごとに縦軸と横軸を使って、時代を整理しています。活字で書かれている部分を緑のマーカーで塗り、赤いシートで隠して勉強している姿を良く見ます。また、手書きで書き込んでいる部分は、早慶に必要な情報です。問題冊子を解いたり、模試の問題・解説を見たときに、全ての情報を「板書のプリント」に書き込み、これだけ見れば大丈夫、といえる状態にしたいものです。
授業中の説明を聞くときには、説明のときに出てくる接続詞に注意して、それを書き込んでください。つまり、「板書のプリント」の「ボックス」と「ボックス」の関係性に注目することが大切です。矢印でその関係性を示すときもあります。その場合は、その矢印の意味を書き込むことが必要です。
自宅学習としては、このような「ボックス」と「ボックス」の関係を意識しながら、「板書のプリント」を自分で説明してみます。したがって、授業は復習をするために聞く、ことになります。授業を再現する、これがキーワードです。
さらに「ボックス」の中に書かれている説明・用語をしっかり覚えることです。そのための教材が「FORZA赤本」です。

「FORZA赤本」には二通りの活用方法があります。
「FORZA赤本」は「板書のプリント」に出てきた用語を人名・年代・事項などに整理したものです。したがって、上位校に必要な知識の9割は網羅しています。一般的な活用方法は、オレンジのペンで答えを空欄に転記します。そして赤いシートをかぶせて繰り返し覚えていくというものです。各定期試験前に準備しておき、2週間前から反復します。さらに模試の前に試験範囲を繰り返し覚え直します。一回覚えているので、比較的簡単に覚え直すことができるようです。
さらに別の活用方法として、用語に注目するのではなく、30時程度で説明している説明文を読む方法があります。これは国公立大学の論述対策や近年増加している私大の1行~2行論述に対応するための学習法です。1~2行の論述はそのほとんどが用語説明です。1行は30字程度が一般的ですから、この活用方法は有効でしょう。

「桃プリ」は授業に参加するための事前学習用です。
授業の始まりに「桃プリ」を読みます。文章を読み進めると、この冊子は、入るように作られています。したがって事前知識がなくても、重要単語を意識しながら読み進めることができます。オレンジのペンで答えを書き込みながら、赤いシートで隠して覚える生徒も多いです。
ただし、重要単語のなかでも、そのテーマ・時代を説明するために必要な最低限の用語に限られているため、「桃プリ」だけをよく読んだとしても、早慶などの上位校に必要な知識を得ることはできません。

「一問一答」は短い時間で知識を整理したり、確認するための教材です。
「一問一答」の利点は短い時間で重要語句を確認できることです。欠点は全ての用語を網羅していない点でしょう。しかし、試験の直前とか、授業を受けた日の電車の中などで活用すれば効果的です。授業の開始前に「一問一答」を見るのは、時間を取れないけど、次の単元に進む前に確認してほしいときや、関連するテーマを簡単に思い出してもらうことを目的としています。覚えていない用語には、その都度「チェック」をつけていきます。そして試験の前日にもう一度「チェック」の箇所を中心に見直すと効果があります。
また苦手分野がある場合も、「一問一答」で重要単語を整理しておくだけでも、それなりの効果が期待できます。

「マトメの表」は各授業の課題を整理したものです。
「マトメの表」は板書のプリントに出てくる用語を、関連するものや、まとめて覚える必要があるもの、区別しなければいけないものを、それぞれ表にして整理したプリントです。したがって、入試で問われる形に最も近い教材であるといえます。授業を聞いたうえで、授業中に完成させるのが一般的です。
プリントの構成は、左半面が記入用、右半面がその答えになっています。授業のポイントを確認するためには、一度覚えた上で答え始める必要があります。ノートや板書のプリントを写したり、答えを写すだけではその効果は少なくなります。
「マトメの表」は上位大学の問題に直結しています。

問題冊子の使い方
問題冊子を解いて、解答を見て、○×をつける。
×の問題をもう一度見直し、答えを赤で書き込む。
再度、×のところを中心に解き直し、合っていれば○をつける。
以上①~③のステップで問題冊子を利用している場合が多いと思います。しかし
この方法では一問一答の問題集を解いているのと同じ程度の効果しかえることができません。言い換えれば、同じ問題が出題されれば、あるいは同じようの聞き方をされれば解ける程度には効果しかありません。

