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イラン現代史

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

1907年に英露協商でイランのカジャール朝を南北に分割することを決定。カジュアール朝は半植民地化された。第1次世界大戦後1925年パウレヴィー朝が成立。イラン最後の王朝となった。

イラン現代史のチェック・ポイント
�1925年に成立したイラン最後の王朝は?
=パイレビー朝(1935年国号をペルシアからイランに変更)
�建国者は?
=レザー・シャー
�レザー・シャーの政策の特徴は?
=トルコのケマル・アタテュルクを模した強引な西欧化政策を展開
=ナチスドイツに接近してイギリス・ソ連に圧力を掛けられ41年に退位。
�1951年石油国有化を行った人物は?
=モサゼク首相
�接収の対象となった石油会社は?
=アングロ・イラニアン石油会社
�モサデク首相を追放し白色革命を強行した国王は?
=パウレヴィー2世(親英政権)
�1955年親英政権が参加した軍事同盟は?
=METO(中東条約機構=バグダッド条約機構。本部バグダッド)
�1959年イラク革命の影響で発足した軍事同盟は?
=CENTO(中央条約機構。METOからイラクが離脱したため改組)
�イラン革命が発生した年は?
=1979年(パウレヴィ2世は亡命。彼の資産凍結をアメリカ政府に要求したがアメ リカのカーター政権はこれを拒否した)
�イラン革命の指導者は?
=ホメイニ師
�イランの民族主義とアメリカが対立した事件は?
=1979年アメリカ大使館占拠事件
�事件発生当時のアメリカ大統領は?
=カーター大統領(民主党。救出作戦に失敗)
�事件を解決したアメリカ大統領は?
=レーガン大統領(共和党)
�イラン・アメリカ両国の対立から発生した問題は?
=第2次オイル・ショック
�1980年から始まったイラン・イラクの国境戦争は?
=イラン・イラク戦争(イラクのサダム・フセインとイランのホメイニ師のイスラ ム教世界における指導権争い)


イラク現代史

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第1次世界大戦中【1915】年【フサイン・マクマホン協定】でアラブ人の独立を容認したイギリスは、【1919】年【サン・レモ会議】で【委任統治方式】による支配を行って、アラブの民族自決は無視された。しかし、委任統治方式はうまくいかず、【1921】年【カイロ会議】で親英的なアラブ人政権の樹立を条件に、アラブ各国の独立容認に転換した。
 フサインの子ハーシム家のファイサルを国王に迎えて【イラク王国】が成立した。しかし【1958】年【イラク革命】が発生し、バース党【】が政権を担うと、【1979】年には【サダム=フセイン】が独裁を開始した。【1990】年【クェート侵攻】を行うと、アメリカの【ブッシュ大統領】を中心とする【多国籍軍】が編成され、1991年に湾岸戦争が発生した。敗北したフセインはクェートから撤退したものの、国内の【クルド人】に対して生物兵器を使用するなどの疑いを持たれている。
 2001年9月11日の同時多発テロが発生すると、アルカイーダとの関係を疑われ、【2003】年【ジョージ=ブッシュ大統領】による【イラク戦争】の攻撃を受けた。バグダッドが攻略されサダム=フセインは逮捕後に処刑された。

★イラク現代史のチェック・ポイント
�1932年イラク国王に就任した人物は?
=ハーシム家ファイサル国王
�ファイサル国王の特徴は?
=親英政権(イギリスが組織したMETOの本部はバグダッド)
�イラク革命が発生した年は?
=1958年
�イラク革命の中心人物は?
=カセム首相
�1979年大統領に就任しやがて独裁化する人物は?
=サダム・フセイン
�サダムの政党は?
=バース党
�1991年にサダムが起こした戦争は?
=湾岸戦争(前年90年クウェートに侵攻し、多国籍軍が組織され、米ブッシュ大統 領が指導した)


中東戦争 07年花園大学

2012年11月30日 | 復習用入試問題

 次の文章を読み,後の問いに答えなさい。なお,同じ番号の部分には同じ言葉が入ります。07花園大学

 パレスチナ問題とは,地中海東岸の地パレスチナをめぐるアラブ人とユダヤ人との対立問題である。パレスチナには,1世紀にユダヤ人がローマ帝国によって退去させられた後は,アラブ人が多く居住していた。しかし,ヨーロッパ各地で迫害を受け続けたユダヤ人は,19世紀末頃からパレスチナに帰ってユダヤ人国家を建設しようとする( 33 )運動を開始した。
 第一次世界大戦が勃発すると,1915年に,( 34 )はパレスチナを支配するトルコ(オスマン帝国)に居住していたアラブ人に対して,( 35 )によって,戦争協力を条件に独立国家を建設することを支持すると約束した。その一方で,1917年に,ユダヤ人に対して,( 36 )によって,パレスチナに独立国家を建設することを支持すると約束した。この二つは矛盾するものであり,こうした「二重外交」は,今日まで続いているパレスチナ問題の発端となったのである。
 1945年3月に,アラブ諸国民の主権擁護と相互協力の促進を目指して,37アラブ諸国連盟が結成された。第二次世界大戦後の1947年11月には,国際連合がパレスチナ分割案を決議した。それは,翌1948年に( 34 )の委任統治が終了するのを機に,アラブ人地域とユダヤ人地域とに分割するというものであった。しかし,人口は3分の1,所有地は6%を占めるにすぎないユダヤ人に,パレスチナの56.5%の土地を与えるという内容であったため,アラブ人側は拒否した。
 ユダヤ人側は,分割案を受け入れてイスラエルを1948年に建国したが,これに反発したアラブ諸国との間に同年に( 38 )が起きた。この時,パレスチナから追放された100万人以上のアラブ人はパレスチナ難民(パレスチナ人)となってしまった。パレスチナ人は,1964年に( 39 )(PLO)を組織し,パレスチナ人による国家建設を目指した。
 1967年に,イスラエルは( 40 )の支援を受けて( 41 )を起こし,エジプト・シリア・ヨルダンを攻撃し,( 42 )・ゴラン高原・ヨルダン川西岸・( 43 )地区などを占領した。これによって,パレスチナ難民が激増して,パレスチナ問題はさらに深刻化した。これに対してエジプトの( 44 )大統領は,1973年に,( 45 )を起こし,シリアとともにイスラエルを攻撃した。この時,( 46 )がイスラエルを支持する国家に対して石油輸出を禁止するなどの圧力をかけたため,( 47 )が発生した。
 その後,エジプトはイスラエルとの和解路線に転じ,1979年に,( 48 )が締結された。その後も和解路線は引き継がれ,1982年には,( 42 )のエジプトへの返還が実現された。
 1993年には,イスラエルのラビン首相と( 39 )の( 49 )議長は話し合いによるパレスチナ問題の解決を目指し,( 50 )が締結された。しかし,1995年にラビン首相が暗殺されると,双方とも武力対決路線に逆戻りしてしまった。