大学入試問題には大きく分けて二種類あります。空欄補充問題と正誤判定問題です。一般的には空欄補充から学習して、テーマや時代のトピックスを知ることからはじめます。つまり、空欄を含む世界史の長文は、テーマや時代をまとめてくれている教材です。同じようなテーマや時代の文章をいくつか読めば、その課題を学ぶことができます。その際、より効果的な学習方法は、なぜその空欄にその語句が当てはまるのか、に注目しながら学習することです。つまり空欄を限定するためのヒントが文中にあるはずですから、その箇所にラインマーカーでしるしをつけ、そのヒントを空欄の語句を結びつけて覚えることです。問題を解いていくうちに、ヒントが空欄になって、空欄になっていた語句が今度はヒントになっていることに気づくはずです。また、大学によって、まったく別のヒントからその語句を思い出させる場合もあります。この点については後で説明を加えます。
また、これらの問題に加えて、知識確認問題があります。これは何ですか?というタイプの設問です。設問の問の中にヒントがあり、そこから自分の知識を導き出して解いていきます。

さて、ある程度、空欄補充問題でテーマや時代を把握したら、正誤判定問題に取り掛かります。この問題は選択肢の見極めがポイントです。

問題冊子を活用するポイントは、各大学が、どのような点を問題にしているのかを知る。つまり、解くというよりも問題で学ぶことです。

さて、空欄補充問題の場合、
空欄に答えを書き込む。このとき記号で記入しても面倒なので、語句を空欄の上に書き込みましょう。つまり、解くよりも答えを見てしまう方が時間の短縮になる場合が多いようです。そうすれば大問1題を解くのに5分程度で済み、たくさんの問題に触れることができます。
文中のヒントを見つけます。多くの場合、空欄を修飾している場所がヒントです。
そのヒントにラインマーカーで印をつけて、空欄の語句と結びつけて覚えていきます。
次の問題に移ると、先ほどとは違ったヒントでその語句を答えさせている場合や、ヒントになる語句に関するより詳しい知識が書いてある場合があります。先ほどやった問題文にその知識を赤ペンで書き込んでいきます。
問題冊子を一冊終えたころには、かなりのヒント・語句・知識が印をつけられ、書き込まれている状態のはずです。これで学習の準備が完了しました。
それらを中心に繰り返し問題文を読み込んでいきます。この時間が学習です。ヒント・語句・知識を繰り返して覚えていくことで、さまざまな角度から問われても対応できる力が付いているはずです。
最後に、それらを「板書のプリント」に書き込みます。そしてその「板書のプリント」を使ってもう一度授業を再現していくと完成です。

次に、正誤判定問題の活用方法はやや難易度が高いです。用語集・タペストリー・ノートを横において学習を始めましょう。
しかしその前に、出題者の立場を確認しておくことが大切です。正誤判定を出す出題者は問いたい語句を出題します。つまりその語句について知っておくべきだと考えることを問うているのです。また、混同しやすい語句との判別を問う場合もあります。
また、因果関係や時代順などを接続詞を用いながら不正解な選択肢を作ることもあります。
一問ずつ以下の作業をすると、無駄に時間がかかります。正誤判定問題が出てきて、正解に迷った場合、どの語句で迷ったのか、その箇所に印をつけます。
そして答えを見ないで次の問題に取り掛かります。ただし、時間が取れる場合は、一問ずつ③以下の作業をしても構いません。そのほうが効果的です。
答えを見て、間違えている選択肢に×、または合っている選択肢に○をつける。
次に重要なのは、何を知っていれば正解を導き出すことができたのか?という点に着目することです。その視点で選択肢を見直します。迷った箇所を正誤判定する必要がない場合もあります。
答えを見ても正誤判定の根拠(理由)がわからない場合は、用語集やタペストリー、それでもわからなければノートを見て判断します。
そのとき、用語集やタペストリー・ノートに、正誤判定に必要だった知識が書いてある箇所に印をつけます。
さらに、問題の選択肢にも周辺知識を含めて書き込みます。
問題冊子全体で以上のことが終わったら、準備完了です。
「板書のプリント」にそれらの情報を書き込み、もう一度授業を再現するように復習します。
問題冊子の書き込んだ箇所を中心に繰り返し見直し、覚えていきます。そのとき、④のポイントを確認することが大切です。