問33 空欄( 33 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 33 
� ファシズム � ナショナリズム
� シオニズム � 復古主義
� 原理主義

問34 空欄( 34 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 34 
� ドイツ � オーストリア
� イギリス � ロシア
� フランス

問35 空欄( 35 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 35 
� セーヴル条約
� バルフォア宣言
� ローザンヌ条約
� フセイン(フサイン)・マクマホン協定(書簡)
� サイクス・ピコ協定

問36 空欄( 36 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 36 
� セーヴル条約
� バルフォア宣言
� ローザンヌ条約
� フセイン(フサイン)・マクマホン協定(書簡)
� サイクス・ピコ協定

問37 下線部37「アラブ諸国連盟」に加盟していなかった国を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 37 
� レバノン � イラン � イラク � イエメン
� サウジアラビア

問38 空欄( 38 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 38 
� 湾岸戦争 � パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
� スエズ戦争(第2次中東戦争) � 第3次中東戦争(6日間戦争)
� 第4次中東戦争

問39 空欄( 39 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 39 
� パレスチナ統一戦線 � パレスチナ解放機構
� パレスチナ奪還同盟 � パレスチナ統一機構
� パレスチナ解放戦線

問40 空欄( 40 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 40 
� アメリカ � イギリス � ソ連 � フランス
� オランダ

問41 空欄( 41 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 41 
� 湾岸戦争 � パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
� スエズ戦争(第2次中東戦争) � 第3次中東戦争(6日間戦争)
� 第4次中東戦争

問42 空欄( 42 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 42 
� テルアビブ � ガザ
� イェルサレム � シナイ半島
� アンマン

問43 空欄( 43 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 43 
� テルアビブ � ガザ
� イェルサレム � シナイ半島
� アンマン

問44 空欄( 44 )に入る最も適切な人名を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 44 
� ホメイニ � シャロン � アラファト � サダト
� ムバラク

問45 空欄( 45 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 45 
� 湾岸戦争 � パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
� スエズ戦争(第2次中東戦争) � 第3次中東戦争(6日間戦争)
� 第4次中東戦争

問46 空欄( 46 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 46 
� アラブ石油貯蔵国機構(OAPEC) � 石油産出国機構(OPEC)
� アラブ石油産出国機構(OAPEC) � 石油輸出国機構(OPEC)
� アラブ石油輸出国機構(OAPEC)

問47 空欄( 47 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 47 
� 石油バブル � 石油デフレ
� 石油危機(オイル=ショック) � 世界恐慌
� 金融恐慌

問48 空欄( 48 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 48 
� エジプト=イスラエル不可侵条約
� エジプト=イスラエル友好条約
� エジプト=イスラエル安全保障条約
� エジプト=イスラエル暫定和平条約
� エジプト=イスラエル平和条約

問49 空欄( 49 )に入る最も適切な人名を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 49 
� ホメイニ � シャロン � アラファト � サダト
� ムバラク

問50 空欄( 50 )に入る最も適切な語句を次の�~�の中から一つ選び,番号で答えなさい。 50 
� パレスチナ暫定自治協定 � パレスチナ暫定返還協定
� パレスチナ暫定解放協定 � パレスチナ安全保障協定
� パレスチナ不可侵協定


【解答】 
問33 � 問34 � 問35 � 問36 �
問37 � 問38 � 問39 � 問40 �
問41 � 問42 � 問43 � 問44 �
問45 � 問46 � 問47 � 問48 �
問49 � 問50 �


20p10慶應(文)石油産業とイラン史

2012年11月30日 | 復習用入試問題

L128W14
2010年 世界史  2/15 

【4】 

 以下の文章(イ)~(ホ)を読んで,空欄( A )~( J )にもっとも適切な語句を記入しなさい。

(イ) 世界に先駆けて石油産業を発展させたのは,アメリカである。1850年代前半にペンシルヴァニアで油田が発見されてからしばらくの間,石油は主として照明用の灯油として使われていた。しかし,20世紀に入って自動車産業がさかんになってくると,内燃機関の気化燃料として使われるガソリンの重要性が高まった。これをうけて石油の精製,輸送,貯蔵,流通,そして後には生産をも行う会社を興すのは,( A )である。彼は,1870年スタンダード石油会社を設立,その後も数々の関連会社をつくってトラストを結成,石油業界を支配していった。しかし,1890年に制定された独占を禁ずる反トラスト法の一つである( B )法に違反するという判決が連邦裁判所によって出されると,( A )が築いた一大企業体はいくつかの会社に分割,解体された。しかし,実際にはスタンダード石油会社の流れをくむ会社は,今に至るまで世界の石油産業を支配するメジャーとして生き残っている。

(ロ) 1870年代になると,当時,帝政ロシアの支配下にあったカスピ海西南のアゼルバイジャン,その中心都市バクー近郊でも石油の採掘がはじまった。この地域では古代から石油が地表ににじみ出ていることが知られており,そうしたこともあって火を神聖視するゾロアスター教信仰が盛んであった。この新しい産油地域には帝政ロシア国外からも資本が投下され,大きな石油会社がつくられた。その代表がダイナマイトを発明した( C )の兄弟がつくった会社である。ちなみに,この会社に勤める技師の子供の家庭教師としてバクーにやって来たのが若き日のスウェーデンの探検家ヘディンである。彼はこれを機縁に未知なるアジアへの夢をつのらせ,後に今の中国・新疆ウイグル自治区を中心とする地域の探検の旅に乗り出していくことになる。バクーは石油産業の発展にともなって帝政ロシア有数の工業都市に成長したが,それにともなって資本家と労働者の対立も激化した。その結果,ロシア革命が起きると,バクーは首都のペトログラードに劣らぬ革命の舞台になった。ここで一時,社会主義運動・労働運動に参加したのが,後にソ連の指導的政治家になるグルジア人で本名ジュガシヴィリ,通称スターリンである。彼は一国社会主義論を唱え,世界革命論を主張する( D )と対立した。

(ハ) 第一次世界大戦は石油の需要とその重要性をさらに高めた。この時期に石油を動力源とする新しい兵器が開発された。たとえば,ソンムの戦いではじめて使われた戦車やディーゼル機関で動く潜水艦がそれである。また,馬に代わって武器・弾薬・食糧を運ぶ自動車や偵察用として使われようになった飛行機にも石油は必需物資であった。こうした状況は飛行機,軍艦が主たる戦闘手段になる第二次世界大戦期になるとさらに加速し,各国は競って油田地帯を押さえようとした。ドイツはカスピ海西南のバクー近郊の石油を獲得すべくソ連領内に侵攻した。また,日本はアメリカ大統領ローズヴェルトが発した石油禁輸措置に対抗して,東南アジアの産油地域に進出した。日本が攻撃したのは,マラッカ海峡に面する( E )島である。その東岸パレンバンのあたりは,1880年代以降オランダ系の石油会社ロイヤル・ダッチによって開発が進められたが,ここに日本は軍隊を送り,占領した。ちなみに,パレンバンは,かつてこの島で仏教が栄えていた頃( F )王国の中心地であったところである。日本はこれと並んで南シナ海,マカッサル海峡に囲まれた島にも進出して軍政下に置いた。日本占領以前,この島の油田を開発していたのは,イギリス系の石油会社シェルであった。

(ニ) 現在,世界でもっとも多くの石油を産出しているのは,中東イスラーム世界を構成する諸地域である。しかし,これらの地域で石油が発見されるのはアメリカや帝政ロシアに較べるとはるかに遅く,20世紀に入ってからのことである。1908年イラン西部で油田がイギリス人のダーシーによって発見されたのがその嚆矢である。1890年代のはじめ,イランでは外国の資本・企業に自国の経済的利権をむやみに与えることは国益を損ねるとの思いから( G )という民族運動が起こされ,利権廃棄に成功したが,石油にかんしては当時イランを支配していたカージャール朝はダーシーに開発利権を与えた。これをきっかけにアングロ・ペルシア石油会社(後に「アングロ・イラニアン石油会社」と改名)が設立され,採掘から精製,流通まですべてを独占的に行っていった。しかし,第二次世界大戦後,イランで民族主義が高揚すると,イギリス系の会社が石油事業を独占するのは不当であるとの声が高まり,1951年国有化運動が起こされた。その指導者は当時,首相を務めていた( H )である。この石油国有化運動が起こされた頃は他の中東イスラーム諸国でも民族主義の意識が高まった時期で,エジプトではムハンマド・アリー王朝を倒して革命政権を樹立したナセルによってスエズ運河が国有化された。

(ホ) イランに次いでアラブ地域のイラク,ペルシア湾岸諸国,サウジアラビアでも油田が発見された。ただ,開発が本格的に行われるようになるのは,第二次世界大戦後のことである。これらの地域における石油の生産と流通は,イギリス,アメリカなどの欧米系の石油会社によって牛耳られていたが,1973年に第四次中東戦争が勃発すると,イスラエルを支援する国々に反感をもつアラブの産油国は,1968年に結成されたOAPECと略称される( I )を通じて禁輸措置に踏みきった。これによって世界の石油価格はそれまでの価格の四倍にも跳ね上がり,オイル・ショックが世界を襲った。このような石油供給をめぐる世界的な経済危機は,1979年イラン・イスラーム革命後の混乱期にも繰り返された。
 石油は人間生活を豊かにするとともに,資源をめぐって国際的な紛争の種にもなるものである。近年では1990年のイラクによる( J )侵攻にはじまる湾岸戦争を例として挙げることができる。( J )は,19世紀末イギリスの保護国となり,1960年代初頭に独立を果たしたが,イラクは( J )が固有の領土であると主張してそこを併合しようとしたのである。
 石油に代わる代替エネルギーが現在,さかんに開発・研究されつつあるが,決定的に代わるものとはなっておらず,石油の重要性はまだまだ続くはずである。


戦後史(11)西アジア現代史�中東戦争

2012年11月30日 | トリオDE世界史

(1)第1次中東戦争 �別名�原因�結果
�パレスティナ戦争
�イスラエル建国
�パレスティナ難民の発生
(2)第2次中東戦争 �別名�原因�結果
�スエズ動乱
�スエズ運河国有化宣言
�英仏が撤兵
(3)第3次中東戦争 �別名�原因�結果
�6日間戦争
�アカバ湾封鎖
�イスラエル圧勝
(4)第4次中東戦争 �別名�原因�影響
�ヨム・キップル戦争
�エジプトがユダヤ教安息日に急襲
�第1次オイル・ショック
(5)第1次中東戦争の年代 �バルフォア宣言�パレスティナ分割案�イスラエル建国
�1917年
�1947年
�1948年
(6)第2次中東戦争 �年�ナイル川上流のダム�戦争の原因
�1956年
�アスワン・ハイダム建設問題
�スエズ運河国有化宣言
(7)中東戦争エジプトの指導者 �第2次�第3次�第4次
�ナセル大統領
�ナセル大統領
�サダト大統領
(8)第2次中東戦争 �アメリカの態度�ソ連の態度�アラブ世界の態度
�英仏を支援せず
�エジプトを支援
�戦後にナセルはアラブの英雄として名声を挙げた
(9)第3次中東戦争でイスラエルが獲得した領土 �エジプトから�ヨルダンから�シリアから
�シナイ半島とガザ地区
�ヨルダン川西岸
�ゴラン高原
(10)第1次オイル・ショック �年�組織�原因
�1973年
�OAPEC(石油禁輸)
�第4次中東戦争
(11)エジプト革命 �年�組織�指導者
�1952年
�自由将校団
�ナギブ大統領
(12)エジプトの指導者 �エジプト革命�スエズ運河国有化�第4次中東戦争
�ナギブ
�ナセル
�サダト
(13)パレスティナ �組織(略称)�指導者�正式名称
�PLO
�アラファト
�パレスティナ解放機構