ファーストペンギン

2014年10月28日 | 何かの足しになれば

氷の上で腹を空かしたペンギンの群れがいます。餌になる魚はもちろん氷の下。氷の下にはアザラシやシャチがいるかもしれません。ペンギンの群れの中から一匹のペンギンが氷の下に飛び込んで魚をくわえて戻ると、一斉にペンギンたちは氷の下に飛び込むのだそうです。最初に飛び込んだペンギンをファーストペンギンと言います。アメリカのビジネス界では有名な話だそうです。

伝統に甘んじる、現状に甘んじる、そんな生き方もあると思います。一方、「ファーストペンギン」こそが伝統や既成概念を打ち破る。だれが「ファーストペンギン」でしょうか?

組織の持っている風土や文化はなかなか変えることができないと言われます。しかし、ひとりの人間が組織を変えてしまったんだ、と後から振り返ると気がつくこともある。部活と受験の両立は無理だと思われていた時に、ある人が「ファーストペンギン」の役割を果たしてくれました。数年ほど前のことです。そして、それから4年後、その人は特別な人だから可能だったのだと思われていた時、そうではなく誰でもできるのだということを示してくれた「ファーストペンギン」が現れました。

自分を歴史に残すということは、もっとわきまえて言うなら、自分をだれかの記憶にとどめてもらう、あるいは誰かに語り継いでもらうことです。まさに「ファーストペンギン」は自分の勇気とともに、語り継がれる「ペンギン」でもあるのではないでしょうか。


コロンブスの言葉

2014年10月28日 | 何かの足しになれば

コロンブスの逸話と言えば、「コロンブスの卵」が有名です。


もう一つ、コロンブスの人生の最後の頃、彼は新世界の経営に失敗してスペインで失脚してしまいました。その時にコロンブスのライバル達がコロンブスの人生を失敗と評価して冷笑したそうです。コロンブスがそのライバルの一人に言った言葉は、コロンブスの偉業を知っている我々に大きな示唆を与えてくれます。すなわち、彼は「I did. You didn't.」と。やり遂げた人間のプライド。あなたはコロンブスのように生きますか?それとも何もしないおかげで失敗もしないで済む人生を送りますか?


騎馬遊牧文明

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【前5世紀】のギリシアの歴史家【ヘロドトス】は、その著『歴史』のなかで、【スキタイ】人に関する記述を残しています。スキタイ人は【前6世紀】に【南ロシア】一帯に出現した民族です。南ロシアとは【黒海北岸】と【カスピ海】の北方に広がる広大な【草原地帯】です。その地で羊の群れの中で生活する手段を発明したのがスキタイ人でした。彼らが発明した文明を【騎馬遊牧文明】といいます。一般に農耕文明より遊牧文明のほうが古い文明であるかのように思われがちですが、遊牧文明のほうがはるかに新しいわけです。
 スキタイ人は【黄金細工】を得意としていたことが、彼らの残した遺物からわかります。とくに【黄金の櫛飾り】は非常に有名でしょう。また、馬に乗るための各種の道具も発明しました。ズボンを発明したのもスキタイジンでした。
 スキタイ人が南ロシアで発明した騎馬遊牧文明は、草原地帯を経て、ユーラシア大陸の東、すなわち、モンゴル高原の【匈奴】に伝わっていったのです。
 この匈奴は【前3世紀】に登場した【冒頓単于】のときに強大になり、中国に成立した【前漢】を苦しめるほどで、さらいは西域の【シルクロード】をも支配下に置きました。


前漢武帝の対匈奴戦争

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 前漢武帝の在位期間は【前141】年から【前87】年です。【郡県制】を中国全土で施行できるようになったため、武帝の時代には税収がアップしました。その結果、それまで軍事的な脅威を受けていた北方の【匈奴】に対する積極的な政策を展開することが可能になりました。
 まず、【張騫】を西方にある【大月氏】に派遣して、匈奴を東西から挟み撃ちにするための軍事同盟を結ぼうとしました。結果的にこの軍事同盟は大月氏によって拒否されたため失敗しますが、張騫がもたらした西域情報は中国人にとって非常に貴重なものとなりました。とくに【大宛】すなわち【フェルガナ】地方にいる【汗血馬】の情報は武帝を喜ばせました。張騫は人類史上最初の大旅行家であるともいえます。
 武帝はさらに将軍【衛青】を【オルドス】地方に派遣して匈奴を追放し、将軍【霍去病】を西域に派遣して、一時的ではあるものの、【西域】を匈奴から奪いました。また、これに先駆けて匈奴戦のために軍馬を調達する必要から、将軍の【李広利】を派遣して大宛を討ち、【汗血馬】を手に入れています。
 漢の高祖劉邦は匈奴の王である【冒頓単于】との戦いに大敗しています。中国の支配者になった高祖でも匈奴には勝てなかったわけです。前漢武帝から約50年間も漢と匈奴は戦い続けました。また、漢も秦と同様に万里の長城を建設しています。このような長期にわたる戦争は漢にとっても匈奴にとっても大きな負担になり、両国はまもなく衰退していきました。
 

王莽の即位

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【王莽】の政権奪取をの正統化には、前漢末期に拡大していた讖緯思想が利用された。これは儒教の公羊学から派生した予言などを中心とする神秘的思想である。
 彼は、元帝の皇后の甥にあたり、いわゆる【外戚】であった。皇后は王一族出身で、その子は成帝。王莽の父は早死にしため38歳で大司馬に任命された。成帝の死後、哀帝の時に一時下野したが、その死とともに再び大司馬となり実権を固めていった。紀元後5年、自分娘婿である平帝を暗殺し、2歳の子嬰を皇太子にたてて自らは仮皇帝と称した。そして8年に子嬰を廃して国名を【新】とした。

後漢の文化

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 後漢の文化においてもっとも重視すべきは経学である。これは儒教のテキストであるが、後漢でもっとも盛んであった。【武帝】の時、【董仲舒】の献策で『周易』『尚書』『詩』『春秋公羊伝』『儀礼』について【五経博士】を置き、儒学を官学化したが、民間に定着したのは【王莽】が儒教を国教化したためであった。
 さらに後漢では明帝・章帝が儒学を官吏登用の1つの基準としたため、経学が最盛期を迎えた。各地で私塾が開かれ、数千人の弟子が集団生活をしながら学んだとされる。このような風潮の中で、後漢末期に【訓古学】的アプローチに基づき、【馬融】・【鄭玄】により諸経書の統一的解釈が与えられた。また許慎の『【説文解字】』により漢字(小テン)の書体が整理された。
 【訓詁学】とは、孔子から長い時代を経たため、儒学の書物の内容が転記の繰り返しによっていく通りにもなってしまったため、正しい文字は何か?正しい表記は何か?を研究する学問が漢代に成立した。このような学問を訓詁学という。
 後漢の発明でもっとも有名なのが【紙】の発明であろう。宦官の【蔡倫】によるとされていたが現在では疑問視されている。しかし紙の発明は以後の書道や絵画の発達を促した。また万能の発明家としては張衡がいる。彼は天球儀や地震計を発明した天文学者であり政治家としても成功を修めている。
 他にも製鉄技術では水力を利用しピストンを動かして送風するフイゴが発明されたり、一連の工程を備えた工場が建設されている。また磁石が南北を示すことも確認されており、羅針盤の発明の基礎となった。