戦後史(12)西アジア現代史�中東和平

2012年11月30日 | トリオDE世界史

(1)中東和平 関係国3つ
�イスラエル
�エジプト
�アメリカ
(2)中東和平の関係者 �イスラエル�エジプト�アメリカ
�ペギン首相
�サダト大統領
�カーター大統領
(3)エジプト・イスラエル平和条約 �年�領土の返還�暗殺
�1979年
�シナイ半島
�サダト大統領
(4)パレスティナ断定自治協定 関係国3つ
�イスラエル
�PLO(1976年国連が国家建設を承認)
�アメリカ
(5)パレスティナ断定自治協定 �イスラエル�PLO�アメリカ
�ラビン首相
�アラファト議長
�クリントン大統領
(6)パレスティナ断定自治協定 �年�イスラエル軍撤兵地区�暗殺
�1993年
�ガザ地区・イェリコ
�ラビン首相


第2次中東戦争・・・スエズ戦争

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1952】年エジプト革命に成功した【自由将校団】の【ナギブ】を追放した元部下【ナセル大統領】は、【1956】年【アスワン・ハイダム】建設で米英に援助を求めた。しかし米英がこれを拒否したため、【1956】年【スエズ運河国有化宣言】。ダム建設では【ソ連】の援助を取り付け、社会主義化していった。このスエズ運河国有化に対して【英仏】は【イスラエル】とともに運河地帯に派兵したが、国連による即時停戦決議を受けて撤兵した。


中東戦争

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 中東戦争は【エジプト】と【イスラエル】の戦争。この戦争は【1948】年のイスラエル建国から始まって、アメリカの【カーター大統領】が仲介して【1979】年【イスラエル・エジプト平和条約】の締結で終結した。その後、エジプトの協力を失った【】PLO(パレスティナ民族解放戦線)は、【インティファーダ】というテロ活動で対抗。イスラエルとPLOとの対立は、【1991】年の【湾岸戦争】を機に転換点を迎える。【1993】年【クリントン大統領】は中東和平を成立させた。これはPLOにパレスティナ暫定自治政府を認めるものである。

★中東戦争のチェック・ポイント
�第1~4次中東戦争の年は?
=1948年、1956年、1967年、1973年
�第1~4次中東戦争の別名は?
=パレスティナ戦争、スエズ戦争、6日間戦争、ヨム・キップル戦争
�第1~4次中東戦争の特徴は?
=宗教戦争、反植民地戦争、冷戦構造、南北問題
�第1次中東戦争までの経過は?
=1917年バルフォア宣言⇒1947年国連がパレスティナ分割案⇒1948年イスラエル建 国⇒周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻してパレスティナ戦争開始⇒イスラエル が圧勝⇒パレスティナ難民発生
�第2次中東戦争までの経過は?
=1956年アスワン・ハイ・ダム建設をナセル大統領が計画⇒英米が資金援助を拒否
 ⇒ナセルがスエズ運河国有化で報復⇒英仏がスエズ運河地帯に派兵・イスラエル もシナイ半島に侵攻⇒国際世論は英仏を支持せず⇒英仏は撤兵
�第2次中東戦争の米ソの対応は?
=ソ連がエジプトを支援、アメリカは英仏を支持せず、国連は停戦決議
�第3次中東戦争でイスラエルが占領した地域は?
=シナイ半島・ガザ地区(エジプトから)、ヨルダン川西岸地域イェリコ(ヨルダ ン)、ゴラン高原(シリア)
�第4次中東戦争の時OAPECがとった戦術は?
=石油戦略(イスラエルを支援する国に原油禁輸で対抗。OPECは原油値上げ)
�1973年石油戦略の結果は?
=第1次オイルショック