魏晋南北朝時代の全体像

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 前後400年間に及ぶ漢の支配は,後2世紀後半期には外戚や宦官の勢力が大きくなり,その双方が抗争して皇帝権は衰えた。各地では,【184】年【張角】がひきいた【黄巾の乱】に代表される農民反乱がおこり,群雄が並び立つ様相となった。 華北では後漢の皇帝を迎えて黄河一帯に勢力を及ぼした曹操・曹丕の魏が,長江の下流域には【孫権】の呉が,四川では劉備の蜀がそれぞれ立っていわゆる三国鼎立の形勢となった。
 秦漢時代を通じて中国に大きな脅威となっていた騎馬民族匈奴は,前漢の【武帝】代に本格的な遠征を受けたことなどにより弱体化していたが,後漢代には分裂し,【西匈奴】は後漢に服属した。後漢では投降した南匈奴を中国北辺に定住させたが,これは漢民族の世界に北方の騎馬遊牧民が本格的にはいりこむ始まりとなった。魏・呉・蜀三国の均衡はやがて破れる。魏は蜀を滅ぼしたが,その魏も将軍の【司馬炎】に国を奪われ,265年,【晋(西晋)】が現れることとなった。 
 晋は強い権力を維持する方策として,一族を王として各地に封じて帝室の守りを固めようとした。しかしそれは裏目に出て,諸王は皇帝の位をめぐって相争う結果となった。これは【八王の乱】として知られるが,この内乱に乗じて中国内部に定住していた匈奴が決起し,首都洛陽,続いて長安を攻めたので,ついに晋は滅亡した。この南匈奴の傭兵たちの反乱を【永嘉の乱】という。
 このあと華北では,匈奴や中国周辺から侵入した異民族も加わってつぎつぎに国を建て,めまぐるしい興亡がくり返される。この4~5世紀にかけての約130年間を【五胡十六国時代】と呼ぶが,5世紀前半には【鮮卑】の【拓跋氏】が建てた【北魏】が華北を統一した。
 北魏では,山西一帯にいた漢民族のなかから多くの官僚を登用して,中国風の統治に移行していく。特に【孝文帝】は,【平城】から【洛陽】に遷都し,鮮卑の旧慣のいくつかを禁止し,言語も中国語を採用した。こうした【漢化政策】とともに,自作農の育成を企図した【均田制】や,郷村を組織化する【三長制】も実施されたが,やがて内部分裂をきたし,ついには東西に分裂した。東魏は北斉に,西魏は【北周】に,いずれも禅譲という形式でとってかわられた。
 この時代に行われた【九品官人法】は,新しい官吏登用制度だったが,それはやがて【門閥貴族】が形成されることにつながっていった。
 南方の状況はどうだったか。晋の王族の一人が,【江南】の地で北方の戦乱を避けて移住していた豪族や在地の豪族たちに推されて晋室を復興した。これを【東晋】といい,それ以前を西晋として区別する。こうした経緯で,東晋内部では豪族たちが大きな勢力を占め,何代にもわたって国の高位高官を独占し,やがては貴族としてその地位を確かなものとしていった。
 この東晋でも末期には政治的混乱から内乱が起こり,将軍出身の劉裕が禅譲の名のもとに政権を奪い取って,宋を建国した。そののち,【宋】をうけて【斉】・【梁】・【陳】の4王朝が次々に興廃したが,それらを【南朝】といい,北魏をふくむ華北の5王朝を北朝と呼ぶのとあわせて【南北朝】と総称される。また,三国時代の【呉】から数えて,現在の【南京】にあたる【建康(建業)】を首都とした王朝を【六朝】とよぶ。
 江南を中心とする地域は,自然条件に恵まれ生産性が高く、次第に米作が普及して息、後世の中国経済の中心地に発展する基礎が作られた。たた、このような経済的発展の結果、江南では【六朝文化】と呼ばれる独特の文化が発達した。貴族のサロンを中心に,王羲之の【書】・顧之【画】・陶淵明の【詩】などに優れたおおくの芸術家が輩出した。俗塵を離れ,【清談】を交わす【竹林の七賢】に見られる【老荘思想】的な文化が現れたりした。そうした社会的背景もあって,【寇謙芝】が【道教】教団を成立させた。この教団を【新天師道】という。後漢代に伝来した仏教は南北朝双方で盛んに信仰され,北朝では有名な【敦煌】・【雲崗】・【竜門】の石窟寺院の造営が始まった。

八王の乱と永嘉の乱

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【西晋】を揺るがし滅亡に導いた反乱が、八王の乱と永嘉の乱です。【290】年に発生した【八王の乱】は司馬氏一族の8人の王が起こした反乱。王室は【南匈奴】の傭兵を使って何とか鎮圧しました。しかし、今度は、その南匈奴の傭兵たちが処遇に対する不満から蜂起したのが【永嘉の乱】です。この結果、316年西晋は滅亡し、華北には【モンゴル高原】や【チベット】から【五胡】が侵入してきました。遊牧系民族の五胡が【華北】で【16】ヶ国を乱立する、【五胡十六国時代】という大混乱の時代が始まりました。

魏晋南北朝時代の特徴

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 漢代の中国人は約5000万人いたと考えられています。ところが、魏が把握していた人口はその10の1にあたる500万人しかいません。天候不順やイナゴの発生により飢饉に見舞われ、栄養不足から疫病が大流行したことがその要因です。黄巾の乱の発生で多くの死者も出しました。さらに、長く続いた戦乱で死亡した者も多かったでしょう。また、モンゴル高原やチベット高原から遊牧系の諸民族が華北に侵入し、中国人農民の土地を奪いました。中国人は華北を捨てて江南に逃げ延びようとしました。
 このように中国全域で流民が発生し、農地は放棄されて荒廃しました。しかし、魏晋南北朝時代に成立した諸国は、その存続をかけて軍備の強化を図ろうとしました。そのために、支配者は何とかして流民を農地に戻し、自作農としたうえで彼らから税をとろうとしました。
 そのため、流民を管理する「戸籍制度」や「村落制度」が必要になります。彼らに農地を分配するための「土地制度」も整備されました。魏晋南北朝時代はさまざまな制度が成立した時代でした。

遊牧民族の土地感覚

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【均田制】は遊牧民族である【鮮卑族】の【北魏】によって始められました。そしてこれも遊牧系の隋・唐によって引き継がれました。これには遊牧民族の土地に対する感覚が影響していると考えられています。
 農耕民族は、自分が所有する農地を占有し、世襲することを大前提としています。土地に対する所有感覚が強いわけです。自分の土地を他人の土地との境界線を気にしたりする感覚は、農耕民族である日本人にもあると思います。
 しかし、遊牧民族はどうでしょう。彼らは広大な牧草地帯で遊牧生活をしています。牧草を羊やヤギに食べさせ、一定程度その地にいた後は、他の牧草地帯に移っていく生活です。家屋も羊の皮で作ったテントです。そのような遊牧民族には土地を占有し所有する意識は薄いと考えられます。羊がその土地の牧草を食べつくしてしまえば二度と生えてきません。
 「土地所有」の感覚が違う遊牧民族が中国の農地を支配したとき、土地の公有性を前提とする【均田制】が成立しました。
 

魏晋南北朝時代の土地制度

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 魏の基礎を作った【曹操】は、流民を兵士にし、彼らに放棄されていた荒地を開墾させようとしました。兵士たちは農地を手に入れる換わりに、曹操に対して兵役の義務を負ったわけです。これを【屯田制】といいます。明治維新のころ、失業した武士に対して明治政府が北海道の土地を与えています。これも屯田制です。曹操は流民が豪族の支配下に入ることを恐れたと考えられます。屯田制は曹操にとって自作農を創出する、兵士に報酬を与える、の2点において、まさに一石二鳥の制度であったわけです。
 魏を奪って【晋(西晋)】を建国した【司馬炎(武帝)】は【占田課田法】を定めました。豪族が荒地を自分のものとし、さらに流民を囲って、彼らを奴隷のように働かせることを防ごうとしました。この時代は豪族から税をとることは難しかったので、豪族による土地占有を防ぐ必要があったわけです。占田課田法の詳しいことはわかっていません。占田法は大土地所有制限、課田法は公有地を農民に分配して課税する制度であったようです。
 【北魏】の【孝文帝】が採用した【均田制】は、隋唐を通じて長く採用されました。さらに日本にも影響を与え、8世紀の【班田収授法】として機能しました。均田制は東アジア全域に影響を与えたのです。
 均田制は農民に対して農地を分け与える代わりに、義務として課税する方法です。その農民のことを均田農民といいます。彼らはおよそ5ha程度の農地を与えられ、70歳になると返還することになっていました。
 北魏の時代は【豪族】の反発を恐れて、豪族に優位になるように土地を支給しています。豪族が多く所有する【「女」「牛」「(奴隷)」】にも土地を支給しました。隋唐の時代になると、このようの豪族優遇の制度は修正されていきました。

 