中東戦争と中東和平・パレスティナ和平

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

1947年,国連総会は,【イギリス】によるパレスティナの【委任統治】終了期限と,パレスティナをアラブ人国家・ユダヤ人国家・イェルサレム国際管理地区に分割する決議案を採択した。【1948】年5月14日にイギリスのパレスティナ委任統治が終了し,ユダヤ人は国連決議を根拠としてイスラエルの建国を宣言した。【パレスティナ】人とアラブ諸国はイスラエル建国を認めず,翌15日,アラブ諸国連合軍がパレスティナに進攻し,イスラエルとアラブ諸国との間で第1次中東戦争(【パレスティナ】戦争)となった。国連の調停によって戦闘は停止されたが,イェルサレムが建国した地区に住んでいたアラブ人(パレスティナ人)の多数が難民となった。
 エジプト大統領に就任した【ナセル】は、【アスワン・ハイ・ダム】の建設を計画したが、建設費用の支援を断った英仏に対して、【1956】年「【スエズ運河】の国有化」を宣言した。これに対し,英仏に加えイスラエルの3カ国がエジプトに対して軍事行動を起こして戦争となった。これを第2次中東戦争といい、【スエズ戦争】という名でも知られる。【ソ連】はエジプトを支援したが【アメリカ】は英仏を支援しなかったため、ナセル大統領は政治的勝利を得ることができた。このためナセル大統領は1950年代後半からアラブ民族主義の英雄として敬意を受け、アラブ民族主義が中東地域で高揚していった。しかし,アラブ民族主義の効用は、アラブ地域に存在する豊富な石油資源によって,第二次世界大戦後の米ソ間の対立がこの地域の情勢をいっそう複雑化させることになる。
 1960年代に入ると【PLO】が組織され,パレスティナ人によるイスラエルへの抵抗運動が強まっていった。しかし,その後イスラエルが近隣諸国を奇襲攻撃したため,パレスティナ難民はさらに増大し,イスラエルとアラブ勢力との対立も深刻化した。
 これに対しイスラエルは第3次中東戦争をエジプトに対して仕掛けた。この戦争を【6日間戦争】と呼ぶように、イェルサレムの圧倒的勝利で終わった。この結果、イェルサレムは【シナイ半島】・【ガザ地区】・【ヨルダン川西岸】(【イェリコ】)・【ゴラン高原】を獲得し、さらに大量のパレスティナ難民が発生している。
 エジプトはナセル大統領を継いだ【サダト】大統領の時にシリアとともにイスラエルを攻撃し,第4次中東戦争が始まった。戦争は【ヨム=キップル戦争】とも呼ばれるが、ユダヤ教の祭日を狙ったものである。【OAPEC】(アラブ石油輸出国機構)は,これに呼応して,イスラエル支援国への原油輸出の停止や制限措置をとり,またアラブ系以外のインドネシアなどの産油国も加盟している【OPEC】(石油輸出国機構)が原油価格の大幅引き上げを行なったため,先進工業国は深刻な打撃を受けた。同じ頃,戦後の西側諸国の経済復興と成長の枠組みであった【IMF】体制が【ニクソン】大統領の新経済政策をきっかけ(これを【ニクソン・ショック】という)に大きく変質したこととあいまって,西側先進国経済はその後,長期的な停滞に陥った。
 イスラエルとエジプトの戦争とも言える中東戦争は、中東和平交渉によって終結した。【1979】年、民主党【カーター】大統領が仲介になり、イスラエルの【ベギン】首相とエジプトの【サダト】大統領が【エジプト・イスラエル和平条約】に調印し、【シナイ半島】が変換された。しかしサダト大統領はまもなくアラブ人により裏切り者として暗殺された。
 1980年代になると、中東の問題点はイスラエル政府に対するパレスティナ人による手反政府テロ活動が中心になった。このテロを【インティファーダ】というが、PLOがその背後から支援していると考えられていた。しかし、【1993】年【民主】党【クリントン】大統領の仲介によってイスラエルの【ラビン】首相とPLOの【アラファト】議長がパレスティナの“暫定自治に関する原則の宣言”(【オスロ合意】)に調印するなど,イスラエルとパレスティナ・アラブ勢力との間で和平への取り組みが何度かなされ一定の成果をあげることができた。その結果、【ガザ地区】と【ヨルダン川西岸地区】(【イェリコ】)がパレスティナ難民に解放された。しかい両者の武力による攻撃と報復の連鎖がたびたび再現し,中東情勢は依然として不安定な状態が継続している。


スエズ戦争

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1952】年エジプト革命に成功した【自由将校団】の【ナギブ】を追放した元部下【ナセル】は、【56】年【アスワン・ハイダム】建設で米英に援助を求めた。しかし米英がこれを拒否したため、【56】年【スエズ運河】の国有化を宣言。ダム建設では【ソ連】の援助を取り付け、社会主義化していった。このスエズ運河国有化に対して英仏は【イスラエル】とともに運河地帯に派兵したが、【国連】による即時停戦決議を受けて撤兵した。


ユダヤ人の歴史

2012年11月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

シリアからエジプトに移り住んで、エジプトでは奴隷として生活していた人々が、【前13】世紀に【モーセ】に連れられてエジプトを脱し、約束の地カナーンに移住しました。この出来事を【「出エジプト」】といいます。また、モーセはエジプトのファラオである【ラムセス2世】の異母弟であったといわれます。ラムセス2世は【新王国】【第19王朝】の全盛期の王で、【アブシンベル神殿】を建設したことでも有名です。モーセは「出エジプト」の際に【シナイ】山で神【ヤハウェ】から【「十戒」】を授かったとされ、預言者の一人に数えられています。
 その後、【前1000】年頃、ユダヤ人は【ヘブライ】王国を成立させ、初代サウル王が神殿を建設しました。現在ではその一部が残っているに過ぎませんが、「嘆きの壁」】といユダヤ教の聖地になっています。この王国の全盛期は第2代【ダヴィデ】王と第3代【ソロモン】王のときです。しかし、前922年にこのヘブライ王国は、北の【イスラエル】王国と南の【ユダ】王国に、南北に分裂しました。【前722】年北のイスラエル王国を【アッシリア】王国の【サルゴン2世】が襲い、滅ぼしました。その後、アッシリア王国はメソポタミアからエジプトにいたるまでを支配し、最初の【オリエント統一】を成し遂げています。しかし、このアッシリア王国は統一後40年ほどで滅亡したため、オリエント世界は4王国(リディア、エジプト、新バビロニア、メディア)が勢力を競う時代に入りました。その4王国のうちメソポタミアを支配した【新バビロニア】王国(別名【カルディア】王国)の支配者【ネブカドネザル2世】が、【前586】年に南の【ユダ】王国を滅ぼしました。そして、生き残った彼らを自分の都【バビロン】に連れ帰り、奴隷としたのです。この出来事を【「バビロン捕囚」】といいます。
 【前538】年、バビロン捕囚からユダヤ人を解放したのは、【アケメネス朝ペルシア】を建国した【キュロス2世】です。開放されたユダヤ人は、【イェルサレム】に戻り、神殿を再建しました。これによって、【前6】世紀に【ユダヤ教】が成立したわけです。
 参考までに、彼らは自らを「イスラエル人」と呼び、周囲の人々は彼らを「ヘブライ人」と呼びました。また、前6世紀以降、ユダヤ教を信じるユダの人々という意味で「ユダヤ人」と呼びます。


朝鮮戦争と戦後の韓国

2012年11月29日 | 高3用 授業内容をもう一度

1943年に開かれたカイロ会談で大戦後の朝鮮の独立が承認された。しかし、1945年8月8日23時にソ連が対日参戦し、翌9日に軍事行動を開始した。日本軍は総崩れとなり、ソ連軍は満州国を圧倒しただけでなく朝鮮半島になだれ込んだ。15日日本がポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦が終結すると,暫定的に北緯38度線を境にして北をソ連軍が,南をアメリカ軍が占領することとなった。 

1946年「鉄のカーテン演説」に見られるような冷戦が始まると、1948年にはヨーロッパで冷戦が本格化していった。一方、東アジアでもそのような冷戦構造を反映し、朝鮮の独立方法をめぐって米ソの対立が続く中で,1948年に李承晩(イ=スンマン)を大統領とする大韓民国と金日成(キム=イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した。 

しかし,南北の激しい対立は1950年6月朝鮮戦争を引き起こした。開戦時には圧倒した北朝鮮軍に対し、大韓民国側にはアメリカ軍を主力とする国連軍が出動して,朝鮮民主主義人民共和国軍を鴨緑江近くまで押し戻した。これに危機感を抱いた中国の毛沢東は義勇軍を派遣し,アメリカ軍対中国軍の様相をおびて世界大戦の危機をはらみつつ38度線で戦局は膠着状態となった。結局,2年間の停戦期間を経て1953年にようやく休戦となったが,これ以降南北朝鮮の分断は固定化され,世界の冷戦構造の矛盾を国家レベルで端的にしめすこととなった。 

 大韓民国は反共の砦としてアメリカの世界戦略に位置づけられた。成立してわずか1年の張勉内閣をクーデタによって打倒した朴正煕(パク=ヒョンヒ)は,日韓基本条約を結んで日本との経済的結び付きを強めた。その開発独裁の成果を「漢江の奇跡」と呼ぶ。しかしその独裁政治から1979年に暗殺された。 

翌年に軍隊を率いて還元例を発布し実権を掌握した全斗換(チョン=ドファン)大統領は、さらに日本及びアメリカとの軍事的及び経済的関係を強化して経済の発展をはかったが,強権的な政策に反対する反政府運動のために退陣した。

 その後,史上初めて直接選挙で選ばれた盧泰愚(ノ=テウ)大統領は、1988年ソウルオリンピックを成功させる一方、1991年に朝鮮民主主義人民共和国と同時に国際連合に加盟するなどの成果を果たした。

 


冷戦の開始 01法政大学

2012年11月24日 | 復習用入試問題

つぎの文を読み,下記の問いに答えよ。01年法政大学

 1945年5月7日,ドイツが連合国軍に無条件降伏して,ヨーロッパでの第二次世界大戦は終結した。しかしヨーロッパにおける戦後の安定は,かなり困難な過程をたどることになった。
 1946年3月,「バルト海の ア からアドリア海の イ まで,ヨーロッパ大陸を横切って鉄のカーテンが下ろされている」とチャーチルが表現したように,ヨーロッパでは終戦直後から新たな対立が明らかになった。翌47年には,トルーマン・アメリカ大統領が共産主義「封じ込め政策」を掲げ,これを具体化するために「マーシャル=プラン」が発表され,実施に移された。
 これに対抗するかたちで,ソ連を中心に東欧諸国によって 1 が形成され,東西間の対立が決定的になった。
 このような東西間の対立は,特に敗戦国ドイツにおいて鋭く現れた。英米仏ソ4ヵ国の分割占領は,占領政策が統一的でないため,ドイツの政治的経済的再建を混乱させる一因ともなっていた。1948年6月,米英仏3ヵ国占領地域で 2 が断行され,占領地域の経済再建に向かった。他方,ソ連はこれに対抗して,同じく4ヵ国の分割占領下にあったベルリンのうち,英米仏3ヵ国が占領していた西ベルリン地区を封鎖した。これに対して,西側は 3 を展開するなどして,緊張は極度に高まった。
 翌49年には英米仏占領地域に ウ が,ソ連占領地域には エ がそれぞれ成立して,ドイツは分断国家となった。この対立は1954年の 4 において,西ドイツの主権回復・ 5 ・ 6 加盟が承認されるに及んで,翌55年にソ連・東欧側は 7 を結成し,軍事機構的に対峙するにいたった。このように,ドイツは東西対立の最前線の位置に置かれたが,1938年以来ドイツに併合されていた(a)オーストリアは,同じ55
年に占領国との間で 8 を成立させ,永世中立を実現した。
 東西間での政治的軍事的対立の中で,東欧諸国では,自由と民主主義を求め,あるいは経済面での改善を求め,市民の不満が時折暴動となって現れた。たとえば1953年スターリンの死の直後に 9 が56年には 10 と, オ 首相の処刑にまでつながったハンガリーの反ソ暴動が,さらに(b)68年にはプラハの春が起こったが,この中では 10 以外は,いずれもソ連の武力介入を伴いながら鎮圧された。このような悲劇は,ドイツでは東西間の交通遮断のために構築されたベルリンの壁に象徴された。この壁は1989年の崩壊まで28年以上にわたって,相互の交流を遮ってきたのである。
 このような東西間の対立とドイツ分断に直面して,(C)1969年に首相として政権についたブラントは,特に東ドイツや,ソ連・(d)ポーランドとの関係を重視した 11 を推進し,72年には東西ドイツ基本条約の調印を実現するなど,東西間の緊張緩和・関係改善に努力した。このブラントによって始められた努カは,ほぼ20年後になってベルリンの壁の崩壊そしてドイツ統一,ひいてはヨーロッパにおける東西冷戦の終焉というかたちで実を結ぶのである。