北魏の宗教政策

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 魏晋南北朝時代、中国人はおもに【江南地方】において貴族文化を開花させ、【六朝文化】を謳歌していました。社会が混乱している影響で、この時期の儒教は低調で、南朝の貴族階級は【老荘思想】に身をおきました。
 一方、華北には多くの遊牧民族系の国が成立しましたが、彼らによって保護されたのが【仏教】です。【亀茲(クチャ)】出身の渡来僧の【仏図澄(ブトチンガ)】が洛陽に招かれて、仏教を布教しました。また、同じ【亀茲】王族出身の【鳩摩羅什(クマラジィーヴァ)】は、401年に後秦の長安に招かれて、多くの【仏典を漢訳】しています。【東晋】の僧【法顕】が【長安】を出発し、インドのグプタ朝の王【チャンドラグプタ2世】を【超日王】と紹介しました。彼は海路で帰国した後、【「仏国記」】を著しました。
 このよう中、鮮卑族は仏教という西域の宗教を信仰し、保護しました。しかし、華北を征服して中国下層民に対する支配を行なう必要から、【太武帝】は【寇謙之】の建策を受けて【道教】を保護しました。寇謙之は【五斗米道】(天師道)を発展させた【新天師道】を興し、道教教団を確立した人物です。道教を保護する一方で、太武帝は仏教を大規模に弾圧しています。
 太武帝が仏教を弾圧した後、仏教信者の文成帝が即位すると、都【平城】付近に【雲崗石窟寺院】を開窟しました。雲崗石窟寺院の仏像は、【ガンダーラ様式】や【グプタ様式】の影響が強く示されています。さらに、【孝文帝】が【漢化政策】をとり【洛陽】に遷都すると、彼の子である宣武帝が洛陽の南に【竜門石窟寺院】を開窟しています。中国風の法衣をきるなど、雲崗に比べて中国風の仏像が特徴です。

大乗仏教の成立

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 クシャーナ朝時代に成立した大乗仏教は、以前からの古い仏教を小乗仏教と呼んで批判した。大乗仏教は4世紀頃には中央アジアから中国に伝わり、538(または552)年に日本に伝播した。一方、小乗仏教は自らを上座部とよび、スリランカから海路、東南アジア諸国に伝播した。前者を北伝仏教、後者を南伝仏教と呼ぶ。

(1)大乗仏教のチェック・ポイント
①創始者は?
=ナーガルジュナ(中国名を竜樹という。南インド出身の僧で「中庸」を著した)

②成立期は?
=2~3世紀

③特徴は?
=菩薩信仰による僧俗の区別なく救済されるとし、利他行を重視した。

④大乗仏教の別称は?
=北伝仏教ともいう

⑤小乗仏教とは?
=上座部仏教や南伝仏教ともいう。
=アショーカ王の時代マヒンガ王子がスリランカに伝えた古い仏教

⑥大乗仏教のそのほかの指導者は?
=アサンガ(中国名無著。4世紀の人)

均田制と租庸調制・府兵制

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【均田制】は、【北魏】の【孝文帝】が施行した、農民に公有地を分け与える土地制度です。日本でもこの制度を真似て、公地公民制のもと班田収授法が制定され、農民に口分田が分与されています。
 均田制によって土地を得た農民を【均田農民】と呼びます。均田農民は土地を使用する代わりに、義務として【租庸調制】によって納税するか、【府兵制】によって兵役を担うか、そのどちらかを選択します。租庸調制によって納税の義務を負うのはおよそ2/3、府兵制によって兵役の義務を負う均田農民は1/3でした。
 租庸調制も日本の制度のモデルになった制度です。【租】は穀物を納めます。【庸】は公共事業の土木作業に従事することです。【調】は特産物を税として納める制度です。
 【府兵制】は均田農民が農作業の忙しくない時期(農閑期)に、【折衝府】という役所に行って軍事訓練を受け、また、戦争になれば兵士として出兵する制度です。この兵士たちは、武器など戦いの準備は自前でします。そのかわりに、租庸調制による納税は免除されています。
 税制の租庸調制と、兵制の府兵制は、土地制度である均田制を前提としています。これらの制度はいっぺんに成立したものではありませんが、【隋】の【文帝】によって完成され、隋から唐の前半まで用いられた制度です。