問1 文中の空欄 ア ~ オ に最も適した人名・国名・地名をつぎの語群の中から一つ選び,解答欄にその記号をマークせよ。
a ポズナニ b ノヴォトニー c ブダペスト
d シュテッティン e ブカレスト f カダル
g ドイツ民主共和国 h ドイツ連邦 i ライン同盟
j ナジ=イムレ k グダニスク l トリエステ
m チャウシェスク n ドイツ連邦共和国 o ドイツ帝国
問2 文中の空欄 1 ~ 11 に最も適した語句をつぎの語群の中から一つ選び,解答欄にその記号をマークせよ。
a 経済改革 b ココム c コメコン
d コミンフォルム e 民主改革 f 通貨改革
g ポーランド反政府反ソ暴動 h 進攻作戦
i 空輸作戦 j ルーマニアのソ連批判
k ジュネーヴ協定 l 国家条約
m ワルシャワ条約機構 n ロンドン協定 o 再軍備
p NATO q 軍備放棄 r パリ協定
s チェコスロヴァキア=クーデタ t 水運作戦
u 金融改革 v 東ベルリン暴動 w 国際連合
x 東方外交 y 全方位外交 z 平和条約
問3 文中の下線部(a),(b),(c),(d)について,つぎの問いに答えよ。
1 下線部(a)に関連して,オーストリアにおいてとられた戦後占領の方式について正しいものをつぎの中から一つ選び,記号をマークせよ。
a 米の単独占領
b ソ連の単独占領
c 米・英・仏の分割占領
d 米・英・仏・ソの分割占領
2 下線部(b)に関連して,この年にはフランスでも重要な政治的出来事が起こっているが,これについての説明として最も適当なものをつぎの中から一つ選び,記号をマークせよ。
a フランスがNATOの軍事機構から離脱し,これが遠因となって翌年ド=ゴール大統領が退陣した。
b フランスがNATOの軍事機構から離脱し,これが遠因となって翌年ポンピドー大統領が退陣した。
c フランスで五月危機(五月革命)が起こり,これが遠因となって翌年ド=ゴール大統領が退陣した。
d フランスで五月危機(五月革命)が起こり,これが遠因となって翌年ポンピドー大統領が退陣した。
3 下線部(c)のブラント政権は連立政権であったが,その連立の組み合わせとして正しいものをつぎの中から一つ選び,記号をマークせよ。
a 大連立内閣
b 社会民主党・「緑の党」の連立
c 社会民主党・自由民主党の連立
d キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟・自由民主党の連立
e キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟・「緑の党」の連立
4 下線部(d)に関連して,1970年に結ばれた西ドイツ-ポーランド条約において(東)ドイツとポーランドの国境線が決定されたが,この国境線は何と呼ばれているか。正しいものをつぎの中から一つ選び,記号をマークせよ。
a カーゾン=ライン b マジノ線
c オーデル=ナイセ線 d マクマホン=ライン

【解答】 
問1 ア d イ l ウ n エ g オ j
問2 1 d 2 f 3 i 4 r 5 o
6 p 7 m 8 l 9 v 10 g
11 x
問3 1 d 2 c 3 c 4 c



冷戦について 05年上智大学(文)

2012年11月24日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,下線部に関連する問(1~20)に答えなさい。答は選択肢(a~e)の中から選びなさい。正解は1つとは限らない。正解がない場合はfを選びなさい。05年上智大学文

 「冷戦はいつ始まったのか」への答は,論者によって異なる。ある人は,(ア)『共産党宣言』が出版された時だと言うし,ある人は,(イ)ロシア革命による社会主義国家の成立と,(ウ)ソ連に対する列強の干渉戦争以来だと言う。たしかに資本主義体制の中で,それを否定する運動ないし体制が出現したことが,冷戦の前提条件であることはまちがいない。しかし,この二つの時期には,(エ)社会主義陣営の力は自由主義陣営の力に比すれば微々たるもので,対等に張り合っていたとはいえない。冷戦のきっかけはむしろ,第二次世界大戦直前や大戦中から生じた,ソ連と西側連合国との対立に見た方がふさわしいだろう。(オ)この大戦の半ばまで,ソ連と西側連合国の間には,直接敵対するほどではないが,相互に強い不信感があった。独ソ戦が始まりドイツという共通の敵がはっきりした時に初めて,両者は協力することができた。しかし,(カ)その協力体制は,戦略をめぐっても両陣営の思惑が異なるなど,すんなりしたものではなかったし,ドイツの敗北が濃厚になった大戦末期には,戦後構想などで,両陣営の意見の違いが目につくようになった。共通の敵がいなくなれば,両陣営の協力関係はもろいものであった。戦後の冷戦の芽はすでに出ていたのである。

1 下線部(ア)の『共産党宣言』の中にある有名な文言をすべてあげよ。
a 財産とは何か。窃盗である。
b 万国の労働者よ,団結せよ。
c 私は弾劾する。
d 妖怪がヨーロッパをはい回っている。共産主義という妖怪が。
e 今日まで,あらゆる社会の歴史は,階級闘争の歴史である。

2 『共産党宣言』の出版された年に起った政治的出来事はどれか。
a フランクフルト国民議会の開催 b 第1インターナショナルの創設
c 七月革命 d チャーティスト運動の開始
e 神聖同盟の締結

3 『共産党宣言』の著者は誰か。
a プルードン b サン=シモン c エンゲルス d バクーニン
e ロバート=オーウェン

4 下線部(イ)のロシア革命の出来事(下記ア~オ)を時間順に並べると,正しい順序のものはどれか。
ア 「四月テーゼ」の発表 イ ブレスト=リトフスク条約の締結
ウ 帝政の崩壊 エ ケレンスキー内閣の崩壊
オ 憲法制定議会の解散

a ウ―ア―エ―オ―イ b ア―ウ―エ―イ―オ
c ウ―エ―ア―イ―オ d ア―ウ―イ―オ―エ
e ア―エ―ウ―オ―イ

5 下線部(ウ)の対ソ干渉戦争で,ロシアにもっとも長く派兵していた国はどれか。
a イギリス b フランス c アメリカ d 日本
e ドイツ

6 対ソ干渉戦争の口実となった事件は何か。
a チェコ兵捕虜の反乱 b ソ連-フィンランド戦争
c 「土地に関する布告」の発表 d 帝政期の秘密条約の暴露
e コルニーロフの反乱

7 下線部(エ)にあるように,社会主義政党が誕生し,公認されるようになるまでには時間がかかった。19世紀末ヨーロッパで,組織率でも国際的発言力でも最強で,第2インターナショナルをリードした社会主義政党を出した国はどこか。
a ロシア b フランス c イギリス d ドイツ
e ベルギー

8 問7の政党名は何か(正式名称に含まれる国名は省略してある)。
a 社会党 b 社会民主党
c 社会民主労働党 d 労働党
e 社会革命党

9 社会主義政党が誕生したとしても,よく弾圧された。ドイツにおいては社会主義者鎮圧法が制定されたが,この法律が出されたきっかけは何か。
a 文化闘争 b 皇太子の暗殺
c 皇帝狙撃事件 d 普通選挙権運動の過激化
e 社会保険制度の開始

10 社会主義政党が政権についた場合も,たいてい連立政権であった。ドイツの社会主義者として初めて大統領になったのは誰か。
a シュトレーゼマン b べーベル
c ヒンデンブルク d エーベルト
e シャイデマン

11 イギリスにおいても1924年に初の社会主義政党の政権が成立するが,この政権は,議会の第二党が第三党の協力をえて初めて成立した政権で,短命に終わった。この政権の首相は誰か。
a ロイド=ジョージ b マクドナルド
c アスキス d ボールドウィン
e ハーディング

12 両大戦間期のソ連は,当初,他国の社会主義革命を促進する政策をとるが,他国の革命がなかなか起りそうもなく,国際的に孤立する一方であるので,一国社会主義論に転換した。この一国社会主義論の主張者は誰か。
a レーニン b トロツキー c スターリン d ブハーリン
e ディミトロフ

13 コミンテルンも1935年に方針転換をして,非社会主義陣営と提携する政策をとるようになる。この新しい路線を何というか。
a 人民戦線 b 平和共存政策
c 社会ファシズム論 d 人民民主主義
e 新経済政策

14 下線部(オ)にあるように,開戦前に,ソ連の西側諸国への不信をかき立てるような出来事があり,翌年,ソ連は今まで敵視していたドイツと不可侵条約を結んだ。独ソ不可侵条約のきっかけとなったこの出来事は何か。
a ドイツの再軍備 b フーヴァー=モラトリアム発布
c ラインラント進駐 d ブロック経済の開始
e ミュンヘン会談

15 第二次世界大戦は,各国一斉の戦闘状態突入ではなく,ドイツによる各個撃破的な戦局になった。ドイツと戦闘状態に入った順に並べると,4番目にくる国はどれか。
a アメリカ b ソ連 c ノルウェー d ポーランド
e フランス

16 第二次世界大戦の三分の二の時点まで,ドイツは破竹の勢いで勝利し,多くの国を直接間接に支配した。以下の国のうち,ドイツと交戦し,最後まで降伏することなく,ドイツ支配下に入ることもなかった国はどれか。
a イギリス b ベルギー c スペイン d イタリア e デンマーク

17 下線部(カ)にあるように,独ソ戦開始後,ヨーロッパ東部戦線でドイツと熾烈な戦いをしているソ連が,西側連合国に強く求めたのは,ヨーロッパ西部で第二戦線を開いて欲しいということであったが,西側連合国,とくにイギリスは,このソ連の要望をできる限り引き延ばした。なぜイギリスはソ連の要求をすぐに聞き入れなかったのか。理由としてもっとも適切なものを選びなさい。
a 第二戦線を開く前に,独ソ戦でドイツの力が消耗されることを,イギリスが望んだため。
b ヨーロッパだけでなくアジアでも戦っていた西側連合国が,アジア戦終結を優先させたため。
c 兵器不足の西側連合国が,ドイツとすぐに真正面から戦えなかったため。
d イギリスはドイツとの単独講和条約を結ぶことを考えていたため。
e 西部からよりも北部と南部からの攻撃の方がドイツ攻撃に効果的なため。

18 ヨーロッパ西部での第二戦線が実現したのは,1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸以後である。次の項目のうちノルマンディー上陸以後に起ったものはどれか。
a イタリアの無条件降伏
b 連合軍の北アフリカ上陸
c カイロ会談
d スターリングラードでのドイツ軍の降伏
e カサブランカ会談

19 米英ソの三首脳が第二次世界大戦中に会い,初めて第二戦線問題について協議した都市はどこか。
a カイロ b カサブランカ c テヘラン d ヤルタ
e ポツダム

20 ドイツの降伏間近の1945年2月に開かれた米英ソ首脳会議では,今後の戦争遂行と戦後構想が話し合われた。ここで話し合われなかったことはどれか。
a ソ連の対日参戦 b ユーゴスラヴィアの新政府
c ドイツの4カ国占領 d 南樺太・千島列島の領有問題
e ポーランドの国境


【解答】 
(1) b,d,e (2) a (3) c (4) a
(5) d (6) a (7) d (8) b
(9) c (10) d (11) b (12) c
(13) a (14) e (15) b (16) a
(17) a (18) f (19) c (20) f


2000年 一橋大学(商) ヴェトナム戦争とアメリカへの影響(論述)

2012年11月24日 | 復習用入試問題

2000年一橋大学

 次の文章は、アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領が1977年5月22日におこなった演説の一部です。これを読んで、下記の問1、問2に答えなさい。

 わが国の未来が揺るぎないことを確信しているゆえに、現在われわれは共産主義に対して過度の恐怖を抱いていない。かつてはその恐れのために、独裁者であっても、われわれと同じ恐れを抱いている者とは手を結ばざるをえなかったのである。あまりにも長い年月、われわれはみずから敵対者の不完全で誤った原則や戦術を取り入れようと努め、ときには彼らの価値観を受け入れて自分自身の価値観を放棄した。われわれは火と戦うのに火をもってし、火は水をもって消す方が良いことに気がつかなかった。

 このような方策は失敗に終わった。知性と道義心に欠けたその方策がもたらした最悪のものがヴェトナム戦争であった。しかし失敗を通じてわれわれは今や自分自身の原則と価値観に立ち帰る道を見いだし、失った自信を取り戻したのである。 (有賀 貞 訳)

問1 この演説の背景となったアメリカ合衆国のヴェトナム戦争介入の歴史(1954~75年)について、その原因と結果を具体的に述べなさい。(200字以内)

問2 ヴェトナム戦争介入がアメリカ合衆国の社会と対外関係に与えた影響を具体的に述べなさい。(200字以内)